The umber

「ふあぁ…。ハミルは?」

 大欠伸して厳つい顔を緩ませた中年のテンターフィールドに、籠を編んでいたテンターフィールドの婦人が「部屋に戻った

わよ」と応じる。

 婦人は線が細いなかなかの美人で、長男と末っ子は彼女に似ている。

 夫は対照的に逞しい体つきで、ゴツゴツと筋肉が張り出した岩塊のような男。次男と三男は父親の方に似ている。

 バーバリー・ロヤック。ロヤック家の家長であり、古くから網本だったロヤック家の経済力を活かしてレジャー産業にも進

出し、精力的に事業展開させてきたやり手の事業主。

 しかし本人は根っからの海の男であり、漁業こそがこの島の最大最高の産業であると考えている。

 敏腕と果断で知られるバーバリーだが、手広く事業拡大してきたのは、ほぼ地産地消で完結してしまう島の経済を回すため。

潮の流れを読むように時流も読む才覚を持っていた彼は、貨幣経済への対応が遅れているこの島の行く末を案じて、自分の代

で何とかしようと決意して、ここまでやって来た。

 自然の恵みで暮らしていけるこの島は素晴らしい宝だと思っている。だが、それだけではひとは生きていけない。

 移ろいゆく世界の片隅で、多少時代遅れなのはいいだろう。だが、世界と決定的な隔絶が生じてしまったなら、島の行く末

は明るいものにはならない。

 ひとは食うのみで生きるに非ず。ひとの出入りが無くなったら、この小さな島で世代を紡いでゆく事は不可能になる。

 外との繋がり。伝統と自然への敬意。この双方を両立させて、島の未来を作ってゆく。それが、バーバリーがその一生をか

けて挑む大勝負だった。

 だからこそ、自分の儲けなど副次的な物としか考えていない。実際のところ、彼の台頭で経済的な被害を受けた島民は皆無

で、島は少しずつだが貨幣経済にも順応してきている。

 とはいえ、彼の夢は長期的であり、自分が生きている間に整えられるかどうかも不鮮明。だからこそ、幼い頃から賢かった

長男のテシーには跡取りとして期待を寄せていたのだが、いかんせんこちらはレジャー産業のごくごく一部にがっぷり食らい

ついて夢中になってしまい、島でバーを経営してしまった。バーバリーは反対したのだが、テシーの味方をした母親と妻に押

し切られている。ロヤック家では家長よりも女性陣の発言力の方が強いので。

 次男と三男は、バーバリーやその父、祖父…つまり先祖伝来の海の男の血が色濃く出すぎてしまい、頭には魚と筋肉が詰まっ

ている。漁師としても船乗りとしても腕利きだが、経営者には親の贔屓が入った目で見ても向いていない。

 しかし、末っ子であるハミルは違った。

 島の子供らしい活発な性格と、強い好奇心を持ちながら、物覚えが良く、幼少時のテシーに負けず劣らず賢かった。

 十歳そこそこで貨幣経済に理解を示し、外国の社会性についても概念を理解し、父が取り組んでいる事にも理解を見せた。

 期待した。だからこそ、本当は手元に置いておきたかったが、島外の学校へ通わせる事にした。自分よりもデカい事ができ

る男になれるように、と…。

 だが、時折済まなくも思っている。期待をかけてレールを敷いている自分の行いが、親のエゴに過ぎないと感じて。ハミル

の幸せは、別の生き方にあるのかもしれないのに、と…。

(カムタと一緒に遊んで育つのが、アイツの幸せだったんだろうが…)

 共に船に乗り、漁に出るふたりの姿を思い描いたバーバリーに、

「明日の出発は早いもの、きっともう休んだわ」

 と、婦人が付け加えた。

「ん?…そう、か?」

 冷蔵庫に歩み寄り、酒瓶を取り上げながらバーバリーは首を傾げた。

(さっき玄関のドアが鳴ったような気がしたんだが…。出発前に月でも見てた訳じゃあないのか)

