YOU'RE NEXT

「まず再確認だルディオさん」

 ヤンが言う。ひぃふぅ苦しげに息をつき、大股に先を行くルディオを追いながら。

 真っ暗な中なので足元にも注意しなければいけないのだが、セントバーナードの巨漢は昼間のように物が見えてでもいるか

の如く、淀みない足取りでズンズン進んでいる。

「テシー経由で聞けた話では、行方知れずのふたりは部署こそ一緒だが、近所ではない。不仲でもなく、頑固ゆえに意見の衝

突はあっても、職人気質特有の物で、悪感情に発展している様子でもなかった。彼の個人的な意見ではあるものの、「殺害に

まで及ぶのは違和感がある」…というところに賛成だ」

 これに、足を緩めないセントバーナードが振り返りもせず応じる。

「おれはわからないなぁ。でも、あの殺しはひとの物じゃあないと思う」

「そう、そこだ。それも根拠に繋がる」

 肥えた虎はポケットから取り出した、マイクとイヤホンがセットの通信装置をチラリと見遣った。

「リスキーの意見が欲しいが…、上司との情報交換でてこずっているのか?」

 連絡を取りたいのは山々だが、リスキーがどんな状況で組織とのやりとりに臨んでいるのか判らない。下手に連絡を入れて、

せっかくリスキーが隠してくれているこちらの存在が組織にバレてしまっては困る。何とも歯がゆい状況だったが、向こうか

らの連絡を待つのが安全だった。

 とはいえ、ただじっと待つのは上策と言えない。目の前で進行中の件を放置してはおけないので、ふたりはテシーから聞い

た、行方不明者と同じ部署の人物の家へ向かっている。

「まったく、どっちを向いても敵と危険だらけじゃあないか…!おっと」

 ヤンは慌てて足を止めた。急に立ち止まったルディオが夜道を見渡しているので。

「何かの気配か?」

「いや、わからないなぁ先生」

 巨漢は少し困ったように、Y字の分岐路を見比べる。

 右は目的の人物の家。まだ若い男で、両親と妹と四人暮らし。その男が三人編成の部署で最後のひとりとなる。

 左は海岸へ続く道。波がやや荒い磯の方向。ルディオは、目的地よりもそちらの方向を気にしている。

「…何か見えるのかルディオさん?」

「いやぁ、匂いがするんだなぁ」

 セントバーナードは鼻を上に向け、スンスンと鳴らした。

「…これ、死臭かもしれないなぁ…」

 ギョッとしたヤンは、左右の道を見比べる。

「守るためには三人目の家に向かうべきだが、そっちも無視できないか…」

 呟くヤンは、彼自身が考え得る最悪の想像をしていた。つまり、三人目も殺されたのではないか、という想像を。

「先生、確かめてくる」

「…そう、だな…」

 ヤンは小さく顎を引いた。

「死臭がするところに生物兵器が居る可能性もある。そこで叩けるなら御の字だが…」

 目当ての相手を守りに行き、そこで戦闘になって目撃され、事情を説明する羽目になる恐れを考えると、接触前に生物兵器

と出会える可能性に賭けたくもなった。



「明日学校に戻っちまうんだな」

 砂だらけの体にシャワーを浴びて、塩ごと洗い流しながらカムタは寂しそうに言う。

「まあね。でもほら、また帰ってくるから」

 手桶で水を浴びながらハミルが笑う。こちらも寂しいのを堪えての事で、口調は軽いが気分は重い。

 カムタの家の風呂場で、ふたりはあれこれと言葉を交わす。

 今度帰ってきたら…。次はあそこへ遊びに行こうか…。

 ささやかな未来の希望を、手の届く範囲で提案し合う少年達。楽しげに笑うハミルは、しかしカムタには伏せたままでいる。

 学校は、面白くも楽しくもなくて、息が詰まりそうだという事を…。

(昔の方がよかったよ…。幸せだった…)

 ため息すら吐かないように注意するハミルは、無意識に首元へ手を遣った。

(…しあわせ…だった…)

