Trample
「死体は三人分、岩場に放置。生物兵器は死骸が傷んだ状態で引き渡し…こちらはいつも通りか」
波が打ち寄せる夜の岩場で、ヤンは加害者と被害者の遺体を見下ろしながら呟く。
隣に立ったリスキーは、弟の顔をそっと盗み見た。
虎の伏せがちな目には悲哀が宿る。仕方がないのだと自分を納得させているのだろう。
「加害者と被害者が、同じく犠牲者として扱われる、か…。さぞ無念だろう…」
波音が攫ってゆくヤンの呟きに…。
「死者への配慮は尊い物ですが、未来は生きている者の物です。平穏の為に我慢して貰いましょう」
リスキーの言葉は、慰めのようではあったが淡々としている。その概念が彼にとっての当たり前だったので。
「上辺の平穏だな…」
「一時の辛抱です。島を蝕む脅威と言う真実は、明るみに出ないまま葬るのが一番良いでしょう?私の存在同様に、知られな
いのが一番です」
リスキーの言い分も判る。皆に真実を告げ、大事になれば、ONCが本格的な準備で「後始末」に来る。そうなったらリス
キーにも止められない。
あるいは、証拠処分に乗り出したONCと全面対決になっても、ルディオやリスキーは生き延びることができるかもしれな
い。運がよければカムタと自分も助けて貰えるかも知れない。
だが、生き延びたとしてもそれは既に「敗北」だった。
島の住民全てを守れる訳ではない。攻めて来られた時点で、もう「勝利」はない。
浮かない顔を巡らせて、ヤンは見張りに立つセントバーナードを見遣った。
「…行こう。事件を終わらせなければ…」
気配を察して振り返ったルディオは、もういいのか?と言いたげに小首を傾げていた。
ここまでの死体と死骸の片付け作業中に、リスキーはヤンとルディオへ調査結果とONCの対応を伝えていた。
流出した結晶の一つは出所も正体も不明な品であり、先にヤンへ伝えた「バロールの眼」といういわくつきの品と同類…、
「意思を持つオーパーツ」の可能性がある事。
もしそうである場合、意思はあってもひととは大きくかけ離れたメンタリティを有している可能性が極めて高く、何をする
か判らないという事。
そして一連の「しあわせ事件」は、まず間違いなくその品が原因である事。
また、それを所持していると思われる少年を、この島で見かけた事…。
「ハミル・ロヤック…と言いましたか?テシーさんの弟で、坊ちゃんの友人の…」
結晶を「危険生物と変わらない一個体」とみなし、リスキーは固有名称をつけた。
「ジ・アンバー」と。
「お?お帰りアンチャン!」
随分と遅く家に戻ったルディオを、カムタがドタドタと駆け寄って出迎える。
「腹減ったろ?飯にしような!」
大きな手を掴み、笑顔で引っ張った少年は、しかし…、
「ちょっと待ってくれカムタ」
手を引っ張り返されてたたらを踏む。
「っと!どうしたアンチャン?」
振り返ったカムタの屈託の無い笑顔を見ながら、セントバーナードは口を開いた。
「ハミルは、帰ったのかぁ?」
「うん。日が暮れてから帰った。テシーのトコで飯だって…」
カムタが応じるや否や、ルディオは通信機を起動する。
「こちら「ウールブヘジン」。バーに行ったらしいなぁ」
少年は巨漢の顔をきょとんと見上げたまま、「へ?」と首を傾げた。
「仕事」用の通信機を使ってハミルの所在を連絡する。その意味は…。
「あ、アンチャン…?」
自分を見上げてくるカムタの顔に、ルディオは認めた。自分の命が危険に晒されてなお怯まない、肝の太い少年が見せた、
色濃い不安を。
「カムタ。落ち着いて聞いてくれ」
「うん?ん、判った」
表情を改めて頷いた少年の両肩に、巨漢は大きな平手を軽く乗せ、単刀直入に述べた。
「ハミルが、まずい事になっているかもしれない。たぶん、ネックレスに「とりつかれて」る」
(さて、あの少年は居るだろうか…)
リスキーはロヤック邸の様子を暗視ゴーグルで窺いながら、連絡を待っていた。
ハミル本人の姿は見えない。そして、中に居るとしても迂闊に動けない。騒ぎにならないよう処理するには、寝静まったの
を見計らって侵入するのがベストだった。
(とはいえ、ブツを取り上げて一件落着…と行けばいいが…)
リスキーの表情は厳しい。
彼らがレリックと呼ぶオーパーツ群、その中でも意思に近い物を有する品はレア中のレア。総じてかなり高位の品物となる。
今回の品がまさにそうである事は、アントが機材も無しにマスター登録されてしまった現実を考えれば間違いない。
