Family

「何があったんですか!?」

 セントバーナードが崖を回り込んで登り、部屋まで引き返した時には、腹を押さえて座り込んでいるヤンの隣にリスキーが

居た。

 物音と大声に気付き、動けないふりをやめて堪らず出てきてしまったリスキーだが、立っているのも辛い状態。怪我人二人

が寄り添って支え合っているような状況である。

「…もしかして、ハメられたのかとも思ったが…、今の怪物は、そっちとは無関係…という事か…?」

 ふぅふぅと息をつきながらヤンが見遣ると、リスキーは…。

「ハメてはいませんが、無関係かどうかというと、断定できません。…何せ、この島には、私が属する派閥に反目する上役も

来てしまったので…」

「一枚岩じゃないのか!?そういう事は先に…、ぐっ!」

 痛みに呻いたヤンを「喋らないでください!」と怒鳴りつけるリスキー。

「先生の傷、どうだ?」

 ルディオはヤンの血に染まったシャツを掴み、ボタンを弾けされて左右に開いた。

 ヘソの脇、盲腸で切るような位置にできた刺し傷からは、タラタラと血が流れ出ているが…。

「臓器までは…、達していない…。贅肉で命拾いするとはね…、ぐぅっ…!」

 強がって笑おうとしたヤンは、失敗して引き攣った顔になる。

「それでも縫合は必要です。すぐに手当てを…」

「自分でやれる…!それよりルディオさん、カムタ君は…」

「船で連れて行かれた。外洋に出られない、10人も乗ればいっぱいになるようなモーターボートだった。たぶんこの島か、

近い島までしか行けない」

 ルディオが見たまま朴訥に、しかし要点を押さえて説明すると、「外海にでも出られたら追うに追えないが…、まだ救出の

目はある、か…」とヤンは苦しげに唸った。

「背に腹は代えられない…。こうなったら島の皆に協力を頼んで、カムタ君を探し出す…!」

「まずは手当です!止血だけでもしないと…」

 言うが早いか、体に鞭打って奥に引っ込んだリスキーは、診療室から器具を持ち出してきた。

「縫合します」

「貴方が、か…?」

「先生は手が震えているじゃないですか?」

「貴方よりはマシだ…」

「どうでしょうね?」

 リスキーは両手を広げると、握って開き、動かして見せた。痛みによる震えは精神力で抑え込んでいる。

「…やっぱり麻酔が弱かったのか…。仕方ない…」

 不承不承、ヤンは顎を引いた。手当てに手間取っていては貴重な時間が過ぎて行ってしまう。

 それに、たった今リスキーは、逃げられる状態になりながらもここに留まった。その点から、状況が変化した今でも、こち

らとの取引に対して誠実に向き合うつもりらしいと判断できた。

 リスキーはヤンをその場で仰向けに寝かせ、蒸留水で血を漱ぎ、傷を確認し、ゾッとした。自分だったら腸に達する深さで

ある。

 痛みを堪えて小刻みに震えているヤンの布袋腹は、白い脂身が覗いて痛々しいが…。

(傷は…、確かに深い事は深いが…、脂肪層で止まっている。…ふ、肥ってよかったなシーホウ…!)

 安堵するリスキー。ヤンの自己診断通り、贅肉に阻まれて内臓には達していない。

 リスキーが手慣れた様子で注射をうち、傷周辺の毛を剃り、洗浄と消毒を経て縫合をし始めると、ルディオは破壊されたド

アを振り返り、カマキリがまたやって来たりはしないかと警戒した。そして…。

(…ん?)

 壊されたドアの残骸の下に、白い便箋が二通、落ちている事に気付いた。

「何をされました?先生」

「例の、虫型生物兵器の一種だ…、カマキリのようなヤツに、ドア越しに刺された…。見てくれ、樫の一枚板が台無しだよ…」

「プレデターマンティスですね。運が良かった、厚い樫のドアと厚い脂肪で助かったんです。ソレは殺傷力という一点に限れ

ば、我が社でも随一の商品ですよ。何せ、対生物兵器用です」

「…………」

「どうしました?」

「…いや…」

 ヤンは降りそうになる瞼に逆らい、目を瞬かせる。一時、意識が遠のきそうになった。

(失血は、さほどでもないと思うんだが…)

