Clean up after

「報告は以上です」

 直立不動のリスキーから報告を受けたフェスターは、難しい顔をしている。

 臨時拠点として船着き場に停泊させている船の一室。寄せる波も穏やかで、繋がれている事もあり、船内に居る事を忘れそ

うなほどに揺れが無い。

 ショーンとパーターを始末し、カムタとルディオを見送ったリスキーは、通信で簡単な報告をおこなうと同時に現在地を告

げ、同僚達に迎えに来て貰った。

 ショーンの配下に組み込まれていた男達は、フェスターの部下達から撤収の命を伝達されても状況が飲み込めていなかった

が、新型の始末が済んだ事、ショーンが死んだ事、以降はフェスターの指揮下に入るようになる事を告げられると、皆一様に、

疲労が濃い顔に喜びと安堵の笑みを浮かべていた。

 主の元へ戻ったリスキーは、カムタ達との約束を守り、彼らに詮索が及ばないよう、その存在を嘘の陰に隠した報告をおこ

なった。

 ショーンが出した無謀な命令に、結果的には乗る形で新型を見つけ出し、始末した。

 が、船員だったパーターがショーンと通じて裏切っており、マンティスを武器に、ショーン側につくよう脅しをこめて接触

してきた

 マンティス二体は正面切って戦うには手強く、抵抗も危険と判断し、一時従う事にしたリスキーに、パーターは語った。そ

もそも、輸送船の沈没はショーンが命じてパーターが実行した爆破工作による物なのだ、と。ショーンはフェスターの幹部就

任を妨害すべく、いよいよ過激な手段に出ていた。

 ボートでショーンが居る入江まで連れていかれそうになったが、隙を見てマンティスを仕留め、今なら赦しを乞う事もでき

る、とパーターを説得。

 結果、到着後にパーターはショーンと口論になり、もみ合った挙句に殺害。危険と判断したのでパーターは自分が処分した。

 …というのが、リスキーが上司におこなった説明。ショーンが情報を独占する為に人払いし、部下にも詳しく話さず、皆が

「誰かがボートで連れてこられたらしい」としか認識していなかったので、連れて来られたのは自分だというリスキーの主張

に疑いを持つ者はおらず、真に連れて来られた人物…カムタの存在については把握している者すら居ない。

 また、リスキーの奸計により、ショーンは実際にパーターによって殺害されている。ショーンの遺体に残ったトキシンバレッ

トのライフリングを調べてもパーターの銃によるものと判断され、パーターの銃にはリスキーの指紋も残っていない。

 パーターの喉にはナイフを押し付けた際に微かな跡が残っていたが、毒手はそこをなぞるように浅く掻き削っており、此処

にも痕跡はない。

 獣が残した砂地の乱れも、リスキーが隠ぺい工作をおこなったので、もう識別できなくなっている。

 現場で得られる状況証拠は、全てがリスキーの証言に味方した。

「…ショーンが裏で何かしていた事は、私も数時間前に気付いた。データベースから、いろいろと見つかった…」

 やがて口を開いたフェスターは、輸送途中から所在を確認できなくされていたマンティスの件も、リスキーの報告と一致し

ている事を告げた。

「まさかここまでやるとは…。いや、ヤツならどんな手を使っても不思議ではないが、社に背くとまでは考えなかった…。あ

る意味買い被っていたな」

「なにはともあれ、パーター…裏切り者による裏切り者の殺害です。当事者から詳しい情報を得られないのは残念ですが、こ

ちらには非がありません。実に素敵な死に方です」

「…確かに…。アイツの実家も責任を問われるだろう。上層部は揺れるだろうが…」

 フェスターは顎を引く。いかに名家の者とはいえ、ショーンは自業自得の末路と言える。この件に関してはフェスター側で

は誰も責任を追及されない。リスキーが言うとおり、「素敵な死に方」だった。

 ふと、鷲鼻の白人は思った。案外、リスキーは早い段階で、どさくさに紛れてショーンを殺す事を思いついていたのではな

いか?と…。

(いや、考えすぎか?)