問題は、貴重であるが故に破壊し難い…という事ではない。どんな力を宿しているか見当がつかないので、対処が難しいと
いう点である。
モノによっては所持者の意識を乗っ取る場合もあり、また別のモノはそうと気付かれないまま持ち主をコントロールする。
単純に人類以上の知能を持ち合わせている物まであるので、極めて危険な処分対象だった。
今回の場合、ハミルから取り上げた瞬間に、手にした者がそのまま石の影響下に入る可能性もあるし、そもそも取り上げら
れたハミルが…。
(心をゴッソリやられていて、精神に異常をきたしている場合もある…)
メンタリティが大きく異なるレリックから精神に干渉されたその副作用で、廃人になっている可能性もある。いわば、レリッ
クが間借りする際に、精神の一部を削って捨ててしまっている可能性も無いわけではない。今日カムタと喋っていた少年が、
一体「何割」元の心を残しているのか…。
(坊ちゃんには辛い結末になるかもしれないな…)
案ずるリスキーの懐で、端末が鳴った。
「了解した。…自宅へ行かなくて済むのは幸いだな…」
通信を切ってひとりごちたヤンは、テシーの店の前で看板を遠間から見上げた。
できればロヤック家にはお邪魔したくなかった。テシーの父は、かつてヤンを救助した偉丈夫。恩を感じているのもあり、
ヤンにとっては恐縮してしまう相手で、彼の前では「クールなドクター」のポーズを保つのが難しい。大人しくなっている自
分を見たリスキーからどうからかわれるか、想像もしたくなかった。
(ハミル君が中に居るなら、何処かへ行ってしまわないように見張らなければ…)
そろりそろりと店に近付き、ドアの傍で壁に身を寄せて聞き耳と尻尾を立てるヤン。しかし、話し声は全く聞こえず、店内
からは音楽と、食器を洗う音が流れ出てくるだけ。
(ん?静か過ぎるな…)
こっそり窓から店内を覗くと、カウンターの向こうに居るテンターフィールドの若者の背中は確認できたが、その弟の姿は
見当たらない。
(テシー君しか居ないな…。もしかして、もう出てしまったのか?)
ヤンは手早く通信機を起動し、「こちら「ストライプ」。ターゲットは不在の様子。行き先を確認して再度連絡する」と、
状況を知らせるメッセージを飛ばす。ここにハミルが居ないなら、先の情報に従って皆が店へ集まっては時間のロスになって
しまうので。
「…こんばんは」
何食わぬ顔でドアを開け、店内に入った肥満虎は、
「お!いらっしゃいヤン先生!」
振り向いたテシーに笑顔で迎えられる。やはり店内にはテシーしかおらず、トイレの表示も空になっていた。ハミルは確か
にこの場に居ない。
「夕飯ですか?いや丁度良かった!今日は貝がたっぷり入ってるんですよ。ボンゴレビアンコとかどうです?それともワイン
蒸しにしましょうか?」
「ああ済まない。有り難いんだが今はちょっと時間が無くてね…」
上機嫌で訊ねてくるテシーに応じるヤンは、悟られないよう慎重に言葉を選び、振る舞いに気をつける。ハミルがまずい事
になっているのはギリギリまで伏せておきたい。
(ハミル君の行方を確認するのに、不自然でない切り出し方は…)
ヤンは即座に考えを固め、口を開いた。
「ハミル君はこっちに来たはずだと、カムタ君から聞いたんだが…」
「ああ。さっきまで居ましたよ」
応じるテシーはカウンターへ歩み寄ったヤンに背を向け、冷蔵庫からアサリのボウルを取り出す。
「入れ違いになったかな?明日は出発なんだろう?」
「ええ。そうなりますよ」
フライパンが火に掛けられて、油が表面を光らせる。
「それで、明日会えなかったら困るし、今日の内に少し勉強のアドバイスをしようと思ったんだが…、いや、大層なことじゃ
あなく、気の持ち方のアドバイスだがね」
「ええ。そうですか」
ヤンは口を閉じる。
テシーはアサリをフライパンにあける。
パチパチと油が跳ねる音。
フライパンを揺すって具を動かす若者の肩が、大きく揺れる。
いつも通りに鮮やかに、いつも通りに滑らかに、いつも通りに生き生きと、フライパンが具を跳ね上げる。
「…テシー君?」
ヤンが名を呼ぶ。声は硬くなっていた。
「ええ。そうですよ」
テシーが応じる。声に淀みはなかった。
慎重な足取りで、ヤンはそっと横へ移動した。カウンターを回りこむ方向へ。
ヤンの言葉を無視して料理に取り掛かったテシーは、フライパンを操る手元へ視線を向けたまま。
(確定的だ…!)
