Happiness
「もうじき麻酔が切れる頃だ。そろそろ様子を見に行こう」
「奥さんも落ち着いた頃かなぁ」
「…さあ。ショックは大きかっただろうがね…」
虎とセントバーナードは、診療台に寝かせた患者とその妻の様子を窺いに、リビングの席を立った。
夫が取った異常行動についての考察はまだあまり進んでいないが、実際に怪我をした患者がそこに居る。手当てを終えない
事には他に手をつけられない。
「ルディオさん。悪いんだが、念のためにふたりの帰り道に付き添ってやってくれないか?出血量はそれなりだ、アプアさん
がキツそうなら肩を貸してやって欲しい」
「判った。様子見もした方が良いかなぁ?」
「そこが問題なんだ…」
廊下を歩きながらヤンは視線を上げる。深く思案に暮れた困り顔である。
「見張るならリスキーが良いだろうが、あっちはあっちで息子を監視中だ。ルディオさんは目立つからな…。いっそ、「旦那
が怪我をしては何かと不便だろうから夜まで居る」とか、そんな口実をつけて堂々と傍に居たほうが良いかもしれない。僕の
方から「付き添いが居たほうが良い」と話を持って行こうか」
「そうだなぁ。隠れて見守るよりも、その方が楽だなぁ」
そしてふたりは口を閉ざす。会話を聞かれないよう、かなり手前で話を切ったふたりは、ヤンが先に立ち、診察室のドアを
開けて…。
「!?」
肥満虎が目を見開き、硬直する。
そのすぐ後ろで立ち止まったルディオの垂れ耳が、ピクリと基部を前へ向けた。
グチュッ…。グチュッ…。
湿った音が篭る診察室。
寝台の上に寝かされている大柄な男。
その頭側でベッド脇に立った女性は、その顔に覆いかぶさるように背を丸め、両手をしきりに動かしていて…。
「何をしているんだ!?」
驚きの硬直も一瞬。すぐさまダッと飛びついたヤンは、女性の背に組み付いた。
女性の細い手は、傷の縫合が済んだばかりの夫の顔から、グルグル巻きにしてあった包帯を引き剥がしていた。
そして、その両手で夫の、縫い傷だらけの顔を、粘土でも弄るようにこねくり回していた。湿った音は、血塗れの手と顔が
立てていた物…。
縫合した傷は開き、おびただしい出血で両手を真っ赤に染めた女性は、ヤンが羽交い絞めにして引き離しても、その血まみ
れの両手を夫に伸ばしている。だが、医師を振り解こうとはしない。ただ夫へ近付こうと、その顔に触れようとはするのだが、
ヤンから自由になろうと暴れたりもがいたりは一切しない。
「「しあわせ」…。わたしの「しあわせ」…」
鼻にかかった涙声に、ヤンはブワッと総毛立ってまん丸になった。
目の前で進行中の状況は、聞いて想像していたよりも遥かに異常だった。
目的を達するための、行動を続けるための、「障害の排除」が存在しない妻の振る舞い…。達成のための論理的思考が無く、
欲求が満たされない事に涙する…。
(「普通じゃない」って表現が生ぬるいほど普通じゃない!これは一体!?)
女性を羽交い絞めにして後退しつつ分析するヤンは、自分達の脇を抜けて、寝台に寝ているままの夫との間に入り、その様
子を確認するルディオの顔を見る。
ルディオの目の色は、変わっていない。
(ウールブヘジンが出て来ない…?ルディオさんはともかく、ヤツは危険ではないと判断しているのか?)
ここまで異常でありながら、巨漢には危機を察知した変化が生じない…。違和感を覚えたヤンは、しかしすぐに気付く。
(本人達には害意も敵意も無い!そうか、奥さんもアプアさんも、ルディオさんや私には全く危害を加えようとしないから、
こんなにおかしな状態にあっても危険な物だとは判定されないのか!?)
