What is happiness to you?

 夜明けも近い海面を、クルーザーが掻き分けて突き進む。

 この船はテシーが跡取りを望む父から譲られたクルーザーで、観光クルージングを主眼に置いたカスタムが船室に施され、

居住性が非常に高い仕様だが、その最大の持ち味は「タフさ」にある。

 乗員の安全を軽視しない堅牢な構造と、荒天荒波を物ともしない安定性を備えている上に、造水装置やソーラー発電装置も

有しており、万が一航行不能に陥っても通信用電力や飲料水に困らないよう設計されている。

 今その舵を握るのは、しかしテシーではなく、小麦色の肌のずんぐり肥った少年。

 トップビューから行く手を見張れる船外付けの操舵ポジションにつき、黒々とした波を乗り越えて船を進めるカムタは、実

はまだ免許を持っていない。
が、本来の所有者であるテシーは、ヤンが改めて鎮静剤を投与し、眠りを延長して乗船させ、ダ

イニング調の船室に横たえてある。万が一航行を咎められても一応監督者が乗船している体は整えてあり、「操舵士急病のた

め」という言い訳も可能な状態である。

 計器類を時折見遣り、代わり映えしない行く手の海と見比べながら舵を取るカムタは、しかし目的地であるハミルの学校が

ある島の船着場を、あえて最短距離では目指していない。

 ラグーン内海に流れ込む潮流は全て頭に入っており、満潮干潮での変化も把握している。海流に逆らわず流れに乗る形で利

用して弧を描く、最短時間で到着できるルートを正確に割り出していた。

 この航行技術と知識は、ゆくゆくは自分の船を持ち、漁師になるつもりのカムタに対し、テシーの父が仕込んでくれた物。

そしてこの船を戸惑い無く動かせるのは、テシーが乗せてレクチャーしてくれていたおかげ。

 情けは人の為ならず。

 ロヤック家の面々がカムタのためにしてやっていた事が、今この時、恩返しに活用されていた。

 操船に集中するカムタの後ろには、左右の風防の内側にある手すりを両手で掴み、壁のように巨大なセントバーナードの巨

漢。少しでも先を少しでも早く見るため、立って操舵する少年の背中を、逞しくもふっくらしたその腹で支える格好。

「カムタ。右8度の灯り、傍に寄ってる二隻の船だなぁ」

「なら漁船だ。明け方の網上げで作業用の灯りつけてんだ」

「距離は平気かぁ?」

「あの辺に行くまで相当離れるから、飛ばしててもあんまり気に止められねぇはずだ」

 日の出までは時間があるものの、空との境目がはっきりし始めている。海面から高さがある操舵デッキの上に立ったルディ

オの目は、水平線までの約8キロをしっかり見定めて、カムタへ仔細に報告する。その視力は海に生きる少年ですら舌を巻く

ほどだった。

 一方、甲板下では…。

「…揺れるな…」

 一見すればホテルの一室にも見える、ソファーと長テーブル、各種家具類が揃えられた船室で、肥えた虎が呟いた。

 揺れを非難しているわけではない。カムタが飛ばしてくれているのが揺れ幅で判って、有り難く感じている。

「先生、船酔いなどは平気なクチですか?」

 それとなく案じるリスキーは、船上と船室のどちらで何が起きても対応できるよう、船上へ通じるハッチ前に陣取っていた。

「昔は苦手だったが、この島に来てから慣らされた。だいぶ強い方だと思う」

「それは何よりです」

 リスキーが言葉を切ると、ヤンもまたしばし黙り込んだ。

 肥満虎はソファーの脇に座り込み、寝かせているテシーの手を取っている。

 呼吸、脈拍、共に異常なし。ただ、時折漏れる「しあわせ」という呻きは、変わらず続いていた。

 目を閉じ、眉間にしわを寄せ、牙を噛み締めるヤンは、

「…ジ・アンバーはルディオさん…いや、ウールブヘジンを「同輩」と呼んだ」

 唐突に話を切り出して、リスキーの意識をその単語へ向けさせた。

「あの意味に、見当はついているのか?」

「何とも、判断が難しいところです」

 リスキーは鋭く目を細め、続ける。

「旦那さんの「もう一つの意思」を、ジ・アンバーが「同輩」と表現した事は間違いないでしょう。それを踏まえて可能性が

かなり高いと思われるのは…、時折現れる旦那さんの「もう一つの意思」はつまり…」

「ジ・アンバーがハミル君にそうしているのと同じく、ルディオさんの体を乗っ取っている…か」

 リスキーが「一時的な乗っ取りですが」と顎を引く。何せ、ルディオの意識が無くなるのは、今のところ短時間に限られて

いるので。