体重で床が軋まないよう祈りながら移動するヤンの背中を、冷や汗が伝い落ちる。
リスキーが持ち帰った情報を元に考えた結果、一同はある結論に辿りついた。
「しあわせ事件」は流出していた「石」によって引き起こされた物。そして、石が持つ作用はおそらく、「対象の幸福を求
める気持ち」を暴走させるという物。
事前にヤンがおこなった聞き取りで調書に纏めた、それぞれの「幸福を感じる瞬間」と、起きた事件の概要は、奇妙な一致
を見せていた。
自分のナイフで自傷に及んだ漁師は、刃物を研ぐ腕前が優れており、自身でも仕事を終えて刃物の手入れをしている時間が
好きだった。
その息子は飛び込みが上手いと子供達の間でも評判で、本人も飛び込み自体が好きだった。
妻は、夫や子供の顔を両手で挟んで正面から覗き込み、いってらっしゃいとキスで送り出し、また、おかえりなさいと迎え
る瞬間が幸せだった。
アントを使役した若者は、これは聞き取りができなかったので推測するしかないが、おそらくは「現状を打破する力」を求
めるのが幸せだった。不満や鬱憤を晴らし、環境を変える破壊の力…。それを求めてあれこれ妄想するのが幸せだったのかも
しれない。
ただし、石が何故そんな事をするのかは判らない。リスキーが言うとおり、メンタリティがひととかけ離れた物であったと
すれば、動機や目的などはそもそも理解不能なのかもしれないが。
(そして、テシー君の場合は「料理」か!)
考えてみれば、実にこの若者らしい「しあわせ」だと納得できる。唾を飲み込んで喉を湿らせたヤンは、カウンターの中へ
踏み込んだ。
(テシー君の場合、害は無さそうだが…、このまま放っておいて暴走する可能性を考えると、止めるべきだろう)
対策はできている。原理は判らないが、欲求が暴走した者は「対象」から引き離すなどして姿が見えなくなった後は、正気
に戻っている。
(調理場から引き離して、正気に戻してやろう)
フライパンに集中しているテシーへ、忍び足で近付くヤンは…。
「!?」
通信機が振動し、ビクリと身をすくませた拍子に、床を大きく軋ませてしまった。
それに気付いたのか、テシーが振り返る。
「先生」
首を巡らせて口を開いたテシーは、立ち止まったヤンと見つめあい…。
「塩胡椒はどうしましょうね?濃い目?」
「…え?」
きょとんとしたヤンが、「あ、ああ…」と曖昧に頷くと、テシーは塩の小瓶を取ってササッと振るい、胡椒の瓶を傍に置く。
「ええ。すぐできますよ」
調理を続行するテシーが顔を前に戻し、ヤンはポカンと口を開く。
(しょ、正気だったのか…?てっきり、事件の被害にあったのかと…)
ホッと息をついたヤンは、しかしすぐさま目を見開いてテシーの背を凝視した。
テンターフィールドは火の通り具合を見ながら、隠し味の調味料を少量ずつ、手際よく投入してゆく。おかしな様子は見ら
れないが…。
(…キッチン内に踏み込んでいる事に、言及しなかった…?)