 とはいえ、フェスターには疑念があった。平素と変わらない態度の部下に対する疑念が…。

「リスキー」

「はい」

「怪我を、しているな?」

「幸いかすり傷ですが」

 リスキーは、さーっと頭から血が引く音を聞いた。フェスターはじっと、部下の顔に鋭い視線を注いでいる。

「何処だ?」

「はい?」

 フェスターはゆっくりと、リスキーの前へ歩を進めた。

「その「かすり傷」は、どこにある?」

「………」

 無言になったリスキーに、フェスターは言う。

「服を脱いで見せろ、リスキー」

 その瞳は、雄弁に語っていた。

 お前は嘘をついている。と…。





「よかった。センセー大丈夫なんだな?」

 出発前に寝室へ運び込まれていた虎の寝顔を覗き、カムタは小声で呟いた。ホッと緊張が緩んで、痛々しく腫れた顔に笑み

が浮かぶ。

「先生もリスキーも、肉で止まっている、みたいに言った。内蔵とか、大事な所には届かなかったらしい」

「そっか。そっと寝かせといた方がいいんだよな?」

「たぶん」

 ひそひそと言い交わしたルディオとカムタは、静かにリビングへ引き上げる。

 割れたガラスと壊れたドアは、そのままにしていると虫が入り放題なので、窓はビニールとガムテープで蓋をし、綺麗に切

り裂かれたドアは釘で雑に止めてはめ込み、外と内から椅子とテーブルで挟んで倒れないようにした。

 カムタは独り暮らしで家の補修などもするが、ルディオも何やら手慣れた様子。よどみなくハンマーを振るい、手早く釘を

打ち込む、無駄な力みのないその手つきで、意外に器用だなぁ、と少年を驚かせた。

「アンチャン大工さんだったりしてな?戦う大工」

「どうだろうなぁ?」

「あー、目ぇ開けにくくて堪んねぇよ…。早く腫れひかねぇかな…」

 作業が終わると、目の上が大きく腫れ上がったカムタは、医務室にあった湿布や絆創膏を拝借し、傷の手当てに取り掛かる。

 その間に、靴墨で真っ黒なルディオは、うかつにそこらの物に触ると黒くしてしまうので、シャワーと洗剤で洗い落とす事

にした。

「…綺麗に貼れてねぇけど、こんなモンでいいか」

 洗面所の鏡を見ながらの作業なので、いささか無駄な貼り方をしてしまった少年だったが、ヤンに診て貰うまでの間に合わ

せとしては充分だろうと、自分を納得させた。

「あ~ん…」

 鏡に向かって口を開け、中を確認する。両頬の内側がザックリ切れ、右の糸切り歯の隣が二本グラグラするが、欠けた歯も

折れた歯も無い。

 水を口に含んだだけで激痛が走ったが、我慢して漱ぎ、吐き出すと、血が溶けて赤が混じり、色濃くなった水が排水溝に向

かって走った。

 顔は青痣だらけで見た目は酷いが、幸い骨にも歯にも異常はない。カムタが丈夫なのもあるが、ショーン自身が非力だった

のも幸いした。

「う…、まだ痛ぇ…」

 洗面所からリビングに戻りながら、みぞおちに手を当ててさするカムタ。ショーンに鉄板入りの靴で蹴られた腹には、まだ

鈍痛が居座っている。

「どうしたカムタ?腹が痛いのか?」

 カムタが手当てをしている間に、靴墨を落として地毛の色に戻ったルディオが、湿った体をタオルでゴシゴシ擦りながら帰っ

てきて訊ねた。

「ガイコツみてぇなヤツに蹴られたんだ。たぶんセンセーと一緒で、太ってるからナイゾーはなんともねぇよ。でも痛ぇ…」

「そうか」

 頷いたルディオは少年の前で屈むと、湿り気が残る顔を下から上へ向け、少年の体に残る傷や青あざを確認する。

 ボロボロだった。疲労もしていた。睡眠も充分とは言えなかった。それでも少年は活力を失わず、へこたれない。

 強い子だなぁ。と、ルディオは思う。恐怖にも、危機にも、疲労にも、負傷にも、その膝と気持ちは折れない。少年は体も、

そして心も、非常に強い。

 だが、強いとはいっても…。

「カムタ…」

 ルディオは呟き、その大きな手でカムタの腹をそっと撫でた。

