Gordian knot

 南の海に浮かぶ、美しい島々。

 照りつける太陽で眩しい色に染まった砂浜を、ひとりの少年が歩いている。

 まだ十五程度に見える少年は、波打ち際で足を止め、素足を波に洗わせながら大きく伸びをした。

 そして、気分が良さそうな笑みを浮かべた顔を降ろし、「…ん?」と小さく、訝るような声を漏らす。その目を、か細い光

が下から射ていた。

 少年は屈みこみ、首を傾げる。

 波打ち際に光る、海水ではない何か。

 白い貝殻の反射とも、海の泡とも違う光は、やや黄色がかって見える。

「何だろう?これ…」

 目を引いたソレを、砂と一緒に手で掬い上げた少年は、波で洗って顔の前に持ち上げる。

「…綺麗…」

 少年はうっとりとソレに見とれた。

 人差し指と親指で挟み、太陽にかざしたソレは、キラキラと、美しい琥珀色に輝いている。

 ソレは、あくまでも美しく、光る様が温かく、そして…、どこまでも危険な代物だった。


















「こちら「ポイズン」。目標は南へ移動、民家側に行く恐れはなくなりました。このまま追い込みます」

 アジア系の青年は、パンダナスの果樹園を突っ切り、濃さを増す夕闇を掻き分けて走る。

 下生えの草を風に揺らし、四方から伸びる枝をかいくぐり、速度を緩めず駆け抜ける。極端な前傾の疾走フォームと、しな

やかな身のこなしは、何処か猫科の肉食獣めいた印象がある。

 南国のバカンスを楽しむ旅行客のような、アロハシャツにハーフパンツといういでたち。それなりに整った顔をしており、

人間の女性であれば好感を抱くだろう顔立ちだが、しかし今、その瞳には冷たく鋭い剣呑な光が宿っていた。

 そして、人差し指から小指までの四指を揃えて伸ばし、手刀を作ったその右手には、薄く透明なテープのような物が巻かれ

ている。

 それは、致死性の毒を宿した物騒な帯。

 右耳につけた通信機から口元に伸びた細いマイクに、駆けながらも息を乱さず、聞き取り易いようしっかり発音し、リスキー

は続ける。

「流出リストにあった一体、水棲適応の甲殻型です。一発浅く入っています。飛翔はできませんが致命打には至っていません」

『こちら「ストライプ」、了解した。「ウールブヘジン」と「ダイブ」は打合せの位置で迎撃準備中。タイミングはそちらに

任せる』

 応答を受けたリスキーは、「了解」と小声で応じ、木々の隙間を滑り抜けるように駆ける。

 遥か前方で枝葉の向こうに見え隠れするのは、疾走する、歪な人型のシルエット。

 背後から見て光沢がある黒い背中は、ゲンゴロウを基にしたインセクトフォームの物。背甲が大きく発達しており、輪郭は

亀の着ぐるみを被った人間に近い。

「距離、およそ60です」

 走りながら、リスキーはマイクに告げる。

「40」

 水中では素早いゲンゴロウも、陸に上がれば持ち味が活かせない。

「20」

 リスキーに追われ、逃げ込んだその先で、木立が割れ、視界が開けて窪地が現れる。

「ゼロ」

 リスキーの視界の先で、ゲンゴロウが何かに阻まれたように動きを止めた。

 見れば、横合いから飛んだ黒い投網が、その体を絡め取っている。

 そして直後に、ドゴンッ、と大気が震動した。

 高々と宙に舞い上がるゲンゴロウ。その打ち上げ地点には、白と茶色のツートーンに彩られた巨体。

「流石…!」

 ニヤリと笑うリスキーは、前蹴りでゲンゴロウを跳ね上げたまま、右足を垂直に上げている、琥珀の目の獣を見つめた。

 元は迷彩柄だったのだろう退色したカーゴパンツを膝まで捲りあげて穿き、背中に「X2U」と文字が見えるベストを羽織っ

たその獣は、身長2メートルはあるだろう大柄な、肥満体の巨漢である。

 ドラム缶に丸太の四肢を組み付けたような、太く、厚く、重々しいその体躯は、しかし単に肥えて膨れている訳ではない。

頑強な骨格に強靭な筋肉を搭載したその巨体は、通常の生物の範疇から逸脱した身体能力を発揮する。

 由来は不明ながら、人為的な施術等によるものだろう身体強化が施されたその獣は、200キロにも達するその体で、動き