何でもなかったと安心したい気持ちと、微かに頭をもたげた疑問が、ヤンの中で衝突した次の瞬間…。
「ええ」
テシーが声を発した。
「ええ。ええ。ええ。ええ」
何かに返事をするように、繰り返し頷き、声を発するテンターフィールド。
「ええ。ええ。ええ。ええ。ええ。ええ。ええ。ええ。ええ」
ヤンの背中で、シャツがジワリと汗に濡れる。
「ええ。しあわせですええ。しあわせですええ。しあわせですええ。しあわせですしあわせですしあわせですしあわせですし
あわせですしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせしあわせ」
(違う!)
繰り返される、背筋が寒くなるような声の連続の中で、ヤンは確信しながら床を蹴った。
背後からテシーを羽交い絞めにして、乱暴に後ろへ引き込む虎。テンターフィールドの手から離れたフライパンが、けたた
ましい音を発して床に落ちた。
(まさか…。暴走のさせ方が上達している!?)
島の住民にしては線が細いテシーは、ヤンの力で容易に引き摺って行ける。テンターフィールドを羽交い絞めにしたまま後
退し、カウンターの外へ後ろ向きに出たヤンは、そのままバーの出口を目指してドタドタと引っ張った。
(途中までは異常行動と認め難い暴走だった…!もしも、こんな風に判り難い暴走が蔓延したら…)
「ああ。こぼした。済みません先生、すぐにやり直しますから。すぐにやり直しますから。やり直しますから直しますからし
ますから…」
謝りながらキッチンの方へ戻ろうとするテシーを引っ張りながら、息を切らせたヤンは汗だくで唸った。
(いや、もしかしたら…。見つけ損ねているだけで、既に蔓延しているのか!?)
瞬間的な暴走ではない。持続する、しかも不自然ではない振る舞いをする欲求暴走…。アントを使役した若者は、まさにそ
うだったのではないか?
「あ!」
必死にテシーを引っ張っていたヤンは、後ろをよく見ずに後退して椅子にぶつかった。
運悪く足を引っ掛け、派手な音を立てて転倒したヤンは、反射的にテシーをギュッと抱き締めて背中から転び、床と若者の
サンドイッチになって息を詰まらせる。
「あ。大丈夫ですか先生?大丈夫ですか先生?大丈夫ですか先生?大丈夫ですか先生?」
音声ガイドが壊れた機器のように、同じ言葉を繰り返しながら、テシーがヤンの上で起き上がる。
「だ、大丈夫…」
反射的に返事をしたヤンは、ハッと目を見開いた。
気付かなかった。見えていなかった。キッチンを離れる時に握ったのか、テシーの左手にはバターナイフが握られていた。
起き上がり、振り向いたテシーが、そのままヤンの腰へ馬乗りになる格好。虎は無防備に胸と腹を晒す格好になっていた。
冷や汗がヤンの頬を伝う。テシーがナイフを持ち替えて振り下ろせば、それを防ぐ手段が無い。
「大丈夫ですか先生?大丈夫ですか先生?大丈夫ですか先生?」
繰り返すテシーの手が、ヤンの胸元に伸びて…。
「!?」
カランと、床にナイフが転げた。
刃物を捨てたテシーの手は、転んだ拍子に生地が伸びてボタンが弾けたらしい、ヤンの胸元に触れる。
「ボタン飛んじゃいましたね。探さないと。ボタン飛んじゃいました。探さないと。ボタン飛んじゃいました探さないと。ボ
タン飛んじゃ探さないと。ボタン探さないと」
きょろきょろと周囲を見回すテシー。ヤンは素早くその手を掴み、寝返りを打つように身を捻って「済まないテシー君!」
と上に乗るテシーを落とすと、その手をきつく掴んだまま、引き摺るようにドアを目指す。
キッチンが見えない位置へ、欲求の対象が見えない位置へ、そこまで行けば正気に戻る。
息を乱して必死に引っ張り、外を目指したヤンは、はたと気がついた。
(待て。何かおかしいぞ?)
