Close to You
夜明けの光を身に浴びて、欠伸をしながら大きく伸びる肥えた虎。
だが、背伸びした拍子でズボンからシャツが引き出され、腹が出ると、
「痛っ…!」
傷の痛みで急に背を丸める。
ウッドデッキに出て、起き抜けの一服をつけ、パイプを咥えながら眺める海は今日も美しい。
(リスキーからの連絡は、来るとしたらこれからだな…)
首尾よくいけば、昨夜の内に死骸の回収が済んでいるはずだった。
ゆったりと尻尾をくねらせながら、紫煙をくゆらすヤン。
カムタはリビングにタオルと毛布を広げて簡易な寝床を作り、大の字で寝息を立てている。あれだけの事があったにも関わ
らず、うなされる様子もなく熟睡していた。
ルディオは少年の姿が見えるように位置を取り、朝日がさし込む壁に背を預けて座り、借りたヘッドホンでロックを聴いて
いた。交代制で見張りに起きたものの、ルディオは見張り番を二度買って出ており、結局二時間足らずの浅い睡眠しか取って
いない。ヤンと交代した今も、眠ろうとする様子はなかった。
(それにしても、ルディオさんの件については判らない事だらけだ…)
セントバーナードが語った、白い部屋と狼について、きっと記憶の一部に違いない、とカムタは大喜びしたが、ヤンはます
ます判らなくなった。
その狼は、有名なバンドのボーカル、ハウル・ダスティワーカーと似ているのだという。
(本人…なのか?ルディオさんはハウル・ダスティワーカーと近しい関係だった?だとしたら、ハウル・ダスティワーカーは
ルディオさんの古巣のような物…、つまり非合法組織か政府下の機関…秘匿事項に関係する組織と、何らかの関係を持ってい
た?…いや待て、まだ本人かどうかは判らないんだ、答えを急ぐな…。そもそもその断片的なヴィジョンはいつの物なんだ?
本当の事なのか?妄想や夢の類という可能性もゼロじゃあないわけで…)
素性についての考察も難しいが、ヤンが最も気になっているのは、職業柄、ルディオの体質についてだった。こちらもまる
で見当がつかないのだが、一般人とは基本的な性能からして異なっている。
生物兵器を容易く屠る身体能力。
手を触れずに物を破壊する能力。
負傷が短時間で癒える修復能力。
そして、目の色が変わっていなくとも発揮されている、気配と危機の察知能力…。
(海から来た不死身の男か…。まるで、シバの戦士だな…)
考え込みながら半眼になったヤンは、気を取り直したようにガシガシと頭を掻く。
「お伽噺に逃避か…」
と苦笑いして呟いた虎は、ふと、視線を水平に巡らせた。そしてピタリと、身じろぎすらしなくなる。
(…どういう事だ…?)
目つきを鋭い物にして、肥えた虎はゆっくりと後退し、部屋の中へ。
その目は、海岸線に車で乗り付け、慌ただしく沖や波打ち際を確認して回る男達の姿に向けられている。
(まさか、死骸の回収が上手く行っていないのか?)
ドアを閉めたヤンは、自分に目を向けたルディオに、口元で指を立ててジェスチャーで伝えると、窓際に歩み寄って手招き
し、外を見るよう促した。
「…リスキーの仲間かなぁ…?」
「そう思う…。死骸が回収できていないのかもしれない…」
カムタを起こさないよう、声を潜めて囁き交わすセントバーナードと虎。
「昨夜中に死骸を回収したら終わり…という事だったはずだが…?」
「おれたちが浮かべた後、どっかに流されて行ったのかぁ?あの死骸…」
「どうかな…。カムタ君が大丈夫だと言った以上、回収が難しくなるようなポイントではないと思うんだが…」
ふたりが監視する間にも、男達はこまめに移動を繰り返して海岸線を捜索していたが、一時間ほどでヤンの診療所からは見
えなくなった。
「位置も特定できなくなっている、という事なのか?」
「あんな調子じゃあ目立つなぁ」
ひとまずウッドデッキに出て、見える範囲から男達が居なくなった事を確認しながら、ヤンとルディオは顔を見合わせる。
「あまり良くない状況になっているのかもしれない…。警戒は続けるべきだろう」
「そうだなぁ。リスキーがどうなってるか教えてくれれば良いんだけどなぁ」
気にはなるが、下手に探りを入れるのも上策ではない。男達が戻って来ない事を確かめて室内に戻ると、「どうにも落ちつ
きが悪いな」と、ヤンが零した。
「さっさと決着をつけて、すっきりしたい物だが…。ルディオさんも、落ち着いて過去探ししたいだろう?」
「そうだなぁ。きっとすぐ終わるから、もう少し辛抱しよう」
気持ちがタフだなぁと、頼もしさすら感じて頷いたヤンは、「何か飲み物でもいれようか」とキッチンへ。
「好きな飲み物も、思い出せないかな?飲めない物があれば避けたいが…」
「たぶん、嫌いな物はあまりないと思う」
「それじゃあ、アイスティーでもいれようかね」
共に危機と夜を乗り越えたからなのか、肥えた虎はセントバーナードに信頼を寄せ始めている。目の色が変わった後の危険
性や不安要素はあるが、ルディオの考え方や性格、振舞いは、全てがカムタの安全を優先している。優先したい事がヤンと共
通するので、連帯感もある。