は驚くほど俊敏。網に捕らえられたゲンゴロウの眼前に瞬き一つの間に飛び込み、蹴り上げたその動作は、常人の目では追い

切れない速度だった。

 蹴り足を下ろして腰を沈め、拳を握った腕を引いて上体を捻り、跳躍の準備を終え、落下してくるゲンゴロウへ追撃を加え

ようとした獣は…。

「アンチャン!もういいぞ!」

 傍の茂みから少年の声が響くと、跳躍を中断した。

 かなり伸びてきた蓬髪を揺らし、獣に横手から駆け寄ったのは、小麦色の肌がパツンパツンに張った、丸っこい少年。獣と

同じく、前をはだけたベストを素肌に羽織り、短パンを穿いた少年の右手には、全長1メートルほどの筒…ゲンゴロウに投網

を放った抱え筒が、皮ベルトを掴まれてぶら下がっている。

 網に包まれたまま落下してきたゲンゴロウは、上空16メートルからドザンッと地面に叩き付けられて、大きくバウンドし

てから痙攣し始める。

 オーバーテクノロジーで産み出された、自然界の生物ではまず歯が立たないはずの生物兵器が、蹴りの一発で不調をきたし、

まともに動く事もできなくなっていた。

「お見事でした」

 駆けつけたリスキーはゲンゴロウの傍らに屈むと、トキシンテープを巻いた右手で、首関節の比較的柔らかい部位に手刀を

一発入れる。

 そのままじっと様子を窺っていると、ややあって、毒が充分に浸透したゲンゴロウは痙攣すらもしなくなった。

 少年の斜め前に立ち、リスキーの後始末をじっと見ていた獣が、ゲンゴロウがもう動かない事を確かめると、その瞳の色が

変わり始める。

 琥珀色の瞳は、その色を次第に濃くしてゆき、やがてトルマリンのような緑がかった色に変化した。

 風がゆるく吹き、赤茶の被毛をふわりと揺らされたセントバーナードの巨漢は、トルマリンの双眸を数度瞬きさせる。そし

て、動かないゲンゴロウから視線を外し、周囲を見回し、カムタに目を向け、次いでリスキーに顔を向け、

「…終わり、かぁ?」

 と、のんびりした口調で訪ねた。

「ええ。お疲れ様でした」

 意識が戻ったルディオに、「バッチリだったぞアンチャン!」とカムタが手を上げる。

 ハイタッチしたセントバーナードと少年は、バラパパバポバポ…と、明らかに活きの悪い、低く咳き込むようなエンジン音

を耳にして首を巡らせた。

 民家がある方角から果樹園を回り込んできたのは、スクーター…ミントグリーンのヴェスパ。乗っているのは、でっぷり丸

い脂肪肥りの虎である。

 空気圧は充分なのに大きく凹んでいるタイヤを止まらせた虎は、アロハシャツの腋の下や襟周りを汗で変色させていた。

「三人とも無事か?怪我は?」

 万が一取り逃がした場合に備えて果樹園の民家側に陣取っていたヤンは、体重のせいで機動性が損なわれているヴェスパか

ら降りると、まず負傷の有無を確認する。

「問題ありません。坊ちゃんが止めてくれたおかげで、死骸も綺麗なものです。例によって「偶然見つけて始末した」事にし

ておきます」

 リスキーは微笑してそう応じ、医師を安堵させた。

「じゃあ、後は打ち上げだな!」

 カムタが明るい声を発して見回すと、リスキーもヤンも表情を緩め、ルディオはぼんやりした顔のままハタハタと尾を振る。

「僕はこのままテシーの店に行って、酒と料理を注文して来よう。リスキー、始末は任せて構わないな?」

「ええ。いつものように、つつがなく…」

 芝居がかった恭しい一礼を見せたリスキーは、少年とセントバーナードに目を向けて、「そちらは先生の家で準備にかかっ

てください」と、ウィンクした。





「お。いらっしゃい先生」

 カウンターで新聞を広げていたテンターフィールドの若者は、ドアを開けて入ってきた肥えた虎に、懐っこい笑みを向ける。

 床を軋ませて入店したヤンは、目尻を下げて片手を上げ、「やあ、邪魔するぞテシー」と応じながらカウンターへ歩み寄っ

た。見回すまでもなく客の数は確認できる。食事時ではない事もあり、今日も店内はガラガラだった。