「あなたも早めに休みなさいな。おまわりさんの聴取とかで疲れてるんでしょ?」

「判ってるよ、かあちゃん」



「家の中にハミル君が居ません!」

 覆面で顔を隠したリスキーは、侵入して確認したロヤック邸内の様子を、敷地外で待機していたヤン、カムタ、ルディオに

告げる。

「外に出たのか?こんな時間に一体どこへ…」

 行先を考えながら口を開いたヤンは、唐突に言葉を切る。

「石の影響…か?」

「ええ。自発的な外出ではなく、行動が制御されて外へ出た可能性があります」

 傍らを見遣るヤン。視線の先には地面に寝かせたテシーの姿。意識は戻らないが、未だにうわ言のように「しあわせ。先生」

と繰り返している。

「ハミルが行きそうな場所は、判るかなぁ?」

「さて…。何せひとですらないモノのコントロール下ですから、何を思って動いているのか…」

 訊ねたルディオにリスキーが応じると…。

「なあリスキー。その石ってさ、どうやって行動すんだ?」

 カムタは素朴な疑問を口にした。

「持ち主の意識に介入して、行動を起こさせているはずです。原理までは判りませんが…」

「じゃあ、その石は何を元にして行動すんだ?」

「元?」

 聞き返したリスキーに、カムタはルディオを見遣って続ける。

「アンチャンは、島の事が判んねぇ内はだいたいオラと一緒に居た。何かやりてぇとか何処に行きてぇとか、そういうのの前

にさ、自分が何処に居んのか島の何処に何があんのか、場所も判んなかったから。な?アンチャン」

「ん」

 ルディオは頷き、「カムタに教えられないと、外を歩くのも不自由してたなぁ」と続ける。

「そうですね…。おそらくはハミル君の頭の中から、島の地理に関する情報を読み取っているでしょうが…」

「つまり、「島に来たばっかの石」の「迷子になんねぇための案内役」は、ハミルって事か?」

 リスキーはハッとした。自分を真っ直ぐ見つめてくる少年は、確信の色を瞳に浮かべている。

 それはおそらく、正解だった。

(坊ちゃんは、本当に…!)