「プロに見られるのは恥ずかしい仕事ですが…」

 謙遜するリスキーの手際は、しかし工作員の訓練と、現場でのその場凌ぎで熟達した物。確かに綺麗ではないが、傷口の縫

合はすぐに終わった。

「大したもんだ…」

「有り難うございます」

 麻酔も効いてきていくぶん楽になったヤンは、手当の様子を見守っていたルディオに目を向け、巨漢が手にしている便箋に

気付く。

「…ルディオさん?それは…」

「ドアの所に置いてあった。さっきのヤツが置いて行った…んだろうなぁ」

 巨漢がヤンに見せた面には、「セントバーナードへ」「リスキーへ」とそれぞれ書いてある。



―セントバーナードに告ぐ。少年の命が惜しければ、リスキーに従って指示された場所へ来なさい―



 そんな書き出しから始まり、場所を指示する手紙には、逃げたらカムタの命の保証は無いと、脅し文句が延々と連ねられて

いる。

 曰く、五分遅刻するごとに、手足の指を一本ずつ切り落とす。それが終わったら耳、そして鼻、陰茎…。二時間かけてこれ

らが切り落とされ、それでも来なかったら十分おきに手足を一本ずつ落とす。そこからさらに二十分待って来なければ首を…。

 三時間以内に行かなければ、カムタは殺される。少し遅れても無事には帰ってこない。

 そしてもう一方の、リスキーあての方には…。



―リスキー。君は夜明けまでにセントバーナードを下記の場所まで連れてきなさい。フェスターにも黙っている事があるんだ

ろう?腹を割って話をしようじゃないか―



「ビンゴです。私の上司と仲が悪い馬鹿殿の仕業でした」

 手紙を確認し、ショーンの字だと確信したリスキーは、ヤンとルディオに肩を竦めて見せた。

「まずい事になりました。私の事を裏切り者とみなしたようですね。…まぁ貴方達と取引して内密に済ませようとしたのは、

実際背信行為と言えなくもない訳ですが…。いや困った困った。これは困ったぞ」

 リスキーは早口で言いながら、わざとらしくポンと手を打った。打った拍子に背中が痛んで顔が引きつったのを、ヤンもル

ディオも見逃していない。

「社の重役にでもバレたら、私、始末されてしまいます。困った事になりましたから、私これから上司の敵を口封じしてきま

す。ついでに坊ちゃんも逃がしてきますよ」

 そんな事を言って逃げる気ではないのか?とは、もうヤンも言わなかった。逃げる気があったらもう逃げている。犯罪者で

はあるだろうが、どうやらそれなりに芯が通った男らしく、約束を違えない義理堅さを持ち合わせていると、信じる事にする。

 それに何より、軽い口調で言うリスキーの目は笑っていない。敵意を隠しきれていない、こわいこわい目…。本気らしいと

察しはついた。

 しかし…。

(何だろう、懐かしい…?)

 ヤンは不思議な感覚を抱いた。初めて見る、今夜初めて会った、面識がないはずのリスキーの、そのこわい目がどこか頼も

しく、そして懐かしく感じられる。

 そんなヤンの心境など知らず…。

(ショーン。貴方…、やってくれましたね…。重大なミスですよ、貴方がしでかした事は…)

 平静を装う努力をしているリスキーは、はらわたが煮えくり返っていた。

(私の可愛い弟に怪我をさせた…。下手をすれば死んでいたんですよ?これはもう…)

 腰を上げ、痛みを堪えて立ち上がったリスキーは…。

(貴様の命で…、落とし前をつけて貰う…!)

 ショーンの暗殺を決意していた。

 遅かれ早かれフェスターとショーンの衝突は避けられない、忌むべき障害でもある。自分の保身、及び弟に傷を負わせた落

とし前も含め、排除するのが一番良い。

「アンタ、手紙に書いてあった場所が判るんだな?おれはわからないから、ついて行くしかないなぁ」

 ルディオはリスキーにそう言うと、ヤンを見下ろして「先生、ひとりでも大丈夫か?」と確認した。

「何がだ?ルディオさん…」

「おれはリスキーと一緒に行く。カムタを助けに行かないと」

「ちょっと待ってくれ」

 身を起こしたヤンは、頭を振って意識をしゃっきりさせる。

「置いて行く気なのか?当然、僕も行くぞ」

「馬鹿言ってるんじゃない!」

 突然リスキーに耳元で怒鳴られたヤンは、ビクンと身を震わせ、首を縮めて被毛を逆立て、真ん丸になった。

「あ、いや失礼しました…。しかし先生、その怪我では無理ですよ?」

 我に返って謝ったリスキーに、

「む、無理でも何でも!」

 一度は怯んだ虎だったが、思いのたけを込めて言い返す。

 自分にとっては命の恩人の息子なのだと。今こそ助けに行かねばならないのだと。

「カムタ君が…、死ぬような事になったら…、僕は、今度こそ…!」

 リスキーは「なるほど」と頷いたが…。

「ですが、向こうの指定には先生が入っていません。来るな、とも書いてありませんが、坊ちゃんの安全を考えるなら、少し

でも刺激するような真似は避けるべきです」

 ヤンは苦虫を噛み潰したような顔になっている。リスキーが言った、自分の立場が悪くなるという主張も判るし、信じてい

いと思う。

 それでも別問題だった。自分だけ待つのは耐えられない。

(しかし、カムタ君を助け出すには…)