「…客の入りはどうだ?」

「いつもの通り、ですよ」

 腰を浮かせたテシーは、冷蔵庫に向かいながら「座ってください、ビールでもどうですか?一杯おごりますよ」と気さくに

話しかける。

「いや、今はバイクなんだ。アルコールは無しで」

 椅子を軋ませながら「よっこいしょ」とカウンターについた医師を、「おやそうですか?」と振り返り、掴んでいたバドワ

イザーの瓶を戻すテシー。

 富豪であるロヤック家の長男は、趣味が高じて食堂兼バーを営んでいるが、その目的の一つが海外の美味い酒や料理を地元

民に味わわせる事なので、頻繁にサービスしてしまう。

 それでは経営が成り立たないだろう?とヤンなどは苦笑交じりに忠告するのだが、本人曰く、経営手腕を発揮してしまった

ら親父の跡継ぎにされてしまうのでこれぐらいが丁度良い、との事。

「アイスティーにしますか?」

「ああ、お願いしよう」

 ヤンが特に要望しなくても、テシーはミルクとガムシロップを多めにしてアイスティーを準備する。このテンターフィール

ドは、把握できた客の好みは全て暗記していた。

 テシーの手が止まるまで、邪魔しないよう話しかけずに待つヤンは、カウンターに広げられたままの新聞を見遣る。

 行方不明者や死亡者、事故の記事が並ぶページを見つめるヤン。その胸中に、この中の何件かは、漂着した危険な生物の所

業なのではないかという疑念が生じる。

 新聞やニュースで事故などの報道を目にするたび、遠く離れた島や、車での事故など、明らかに原因が違うと判るもの以外

は、まず疑う癖がついてしまっていた。

(神経質にもなる、か…)

 カムタや患者の手前、大人として振舞っているヤンではあるが、本来は気が小さい。ストレスで脱毛症になってはいないか

と、両耳を寝せてその間を探ってしまう。もっとも、実際にはストレスが働いて生じているのは脱毛ではなく、過食の方なの

だが。

「はいお待ちどう」

「ありがとう、頂くよ」

 氷が浮かんだアイスティーのグラスを差し出され、半ば反射で礼を言いながら顔を上げた医師は、「また、酒と料理をお願

いしたいんだが。夜までに頼めないか?」と本題を切り出した。

「今日も宅飲みですか?」

「そんなところだ」

「ルディオさんと?」

「そうだ」

「…リスキーさんも?」

「ああ、そうだ」

「よっぽど気に入ったんですね?」

 そうじゃない。と否定しかけたヤンは、しかしすぐさま思い直して「まあな」と顎を引く。

「やっぱり、母国が近いと話すのも気が楽なんでしょう?」

 オーダーを取るためにメモを取り出すテシーへ、「それもあるな」と話をあわせたヤンは、気付いていない。

 テンターフィールドの若者が、少し寂しげに耳を倒している事にも、窺うようなその瞳に、一抹の羨ましさを浮かべている

事にも…。

 ヤンはこれまでもそうしてきたように、料理と酒の希望を店主に伝えようとして…、

「あ…。ああっ!そうそう!」

 テシーが急に大きな声を上げたので、発しかけた「まずチキンロースト」という言葉を飲み込んだ。

「明日から弟が帰って来るんですよ!」

「…ほう?ハミル君が?」

「ええ!」

 ニコニコしているテシーの言葉に、ヤンは眉を上げる。

「長期の休みでもないのに、珍しいね」

「週末と祝日と振り替え休日が重なって、ちょっとした連休になったらしくて」

 テシーの弟、ハミル・ロヤックはカムタと同い年の幼馴染。小さかった頃から驚くほど聡明な少年で、近場の学校の教育で

は不十分だったため、首都のハイレベルな学校へ入れられている。

 心優しく礼儀正しい男の子で、活発なカムタとはずいぶん性格が違うのだが、幼い頃から仲が良かった。お互いに、多くの

友人達の中でも一番の親友と言える。

「あ、カムタにはナイショですよ?アイツ、いきなり訪ねてビックリさせたいって言ってたんで…」

「判った。伏せておこう」

 頷いたヤンは、しかし心の中で詫びた。

(済まないテシー。カムタ君の状況が状況なんだ、こっそり教えさせて貰う…)