加えて、自分に対しても仲間意識を持ち、信用してくれている事が判る。だから、知らない事、判らない事だらけでも、気
味悪くは思わないし、朴訥で誠実なひととなりに好感も抱いている。
ダージリンのティーパックを水出しして、好みで入れるようミルクとガムシロップを添え、テーブルについたヤンは、ルディ
オがしきりに鼻を鳴らしてグラスの匂いを嗅いでいるのを見て、「好みに合えばいいが」と笑みを浮かべた。
「紅茶は馴染みがないかな?」
「わからない。けど、馴染みがあるような気はするなぁ。匂いで鼻が落ち着く、好きだと思う」
「ふ~む…。以前は紅茶を楽しんでいた、という事か?何処にでもあるから手掛かりにはならないが…」
カロリーを気にして甘さ控えめのガムシロップをチョイスしているヤンだが、結局五つグラスに入れて、ミルクもたっぷり
混ぜ込み、ミルクティーにして啜る。
ルディオは何も足さず、チビリ、チビリ、と味と香りを確かめるように味わっていたが、
「…先生」
「うん?」
「誰か来たなぁ」
「………」
やにわに立ち上がり、腹の傷を押さえて顔を顰めながら窓に寄るヤンは、大股で先に行ったルディオの脇に並び、岬へ上がっ
てくる坂道を窺う。そして…。
「リスキー…、か?」
「そうみたいだなぁ」
駆け登って来るアジア系の若者の姿を確認し、顔を見合わせた。
「あの様子だ、急ぎの報告があるのかもしれないが…。走るな、まったく…!」
「なんで走って来るんだ貴方は?安静にしていなければいけない傷なんだぞ?」
丸一日ぶりの再会。ガムシロたっぷりのミルクティーを楽しんだその口で、出会い頭に体を大事にするよう患者へ苦言する
肥満医師。
「やむにやまれず、といった所でして…」
駆けつけに冷たい水を出されたリスキーは、飲み干すなりヤンに腕を掴まれ、有無を言わさず診療室に連れ込まれ、椅子に
座らせられた。
その背後に回ったヤンは、半裸になった若者の包帯を交換するついでに、傷の具合をチェックしている。
「痛くねぇか?」
来訪で起こされたカムタは、リスキーの背中を覗きながら訊ねた。痛々しい縫い傷は、しかし腐らずきちんと閉じたまま。
ヤンの手当ても良かったが、ONCの衛生担当者の手入れも効いている。
「坊ちゃんこそ。青痣がまだ残っていますね…」
「オラはもう平気だよ」
済まなそうに言ったリスキーに、カムタは笑って応じる。僅かに鈍痛があるものの、もう笑うのも喋るのも食べるのも苦に
ならない。
「化膿はしていないな。とりあえず様子見に抗生物質を出そう」
「有り難うございます。…それで、危急の報告なんですが…」
「それは、浜辺を探っていた連中の事か?」
ヤンの言葉で、リスキーは苦悩するように目を伏せ、言い難そうにボソボソと告げる。
「…問題が、発生しました…」
「かもしれない、と覚悟はしていたよ。で、何が起こった?」
肥えた虎は苦虫を噛み潰したような顔になり…。
「沖で船が爆発しました。昨日の未明頃のようです」
リスキーが口にした言葉で凍りつく。
「船がバクハツ?」
「?????」
カムタとルディオは疑問符だらけの顔。
「坊ちゃんをさらった側…、つまり、私の上司の敵対者…、ああ、骸骨のような男、と言えば坊ちゃん達には判り易いですね。
…その男ですが、実はマンティス以外に無断で生物兵器を用意していたようで…」
リスキーは耳が痛いほどの静寂の中で、ショーンの置き土産について説明した。
ショーンは独断で動かした輸送船に、無許可で確保した生物兵器を乗せ、沖で待機させていた。
万が一に備えての戦力だったが、さらに万が一に備え、輸送船には証拠隠滅用の自爆装置も搭載された。
その起爆スイッチはショーン自身が持っていたが、今わの際、パーターの銃撃で崩れ落ちた際に、偶然スイッチが入ってし
まった。
そして…。
「乗っていたのは船員16名と、生物兵器21体。秘匿事項に分類される道具類も二つ積み込まれていました。現在調査と流
出物の回収が行われていますが、乗員は全員が遺体で収容。生物兵器は全て行方不明のまま。レリック…、つまり秘匿事項関
連品は全て詳細不明です。現在、流出物23件について海上と海岸から捜索を…」
ドスン、と音がして、リスキーは言葉を切る。
「に…、にじゅうさん…?23…、の内…、あ、あんなのが、もう21体も…?」
腰が抜けたヤンは、床に尻もちをついていた。
三体の流着で島民に被害がほぼなかったのは、奇跡と言える。それが21体も一斉に流れ着いたりしたならどうなるか…。
「申し訳ありません…。現在、この島も含めた近くの諸島、及び周辺海域を捜索中ですが、正直なところ…、収束の目途は立っ
ていません…」
リスキーを責める者は居なかった。ヤンは途方に暮れて脱力したまま、いつも通りぼんやり顔のルディオに助け起こされて
おり、カムタは指折り数えながら視線を上の方に向けて考え…、
「あ、やべぇ…!オラその話あのガイコツから聞いてた!脅すついでに言われてたんだっけ…!」
ショーンの脅しを思い出して悔やむ。が、リスキーは首を振った。