 苦悩するヤンに、ルディオは「大丈夫だ」と請け負った。

 根拠のない言葉だが、「やるしかない」というのが実情。過去も記憶も何処かへの繋がりもないルディオには、恩人である

少年がこの世でたった一つの拠り所。

 目覚めてからたった二日。出会ってからたった二日。しかしそれしか記憶がないルディオにとってのカムタは、今の人生の

大半を共に過ごした、この世でもっとも親しい存在…。

 気負うでもなく、怒るでもなく、ただそうしなければならないから、少年の為にルディオは往く。自身への危険の有無は、

その判断には全く加味されない。

「という訳で、私と旦那さんで行ってきます。元より交渉なんて無理な相手です。大人しく従えば坊ちゃんを返してくれるな

んて事は絶対にありません。待ち構えているのはそういう男です」

 ヤンは、これに返事をしなかった。できなかった。

 リスキーはヤンの目を見る。とろんと瞼が落ち、今にも閉じられそうな目を。

 やっと効いてきた分量多めの鎮静剤が、医師から思考能力を奪い、眠りに引き込もうとしていた。

「任せて下さい。先生が目覚めるまでに、坊ちゃんを戻しますよ…」

 ぐらりと揺れたヤンを、リスキーは胸で抱き留めた。そして、目を閉じた虎の後頭部を、そっと撫でる。

(そう、任せろシーホウ…。お前の望みは叶えてやる。必ずだ…)

