Childhood friend

 セントバーナードは屋外の台所脇でテーブルにつき、二色刷りの観光パンフレットをトルマリン色の瞳に映していた。

 カムタに同行して朝のまだ早い時刻から食料を集め、帰ってきて朝食を摂る。それがいつもの一日の始まり。

「ほっ」

 かなり大型のフライパンを、手首のスナップを利かせて軽々と上げて、炒めていたガーリックライスを舞わせて混ぜるカム

タ。火が近い事もあり、裸の上半身に油跳ねを防ぐためのエプロンを直接着けている。剥き出しになっている褐色の背中を、

時折透明な汗がツツッと伝い落ちてゆく。

 竈と向き合っている少年を横目に、食事の出来上がりを待つ長閑な朝。記憶は戻らず、他の何とも比べられないが、ルディ

オは食事その物は勿論として、出来上がりを待っているこの時間も好きだった。

 いま目を通している全8ページに折り込まれた縦長のパンフレットは、リスキーに貰った物。この島で刷られたパンフレッ

トではなく、近場の比較的賑やかな島…リスキーが部屋を取っているホテルに置いてあった品である。

 観光の見所を中心にした内容で、海水浴ができるビーチやスキューバの見所、沈没船が見られるダイビングスポットに、特

産食材や地元の名物品が簡単に纏められている。諸島の航空写真を使った表紙を一枚捲った裏側には、マーシャルの簡単な歴

史も記してあった。

 ほんの十数行に纏められた、文字を詰めたりも小さくしたりもしていない短い年表が、マーシャルの近代史における全てで

ある。

 ルディオはそれを目で追いながら、自分が得た知識を反芻した。



 ここマーシャル諸島は、南洋の島々の多くがそうであるように、数奇な統治体制の変遷を経て現在に至った。

 この諸島の一部に伝わる、極めて限定的な口伝によれば、外海を彷徨って流れ着いた民を不憫に思ったシバの女王が、燃え

滾る火の山を海の底に沈めて冷やし、サンゴに命じて陸を作らせ、ひとが住める島を作って行った…。それがこの諸島の起源

だとされている。

 実際に、海底火山の火口周りに珊瑚礁が生まれ、それが陸地となる事で「真珠の首飾り」と呼ばれるこの諸島が形成された

事は、地質調査により明らかになっているため、地質学も無い時代に成立したお伽噺にしてはいささか奇妙な符合だが…。

 とはいえ、シバの女王なる者やその国家の存在を裏付ける遺跡群や記録は一つも見つかっていないため、その創世神話的な

話を含めた逸話群は、全て御伽噺の類と考えられている。

 諸島の文化が形成されたのは、およそ二千年ほど前とされている。が、詳しくはよく判らないというのが実情。というのも、

大航海時代に発見され、外文明との接触が生じるまで、この諸島には確たる名前はおろか文字も存在しなかったのである。

 この諸島と外世界との接触は、判明している限りは大航海時代の事となる。スペインの船による発見の後、同国が領有を宣

言するも…、あまりにも遠過ぎた諸島は実質的に放置され、西洋諸国から忘れ去られる。

 後に英国が再発見するも…、結局入植も支配も行われず、名前がつくだけに留まった。その際に発見した英国人船長の名が

そのまま国名となった「マーシャル」だが、住民達がおおらかなのか、細かい事…と言うにはやや大きな国名問題に関して、

地元由来の名などに改名しようという動きも現在まで皆無。

 この後も様々な船団が訪れ、一応は植民地政策を受けるものの、島民達の生活実態は急進的な変化を遂げることも無く、の

んびり、ゆったり、西洋文化を吸収し、馴染ませて行った。

 さらに後には、ドイツが買収を経て保護領とするも、生産拠点として工業が軽く根付いた後に、第一次世界大戦の終戦を経

て放棄。

 それからは、第一次世界大戦で占領した旧日本軍が、そのまま国際連盟から委任を受け、一時期委任統治領扱いとなるが…、

外地過ぎたのか風土が違い過ぎたのか、実効支配性は乏しく、拠点として活用されただけ。

 この後は、太平洋戦争でアメリカが占領し、信託統治領となる。

 そして前世紀末に、信託統治が終了して正式に独立国家となった。

 公用語はマーシャル語と英語だが、部分的に日本語も根付いており、年寄りには日本語が堪能な話手も多い。英語のほかに

もドイツ語や日本語由来の固有名詞なども残っている。

 こうして元々の独自性溢れる風習に、様々な異文化が流れ込んで加わり、いくつもの大国先進国、そして世界情勢に翻弄さ