違和感がある。今、何かを見落としたような気がする。
「先生ボタンが先生ボタンが先生ボタンが先生ボタンが」
(そうだ。今転んだ時、テシー君は一時自由になって、戻ろうとすればキッチンに戻れる状態で…)
考えながらも体当たりするようにドアへぶち当たり、外へ転げ出たヤンは、テシーを引きずり出す。
「先生ボタンつけますよ先生ボタンつけますよ先生ボタンつけますよ先生つけますよ先生つけます先生」
喋り続けるテシーを乱暴に引っ張り、逃がさないように抱きかかえて店の壁に張り付き、キッチンが見えないようにしたヤ
ンは…。
(何故だ?何故あの時、戻ろうとしなかったんだ?…いや、とにかくこれで落ち着くはず…)
ホッと一安心したヤンは、改めてテシーの顔を見下ろす。
引っ張り込んで抱えたテンターフィールドは、虎と向き合っており、肥えた腹に平らな胸を押し付けていた。ヤンの方が少
し背が高いので、テシーはやや見上げる格好である。
「先生」
間近から自分を見上げてくるテンターフィールドの目を覗き込み、
「ああ。えぇと…、テシー君これはだな…」
この状況をどう説明しようかと、急いで脳を回転させたヤンは…。
「先生。先生。先生。先生。先生」
「!?」
愕然とした。
「先生先生先生先生先生先生先生先生」
自分の目を凝視しながら連呼するテシーの目は、恍惚の光を湛えていた。
艶やかに潤んだ瞳が、目を見開いている虎の肥えた顔を映して輝く。
「しあわせおれのしあわせおれのしあわせおれのしあわせおれのしあ…」
(馬鹿な!?)
テシーの手がヤンの頬に触れ、しなやかな指が被毛をさわさわと撫でる。
(テシー君の幸福欲求の対象は…、料理でも、キッチンでもなく…、「僕」!?)
ヤンのポケットでは、通信機が唸るような音を立て、振動し続けていた。
(シーホウ!何故応答しない!?)
闇の中を疾走するリスキーは、一直線にテシーのバーを目指していた。
原因不明の音信途絶。状況が状況なので何かあったと確信したその瞬間にはもう、持ち場を離れる事を躊躇わなかった。今
現在、彼の優先事項は敵の処理ではなく弟の身の安全である。
道を選ぶのもまどろっこしい。木立を駆け抜け、最短距離で駆けつけたアジア系の青年は、バーの裏手から正面方向へ回り
込み、
「!」
バーの入り口横で、肥えた虎を壁に押し付け、密着している影を認める。
即座にトキシンテープを抜き、腕を素早く回して巻きつけ、手刀を携えて距離をつめたリスキーの毒手が夜気を切り裂き…。
「待ってリスキー!テシーなんだ!」
コードネームで呼び合う事すら失念し、動転しながら裏返った声を発したのはヤン。
その一声で、事情は判らないながらもヤンにしがみ付いているのがバーの店主…テシー・ロヤックである事に気付いたリス
キーは、慌てて急停止し、腕を引く。
際どいタイミングだった。ヤンが気付いて警告するのがあと二秒遅かったなら、テシーの首筋めがけて毒手が打ち込まれて
いただろう。
「な、何です?例のしあわせ症状ですか!?」
息を整えながら、油断なく状況を見定めるリスキー。
幸いと言うべきか、テシーは正気ではないものの、ヤンへ害を加えようとしている様子ではなかった。むしろ、いつくしむ
ようにその頬に右手を這わせ、左手で豊満な脇腹を擦っている。それはまるで…。
「口説いているように見えますね…」
ポカンとするリスキーの、場違いなほど気が抜けたその声に、ヤンが「どうでもいいからァッ!」と尻上がりに裏返る奇妙
な声を上げた。
「テシー君を引き剥がしてくれよ!よく判らないけど彼の欲求源は僕らしいんだ!」
「…はい…?」
動転しているヤンの口調が乱れまくっている事にもつっこまず、リスキーが眉を潜める。
幸福欲求の源がヤン。その言葉の意味を理解し損ねた。
「どういう意味ですか?貴方が欲求の矛先?」
「ど、どうだって良いだろうそんな事は!とにかく早くして!」