「例え覚えていても防げませんでした。あの男が倒れた時に自爆装置が起動していたので、事前に知ってでもいない限りは防
ぎようも…」
例えカムタから教えられたとしても、その時点で既に手遅れだった。すぐに動かせる船もこの島にはなく、事態が好転した
とも思えない。
「そちらの手を煩わせたりはしません。我々が責任をもって対処します。…が、しばらくは注意を怠らないよう願います」
アイツは本物の疫病神かもしれない。
リスキーは言葉を失っている三人に説明しながら、血の気が失せた上司の顔と言葉を思い出していた。
その、上司は…。
「………」
今度は顔を真っ赤にして、携帯端末を耳から離していた。
海上、漂流物を探るクルーザーの上での事である。
「どのような件だったので…?」
陸に残してきたリスキーの代役として傍に控える男が、フェスターの顔色を窺う。
「…確かに、いつまでも引き伸ばせる物ではないが…」
ひとりごちたフェスターは、頭痛を覚えたようにこめかみを押さえた。
「本部から、直々に就任を急ぐよう命じられた。この件には対策支部を別に立てて当たる、と…」
それは、ONCの緊急幹部会で決定された事だった。
発端となった輸送船の事故も含め、全てはショーンの暴走が原因であるため、彼の実家筋であるディアス家が責任をとる形
で主導し、今後の対応をおこなう事に決まった。具体的には、今回は流出予想範囲が広く、規模が大きいため、大規模な対策
班を結成して片付くまで諸島にへ駐屯させるという、長期戦を視野に入れた方針。
対策班の責任者と人員選抜については、幹部のひとりであるジョージ・ディアスが選抜し、自分の秘書と護衛も派遣する事
になっている。幹部直属の班となるため、人員、物資、後方支援、全てにおいて万全の体制となるだろう。
ジョージ・ディアスはショーンの祖父にあたる男だが、孫とは違って厳格で公明正大。どちらかと言えばフェスターに近い
タイプ。組織存続の事を考えて動く人物であるため、事後を託すに不足はない。が…。
(発たねばならん、か…)
同時に、フェスターには着任を急ぐようにとの指示が出ている。
「後任への引き継ぎと撤収準備に二日。三日後にはここを発つ。手配しろ」
命を下しながら、フェスターは釈然としない顔。喉に小骨がつかえたような気分だった。
その日の夕刻、危急の状態はひとまず脱したと判断し、一度家に戻る事にしたカムタは、後に続いて玄関を潜ったルディオ
へ、リビングに入りながら話しかける。
「アンチャンついてねぇな。キオク思い出すにも、センセーに調べて貰うにも、事件が次から次だ」
「そうだなぁ」
深刻さが全く無いセントバーナードを振り返り、カムタは「アンチャン、我慢しなくていいんだぞ?」と眉根を寄せ、腰に
手を当てて胸を張る格好で見上げた。
「オトナだからって、困ったりしねぇわけじゃねぇだろ?困ったり、怒ったり、哀しかったり、寂しかったり、色々あんだろ?
そういうの我慢しなくていいんだ。辛かったら文句言っていいし、やって欲しい事あったら言っていいんだ」
「そうか」
あまりにも大人しく、物分りが良いので、いろいろ溜め込んではいないかと気遣う少年に、ルディオは…。
「じゃあ、本当に辛くなったら、そうするなぁ」
カムタは、セントバーナードの顔を見つめながら、目を大きくした。口を丸くした。少し驚いた。
セントバーナードは、笑っていた。目尻を少し下げて、口の両端を少し上げて、穏やかに笑っていた。
(アンチャン…)
初めて見た、ルディオの笑顔…。
少年は知った。少年は思った。少年は感じた。ああ、このひとは…。
(こんな、優しい顔で笑えんだな…)
それは、ホッと安堵できる、気持ちが落ち着く、柔らかで優しい、愛嬌のある笑みだった。
その、柔らかな笑みを浮かべながら、ルディオはある事を決意していた。
(ルディオさんの記憶の件も、見通しは悪いというのに…)
カムタが拵えた食事の余り物で、独り夕食を摂りながら、ヤンはため息をついた。
数倍の脅威が海で解き放たれた。
その事実で胃が痛く、食が進まない。強い酒でも煽りたい気分だが、テシーの店へ行く気力もない。
だらしなくテーブルに乗り出し、頬杖をつき、ミートボールをフォークでつつき回すヤンは、まるで途方に暮れている子供
のようでもある。皆の手前だったのでずっと気を張っていたが、独りになると重圧に負けそうだった。
危険は、何も自分達だけに迫っている訳ではない。今度は諸島の広範囲に及ぶ事になる。
しかし、周辺の島の住民へ危険を知らせる事はできない。情報が漏えいしたら、組織が口封じに動く事は想像に難くない。
彼らが始末を終えるのを、息を潜めて待つのが無難。とはいえ…。
(…ルディオさんなら…)
ヤンは考える。
あの、琥珀の目になったルディオであれば、また何かが流着しても仕留める事ができる。彼ならば、カムタだけでなく島を
守る事ができる。
(自分の事だけでも大変なところに、頼るのも気が引けるが…)
他に、対処方法は思い浮かばない。
組織が取り逃がしたものが島に害を与えるならば、ルディオに仕留めて貰うのが安全。
(勝手過ぎるが…、頼んでみようか…?)