 リスキーの「理由」が増えた。

 カムタは、リスキー自身にとっての、延命を望んでくれた恩人というだけでなく、弟の恩人の息子という事になる。

 寝息を立て始めたヤンを寝かせると、リスキーは自分を見下ろすセントバーナードを見上げた。

「アンタ、先生に何かしたんだな?」

「鎮静剤を多めに…。済みませんね、害を加える気はないんですよ。ただ、大人しくしていて貰わないといけないので…」

「わかってる」

 さらりと頷いたセントバーナードは、「で、おれ達はどうすればいいかなぁ?」とリスキーに訊ねた。

「カムタは捕まってる。おれは呼ばれてる。アンタも呼ばれてる。普通に、呼ばれた場所に行くと…」

「そうですね、まずい事になる。…行く事は行くんですが、アプローチが問題です」

 リスキーは「失礼…」と椅子に腰かけた。息は、少し乱れていた。

 傷の痛みは引いていない。精神力でカバーすれば短時間なんとか動けるが、長続きはしない。そもそも、本来は安静にして

いなければならない傷である。

「とりあえず、逆に考えてみます…。連中は私と旦那さんの身柄が欲しい。だからこそ、私たちが姿を見せるまで、あるいは

約束の時間を過ぎるまでは、坊ちゃんの命が取られる事はまずありません。これは、手紙の脅し文句をそのまま受け取った方

がいいですね…」

 一度言葉を切ったリスキーの、何か言いたそうな視線を受けて、ルディオは頷いた。

「続けてくれ。おれはアンタを信じる。カムタが助けたいって言ったアンタは、きっと「イイヤツ」だ」

「…それは…、どうも…」

 リスキーは一時きょとんとしてしまった。腹がすわっているというか、迷いが皆無というか、セントバーナードはリスキー

が自分を騙そうとしているかもしれないという可能性を全く考慮せず、方針を聞いていた。

「…加えて、旦那さんが一体何者なのか?という事は全く判っていないはずです。何者かは判らないが調べたい…というとこ

ろでしょう。私もちょっと考えましたから。…あ、今は望み薄と思っています」

「訊かれても、答えられないけどなぁ」

 ルディオは首を傾げる。困った、というように。一方でリスキーは、座って休む事で幾分楽になったようで、声ははっきり、

力強くなっていた。

「困ったことに、向こうはたぶんそう考えていないでしょう。出会い頭に質問攻めかもしれません。…なにはともあれ、あち

らの対処方法はさほど固まっていないはずです。抱き込みたいのか、捕獲したいのか、…死体だけでも欲しいのか…。最悪の

ケースまで考えてみましたが、研究材料にするとしても、できれば生きたまま捕らえたいでしょう。よって、指定された場所

へ普通に行くと、普通に捕獲用の備えにはまり、普通にジ・エンドです。用済みになったら坊ちゃんも普通に始末されてしま

います」

「それは普通に困るなぁ」

「…しかしうかつでした…。私どころか、旦那さんに興味を持っているという事は、交戦していた所をショーンの手の者に見

られていたんですね…」

「それじゃあ、やっぱり普通には行けないなぁ。どうしたら良いと思う?」

「当然…」

 リスキーはしんどそうに笑った。やれやれ、と。

「包囲を外から破って、坊ちゃんを助け出しつつ、馬鹿殿に死んで頂きます」

「ソイツは、殺さなきゃダメなのか?」

「駄目です。判り合う事が不可能なレベルのゴミ人間ですから」

「そうかぁ…」

「私への配慮は無用です。私も我が身が大事です。どうあってもショーンの口を封じて、上司への告げ口を防がなければ…」

 リスキーは確信している。ショーンはフェスターの失脚を狙う為に、自分を言いなりにできる状態に持ち込みたいのだと。

だからこそ、既にフェスターの耳に入っているという可能性はない。今ならばショーンを殺して黙らせる事もできる。

「現場に居る我が社の者に対しても配慮は不要です。旦那さんが「あの通り」の戦い方をするなら、皆殺しも容易いはず…」

「でもなぁ」

 ルディオは言った。「誰か死ぬのは嫌だなぁ」と。

「仕方ないなら諦める。カムタが一番だからなぁ。でも、なるべくならヒトが死なないようにしたいなぁ」

 リスキーは眉根を寄せた。

「どうしてです?何か、生かしておいた方が好都合になるような作戦が?」

「ん?いやぁ、作戦は無いけどなぁ。ヒトが死ぬのは、なんか嫌だろぉ?」

「……………」

 リスキーはしばし黙り…。

「……………はい!?」

 目を丸くして妙な声を上げた。



 それから準備に取り掛かり、しつこく訊くうちに、リスキーは理解した。

 信じ難い事だったが、明らかにひとの領域を逸脱している、まっとうな存在ではないはずのルディオは…。

(メンタリティも倫理観も、物凄く一般人寄りだ…!)

 赤の他人だとしても、ひとが死ぬのは嫌だし、殺すのだって嫌。そんな当たり前の倫理観は、リスキーのように「その世界」

の空気を吸い続けた者には希薄な物となる。自分の命を含めて他にいくらでも大事な物があるため、「そんな事に構っていら

れなくなる」。

 それなのにルディオは、見知らぬ誰か…リスキーが属する組織の構成員が死ぬのも「何となく嫌だ」と言う。

(記憶が無いせいですかね…?それとも、非合法組織の構成員でなく、比較的まともな、法の側の機関に所属していたんでしょ

うか…?普通過ぎてシュールですよ旦那さん…)

 リスキーはヤンの自室に入って物色し始める。闇討ちを仕掛けるため、適した格好になる必要があった。

(…シーホウ…、何なんだこのパンツのサイズは…?)

 クローゼットを押し開け、スカーフかハンカチのような物は無いかと探しながら、リスキーはついつい現在の弟の衣類が気

になってしまう。

(お洒落になったんだな…。アロハシャツはメーカーが同じか、さらっとした手触り…、生地も上等じゃあないか。トランク

スもシックな色合いばかり…。しかし、南国だからか、スカーフ類は無いな…)

