Overjoyed

「おはよう」

 リビングに入って来た肥えた虎を見遣り、「おはようございます」と応じてテレビに視線を戻したリスキーは、

「…気分がすぐれませんか?」

 思わず二度見して訊ねた。

 ヤンはただでさえ丸い顔を判り易い膨れっ面にし、不機嫌さを隠そうともしない目でアジア系の青年を見つめている。

「何で起こしてくれなかった?交代で見張る約束だろう?」

「ああ、うっかりしていました」

 しれっと応じるリスキー。時刻は既に午前十一時である。

「目覚ましのセットを失敗した僕も悪いが、それにしてもこんな時間まで放っておくことはないだろう?」

 のっそり椅子にかけたヤンには目もくれず、心の中で舌を出すリスキー。

 実は、ヤンがセットした目覚ましは、頃合を見て忍び込んだリスキーが、高いびきを立てる家主の脇でこっそり解除してい

た。

「で、様子はどうなんだ?」

「変わりありません。平和な朝でしたよ」

 アイスコーヒーを啜るリスキーは、監視中のアプア家について報告した。報告すべき事がないほど平和だった、と。

「旦那さんは今日も坊ちゃんに気を遣って、家を離れています。二時間ほど前にここに来ました」

「で、何処かに出かけたのか?」

「念のため、他に異常な行動に出ているひとが居ないか見てくる、と」

 リスキーは肩を竦めて、「今夜も見張りますか?」と問う。

「それこそ、念のために、だな」

 頷いたヤンに、リスキーも「それが良いでしょう」と頷く。

「上司からの詳細な回答はまだありません。あの方にしては時間がかかっているのが気になるところですが…」

「…それは、「まずい」から時間がかかっているのか?それとも、おかしな所が見つからなくて、か?」

 半眼になったヤンに、「どちらともつきませんね」とリスキーが正直に応じる。不安がらせたくはないが、油断させるより

はいい、と今は考えている。事が事なので、ビクビクしながら当たって貰った方がいい。

「結果が出るまでは安心できないな…。気を引き締めていこう」

「ええ」

 腰を上げたヤンは冷蔵庫に向かい、アイスティーをグラスに注いで一気飲みすると、息をつきながらリスキーを振り返る。

「そろそろ休んでくれ、交代がずれ込んだが、あとは僕が引き受ける」

「そうさせて頂きます。…が、その前に先生」

 リスキーは鋭く目を細め、何かあるのか、とヤンが向き直る。

「まともな食事を提案します。テシーさんの所にでも行って、今夜の分まで「まっとうな食事」を確保しておきましょう」

「…レトルトは嫌か?」

 重傷でも動き回るほど我慢強いくせに、食べ物には贅沢を言うのか?と、ヒゲをヒクヒクさせた虎に、

「ヘルシーな料理をお願いしてください。これは先生のためです。夜間に確認しましたが、また高カロリーかつ栄養が偏った

冷凍食品が増えていますよ」

 リスキーは舌鋒鋭く言い返す。これにはヤンも反論できず…、

「…考えておこう」

 耳と尻尾をクタンと垂らした。



「………」

 顔を上げ、吹き渡る風にベストの裾をなびかせながら、ルディオはスンスンと鼻を鳴らした。

 風の中につっこんだ鼻は、しかし異常を感知しない。香る潮風は雨雲が近くに居るらしい事を知らせてくれるが、異物や危

険については何も言っていない。

 乾季が終わって季節が巡り、島の香りは豊かになった。鼻が良いルディオには、匂いが増えたことで景色自体の彩までが豊

かに賑わっているように感じられる。

 もっとも、それを楽しむにはいささか剣呑な異常が発生しているので、気楽に散歩というわけにもいかない。

(一度「変わった」とは思うんだがなぁ…)