危険な目に遭うのはルディオ。戦えない自分が提案するのは自分勝手だし、ルディオは断らない気がする。
巨漢の返事が判っているからこそ、ヤンは気に病んでしまう。
自分に戦う力がないからこそ、危険な事を押し付けている気がしてしまう。
罪悪感と無力感を胸に、それでも、打てる手はそれぐらいしかないと、ヤンは項垂れる。
(お願いしよう。そして謝ろう。…せめて僕は、ルディオさんの過去が判るよう、全力で手助けしよう…。償いとして、お礼
として、精一杯報いよう…)
「フェスター。お願いがあります」
滞在しているホテルで荷物の整理に取り掛かっていたフェスターは、改まった様子のリスキーに訪問され、顰め面で「言え」
と応じた。
「…何やら、察してらっしゃるようなご様子で…」
若干戸惑ったリスキーに、フェスターは鷲鼻を鳴らす。
「ここに置いて行ってくれ、あるいは、長期休暇をくれ、そう言うつもりだろう?」
口を引き結んだアジア系の若者に、フェスターは「図星のようだな」と苦虫を噛み潰したような顔を見せる。
「まったく、私は忙しいのだ。余計な話を持ってくるな」
リスキーは、すんなり許可がおりるはずがない事も予測していた。
後を引き継ぐのは幹部のひとり、ジョージ翁直下の班。そこへ新幹部であるフェスターが配下を置くなどすれば、干渉と取
られて要らない摩擦を生みかねない。
そうでなくとも、フェスターは本部へ行かなければいけないのである。ショーンは居なくなったものの組織内でフェスター
をやっかむ輩は皆無ではない。失脚を狙った妨害が仕掛けられないとは言い切れないため、懐刀である自分が離れるのはリス
クが大きい。
だが、それでも…。
「フェスター。どうか…。どうかお願いです…。なるべく早く片付けて戻りますので…」
許可をくれ。自分に、弟を守るための一時の自由を…。
懇願するリスキーに、
「ニコラウス・ケイニー」
フェスターは誰かの名を告げる。
「知っているな?」
「…ええ、私から見れば先輩と指導教官の中間のような方ですから」
リスキーは、自分にナイフの扱いと徒手空拳格闘、工作員のイロハを叩き込んだ、髭面の壮年を思い浮かべる。瞬発力増強
タイプのブーステッドマンであり、リスキー同様、単身でも生物兵器と渡り合える腕前の男だった。
「彼がどうかしましたか?」
訊ねながら、リスキーはハッとした。
「彼が後任として派遣されてくるのですか?」
「ああ」
リスキーは複雑な表情になった。申し分ない後任である。異を挟めないほどに。
が、ヤンを守って貰えるかというと話は別。あくまでも任務が優先されるだろう。
「お前の臨時後任として手配した」
「そうですか…」
項垂れたリスキーは、
「今、何と…?」
上司の顔を、それこそ弾かれたような勢いで見遣った。
「何度も言わせるな。「長期休暇中のお前の後任として私の身辺警護を命じた」。不足はないだろう?」
フェスターは、相変わらず不機嫌な顔だった。不機嫌な態度と顔のまま、リスキーが何を望むか予想し、既に手配を済ませ
ていた。
「…準備が良すぎます…。私が申し出る事が、最初から判っていたので?」
面食らっているリスキーの表情が面白ったようで、フェスターは口の端を少しだけ上げた。
「傍に置く部下の経歴は一通り把握済みだ。それに、お前との付き合いも、短くはないからな」
リスキーは驚きが少し醒めると、深く頭を垂れた。
「有り難うございます…!」
「ただし、何点か肝に銘じておけ」
フェスターは厳しい顔になって告げる。「ONCの正規工作としてお前を残せる訳ではない」と。
「他部署からの駆り出しに遭わないよう、あくまでも「負傷による休暇中」という事にする。よって、大っぴらな支援はでき
ん。金や物資の補給は我が社の正規ルートを使えない、私へ直に要請をよこせ。勿論、タイムラグは大きく、送れる物も限ら
れる。支援は万全とは言えないぞ?」
「充分過ぎます」
「こちらも正規班の進捗を連絡するが、お前も逐一報告をよこせ。そして、一日も早く復帰できるよう、最善を尽くせ。勿論、
五体満足でだ」
アジア系の若者は、垂れた頭をしばらく上げられなかった。
身一つでもやるつもりだったリスキーにとって、上司の言葉は何より心強い支援となった。
(これは、運命の女神のいたずらなのか、それとも親切なのか…)
何が発端なのか、リスキーにももう判らない。
輸送船から生物兵器が流出したのが始まり。その事故原因はルディオらしい。だがルディオを刺激するしないに関わらず、
パーターによって爆破はされていただろうから、結果は変わらなかっただろう。
(少なくとも、この状況でアイツの傍に居てやれる事は不幸中の幸いだな)
―……敗…た…―
―…退避…ろ…―
―…救援を要…―
震えた瞼がゆっくり開き、トルマリンの色の瞳が薄く覗く。
カーテンの隙間から居間に細く射し込んだ光が、ソファーに腰を据え、膝に肘を置いて、やや俯く姿勢で座っていたセント
バーナードの右目をなぞり、上下に細く帯を描いている。
「…朝…」