 ハミルの顔から表情が消えたことに気付かないまま、カムタはバシャバシャを頭を洗いながら喋り続けて…。

「ハミル、聞いてっか?」

「うん。聞いてるよ」

 返事が途切れたので顔を上げ、片目を開けて見遣ったカムタに、幼馴染は昔と同じ顔で笑いかけた。

 毎日が楽しかった、幸せだった、そんな昔と同じ顔で…。



「ふたり、か…」

 肥えた体を丸めて岩場の隙間の潮溜まりを覗き、ヤンは苦々しく呻いた。

 その横で、ルディオは仁王立ちのまま周囲を見回し、気配を探っているが、意識が飛ぶ兆しはない。

「先生。三人目のところに急ごう」

 近くに危険なものはないと確認して、セントバーナードは医師に訴えた。

「ああ。可哀想だが、今は犠牲者を増やさない事を優先すべきだ。仏さん達には悪いが、もう少しだけここで我慢していて貰

おう…」

 大陸出身のヤンは、熱心な信者という訳ではないが、幼い頃に触れてきた信仰は仏教である。死体二つに手を合わせて死を

悼むと、すっくと立ち上がった。

「よし、三人目の男性のところへ…」

 肥満虎は言葉を切り、弾かれたようにポケットの通信機を掴んだ。

「おい!リス…「ポイズン」か!?」

 手早く装着して問いかけたヤンへ、

『「ストライプ」!何処に居るんですか!?こっちは今ついたところなんですが…』

 焦っているような、しかし少しホッとしたようなリスキーの返事が届く。

「何処って…、出たんだよ生物兵器が!もうふたり殺されている!」

『何ですって!?誰が!?まさか坊ちゃんが!?』

「違う!彼じゃない!…島の住民がふたりだ…!」

 苦々しく吐き捨てたヤンに、

『ほっ…』

 リスキーが漏らした、安堵のため息が聞こえた。

 それは、悪意などない、心からの安堵だった。カムタもヤンも無事だと、単純に安心したが故のため息だったが、ヤンは頭

に血が昇ってしまう。

「…島の住人に、犠牲者が出たんだぞ…!?」

 低い低い虎の声には、慙愧と苛立ちが宿っている。

 リスキーのせいではない。それはヤンにも判っている。彼らも命がけで事態の収拾に当たっているという事も、勿論判って

いる。
だが、元を辿れば彼らの会社が持ち込んだ危険。その事実は変わらない。青年に当たっても仕方がないと理解していな

がら、しかしヤンは態度が硬くなってしまう。

『いえ、失礼。…それで、今どちらに?「ウールブヘジン」は一緒ですね?』

 軽く詫びて話を続けるリスキー。それはリアリスト故の態度で、危機を前にした今はそうあるべきでもあったが、ヤンはそ

こまで割り切れず、憤怒の形相に顔を歪めた。

「…一緒だ」

 苦々しく応じるヤン。言い争っている場合ではないと理解しての対応だが、しかし進行中の事件のあらましと現在の状況を

仔細に伝えながら、思う。

(結局、住んでいる世界が違うのか…)

 一緒に居る時間が長くなり、ひととなりを知って、リスキーという男を理解したつもりになっていたが…。

(…彼の何処かに兄の面影を重ねてしまって、勘違いしていたんだな…)

 結局自分達の間には大きな隔たりがあるのだろうと、ヤンは一抹の寂しさを覚えた。

「細かい話は後にするが、狙われている人物に法則性があるかもしれないと、ルディオさんと相談して仮定した。今は、その

襲撃されるかもしれない人物のところへ向かっている」

 今は割り切れ。そう自分に言い聞かせて、ヤンはリスキーに現在地と目的地を告げ、通話を切った。

「…行こう」

 濡れた岩場の上をよたよたと歩き出すヤンに、ルディオは何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わずに移動を始め、ヤ

ンの前に立って進む。

 リスキーの安堵のため息は、ルディオには、責められるべき物だとは思えなかった。

 だが、ヤンにそれを…リスキーの気持ちを語ることは、ルディオにはできない。

(兄弟だって事はナイショだって、約束したからなぁ…)