「「しあわせ」…」
うっ、うっ、と涙しながら、なおも手を伸ばそうとする妻を、夫が居る診察室から連れ出して、廊下まで後退したヤンは…。
「……………」
部屋の中が見えなくなるなり急に黙り込み、脱力した婦人の頭を、少し上から胡乱げに見つめ…。
「…え?」
伸ばしたままの自分の手。それが血まみれである事に気付いた婦人は、素っ頓狂な声を漏らした。
完全に、正気に戻っていた。兆候もなく唐突に。
「え?え?ええ!?な、何!?何がっ!?」
混乱の声に続き、絹を裂くような悲鳴が上がった。
それを背中で聞きながら、ルディオは寝台の上で眠り続ける夫の、再出血した顔を軽く拭って傷を確かめ、血は出たが傷は
あまり広がっていない事を見て取る。
(傷を広げようって、思ってもいなかったんだろうなぁ…。ただ、こねるように弄っていただけで…)
そこまで考え、ルディオは気付いた。
婦人がやったのは、自分がカムタの頭をグシャグシャ撫でるのと同じ具合ではないか?と。
(奥さんは、「可愛がろうとした」だけ、なのかぁ?)
一方、無自覚に自殺未遂に至った少年の動向を探っていたリスキーは…、
(あれがロヤック家の末っ子か…。確かに、テシーさんと目元などが似ているようだ)
件の少年が遊び友達と合流してしばらく経った頃、そこに後から混じったカムタと、テンターフィールドの少年の姿を見て、
確かにテシーと面影が似ているなぁと感じる。
そこは以前、カムタが捕らえられ、ショーンから暴行を受けた砂浜である。
入江のポケットビーチは、隠れて監視するにはうってつけの木々にぐるりと囲まれている。
「ずっとカムタのトコに居たのか?」
「うん。さっきまでカムタの家で話してた」
観光客を装うアイテムであると同時に、実際に活用する事も多々ある双眼鏡を顔に当て、少年達の口元を読唇術で窺ってい
たリスキーは、おや?と眉を上げる。
服を脱ぎ、下着姿で、あるいは全裸で海に入ってゆく少年達の中、テンターフィールドは自殺未遂少年とだけは、他の少年
と違う言葉を交わしていた。
他の皆は「いつ帰ってきた?」だの、「いつまで居る?」だの、久々の再会を喜んで挨拶していたのに、件の少年とだけは
「よう」「やあ」と声を交わしただけ。既に挨拶が済んでいたかのように…。
そのまま監視していたリスキーは、少年達のやり取りから、どうやらハミルはカムタの家に向かう途中で、漁から帰った父
を迎えに出た件の少年とその母に会っていたらしいと察する。
(さて、これは…)
真っ先に思い浮かんだのは、少年の父も自殺未遂をした事…。
(偶然なのか?…ん?)
テンターフィールドの口元を確認していたリスキーは、彼が首からかけているネックレスに目を留めた。
それ自体は珍しくない、この島でよく見かける貝殻の手作りネックレスだが、吊るしてある宝石のような物がリスキーの注
意を引いた。
(…サイズや形は、流出物資料写真にあったボムクリスタルに似ているが…。いや、別物だろう。色が違う)
流出物資料に載っていたのは、特殊な振動や電気信号などに反応して、周囲の大気中に含まれる酸素ごと爆薬化する、ボム
クリスタルと呼ばれる結晶体。
体積の百倍以上の酸素を爆薬化する上に、TNT火薬以上の破壊力を持っており、今回流出した指先サイズの物ですら、起
爆時には半径100メートルをそこに存在する家屋や木々ごと吹き飛ばして更地にしてしまう。
危険である事は危険なのだが、しかし結晶それ自体は非常に安定しており、起爆プロセスに持ち込むためには下準備が必要。
ONCでもそうだが、現在の技術では電気信号を加えて爆発させるのが基本になっており、専用の起爆ユニットとセットで使
用する形になっている。その起爆ユニット自体は、他の殆どの結晶体と共に沈没した船内から全て見つかった。
流出したのは結晶体が二つだけなので、そのままではそうそう簡単に爆発はしない。また、万が一海中で爆発しても、空気
中とは違って爆発の規模はかなり小さくなる。
(おそらく、ショーンが船を爆破した際に、運悪く二つだけ船外に飛び出してしまい、海流に運ばれたのだろうが…)