呟いたルディオは、傍らの丸まったタオルケットを見遣る。
昨夜カムタが用意したままの状態で、未使用である。結局横にならず、座ったまま眠っていた。
立ち上がり、肩を回し、首を回し、腰に手を当てて上体を左右に捻る。楽な姿勢とは言い難い寝方だったが、体の凝りはほ
ぼ無い。そして、疲労が薄れて体が軽くなっている事に気付く。
(気にしてなかったが、たぶん疲れていたんだなぁ)
疲労に強い体質なのか、それとも自身の体調把握が下手なのか、眠る前までは体が重くなっている事を自覚できなかった。
のっそりと居間を出て、廊下の奥を見遣る。カムタはまだ起きていないのか、静かだった。
そのままそっと玄関から出たルディオは、眩しい太陽の光を巨体で受け止める。
朝一番の日差しが庭を染め、小鳥が囀りながら跳ね回る。
小鳥と虫達、風と海、草木の息吹が奏でる自然の楽曲。南の島の長閑な朝は、島に持ち込まれた兵器の事を忘れさせそうな
穏やかさ。
大きく伸びをして、ルディオは庭を見回し…、
「…ん?」
離れの台所の傍に、蠢く物を見つけた。
大型の甲殻類が、パンダナスを剥いた際に出た片付け残しの皮を、大きなハサミで挟んで口の辺りに持って行っている。
歩み寄ったルディオが、よく見ようと屈みこむと、明るい紫色の甲殻を纏うソレは食事を中断し、威嚇するように、サッと
大きなハサミを振り上げた。
何となくつられ、サッと両手を肩の上まで上げたルディオは、
「…何してんだアンチャン?」
屈んで両手を上げたその姿勢で玄関を振り返り、声の主を見遣る。
「カムタ、起きたのかぁ?」
「うん。飯獲りに行かなくちゃな」
現れた丸っこい少年は、海パンにゴーグル、抱えた籠と、漁に赴く格好をしていた。まだ口の中の裂傷も完全には癒えず、
顔の青痣も消えていないが、食う為に獲りにゆくつもりである。
「リスキーはもう沈んでた筒のヤツも引き上げたって言ってたし、今日からは磯に出てもオッケーだからな。…あ」
カムタはルディオの目の前にいる甲殻類に気付き、傍に寄って巨漢と同じように屈んだ。
「来てたのかお前。久しぶりだなー」
セントバーナードは笑っている少年に「知り合いかぁ?」と訊ねる。
「うん。この家が建つ前からここらを縄張りにしてるみてぇなんだ。家が建った時にはもう大人だったって父ちゃんが言って
た。オラより年上だし、もしかしたらアンチャンと変わんねぇぐらいかもな?」
カムタは「アンチャン知ってるか?ヤシガニ」と、馴染みの客を指差す。
「たぶん初めて見たなぁ。名前は、何となく判る」
「一ヶ月ぐれぇ見なかったけど、たぶんダッピしてたんだな」
昔はたくさん居たらしいが、今ではかなり数も減ってしまった。自然が昔のまま残っているこの島でも個体数は減っている
のだと、カムタは父から聞いた話をそのまま語って聞かせる。
「美味ぇらしいけど、食える生き物って気がしねぇ。小せぇ頃からの顔馴染みだしな」
少年は「そういえばアンチャン、ちゃんと寝たか?」と話題を変えた。
「寝た。気が付いたら朝だった」
「そっか。朝飯ちょっと待っててくれ、足りねぇと思うから。…あ」
少年は急に思い出した様子で、「アンチャン、ちょっと来てくれ」と、巨漢の手を取って引く。
「夕べ、帰る時にセンセーから貰って来たヤツさ、弄り終わったんだ」
食事中のヤシガニを残し、先導されて家の中へ戻り、少年の部屋に入ったルディオは、カムタがベッドの端から取り上げた、
畳まれている衣類を手渡される。
「アンチャンに似合うと良いなぁ!」
広げてみたルディオは、少し目を大きくした。
それは、涼しげなマリンブルーの、薄手のチョッキだった。
ルディオは、カーゴパンツもボロボロで、上には着る物もない。家にある物はサイズが合わないので、カムタはヤンに頼ん
で、着なくなった品を何着か貰って来た。繕い物も自分でする少年は、継ぎ接ぎでやりくりする事にも慣れている。
恰幅の良いヤンでもルディオよりは小さい。そこで、色が近い物を選んで、ある物は背中、ある物はフロント、ある物は脇、
と形を見て三着分から切り出して縫い合わせ、肩口が大きく出る形で余裕を持ったチョッキに仕立てた。
前後幅を取るために継ぎ足した、腋の下から垂直に走る太いラインには、ナイロンメッシュの生地が使われており、通気性
もいい。
折り返して重ねた縁は厚く、丈夫にできている他、両胸と腹の両側にはボタンで口を止められる大きなポケット。
前だけはサイズを確かめて仕上げようとしていたので、まだ留め具がついていないが、木杭型のダッフルボタンと太い皮紐
を使う予定である。
「ちょっと着てくれアンチャン、そしたら仕上げられっからさ!」
ニカッと笑ったカムタに促され、胸の中が詰まるような熱いような、苦しいようで心地よいような気分を味わいながら、ル
ディオは…。
「…カムタ。背中に何か書いてある」
チョッキの背面、元の生地からそのまま残った文字に気付く。
X、2、そしてU。ゴシック体の大きな文字が、着れば肩甲骨の上に重なる位置に、紺色で染められていた。