 荒い風が、潮騒を宵の空に巻き上げて、ふたりの体を潮で濡らした。



 それから十数分後、ルディオとヤンは目的の家まで辿り着いた。

 ルディオに変化の兆しはなく、これは間に合ったのか、それとも、そもそも見当外れな予測だったのか、とふたりはひそひ

そ相談し…、

「…まさか、外出中という事は…?」

 ヤンがハッとした。

「出先で襲われてる、って可能性かぁ?」

「あり得る!…えぇい、家の中に居るかどうか、何とか確認できないか…」

 生垣同様の壁を成す、敷地を囲む天然の木立を睨むヤン。この島の民家はだいたいがそうなのだが、木々を切り拓いた中に

家を建てて強風を防ぐようにしているので、道から母屋まで距離があり、直接覗くのは難しい。

「じゃあ、先生は待っててくれ。おれが見てくる」

 言うが早いか、ルディオは出入り口になっている木々の切れ目の方ではなく、パンダナスの木立の中へとのっそり踏み入っ

て行った。

 そして、二分後…。

「三人だなぁ。親ふたりと、女の子だけだ」

「何と…!悪い予想ばかり当たる!」

 顔を顰めたヤンの尾が、怯えるようにフルフル揺れた。

「行き先は何処だ?日が沈んでから何処に行く?」

 考えを巡らせるヤンは、

「…ルディオさん?」

 ふと、黙りこんだ巨漢の顔を見遣った。

 不安を煽るような奇妙な静かさが、そこにあった。

 ヤンが見上げる双眸は琥珀の光を宿し、じっと、闇夜の一点を見据えている。

「…ウールブヘジン…!」

 その呼び名に反応するように、唾を飲み込んだヤンを一瞥し、変じた獣はすぐさま顔を戻した。

「何か居るのか?」

 緊張しながら問うヤンは、しかし答えを期待してはいない。この獣はこちらの意図をある程度汲むが、言葉を発さず、意思

表現をしないのだから。

 すん、すん、と二度軽く鼻を鳴らした獣は、ドッ…と音を残してヤンの前から消える。

「!?」

 目の端に残った像を反射的に追ったヤンは、闇の中へ踊り込む獣の、既に小さくなりつつある背を捉える。そちらは、さき

ほど歩いてきた道とも、死体が二つあった岩場とも違う方向だった。

「あ、あっちか!?」

 慌ててドタドタ駆け出すヤンの視界から、獣の姿はたちまち消えてしまった。

「こちら「ストライプ」!」

 ヤンは通信でリスキーへ呼びかける。

「「ウールブヘジン」が感知した!移動中!現在地と進路は…」



 その通信から、約一分後…。

(さて、幸運なのか、不幸なのか…)

 アジア系の青年は、横倒しになったミントグリーンのヴェスパをチラリと一瞥しつつ、ベルトから引き抜いたテープを右手

に巻き付けた。

 生物兵器すら死に至らしめる猛毒が塗布されたテープを巻きつけたリスキーの手は、必殺の毒手となる。

(シーホウのバイクを転倒させたのは不幸だったが…、出くわしたのは、幸運だった)

 青年が静かに見据える相手は、黒光りする異形の体躯。

 ヤンのスクーターを拝借し、現場へ急行しようとしたリスキーは、最前の通信連絡を受けて目星をつけ、この異形の移動ルー

トを見事に当ててのけた。

 そして、鋭いその注意力をもって、やり過ごそうとして潜んでいた異形の存在を感知。気付かれたと知った異形は、スクー

ターに乗る青年へ奇襲を仕掛けた。自分の存在を察知する者…、すなわち、排除すべき障害と認識して。

 とはいえ、済んでのところで身をかわしたリスキーは、バイクを転倒はさせたが本人は無傷。受身を取るまでもなく二本の

脚で見事に着地し、すぐさま臨戦態勢を整えていた。

(ウチの仕様のアントソルジャー…。間違いなく流出個体の一匹だ。シーホウが言った件に絡んでいるのはコイツか…)

 蟻をモチーフにしたこの異形は、生産の容易さがウリの生物兵器で、かつて追ったステルスホッパーと比較すれば性能的に

かなり劣る。

 彼我の距離は6メートルといったところ。

 一対一ならば後れを取るリスキーではない。しかし…。

(手早く片付けて、シーホウを安心させてやらなくては…)

 油断なく前傾し、攻めの姿勢に入るリスキー。

 手強さが判るのか、身構えるように膝を軽く曲げるアントソルジャー。

 先んじたのはリスキー。足音も微かな、しかし素早い前進。一足飛びで1メートル半詰める動き出しが、間合いを大幅に削

り取る。

 迎え撃つソルジャーアントは、長身を折って四つん這い。六本の手足が土を掻き、低い姿勢でリスキーに肉薄する。

 唸りを上げて突き込まれる右の鉤爪。しかし見切ったリスキーは最小限の動作で避け、首を傾げて頬の2センチ横を通過さ

せた。

 そこはもう、リスキーの距離。触れるだけで大打撃となる毒手が、蟻兵士の複眼へ迫り…。

「!?」

 そして、リスキーは気付いた。

 蟻が飛び出してきた茂みの中に、男がひとり、立っている事に。

(見られた!?)