一つ見つかれば近くで見つかるかもしれない。そんな事を考えるリスキーは、双眼鏡に意識を戻してハッとした。
男の子のさがなのか、ケラケラ笑いながらナニ比べを始めた少年達の中、最下位になってしょげていた太い少年が、顔を上
げて真っ直ぐにリスキーの方を見ていた。
「わり。ちょっとウンコ」
友人達から離れて木立へ駆けて来るカムタ。リスキーは慌てて身を伏せ、草に紛れ込む。
「………」
カムタは木立に入ってから、しばしの間は周囲を注意深く窺っていたが、やがて首を傾げて「気のせいか…?」と不思議そ
うに呟く。
少しして、何もないと判断したカムタが戻ってゆくと、リスキーは静かにため息を漏らした。
(まったく、坊ちゃんは島の子供らの中でも特別鋭い…)
リスキーはこの手の事に掛けてはエキスパート、双眼鏡が太陽光を反射するような愚は犯していない。カムタは野生の勘と
でもいうべきものでリスキーの気配を察知したようだが…。
(シーホウも気にしていたし、ご友人が居る間は坊ちゃんを面倒事に関わらせる訳にはいかない)
リスキーも何だかんだでカムタには優しい。楽しいひと時に水を差したくはないので、カムタにも悟られないように探らな
ければいけない。
(やれやれ、骨が折れますね…)
口の端を僅かに上げて微笑し、リスキーは位置を変えて監視を続行した。
「…午後八時。異常なし。と…」
スピーカーから流れ出る家族団らんの声を聞きながら、肥った虎はメモ帳にサインペンで経過を記すと、シャツの中に手を
突っ込み、弛んだ腹をボリボリ掻いて大あくび。
「まったくもって、何が何やら不明ですね…」
アイスコーヒーを啜るリスキーは、ヤンに「生物兵器関連の事件じゃあ無いんだな?」と念を押され、「おそらくは」と顎
を引く。
「そんな特殊能力を持つ個体は居ません。居たら本部が大喜びですよ。それこそ、ショーンが独断で持ち出そうにも不可能な、
厳重な監視下に置かれていたでしょう」
「そっちの管理体制を信用するぞ?見落としてました~、じゃあ困る」
ヤンの家のリビングで、アジア系の青年と肥満体の虎は、留守中のアプア家にルディオがこっそり取り付けてきた盗聴器で、
一家の様子を探っていた。
夫妻には、彼らの身に起こった異常について、でっちあげの血液検査結果を読み上げ、悪くなった食べ物についていた菌に
よる一時的な異常であり、酔っ払ったような物だ、とヤンが説明した。海産物特有の菌が起こす珍しくもない症状で、薬も普
通にある。…と、もっともらしい説明をし、一日三回食後に飲むように、とただのビタミン剤を処方して帰らせたが…。
(苦しい嘘だったんだが、素直に信じてくれて助かった…)
夫妻がそういった事に詳しくない上に、ヤンが信頼されているからこそ通った嘘である。
ふたりはずっと音声を聞き、注意を払っているのだが、しかし異常は全く起こらず、家族のやり取りも平和過ぎて、いけな
いと思っているのに気が緩みそうになってくる。
「夕食夜食はどうしますか?監視するならここから離れる訳にも行きませんが、食事休憩無しはキツい、朝までの長丁場にな
るでしょう?」
「冷凍ピザにしよう」
「…さらにお腹が出てきますよ先生?」
「兄貴じゃあるまいし、いちいちつつかないでくれ」
面倒くさそうに応じたヤンは、口にしたキーワードでリスキーを軽く動揺させた事に気付いていない。
「夜はまだ長い、交代でやろう。飯を食ったら先に休んでくれ」
「いえ、先生が先にどうぞ。さっきから欠伸が多いですよ」
「…そうだったか?」
ヤンは、気付かなかった、という顔をしたが、これはリスキーの嘘で、実際には先に一回欠伸しただけ。欠伸を口実にして
先に休ませ、そのまま起こさず自分だけで朝まで監視するつもりだった。
「なら、お言葉に甘えさせて貰おうか…。少し多めにコーヒーを作っておこう」
ヤンは大きく背伸びをする。「この監視が無駄な苦労になればいいが…」と。
「同感です。…しかし、幻覚キノコやドラッグのせいでもない、悪い酒のせいでもないとすれば…」