れた末に、今の共和国が出来上がった。

 つまり、通貨はUSドルの経済的に見れば通年赤字のミニ国家で、子供たちが砂浜で相撲を取り、青年たちがラグビーに熱

中し、大人たちが漁で胃袋を満たし、企業主がレジャーで収益を上げ、ファーストフード店はバーガーと巻き寿司とラーメン

を提供し、港湾は世界有数の船籍を保有する南の島々…という、文字列にするとなかなかに混沌として、実態をイメージし難

い、現在のマーシャルが…。



 セントバーナードはパンフレットの裏面まで読み、もう一度裏返して表紙を眺めた。

 ルディオはカムタやヤンに教えられる形で、この諸島の歴史や風習を学んでいる。島民達との話題に困らない程度の知識は

既に得ており、事前に勉強してきたリスキーも、飲み込みの早さと暗記力に驚いていた。

「アンチャン、できたぞ」

 台所の火と向き合っていた、プックリ真ん丸い少年が皿を運んでくると、ルディオはパンフレットをテーブルに置き、腰を

浮かせて食事のセッティングを手伝い始めた。

 マーシャルの料理は、その特徴として豪快さと量の多さが挙げられる。素材の味を活かし、かつ手間がかからない物が好ま

れるため、豪快に丸ごと焼いたり蒸したり煮込んだりする料理が多い。体格がよく、それに見合った食欲もまた旺盛な民なの

で、パーティーや会合で豚を丸ごと一、二頭供するような、その度を越した量もまた特徴。

 カムタが作る食事もその例に漏れず、毎回かなりのボリュームがある。

 白米を刻んだニンニクと合わせて炒めたガーリックライスは、ニンニクが強く効いたピラフのような物。そこに混ぜられた

ピメンタ…ここマーシャルでは馴染みの香辛料である唐辛子の一種が、ピリリと味を引き締めて食欲を誘う。

 主菜はバナナの葉に包んで蒸し焼きにし、レモンで酸味を利かせた白身魚。パンの実のココナッツミルク煮込みは、サツマ

イモのミルク煮にも似て、ホクホク柔らかくて甘い。

「珍しい調味料とか出てたら欲しいな。作れるモンの種類も増えるし…。でもやっぱ一番はニワトリだ。タマゴ料理好きだろ

アンチャン?余ったゲンキンはテシーに渡して、電話の支払いに使って貰って…」

 ガーリックライスを掻きこみながらカムタが語るのは、今度開かれる市で得られる現金を何に使うかということ。

 最優先は食生活の質を高められるニワトリの購入である。この島で飼育される家畜は、主に鶏と豚。豚はともかく、鶏は放

し飼いでも勝手に餌を得て来るので手間がかからない。

 調味料は他国で生産されている物も市に持ち寄られるので、珍しい物を手に入れるチャンス。

 それから電話代の支払い…。

 防衛隊を結成した後は、今後は何かと必要になるだろうとの想定から、父が亡くなった後に契約を解除していた電話を再開

通させた。手続きやFAX兼用電話機の設置諸々はテシーに手伝って貰ったが、カムタ自身は仕組みも活用方法もチンプンカ

ンプンである。その代金支払いは、テシーが各種料金を他島の銀行へ払い込みに行く際に、水道や電気代諸々とあわせてつい

でにやって貰っている。何せ少年は銀行での支払い方法自体がよく判っていないので。

 一方でルディオは、例の「記憶と別の記録のような知識」によって、電話とFAXの仕組みやら配線やら使用方法やらを理

解して、逆にカムタへ教えてやれるほど詳しかった。

 ヤンとリスキーは、ルディオが記憶を手繰る手がかりになればと、ノートパソコンと様々な学習用ソフトを贈るつもりでい

る。が、念には念を入れて、様々な逆探知を防げる物を準備するようで、ヤンとリスキーがそれぞれ使う物も含め、リスキー

のつてで非合法業者に改造品の製作を依頼中。

 いま彼らが使用している無線機器もその業者に製作された物で、四人が共有する通信機間でしか繋がらない一方、高度に暗

号化された信号でやり取りするため、盗聴や傍受等には滅法強い。また、塩や砂にも強く、かなりの衝撃や熱にも耐えられる

のも持ち味である。

「パーソナルコンピューターなー。オラにも使えっかな?」

 カムタは年頃の男の子らしく、ハイテク機器が好きである。我が家にパソコンが来ると聞いてウキウキしているが…。

「楽しみだなアンチャン!」

 声をかけたカムタは、そこで初めて気がついた。

 テーブルを挟んで座るセントバーナードは、手が止まっている。そしてその瞳の色は…。

(狼の目…!?まさか!?)