 目撃者は消す。普段のリスキーであれば躊躇も動揺もしない。だがこの島では、島民全てが守る対象となっている。島民が

大事なのではなく、ヤンが守りたいと願っているから…。

「っく!」

 仕掛けるタイミングが僅かにずれた。惑いが腕の角度を、速度を、鈍らせてしまった。結果、蟻は毒手をかろうじて回避し

ていた。

 一度はかわしたアントの腕、しかし二本目がスイングして大きな弧を描き、迫る。

 攻撃を空振りしたリスキーは腕が伸びきったその状態で、膝を引き付けて足合わせる。

 骨が砕けたかと思うような、激しい打撃音。高々と宙に舞うリスキー。

 しかし、ダメージは殆ど無い。

(ちっ!私とした事が…!)

 横合いから叩きつけられる腕に靴裏を合わせ、蹴り跳んだリスキーは、痺れが腰まで達する衝撃で盛大に顔を顰めつつ、空

中で身を捻った。

 そのまま背を丸めて一回転し、飛んでゆく方向へ下半身を向け、そのままであれば激突していただろう木の幹に両脚を揃え

て着地する。

 そこから落下し、地面へザッと降り立った青年は、

「お、おい!構うな!行くぞ!」

 奇妙に裏返った男の声を耳にする。

 直後、アントは身を翻し、潜んでいた茂みへ飛び込んだ。

「…な…!?」

 絶句するリスキー。

 茂みが耳障りにがさつく音が、あっという間に遠ざかる。

 身構えたままのリスキーは、追う事ができなかった。

 足が衝撃で痺れていた…だけではない。それ以上の衝撃を、精神に受けている。

(今…、確かに、「命令していた」ぞ!?それに従っていた!)

 気配が完全に消え失せた茂みと暗がりを凝視し、リスキーは愕然としていた。

 通常、ONCの生物兵器は主を登録するための手順を必要とする。そのマスター登録は専用の機材を用いておこなわれる。

流出した生物兵器が、所定の手順を取らずに主を決める事はほぼ無いのだが…。

(…能力者…、「虫使い」の類か?それとも、機能不全で異常なマスター登録がおこなわれてしまった?)

 今しがた命令を下した者が特殊な力を持つ者で、アントをコントロールできているという可能性と、アント自身が機能に障

害を起こしており、マスターと誤認して指示に従っている可能性を考えたリスキーは、小さく舌打ちした。

 どちらにせよ、敵は「ひと」である。顔も見ておらず、声も裏返っていたので特徴を把握し兼ねた。

 これはある意味、島に紛れ込んだ生物兵器よりも探し出すのが難しい。

「島民を守る。その中に潜む「敵」を始末する。…やれやれ、これはまた骨が折れますね…」

 ひとりごちた青年は、ふと、風切り音を聞いて首を巡らせた。

 直後、ザンッと傍の茂みを踏み散らし、巨大な影が地響きを立てて着地する。

「旦那さん!?」

 声を上げたリスキーの目の前で、屈み込んだ着地の姿勢から、ぬぅっと身を起こす獣。

 その琥珀色の目がリスキーを映し、足先から頭の天辺まで見回すと、次いで鼻をヒクつかせて、アントが消え去った方向へ

顔を向けた。

「…ついてますね、これは…!」

 リスキーは口角を吊り上げた。

 一度は追うのを断念したが、状況が変わった。

「旦那さん。敵がこの先に向かって逃げました」

 目の色が変わった巨漢には言語が通じていない。そのヤンの仮定を踏まえて、リスキーは身振り手振りで訴える。

「生物兵器です。腕が四本の。黒いヤツ。そしてソイツは、…ひとに付き従っています」

 どこまで通じているか不明ながら、リスキーは獣へ話し続けた。

「逃げている今なら特定できますが、ひとの中に紛れ込まれたら、探し出すのが難しくなります」

 この時、既にリスキーは方針を固めていた。

 蟻の主となった者が誰であれ、それはもう、守るべき島民ではない。

 蟻に命じてふたりも殺害した以上、もう堅気ではなく、「こちら側」の存在。堅気でないなら配慮は要らない。排除すべき

「敵」として対処するだけの事。

「追ってください。ヘマをして足が痺れてまして、少し遅れますが…、私も追いかけます」

 リスキーの言葉をじっと聞いていた獣は、返事をすることも、頷くことも無かったが、リスキーが示す夜の先へと視線を向

けた。
それは、リスキーにとって何より確かな意思表示。

「お願いしますよ…!」

 ザッと草が揺れる。巨躯が移動したそこへと、埋めるように流れ込んだ空気で。

 猛スピードで茂みの奥へ、木々の間へ、宵闇の向こうへと飛び込んで行った獣を追って、倒れたスクーターを立たせて道の

端に寄せたリスキーも、少し鈍い歩調で歩き出した。

 先行する獣は、これまでの経験上、相手が要る方向へと最短距離で移動する傾向があると判っている。巨体が押し退けて突

き進んだ闇を辿れば、始末すべき相手と出会えるはずだった。

(ま、急がないといけないが…。ええい、足の痺れがしつこい…!)