 釈然としない感覚が微かにある。土の道をのっしのっしと歩くセントバーナードは、今日は腰の後ろに得物を帯びていた。

漂着した時に身に付けていた、大振りなガットフックナイフを。

 ルディオは考えた。異常は確かに発生しているのに、自分の中の「何か」は反応しない…。もしかしたら「感知できないタ

イプの危険」という物があるのかもしれない、と。もしもそうならば自力で何とかしなければならないので、ナイフがあった

方が心強い。

 傍から見れば散歩にしか見えないゆったりした足取りで、しかし実際には注意深く周囲を窺っているが故の遅い歩みで、島

の半分以上を踏破して南下するルディオは…。

「…あ」

 前方、遥か向こうからやってくる、自転車に乗った人影を確認した。

「あ!ルディオさん!」

 ペダルをグングン漕いで、大急ぎで道を走ってきたのは、痩せぎすなロップイヤー…この島に赴任してきたばかりの若い警

官だった。

 ルディオとカムタをハメた警官の後任にあたるのだが、こちらはONCとは無関係な、まともで真っ当で真面目な堅気の警

官だという事をリスキーが保障している。

 新米で経験不足、頼りないが誠実で熱心。そんな若い警官は、「どうしたんだぁ?そんなに急いで」とのんびり声をかけた

ルディオのすぐ傍で自転車を止め、はぁはぁ喘ぎながら言う。

「殺人ですよ!殺人!たぶんですけど…」

 自分の方が後から来たので、ルディオを新参者扱いしない警官は、両手を広げて言った。

「大量の血痕がドバーって!死体は無いですが、あれじゃあ生きているはずが無い!」

「あ~…。待ってくれお巡りさん」

 ルディオは大きな右手を上げて警官を制した。

「死体が無いのに、血がたくさん残っていて、殺人かもしれない、って言うんだなぁ?場所は何処なんだぁ?」

「民家ですよ!で、長男が見つからないって話で…」

 警官が挙げたのはルディオがあまり知らない人物の名前だった。が、ルディオはこの島の住民のほぼ全てを、最低でも名前

と仕事と住所だけは記憶している。カムタを守るためには、敵でない者とそうでない者を見分ける必要があったので。

 警官が名を挙げた男についても、フルネームと、テシーの父が運営する会社に勤める三十代半ばの社員だったという事は記

憶している。

「現場には先輩が残りました。本官は急いで交番から連絡をですね」

「ああ。それじゃあ引き止めたらまずかったなぁ」

 ごめんよ、と詫びて警官を行かせたルディオは、警官が来た方向へと足を踏み出した。

 その一歩が、次の二歩目が、そして三歩目が、歩幅を広げて送り出される。そして四歩目には、その歩幅は2メートルにも

達していた。

 歩調は早くない。ただ、大股に、飛ぶように、その巨躯が駆ける。ぐんぐんスピードを上げて行き、セントバーナードは被

毛を激しく靡かせながら高速で移動する。フルスロットルにしたスクーターを追い抜けるほどのスピードで、しかし跳躍が主

体のその疾走は呼吸を殆ど乱さない。

 当初は自分の身体能力を把握していなかったルディオだが、今はその異常さも含め、だいぶ自覚できている。記憶が戻った

訳ではないので、戦闘技能は知らず、闘う事については獣のようには行かないだろうが、特にこのような疾走や単純な力仕事

などであれば常人を遥かに超えた水準で実行できる。

 早歩きの歩調で、しかし飛ぶような速さで、ルディオは目的地付近まであっという間に移動すると…。

(あ。居た)