 ゾクゾクした。野生的でありながら論理的、子供ではあるが、立派にヴィジランテの一員として力になっている。

「ええ、ええそうですとも!奴がこの島について参照できる知識は、あくまでも所有者であるロヤック家の坊ちゃんの物…。

つまり!」

 黙っていたヤンが、ギラリと目を光らせる。

「ハミル君が利活用できる場所…。馴染み深い場所…。そこに居る可能性が高いな」



 桟橋から見る夜の海は、投げかけられる高い月の光を、細かな無数の三角に割って反射していた。

 穏やかな波の音。風はゆるく、アイドリングする漁船のエンジン音が妙に大きく聞こえる。

 漁に出ていない船が数艘停まる、三本並んだ桟橋で、エンジンがかかっているのはひとつだけ。桟橋右手に四つ並んだ漁船

の、先から二番目だけが暖気している。

 呑み込まれそうに深く遠い海原を、唸る船の脇で桟橋に立ったテンターフィールドの少年が、無言で眺めていた。

 その顔に、表情らしき表情はない。眼差しは何処に焦点を合わせているのか定かではなく、瞬きが全くない。

 何でもないような佇まいで、しかしよくよく見ればマネキンのようにも感じられる無機質さ。意思が窺い知れない少年の胸

で、ネックレスの石が琥珀色に煌く。

 やがて、アイドリングしていた漁船の上で若い男性が立ち上がった。

「おーい!エンジンはもうすぐ暖まるぞ!準備はいいかー!」

 浅黒い肌の逞しい若者は、ニコニコと上機嫌だった。

 楽しそうで嬉しそうで幸せそうなその男に無機質な眼光を向け、頷いた少年は、桟橋から漁船へと降りてゆき…。

「ハミル!」

 闇を裂いて飛んだ少年の呼び声に、首を巡らせる。

 桟橋を駆けて船の傍で急停止したのは、ずんぐり丸っこい太った少年。ざんばら髪を振り乱し、伝い落ちる汗で頬を光らせ

ているカムタは、テンターフィールドの少年を見下ろす。

「やあカムタ」

 テンターフィールドがにっこりと笑った。

 それは、友人に対して発する言葉としては適当な物だろうが、夜中に、エンジンに火が入っている漁船の上から、桟橋の上

に駆けつけた相手に投げかけるには不適当。

 どうしてここに?こんな夜中にどうしたの?そんな、普通ならば発せられるはずの問いがない。

「…何処に行くんだ?」

 呼吸を整えながら問うカムタ。

「この島に居る必要もなくなったから、もう行こうと思う」

 笑顔のまま応じるテンターフィールドの少年。

 カムタは真っ直ぐに、見慣れた少年の顔を見据えたまま、

「おめぇ、ハミルじゃねぇな?」

 目つきを鋭くした。

「じゃあ誰なんだろう?」

 ニコニコと屈託のない笑みを浮かべながら問うテンターフィールド。

 その表情と、問うているようで実際には興味の欠片も窺えない声音の無機質さが、薄気味悪い解離性を印象付ける。

 それは、ハミルの姿をして、ハミルの声を発し、ハミルの口調で話しているが、決定的に違う。

「「ジ・アンバー」」

 カムタはキッパリと、少年へ答えた。

「ハミルじゃねぇおめぇを、オラ達はそう呼ぶ事にする」

 カムタの視線は、テンターフィールドの胸元に光る琥珀色の石に向いていた。

 暗いのでよく見えないが、色がより濃くなったような印象を受けた。まるで、体調が良くなったひとの顔や唇で、血色がよ

くなるように…。

 ニコニコと笑うその顔を崩さないまま、

「いいね」

 ジ・アンバーは小さく顎を引いた。

「なかなかいい名前だよ。シンプルで覚え易い」

「おめぇが何処に行くのも勝手だけどな、ハミルは置いてけ。あと、島の皆にかけた変な術を解いてから出てけ」

 彼我の距離は2メートルと少ししかない。自分が相対しているモノが、幼馴染の姿をした人外の何かだと理解していてなお、

カムタは臆さず、怯まず、真っ直ぐに睨む。おおよそ子供とは思えない胆力をもって、異質な存在との対話に臨んでいる。

 ジ・アンバーは笑顔を崩さず、カムタに応じる。これほどまでに感情の篭らない笑顔を、カムタは見た事がなかった。

「それは断るよ。この体がないと移動が不便でね。それと、術?それはつまり、僕が何人かにやった事?」

「そうだ!皆を普通に戻せ!」

 叩きつけるようなカムタの声に、ジ・アンバーは空虚な笑顔を崩さない。

「いや、あれで普通だよ」

 テンターフィールドの右手が上がり…、

「僕は、彼らが捕らえられている不自然な枷を取り除いただけだ。あれで自然な状態なんだよカムタ」

 その指が自らのこめかみを指し示した。ここから取り除いた、というように。

「二百年ぶりに直接観察してみたけれど、ひとは相変わらず不便な生活をしているね。ナポレオン統治下もそうだったけれど、

今も窮屈で仕方がないんじゃないかな?そう、この体の主…ハミル・ロヤックもそう感じていた」

「ハミルが…?」

 カムタの目に初めて、微かな戸惑いが現れる。ジ・アンバーが口にするどんな言葉より、その名前が少年の注意を引いた。

「心を痛めていたよ。自分よりも、周りの学友の事を憂いていたね。不自由で、窮屈で、しあわせではないって」

 カムタは口を引き結んで沈黙する。

 確かに、学校は大変だと、周りの皆も大変だと、ハミルは言っていた。だが彼は、深刻そうなそぶりなど見せなくて、軽い

愚痴のような話し方をしていて、だからカムタは…。

(ハミル、オラに気を遣ってたんだな…。それで本音を言ってくれなかったんだ…)