「X2U…?何か意味があるのかぁ?」
「何だろ?判んねぇなぁ。オラ、模様だと思って気にしなかった」
貰ったチョッキをじっと見つめ、ルディオは昨夜済ませた決意を、再び噛み締めた。
カムタが好きだ。
行くべき場所も、帰るべき場所も判らない。家族も友人も知らない。今の自分には何もない。
そんな中で、言葉を交わしたテシーやヤン、世話を焼いてくれたカムタだけが、自分を知り、自分が知る数少ない人物。彼
らが暮らすこの島が、今の自分にとっての「世界」そのもの。
また来るかもしれない脅威から護るために、自分は許される限りカムタの傍に居よう。
ここに流れ着いた事を、居合わせた事を、何かの導きと受け止めて…。
(おれは、カムタの傍に居よう。護れるように、傍に…)
チョッキに袖を通したルディオの背には、X2U。
ふたりは知らなかったが、記されたそれは文字遊び。
クロース・トゥ・ユー。
ルディオは知らぬまま、誓いのようにソレを背負う。
そして、三日後の夜…。
ヤンの家のリビングで、四名の男がテーブルを囲んだ。
長辺の一方、右側には、チョッキを羽織り、カーゴパンツを穿いた、大兵肥満のセントバーナード。
その左隣には、小麦色の肌の、骨太な上に肉付きが良くて丸っこい、蓬髪の少年。
少年の向かい側には、鋭い目つきが印象的な、肥満体の虎。
虎の左側には、目と手足が細い、アジア系の若者。
四人の前には、名を記し、脇に半分重ねて拇印を押した、一枚の紙。
連名の書状は盟約書。揉めに揉めて三日越しの完成となった。
揉めた内容は、カムタの事である。
既に深く関わりを持ったカムタだが、まだ子供。利害関係が一致したリスキー、ルディオ、ヤンが組む、島の防衛のための
共同戦線には加えられないというのが、肥えた虎の言い分だった。
しかし、危険を理由に自分を除こうとする医師に、少年は猛反発。
そしてカムタが挙げたのは、島に一番詳しいのは自分だろう、という地の利。協力できればちゃんと役に立つというのが少
年の主張。
これにリスキーも賛成して、ヤンから白い目で見られた。
アジア系の若者はあえて口にしなかったが、カムタは「特別」だと認識していた。
目の色が変わったルディオは、意思疎通ができているのかいないのか判然としないが、カムタを守ろうとする事だけはほぼ
間違いない。それに、確実かどうかはまだはっきりしないが、少年の制止の声には迅速に従う印象もある。不確定要素が多い
ルディオに対し、少年の存在は手綱のように働くのではないかという期待を抱いている。なにせ力ずくでは止めようもないの
だから、ブレーキは多い方が良い。
意見を問われたルディオは、しばし考えたものの、結局カムタの主張に賛同する事にした。
それは、「目の色が変わった自分のすぐ傍が、この島で最も安全かもしれない」という考えに基づいた物である。
本当に危なくなったら一目散に逃げる事。これを条件に、セントバーナードはカムタの参加を「有り」とした。
そんな経緯で、多数決により参加が決まったカムタは、今夜出来上がったばかりの盟約書をしげしげと見つめて、
「チームになんだからさ、チーム名あった方が良いんじゃねぇかな?」
と提案した。
「そうですね…。「ONCマーシャル出張所」というのはどうでしょう?」
「おい。僕達をそっちの構成員扱いされたら困るぞ」
「ジョークです」
リスキーが飛ばした冗談へ生真面目につっこむヤン。
「「ファンタスティックスーパーディフェンスセンタイジャスティスアヴェンジャーズ」とかどうだろ?」
映画や漫画のスーパーヒーローチームを思い浮かべ、目をキラキラさせるカムタだったが、誰も「いいね!」しなかった。
「もう「防衛組合」とかで良いんじゃないか?だいたい、名前が無くても別に困る事なんてないだろうに…」
投げやりなヤン。カムタ参加の件もあり、今夜の医師は前途を思ってテンションが低い。
しばしカムタが本気で、リスキーがジョークで、ヤンが投げやりに提案したチーム名が十を超えた頃…。
(腹減ってきたなぁ…)
参加せず、うわの空でアイスティーを啜っていたルディオに、「アンチャン何かねぇか?」と水が向けられた。
「え?」
「チーム名だよ。いいの思いつかねぇかアンチャン?」
急に話に加えられて、ルディオは「チーム名…」とおうむ返し。
「島を守るぞー!オー!みてぇな感じの名前とかさ」
「守る…」
―彼はなれたのだろうか…?誰かのヴィジランテに…―
ルディオは、ふと思い出した。
ヤンとカムタが話していた事を。
白い部屋で、狼が口にした事を。
「「ヴィジランテ」…」
セントバーナードが漏らした呟きで、少年が「うん?」と顔を向ける。
「ヴィジランテ、か…」
ヤンが腕を組んで顔を上げ、まんざらでもなさそうな表情で視線を宙に向ける。
「悪くないんじゃないですかソレ?シンプルで」
リスキーもこれに頷き、カムタは…。
「いいな!音もカッコイイし!」
ヴィジランテ。
それが、国家にも組織にも属さず、自発的な防衛活動に乗り出す彼らの名となった。