 リスキーは仕方なく、部屋の隅の小さな机にかけられていた濃い緑色のテーブルクロスを取り、顔に巻いて覆面にした。目

だけを覗かせた姿は忍者のようだが、しかし柄はタータンチェックである。

 さらに、サイズが大きいヤンのシャツを物色し、少しでも目立たないよう、紺色の物を拝借して上から被った。

 ルディオも体の正面側などの白い部分が目立つので、靴墨で染めるように提案してある。そろそろ済んだだろうかと、リビ

ングに戻ったリスキーは…、

「旦那さん。準備は…」

 言葉を切った。テーブル上のパスタ類を素手で鷲掴みにし、口に運んで獣のように貪り食うセントバーナードの姿を目の当

たりにして。

 ガツガツ、グチャグチャ、上品とはとても言えない咀嚼音を響かせて、あっというまに食糧を平らげた巨漢は、立ち尽くす

リスキーに目を向けた。

「!?」

 リスキーを映すその瞳は、琥珀色に変じている。が、すぐさま色は濃くなり、トルマリンの光が瞳孔に戻った。

「………」

 ルディオはしばしリスキーを眺めていたが、

「今、意識が飛んだ」

 確認するように言って、カルボナーラソースまみれの手を見遣る。直前に手に取ったはずの靴墨の容器は、放り出されて床

に転がっていた。

「…ええ。瞳の色が、狼のようになっていました」

 目の色が変わったルディオは別人。話からそう解釈しているリスキーは、緊張しながら応じたが…。

「…そうか。なんでさっきは出て来なかったのか、わかった気がする」

 違和感が消えない手を見つめ、ルディオは確信を込めて呟いた。

「足りなかったんだ。栄養とか、スタミナとか、そういうのが」

 自分の中の「獣」は、先に生物兵器と戦っていた。それで消耗するかどうかして、休息か食事か、インターバルを挟まなけ

れば出て来れなかったのではないか、というのがルディオの予想。

 実際、今一時出てきたのは、危機に備えてでも危険に反応してでもなく、パスタを食べるために現れたような物である。

「つまり、次に危なくなったら、たぶん出てくるんだろうなぁ」

「…頼りにしていいのか、危険視しなければいけないのか…。いざとなったら必要な「力」ではありますが…」

 リスキーは、手に付着しているカルボナーラソースを舐め取っているルディオを見ながら、軽くかぶりを振った。

 ルディオはひとまず味方と考えていいが、目の色が変わった後は…、正直、「わからない」。



 ルディオは島の地理に明るくないため、案内は、下調べと図面で頭に叩き込んでいるリスキーが買って出た。

 靴墨で真っ黒になったセントバーナードは、しかし…。

「辛いんじゃないのかぁ?」

 歩き出してから数百メートル足らずのところで、歩みが遅れがちになったリスキーに、後ろから声をかけた。

 平静を装って「平気です」と応じるリスキーは、強がっているものの脂汗を流している。傷を塞いだだけで、癒えた訳では

ない。幾重にも硬く巻いた包帯には、衣類の下で徐々に血が滲み出て、染みができていた。

「匂いがする。血が止まってない」

「それはまぁ…、しかし問題ありません」

 暗殺決行を決意したリスキーは、夜明け前にケリをつけたかった。焦り、逸り、冷静さを欠きそうになる怒り、そんな物と

戦いながらの道行は、決戦の場へ向かう最中にもリスキーから力を奪ってゆく。

 セントバーナードはそれを感覚で理解し、追いついて横に並ぶと、「おぶる」と言った。

「はい。…はい?」

 一度頷いてしまったのは、傷みと格闘しながらこれからの立ち回りを考えていたせい。首を傾げたリスキーに、ルディオは

言う。

「おれは体もでかいし、力もある。それに元気だ。でもアンタは着く前に疲れそうだ。動けなくなったら困るからなぁ」

 言うが早いか、巨漢はリスキーの前に回って跪いた。

「大丈夫です」

「大丈夫じゃあないなぁ。ほら」

 無防備に背を向けて屈んでいるルディオに、リスキーは呆れた。

(私が裏切ったらどうするつもりなんでしょうかね…)

 馬鹿なのか、大物なのか、自信があるのか、何も判っていないのか、とにかく迷いも怯えも見せないルディオに、「はやく」

と急かされたリスキーは、

(時間も惜しい…。体力も惜しい…。仕方なし。それに…)

 自分を納得させ、恥を忍んで背負われる事にする。

(旦那さんも、坊ちゃんを早く助け出したいんでしょうね…)