「まあ。さっぱり判らないけれどね。彼の心の痛みやら憂いやら、そういった物については。はっきり言って「ふーん、そう

なんだ?」って感じかな」

 ハッと、カムタは目を見開く。ジ・アンバーは相変わらずニコニコ笑っている。

 軽薄…などという物ではなかった。

 ジ・アンバーはハミルのそんな心情を感じ取りながら、しかし欠片も共感はしていない。より正確には「共感できない」の

である。だから、言葉は軽薄そのものでも、そこに見下しも侮蔑も混じっていない。それ故に、カムタは彼我の精神性の隔絶

をまざまざと実感させられた。

「とにかくまあ、そんなわけでね。彼は僕の器に丁度良かった」

 ジ・アンバーはカムタに向けて親指を立てて見せた。

 笑顔のサムズアップには、しかし何の意図もない。その仕草がどんな心情を表す時に見せる物なのかも理解できていない。

ただ、会話には何らかのジェスチャーを交えるものなのだと考えたので、やってみただけ。

 笑顔に関しても意味は無い。ハミルがカムタと話すとき、この表情を見せている事が多かったので、この顔をしているだけ。

「僕はひとの「しあわせ」に興味がある。人類は幸福を求めて進歩し続けてきた。伴侶と過ごすささやかなしあわせ。あるい

は、国家規模の富によるしあわせ。そんな物を追い求めて進歩してきた人類は、しかしどうだい?しあわせを求めて時に自滅

もする。そして求めるしあわせは個体ごとにバラバラで、種としての纏まったヴィジョンもない。興味深いよ、しあわせは」

「そいつに何でひとを巻き込むんだ!そっと見てればいいじゃねぇか!ハミルもテシーも皆も元に戻して、ひとりで勝手にす

ればいいだろ!」

 叫ぶカムタに対し、ジ・アンバーは両手を前へ出して、迎えるように広げてみせる。場面としぐさのちぐはぐさが、あまり

に異質で不気味だった。

「そこなんだよカムタ。僕もただ眺めていられれば楽なんだけれどね、ひとの頭の中の枷がその邪魔になる。もっと判り易く、

大胆に、はっきりと行動して欲しいのにね。だって僕にとって、ひとっていう生き物は、そもそも理解が難しい存在なんだか

らさ」

 ジ・アンバーは「でもカムタ」と、少年を指差す。

「君は本当に判り易かった。判り易くて観察の対象には不適切だった。君のしあわせは非常に流動的で、そのくせ根幹的な部

分は揺らがない。「周りの皆もしあわせなら自分もしあわせ」…。いいよ、シンプルで判り易い。もっとも、その気持ちは理

解できないけれどね」

「だったら判るだろ!?ハミル達が元に戻んねぇと、オラは幸せじゃねぇ!だから諦めねぇって!」

「いいや判らないよ。諦めてもらうしかないね」

「判り易いだの判んねぇだの、おめぇの方が判んねぇ!」

「ほら、難しいだろう?だからたくさん観察しないといけないんだ」

 説得を諦めないカムタだが、話は決定的に噛み合わない。

 カムタへ正直に話をしているのも、口封じするから話しても構わない…という事ではなく、単に時間があるから付き合って

いるだけ。

「この島のひと達より強く、しあわせを押し込めて生活している者達が居るみたいじゃないか。次はそこに行ってみようと思

うんだ。それに…」

 ジ・アンバーは少しだけ目を細めた。

「まどろんでいるワールドセーバーが目覚めると面倒な事になるしね。この島からはもう退散するべきなんだ」

 僅かに薄れた虚構の笑みが何を意味しているのかは、カムタには判らなかった。

「というわけで、さようならだカムタ。もうこの島に用はないから、二度と会う事もないだろうね」

 ジ・アンバーはまた親指を立て、笑顔を見せる。

「君に幸あれ」

「有り難う。そして貴方には不幸を」

 直後、声と同時に、さっと夜闇の一部が空を切った。

 半歩後退したジ・アンバーの前、カムタと挟んでいた空間を、黒ずくめのリスキーが突き抜ける。その手が少年の胸元を掠

めたが、襟を捕らえるまでには至らない。

 カムタが説得している間に、リスキーは「違う説得」に備え、繋がれている隣の船に忍び込んでいた。

 漁船の甲板を滑り、縁で止まったリスキーを、

「お?乗ってくかい?いいぜ!何人だって乗せてってやるよ!」

 症状が出ている船主が上機嫌で歓迎する。目の前で起こっている普通ではない事も、今の彼には気にならない。ただ少年に

言われたとおり、幸せを感じる船の運転で、どこかへ送ってやるだけの事。

「それはどうも」

 刺激しない方がいいと考えたリスキーが当たり障りの無い返事をすると、若者は鼻歌を歌いながら操舵室後ろから船室に降

りてゆく。

(船主をそそのかしたのか。何処へ行くつもりだったのかは知らないが、何にせよ、水際で押さえられたのは運命の女神のお

導きだな)