漂着の巨漢。
島の少年。
工作員。
医師。
島に陣取るヴィジランテの防衛戦は、一年弱にわたる事となる。
白い地面が、ぼんやりと円形に光っている。
雪ではない。氷特有の煌めきは無い。長年風雨にさらされた獣骨のように細やかにザラつき、照り返しは無いが、しかしそ
の物が内側から燐光を発しているような光り方に見えた。
壁は見えない。天井も見えない。夜空にしては星も見えない。広大な空間を擁する屋内なのか、足元だけが整えられた屋外
なのか、それすらも判らない。
自然の物とは思えない、草木や風の息吹もない不自然な静寂が、闇と混じり合って満ちている中で、足元から薄く光が昇る
そこに、四者の影があった。
影四つは大きさも形もバラバラで、三名は立ち、一名は地面に座り込んでいる。足元の発光は、ちょうどその四名を囲むよ
うな形だった。
「マーシャル諸島沖で、ONCの船が沈んだ」
口を開いたのは、人間の男性。
均整のとれた体つきで、濃いグリーンの制服を着用している。軍服のような意匠の上着には、襟、胸などに徽章や勲章が見
られ、袖などには白いラインが見られた。
眉間に深く皺が刻まれており、目つきは険しい。短く整えられた髭が口周りを覆っており、失明はしていないが、右目を垂
直に跨いで上下対称に刀傷が走っている。
「それは先週も聞いた。そんな話をするために俺達をわざわざ呼び出したのか?ええデリング?」
応じたのは身の丈190センチを超える黒豹。発達した筋肉のラインが制服の上に浮き上がるほど逞しい大柄な男で、長い
尾は苛立つように揺れている。
髭の男とは違い、制服の意匠は控えめですっきりしており、両腰には長さ30センチほどの黒い警棒を吊るしていた。
「そもそもだ、たかだか「小さな組織一つ」が起こした事故の話題など、任務中にいちいち伝えて来る必要があったのか?小
心な事だな」
苛立ちと敵意を隠そうともしない黒豹の、挑発的な言葉と視線を受けても、髭の男は「違う」と、落ち着き払った態度を崩
さずに応じた。
「ギュミル。今しているのは、二度目の事故の話になる」
「二度目?」
眉間に皺を寄せた黒豹は、ちらりと他の面子を窺った。円陣を組んでいるような四名の内、髭の男と向き合う黒豹の右には、
唯一の女性が立っている。
「ビュルギャ…」
同じ意匠の制服を着ているが、その上に濃紺のロングコートをすっぽり被って、目深にフードを下ろしている。フードから
覗く顔は雪のように白く、対照的に血のように赤いルージュを引いた口は、小刻みに震えてか細く声を発し続けていた。
「…寒い寒い寒い寒い寒い…!」
見れば、両腕で自らの体を抱く女性の体は、小刻みに震えている。
「信じらんない早く終わってよ寒くてしょうがないわよもう」
震える声で呟き続ける女性は、話の中身に興味を示さず、早く解放して貰いたがっていた。
黒豹は女性に声をかけたものの、結局問うのは辞めて、反対側に視線を向ける。
そこには面子の中で唯一、地べたに座っている男の姿。
半胡坐で尻を据え、立てた右膝の上に右腕を乗せ、左手を後ろについたくつろいだ格好の男は、立ち上がれば2メートルに
も達する。
ボディビルダーを極端にディフォルメしたような体格で、まるで筋肉でできたダルマのよう。大柄なギュミルが細身に見え
るほどの巨漢は、青みを孕む黒と、ややクリーム色に寄った白の、鯱である。
衣服は他の三名と異なる。濃いグリーンの迷彩柄アーミーベストを素肌に羽織り、同じ色と柄のズボンを穿いている。ベス
トは体躯に比して小ぶりで、脇腹の半ばまでしか丈が無く、前のジッパーも締まらず、肌が大きく露出していた。
膝に乗せた鯱の右手は、黒革の指ぬきグローブから覗く指で、煙を昇らせる太い葉巻を挟んでいる。
その煙に顔を顰めながら。黒豹は、「アンタは聞いていたのか?シャチ」と問う。巨漢は髭の男の話を聞いても意外そうな
様子を見せていないので、自分だけが知らなかったのか、と疑問に感じていた。
「グフフ…!初耳だぜェ」
含み笑いを漏らす鯱。露骨に顔を顰める黒豹。返答が本当なのかどうなのか、判断し難いのがこの男の常だった。
髭の男は「話はここからだ」と宣言し、先を続ける。
「短期間に二度、同一座標ではないが同じ海域内…、極めて位置が近いと言える事故だ。そしてあの海域は…」
「バベル…」
髭の男の後を受けて、黒豹が呻くように声を発した。
「そう。バベルが存在する可能性があるとして、特異日を挟む前後一ヶ月で調査が行われた。…ニーズヘッグ様の指揮でな」
「だがなァ」と髭の男の言葉を遮ったのは鯱。葉巻を咥え、不快げな黒豹に向かってこれ見よがしにフーッと紫煙を吐いた。
「結局、あそこに龍樹はねェって結論になったはずだなァ」
「その通りだ。…が、バベルは無くとも、他の物があるのかもしれない」
ふぅん、と鯱は興味なさげな相槌を打ったが、黒豹は髭の男の言葉に反応してギラリと目を輝かせる。
我が意を得たりと、髭の男は顎を引き、潜めた声で囁いた。