「血液検査は夫婦揃ってシロだった。あの異常な状態も、「発作」が終われば嘘のように元通り…。一体何なのか、まったく
判らないな」
父親と息子は自殺未遂だったが、同様の「症状」を見せた妻は、しかし自傷や自殺を試みなかった。ああなってしまった原
因は同じと思えるが、行動に違いがある。自殺を誘発するような神経性の異常を疑っていたヤンは、妻の症状の差のせいで推
測が行き詰ってしまっている。
コーヒーを啜りながら「まったくですね…」と頷いたリスキーは、ヤンの視線に気付く。黙っていることは無いか?と、つ
つくような視線だった。
「我々の不手際とは関係が無いところになりますが、こういう事が可能な存在、という事であれば可能性の話ができます」
「可能なのか?何らかの手段で、あの家族にああいった事をやらせる事が?」
身を乗り出したヤンに、リスキーは首を縮める。
「そういった「能力」を持った能力者であれば、可能です」
「ウールブヘジンのような?」
目つきを鋭くするヤン。
虎医師は目の色が変化した後のルディオについて、一種の別人格のような物と仮定している。そのため、変化後のルディオ
を彼の作戦用コードネームである「ウールブヘジン」と呼称し、区別していた。
「ええ。旦那さんは一種の振動波や衝撃波を操作するタイプのようですが、何も能力者というのは判り易い直接的な能力ばか
り持っている訳ではないんですよ。例えばですが、暗示や催眠術のような事ができたり、幻覚を見せたりとか…」
「暗示に幻覚…。催眠術…?」
肥満の虎は腕組みして考える。
「催眠術で自殺を強要する事は難しい、という話を聞いたが…」
「ええ。「死ね」なんて言う直接的な命令なんて、聞きはしないはずですね」
「もしもそうだったとしても、「夫の顔をこねくり回せ」などという催眠術をかける意図が意味不明すぎる」
「おかしな状態になった時間帯も不揃いですからね」
「そうだな、そこも判らない。「自殺すら強要できる時限式の催眠術」…?奇妙過ぎる話だ…」
「そういう訳でして、隠していたのではなく、可能性が低い上に言っても混乱させてしまうと思ったので、教えませんでした」
「そうだな、その通りだ」
リスキーの発言で素直に納得したヤンは、「能力者のそういった力を除けば、全く見当がつかないんだな?」と、質問を変
える。やや大雑把な問い方になるのは、リスキーと違ってそういった知識が乏しいので仕方がない。
「私も全てを知っている訳ではないので、何とも言えません。私程度では測れないぐらいに深いんですよ、この世界の闇は」
「勘弁してくれ。貴方以上に知識面であてにできる男は、我々には居ないんだ」
ほんの少し、気弱な地を覗かせたヤンに、リスキーは「判らないなりに、ですが…」と困り顔で付け加えた。
「本当の事かどうかも定かではない話ですが、我々が取り扱う遺物…「レリック」と呼称されているオーバーテクノロジー過
ぎる品々の話になりますが、この中でもごくごく一部の物は、意思のような物を持っているそうです」
「レリック?…ルディオさんのガットフックナイフについても、そんな話をしていたな…?」
眉根を寄せるヤンに、「ええ」とリスキーが頷く。
「インセクトフォーム…つまり我々が作っている生物兵器も、そのオーバーテクノロジーの産物です。爆発する結晶体もその
オーパーツの一つですね。旦那さんのナイフも似たような成り立ちでしょうね。精霊銀という自然界には存在しない金属を加
えた特殊合金でできていますから、「秘匿事項」に関係する組織か機関による品物と思われます。それらレリックの出所や正
体、いつどんな存在に作られたのかという事は私も知りませんし、ONCの幹部達もはっきりとは判っていないそうですので、
その辺りはご容赦を…」
「で、そのオーパーツが…、意思?」
眉間に皺を刻むヤンに、「AI搭載型オーパーツ、とでも解釈してください」とリスキーが補足する。
「私は接触した事はありませんが、品によっては自らその使い手を選んだり、声掛けに応えて力を発揮したりもするそうです」