 その間も、リスキーはジ・アンバーから一瞬も目を離さない。ハミルの体を傷つけるわけにいかないので、トキシンテープ

は抜かず、左手に捕縛用の縄を掴んでいる。

「坊ちゃんの根気強い説得でも聞く耳持たないようなので、今度は私が物理的手段で説得しましょう」

「………」

 ジ・アンバーは、リスキーをちらりと見遣り、少し間をおいて口を開いた。

「君もかなり変わってるなぁ…、しあわせを求めてないなんて。…いや、諦めたのか…」

「御名答」

 国を捨て、名を捨て、身分を捨てた時に、幸福など諦めた。

 そして、ONCで働く今は、自分が幸福になれるはずがないと確信している。

 しかし…。

「しかし」

 ジ・アンバーは、秘められたその本心を見透かす。

「自分のしあわせは求めていないけど、他の誰かの幸せを願ってるね?」

「!」

 一瞬の動揺が、リスキーの跳躍を遅らせた。

 直後、ボシュッと篭った音が夜闇を乱す。

 リスキーが潜伏していた船に、同じく潜んでいたヤンが、いつもはカムタが使う捕縛用の抱え筒から投網を発射していた。

 だが、タイミングがずれた。リスキーが牽制し損ね、ジ・アンバーは余裕を持って振り向き、広がる投網を見上げてトンッ

と、軽くステップする。

「!?」

 リスキーが、ヤンが、カムタが、目を見開いた。

 テンターフィールドの残像を投網がすり抜ける。広がった網の外へ一瞬で移動したジ・アンバーは、「おやおや」と足元を

見下ろした。

「この体はこのレベルの負荷に耐えられないみたいだね。筋肉が千切れてしまう」

 涼しい顔をしているジ・アンバーだが、無理矢理出力を引き出されたハミルの脹脛と太腿では、ひとの領分を越えた運動の

負荷によって筋繊維が断裂している。

「何だと!?」

 火に油を注がれる格好になり、ヤンが怒鳴り声を上げた。

「………ああ、ヤン先生か。君も風変わりだけど、もう興味は無いかな」

 ジ・アンバーがヤンを見遣って口を開いた。

「君もしあわせを求めていない。しあわせを望んでいない。正確には、誰かがふしあわせにならない事がささやかな幸福感に

繋がるけれど、自分がしあわせになってはいけないと心を決めているんだよね」

「だったらどうした!」

 冷静さをかなぐり捨てて叫ぶヤン。その遥か後方では、意識を喪ったままのテシーが茂みの中に横たえられていた。

「したり顔で幸福がどうの、人類の進歩がどうのと言っていたが、お前の理論は穴だらけだ!」

「へえ。何か教えてくれるの?ヤン先生」

 僅かばかり興味を引いたのか、体ごと隣の船へ向き直ったジ・アンバーは…。

「進歩には、そもそも存在し続けるという前提が必要だ。滅んでしまえば進歩などできないからな」

「一理あるね。続けてくれないか?」

 ジ・アンバーが先を促す。それに対してヤンは…。

「進歩には必要不可欠な要素。それは…、滅びを避けるための警戒だ!」

 ザバッという水音と、船の縁を掴んだパシッという音が、短い間に重なった。

 掴んだ手すりを腕一本で引き寄せるその動作の延長で、潜水して接近していたセントバーナードが甲板に躍り上がる。

 だが、ルディオは目の色を変化させていない。獣はジ・アンバーを排除すべき対象と認識しないようで、アントを排除して

以降は沈黙を保っている。

 正面にヤン。左手の桟橋にはカムタ。後方にはリスキー。右手からは手すりを蹴って飛ぶように迫るルディオ。

 完全包囲のその状況で、

「!」

 水を弾き散らして猛然と迫ったルディオが、ジ・アンバーに向かって伸ばした腕ごと、その巨体を弾かれた。