 民家の敷地脇に止められたパトカーと、敷地入り口にあたる木立の切れ目に立つ警官と婦人の姿を目にし、かなり距離をお

いて減速した。

 そこから見つからないように迂回して、敷地の裏側まで回り、木立を抜けて敷地内へ入ると、匂いを辿って母屋へ向かう。

 現場となっている母屋の表玄関にはテープが張り巡らされていたが、開け放たれた裏口は腰の高さで数本張られているだけ。

ルディオは数歩前からスピードを上げ、入り口上とテープの間にある空間を、棒高飛びのベリーロールの要領ですり抜ける。

 足音も殆ど立てずに着地し、煮炊きに使う土間を見回したセントバーナードが、鼻を微かに鳴らしながら奥へと入ってゆく

事には、敷地表側に居る警官や犠牲者の家族を含めて誰も気付いていない。

 その迅速で鮮やかな潜入を、ルディオは淡々と、普段と変わらないぼーっとした無表情でこなしている。

 考えているのではなく、感覚で体が動く。痕跡を残さず、気配を感じさせない行動を、呼吸するように自然におこなえる。

おそらくはそんな訓練や指導を受けた事があるのだろうが、記憶は蘇らないので詳細は本人も判らないままである。
ただ、リ

スキーが言うには、少なくともまともな職業の者が持っているスキルではない、非常に暗殺に向いた技能であるとの事だが。

 色を見るように匂いを嗅ぎ、廊下を歩いて迷う事無く目的の部屋を覗いたルディオは、そこに、派手な赤い模様のベッドを

見た。

 ガラスを部屋中に撒き散らして割れた窓の、折れて垂れ下がった木枠が風に揺れる。皮肉にも換気は充分なはずだが、部屋

には濃い臭いが居座ったまま。錆びた金具が雨に濡れたような酸化した鉄臭さと、捌いた魚から潮の香を抜き、代わりにはら

わたの匂いを濃くしたような、生臭い血と臓物の匂いが立ち込めている。

 鼻の奥と喉の中間にこびりつく、大量の血痕が生乾きになった特有の臭気に眉一つ動かさず、巨漢はベッドに歩み寄る。

 派手な赤と思われた物は全てが血痕で、シーツは本来無地だった。壁に飛んだ血の跡を目で追ったルディオは、壁から伝い

落ちたように線を残し、床に落ちている物に気がついた。

 歪な毛虫…と思われた物は、毛髪がついたままの厚い頭皮。白く覗き、酸化してクリーム色に変じている途中の肉の色が、

周囲の血とは異質な生々しさを感じさせる。

 しばし壁に飛び散った血痕と、割れた窓と、ベッドの上を見比べていたルディオは、程なくそこにヴィジョンを重ねてみる。

 外から割られた窓。そこから何者かが押し入る。

 すぐ傍のベッドに横たわる家主は、音に驚いて目を覚まし、起き上がる。

 その、上体を起こしてベッドに座った家主の頭部に、侵入者は攻撃を加えた。

 手か、足か、それともそれ以外の何かか。とにかく不幸に鋭いソレが、犠牲者の頭部から頭の皮を分厚く掻き飛ばし、壁に

貼り付けた。

 逃げる暇はなかっただろう。目が覚めて、何が何だか判らなくて、驚きと痛みの混乱の中で、家主は腹…おそらく腸に近い

位置を攻撃された。出血量と異臭から考えれば、確実に貫通していただろう。

 影を二つ重ねて惨劇をシミュレートしたルディオは、

(たぶん、苦しまなかっただろうなぁ)

 救いにはなっていないだろうが、そんな事を考える。

 侵入者は、家主を殺害して遺体を持ち去った。だが、血痕は窓の外には続いていない。部屋の中で飛び散った物が窓枠を汚

している程度である。

(何かに包んで、連れて行ったのかぁ?)

 とは思うが、「どうやって血の跡を残さず去ったのか」という疑問以前に、「死体を持って行ったのは何故か」という疑問

がルディオの中で大きなウェイトを占めている。

 遺体の運び出しならばビニールに包むなど、いくらか方法が思い浮かぶ。

 しかし、死体を持ち去る意味が判らない。これだけの痕跡を部屋に残しているのだから、死体だけ処理しても意味がない。

隠蔽工作のために持ち去ったという線は消える。

 出血量から言って、本人に用事があって連れ出したとも思えない。完全な奇襲であり、抵抗されて殺したというような状態

ではない。
立ち去ったルートを悟らせないように死体を持って帰ったのは、死体そのもの…つまり家主の体に用事があったの

ではないか、とも考えられるが…。

(動機、かぁ…。おれはそういうのがわからないからなぁ。先生とリスキーに相談しないとダメだなぁ)