 表情を引き締め、素早く腰を上げるカムタ。

 同時にのっそり立ち上がり、琥珀色に変じた瞳を敷地海側の出入り口へ向ける獣。

 生物兵器が接近しているのかと、投網発射用の抱え筒を保管している母屋の玄関を一瞥し、距離を確認してから獣の視線を

追ったカムタは…、

「…あれ?」

 微かな、しかし隠すつもりも無い足音を土に残して、庭に入ってきた少年の姿を瞳に映し…。

「…あ!」

 カムタと目が合った途端、犬族の少年はパッと顔を輝かせた。

「ハミル!」

 小麦色の少年が大きな声を上げ、喜色満面の笑顔で訪問者の下へ駆け出した。

 途端に、獣の目を染めた琥珀の色が褪せ、トルマリンの輝きが戻り、巨漢が「ん?」と首を傾げる。

 柄のないライトイエローのシャツにデニムの短パン、サンダル履き。格好はこの島の子供らと変わらない。無数の貝殻を加

工して紐に通したネックレスをつけており、シャツの襟元で宝石のような何かが光って、チカリとルディオの目を刺激した。

「やぁ!久しぶりカムタ!元気してた?」

 片手を上げた、白地に黒いブチがある犬の少年は、

「わっふ!?」

 駆け寄ったカムタに、タックル気味に捕まって抱き上げられ、息を詰まらせて目をまん丸にした。

「あっははははは!久しぶりだハミル!何で帰って来るって教えなかったんだよ!」

 来訪者の腰に両腕を回して軽々と抱え上げたカムタは、その場でグルグル回って喜びを全身で表した。

 犬の少年はカムタと同年代と見え、標準的な背丈に加え、南国の海育ちらしい筋肉がしっかりついた体型なのだが、小麦色

の少年が太過ぎてパワフル過ぎて、まるで小柄な子供のように振り回されている。

 大喜びしているカムタと、抱き上げられて笑う犬を眺めながら、ルディオはスンスン鼻を鳴らす。

 白い体躯に黒いブチ模様がある犬の獣人…。訪問者はテンターフィールドの少年である。

 ルディオは、これまでに遊びに来た事があるカムタの友人の子供達の顔を全て覚えているが、その中には混じっていなかっ

た。間違いなく初めて見る顔なのだが、セントバーナードは潮風が運ぶ少年の匂いに、知っている人物の体臭を重ねる。

(テシーと似た匂い…、だなぁ?)

 それもそのはず。その訪問者はテシーの血縁者…実の弟であった。



「へぇ。テシーさんの弟さんが、ですか?」

 岬の崖上に建つヤンの診療所兼居宅、海側のウッドテラスで、リスキーはココナッツジュースのグラスを取りながら興味深

そうな顔になる。

 太陽が昇り切るにはまだ猶予がある時間帯。心地良い潮風を浴びながら、しかしそれでも既に汗が滲み始めているシャツを

摘み、襟元から風を入れている肥えた虎が「ああ」と頷く。

 手にしたパイプから微かに昇る紫煙はたちまち風に連れ去られて、帯を成す前に消えていた。

「カムタ君とは同年代の子供らの中でも特に仲が良い同士だ。今回滞在できるのは三日…いや、三日目の朝には島を発つそう

だから、実質二日だけになるだろうが…。かなり久しぶりの帰郷だから、カムタ君もさぞ喜ぶだろう」

「という事であれば…、例え「何かが見つかった」としても、坊ちゃんには声をかけずに処理するべきですね」

 リスキーの言葉に、ヤンは眉を片方軽く上げた。意外そうな顔になった虎に、アジア系の青年は「何ですか?」と聞き返す。

「いや…、話が早くて助かる。そう提案しようと思っていたところでね」

 パイプを咥えながら、ヤンは視線を上に向けた。

(うぅ~ん…。過ごす時間が多くなって来たから、気が緩んでこう思っているだけなのかもしれないが…。存外この男は話も

判るし、人情も解するんだよな…)

 非合法組織の殺人者である事には変わりないのだが、そもそも殺しはビジネスの中での手段。利害と無関係な無茶はしない

し、普段はむしろ目立たないように一般人同様の行動をしているので、危険は殆ど無い。突発的に「変化」するルディオの方

がまだ危なっかしいと言える。

 犯罪者ではあるが、それなりに信用できる。リスキーについてそう考えてしまうのは、既に自分がまっとうな世界に生きて

いないからなのだろうか?