「しかし不思議なのは、ジ・アンバーと違って旦那さんに肉体の主導権を預けっぱなしという点です。危険な物を察知してた

びたび現れている事から考えると、おそらくその気になれば強制的に主導権を握る事は可能で、むしろ旦那さん自身より優位

性が高いようですが…」

「何を思ってそうしているのか、真意を察するのは難しい、か…」

 ヤンは唸る。「…「ひととはかけ離れたメンタリティ」、だったな…」と。

「ウールブヘジンがこちらの意図をある程度汲むにも関わらず、一向に対話に応じないのは、メンタリティの違いが原因か?」

「その可能性も高いですね。そもそも言語や文字、会話などによる意思疎通という概念自体が、彼の中には存在しないのかも

しれません。先の件で判ったのは、ジ・アンバーには積極的に関わろうとしないこと。そして、坊ちゃんとあちらへの不干渉

を天秤にかけた場合、坊ちゃんを護る側に立つということ…」

「同意見だ。明確な対立はしないが、防衛はする、ということだな」

「ええ」

 ヤンはしばらく黙って考えてから口を開いた。

「ウールブヘジンの本体は何処だ?」

「………」

 リスキーは答えない。それは彼自身も今まさに考えていた事だった。

「ルディオさんが漂着時から持っていた品は、衣類とナイフぐらいの物だ。そもそもウールブヘジンが出てくる時に、同じ品

を毎回持っている訳でもない。ナイフは置いて歩く事も多いし、衣類は着替える。では、ウールブヘジンの本体は…」

 肥満虎が言葉を切ると、代わってリスキーが声を発した。

「ジ・アンバーの場合、「本体」は結晶で、「精神に寄生する」とも言える形態で持ち主をコントロールしていますね」

「ん?」

 振り向いたヤンは、俯いているリスキーの思案に暮れる表情に気付く。彼にとってもまた、前例が殆ど無い未知の事件なの

だと、今更ながら実感させられる顔つきだった。

「ウールブヘジンは…、旦那さんの肉体それ自体に、「物理的に寄生」している…?」

 これを聞いた医師の目が大きくなる。

「本体は、ルディオさんの体内に…?」

 ヤンが唸る。診療所にはレントゲン設備などが無い。体内の様子を撮影できる機材があれば、既に確認できていた事だった。

「肉体が改造された…。兵器にされた…。それ故の強靭な体…。ハミル君とは比べ物にならない頑丈さと身体能力…。もしか

してルディオさんは、ジ・アンバーのような存在にとって最良の宿主なんじゃないのか?」



「見えた」

 白んだ水平線に目を凝らすルディオの発言で、頷いたカムタが速度を上げる。

「もうじきだ。ぜってぇにハミルを取り返す!」

 意気込む少年は、しかし「ん?」と巨漢が発した声で振り向いた。

「どうしたアンチャン?」

「いや、船が…」

 セントバーナードは少し間をあけて、

「おかしいなぁ」

 曖昧な表現で茶を濁す。

「おかしいって、何がだ?」

「う~ん…。漁の時間なのかぁ?」

「え?」

「一斉に港を離れてくなぁ」

 その発言が意味するところを、カムタも間もなく知った。

 行く手の水平線にぞくぞくと船影が現れ、しかもそれらが四方八方へ散ってゆく様が肉眼で確認できた。

「ジ・アンバーか!?アイツが何かやったのか!?」

 ただ事ではないと察したルディオは、船室のリスキーを呼び、奇妙なその光景を実際に見てもらった。

「これは…」

 顔を出した太陽が焼く操舵デッキの脇に立ち、呻くリスキー。

 丁度航跡がすれ違う船があり、目を凝らしてよく見れば、幸せそうな笑顔を見せる少年達がぎっしりと身を寄せ合って乗っ

ている。

「…しあわせ症状ですね…」

「でも何で船を出して…あ!」

 カムタは言葉を切った。

 思い出した。ジ・アンバーが言った事と、ハミル自身が言っていた事を。

「…学校の生徒、幸せじゃねぇって言ってたよな…。皆の幸せは、自分がもと居た場所に帰る事なのか?」

「強制集団下校ですか…。これはまた派手にやってくれたものです、陸は大騒ぎでしょう。しかしますます理解不能ですね。

奴の仕業に間違いないにせよ、流石にこれだけの規模となれば相当な労力でしょうに…。金銭を得る行為でも、捕食行動のよ

うな生命維持に必要な行為でもない。これでジ・アンバーが得をするわけでもなく…、つまり本当に興味だけで行動している

としか思えません」

「…得…」

 ポツリと呟いたのはカムタ。

 引っ掛かりがあった。

 確かにアレはひとと違う。それは相対して実感した。だが、隔絶を感じてなお、カムタは思う。

 アレは、本当に完全に理解不能な存在なのか?