 カムタの家には、抱え筒をはじめ、「作戦」用の道具類が置いてある。変に疑念を抱かれてはかなわないので、備えは必要

だった。とはいえ…。

「…カムタ君も喜ぶだろう」

 ヤンは表情を弛緩させ、優しく目を細めた。

 早くに父を亡くして、経済的な理由で学校を中退したカムタは、他の家庭の子達のような、学校で友達と共に過ごす時間を

失った。近所の子供らとは今でも一緒に遊んでいるが、それでも普通の子供らと比べれば、同年代の子供と共有する時間も情

報も少ない。
カムタの父の死に関わった中のひとりであるヤンは、この事でずっと胸を痛めてきた。

(ハミル君が帰ってきている間は、事件が起こってもカムタ君は外さなければ…。いや、ハミル君が居る間、何も起こらない

のが一番良い)

 そんな事を思うヤンは、ふとある事に気付いて「あ」と声を漏らした。

「ルディオさんが居るんじゃあ、逆にハミル君がビックリしないか?」

「それは大丈夫です。教えてありますよ」

 応じたテシーは、

「ルディオさん。このまま国に帰らないで、ずっとカムタと居てくれれば良いんですけどね…」

 少年の事を案じて、そうポソポソ呟いた。

「…ああ。そうだな…」

 たっぷりした顎を引くヤンは、しかし…。

(ルディオさんの記憶が戻らなければ、正体が判らないままだったら、今の暮らしをずっと続けていけるのかもしれないが…)