「ニーズヘッグ様が見落とした物を我々が見つける…。これは我らが主にとって大きな収入となる。手を打っておいて、損は
あるまい?」
黒豹は頷く。勿論、手柄を立てるのは自分だと、胸中で呟きながら。
フードを被った女性は、話に参加する様子を見せないまま、僅かに口の端を吊り上げていた。
鯱は、「まァ、せいぜい頑張りなァ」と腰を上げると、踵を返して歩き出した。
「俺様は明日から任務だ。その件はお前らに任せるぜェ」
歩みに合わせて揺れる、フィンを備えた尻尾が遠ざかり、前触れもなくカーテンが降りたようにフッと闇に溶けて消えると、
黒豹は鼻を鳴らす。
「不真面目なのはいつもの事だが、相変わらずだな」
苛立ってはいるが、しかし黒豹は満足もしている。競争相手が減った、と。
彼らは同じ主に仕えているが、しかし盟友という訳ではない。
こうして情報を共有しながら、他の出方を待ち、出し抜く機会を、そして失脚させる機会を窺っている。
髭の男の名は、デリング・ロイ。
黒豹の名は、ギュミル・スパークルズ。
フードの女の名は、ビュルギャ・オクタビア。
彼らは三人とも、「黄昏」という隠語で呼ばれる組織の構成員。
そして三人とも、組織最高幹部直属のエージェントを務めている、いわば高位将校だった。
だが三人とも、同じく知らない事があり…。
先に離れた鯱の巨漢は、のっしのっしと赤い絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、咥えた葉巻をピコピコと上下に揺すり、目
を細めた。
誰もいない、突き当りのドアが米粒のようなサイズになるほど長い廊下をゆくシャチの右手には携帯端末。通話の相手は…、
「…って訳で、デルロイが話を持ってきましたぜェ。大将に話を通すのか、こっそりやるのか、そもそもどういった形になる
かも判らねェが、近い内に誰か動き出すだろうなァ」
彼らの主君だった。
「ギュミーはいつもの事だが、オクタビアまでやる気になってたなァ。焚き付けは上手く行ってるが…、ちょいと妙だ。出し
抜きたがりのデルロイがわざわざ話を共有するんだからなァ。何か企んでる可能性もあるが…、どうしますね大将?」
『放っておく。デリングが何を企もうと、与える命令をおろそかにしない限りは構わぬ』
返ってきたのは、ひどくしゃがれた老人の声。
「御意。じゃ、とりあえず好きにさせとくかァ…。俺様は明日から早ェんで、今日はここらで休まして貰いますぜェ」
『ご苦労。そちらは任せるぞ、シャチ』
「アイアイサー」
デリングも、ギュミルも、ビュルギャも知らない。
同格として扱われる自分達四名の中で、実質的にひとりだけ別格であるという事を。
巨漢の鯱が、主君の懐刀として自分達を監視しているという事を。
そして主君は、自分達が反目し合っている事実を把握したうえで競わせ、成果を上げさせている事を。
中枢幹部直属のエージェント、シャチ・ウェイブスナッチャーは、同僚達の監視役でもあった。
シャチは「さァて、一杯ひっかけて寝るかァ」と、吸い終えた葉巻を取り、掌に転がし、握る。
分厚い手に握り込まれた葉巻が、ヂッと小さく、短く、微かな音を立てるのを聞きながら、
「…船が沈む…、ねェ…」
シャチは半眼になってひとりごち、ゆっくりと手を広げる。
「グフフ…!思い出すなァ、「あの日」は大忙しだったぜェ…!」
含み笑いを漏らすシャチの手の上で、葉巻の吸い殻は透き通った固形物に覆われていた。まるで、虫を抱えた琥珀のように。
「…「ガルムロスト」から、もう一年とちょっとになるかァ…」
呟くシャチは不意に笑みを収め、何事か思案するように目を細めた。
そして、しばしあって、まだ仕舞っていなかった携帯端末を持ち上げ、操作する。そして…。
「…よォ、俺様だァ。調子はどうだァ?…そいつァ結構!グフフフフ…!そういやァ、ちょいと前に揉めたってトコよォ、派
手に潰したそうじゃねェか?えェ?天下のエルダー・バスティオンが大人気ねェなァ。グフフ!」
中身は物騒だが、鯱にとっては世間話レベル。軽く挨拶から入った巨漢は、さして重要な事でもなさそうな、軽い口調で切
り出した。
「一つ頼まれてくれねェか?なに、ヤバいヤマじゃねェ、ただの流通調査だァ。マーシャル諸島…、知ってるなァ?あの共和
国内の「医薬品」の流れについてデータが欲しい。輸入を重点的に、前年分との月比較でなァ」
相手の返答を聞きながら、理由を問われたシャチは、
「単なる好奇心ってヤツだァ。副業で儲ける目があるかどうか、ちょいと知りたくてなァ」
と、淀みなくはぐらかす。
彼が電話をかけている相手は、彼の組織とは別の組織に属する者。その相手もシャチの素性を正しくは知らず、また別の組
織の構成員だと偽られている。
激しい戦場が何処かを調べるなら、物資の流れを探ればいい。
そして…、暗闘を探るなら、医者と薬を洗えばいい。
「頼んだぜェ」
通話を終えたシャチの瞳と、葉巻を閉じ込めた水晶のような固形物が、照明を反射して鋭く光った。
黄昏が蠢く。今はまだ、遠く離れて…。