 バランスを崩してよろめきながら後退し、1メートル半ほどで踏み止まったルディオが、掌に衝撃が残り、ビリビリと痺れ

たまま跳ね上がった腕をちらりと見遣る。

 捕まえるために指を広げて伸ばした右の手の平は、真っ黒に焦げて煙を上げていた。

「エナジーコートだと!?」

 驚愕するリスキーの視線の先で、テンターフィールドは淡い燐光に全身を包まれていた。

 それは、生命力を純エネルギーに転換し、特殊な力場で体を覆う、比較的知られた異能の力の一つ。端的に言えば、任意に

形状や性質を変える一種のバリアーを張る力だが、それは単に斥力を持つだけでなく、熱を纏った鎧にもなり、弾けさせれば

爆薬代わりにもなる。

 ジ・アンバーはルディオの接触に対して展開した力場を、反応装甲よろしく爆ぜさせていた。

「ハミル君も能力者だったのか!?」

「いいや、違うよ」

 驚いているリスキーに、ジ・アンバーは笑顔のまま淡々と応じた。

「ひとは誰でも生命力を持つ。それを僕が使用させて貰っているだけさ。ただ、元々能力を扱う機能を持っていないハミル・

ロヤックの体には、それなりの負担になるみたいだね」

 燐光が収まったハミルの肉体…その特有のブチ模様には、細かな白が混じっている。本来その力を持っていないにもかかわ

らず、生命力を強制的に徴収された影響で、部分的に白毛化していた。外からでは見えないが、その地肌もまた色素が抜けて

白色化しつつある。

 少年の体に宿る異質な存在を、ルディオは焼け焦げた手と見比べて…。

「………」

 おもむろに一歩寄り、またしても、無造作に手を伸ばして捕まえようとした。

 即座に上がる、何かが破裂したような激しい音。再び弾かれたルディオの手から炭化した組織がボロボロと剥離し、生焼け

の肉が痛々しく露出した。

「アンチャン!?」

 カムタが声を上げたその瞬間、ルディオは逆の手をジ・アンバーの胸元へ伸ばし、そしてそれもまた同様に弾かれる。

「ルディオさん!無茶するな!」

 ヤンも堪らず制止する。リスキーほど状況が判っているわけではないが、意思にもテンターフィールドが纏う光が危険であ

る事は理解できた。虎の鼻先には、焼け焦げた毛と肉、脂の匂いが、潮の香に負けない濃さで漂っている。見て確認するまで

もなく、洒落にならない深度の火傷である。

「ハミルは傷つけられない。でも石は引き離さなきゃいけない。だったら…」

 巨漢が両手を伸ばし、またも光の力場に弾かれる。が、それでもルディオは引き下がらない。

「できるまで、やるしかないなぁ」

 ゾクリと、リスキーが寒気を覚えた。

 ルディオの声はいつも通り、場にそぐわないほどのんびりと穏やかだった。

 だからこそ、「怖い」と感じた。

 カムタを不幸せにしないためなら、傷も痛みも厭わない。その一直線な行動は、まるで「しあわせ事件」の患者ようですら

ある。

 そして、一見すると考えなしに見えるルディオの行為は、しかし理に叶っていた。

 エナジーコートを展開すればするほど、ハミルの肉体は疲弊してゆく。そしていつかは展開できなくなる。衰弱されても、

このままジ・アンバーに連れて行かれるよりは遥かにマシ…。

(目の色が変わっていなくとも、旦那さんは充分怖いですね…)

 ルディオが試みているのは、自分と相手の損失を天秤にかけた上で、最悪の事態を避ける強引な捕縛だった。

「…ねえ、御同輩」

 ジ・アンバーは不思議そうに巨漢の顔を見上げた。

「何で君が邪魔をするの?お互いに不干渉といこうよ。僕は君が何をしようと構わないし、それは君も同じことだろう?」

(「御同輩」?)