 そして、その夜…。

「これで、行方が判らないのはあと十五体になりました」

 陽が落ちたばかりの夜の初め、ヤンの家のリビングで、チキンローストにかぶりつく肥えた虎を横目に、リスキーは「問題」

の残り件数を報告した。

「減ったような、まだまだ居るような、だな…」

 手放しには喜べない、と顔を顰めながら、脂だらけの口元をナプキンで拭うヤン。

「判んねぇのがジューゴって事は、ひとつ減ったんだな?この間リスキーのカイシャの連中が見かけて追っかけてたってヤツ

が見つかったのか?」

 塩味がやや濃い、発汗で失ったミネラルを補える味付けのポテトサラダをもりもり食べながらカムタが尋ねると、

「ええ、潜伏している島は絞り込めたようです。捕獲か処分も時間の問題かと。順調に進むよう願うばかりですが…、まぁ、

取り逃がしはしないでしょう」

 応じたリスキーは冷えたダージリンティーのグラスを掲げ、現場の人員達を想いながら乾杯の真似事をする。

「早く終わるといいなぁ。時間が経てば、それだけ遠くに、広く、散らばって行きそうだ」

 海老と貝柱、烏賊たっぷりのシーフードピラフをガツガツ掻き込んでいたセントバーナードが、口を休めて感想を述べる。

これは全員が心配している事だった。

「行方が絞り込めた分は終わったと仮定しても、残り十五…。早いのか遅いのか…」

「船の自爆箇所が沖に寄り過ぎでしたね。ホッパー達のケースとは違って散ってしまっていますから、漂着のタイムラグも大

きいです」

 全体の見通しがよくないので進捗の判断がし辛いと、不満げに唸る肥えた虎に、リスキーが頷く。

「ただ、流着前に死んでいる個体も半分近く出る見通しです。陸上仕様が大半で、海上漂流に高い適応力を持つ物は僅かです

からね」

「そう願いたいね」

 ヤンは明るい顔も見せずに応じ、手を伸ばしたグラスが空になった事に気付くと、ワインボトルを掴んでセントバーナード

を見遣る。

「ルディオさん、ワインのお代わりは?」

「貰う」

 酒を酌み交わす肥えた虎とセントバーナードを、少し羨ましそうに窺って、リスキーはチビリとアイスティーを飲る。

 「仕事」が終わったらテシーのバーから酒とご馳走を買い入れ、ささやかな打ち上げをするのが四人の慣わしになっていた。

 私的援助レベルではあるが、上司のフェスターからの活動支援があるおかげで、リスキーはそうそう金に困らない。慰労の

宴は彼が代金持ちとなる。

 二月下旬。ルディオの漂着から既に一ヶ月と少しの時間が経っていた。

 セントバーナードの記憶は戻らず、相変わらず素性は判らないままだが、本人は困っている様子もなく、のんびりと日々を

送っている。カムタの家にそのまま居候しており、普段は少年の漁を手伝ったり、ヤンの家で音楽を聞いたり、体質の検査を

受けたりして過ごす。島の住民達の知り合いもだいぶ増えていた。

 一方でカムタの方も、ルディオという同居人のおかげで「家族」が居る生活を満喫している。生業も手伝ってもらえている

ので、以前よりも毎日が充実していた。

 リスキーは一応以前のホテルに長期滞在で部屋を取っているが、初動が遅れては困るので、ヤンの家に寝泊まりする事が多

い。情報収集や調査など、四人の中で最も歩き回っているのがこの若者だった。

 当初はリスキーに警戒と疑念を意識して抱こうとしていたヤンも、そろそろ慣れて、気を許し始めている。彼が生き別れた

兄だという事には相変わらず気付いていないのだが、本能か、血か、リスキーに感じる懐かしさや親しみが、そうさせていた。

「そういえば…、カムタ君は、そろそろ「市」の準備か?」

 ルディオにワインを注ぎ返されながら、ヤンは思い出したようにカレンダーを確認した。

「だな。そろそろ籠織りしねぇと」

「市?籠?何です?」

 尋ねるリスキーに、「四月に市が立つんだ。フリーマーケットってヤツだな」と、カムタは説明した。

 この島には食事処に酒処、一件の雑貨屋と製塩場付きの塩屋はあるが、それを除くと商店は無い。そのため、買い物をする

ならば他の島へ渡る必要がある。

 しかし春と秋の年二度、雨季と乾季の移り目には、周辺の似たような島から多くの住人が品を持ち寄り、大規模フリーマー

ケットが開催される。不要物の整理と必要物の入手が主な目的ではあるが、生活のためだけでなく、一種の祭りのように皆が

楽しむ市場で、島の一大イベントと言って差し支えない。

 カムタはこの日に、父が居た頃からずっと、磯で獲れた魚介類の網焼きで出店しており、昨年からはロヤック家で作り方を

習った手製の籠やサンダルなども販売している。

「市でゼニが入ったら鶏買う。二羽か三羽ぐれぇ欲しいな!」

 少年が楽しそうに予定を語ると、ルディオが「ニワトリ?」と耳をぴくつかせた。

「焼くのかぁ?」

「肉用じゃねぇよアンチャン?飼うんだってば」

 即座にチキンローストを連想したルディオに、カムタは笑って言う。

「家で飼って、卵が取れたら便利だろ?」

 カムタは、父が居た頃は飼っていたのだとルディオに教える。独り暮らしになった後は卵が無くても困らなかったので、そ

れまで飼っていた鶏が全て寿命で死んだ後は、新たに飼い直す事もなかった。

 だが、セントバーナードと二人暮らしとなった今、生卵があれば食卓も賑やかになるだろうと、考え直している。

(なかなか、いい家族してますね…、ふたりとも…)

 本物の兄弟のように仲の良い少年と巨犬のやりとりを眺め、リスキーは目を細める。そして、横目で太った虎を窺った。

(こちらは…、まぁ、いくらか信用されてきているようではあるんだが…)

 ルディオとはすっかり馴染んでいるヤンだが、リスキーへの態度は特別つっけんどんである。島に危険を寄せた一味のひと

りと思われれば、それも仕方がないと感じるのだが…。

(たまには私にも、旦那さんにそうするように冗談を言ってくれたり、笑いかけてくれたりしてもいいじゃないか、シーホウ…)

 名乗れないし素性が知られても困るが、少しは仲良くして貰いたい。なかなかに複雑な兄心であった。





 そして、慰労の宴が終わり、帰宅したカムタとルディオは…。

「明日の午後には、またテシーの店に行くぞ。籠の材料貰って来ような!」

 ザァザァと濾過水のシャワーで頭を洗いながら言ったカムタに、

「ああ」

 大きな湯船に張った水に浸かりながら、ルディオは相変わらずぼんやりした顔で応じた。船のタンクを改造した浴槽は大き

く、2メートルあるルディオでも足を伸ばして浸かれる。

 年中気温が高いこの島では、基本的にいつも水風呂である。一応水道も引いてあるが、そちらはもっぱら飲用や食器洗いな

どで使い、水浴びには雨水を貯めて濾過したものを使う。

 やがて汗と土埃を流し終わった少年は、「オラも入るぞ」と断りを入れて、高い湯船の縁を跨いだ。

 大きく広げられた肉付きの良い股の間で、皮を被った小ぶりな陰茎と、冷やされて縮んだ陰嚢が丸見えになるが、元々が解

放的な性格である。ルディオに裸を見られる事にも羞恥を感じないので、少年は堂々と自然体だった。

 体の発育は良いはずだが、男性機能の方はむしろ遅いのか、まだ陰毛と言えるほどの体毛が見られない。十五になっている

のだが、カムタのまたぐらには薄い産毛が見られる程度である。

 とはいえ、ルディオが参照できる知識の中には、そういった性の成長年代についての事はないらしく、遅いらしいという事

にも気が回らない。そもそも、獣人と人間の成長過程における肉体変化についての差が判っていない可能性もある。

 縁を跨いで水風呂に入ったカムタは、足を左右に除けたルディオと向き合う形で浸かった。

 ザパァ…と溢れた水が縁を越えて落ち、なだらかに角度をつけられた床を下って、排水溝に渦を作る。

「あ~…、気持ちいぃ~!