 そんな物思いに耽っていたヤンは…、

「今朝の段階でも、新しい情報は入っていませんね」

 リスキーが口にした言葉で耳を震わせ、現実に意識を向け直す。

「夜行性タイプの習性を考え、危険を承知で夜間捜索をおこなったチームがあるようなんですが、空振りだったようです」

「夜間に?洋上で光でも灯して、魚でも集めるようにおびき出すのか?」

 冗談めかして言ったヤンは、

「鋭いですね先生」

 リスキーが感心して膝を打つと、思わず口をあけ、ポロリとパイプを落としてしまった。

「ほ、本当にそうなのか!?漁火のように!?そんな真似をしたら怪しまれてしまうだろう!?」

 しかしリスキーは涼しい顔で「ああ、ご心配には及びません」と、落ちたパイプを拾い上げ、ヤンに差し出しながら応じた。

「誘導光作戦には、人の目には認識できない、特定のインセクトフォームを引き付ける波長の光が使われます。もっとも、タ

イプ毎に有効な各種の特殊光を作り出して、かつ遠方まで投射できる投光機は非常にデリケートかつ大型の代物でして、こち

らで使用する物は手配できなかったのですが…。済みませんね先生」

 ホッとして脱力したヤンは、「…いや、こっちで使えないのは別に構わない…」と小さく首を振り、パイプを咥え直す。

「生き物に関しては、そうやって習性などを利用しておびき寄せる手段もあるか…。物品に関してはそうも行かないというの

が困るところだな」

「ええ。もっとも、流出品はひとの手に渡らなければ問題ない代物ですし、例え拾ったところで扱い方がまず判らないでしょ

うから、生物兵器ほど直接的な危険性はありませんがね。なにより水に浮く物でもないので、永久に海底のオブジェのままと

いう可能性も高いです」

 リスキーの言葉は無意識の内に、弟を安心させようとするが故の希望的観測に基いた物になっている。それを知らないヤン

は、客観的な見解として受け止め、少し安堵しながら訊ねた。

「例えば、もし流れ着いて海岸に落ちていたとして、見てすぐに判るのか?」

「微妙ですね。ただ、誰かが目にしたなら、拾われる可能性はあります。何せ見た目は…」



 襟元でシャツに半分隠れた琥珀色の石を一瞥し、ルディオは少年の顔へ目を移す。

 並んで座るカムタとルディオと、テーブルを挟んで向き合う格好で席についたテンターフィールドの少年は、懐っこい笑顔

を見せていた。

「オラの幼馴染なんだ」

「朝食中にお邪魔しちゃって済みません」

 少年はカムタに紹介されて、タイミングが悪かったなぁ、と少し決まり悪そうな苦笑いを見せた。

「ハミル・ロヤックです、はじめまして!ルディオさんの事はテシー兄さんから聞いてました。話を聞いて想像してたのより

ずっと大きくて、ビックリしちゃいました」

 少し恥かしそうだったが、テンターフィールドの少年は初対面のセントバーナードへ丁寧に自己紹介する。

 ハミルはルディオについて「カムタの親戚」と、兄のテシーから聞かされていた。初耳だったので驚いたが、特に素性を疑っ

てはおらず、どんなひとなのかなぁ、という事がまず気になっていた。

「ルディオだ。カムタからは、そんなに詳しくじゃあなかったが、何回か話を聞いた」

「え?オラ話したっけ?」

 挨拶を返すルディオは、不思議そうな顔になったカムタから問われると…。

「名前は初めて知ったなぁ。でもカムタが時々「テシーの兄弟の」と話していた友達は、この子の事なんだろう?」

「あ~…。それであってるよアンチャン。そういう風に話したのは全部ハミルの事だ」

 応じてカムタが笑う。その嬉しそうな笑顔は、今日まで共に過ごしてきて、ルディオが初めて見る物だった。

 特別仲が良い友達なのだろう。ルディオはそう察して…。



「………」

 十数分後、朝食を平らげたセントバーナードは、カムタの家を出て周辺をうろうろしていた。

 しばしカムタの家を中心に、キョロキョロしながら円を描くように歩き回り、やがていつも魚や貝類を獲りにゆく岩場へと

向かう。

(さっき、一回意識が飛んだんだよなぁ…)

 近くに「何か」が居るのかもしれないと考えたルディオだったが、あれ以降は意識が飛ばないし、特に怪しいと思える物も

見つからない。ひょっとしたら、馴染みの無いハミルの足音などに反応してしまっただけかもしれない、とも思えるのだが…。

(せっかくカムタの大切な友達が来ているんだから、何も起こらなければいいよなぁ?)