その、裏返った甲高いヤンの声に呼ばれたように、垂れ耳を動かしながらのっそりと…、
「どうしたんだぁ?」
闇を押し退け、カムタの家から駆けつけたセントバーナードも現れ、場に加わった。
遠くで声を聞き、途中から駆けたので、一緒に来ている少年は到着が遅れている。
「ルディオさん!テシー君を僕が見えないところまで連れて行ってくれ!「しあわせ事件」だ!」
「え?幸せ…?」
セントバーナードのトルマリン色の目が、ヤンとテシーを映しながら数度瞬きした。
「「ストライプ」が、かぁ?」
どこまでもうろんげな顔と声のルディオ。
「そう!そうらしい!だからとにかく!早く!」
ヤンは慌てているが、セントバーナードもアジア系の青年も不思議そうに顔を見合わせる。
テシーは確かに正気を失っているようで、しあわせ事件の影響である事は明白なのだが、幸せの正体がさっぱり判らない。
ついでに言うと害がない欲求暴走に見えるので、ヤンがやけに慌てているその理由も判らない。
テシーはヤンに寄り添って、その肥えた体をサワサワと撫でているだけ。慈しむようなそぶりだが、それが何を意味してい
るのかはすぐには判らず…。
「…クッションか」
ポツリとリスキーが呟いた。
「判りましたよ。「ストライプ」の体の低反発性…、それが寝床の感触などと似ているのでは?きっとテシーさんは枕やベッ
ドに幸福を感じるタイプなんでしょう」
「おお。冴えてるなぁ「ポイズン」」
真顔で頷き合うふたり。リスキーはトキシンテープを取り払ったが、念のため触れる事を避けて、ルディオがテシーをヤン
から引き剥がし、後ろ向きに引き摺ってゆく。
先ほど自分がそうしたように、後ろから羽交い絞めに固めてテシーを連れてゆくルディオを見遣り、ホッと息をつきながら
額の汗を手の甲で拭ったヤンは…、
「しあわせ…。おれの、しあわせ…」
引き摺られてゆくテシーが伸ばす手を見て、発された声を聞いて、小さく「う…」と呻いた。
「あああ、おれのしあわせ…。先生…。おれの…」
「うわ…。何でしょうねこの罪悪感…」
テシーの声を聞いて気の毒そうな顔をしながら、犯罪組織の構成員らしからぬセリフを吐くリスキー。
「黙れ!!!」
頭から湯気を上げながら怒鳴り、コホンと咳払いして取り繕うヤン。
「ま、まぁとにかく…。自傷行為に及ぶような症状でもなかったし、落ち着きさえすれば…。
しかし…。
「しあわせ…。おれのしあわせ…。ああ…。先生…」
ルディオがバーの横手へ引っ張り込んだ後も、テシーの声は途切れなかった。
「………おや?」
「………長いな…」
一分過ぎても、声は途絶えない。
異常を察してヤンとリスキーは様子を見にゆき、そこで…。
「ああ、先生…。先生…。おれのしあわせ…」
症状が消えていないテシーと、少し困ったような顔で彼を拘束し続けているルディオの姿を目にし、愕然とした。
「な、何て事だ!症状がおさまらない!?」
「これは…!影響が悪化しています!」
これまでと同じ条件では症状が消えない。何故か、と考える前に、ヤンはすぐさま対処を打ち出す。
「気絶させてくれ!症状が消えたもう一つの例は、「気絶」だ!」
返事もせずに素早く走るリスキー。察したルディオは羽交い絞めを解きつつテシーを反転させ、その首筋をリスキーの方へ
向けさせる。
トンッ…。
リスキーの手刀が軽い音を立てて首の後ろに落とされると、テシーはカクンと脱力し、支えているルディオの腕に重みがか
かった。
「…これで、戻りますかね?」
リスキーの問いに、テシーに歩み寄るヤンは答えない。無言で脈を取り、具合を確認し、沈痛な顔を見せる。
「テシー君…」
ヤンは、線の細いテンターフィールドの手首を摘んだまま、小さく声を発した。その次の瞬間…。
「おれの…しあわせ…先生…」
意識が無いテシーが、声を発した。
「………!」
ギリリと牙を噛み締めるヤン。
「戻って、ないのかぁ…?」
ルディオの問いに、答えられる者は居ない。