「わっふ!」

 こそばゆくて身震いしたカムタは…。

「ごめんなぁ、カムタ」

 ルディオの言葉に「え?」と首を傾げた。

「おれは、カムタが連れて行かれる時に、何もできなかった。追いつけなかった。だからカムタが怪我をした。カムタに怪我

をさせたくないのに。危ない目に遭わせたくないのに。肝心な時におれは、カムタを助けられなかった」

 とつとつと語るルディオは、カムタの丸い腹を撫でまわした後、青痣だらけの顔へ、鼻先を近づけた。

「ごめんなぁ、カムタ…。痛かったなぁ…」

「アンチャンが謝る事じゃねぇよ?それにちゃ~んと助けに来てくれたし、悪かったのはガイコツみてぇなあの男と、簡単に

さらわれちまったオラだよ。…あっ」

 ルディオは本物の犬がそうするように、カムタの頬を舐め上げた。

 一瞬衝撃で固まったカムタだったが、ルディオが犬獣人なせいか、男同士で顔を近づけ、頬を舐められるという行為にも、

抵抗も忌避感も覚えない。

 守りたい。ルディオは強く感じた。

 恩があるから。助けて貰ったから。そんな、頭に浮かぶ理由もあるが、思考にならない「気持ち」の面でも、この少年を守

りたいと感じている。

 カムタは、ただ、ただ、痛いはずの顔がくすぐったくて、心配してくれたのがくすぐったくて、思わず笑ってしまう。

「あ、アンチャン!くすぐって…アハハハ!」

 ベロベロと、犬が飼い主の顔をそうするように、執拗に舐め回すルディオと、笑うカムタ。が…。

「あはは、は…、いだだっ!」

 笑ったせいで少年の表情筋が痛みの信号を発する。

「大丈夫かカムタ?頬が痛いのか?」

「痛い、痛いけどアンチャンちょっと待っ…、アハハハ!いででっ!」

 騒がしいリビングの声は寝室まで筒抜けで、寝ていたヤンがウンウン呻いて麻酔から覚め、寝ぼけながら目を開けた。

「…あ~…。朝ぁ…?」





 ドクン、ドクン、と鼓動を高鳴らせながらシャツを脱いだリスキーは、フェスターの前でゆっくり一回転し、全身を見せた。

 包帯を巻かれたその体を、布に血が浮き出た背中を、じっくりと見てからフェスターが口を開く。

「…かすり傷、だと?」

「………」

「どんな傷だ?これは」

「………」

「…リスキー。私の質問に答えて貰うぞ…」

 フェスターは鋭い視線を、容赦なく部下に注ぐ。

「お前のこの傷は、「誰が」手当てした?」

 巻かれている包帯は配給物資ではない。量から言っても個人で持ち歩く応急処置用の支給品ではない。さらに、背中の広範

囲にわたる出血痕からも傷の具合は察せられる。リスキーが自分で処置した物とは思えなかった。

「………」

 リスキーは答えない。これまでフェスターの命令に従い、要求をほぼ完璧にこなしてきた懐刀は、主の問いに沈黙する。

「答えない、というのか?私の問いに」

 フェスターの眼差しがさらに鋭くなる。

 リスキーは知っている。決断した時のフェスターの怖さを。

 例えこの場で舌を噛んで自害しても、情報漏えいを危ぶんだフェスターは、不本意でも島の住民の皆殺しを試みるだろう。

自身の個人的な主義主張や理念を超えた所で、フェスターはONCの存続を己の使命としている。いざとなればプライドやポ

リシーを捨ててでも、ONCを守る事を優先する。

 そうなったらフェスター側も無事では済まない。ルディオが変じたあの獣に手を出せば、大損害を被るのは確実。そして、

ルディオはそう簡単には殺せないだろうが、カムタと、自分の弟は…。

(どうする…?どうすればいい…?)

 逃げる事も、沈黙する事も、打開には繋がらない。取れる手段があるとすれば、ここから単身で逃げ出し、ヤン達に危機を

知らせて島を出る事だが、ONCは海を縄張りにする古い組織。コネもツテも七つの海に伸びている組織から、逃げ切れると

も思えない。

「リスキー…」

 いよいよフェスターの顔が厳しくなると…。

(…そうだ!)