 用心するルディオは分厚い胸に手を当てて、自分の中に居るはずの獣へ、心の中で語りかける。

 相変わらず、自分の意識を奪って表出してくる獣の正体は判っていない。だが、ソレがカムタへの害意や敵意を持たず、そ

の身を守り、言う事をきく事だけは判っている。

 だからルディオは、身の内に潜む獣はカムタの味方であると考え、とりあえずはそれで充分だと思っている。

(そうだ。先生とリスキーにもカムタに客が来ている事は言っておいた方がいいよなぁ?何か起きても、カムタ抜きで対処し

ようって話して…)

 そんな事を考え、ヤンのところへ向かおうと足を止めたルディオは、

「ん?」

 垂れ耳を動かし、首を巡らせて一点を注視した。

 パンダナスの木立ちの、細く狭い隙間越し。民家の庭先で夫婦と思しきふたりが揉み合っている。かなり遠いその現場を、

セントバーナードの目は鮮明に捉えていた。

(アプアさんと奥さん…。何してるんだぁ?)

 その夫婦はルディオも顔見知りで、カムタの友達の親である。

 夫は漁師で、細腰の妻を溺愛している。魚をさばくのが上手い。特に刃物の手入れの腕前は評判で、テシーもカムタも研ぎ

方を習った事があると聞いていた。

 よくカムタに調味料を分けてくれる妻も夫にベタ惚れで、夫婦仲は度を越して良く、ご近所からは万年新婚夫婦とからかわ

れたりする。

 ルディオが聞いたのは、その妻が上げた悲鳴だった。

 夫婦喧嘩か?あの仲の良い夫婦が?と一瞬疑問に感じた巨漢だったが、どうにも様子がおかしい事に気付く。

「やめてぇ!やめてあなた!放して!」

 夫の手には、朝の陽光を鋭く反射する包丁。それで妻を襲っている…わけではない。一度はそのように誤認しかけたルディ

オだったが、夫が握る包丁は己の首に押し当てられており、妻は縋り付いてそれを止めようとしていた。

 首以前に顔にも刃を当てたのか、夫の顔は切創だらけで血まみれ、特に右頬は傷の密度が高く、数がおかしい魚のえらのよ

うに切り傷が並んでいる。婦人は包丁を手放させようとしているが、夫の力にはかなうはずもない。

 常人の視力、聴力ではありえないほどの距離からそれを把握したルディオは、

「あああ…。自殺しようとしてるのかぁ?あれはまずいなぁ」

 ドスドスと走って、夫婦を止めに向かう。

「やめて!落ち着いてあなた!」

 金切り声を上げ、泣きながら腕に縋る妻だが、しかし夫はマーシャルの漁師。ポリネアシア系の骨太な大男で、筋肉の塊の

ような体をしている。首筋に刃物を当てた右腕は、妻が両手と体重をかけてなお、じりじりと皮膚と肉に分け入って、動脈へ

刃を迫らせてゆく。

 奇妙な事に、左腕はぶらりと下がったまま。そもそも妻を振りほどこうともせず、望洋とした目で、恍惚の表情を浮かべ、

刃物を握る腕にだけ力を込めていて…。

「あなたぁ!誰か助けて!このひとを止めてぇーっ!」」

 自分が目に入っていない夫へ呼びかける妻が、幾度目か助けを求めたその時…、

「アプアさん。何してるんだぁ?」

 不意に、救いの手は差し伸べられた。場にそぐわないほどのんびりした、太く低い声と共に。

 ハッと目を見開いた妻は、脇から入って夫の腕を掴み、首から刃物をたやすく遠ざけた大きな右手を凝視する。そして太い

腕を辿ってその主を見遣り…。

「る、るでぃっ…!」

 たちまち目から涙が溢れ出る。愛する者の命の危機、何が起きているのか理解できない混乱、精神が極限状態にある若妻に

頷きかけて、ルディオは彼女の夫の腕を力任せに引き離した。が…。

(んん?)