 死者への礼儀として、ルディオはベッドに瞑目した。

 作法の知識はない。が、かつてカムタが自分を騙して殺そうとした警官にそうしていた事を想い、巨漢は彼に倣って死者へ

の礼儀を形にする。

 程なく、踵を返したセントバーナードが部屋を出る。

 その二十三秒後、現場の再確認に入った警官は、そこに直前まで誰かが居たなどと考えもしなかった。



 褐色の肌を水滴が伝う。

 磯の荒い岩に指をかけ、丸々肥えた体の重さなど全く感じさせずに上へ上がったカムタは、海面から上半身を出しているテ

ンターフィールドを振り返り、手を伸ばした。

「ありがとう」

 目を細めて手を握ったハミルは、軽々と引き上げられて岩に這い上がる。

 基本的に、獣人は人間よりも頑強で身体能力でも優れている。しかしカムタは獣人のハミルから見ても力強く、機敏で、タ

フだった。ハミル自身もこの島で海と育った少年なのだが、確かな差が感じられる。

 本人曰く、ハミルより勉強をしないで体ばかり動かしているからだろう、との事だが、ハミル自身はカムタの身体能力は、

生活のため、生きるため、環境に適応した結果なのではないかと考えている。そうして磨かれた、実戦的で質が高い身体能力

なのだろう、と。

「そろそろ飯にしようなハミル!」

「うん」

 岩場の上で平坦な場所を選び、そこに置いていたランチボックスへ、少年達は岩場を跳びながら移動してゆく。泳いで潜っ

てたくさん遊んで、すっかり腹ペコになっていた。

「チキンローストか。フンパツしてくれたんだな、テシーは」

「張り切ってたよ。「超美味いランチを提供するから楽しみにしてろ」って、昨日の夜からもう」

「あはははは!テシーはハミルに甘いもんな!」

「今日はカムタと一緒だからだよ」

 並んで腰を下ろし、濡れた体に太陽と磯風を浴びて、笑い合いながらサンドイッチにかぶりつく少年達。

 今日はふたりきりで磯に潜り、遊んでいる。昔からそうしてきたように。

 カムタが漁場にしている岩礁地帯は、昔からハミルと遊び場にしていたところだった。ナイフ一本あれば食べる物には事欠

かず、朝から晩まで遊び通していた。

 今でこそ、カムタは学校を辞めて社会人に仲間入りし、ハミルは勉学の道のために島を離れていが、そんな違いはカムタに

とってさほど大きな物ではない。生きるための環境が少し違うだけで、自分達は幼い頃からずっと一緒で、全部同じだと思っ

ている。

 幼い頃から一緒に、多くの時間を過ごした一番の友人。生活環境が変化しても、その事実は変わらない。

「ルディオさんってさ、どうなの?」

「ん?」

 ハミルの問いで、サンドイッチで頬を膨らませているカムタはくぐもった声を漏らす。

「遠くに住んでたんだよね?ずっと。あんまり顔も合わせてなかった親戚だと、気を遣ったりもするんじゃないかなぁ…、っ

て思ってさ」

「あ~…、最初はな、判んねー事ばっかでさ、山ほど戸惑ったな。でも、結構すぐ慣れた」

 相槌を打つハミルは、

「二日ぐれぇで」

「ふつかぁっ!?」

 カムタが口にした短過ぎる期間で、流石に素っ頓狂な声を上げた。

「だってアンチャン大人しいしさ、あんまりうるさくしゃべる方でもねぇし、色々手伝ってくれるから邪魔になるどころか助

かるし、う~ん…。風みてぇに普通なんだよ、傍に居ても」

「…そっか。あんまり自己主張しないひと?カムタに意見したりしないんだね?」

「うん。訊けば判る事は答えるけどな。島の事も気に入ってくれてるし、文句とか全然言わねぇし…、おおらかだ、おおらか」

「そうなのか~…。ガミガミ口うるさかったらカムタも大変だったろうけど、そういうひとだったら自然に仲良くやっていけ

るのかもね」

「だな。ハミルにもアンチャンと色々喋って欲しいけど、アンチャン気ぃ遣ってんだよ。いいからふたりで遊んでろ、ってさ」

「…なるほど。それもしあわせの条件か…」

「まぁ幸せだよな。アンチャンはアンチャンで大変なこととかあるだろうけど、…あ~…、住んでたトコとココじゃ色々違う

からな!でも、大変そうなトコとか全然見せねぇし、落ち着いててのんびりしてるし、飯が美味ぇって、それだけで喜んでく

れるしさ」

「…しあわせの基準や種類には個体差がある。どうやらそれは確かな事らしいね…」

「差かぁ。あんだろうなそういうのも」

「…小さなしあわせで満足できる者。身の丈に合わないしあわせを求める者。他者のしあわせの為に耐える事ができる者。自

分が求めるしあわせが他者を不幸にすると知っていてなおしあわせを求める者。…ひとというものは実に多様性に富んでいて、

理解し難い…」

「ん~…。難しい事はよく判んねぇけど、オラとかアンチャンは結構簡単に幸せな気持ちになる方だと思うぞ。だから幸せだ、

いつも幸せなんだからな。あはははは!」

「…なるほど。君達の概念の中のしあわせは、そういった物なんだね…」

 水筒に伸びたカムタの手を、違和感が止めた。

 首を巡らせる。そこに居る、幼馴染の方へ。

 海を眺めるテンターフィールド、見慣れたその後頭部が、今は何故か、知らない誰かの物のように感じられて…。

「ハミル?」

 確認するように名を呼ぶカムタ。

 ゆっくりと首を巡らせる犬の少年。

「うん?何?」

 ハミルは水筒に手を伸ばしたままの中途半端な姿勢にあるカムタを見て、小首を傾げた。

「え?何してんの?水筒もう空っぽだった?」

「…え?あ、んん~…」

 カムタは訝しげに眉根を寄せて、「何でもねぇ」と水筒を掴んだ。

(何だったんだろ?何か今、「違う」感じしたんだけどな…)