 ひとの定規で測る事は確かに危険だろうが、解からないモノと結論付けていいのか?

 そんなカムタの思案をよそに、

「でも、カムタの予想は正しかったなぁ。これなら絶対、あの島に居るもんなぁ。それと…」

 ルディオは目の上に手で庇を作り、相変わらずのんびりと言う。

「大騒ぎになってるなら、動き易いなぁ」

「まったくもって、その通りです」

 リスキーが即座に首肯する。症状が出た者のせいで正気の者達まで混乱している状況ならば、ルディオが言うとおりきっと

動き易い。見た目が少年のジ・アンバーを、それこそ学校内にまで押し入って探すのも難しくはないだろう。

「ああ、それとなぁカムタ。これは、カムタも危ない目に遭うから言おうかどうか迷った事だったけどなぁ…」

 ルディオは少年の頭を見下ろし、こう言った。

「おれの中の「何か」はジ・アンバーと戦う気がないみたいだ。けど、アイツはカムタが危なくなったら必ず助けに出てくる。

だから…」

「…ん。判った」

 少年は前を向いたまま応じた。

 ジ・アンバーを力でねじ伏せなければいけなくなったなら、自らの身をあえて危険にさらせ。そうすれば、「獣」が必ず助

けに入る…。

 その提案をするルディオがどれだけ心苦しかったか理解できていたから、カムタは言った。

「アンガトな、アンチャン!」





 三方に海を、背後に密林を臨むクリーム色の建物の上に、その少年は居た。

 睥睨する町並みは、この南の諸島ではあまり見られない西洋的建造物と国際展開する店などから成る賑やかな物なのだが、

今は混乱の只中にあり、物騒な賑やかさに彩られていた。

 日々の営みすら放棄し、各々の幸せを求めて暴走したり、病的に一つの事に拘りを見せて繰り返す人々の出現により、まと

もな状態にある者達までが混乱しつつある。

 微塵切りにした食材がほぼ液体になってなお包丁を振るい続ける、笑顔の調理師。

 手を真っ直ぐに上げながら道を渡って、戻って、また渡って、戻って、延々と繰り返す笑顔の幼子。

 ひたすらトランクの開け閉めをおこなうタクシードライバー。

 不要ではない物まで焼却炉に放り込む壮年の男性。

 ゴールを定めず朝のジョギングに出る若い女。

 時間になっても開かない店のシャッター。

 その異常を指摘する者は、しかし相手からまっとうなようでどこかズレた、狂気を感じさせる返答を貰う…。

「しあわせは、難しいね」

 口を開いた少年は、学校の屋上でくるりと振り向き、カムタに笑顔を見せた。

「追いかけてきたのか。君は本当にハミル・ロヤックが大切なんだね。返さないけれど」

 大切なことが判っているような口ぶりで、しかし理解は全くしていない。悪意がない故に気味の悪い断絶を感じさせるジ・

アンバーの言葉に、カムタは怯まず、

「ハミルを返せ!でなきゃ何処までだって追っかけてくぞ!」

 と、鼻の穴を膨らませた。

 その後ろには、テシーを背負ったヤン、縄を手にしたリスキー、そしてすぐにも前に出られるよう、ジ・アンバーとの間に

カムタが入らない位置に足を置くルディオ。

「それは困る。カムタが追ってくると君も来るだろう?御同輩」

 ジ・アンバーはルディオを見遣った。そしてその瞬間…。

「坊ちゃん!?」

 リスキーが声を上げる。いきなり駆け出したカムタに驚いて。

「やれやれ…」

 ジ・アンバーが手を差し出した。その人差し指が、カムタの眉間を指している。

「カムタ。君が居なくなるのが、一番面倒が無いようだね」

 指先に燐光が灯る。発生した力場がそこに集中し、弾丸のように硬く練り固められる。

 殺意も、悪意も、敵意もない。それは、ひとが石を除くような、蚊を叩き殺すような、無造作な排除行動。

 故に、別れの言葉も存在しない。

 だが、別れをもたらす光のつぶては、駆けるカムタには到達しなかった。

 ガギギギィッと、鳥肌が立って悪寒を覚える不協和音が響き渡る。

 急停止したカムタの眼前には、X・2・Uの三文字が記された背中。

 纏うベストの裾を激しくなびかせ、しっかり足を踏ん張って腰を落とすセントバーナードは、胸の前で40センチほどの隙

間を空け、両手を向き合わせていた。

 そこに発生している不可視の何かが、撃ち出された光弾を食い止めている。

 学校の屋上全体が、大気ごと激しくビリビリ震える。距離があるヤンやリスキーまで肌に直接、痛いほどの振動を感じるほ

どの高出力で、獣はその能力を開放していた。

 力同士の激しいせめぎ合いが凄まじい音を立てる間に、止められた光弾は細やかな光の粒子を発散させながら体積を減らし

てゆき、一秒ほどで完全に消滅する。

 素早くカムタの前に回り込み、攻撃を阻み、力を発生させていた両手を左右に戻した獣の、感情を一切窺わせない琥珀色の

瞳が、テンターフィールドの胸に光る琥珀色の石を映した。

 排除すべき、害として。

 その体の両脇に垂らされていた両手が、五指を広げたまま軽く左右へ広げられる。

 ジジッ…、と鳴ったのは屋上の床。チラリと見遣ったリスキーは、そこに風が運んだ砂粒が、小刻みに跳ね回っている事に

気がついた。

(まだ振動している…。出所は…)