 二発目が撃てない抱え筒を、そのまま投げつけて使おうかと思案し始めたヤンは、ジ・アンバーの言葉を聞き逃さなかった。

「目下、君の興味はカムタにあるんだろう?こっちはもう彼に用事がないから、好きにすればいいよ」

 ルディオは少し考えて、

「おれの事かぁ?」

 と、ジ・アンバーの目を覗き込んだ。

「うん」

「でも、やっぱりダメだなぁ」

「どうして?」

「だって、カムタが嫌な事は、おれも嫌だからなぁ。ハミルやテシーが戻らなかったら、カムタが悲しむだろう。だから、元

通りにして貰わないとなぁ」

「…ふぅ~む…」

 ジ・アンバーは小首を傾げ、まじまじとルディオの顔を見つめた。

「…そうか。違うんだ。君じゃないな。どうしたんだい御同輩?その体の主導権は…」

 その、生じた疑問に、一瞬の隙に、割り込んだ者があった。

 ここに来て、完全にジ・アンバーの意識と視野の外にあったカムタが、桟橋から跳んだ。

「ハミル!」

 呼びかける声は、ジ・アンバーではなく本来の体の主…幼馴染へ向けたもの。

 一か八かの賭けで飛びつくカムタを、ジ・アンバーが振り返る。

 そして、力場を発生させて弾き飛ばそうとして…。

「ん?」

 抵抗があった。力の行使が妨げられ、燐光は音も無く消失。力場は発生しない。

 軽く眉根を寄せて、ジ・アンバーは跳びすさった。

 その、直前までハミルの肉体があった場所を、太い腕が通過する。

 ドッと、重たいはずの少年を軽々と抱き止めた巨漢は、少年を庇うように自分の後方へ押し遣る。その焦げた手は、ジュク

ジュクと濃い茶色の体液を吹き出させ、再生を開始していた。

 そして、ジ・アンバーに巨漢の目が向けられた。

 琥珀色の目が。

「アンチャン!?」

 ルディオの変化に気付いたカムタは、慌ててその腰にしがみついた。

「アンチャン!ハミルは操られてんだ!敵じゃねぇんだ!だから…」

 説明するカムタ。しかし獣はジ・アンバーを見つめるだけで、攻撃を仕掛ける様子が無かった。カムタをジ・アンバーの視

界から隠そうとするように立ち、自ら動こうとしない。

「出てきたね、御同輩」

 ジ・アンバーが肩を竦める。しかしそれもまた、心情を語る仕草ではない。

「僕に興味が無いから引っ込んだままだったのかい?それとも、主導権を握っていない理由が何かあるのかい?不干渉を決め

込んでいたなら、それは有り難いけれど」

 その問いに、獣は答えない。あくまでもカムタを危険から遠ざけるというスタンスで、ジ・アンバーを排除しようとも、ハ

ミルを取り戻そうともしていない。

「何にしても、少し困ったな。カムタがハミルを諦めないと、僕はあしらわなくちゃいけない。しかしカムタを排除しようと

すると今度は君が邪魔をする。さて、どうしようか…」

 ジ・アンバーは思案するように周囲を見回して、

「じゃあこうしよう」

 燐光を、身に纏った。

「っ!旦那さん!坊ちゃん!逃げてください!」

 警告した直後、リスキーは自らも甲板を蹴って隣の船へ飛び込んだ。