 リスキーは気が付いた。「何も喋れない訳ではない」のだと。

「申し訳ありません、フェスター…。この傷は、島の医師に手当てして貰った物です…」

「そうか…」

 フェスターは目を細める。恩義に背くが、その医師を始末しなければならない、と…。

「可哀相だが、口封じする必要があ…」

「弟でした!」

 リスキーが上げた声に、フェスターはしばし沈黙し…。

「…なに…!?」

 やがて、大きく目を見開き、部下を見つめた。

「弟…だと?お前の弟の事か?祖国に残してきた…という?」

 フェスターも、リスキーに弟が居る事は聞いていた。会う気はないが、きっと祖国で立派な医者になっているはずだ、と…。

「はい。経緯は判りませんが、この島で医者をしていました。…アイツは、私が兄だと気付いていません…。崖から落ちたと

いう私の話を鵜呑みにして手当てし、環境保護団体の構成員だという話をすっかり信じています…」

「待て。待て待てリスキー。お前の弟の戸籍偽装は完璧だと、身売り業者から聞いて…!」

 フェスターは動揺したらしく、ツカツカと室内を行ったり来たりし始めた。

 出会うべくもない南の島で、リスキーが別れた弟と再会するなど、流石に想定外の出来事である。

(済みません、フェスター…)

 リスキーは後ろめたくなって胸中で詫びた。

 フェスターは合理的だが、情を解さない訳ではない。特に評価している部下については家族にも便宜をはかり、いざとなれ

ば手厚く扱う。

 懐刀であるアジア系の青年に関しても、弟の為に自分を売ったという、入社の経緯を知っている。既に関わりを断っている

とはいえ、有能な部下の身内となれば無下には扱えない。

「…本当に、お前が兄だと気付いていないのか…?」

「はい。向こうも様変わりして、私もすぐには気付けませんでしたが…。どうか、どうかフェスター…。アイツを見逃して貰

えませんか?アイツは私を一般人だと思っています。今回の一連の件には関わりなく、たまたま私のミスで接触してしまった

だけ…、社に不利益をもたらすような事にはなりません。どうか…」

 訴えるリスキーは、説明は嘘混じりとはいえ、懇願自体は本心からのもの。

 流石のフェスターも、目の前に不意打ちで突き出された「兄弟の皮肉な再会」のインパクトに脳の大半を専有されてしまい、

リスキーが言い淀んだのも、隠し事をしようとしたのも、弟のためと考えて納得してしまった。

「…わかった…」

 ややあって、フェスターはため息をついた。

「どうにか、消さない方向で対処しよう…」

 幸い、リスキーの芝居はほぼ完璧で、フェスター以外は彼の重傷に気付いていない。リスキーの負傷の事は身内で処理した

物という事にして、手当てした医師の存在は報告に含めずに処理する事も可能だった。

(この程度は、背任には当たらないだろう)

 フェスターは胸の内で呟き、ため息をついて眉間を揉んだ。





「…おかしいな?」

 医務室の椅子に座らせたセントバーナードと向き合い、その丸太のような逞しい腕を取ってしげしげと検分しながら、肥っ

た虎は目を細め、半眼になっている。

「おかしいって、なんかヤベェのかセンセー?」

 心配そうに横から顔を窺うカムタに、ヤンは即答できずに「う~ん」…と唸る。

 ルディオの腕…プレデターマンティスの鎌を受けたという傷を、洗浄して確認した所なのだが、あらわになった傷を見たヤ

ンも、ルディオ本人も、わけが判らない。

「傷が…、無いんだ」

 やがて口を開いたヤンは、ルディオの腕の被毛を押さえて寝かせ、カムタにも地肌が見易いようにした。

「え?ねぇ?傷が?」

 そんなはずはない、と身を乗り出したカムタは…。

「…あれ?ホントにねぇ…?」

 驚きで目を真ん丸にする。

 ヤンが固まった血を洗い落として確認したところ、骨まで達していたはずの深く長い裂傷は、もう消えていた。ただ痕跡と

して、僅かに肉が盛り上がり、ピンク色になっている裂傷の「跡」だけが残っている。

 それは昨日今日負った傷の痕跡とは到底思えない。完全に塞がった治りかけの傷跡だった。これはヤンも説明できない現象

である。

(ふたりが見間違えた…というわけじゃあない。被毛まで固めて固着していた血の面積から言って、出血量はかなりの物…。

そもそも縫合無しに塞がるような傷じゃあなかったはずだ…。それが、傷口がすぐ血で塞がり、かさぶたになって血が止まっ

た?しかもこうして診れば、跡しか残っていない…だって?)