気詰まりな、硬質の沈黙。風も途絶えた夜の片隅で、重苦しく闇がのしかかる。
「…テシー君は、最初は僕の事を嫌っていた…」
ポツリと、ヤンが呟く。
「それはそうだ。彼から見た僕は、可愛がっているカムタ君が父を喪った、その原因のひとつだからな…」
リスキーもルディオも無言で、屈んでテシーの手首を取ったまま独白するヤンを見つめる。
「だが、テシー君は少しずつ態度を変えてくれた…。自分で言うのもなんだが、罪滅ぼしを認めてくれたんだろう…」
テンターフィールドの顔を覗きこむヤンの目に、降りしきる雨が映りこんだ。
それは、ヤンがこの島に診療所を開いて間もない頃の事。
乾季の最中には珍しい、大雨となった週の出来事だった。
旅行者が持ち込んだのか、折り悪く感染性胃腸炎で体調を崩す子供が増えて、ヤンは昼夜を問わず島中を駆け巡った。
診療所ではベッドが足りない。それぞれの自宅で療養して貰う他ないので、看病する家族にも感染しないよう、何十軒も梯
子して指導と治療をおこない、こまめに様子を見て回った。
その頃まだ痩せていたヤンは、連日の回診によって疲労困憊で、ますます肉が削げ落ちて、目が深く落ち窪むほど衰弱して
いた。
雨を避ける気にもなれず、ずぶ濡れのままふらふらと自転車を漕いで診療所に戻る途中で、
「お疲れ様です」
雨音の向こうから聞こえた声に、ヤンはブレーキをかけて首を巡らせた。
バーの入り口、無人の店内が覗ける開け放たれたそこに、テンターフィールドの若者が立っていた。
「テシー君…」
呟いたヤンに、テシーは親指を立てて肩越しに後方を示す。
「晩飯まだなら寄って行きませんか。客が来なくて減らない上に、この湿気です。明日の夜まで待ってちゃ食材がダメになり
そうなんで、今日はサービスしますよ」
疲れ果てていた事もあったし、テシーから声をかけてくるのも珍しい事だったので、ヤンはその言葉に甘えようとして…。
「…いや、せっかくだが…。この通りびしょ濡れだ。店を汚してしまう」
やはり辞退しようと返事をした。しかしテシーは…。
「そんなの気にする客は居ませんよ。御覧の通りガラガラですから」
自虐的な事をさらりと言って、少しぎこちないながらも、ヤンに初めて笑顔を見せた。
「外のひとだから、パスタなんかも食うでしょ?ボンゴレ作りますよ。…あ。もちろんしっかり加熱しますからご心配なく!
先生まで腹を下しちゃシャレにならないから!」
「…あの時、初めて実感したんだ…」
呻くヤンの声は、微かに震えていた。
「罪滅ぼしは、ちゃんとできていたと…。テシー君の変化で実感できた…」
声だけではない。その肉付きのいい肩も、力んで小刻みに震えている。
「あれから、島の地理や世帯に詳しくない僕に、テシー君は色々と教えてくれた…。食事の世話もしてくれた…。他の島でバ
イク屋をやっている友人に話を通して、スクーターを勧めてくれたのも彼だった…」
何かを押し殺すようなヤンの低い声に宿るのは…、
「テシー君が協力してくれたから、こんなにも短い間に、僕も診療所も島に根付くことができた…」
純粋な、燃え滾る怒り。
踏み躙られた。
ヤンはそう感じていた。仔細に、細やかに、隅々まで判っているわけではない。
だが、テシーの中の何かが、無遠慮に、無思慮に、無神経に、無慈悲に、蹂躙されてしまった気がした。
「治せないのか?リスキー…」
低く低く抑えられたヤンの声に、リスキーは首を横に振る。
「…言い難い事ですが、例自体が少ないレアケースです。ONC所属の医師でも確実な策はないでしょう…。「認識」や「精
神」への作用は厄介な物で…」
その言葉を聞いているルディオは、目の前に三人が居る宵闇の景色に、
(あ…)
白い部屋を、重ね見た。
「…時に、君は「厄介な攻撃」とはどういう物だと思う?」
明るい灰色の被毛を纏う狼は、丸いテーブルについて窓の外を眺めながら口を開いた。
窓の外に広がるのは、荒涼とした、荒野のような海底の景色。