「おお?」
ヤンは昔話などを思い出している様子で、目を丸くする。
「何だか御伽噺や民話なんかに登場する、英雄を選ぶ名剣みたいだな?」
「そういった伝承の内のいくつかは、実際にレリックだったようですよ」
ああ、そんな物語の本が家にあったな、と思い出しながら応じたリスキーは「ところがです」と首を振る。
「持ち主の力になるばかりではないんですよ。中には所持者を蝕むような代物もあるそうで…」
「…蝕む?」
顔を顰めたヤンに、リスキーは「私の上司も噂に聞いただけだそうで、本当かどうかは判りませんが…」と前置きして話し
始める。
「「バロールの眼」というレリックがあったそうです。五十年ほど前から正確な所在は不明で、東アジア方面にあったのでは
ないかと推測されるのみの代物ですが、それは中心に黒い闇を抱えた、赤い水晶玉のような物だったそうで…、そう、どの角
度から見ても目玉のように見えたとか…」
「バロール…。何語だ?何とも響きが不穏な言葉だな…」
「それを得た者は、ひとの精神を覗き見る事ができたそうです。気持ちや気分、抱いている感情や、したい事…。具体的には、
相手が何を考えて何をしようとしているのか「バロールの眼」が持ち主の頭の中に囁いて教えてくれるとか…。嘘を看破する
のは勿論、近付く暗殺者も見分けてくれるアイテムだったらしいですね」
「便利そうじゃないか。…知りたくもない他人の本音を知ってしまう弊害を除けばだが」
リスキーは「まったくです」と応じつつ、今のヤンがそれを手にしたら自分はとても困るなと、半分本気で考えた。
「私が上司から聞いた過去の所有者のひとりは、博徒でした。ポーカーで無敗だったそうですよ。ですが、やりすぎてしまっ
たんですね…。賭場を荒らしたせいで元締めのマフィアに目をつけられ、始末されました」
「うん?」
ヤンは半眼になる。それはひとの考えが読めるアイテムという話ではなかったか?と。
「次の所有者になったのは、博徒を始末したイタリアンマフィアのボスだった男です。こちらは同業者との交渉で活用したよ
うですが、最終的には友好的な関係を続けてきたチャイニーズマフィアに騙まし討ちされ、死にました」
「…待ってくれリスキー、さっきそのアイテムはひとの考えを…」
考えを読める。だから近付く暗殺者も見分けられると、先に言ったではないか?そんなヤンの疑問と、発しかけた問いかけ
を無視し、リスキーは続けた。
「その次の所有者は、そのチャイニーズマフィアのドンです。ところがこちらも、部下に暗殺されました。その死に際で、呪
詛のように言い遺したそうですよ」
リスキーは眼を細め、囁いた。
「「お前もいつか、バロールに裏切られる」と…」
「………」
黙りこむヤン。リスキーは肩を竦めて、
「その部下ですが、街中でゴロツキに刺殺され、「バロールの眼」を奪われたそうです。そのゴロツキは「バロールの眼」の
力を使ってか、捕まる事なく姿を消して…、そこからの足取りは判りません」
と、話を締めくくった。
ヤンにも判った。刺されて奪われたという事は、その所有者も「刺されたその瞬間」はアイテムを所持していたはず…。に
も関わらず殺されたという話なのである。
「「裏切られる」か…」
肥えた虎は薄気味悪そうに顔を顰めて唸った。
「その後もいくつかの組織の手に渡ったという噂がありますが、真偽は不明です。しかしいま話したマフィアや、所持してい
るという噂が立った組織は、全部が全部「私達と同じ穴の狢」でした。「バロールの眼」は意図してそういったところを転々
としていたのではないか?という噂もありますね」
「何のためにだ?」
「さあ…。同類でも探していたのか…」
見当もつきませんよ、とリスキーは言う。「意思を持つとはいっても、メンタリティがひととは違い過ぎますから、完全な
意思疎通は不可能だそうですからね」と。
「まさか、流出した水晶みたいな物が、実はそういう代物だった…なんて事はないだろうな?」
雰囲気を変えようと、冗談めかして指摘したヤンは、