「指も動く。もう痛まない」

 グーパー、と指を動かして見せたルディオは、思えばドアを修理する時には痛みが気にならなくなっていたなぁと思い出す。

 そしてそれが、常識に照らし合わせて異常な回復速度だという事は、流石に理解できた。

「おれはやっぱり、普通の生き物じゃあないんだなぁ」

 繰り返し突きつけられる現実は、自分がまっとうな生き物ではないと自覚させるに十分な物。なのに、自分が「何なのか」

という事は判らない。思い出せない。波間に揺れる漂流物のように、何とも繋がらず何処にも着かない。

「………」

 流石にショックだろう、と沈黙したヤンだったが、

「だな!アンチャンは傷もすぐ治っちまうんだ、スーパーマンだな!」

 カムタは気味悪がるどころか、傷が治って腕が動くという事実を素直に喜んだ。

「良かったよアンチャン。オラのせいで指とか腕とかあんま動かなくなっちまったら堪んねぇもん。オラ思うんだけど、アン

チャンは、映画のヒーローみてぇな仕事してたのかもな?みんなを守ってワルイヤツと戦ってたんだ。だから、意識飛んでも

オラの事も助けてくれた!」

 これを聞いたヤンは、それは楽観的すぎるだろう、と思ったものの、あえて口を挟まなかった。

 カムタはルディオを気に入り、懐いている。家族ができたような気持ちなのだろうから、「自分を助けてくれる兄」と思い

たくなるのも無理はない。疑い、危ぶみ、警戒するのは、カムタではなく自分の役目。少年の期待や希望に水をさすのは無粋

に思えた。

(目の色が変わったルディオさんは、本当にカムタ君を助けているのか?これまでの状況と、聞いた話からすると、カムタ君

はたまたま助かる形になっていただけ…とも取れる。目の色が変わった後は、あくまでも脅威や危険を除去しているだけで…)

「さっきだって、オラを助けに来て、庇って怪我までした。アンチャンならアイツラ簡単にやっつけられたかもしれねぇのに、

オラを庇おうとしたから…」

「ちょ、まって」

 カムタの言葉を、思わず地に戻って遮ったヤンは、「庇って怪我をした?」と目を丸くする。

「そうだよ?アンチャンは…」

 カムタはそこで改めて、目の色が変わったルディオが飛び込み、自分を抱え、追ってきた生物兵器の攻撃を受け止めた、一

連の流れを説明した。

(…それは…、明確に、カムタ君を助けたと考えられるな…)

 反射的な迎撃にカムタがたまたま救われた…というケースには収まらない。新たな情報を得て考え込むヤンの前で、ルディ

オ当人は、これまで何度もそうしてきたように、自身の手を見ていた。

 目の色が変わった後の、自分ではない「自分」…。

 この体の本当の主かもしれない、自分ではない「自分」…。

(ソイツも、カムタが好きなのかもなぁ。ちゃんと守ってくれたんだもんなぁ…)

 相変わらず何も思い出せず、判らない事だらけだが、この事が判っただけで、今は充分だと思った。

「…とりあえず、だ。推測や考察は後にして、まずはあの男が言った通りに生物兵器を扱うとしよう。少々癪だが、上手く行

くように祈りながら、あの男に任せるしかない」

 ヤンはそう提案して立ち上がったが、「痛っ…!」と腹を押さえて呻いた。

「センセーはいいよ。傍で見てて、やる事だけ教えてくれれば」

「そうだ。おれが作業する」

 カムタとルディオはそう言って、

「オラもやるよ」

「カムタは先生に顔の手当てをして貰わないとなぁ。戻らなかったら困る」

「もうシップしたし、ツバつけときゃ治るよ。もうアンチャンのツバついたから放っときゃ治るって」

「そうかなぁ…?」

 まるで、事が上手く運ぶと確信しているように暢気なやり取りを始め、

(唾がついたって何だ?…いやそれより…)