 リスキーは通信機に触れ、口を開く。

「こちら「ポイズン」。目標と接触しましたが、取り逃がしてしまいました。「ウールブヘジン」と合流し、追跡中です。現

在地と方向は…」

 もうひとり、始末すべき者が居る事と、それが島民の可能性もあるという事は、伏せておいた。



 それから数分後、汗だくになって走ってきた虎は、道端に停めてある、キーが抜かれた愛車を見つけた。

 その側面についた夥しい擦り傷を目にし、ゾッとして周囲を見回すが…、

(血痕などはない…。転倒した跡は…、あそこか。通信ではおかしなところは無かったし、声も乱れていなかった。どうやら

リスキーは無事なようだが…)

 流石にプロフェッショナル。そうそう負傷するタマではない。

 一安心したヤンは、ふと考える。

(しあわせ事件とは無関係…と考えていいか?リスキーが新しい情報を得られていれば進展するかもしれないが…)

 直接命を脅かされる生物兵器と、得体の知れない自傷行為すら誘発する事件。どちらがマシなのかは判断がつかない。危険

であるという点では同じだが。

 予備キーを取りに戻るよりはこのまま移動した方が早いと考え、ヤンはスクーターをその場に残し、先の通信で告げられた

方向へ移動を開始する。

(何にせよ、脅威が一つ取り除かれるなら大歓迎だ。無事に仕事を終えてくれよふたりとも…)



 その頃カムタは…。

「アンチャン遅ぇなぁ…」

 居間の窓から外を眺め、とっぷりと溜まった夜の闇を見透かす。

 自分とハミルに気を遣って外をうろついているはずのルディオが、今日はまだ戻ってこないのが気になった。

「先生んトコかな。テシーのトコで新聞とか読まして貰ってんのかもしれねぇな」

 居間のテーブルに頬杖をつき、肉が厚い頬を押し込んでタコ口になった面白い顔をしながら、敷地入り口にあたる木々の切

れ目を眺めている少年は、ポツリと呟く。

「…アンチャン、オラとハミルが遊んでる間、寂しかったかな…」

 気を遣って外してくれていたが、一緒に過ごそうと誘うべきだっただろうか?そんな事を思ったカムタは、腰を上げて屋内

の流し場へ向かった。

 ほったらかしにしてしまっていた埋め合わせに、晩飯には美味い物を食べさせてやろうと考えて。

 もっとも、カムタもまた気遣われて事件から外されており、ルディオはルディオでやる事があったので、少年が気に病むよ

うな事では無いのだが…。

「あんまり遅かったら通信機使うか。仕事じゃねぇけど、ちょっとぐれぇ良いだろ?…いや、やっぱダメかな~…」



 闇に目を凝らして疾走する、ハンカチで簡易マスクを作って顔の下半分を隠したリスキーは、まず音を聞いた。

 ゴン、と重たい打撃音。周囲に草摺れの音が漂うが、それすら掻き消し腹に響いた。

 直後、前方から黒い塊が飛んできた。

 視認範囲の外から飛来したそれを、間髪入れず横っ飛びで避けたリスキーは、

(アント!既に開戦している!)

 体勢を整え、生物兵器を追うように闇の中から躍り出た巨躯を認める。

 アントを吹き飛ばし、さらに追撃を加えるべく迫る獣が、リスキーを横目で一瞥しながらその眼前を通過する。

 重く大きなその体躯からは信じられないほどの機動性。アントが地面に当たって転がり、起き上がろうとしたその時には、

既に眼前へ迫っていた。

 アントの左肩は大きく凹んでおり、腕が一本ダラリと下がっている。素拳の一撃で強固な外骨格は深くひび割れていた。

(我が社の生物兵器が物の数でもない…。散々見たが、旦那さんは相変わらず怪物染みているな)