 獣の両手。

 先に生じさせた力がまだ宿ったままなのか、二つの手の平を中心にして、大気が微かに震わされている。

「…なるほど。僕を排除する気になったんだね御同輩」

 ジ・アンバーが呟くや否や、獣が前に出た。

 直接的な手段で明確にカムタを排除しようとした事がトリガーとなった。彼の行為を「敵対行動及び積極的な攻撃」とみな

した獣は、いつものように、相手を破壊して安全を確保するための行動に移る。

 まるで映像をコマ落とししたように、瞬き一つの間に間合いを詰めて、その両手でテンターフィールドに掴みかかる獣。

 ジ・アンバーは燐光を体の表面ではなく、前方へ半球状に展開し、接触を阻む力場の盾を生み出してこれを迎え撃つ。

 光の盾に獣の両手が触れた途端、バギギギギッと、硬い結晶体が連続して砕かれるような音が響き渡った。岩塩を削り砕く

音を何十倍にもしたような異音は、力場の盾と接触した獣の手の平から上がっている。

 しかし、その手は焼け焦げない。左右方向から斜めに力場の盾へ押し付けられた獣の手は、不可視の力を纏っている。大気

を震わせるそれは既に、振動の域を超えていた。

「振動波を発生、操作する…。これが君の宿主の能力かい?御同輩」

 目を細めるジ・アンバー。

 局在化された衝撃波。それを手袋のように纏った手が、弾丸すら弾き触れれば肉を焦がすエネルギー障壁を、斥力を筋力で

ねじ伏せ、出力に物を言わせ、細かな光の粒子へと分解してゆく。

 力比べは不利と察し、力場を残して後方へ跳躍するジ・アンバー。ハミルの肉体がダメージを負うほどの運動だが、構って

いられる場合ではない。飛び退いたその直後には、獣の両手は力場の盾を食い破り、風穴を空けて虚空を掴んでいた。

 破壊されて霧散するエネルギーの残滓を吹き散らし、猛然と前へ出る獣。その踏み切った足の下で床がひび割れ大きく抉れ

たのは、衝撃波を跳躍の足掛かりとした影響。

 獣が見せる、目で追うのも困難な高速移動の正体は、衝撃波で自らを礫のように撃ち出すという、乱暴極まりない能力応用

だった。

 衝撃波を爆ぜさせ、かつそれを足裏に纏わせた振動波で中和し、自身は傷つかない。制動に関しても同様に、進行方向に産

み出した衝撃波の壁で自らを受け止める。破壊のみならず、移動の補助にも用いられ、しかも目に見えない…。それが、獣が

これまで行使してきた力の実態。

 跳躍したジ・アンバーの速度も尋常ではないのだが、獣の移動速度はそれを大幅に上回る。着地したその瞬間には距離をゼ

ロにし、胸元の石を毟り取るように剛腕が振るわれていた。

 またも生じる激しい破砕音。

 再展開された力場は、しかし盾に形成するほどの時間的余裕も無かったので、体に燐光を直接纏う形態になっている。その

燐光を隔て、僅か5センチほどの位置に獣の手が迫り、力場を破砕しながらじりじりと近付いてゆく。

「ボディの性能差は如何ともし難いね」

 呟くジ・アンバー。

 打倒不可能。逃走不可能。完全に詰んでいるのだが、破壊される寸前になってなお、そこに恐怖も絶望もなく、淡々と事実

を咀嚼している。

「まずい!ハミル君が!」

 ヤンが悲鳴に近い声を上げる。生命力を搾り取られ、ハミルの肉体はその黒い斑点を急速に薄くしていた。常識では計れな

い速度で消耗してゆく少年の体に、焦りを覚えてヤンが目を動かす。

 カムタは、踏み止まったそこから動いていない。獣とジ・アンバーをじっと見つめている。