 巨漢は眉根を寄せる。

 自殺を阻まれた夫は、顔をくしゃくしゃに歪めて、首から離された自分の手を、そこに握られた包丁を見つめた。その目か

ら、ポロポロと大粒の涙が零れる。

「「しあわせ」…」

 髭面の逞しい大男が呻いて浮かべた、大切な玩具を取り上げられた子供のようなその表情に、そして邪魔をされてもなお暴

力などで排除をおこなおうとしないその態度に、ルディオは強烈な「異物感」を覚えた。

「「しあわせ」…。おれの「しあわせ」…」

 うわ言のように繰り返す男。

 もはやルディオには、男の目的が自殺とは思えなくなった。自殺するつもりであれば、邪魔をする者を払いのけようとする

だろうが、男はそうはしない。ただ、離された包丁をまた首へ当てようと、腕に力を込めるだけ…。

 ルディオの腕力であれば止めておくのは容易いが、危険な物を遠ざけておくに越したことはない。

 セントバーナードは右手で掴んでいる男の右腕を引き、体勢を崩させて前傾させ、腕を脇に抱え込む格好になる。

 そうして手馴れた動作で立ち関節技に移行しながら、ルディオは自然に動く自分の体に違和感を覚えるも、考えるのは後回

しにし、白くなるほど力を込めて包丁を握っている男の指を無理やり開かせ、手放させる。そして、地面に落ちた包丁の柄を

蹴り、木立の中へ飛ばしてやった。

「…あ?」

 不意に漏れた声は、ルディオの背中側。

 腕を極められている男は、血みどろの顔をきょとんとさせ…。

「いだっ!いだだだだだだだ!腕!腕が折れる!」

 初めて痛みに気付いたように、大声で悲鳴を上げた。

「あ、あなた…?正気になったの!?」

 顔を覗きこむ妻。戒めを解くルディオ。開放された男は…。

「おお痛ぇ!ルディオさん!?いきなり何すんだよアンタ…、ん?」

 顔がズキズキ痛んでいる。どうしたのだろうか、と手で触れた男は…。

「痛っづあぁあああああああああっ!顔いでぇえええええええっ!」

 肉が覗くほどの切創だらけになった顔の激痛で、悲鳴を上げた。

(んん?何なんだぁ、これ…?)

 ルディオは困ったような顔になって考え込む。

 憑き物が落ちたように正常な反応を見せる夫。慌てて母屋へ包帯と薬を取りに行く妻。

(何が起こっていたんだろうなぁ?)

 セントバーナードは首を巡らせ、見遣る。

 木立の中、下生えの草に埋もれて見えなくなった、包丁がある方向を…。



(さて、これはどういう事だろうな…?)

 アジア系の青年は、締め落とした少年の背中を見下ろしている。

 岩場を見下ろす崖の、上から少し下にある岩棚。落ちたらただではすまないそこから、飛び降りようとしていた少年を…。

(坊ちゃんの友達だったな?確か、アプアという家の子だったはず…)

 視線を周囲に走らせ、誰にも見られていない事を再確認してから、眉間を揉んで考え込むリスキー。

 顔を知っている子供である。カムタの遊び友達の一人で、フォームが格好良い飛び込み名人だという話を聞いた事があった。

この島の子供らしい、活発で懐っこい性格だったが…。

 日課のパトロールに出たリスキーがこの少年を見つけたのは、数分前の事だった。

 スキップするような軽い足取りで、上機嫌にやってきた男の子は、顔見知りのリスキーと挨拶を交わしてすれ違い…、その

まま崖に突進して行った。

 リスキーが、すれ違った少年の恍惚とした表情に違和感を覚え、振り返らなかったら、少年は誰にも見られずに崖から転落

していただろう。

 少年が崖の上から跳んだ瞬間、リスキーは肉食獣のように身を翻し、疾走した。そして運よく2メートルほど下の岩棚に落

ちていた少年を見下ろし、大丈夫かと呼びかけたが…。

(無視。…というより、声が聞こえていないようだった。うわ言のように繰り返すだけで、返事もしなかった。何かの薬でも

やったように…)

 丸々肥っているカムタと比べればマシだが、かなり筋骨逞しい少年である。制止を聞かず、岩棚から改めて跳ぼうとする少

年を羽交い絞めにしたリスキーは、やむなくスリーパーホールドで締め落とした。

 その状態で、リスキーは聞いた。

 しあわせ。しあわせ。と、少年が意識を失うまで繰り返した、気味の悪い呟きを。

(自殺…にしてはおかしい。思い返せば抵抗もなかった。ただ…)

 リスキーは難題に顔を顰める。妨害への抵抗がなく、ただ実行しているだけ。少年の行動はそのようにも思える。

(とにかく、シーホウの所へ連れて行こう)

 眠らせただけだが、このまま放置はできない。リスキーは体つきも逞しい少年を苦労して背負い、さっき後にしたばかりの

診療所へ引き上げる。



(さて、これはどういう事だろうな…?)