 タマゴのサンドイッチを取り、一口齧ったハミルは、また沖の方へ目を向ける。空いた手で、胸元で光る琥珀色の石を弄り

ながら。



「で、リスキーのところの生物兵器の仕業じゃあないか、と…?」

「そうだなぁ。そうかもしれないなぁ、と思うんだけれどもなぁ。どうなのかなぁ」

 考え込みながら顎を引くセントバーナードを前に、居間のヤンは腕組みして唸る。

「まさかこのタイミングでかち合うとは…。しあわせ事件も全く調査できていないのに…」

「リスキーが教えてくれた中に、俊敏で殺傷能力が高いヤツも居たなぁ。バッタとかカマキリほどじゃあなくても危険だって」

「ああ、言っていた。普通に生産された生物兵器でも、一般人じゃあ太刀打ちできないそうだが…」

 ルディオが説明した現場状況と、彼が推測する襲撃者の力を聞けば、何処か他所の島から猛獣が入っただけとは思えない。

可能性はかなり高そうだった。

「急いで動きたいが、リスキーはホテルに戻って上司に確認中だ。回答を貰えるらしいが、どうにも傍受に注意しなければい

けないらしく…」

 壁時計を見遣った虎は、肥えた胸元をボリボリ掻いた。輪郭がはっきりしない脅威が二つもあるのでどうにも落ち着かない。

「帰りを待って、確認だなぁ」

「…そうするしかないが…」

 アイスミルクをストローでチュルチュル飲んでいるセントバーナードを、ヤンは羨ましそうに見遣った。この落ち着きと胆

力を何割か分けて欲しい、と…。

「…ああ、そうだ。リスキーにまた何か言われるから、テシー君に頼んで飯を作って貰おうか…」

 まだ高い日に照らされた窓を見遣って、ヤンはひとりごちる。診療所の表口を閉める時刻まで数時間あった。

「死体が見つからない以上は、交番側からも手伝いに呼ばれる事はないだろう。時間になったら出かけるか…」

 気分転換になるかもしれないが、危険生物が居ると考えるとぞっとしない。「ルディオさん、それまで少し付き合ってくれ

るか?」と、ヤンは済まなそうに耳を倒した。



 そして、ゆっくりと日が傾いて行って…。



「お!いらっしゃい先生!ルディオさんも!」

 カウンターの向こうで立ち上がり、愛想良く笑ったテンターフィールドの若者に、ヤンは少し疲れた顔で、ルディオはいつ

ものぼんやり無表情で、それぞれ片手を上げて挨拶する。

「おっと、お疲れですね?じゃあ体力がつく物でも作りましょうか?」

「ああ、有り難いな」

 耳を少し寝せて口角を上げ、笑みを見せたヤンは、

「客商売は流石と言うべきだろうな、疲れが判るのか」

 尻尾を振りながら他意も無くそう言った。が、テシーは、「あ、いやそれは…」と少し照れた様子で口ごもった。

「る、ルディオさんは判り難いですけれどね!先生はほら、今日なんか検死とかで大変だったんじゃないかと。お巡りさんに

呼ばれたんでしょう?」

 カウンターの席についたヤンとルディオは顔を見合わせる。

「これも流石だな。耳が早い。…ああいや、考えてみたら事件に遭ったのは、君の親父さんのところの勤め人だったか…」

「そうです。面識はあまり無いんですが、生真面目で頑固な職人肌だったって。…で、呼ばれたんでしょう?」

「いや、まだ呼ばれてはいない。一時間ほど前に交番から電話があって、事の次第は細かく聞いたが、まだ怪我人も死人も見

つかっていないらしいな」

「え?まだ?だって…」

 テンターフィールドは「血だらけだったって聞きましたよ?」と顔を顰めつつ、ふたり分のビアグラスに酒を注ぐ。

「ああ。血痕は凄まじいの一言だそうだが、被害者の家主はまだ見つからない、と…」

「不気味ですねそれ…」