 のんびりしているように見えるが、実際にはこの巨漢も精神的には余裕が無いのかもしれない。リスキーはそう考える。

 リスキーを軽々とおぶって立ち上がったルディオは、

「済みませ…」

「あっ」

 侘びの言葉を遮って、素っ頓狂な声を上げた。その鼻が、フスフスと匂いを嗅ぐ。

 次いでルディオは、肩から回って胸の前に垂れたリスキーの手を掴み、その手の甲を鼻先に近付けて…。

「何ですか?…あ、済みませんね。消毒液や薬品の臭いが残っていますか…」

「リスキー、アンタ先生の兄さんだろう?」

 沈黙が、二人を包んだ。

 一瞬何を言われたのか判らなかったリスキーは黙っており、歩き出したルディオは返事を待って沈黙している。

「…どうして…、そう思うんですか?」

 否定ではなく、質問で探りを入れたヤンに、ルディオは応じる。「匂いが近い」と。

 最初は判らなかった。だが、リスキーの匂いに薬品臭さが加わると、ヤンの匂いに近くなり、気付く事ができた。

「会っても顔が判らない。だから鼻で確認できるように、先生の匂いを覚えておいた。消毒の匂いが混じったら、アンタの匂

いは先生とよく似てるなぁ」

 納得納得、と頷くルディオの背中で、リスキーは言葉に詰まった。

「顔が判るはずなのに、先生は何で気付かなかったんだぁ?アンタも気付いてなかったのかぁ?」

「………はぁ…」

 リスキーは観念して口を開いた。

「最初は、気付きませんでした…。あの子、昔は肥っていなかったんですよ。…私の方は顔を整形していますから、気付かれ

ませんでした。…声も、もう子供の頃とは違いますからね…」

「そうなのかぁ…。でも、何で言わなかったんだぁ?」

「私は犯罪者です。医者の身内に犯罪者は、不要なんですよ…」

「ふぅん…。先生が、そう言ったのかぁ?」

 ルディオが発した、含みのない率直な問いに、リスキーは即答しかねた。

「…いいえ。ですが、そうなんですよ…」

 がっかりされたくない。兄が仕事で人殺しまでするようになったなどと知ったら、ヤンがどう思うか…。それに、ONCの

清掃人となった自分の血縁者だと判明したら、ヤンの生活にも影響する。仕事で買った恨みの数など、リスキー自身も数えき

れないのだから。

「この事は黙っていてください。誰にも、決して言わないでください。安全のためにも、私とアイツが血縁だと内外に知れる

のはまずいんです。私は色々な所で恨みをかっています。関わりがあると知れたら、アイツの身に危険が及ぶ可能性が高い…」

「安全かぁ…」

 ルディオはのんびりした口調で言う。

 理解できた。自分もカムタの安全が一番大切なので、ヤンを危険に近付けたくないというリスキーの発言内容は、判らなく

もない。だが…。

「それは、寂しいなぁ」

 セントバーナードの口をついた率直な感想に、リスキーは押し黙る。これが最善なのだと、自分に言い聞かせて。

「わかった。誰にも言わない」

 請け負ったルディオは、「アンタは先生を大事に思ってる。それがわかったから、いい」と頷いた。

「おれとアンタは、やりたい事が似てるのかもな。おれはカムタが大事で、先生はその友達だから一緒だ。アンタは先生が大

事で、カムタの事も、きっと悪くしない」

「…ええ…。信用していいですよ?もし私が裏切ったら…、弟に本当の事をバラして構いません」

 ルディオは「あ~…」と、何か思い出しているような声を発し…。

「アンタは匂いだけじゃなく、言う事も先生に似てるんだなぁ」

「え?」

「先生もおれに、同じように言ったんだ。自分が裏切ったら秘密をバラしていい、って」

「…そうですか…」

 リスキーは、喜んでいるような困っているような、何とも微妙な半笑いの表情になったが、おぶっているルディオには見え

ていない。

「そうだ。武器に使えそうな物があるから、カムタの家に寄って行こう」

 セントバーナードはそう言って、「アンタ、ナイフは使えるか?」とリスキーに訊ねた。





 水平線が、夜目の利く少年にうっすらと見え始める。

 海を見たくて見ているのではなく、そっぽを向いているだけのカムタは、腰の後ろで組まされ、手錠で固められた両手首を

カチャリと揺すった。

 力をこめても、引っ張り抜こうとしても、頑丈な手錠はビクともしない。そのチェーンは、砂浜に生えたヤシの太い幹にナ

イロンロープで括り付けられている。

「どうせ逃げられないんだ。そろそろ観念して仲良くしようじゃあないか?」

 カムタの前に立つ、骸骨のように痩せ細った男がヒュクヒュク笑う。

 そこは、島に点在する入江の一つ。二つの岬の間がU字型に抉れる格好で低くなり、さながらポケットビーチのようだった。

ヤシが茂ってぐるりと周囲を囲んでいるので、砂浜まで降りてこないと様子がよく見えない。

 カムタや友人達も、遊び場にしていた場所だった。

 だから、カムタは居直ったような態度でいながら、実は焦っている。子供が来る場所だからまずい。夜が明けるとまずい。

 この骸骨のような男は危険だと、少年は本能的に理解している。その「危険性」が、生物兵器の物とは違う意味の物である

事も含めて…。

 下手に近付いたら、邪魔になったら、この男は躊躇いなく、誰であろうと殺すだろう。恐らくは後先を考えずに…。ひょっ