 診療所側出入り口の前で、肥えた虎は顔を顰め、リスキーと、彼が背負ってきた気絶している少年の顔を見比べる。

「いや、仕方なく、ですよ?そんな怖い顔をしないで下さい」

 簡単に説明したリスキーは、医師の渋い顔を見て付け加えた。しかし…。

「話は判った。とにかく、いま中に入れるのは少しまずい。リビングに運んでくれ。そっちにルディオさんも来ている」

「え?何故リビングへ連れて行くんです?」

 診察しないのか?と眉根を寄せたリスキーは、

「今、傷を負ったその子の父親を手当てして、診察台に寝かせている。…自殺しようとしているところを、ルディオさんが止

めたらしい」

「!?」

 ヤンの言葉で目を大きくし、肩に乗っている少年の頭を見遣った。



 一方その頃、カムタの家の庭…台所脇のテーブルでは、カムタとハミルが話に花を咲かせていた。

「そっか。いろいろ大変なんだな、立派な学校でも」

「まあね。僕はまだいいよ、そこまで成績落ちてないし、余裕ある方だから」

 ヤンから分けてもらったオレンジジュースを啜りながら、カムタは「ふ~ん…」と相槌を打つ。

 ハミルは昨年の春から他所の比較的近代的な島の学校に入っている。学費も高いが、先進国の都会の学校と同水準の教育が

受けられるそこは、いわば学力が高いエリートが集まる学校だった。

 そこでの生活は、実はあまり楽しくないのだとテンターフィールドは言う。

「何から何まで順番だよ。学力、点数、順位が全部。友達なんてそうそう作れない、周りはみんな競争相手でさ…。しかも周

りに遊べる場所が多いから、そっちの誘惑で勉強がおろそかになっちゃう子も居るし」

 流石に都会とは違うが、ビルもホテルもショッピングモールも、娯楽施設もある島である。勉強のためにその学校へ進みな

がら、しかしエリートが集う学校内で思うような順位になれず、学力がつかない子供は、ついついその誘惑に乗ってしまう。

そして、軽い憂さ晴らしのつもりが、のめりこんでいってしまったりもする。

 ハミルは幸いにも順位は上の方で、授業にも苦労せずついて行けるだけの勤勉さと賢さがあり、身を持ち崩したりはしてい

ないが…。

「カムタと一緒に授業を受けてた頃の方が、ずっと楽しかったし、しあわせだったよ…」

 ため息をつくハミル。想像もつかないが、あまり楽しそうな学校ではないなぁと、同情するカムタ。

「それでさ、時々考えちゃうんだよね。しあわせって何だろう?とか…」

 ハミルが少し身を乗り出した。ねぇ、カムタはどう思う?と問うように。

 その胸元で、ネックレスの石が揺れて光る。

「幸せかぁ…」

 カムタは少し考える。自分は幸せなのか?と。そして…。

「うん。オラは幸せだな。毎日」

 ニカッと歯を見せて笑う。

 ルディオが居る。家族ができて幸せだと思う。

 テシーが居るしヤンも居る。リスキーだって居る。友人が、頼れる大人が、仲間が居る。

 両親が居ないので苦労はあるのだろうが、それが普通になってしまっているので不幸とは感じない。むしろ、家や家具、生

活の知恵、そして思い出など、残して貰えた物は充分あると思っている上に、手持ちが少ない中で日々の恵みと楽しみを見つ

けて生きているので、毎日が得る物ばかりの幸福な人生だと感じている。

「そっかぁ~」

 座り直したハミルは、カムタの答えに納得もしているようだった。訊くまでもなく、カムタはそう言うヤツだったよなぁ…、

と幼馴染の性格を再確認したような顔である。

「ハミル、そのネックレス新しいのだな?」

 カムタは光の反射に目を止めて、テンターフィールドの胸元を覗き込んだ。

「うん?ああ、石は新しいよ。っていうか石だけね。帰って来る途中の島で拾ったんだ。浜に落ちてた」

 里帰りしてくる途中、船を乗り継ぐ中継の島で拾ったのだと説明しながら、ハミルは胸元からそれを引っ張り出した。

「船の中で暇潰しに弄ってくっつけたんだ。だから金具が雑~!」

 カラカラ笑うハミルが摘んで見せているペンダントは彼の趣味…手作りの品である。貝殻を石で擦り、磨耗させて数ミリの

棒状に形を整えた物を紐に通して作るのが常なのだが、いま身に付けている物は、中央から琥珀色の石がぶら下がっている。

 小指の第二関節ほどまでの大きさと太さで、水晶の結晶のような角ばった六角柱。琥珀色はかなり濃く、厚みがある中心付

近は黒ずんでいて、完全には透けていない。ハミルはその石をクリップをほぐして作った簡易金具でペンダントにつけていた。

「へぇ…。宝石みてぇな綺麗な石だな」

 カムタはその石にじっと視線を注ぎ、軽く眉根を寄せる。

(リスキーが言ってた、船から出た行方不明の危ねぇ道具とは違うよな?水晶みてぇな透き通ったヤツで、トクシュなデンパ

とかシンゴウとかで爆発する武器、…って言ってたし…)