 どうぞ、とビールをサービスしてくれたテシーに礼を言い、ルディオとヤンはグビッとグラスを煽って、冷たい感触が胃に

落ちてゆく心地良さを楽しむ。

「ルディオさんも済みませんね。ハミルのヤツがお邪魔してばっかりで、くつろげないでしょう?」

 兄として気を遣うテシーに、ルディオはゆっくり首を振る。

「いや、何でもない。遊びに来てもらって、カムタが喜んでるからなぁ。幸せそうに笑ってる」

 ルディオが口にしたキーワードに、ヤンがピクンと尻尾の先端を太くした。

「それはそうと…、こっちはともかく、事件のことなら親父さんの会社は大変だろう?色々聞き込みされたんじゃないか?」

 思い出したように尋ねたヤンは、質問しながら間を繋いで、リスキーに文句を言われないメニューにするには、サラダ盛り

なども頼まなければいけないだろうかと考え…。

「ええまあ、大変みたいですね。ふたりもだから…」

「………」

 口元に持っていく途中のグラスを、ピタリと止めた。

 ルディオも同じく動きを止めて、何か考え込んでいるような顔でテシーを見ている。

「…ふたりって、何だぁ?」

 セントバーナードの問いで、「ああ、これはまだ聞いてない話?」と、テシーはヤンとルディオを交互に見た。

「同じ部門の同僚がまたひとり、行方が確認できないらしいんですよ。こっちはまぁ、容疑者って事でお巡りさんが探してま

すけど…」

 セントバーナードは瞼を半分降ろす。

 ヤンもまた、目を鋭く細めて考え込む。

(ルディオさんの見立てでは、ひとの犯行ではない。つまりその、容疑者扱いされている方も…)

(容疑者じゃあなく、犠牲者かもなぁ)

 ふたりの内心を知らず、テシーは「そっちも頑固な性格だったそうですけど、不仲じゃあなかったらしくて。どうも判りま

せんよねぇ…」と、首を捻りながら調理の支度を始めていた。



 一方その頃、岩礁地帯に面した、波が洗う低い崖下の岩場では…。

「は…、ははは…。本当に死んでやがる…!」

 岩間の潮にチャプチャプ浸かる二つの死体を、線の細い若者が見下ろしていた。

 そこに、昼間は死体一つしか無かった。だが、今は二つ…。

 頭部と胴に深い損傷を受けている死体二つは、若者が知っている顔を海面に晒している。

「はは…。はははは…!」

 しゃっくりするように乾いた笑いを漏らす若者。

「ムカついてたんだよ…!偉そうに説教垂れやがって!ちょっと年上だからってガミガミガミガミ!これでもう喋れねぇだろ!

いいザマだ!はっ!」

 ひきつった笑いに歓喜と憎悪を込めて、死体を口汚く長々と罵り続けた男は、喋りすぎて息を乱し、肩を上下させる頃になっ

てようやく黙ると、

「………」

 自分の右手側、視界の隅に控えていた黒い影に、びくびくと目を向ける。

 それは、異形の影だった。

 身長190センチはあるだろう長身で、鍛え抜かれたアスリートを思わせる輪郭線。二本の足で立っているが、シルエット

はひとのようで決定的に違う。

 両腕は肩から伸びる二本の他、そのすぐ下の胸部左右からも、もう二本の腕が生えている。合計六本の手足の先には、湾曲

した鋭い爪。

 静かな月光を浴びる身体は微かに光沢を帯びた深い黒。顔の左右は顔面全体の四分の一の面積に至る複眼。

 その異形は、男から五歩ほどの位置に控えている。臣下のように恭しく佇むその姿は、何処か執事や近衛を思わせた。

「…本当に、俺の言う事をきくんだな…?」

 男は唾を飲み込んだ。それが緊張からなのか、興奮からなのかは本人にも判らない。

「あの子供が言ったとおり、本当に俺のしもべになったんだな…?」

 黒い影は答えない。だが、昨夜庭先で出会った少年が発した問いかけが、男の耳の奥でエコーする。

 君のしあわせは何?