「ははははは!まさかそんな…」
リスキーが中途半端に黙ると、「…おい」と耳を倒す。
アジア系の若者は、昼間見た、少年のひとりが首からぶら下げていた琥珀色の光を思い出す。
「…いや。そんなはずは…。鑑定士が見誤りでもしない限りそんな事は…。だいたい、今回の件では、旦那さんは傍に居ても
反応しないでしょう?」
「…それが、一度だけウールブヘジンが出た…かもしれない…らしい…」
「え?」
眉を潜めるリスキーに、「歯切れの悪い言い方になるが」とヤンは頭をガシガシ掻きながら告げた。
「ルディオさんの話では、朝に短時間…たぶん数秒から十数秒程度らしいが、意識が飛んだらしい。それっきりだったらしい
が…」
「…索敵範囲ギリギリで探知した、という事でしょうか?」
「これまでの経験から言えばその可能性が高いが、どうもはっきりしないんだ」
「…旦那さんが探知し難い危険ですか…。例えば、生物ではない危険…?」
アジア系の青年が真顔で吟味し始め、ヤンは肥えた体をブルルッと揺する。
「か、確認はできないのか!?その、流出している物が本当に関係ないのかどうかは!?まさか今回の「しあわせ事件」は…」
この時を期に、自殺未遂騒ぎに端を発した異常な事件は、一同の間でこう呼ばれる事になる。
「しあわせ事件」と…。
「…でさ!美味いモンも売ってるんだって!ちょっと行ってみてぇよな!」
浴室傍の煮炊き場に陣取り、皮が飴色になった鶏肉の炙り焼きを齧りながら、カムタはルディオに、ハミルの事と、彼から
聞いた違う島での生活について話していた。
セントバーナードはいつものように表情に乏しい顔で、しかし優しげに眼を細めて、明るく話す少年に相槌を打っている。
「…あ、つまんねぇかな?アンチャンと関係ねぇ事ばっかで」
喋りすぎたかな、と話を切ったカムタへ、「いいや」とルディオが首を振る。
「関係はある。カムタの友達の事だ、おれも色々知りたい」
そう言うルディオは、カムタが嬉しそうに、楽しそうに話すのを聞きながら、ずっと尾を揺らしていた。
事件はまだ決着しておらず、原因も突き止められていないのだが、ルディオはヤンとリスキーに監視を任せ、普段通りにカ
ムタと過ごす事になった。ハミルが居る間はカムタを加えない以上、巨漢が少年の元を離れて行動し、勘ぐられるのはまずい
のである。
それに、異常が依然としてそこにあるならば、最優先で守りたいカムタを独りにもしたくない。夜間は特に…。
(日中はハミルと一緒に遊んでるだろうしなぁ。先生達と調査するのはその間だなぁ)
ムシャリと鶏肉を噛み千切り、スープを啜り、いつも通りの健啖ぶりで食事を進めるルディオが呆れるほど平常運転なので、
浮かれているカムタは彼らの隠し事にまったく気付けなかった。
(友達かぁ…。おれにも親しい友達が居たのかなぁ?)
思い浮かんだのは白い部屋と、そこに居る狼の姿。
(…あれ?)
そしてルディオは、思い浮かんだのではなく、眼前にその光景が浮かんでいる事に気付いた。
「ジョニー・ウォーカー。スコッチウイスキーだ」
成人男性の胴体ほどしか面積が無い、狭い丸テーブルの横に立って、薄灰色の被毛を纏った狼が顔を向ける。
その後姿が映るのは、荒野のような海底と部屋を隔てる大きな窓。
「我が君から賜った土産の品だ。が、ひとりで飲むのも味気ない。一杯付き合ってくれないか」
テーブルの上には氷と水とウイスキーの瓶、そして小さなグラスが二つ。
狼はグラスに琥珀色の液体を注ぎ、その内の一方を差し出して来る。
「…普段から飲んでいるわけではない。そういう習慣は無いが、時々はな。君はどうだ?…ふむ、そうなのか。いや、そうで
はないかとは思っていた」
指の太い大きな手が、小さなグラスを受け取って、狼に倣って少量だけ口元に運ぶ。
「そうだな。酒を飲むのは、話し相手が居る時ぐらいだ。…私の話し相手か?…まぁ、色々だな」
狼は少し黙り、何事か考えていたが、やがてクイッとグラスを煽り、手酌で二杯目を注ぐ。
「以前教えた事がある、ハウル・ダスティワーカーだが…、彼も表向きは酒を飲まなかった。バンドの仲間ともな。彼は用心