 感心して驚いてだけいられるような悠長な状況でもない。リスキーは仕留めにかかる獣と反撃するアントから目を外し、前

方へ目を向けた。

 そこに、居る。

 獣は危険性が高いものを優先して排除するが故に、そこに居るもうひとりには見向きもしなかった。だが、リスキーにとっ

ては、そちらこそが脅威の源。

「さて、動かないでいて貰おうか」

 ハンカチのマスク越しに響く低めた声で、リスキーは話しかける。

「どうやってマスター登録した?アレを何処で見つけた?」

 ゆっくりと歩を進める青年の行く手で、闇が音を立てた。

 逃げようとする若者を追い、猫科の肉食獣の如く素早く駆けたリスキーは、苦もなく追いつき、走る若者の右足が後ろに出

たタイミングで軽く左へ蹴った。

「ぎゃっ!」

 自分の左足に蹴躓く格好でうつ伏せに転んだ若者は、起き上がろうとして、前に回りこんだ何者かの足に気付く。

 おそるおそる顔を上げた先には、マスクで顔の半分を隠した青年…。

(身なりから言って島の住民だな。さて、どう対処するべきか…)

 事件の背景を知りたいが、ヤンが来る前に始末すべきだとも思う。そんなジレンマを抱えながら見下ろすリスキーは、

「…ん?」

 転んだ拍子に男が手放した、薄い封筒を見つける。

「………」

 射竦められたように動けない男の前で、リスキーは油断なくそれを手に取った。

 普段であれば、隙を作らないためにそういった事は後回しにするか、部下や同僚などのサポートする他の手がある時におこ

なうのだが、今回あえて相手を監視しつつ封書を拾うという行動に出たのは訳がある。

 封筒に記された相手方名に、「ロヤック」と含まれているのが見えた。

(これは確か…、テシーさんのお父さんの名前…)

 口に出さず、封をされていないそれから中身を抜き取ったリスキーは、白紙に切抜いた文字が貼られたそれを読み上げる。

YOU'RE NEXT(次はお前だ)…」

 じろりと見下ろすリスキー。若者はカタカタ震えながら目を見開いている。

(なるほどな…)

 この男は既に一線を越えていたようだと、アジア系の青年は手紙の一文で悟った。

「聞こうか。アレと何処で出会った?どうやって手なずけた?アレで何をした?そして何をしようとした?一つずつ正確に明

確に答えて貰おう。黙るなら、殺す」

「そっ、そ、そ、それっはっ!」

 裏返った、不快に高い声で男は話し始めた。這い蹲り、卑屈な上目遣いで。

 リスキーは時折頷いて先を続けさせ、事件のあらましを理解して行った。

 若者は昨夜、子供と出会った。顔はあまり覚えていないなぜならば暗くて殆ど見えなかったから。だが子供の声だったから

間違いなく子供のはずと思うので子供だろう。との話である。

 そして黒い異形を預けられた。何なのかはよく判らないが主を探していて主に尽くす事が幸福なしもべ。その主に自分が選

ばれたから主になった。と話は続けられた。

 最初は半信半疑で、むしろ不気味で怖くて、職場のムカつく先輩の名前を挙げてそっちへ行かせようとしたら、殺して死体

を持ってきたんだ猫みたいに。そう続いた話でリスキーは眉の端をピクリと動かす。

 怪物が言う事をきくと判ったから利用して何かデカい事ができないか考えた。それで、先輩を殺して憂さ晴らしするよりも

社長を殺して金を奪ったほうがいいと思った。社長なら家に大金があるはずだからそれを使って外国に行こうと思った。

 せっかくだから脅迫状でビビらせてやろうと考えて、手紙を作った。

(やれやれ…)

 リスキーは、男の幼稚で無計画な行動の一部始終を聞きながら、話の後半では眉一つ動かさなくなっていた。

(坊ちゃんはやっぱり善人だ。このクズとは人種が一緒でも中身がまるで違う)

 この男と同じように…、否、それ以上に強大な力を持った者を傍に置きながら、悪事の一つも思いつかないのがカムタだっ

た。むしろリスキーは安心すらしてしまう。このぐらい腐っている、馴染みの相手に近いこの若者の相手をするほうが、気を

遣わなくていい。

 そしてリスキーは顔を前へ向ける。男の後方で地面が震えるほどの打撃音が響き、椰子の葉を叩いて高い放物線を描いて、

黒い異形が落ちてきた。

「ひぃっ!」

 ドザンと地面に落ちた異形に驚き、若者が悲鳴を上げる。

 アントは腕を二本失い、一本は肩を砕かれて脱力している。あちこちひびだらけの満身創痍だが、獣の戦闘力を考えればか

なり手間取ったものだと、リスキーは感じた。

(マスター登録が機能しているな。時間稼ぎに徹したのか…)