 仕事でミスをして、叱られて、ムシャクシャしていた男は、少年に答えた。

 ムカつく連中を殺してやりたい、と。

 それは、半分冗談だった。だが、気持ちの上では嘘ではなかった。実行できる訳がないと判っているからこそ、半分冗談だっ

ただけで…。

 だが、男は引き合わされてしまった。少年が連れてきた、自分の要求を叶えられる異形と。

 少年は言った。この異形のしあわせは、主人に尽くす事なのだと。それが存在意義であり、産み出された際に付加された欲

求なのだと。

 だから、きっとお互いがしあわせになる…。だから、君をこの兵士の主にしてあげる…。

 怪物としか見えない異形を前に、男は驚き、恐怖し、半狂乱で言った。追い払えれば何でもよかったので、直前まで考えて

いた事が口から吐き出された。自分のミスを咎めた職場の先輩を殺して来いと、居場所を告げて…。

 そして翌朝までにその「命令」が完遂された事を、男は異形が自分の元へ持ってきた、職場の同僚の死体によって知った。

「…はは…。ははははは!」

 笑う男の耳で、少年の声がエコーする。

 君のしあわせは何?

「しあわせか!幸福感はあるな!何でもできるぞ!ムカつく奴らは皆殺しにできる!邪魔な上司!先輩面するムカつく連中!

全員ぶっ殺してやる!はははははは!」

 ひきつった笑いを堪え切れなくなった男は、「…いや、待てよ?」と思い直した。

「コイツが居れば何でもできるぞ…。そうだ、何でもできるんだ…。あんなちっぽけな会社にしがみ付いてる必要も、もう無

いんだよな…?」

 男の顔が、徐々に黒い笑みに染まっていった。

「…そうだ。手始めに会社の金を奪うか?それで外に出て…。デカい国に行って…。それで…」

 潮騒が響く岩場に、咽るように歪な笑い声が舞い、風に攫われて散って行った。

 しあわせは、まだたりない。



「ああ、こんばんは奥さん」

「あら旅人さん、こんばんは!」

 アジア系の青年は、夕暮れの道でお隣さんへおすそ分けを持ってゆく恰幅のいい夫人とすれ違い、にこやかに挨拶する。

 そして、すれ違った婦人が隣家の敷地へ入って視界から消えるなり、猫科の肉食獣が獲物を追うような勢いで走り出した。

(ええい!専門的な知識も無いシーホウに何と説明すればいいんだ!?いや説明以前に、絶対に機嫌を悪くするぞ!)

 フェスターから調査結果を教えられたリスキーは、船着場からヤンの家へ、夜道を急いでいた。

 上司から私見と想像を交えて仔細に語られた調査結果は非常に有り難いが、とても有り難くない内容だった。

 件の石の流入経路は不明。いつONCが得たのか、何処から見つかった物なのか、一切がわからない。

 だが、専門の鑑定士が画像を見て「ボムクリスタルではないのでは?」と発言したという事実だけでも、リスキーにとって

は焦るに足る。

 これはフェスターの私見だが、いくつものミスが重なって管理不備が出たこの結果は、どうにも偶然と考え難い。まるで、

その石が自発的に紛れ込み、潜んでいたようにも思える。

 そう、悪名高きバロールの眼のように…。

 流石に事が事なので、フェスターは調査結果を伏せておけなくなった。鑑定士も導入したので、誤魔化せばむしろ不自然に

なってしまう。今リスキーを現場に残している一連の流れについての真実を隠し通すためには、ここで隠匿工作をおこなうの

はむしろまずかった。

 だからフェスターは正規の派遣チームを管轄する担当へ情報を渡すと共に、「療養中のリスキーにも注意喚起のために情報

を伝達する。状況によって可能であれば調査と回収、もしくは破壊を命じておく」という大義名分を掲げ、組織内での正規回

線によって正規の通告をおこなう形にした。無論、詳細なデータをこっそりと送りながら…。

 こうしてリスキーは石に関してのみ、ONCの正規調査チームに気兼ねする事なく大っぴらに活動できる事になった。

 しかしアジア系の青年は、身軽になったその一方で、重圧を感じている。

 フェスターが機転を利かせて作った、自分が自由に動けるこの体制は、つまり…。

(それだけ危険な物と判断している…、という事ですね?フェスター…!)