としたら島の住民を皆殺しにする事も厭わないかもしれない。

 加減を知らない、そして考えが浅い、分別が無く何をするか判らない子供のような危うさを、カムタはショーンから感じ取っ

ていた。

 カムタの左頬は腫れ上がり、右目は瞼の上が瘤になっている。鼻血が流れ込んで、唇を歪なルージュで染めていた。

 拷問はショーンがひとりでおこなっている。砂浜の両端には彼をマスター登録されたマンティスが控え、ビーチを囲む木々

の中には、ビーチが見えない位置関係を指定された手下が配置されている。

 ひとが傍に居ないのは、カムタから聞き出す話を独り占めするため。ショーンは拷問で得た情報がフェスター側に抜ける事

を恐れている。だからこそ、パーター以外とはカムタとセントバーナード、リスキーについての情報を共有していない。

 マンティスとともにカムタを拉致したのはパーター。彼が船でここへ運んだのが島の少年である事も、ヤンの家に置手紙を

してきた事も、木立に潜んでいる男達は知らされていない。ただ、「客」が来たら何も言葉を交わさずに連れて来い。…とし

か告げていない。

「何度も繰り返させないでくれないか坊や?さぁ、話せ。お前と一緒に居たセントバーナードは何者だ?」

「知らねぇ」

 そっけなく応じたカムタの頬がガツンと音を立てて、顔が反対側を向く。

 殴りつけた伸縮式の警棒で、手をポンポンと叩きながら、ショーンは「忍耐強い方だがね、それでも限度はあるぞ?」とカ

ムタの顔を見下ろした。

「知ってたって…」

 キッと見上げた少年は、ショーンを睨みながら鼻息を荒くする。ボタボタ落ちる鼻血が顎から胸まで斑に染めて、凄まじい

形相になっていた。

「オメェなんかにゃ、死んでも教えてやんねぇよ!」

「ふん…」

 肩を竦めたショーンは、その爪先をカムタの腹に蹴り込んだ。

 肉付きのいい太鼓腹に深々とめり込んだ靴は、先端に鉄板が仕込んである「教育用」の品。「うぶっ…!」と呻いて背を丸

めたカムタの前で、ショーンは屈み、目線を近づけた。

「誰も得をしないだろう?ボクは疲れるし、お前は痛い。さっさと吐いてしまった方がいい事ぐらい判らないか?」

 その言葉が終わるか終らないかの内に、カムタは顔を上げ、ショーンの顔に胃液混じりの血をブーッと吹き付けた。

「わっぷ!ああっ!」

 驚いて尻もちをついたショーンは、慌てて顔を拭う。

「汚い!汚い汚い!汚いぃいいいいいっ!」

 悲鳴のような声を上げ、ハンカチで、シャツで、顔を拭うショーン。汚れたそれらすらも嫌なのだろう、シャツも脱ぎ捨て

て、あばら骨が洗濯板のように浮いた貧相な上体を晒す。

 「へっ!」と鼻で笑ってやったカムタの左頬に、警棒が飛んだ。しかし勢いで横向きになりながら、殴り付けられた少年は

笑みを消さない。

「気味の悪いガキめ…!」

 何度も何度も殴打するショーン。しかしカムタは何も教えない。

 自分は頭が悪いから、この男が何を知ったらセントバーナードにとって不利になるのか判別できない。それなら何も教えな

いのが一番いい。カムタはそう考えている。

(ちょっと、ホッとしたかな…)

 少年は思う。ルディオがこの男の仲間でなくて良かった、と。

 まだ会ったばかりな上に、記憶喪失なので、ルディオの事はほとんど判らない。それでも、人柄については何となく判って

いる。今まで何処で何をしてきた誰だろうと関係なく、親切に親切で返す今のルディオは「イイヒト」だと思う。

(頭が悪くたって判る…。コイツに連れてかれたら、アンチャンは不幸になる…。それは絶対ダメだ…)

 何とかしたい。自分が餌になっているこの状況では、ひとのいいルディオは必ず来てしまう。そしてきっと、自分が人質に

なっている以上、義理堅いあのセントバーナードは、何を言われても何をされても、拒否も抵抗もできないだろう。いっそ、

琥珀色の目になって暴れてくれればいいのだが…。

(頼むからバレんなよ…)

 後ろ手になっている事を逆手に取ったカムタの手には、二枚貝の片割れが握られている。手で触って確認したソレの縁は、

一部が欠けて鋭くなっていた。

(ロープ切る前に割れなきゃいいけど…)

 意図的に息を荒らげて体を揺すり、動きを悟られないよう注意しながら、カムタは手錠に繋がっているナイロンロープに、

少しずつ切れ目を入れている。

「おい…。お前まさか、「助けに来てくれるから自分は安心」とか思っていないか?」

 ショーンは取り乱さないカムタに腹を立て、沖に向かって顎をしゃくった。

「ボクが持ち込んだのは、カマキリ二体だけじゃぁない。沖には、その十倍の生物兵器と、武器と人員を乗せた船が命令を待っ

ている。…こんな小さな島の住民など、数時間で皆殺しにできるんだぞ?」

 カムタの手が、一瞬止まった。

 ハッタリかどうか考えようとして、やめた。

 本当だった場合、この男なら皆殺し作戦もやりかねないと感じる。嘘であって欲しいが、真実だったらまずい。こういう時

は楽観的に考えるより警戒した方がいいと、天候と海を相手取って生計を立てている少年は理解している。

(十倍…。じゃあ、えぇと…、二十ぐらい居るのか?)