 敵の排除が無理だと判断したアントは、自らの生存を優先せず、主とした若者の為に抵抗していた。ホッパーやマンティス

と比べれば弱い種であっても、時間稼ぎに徹すればこのとおりである。

 既に戦闘能力も逃げる力も残っていないと判断したのか、獣はゆっくりと、アントの動きに注意を払うそぶりを見せながら

歩み寄る。

「お、おい!お前は俺のしもべだろう!?殺せ!こいつらを殺して、俺を守れ!」

 ヒステリックに甲高い声を上げる若者。ボロボロのアントは体のあちこちを痙攣させながらも立ち上がり、主を守るべく、

獣の進路の正面に立つ。

(…哀れだな…)

 細く息を吐くリスキー。アントにはひとと同じような精神性は無いが、それでもひとの物に似た忠誠心を持つ。設定された

主に対して捧げるその忠誠は、決して揺らがない。守るためなら傷付く事も死ぬ事も厭わない。

「…「ウールブヘジン」」

 リスキーは口を開いた。

「私がやります」

 トンっと、軽やかに地が蹴られる。

 這い蹲っている若者を飛び越えた青年の手刀が、毒のきらめきを椰子の葉越しの月光と共に宿して、ひび割れたアントの肩

口へ打ち込まれた。

 既に反応も鈍くなっているアントは、跳躍の気配を察して振り向く途中で毒を打ち込まれ、リスキーを追い払おうとするよ

うに残った腕を緩慢に振り、そして…。

「…哀れだな…」

 今度は口に出して呟いたリスキーは、棒のように倒れて動かなくなったアントを見下ろす。

 獣はその背をしばし見ていたが、その視線を、へたり込んでいる若者へ向けた。

 ゆっくり踏み出される獣の大きな足。

 セントバーナードの獣人の姿をした、異形を圧倒する怪物の接近で、若者はジョボジョボと失禁した。

「た、たすけ…!」

 もはや悲鳴さえ出て来ない、無様に震える若者を映す琥珀色の両目は…、

「待ってください「ウールブヘジン」」

 手を上げて自分を制したリスキーに向く。

 身振り手振りを交え、潜めた声で獣に何かを訴えているアジア系の青年を見ながら、

(も、もしかして、助かる!?)

 男は、期待で目を潤ませた。

(そ、そうだよな!殺したのはアイツだし、俺が直接やったわけじゃない。だから、法律でも俺は殺人者にならないんじゃな

いか?そうだよ、俺はそんなに悪くないんだ!見逃してもらえるんだ!)

「…では、ちょっと失礼してお借りします」

 話がついたらしいリスキーは、獣の横に回り、太い腰の後ろ側に装着されていた鞘から、大ぶりなガットフックナイフをス

ラリと引き抜いた。

「え?」

 男は目を丸くする。その瞳に映りこむのは、鋭くも厳かに、冷たくも静かに光る、精霊銀の鋭い刃。

「え?え?」

 歩み寄るリスキー。疑問の声を漏らし続ける男。

「…え?」

 その眼前に立ち、リスキーは囁く。無慈悲に、無関心に、無感動に…、それこそ、切り抜いて貼り付けられた文字列のよう

な無機質さで。

YOU'RE NEXT(次はお前だ)」

 銀光が奔った。

 カッ…と右眉の上に軽い衝撃を感じ、そこに手をやった男は、ぬめりを感じた手を目の前に持って行って、二秒おいて悲鳴

を上げる。

 が、それも即座に途切れた。

 手首を返したリスキーは、男の手の甲に浅く傷をつけ、瞬き一つの間にナイフを回して肘のすぐ上に傷をつけ、さらにリス

トを返して男の喉笛をサクッと切り裂いた。

 喉を押さえた男は、連続する痛みを熱さと感じながら、最後の熱を覚える。

 トン、と胸に振動。

 肋骨の隙間を縫って心臓を刺し、素早く刃を引き抜いて身を翻したリスキーの足元に、ビビュッ、ビッ、ビッ、と断続的に

血が跳ねる。

 やがて、最後の一刺しだけは苦痛を伴わないように決められた男は、へたり込んだ姿勢からゆっくりと、うつ伏せに倒れて

いった。アントと並ぶ格好で。

 横向きになった顔で、光を失いつつある目が、事切れたアントを映す。

 そして小刻みに震える手が、そちらへのろのろ伸びて触れようとする。

 ゴボゴボと血泡が溢れる口が微かに動いて、声にならない音を漏らす。

 

 しあわせ

 おれの

 しあわせ

 