 ヤンを呆れさせ、次いで苦笑いさせた。

(本当に、このふたりはタフだな…。胃に穴があきそうなのは僕だけ…。いや、案外あの男もそうかもしれないか)





(胃に穴があくほど、綱渡りだと、思っていたんだがな…)

 小鳥が囀りながら跳ねている桟橋をデッキから眺め、眩しい朝日を浴びながら、小休止を命じられたリスキーは顔を顰める。

 フェスターはリスキーの態度から感じた嘘について、「弟でした」の一言で、そのことだったのだと完全に信じた。

 予定とは大きく異なるが、拍子抜けするほどスルスル事が進んでおり、予定通り、今日中に死骸回収も済みそうである。

 フェスターは、リスキーが人身売買に身売りした後、残された弟がその後どうしていたのか、人身売買組織がどうなったの

かという事について、大至急調査するよう支部に命じている。

 フェスターは思っていた以上に自分を買ってくれていたらしい。今更のようにそう感じて、リスキーは苦笑いする。

(まさか、フェスターに嘘をついた事で良心が痛むとは…。良心と呼べる物が残っていた事も驚きだが)

 

 そして、カムタ側、リスキー側で、慌ただしい一日があっという間に過ぎた。

 ヤンの家にそのまま滞在し、日没後の海をウッドデッキから眺めながら、「上手くいったかな?」とカムタは呟いた。

 口の中は切れているし、目の上の腫れも引かず、青痣が目立つ顔のままだが、サッパリした表情である。

「たぶん」

 頷いたルディオは、室内から聞こえてくるロックのリズムに合わせ、フサフサの尻尾を振っている。

「ふたりとも。虫が入るからそろそろ閉めよう」

 リビングからそう声をかけるヤンは椅子に掛け、リスキーに縫合された腹の刺し傷の手入れをしている。

 リスキーの指示通りに事は済ませた。結果が出るまで心から落ち着く事はできないが、もうこちら側でやれる事もない。ひ

とまずは腰を据えて待つしかなかった。

「センセー。粥とスパゲッチとパンと、どれがいい?」

「作って貰うんだから贅沢は言わない、カムタ君が好きな物で構わないよ」

「じゃあまたスパゲッチにするか。センセーは少な目にした方がいいよな?腹に穴あいてんだから、食い過ぎたら出てきちま

うし」

「いや、流石にそこまでの傷じゃあないんだがね…。とはいえ、確かに食い過ぎは避けないと。腹が張ったらまだ傷口が広がっ

てしまう」

 室内に戻ったカムタと、その後ろで、応急処置して立て付けが悪くなったドアをゴトゴト閉めているルディオを見遣り、ヤ

ンは言った。

「さて、食事が終わったら、まずはルディオさん、寝た方がいいな。一睡もしていないんだから」

「そうだぞアンチャン?オラんちに来た日の昼間にちょっと寝たっきりなんだからな?」

 万が一に備えて見張りは残し、交代で休息を取る事にした三人だったが、カムタとヤンはともかく、ルディオは自分が休憩

する番になっても眠らず、ずっと起きていた。ウッドデッキで日光浴しながらぼーっと海を眺めるなど体を休めてはいたが…。

「「ヴィジランテ」…、だな」

 流れ着いた日の昼間に眠りに落ちたのが最後で、以降今まで一睡もしていないルディオを、ヤンは冗談めかしてそう評した。

「ビジター?何だそれセンセー?」

「Vigilantというのはつまり、「寝ずの番」だ。それをするひとの事がヴィジランテ。例えば、医師や看護師が重篤

な患者を夜通し見守ったり、夜襲に備えた兵士が眠らずに朝まで番をしたり、キャンプで火が絶えないように番をしたり…。

灯台守りも、嵐の夜には寝ずの番だ。まぁ、自警団という意味もあるがね」

 カムタはヤンの説明に、「へぇ~!」と目を輝かせる。

「何かカッコイイな!」

 会話を交わすふたりは、気付いていなかった。

 音楽に合わせて揺れていたルディオの尾が、一瞬動きを止めた事に…。