(坊ちゃんが止めない…。覚悟を決めたのか)

 リスキーは、仕方がない、と割り切った。ハミルが死んでも構わないと思っている訳ではないが、少年ひとりと弟を含む大

勢の人々を天秤にかけた場合、選ぶべきはどちらなのか、最初から心は決まっている。

「これはまずいな…」

 追い詰められながらも他人事のように呟くジ・アンバー。そこへ…。

「アンチャン!ちょっと待ってくれ!」

 カムタが破砕音に負けないほどの大声を上げ、獣は僅かに手を緩める。

 破壊の手はそのまま、力場を削る力をすこし弱めた獣の手元を見遣ったジ・アンバーは、「ふむ?」と不思議そうな声を発

した。ひとと全く同じ、疑問の色を含ませて。

「ちょっと休戦だ!いいか、ジ・アンバー!アンチャン!」

 少年の声に、ジ・アンバーが小さく顎を引いた。騙し討ちは意識していない。放っておけば自分が破壊されるこの状況で、

わざわざ制止した少年がそんな事を狙うはずもないので。

 瞬時に消え去る力場の燐光。同時に止む、獣が発する振動波。

 依然として間合いに捕らえたまま、じっと自分を見据える獣から目を離し、ジ・アンバーはカムタを見遣った。

「ジ・アンバー。おめぇよりアンチャンの方が強ぇ」

 真っ直ぐ見据えながら歩み寄るカムタに、ジ・アンバーは「そのようだね」と素直に頷く。

「おめぇ、ひとの幸せに興味あっていろいろやってたんだろ?ここで死んだらソイツはできなくなっちまうぞ?おめぇ、それ

で幸せなのか?」

 「ん?」と、ジ・アンバーが声を漏らした。

「だいたいな、ひとの幸福感とかに興味あるって言ったけど、そんなの、おめぇが今のまんまじゃ絶対にわかりっこねぇぞ」

「ふうん?」

 恐れを見せる事もなく、獣の横に並んだカムタがキッパリ断言すると、ジ・アンバーは興味をそそられた様子で顎を引く。

「ひとが幸せを感じる気持ちも、それを奪われる辛さも、ちっとも判ってねぇおめぇに判るはずがねぇ。だいたいおめぇ、自

分で幸せ感じてねぇんだろ?」

「………」

 ジ・アンバーは何も言わない。だが、興味深そうにピクピクと耳を動かし、カムタの言葉を聞いていた。

「ひとの気持ちが理解できてねぇのに幸せが理解できるとか、自分でも幸せ感じられねぇのに理解できるとか、思う方がおか

しいんだ。だいたい幸せってのは、ひとりで終わるイッコだけのモンとは限んねぇんだぞ?いろいろ繋がってる事もあんのに、

そのひとから幸せな事イッコだけ抜き出して、それを強くしておかしくさせてみたって、判りっこねぇ」

 それはカムタにしてみれば、ジ・アンバーに対して「おかしい」と感じていることを、整理できないまま言ってみているだ

けの事だった。相手がひとと違う精神構造であるとか、ひとではないだとか、そんな事はひとまず置いておき、物を知らない

年下の子供に根気強く説明するように、「たぶんこことかおかしいんだよ」と指摘しているだけ。

 だが、その生の言葉は、本心からの声は、

「…なるほど」

 ジ・アンバーには問題提起となった。

「それはつまり、幸福感を個体ごとのただの反応や欲求とみなさず、他の感情や考え方と関連付けて追求していかなければ、

本当の「しあわせ」を理解できない、という事かな?」

「…?何言ってんだかあんま判んねぇけど、たぶんそうだ」

 曖昧なセリフをキッパリ言うカムタ。ヤンもリスキーも開いた口が塞がらない。

(カムタ君は、まさかアレを…!?)