深く、ひと前で不覚を取る可能性があるとして、飲酒は控えていた。だが…」
狼は摘んだグラスを目の前に上げて、軽く揺すりながら言った。
「同じ「サー」のひとり…、古馴染みで特別近しい存在だった男とは、「仕事」後などに酒を酌み交わしていたようだ。ハウ
ルとその男が好んだ酒が、このジョニー・ウォーカー。彼らはまず、喉を焼くようなストレートで一杯目を楽しんだ」
君はどうだ?好みの味か?と狼は問う。しかし返事はなかったようで、
「そうだったな、君に好き嫌いは無い。全てが等価値なのだろう。…あるいは「等しく無価値」なのかもしれないが…」
と、ひとりで納得し、顎を引く。
「その、ハウルと近しかった男は、陽気で豪快だった。…まあ、根っ子が紳士ではあったが、一見すると英国紳士の幻想が砕
け散りそうな男だったらしい」
何を思うのか、物憂げに細められた狼の目には、セントバーナードの、感情が窺えない無機質な顔が映っていた。
「…ネックレス作ってくれるって。上手いんだぞアイツ?アンチャンの分も頼んでみるか?次に帰って来るときに貰えるよう
にさ!」
続いていたカムタの話の内容から、ルディオはまた、刹那の光景だったのだと確認する。
目の色が変わって意識が飛ぶのとは違う。あの部屋を観る時、ルディオはルディオのままであり、現実の時間もほぼ経過し
ていない。あくまでも巨漢の頭の中でのみ進行しているらしい。
「そうかぁ。もし余裕があったら、おれの分も頼んでみようかなぁ」
それほど本気でもなく、そうなったらいいかもなぁ、という程度に考えて応じたルディオは…、
「そうすっか!アンチャンとオラの、お揃いのヤツ作って貰おう!」
名案だ、と顔を輝かせたカムタの発言で、少し目を大きくした。
何処とも、それこそ自分の過去とすらも繋がっていない自分だが、せめてカムタとは、形の上でも繋がりがあれば嬉しいか
もしれないと思った。
「そろそろ昼休みにしてよろしい。私も少し休む」
「はっ!」
秘書兼ボディーガードを下がらせ、重々しい扉が閉じられると、鷲鼻の白人男性はアームチェアから腰を浮かせ、左手側に
ある窓に向かった。
ルネサンス期の絵画が飾られ、毛足の長い絨毯が敷かれ、斑模様の大理石の柱がそびえ、白壁が囲む地中海らしい内装の豪
奢な執務室。地中海の港町が一望できる窓に、鷲鼻の男は顔を顰めてシャッとカーテンを引く。
大富豪の別荘のような装いになったそこは、ONCが所有する幹部用の邸宅。今では正式な幹部となったフェスターの物。
日差しを締め出して、部屋を人工の光だけにしたフェスターは、両袖つきのクラシックな木目調デスクに戻り、その天板に
埋設されたコンソールを操作して、モニターに情報を表示させた。
(何か不都合でも出たのか?)
リスキーからの暗号通信を表示し、素早く目を通したフェスターは、
(流出したボムクリスタルの詳細?通常の物と少しでも差異がある物は混じっていなかったか確認したい、だと?…む?)
部下からの要請の内容を確認し、メッセージ後半に添えられた、島で確認された異常の報告を読み上げると、すぐさま流出
事件に関するデータを呼び出し、捜索中の品のリストをデータベースの詳細と照らし合わせた。
ずらりと並ぶ、結晶体の画像と鑑定詳細、そして個別コード。確保時期、発見場所などにまで遡って一つ一つ確認してゆく
フェスターは、全て読み終えて腕組みし、考え込む。
おかしな品が一つだけあった。それも丁度、今回流出した捜索対象である。
(画像の色…。見比べてみてやっと気付く程度だが、この結晶の色は…)
他の結晶は天然水晶のような、透明でやや白く見える物。しかしフェスターが気になった品は、水に薄く…ほんの少しだけ
ウイスキーを溶いたような、薄茶色を帯びている。
他の結晶の鑑定結果と照らし合わせようとしたフェスターは、
(…何だ?同日、同じ場所で確保したボムクリスタルがあるのか?)
日付が同じ品を見つけ、そちらと見比べ、眉根を寄せる。
(同時発見の記述は無い、か…?)