 少年の顔が緩む。汗を流して身を清め、体の熱を水に解き放ってリラックスするこの時は、この世の天国。

 危険生物を追う「ミッション」があった日は、汚れも疲労も普段の数倍溜まるし、汗まみれになってしまう。今回は前日の

夕方から追い込みをかけて、今日になって捕獲できたので、睡眠時間も足りていない。横になったらすぐ泥のように眠ってし

まいそうだった。

「アンチャン、疲れてねぇか?」

 カムタはルディオが縁に乗せていた太い腕を両手で取り、筋肉と被毛に覆われた二の腕をやや強めに揉む。

 ルディオは垂れ耳の基部を少し倒して、「平気だ。カムタは?」と問い返した。

「たぶんベッドに乗ったらすぐ寝る」

 カラカラ笑うカムタの顔を、セントバーナードはトルマリンの目を細めて見つめた。

 これも恐らく、ルディオの特殊な体質による物なのだろうが、巨漢は睡眠時間をさほど必要としない。

 ヤンは「ショートスリーパーの可能性がある」としながらも、最悪でも数時間の睡眠さえあれば、その後三日程度は不眠不

休で動ける異常性については、どういった理屈でそうなっているのかさっぱり判らないと言う。

 しかも不眠不休で動くその間、ルディオには疲労や睡眠不足による思考や動作の滞りも見られない。大食漢ぶりから、食事

…つまりエネルギー補給は人一倍必要になるらしいと推測できているが、脳というのは、栄養さえあれば休まなくても平気と

いう器官ではない。

 リスキーも、ルディオの存在を隠しておくためにONCのデータベースを当たれないが、自身の知っている範囲内で知識を

提供し、ヤンに協力している。しかしそれでも、巨漢の正体は未だにさっぱり判らない。

 カムタは、しかしその事をまったく気にしていない。ルディオの身元が判ればいいな、故郷が判明したらいいな、とは思っ

ているが、明らかに真っ当な「ヒト」ではないという事についてはさほど重要に考えておらず、血液型の違いや夜目が利く利

かないの延長のような、個性の違いの延長のように捉えている。だから気味が悪いとも、危なそうだとも、ちっとも考えない。

 ヤンやリスキーは、ルディオの「人格」を信用して信頼を置いている。だが、得体のしれない部分については緊張を解かな

い。そういう大人達の「信頼」とは質が違う「無条件の信頼」を、カムタはルディオに寄せている。この家で一緒に暮らすよ

うになり、一か月半経った今ではもう、すっかり家族としての生活になっていた。

 だが、ルディオは…。

(………)

 腕を揉んでくれている少年の、開けっ広げな笑顔を見ながら考えている。いつもと同じように。

 極端な話、自分自身は記憶がなくてもあまり困っていない。それなりにキッチリした社会性や法整備がなされている国など

では、身元が分からないだけで苦労するだろうが、この島では買い物も特にしないし、それに伴う身分の確認なども無い。

 混沌として無秩序という訳ではない。むしろその逆である。開放的で大らかで、大雑把ではあるが道徳的で、近代的に整備

された法が無くとも暮らしていける…。この諸島の人々の多くは、そんな国民性を心の深い所に宿した民なのである。

 病院にかかろうにも、ルディオには保険証すら必要ない。怪我は勝手に、しかもあっという間に治癒するし、そもそもヤン

以外には体を診て貰う気がない。

 衣食住はカムタとの共同生活で全てまかなえているので、買い物をする必要もまず生じない。

 ルディオ自身、のんびりした性分のせいか、自分の身元や過去が不明でも不安定にならない。 この島でのルディオは、記

憶が無くとも、身分証明がなくとも、金がなくとも、生活にはまるで不便しないのである。

 だが、それでも思う。

 早く、自分の正体が判らないかなぁ、と…。

 それは、自分のためというよりは、カムタのためだった。

 自分の中の「何か」が、カムタに危害を加えない事は判った。だが、自分が何者なのか判らない事には、本当の意味では安

心できない。

 少年に害があるか否か、影響があるか否か、それをはっきりさせたいが故に、自分が「何」なのかを知りたい…。

(おれは、「何」なんだろうなぁ…)