 目の色が琥珀に変じたルディオが強い事は判っている。だが、二十もの敵に襲われたらどうなるか?それらが放たれたら島

はどうなるか?カムタは不安を覚えた。

(コイツが命令するんだな?じゃあ、コイツをとっちめれば…)

 自分が何とかできるかもしれない。カムタは頼みの綱の貝殻に、壊れてくれるなよと心から頼み込んだ。





「冗談じゃないぞ…。リスキーはフェスターの懐刀だ…。裏切りの疑惑があるにしたって、手を出すのはまずい…!」

 男達が詰めている所から離れた位置で、パーターはうろうろと木陰を行ったり来たりしていた。

 ショーンはパーターも遠ざけて、少年から話を聞こうとしている。危ない事はさせられるが、重用もされてはいない。

 話が違う。と不満にも思うが、それを直接言う事など恐ろしくてできない。

「どうする?情報を持ってフェスターの下に行くか?…いや、しかし「あの事」がバレたら…」

 ブツブツ漏らすパーターの、その近くで…。

「…アイツ、何を言ってるんだろうなぁ?」

 腹と地面の間に少しだけ隙間を空け、伏せている真っ黒な巨犬が、小さく呟く。カーゴパンツも含めて靴墨で黒く塗り込ん

だルディオは、伏せていると夜明け前の闇溜まりのようで、周囲にすっかり同化してしまう。

「よく聞こえませんね。…しかし見覚えがある顔です。確か…」

 真っ黒い蓑を被って隠れたような恰好で、ルディオの下になっているリスキーが呟いた。ルディオが全面的に自分を信用し

ているようなので、いささか猜疑心が足りなくはなかろうかと変に心配してしまうのだが、それをいちいち指摘していても進

まないので、もう完全に諦めて協力体制となっている。そもそも今は時間が惜しい状況、首を傾げるだけのルディオにひと疑

う事を切々と訴えている余裕はないのである。

「そうだ。船員でしたね…」

 記憶を手繰って、リスキーは思い出す。顔写真を見た覚えがあった。沈没した輸送船の乗組員名簿で…。

(大方、ショーンの傍若無人な振る舞いに嫌気がさして、グチを漏らしていたんだろうな)

 いち早く察知して潜んだふたりとは対照的に、パーターは全く気付いておらず、無警戒に近付いてくる。

(顔を見られるのはまずい。このままやり過ごせればいいが、もし気付かれたら…)

 可哀相だが死んで貰う。そう心に決めて、まだ手に馴染まない得物を握ったリスキーは…。

「ケチがついたのは輸送船だ。あの時、ショーンの頼みを聞くべきじゃなかった…!」

「!?」

 距離が狭まったパーターの声をしっかり聞き取り、動きを止めた。

「おかげであのセントバーナードと出くわしたし、海に放り出される羽目にもなった…。いくら金のためとはいえ、爆破工作

なんて請け負うんじゃなかった!」

 息を潜めて独り言に耳を澄ますルディオとリスキー。

(セントバーナードって、おれの事かなぁ?)

(爆破工作?…では、輸送船の沈没はショーンが手引きを…!?)

 両者ともに、聞き捨てならないセリフである。

「今からでもフェスターに寝返るか…?しかし何か手土産がないと…」

 寝返りの算段を漏らすパーターは、気付けない。

 音もなく身を浮かせたセントバーナードの下から、するりと、猫科の肉食獣のような男が滑り出て、自分の背後へ回り込ん

でゆく事に…。

「そうだ。あのデブの虎はどうだ?死んでいるだろうが、あの家には何か情報があるかもしれない。あそこへ行って…」

「行って、どうする?」

 パーターは凍りついた。冷たい感触が喉にヒタリと吸いつき、底冷えするような低い声音はすぐ耳元で発せられていた。

 気配は、微塵も無かった。本気で不意を突く気になったリスキーの挙動は、パーターには掴むどころか触れる事もできない。

容易く、迅速に、人生の幕引きが可能なポジションへ、リスキーは滑り込んでいる。

(お前は何をした?何を知っている?吐いて貰うぞ…!)

 リスキーが握る、ルディオのガットフックナイフが、パーターの喉に皮膚一枚分の傷を刻む…。