 白い部屋の大きな窓を、間近から見つめている。

 照り返しの向こうには荒涼とした大地…深い海の底の景色。

 すぐ隣には、同じようにその景色を眺める、灰色の狼。

「私は、あの方のヴィジランテとなるよう、仰せつかった」

 どれだけの間、静寂が部屋を満たしていたのか、狼の口から発せられた声に、空気がさざめくようだった。

「身に余る光栄だ。望むべくもない名誉だ。だが…」

 狼は一度言葉を切る。

 それからまた、空気が揺らぎをおさめるほどの静寂が続いた。

「私は、ジークフリートになれない」

 沈黙を破ったその呟きからは、感情が読み取れない。

 淡々と述べているようでもあり、慚愧の念が宿るようでもあり、むしろせいせいしたようでもある。

「…ハティは、なれたのだろうか…?誰かのヴィジランテに…」

 答えを期待しない独白を、無表情なセントバーナードはただ、黙して聞いていた。



(ヴィジランテ…)

 刹那のヴィジョンから醒めたルディオは、額に手を当てる。

 ヴィジランテ。

 ジークフリート。

 ハティ。

 頭の中で反響する言葉は、しかし記憶を呼び覚ます事もなく、何かと繋がる事もなく、何処かへ着く事もなく、いつまでも

そのままに漂っていた。

「…そうだ。カムタ、先生、おれは他にも言う事があった」

 ルディオはキッチンに向かっているふたりに声をかけ、説明した。

 時折見る幻覚のような物…。白い、狼の居る部屋の事を。





「後始末が済みしだい、出立する。予想外の損失だったが、何ヶ月もかかるような面倒に発展しなかったのは救いだな」

 生物兵器の死骸回収を終えて桟橋の船に戻り、甲板に上がったフェスターが言い、リスキーは「いよいよ栄転ですね」と相

槌を打った。

「明後日にはこの諸島を離れる。それまでに弟への挨拶は済ませておけ」

 こっそり連絡をとるつもりだったリスキーは、上司の言葉に面食らう。

「よろしいので?」

「正体を知られていないとはいえ、医師と患者という関わりはできた。礼も言いに行かないようでは、逆に怪しまれるだろう。

後ろめたい事がある人物だったのでは?とな」

「それは確かに…」

 手すりにもたれかかり、部下にグラスビールを二杯持って来させたフェスターは、その片方をリスキーに勧めた。無論、ア

ルコールに酔えない事は知っている。

「祝杯だ、付き合え」

「達成祝いですか」

 謹んでグラスを受けたリスキーに、鷲鼻の男はニヤリとして見せた。

「兼、今後疫病神モドキに頭を悩まされる事がなくなった祝いだ」

 カツンとグラスの縁を合わせ、口元へ運ぼうとしたフェスターは…。

「…む。定時連絡の時間か…」

 携帯端末を握り、相手も確認せず通話呼び出しに応答した。

 異常なし。

 そんな報告を予期していたフェスターは、しかし予想と違う声に眉を上げる。

「…何だ、お前か。人身売買の件、もう調べがついたのか?」

 聞いているリスキーは軽く眉根を寄せる。現場の部下からではない、フェスターの通話相手は、シドニー支部で彼の補佐を

務めていた中間管理職からだった。

(本部から着任を急かす連絡が入ったか…)

 そう考えたリスキーは、しかし上司の顔色がみるみる変わってゆく事に気付き、困惑した。

「待て…。何だと?もう一度言え」

 フェスターの顔と声に、焦りと困惑が色濃く滲んだ。

「毒!?蜂!?アックス!?水晶!?おい待て!何を言っている!?」

 数秒後、フェスターの手からグラスが滑り落ち、甲板に当たって砕け、ビールを撒いた。

「あの…、疫病神め…!」

 呻く上司の様子から、ただ事ではないと察したリスキーは…、

(疫病神?まさか、ショーンは他にも何かしでかしていたのか…?)

 嫌な予感で、胃の辺りが重くなった。