 チャプンと、湯船の縁で水音が生じる。

 覚えていないが、漂流中に耳が慣れたのか、ルディオの耳に、それは馴染み深い物として響いた。



「シャワーは終わったよ、どうぞ」

 柄物のバスタオルを腰に巻いた、まるでサモアの人々のような格好で部屋に現れた肥満虎は、椅子にかけて遠心分離機を見

つめていたアジア系の若者に声をかけた。

 その部屋は、ヤンの診療所エリアにあった物資保管庫を、秘密の仕事専用にした場所である。

 元々耐火構造になっており、空調もしっかりしているこの部屋は、扉も頑丈な上に声も外へ漏れない。生物兵器の死骸を一

時保管する保存カプセルや、組織サンプルを収容したり、秘密の打合せをしたりするのに向いている。

 そして今、この部屋のデスクでは遠心分離機が稼動している。

「では失礼して…」

 腰を上げたリスキーは、フェイスタオルで頭をグシャグシャと拭いながら歩いてきたヤンの、ムッチリせり出した腹に人差

し指を突きつける。

「おっふ…!」

 指先が分厚い贅肉に少し埋まり、ヘソの腋の比較的敏感な位置だったので腹膜が刺激されて妙な感覚が生じてしまったヤン

は、目を丸くして思わず声を漏らした。一拍おいて刺激が去り、肥満体の虎が一転して咎めるような目を向けると、微苦笑を

浮かべているリスキーは、虎が口を開く前に「また今日も、何て格好ですか?」とからかうように言った。

「普段の先生から見ればギャップが大きいですね。客が見たら卒倒しそうな格好ですよ?」

「自分は客だとでも?」

 軽口で返したヤンは、「男同士、いちいち格好を気にする事もないだろう」と肩を竦めた。

「ええ、まぁ…」

 応じるリスキーは、しかし少し嬉しい。

 本当の事は言えないし、ヤンも自分達の関係に気付いていない。だがそれでも、同じ屋根の下で寝食を共にしている内に、

当初は頑なだったヤンの態度は崩れ、良い意味で雑になっている。

「ですが、格好は勿論、このお肉は頂けないのでは?少し痩せないと恋人ができませんよ?ここしばらく、先生の食事の量も

甘物の摂取量も増えているようですし」

 意外と見ている物だな。と面白く無さそうに眉間に皺を寄せたヤンは、腹をプニプニつつくリスキーに、「どちらさんのお

かげで自棄食いするハメになっているんだろうな」と言い返す。

「これは耳が痛いですね」

「痛がっている顔に見えないが」

「私が我慢強いのは先生もご存知でしょう?」

「面の皮の厚さは、計るまでもなく把握しているがね。…それに、恋人など作るつもりは無い。独り身の方が気楽だ」

「おやそうですか」

 と、軽い口調で応じたリスキーではあったが、内心ではヤンの暮らしを案じている。

 彼の弟は、医師として優秀な腕を持っているようだが、医療と患者に関わる事以外には驚くほど無頓着な男になっていた。

 診療エリアは掃除が行き届いており、物品の整理整頓も完璧。その辺りは良いのだが、これが自分の事…特に食事の事にな

ると穴だらけ。面倒くさがって自炊しないので、ほうっておけば食事は冷凍のレトルト三昧。しかも食事の時間が不定期で、

一日に二食ドカ食いで済ませる日もあれば、深夜まで起きていて五食になる日もある。医者の不養生という言葉を体現するよ

うに、塩分も糖分も過剰に摂取しているし、食事量そのものも適正とは言いがたい。

 昔の弟の面影が完全になくなるほど肥えた理由を、一緒に暮らすうちにリスキーも痛感できた。

(まぁ、見慣れたら見慣れたで、丸っこい顔もなかなか可愛いものだが…。これでは嫁が見つからないだろう?身の回りの世

話をやいてくれるパートナーが何処かに居ないものか…)