「で、要点を纏めると、だ…」

 自傷に及んだ男の手当てを終え、眠っている彼とその妻を診療室に残したまま、肥った虎は腕組みして難しい顔。

 リビングのテーブルには、夫妻を連れてきた後、そのまま待機していたルディオが向き合う格好で同席している。

「自宅で自ら包丁を取り、顔に多数の傷をつけ、首を切って自殺しようとした…と思われた父親。その息子もまた、その少し

後の時刻に崖から跳んで自殺を試みた…と思われた」

 ヤンの言葉は歯切れが悪い。というのも…。

「両者とも、自殺しようとしたように見える状況だが…、しかしそんな意思は無かった。アプアさんは自傷した事を覚えてい

ない。むしろ自分が傷だらけになっていた事に混乱している。息子も同様で、自分が飛び降り未遂した事も知らない…」

 ルディオはちらりと、半分引かれた椅子二つを見遣る。

 そこには少し前までリスキーと、彼が保護した少年が座っていた。

 意識が戻った少年は、何故あんな真似をしようとしたのだ?というリスキーの問いに答えられなかった。何を言われている

のか全く判らなかったのである。

 家を出て、遊びに行こうと歩いていて、気がついたらこのリビングで寝かされていたというのが少年の主張だった。

 やがて治療が一段落したヤンが顔を見せ、リスキーから小声で状況を説明され、本人には「熱中症か何かでフラフラになっ

ていたのだろう、崖から落ちそうになっていたそうだ」と説明し、冷たい物を飲ませて帰らせたが…。

「また何かあっても困るが…、リスキーが見張っている間はとりあえず大丈夫だろう」

 ヤンはテーブルに肘をつき、トントンと指で叩く。帰らせた少年の動向は、リスキーがこっそり追跡して監視している。万

が一また少年が飛び降りようとしたら、再び締め落として連れて来る事になっていた。

 父親はあの状態で、母親は混乱しきっている。今これ以上の負担を与えるのはまずいとヤンは判断した。

「アプアさんの血液は採取したが、異常は確認できていない。だいたいクスリに手を出すひとじゃあない。息子だってそうだ。

そもそもこの島に薬物汚染はない」

「みんな金を持ってないもんなぁ」

 ルディオの感想に「その通り」とヤンが顎を引く。

「同じ南国でも、観光客でごった返すような場所ならともかく、こんな辺鄙な田舎の島に来たってバイヤーは儲からないな」

「クスリじゃあないが、「毒」はどうだろうなぁ?」

 ルディオが知識を参照し、食すと幻覚を見る茸などを口にした可能性について訊ねると、肥った医師は首を横に振る。

「食材が傷んでのカビ毒についても疑ったんだが…、そういった反応もなかった。奥さんにも聞いてみたが、普段と同じ物し

か食べていないそうだ」

「原因がさっぱりわからないなぁ」

「ああ。判らない」

 そしてふたりは『でも』と口をそろえた。

「同じ家族だなぁ」

「ああ、何か共通点があるはずなんだ。同じ家、同じ家族、同じ食事…。何より、「症状」が酷似している。「状況」は大き

く違うのに、「症状」だけは…」

 ヤンは大きく息を吸いこみ、深く吐く。

「包丁で自傷。崖から飛び降り。そのどちらもが、自覚の無い、無意識の内に実行しようとした自殺…」

「そういえば、呟いていた事も同じだなぁ」

 ルディオがその事に言及すると、

「…こういう状況で聞くと、なんとも不気味に感じられるな…」

 ヤンは盛大に顔を顰め、指先でヒゲを弾いた。

『「しあわせ」…』

 重なったふたりの声は、冷房が懸命に働いているリビングの雑音に紛れて消えてゆき…。



「「しあわせ」…」

 診療室に、声が篭る。

 寝台の上、麻酔が効いて眠っている男の包帯に覆われた顔を、その妻がじっと見下ろしている。

 望洋とした眼差し。恍惚とした表情。

 そのしなやかな指が、包帯に覆われた夫の顔に伸びて…。

「わたしの、「しあわせ」…」