 そしてその手は、はたりと地面に落ちた。

 彼が求める幸せ、アント…つまり、得たかった「力」へ、他者を排除できる「力」へ伸ばされたまま。

 見下ろすリスキーの表情は、硬かった。

「…これも「しあわせ事件」か…」

 素敵な殺し方もできるリスキーが、ルディオのナイフを使って、男にわざわざいくつか傷を負わせたのは、先に殺されたふ

たりに近い外傷を作るためだった。

 一人目は犠牲者。容疑を掛けられた二人目も犠牲者。真犯人である三人目も犠牲者…。三人とも犠牲者で、「刃物で犯行に

及んだ」犯人の正体は不明。表向きには事件は未解決。

 結末としてはそれがいいと、リスキーは考えた。そもそもアントの存在を明らかにできないのだから、偽りの結末を用意す

るほかない。

 犯人だった若者の家族に罪はない、腐った身内による犯行のとばっちりを受ける必要はない。容疑者扱いされた二人目の疑

いも晴れるだろう。

 それでも、失われた事には変わりないが。

「…どう説明しても、先生は怒るでしょうね…」

 軽く肩を竦めながら向き直ったリスキーの前で、獣の琥珀の瞳は色を暗くしてゆき、トルマリンの輝きに戻る。

「…リスキー」

 ルディオは青年の顔を見下ろし、アントの死骸を見遣り、事切れている若者を眺め、仲間の顔に視線を戻した。

「終わった、のかぁ?」

「ええ。ですが、一小節が終わった…、といったところかもしれません」

 応じたリスキーは、意識が飛んでいた間の事をルディオに説明しながら考える。

 男にアントを与えたという「子供」…。

 フェスターに確認を求めた「結晶」…。

 それらは、きっと繋がっている。浜辺で見た、カムタと遊んでいた少年の首元の光を思い出しながら、リスキーは思案する。

 可能性は高い。というよりも、この状況に至る複数の可能性を吟味する中で、ぴったりと合致する物はそれしかない。

(結晶は、「バロールの眼」の同類…。そして、あの少年が身に付けていた物は…。アントのマッチングにしても、絶対に偶

然ではなかったはず…)

 ONCの生物兵器は、今現在作られているといっても、元を辿ればオーバーテクノロジー。それと同源の、より上位の存在

であれば、あるいは…。

(さて、皆にどう話せばいいか…)

 リスキーはほどなく、自分達がやってきた方向へ目を向けた。

 そこの闇の奥から、のたくたと太った虎が駆け足でやって来る。

「終わりました。ひとまずは…」

 開口一番そう言ったリスキーに、惨状を見たヤンは何か言いかけてから一度口を閉ざし、

「…ふたりとも、怪我は?」

 別のことを口にした。

 喉まで出かかった、「何故殺した」という問いは飲み込んだ。リスキーは必要な殺しを躊躇わない。逆に言えば、殺さねば

ならない理由があっての事だろうと察しがついたので。

「怒らないんですか?」

「…仕方がなかったんだろう?」

 何かを押し殺しているようなヤンの声に、リスキーは懸念を覚える。

 むしろ、怒ってくれた方が良かった。弟には「こっち側」へ来て欲しくなかったから。

 ルディオは、真実を共有できない兄弟の顔を見比べて、

(言えれば楽になるのかなぁ。それとも、辛くなるのかなぁ。どっちが、ふたりにとって幸せなんだろうなぁ…)

 口を出すこともできないので、ただ、沈黙していた。



「カムタとたっぷり遊べたのか?」

「うん!」

 グラスを磨くテシーに、カウンターにかけ、食事を終えたハミルが満面の笑みで頷いた。

 夕食に出された茸と豚肉のソテーは、ワインで味付けしたテシーの新作料理。そろそろ形になってきたのでメニューに加え

ようかと思案している自信作だった。

「そっか。カムタも喜んでたか?」

「たぶんね」

 満足げなテシーに再び頷いて、ハミルは胸元の石に触れた。

「二日間、しあわせだった」

「なら良かった。学校も大変だろうし、たまに帰ってきた時ぐらいは思いっきり遊ぶのが幸せだろう」

 尾を振りながら冷蔵庫を開け、ココナッツミルクと蜂蜜で味付けしたパンケーキを取り出すテシーの背に、

「ホットケーキ焼くな。好きだったろ?」

「ねぇ、ところでさ?」

 弟の声で、静かな問いかけが注がれた。

「ん?何だ?」

 皿を取り、冷蔵庫のドアに手をかけ、締めようとしたテシーの耳に…。

「君のしあわせは、何?」