 タールのように真っ黒く濁った、裏の世界の水にどっぷり浸った自分は、もう兄と名乗れないし、ずっと傍に居てやる事な

どできない。上司に無理を言って滞在しているが、事が済んだらこの島を離れなければならない。

 全てが上手く行ったら、もう弟と関わるべきではない…。そう考えるリスキーは、ヤンの暮らしを支えてくれる伴侶は居な

いものかと、ここしばらく考えている。

「…いつまでつついているつもりだ?」

 ヤンの声に、リスキーは物思いを中断させられた。

 その指は、考え中も延々とヤンの出っ腹をつついており、肥満虎は責められ咎められ馬鹿にされ続けている気分。

「おっと失礼。手触りが良いのでつい…」

 手を引っ込めたリスキーは、遠心分離機を見遣り、

「まだ終わりませんね?先にシャワーをお借りしますよ」

 と、弟とすれ違って部屋を出た。

 分厚い金属扉が閉じられ、部屋に独り残ったヤンは、脂肪がたっぷりついた自分の腹を見下ろし、肉を摘んでみて、軽くた

め息をついた。

「不摂生なのは、判っているんだが…」

 ぼやきながら作動中の遠心分離機を見遣り、医師は気を取り直した。

 装置にかけられているその中身は、ルディオの血液である。

 一ヶ月と少し前、この「仕事」が始まって間もない頃、獣は「仕事」中に負傷した。カムタに襲い掛かろうとした生物兵器

を、割って入って止めた拍子に。

 すぐさま反撃で仕留め、カムタにも怪我は無かった。骨まで達した獣の切創も、すぐに血液が凝固して出血を止めた。

 その後、正気に戻ったルディオの傷の具合を見る際に一度洗い流してしまったが、傷の異常な治癒速度を確認した後に、ヤ

ンはふと思い立って、凝固した血液の塊をサンプルとして採取した。

 傷の異常な治癒速度は、細胞だけでなく体液も関わっての事ではないかと推測して。

 そしてその結果、固形化した血の塊におこなった簡易パッチで、驚くべき事が判った。

 ルディオの血液は、通常のひとのソレとは、大きく異なっていたのである。

 それ以降、ヤンは様々な検査キットや試薬を取り寄せて、ルディオから採血したり、口内の粘膜や体毛を使ってテストをお

こなったりと、本格的な成分分析を続けている。

 ルディオの素性を大っぴらにできないので、専門機関は頼れない。文献を読み漁り、論文を取り寄せ、自力で調べていくし

かないので、早いとは決して言えない進捗速度だったが、それでもヤンの努力は実り、少しずつ判ってきている。

 ルディオの血液が最も近いのは、強いて言うならば、ひとのO型の血液と言える。しかし、成分のバランスや構成が大きく

異なり、決して「そのもの」ではない。

「アセトイン、エタノール、酢酸に酪酸…。そして、葉緑素…。これは、血液と言えるのか…?」

 半裸のまま椅子にかけて分厚いファイルを開き、判明した成分のまとめを読み上げて、ヤンは眉間を摘まんで揉む。

 流石に見た事も聞いた事も無かった。血液と樹液が混じり合ったような体液など…。

 ルディオの傷を覆っていた血の塊は、樹脂に似た固形化反応を示していた。骨髄そのものは確認できないが、血液の成分を

考えれば、造血システム自体がひとと異なる事は容易に想像がつく。

(外科手術で人工臓器や骨に換えるのとは訳が違う。どんな身体改造をしたらこうなるんだ?…最初からそういう生き物だっ

たんじゃないかと疑いたくなる…。あの常軌を逸した身体能力や不思議な力に加えて、傷があっという間に治るなんて、ほと

んど不死身…それこそ、シバの女王の御伽噺の、不死身の戦士のようじゃないか…)

 幸運だったのは、この力と体質を持っているのがルディオだという事だろう。危険な思想や欲を持った者が、ひとには過ぎ

たあの力を身に宿したならば、一体どうなるか。

(意識が無い間ですら、ルディオさんはむやみに周囲へ危害を加えない。あの力の行使は、あくまでも彼自身とカムタ君の防

衛、そして危険と認識した存在への先制攻撃に留まる。加えて言うなら、衝撃波を発生させる不思議な力も必要最小限しか使

わない…)

 案外、継続使用は難しいというだけの事なのかもしれないが、何にしても、あのセントバーナードだからこそ、あの力は比

較的安全な状態にあると思えた。

 そして肥えた虎は、顔を起こして遠心分離機に目を向け、ため息をついた。

「まるで、ゴルディオンの結び目だな…。何もかも判らな過ぎる…」