通常であれば備考として触れられているはずが、同じ日に同じ場所で見つかった品の詳細には、何も記されていない。そし
て、双方ともにおかしい所がない鑑定結果と詳細説明を見比べ、フェスターはすぐに気付いた。
(鑑定結果と詳細説明が全く同じ…?鑑定日時まで…?)
食い入るように画面を見つめ、一字一句、数字すらも違わない文字列と、サイズが異なるように見える二つの画像を比較し、
フェスターは電話を取った。記されている鑑定責任者に確認するために。
そして…。
(何て事だ!)
電話器を置き、鷲鼻の男は険しい顔つきで画面を睨む。
担当者による確認が進行中だが、それでもフェスターは理解した。
リスキーの動きは伏せ、あくまでも後処理が気になって資料閲覧中に気付いたという体で話を進めたフェスターが、記録に
名があった担当鑑定士に確認した。
その結果得られたのは、「手元の記録を見返してみたが、その日に鑑定した品は一つだけ」「色がついた結晶の方は覚えて
もいない」との回答だった。
つまり、誰かの手違いで鑑定済み扱いとなってしまったようだが、色がついた結晶の方は記録が全て正規の物と重複してお
り、正確な発見状況の記録が残っていない。
一体いつONCの懐に入ったのか、それとも入って「来た」のか…。
「バロール…」
フェスターは、怪談のように語り継がれている怪異の元凶の名を口にする。
あの色がついた結晶が、そもそもボムクリスタルでなかったとしたら…。
(あの疫病神め!アイツ自身も気付いていなかったのだろうが、死んだ後も長々と迷惑をかけてくれる!ボムクリスタルでは
ないかもしれないアレは、リスキーが遭遇した異常と関わりがあると考えるべきか…!?)
サアァ…、サアァ…、と静かに鳴く波。
潮風を正面から浴びる入り江の砂浜で、人影が海の方を向いていた。
夜空には、細く鋭い爪のような月。細かく波立つ海面が、細い月光を散らして煌く。
人影は、大人の物ではない。少年達が日中に水遊びを楽しんでいたそこに、一つ静かに佇む影は、誰かがうっかり忘れて行っ
た影法師のようでもあった。
しかし、よくよく見れば影は二つではない。
弱い月光と暗い海、夜の色濃く深い空に半ば溶け込んでいるが、波打ち際に足を浸らせ、背の高い影が立っている。
ソレは、ひとのようでもあり、しかし決定的に違う。
丸みを帯びた頭部。二本の脚。両腕は、しかし肩から伸びる一対の他に、そのすぐ下から二対目が下がり、四本あった。
細い月光を浴びるその躯体は、海水に濡れ光沢を帯びた深い黒。
頭部の左右には、あわせて顔面の四分の一を締める複眼。
その複眼が、砂浜に立つ人影を映している。
キシィ…、と、ソレが鳴いた。何かが擦れるような、奇妙な声。
踏み出された足が湿った砂を踏む。ひとの物に近いが、五指があるはずの部位に二本、踵から一本、鋭い鉤爪が伸びている。
四本の腕の先も同様で、その手は親指の位置に一本、四指が揃えられるその位置に二本、湾曲した鋭い爪を備えている。
身の丈は190にもなるだろう、アスリートのような体躯に四本の腕を持つ、歪なシルエットの異形は、砂浜に佇む影に向
かって一歩一歩進んでゆく。
その挙動はやや前のめりで進められ、人影が逃げようとしたら飛び掛る心積もりである事が、見る者が見れば窺えた。
その近付く異形をじっと見て、逃げようともせず自然体で佇む人影は、目の前に立った異形が鉤爪を備えた手を伸ばすと…。
「君の「しあわせ」は何?」
その声は、涼やかに、穏やかに、心地良く響いた。
異形が動きを止める。
その複眼が、人影の胸元で光る琥珀色を注視した。
月光も細く、宵闇の色も濃い中で、それ自体が淡く発光しているような琥珀色を…。
「どんな事が「しあわせ」かな?」
波打ち際の静かな波の音が、若い声を乗せて揺らす。
異形は動きを完全に止め、琥珀色を見つめて、穏やかな声に聞き入って…。
「教えてくれない?君の「しあわせ」を…」
しばらくして、入り江からは影が消えた。
静かに降り注ぐ淡い月光の中、無人の浜辺はそ知らぬ顔でまどろみ始める。