 一方で獣も、リスキーの警告を理解したのか、それともジ・アンバーの挙動を警戒したのか、カムタを脇に抱え込んで海へ

身を躍らせた。

 ハミルの肉体から発せられた燐光は、すぐさま眩いほどの閃光となり、範囲を拡大して甲板を覆い、熱で薙ぎ払う。波しぶ

きを被って湿っていた甲板から、ジュッと蒸気が吹き上がった。

 が、その熱波は一瞬だけ。船体には何ら影響を及ぼさない程度で、そもそも浴びても致命傷になるような物ではなかった。

(はめられた!ただの威嚇!?)

 舳先側の船へ飛び移り、陰に身を隠したリスキーが気付いた時には、しかし全員が回避行動を終えている。ジ・アンバーは

まんまとアドバンテージを握ってのけた。

「うお?やけに暑いな!…お?あれ?さっきのは帰っちまったか?」

 のんきな事を言いながら、船室から出てきて操舵室へ登った若者へ、

「うん。じゃ、そろそろ出してよ」

 黒い斑点が灰色に変色したテンターフィールドの少年が笑いかける。

「っぷは!」

 海面に出たカムタを、無言で浮上した獣が守るように片手で抱える。

 その琥珀色の瞳は桟橋を離れる漁船を映していたが、追うそぶりは見せなかった。あくまでもカムタを危険から遠ざけるの

が目的のようで、去ろうとするジ・アンバーを阻もうとしない。

「ハミル!」

 叫ぶカムタに、しかし答える者はない。

「くそっ!この船、エンジンはかからないか!?」

 ヤンは船の操舵席へ駆け込んで機器に取り付くが、キーがない。

「直結…という訳にも行かないか…!」

 リスキーも同じく、飛び移った船の操舵室に入ったが、近代的なインドアタイプの操舵システムならともかく、耐水耐塩加

工が行き届いた、原始的でシンプルかつ頑強な船への工作方法は判らない。

「やられた…!」

 夜の海へ漕ぎ出し、遠ざかる船影を睨んで呻くリスキー。

 ただの生物兵器とは格が違う。包囲しながらまんまと逃げられてしまった。

 しかし…。

「まだだ!」

 カムタが海面から声を上げた。

「カムタ?」

 ジ・アンバーが遠ざかったせいか、少年を抱えて見下ろす獣の目からは琥珀色が失せて、トルマリンの輝きが戻っている。

「テシーの船を借りる!キーなら店に置いてあるし、燃料はいつも満タンだ!まだ追いかけられる!ハミルは取り返せる!」

 叫ぶ少年には確信があった。

 危険な賭けだったが、勝ったと言えた。

「ハミルはオラを庇った!まだ消えてねぇ!ハミルの心はまだハミルのモンだ!」

 あの時、もしもジ・アンバーが完全に体の主導権を握っていたなら、飛びついたカムタはその全身をルディオの手の平と同

じ状態にされていただろう。

 そうせずにジ・アンバーが回避したのは、ハミルが拒絶し、コントロールが上手く行かなかったせい。

 ルディオはカムタを見つめ、ゆっくり頷いた。

 異論は無い。カムタの意見と期待に沿うだけの事。

「船の運転はどうするんだぁ?」

 訊ねるルディオに、カムタは「オラがやる!」と力強く頷いた。

「免許はねぇけど親父さんに仕込んで貰ったし、テシーの船なら何べんも回してる!アイツの足なら、あの船にだって負けや

しねぇ!」