「君が外へ出るのがいつになるのかはわたしにも判らないが、備えておくに越したことはない」
狼は後頭部を向けているが、顔は窓に映りこんで、反射した視線がこちらに向いている。
「視認できない攻撃…。そう、例えば我が能力や、君が宿すはずだった能力なども厄介な部類に入るだろう。だが、もっと厄
介な物がある」
コツ、コツ、と狼は指でテーブルを叩いた。
「それは、「認識」や「精神」に影響する力だ」
リズムを取るように指でテーブルを叩きながら、狼は静かに話し続ける。
「気がついたら既に射程に入っている。気がついたらもう攻撃を受けている。そして最悪の場合、気がついたら攻撃は完了し
ている…。下手をすると、影響を受け始めた時点で攻撃を認知する事が不可能になっている場合すらある」
狼の指が弾き出す小気味良い音は、部屋を軽やかに巡って、白い壁に吸い込まれる。あたかもそれこそが精神に影響を与え
る力であるかのように、気が落ち着く、心地良い大きさとリズムである。
「「認識」や「精神」に効果を及ぼす能力は、得てして直接的な攻撃よりも厄介だ。しかもそれは対策に限っての話だけでな
く、影響の持続についても同様。目に見える肉体の異常とは違い、内面的要素への異常は探すのも治すのも難しい。ではどう
するか?攻撃されないのが一番だが、もしも攻撃を受けてしまったなら…」
首を巡らせて振り返った狼は、自分の喉を指差した。
「術者を殺す…のはお勧めできない。仕掛けた本人でなければ解除できないケースもある。確実なのは…」
「…そうか…」
ポツリと声を漏らしたルディオを、ヤンとリスキーが見遣る。
「今、「あの部屋」が見えた」
セントバーナードはヤンが手を取っているテンターフィールドを見遣り、トルマリンの瞳を瞬かせた。
「「認識」、「精神」、そういった物に影響する力は、「説得」して解除させるのが、一番確実らしいなぁ」
「説得?しかし相手は…」
ヤンが懐疑的な目をリスキーに向ける。メンタリティが違い過ぎるので、会話も交渉も期待できないのだろう?と。
「いいえ先生。確かに難しいですが、最も確実で安全な方法です」
リスキーは剣呑に目を細める。
「影響元が取り除かれたら効果が消えるとは限りません。例えば、爆弾を仕掛けたテロリストが射殺されたとして、仕掛けら
れた爆弾は一緒に消えたりはしないでしょう?効果が持続する能力は、そんな具合にいつまでも残留する事があるんです。そ
して、一度セットされたその手の能力については、仕掛けた者が正しく解除するのが確実かつ、後遺症の面でも安心です」
「後遺症…」
ヤンが呻く。その鼻面には無数の細かな皺が寄り、憤怒が見て取れた。
もしも、テシーがこのまま元に戻らなかったら?
ハミル自身も、元通りになるとは言い切れないのに…。
その、怒りに震える医師の肩が、
「テシー!?」
さほど離れていない場所から上がった、少年の声で大きく揺れた。
闇の中から、太った体型に見合わない俊敏さで駆け出てきたカムタは、一同を前に一度立ち止まった。
ルディオに支えられ、ヤンに手を取られて、ぐったり動かないテシーの姿が、カムタの目に映された。
「…テシー、どうしたんだ?」
屈みこんで恐々とテシーの顔を覗いたカムタに、「気を失って頂いただけです」とリスキーが言う。
その、かいつまんだリスキーの説明を、怒りを押し殺すヤンの説明を、「狼と白い部屋」を含むルディオの補足を聞き、何
度か頷いたカムタは…。
「ハミルじゃねぇ」
テシーの腕を軽く撫でてやって、ポツリと零す。
「ハミルが、こんな事するわけねぇ」
少年の目に宿るのは、確信が篭った強固な光。
「ハミルを取り返す!」
見上げてきたカムタに、その庇護者にして守護者たる巨漢は大きく頷いた。
理解していた。ハミルやテシーが戻らなかったら、カムタの幸せは損なわれる、と。ならば…。
「やることはもう、決まってるなぁ」