(「説得」する気ですか坊ちゃん!?)

 力を見せ、交渉のテーブルに着かせる。それはリスキー達も用いる常套手段。

 しかし、危険極まりない、そもそもひとですらない相手に対し、親友が人質に取られているに等しいこの曲面で、子供で素

人のカムタがそれをやってのけた事は、数え切れないほど修羅場を潜り抜けてきたリスキーですら驚嘆させられた。

「おらは幸せだけど、独りぼっちだったら幸せじゃねぇ。皆が居るから幸せなんだ。あとな、幸せってひとり一個じゃねぇよ。

一番の幸せがあれば、二番目の幸せは要らねぇとか、そういう事でもねぇ。みんな別々に色んなモン追っかけて探しながら生

きてんだ」

「では、どうすればいいのかな?」

「そりゃ簡単だ」

 カムタは胸を張る。

「「いいこと」を見てればいいんだ。いいことするひとの傍で、そのひとが何を幸せにしてるか考えればいい。世の中は難し

いけど、だいたい「いいこと」を真ん中にして回ってるモンだ。そうしたらおめぇが言った、「ひとを進歩させる幸せ」の事

も判ってくるんじゃねぇか?世の中を回すのは「いいこと」なんだから」

 カコンとリスキーの口が開いた。自分のような者と付き合っていながら、そんな性善説めいた話を人外相手にするのか?と。

「「いいこと」とは、また曖昧だね」

「その辺は勉強するしかねぇ。でも、幸せがどういうモンか、手掛かりとかもねぇまま考えてくよりは簡単じゃねぇか?」

 大真面目に言うカムタと、真剣に吟味するジ・アンバー。

 そして、短い沈黙を挟み…。

「判った。僕が引き下がろう。ハミル・ロヤックは返す」

 ジ・アンバーは、カムタの説得に応じた。

「君が言った事は興味深い。これからはアプローチの仕方も吟味する必要があるね」

「そいつはいいけど、「いいひと」に迷惑かけたら「いいこと」じゃねぇからな?島でやったような真似してたってダメだ。

あとな、ハミルもだけど、皆にかけた術もちゃんと解いてけ」

 一安心したカムタの発言に、

「ああ。それはできないよ」

 ジ・アンバーはさらりと答えた。

「何だと!?」

 堪らず声を上げたヤンは、背負っているテシーの、肩に乗っているその寝顔を見遣った。

「解除はできないんだ。一日ぐらいで勝手に解けるのを待つしかないね」

「……………へ?」

 間の抜けた声を漏らし、ジ・アンバーを見遣る虎。

「欲求を抑える枷を外したと言ったけれど、その枷は勝手に閉じる蝶番付きのドアみたいな物でね。放っておけば元通りになっ

てしまうのさ。それこそ、本人が意識改革をしたり、価値観を変えたりしない限りは」

 引っ掛けられた気分になるヤンだったが、ジ・アンバーはからかっている訳ではなく、淡々と事実を述べているだけ。

「ちゃんと元通りになんだろうな?皆も、ハミルも、テシーも」

 疑わしげに訊ねたカムタに、ジ・アンバーはチッチッチッと指を左右に振る。

「そこは問題ないよ。ハミル・ロヤックについては体が少し衰弱しているけれど、栄養を取れば元通りだ。すぐ使用に耐え得

る体力が戻る。ああ、ただ筋肉痛はしばらく酷いだろうし、数日は歩くのも大変かな」

「そのジェスチャー、言ってる事と合ってねぇぞ?」

「おっと、違うのかい」

 肩を竦めるジ・アンバー。

「今度は合ってる」

「それはどうも。さて、早速だけれど、もう行くよ」

 ジ・アンバーは笑顔を消して、自分を監視したままの獣を見上げた。

「御同輩。君がカムタに執着する理由に納得したよ。彼は実に興味深い」

 獣は答えない。ただ無表情に、無感動に、無機質に、ジ・アンバー…ネックレスの石を見つめ続けている。

 ただ、成り行きを見守るリスキーは、ジ・アンバーの発言の重要性に気付いていた。

 カムタは、ひとならざる存在を相手取り、交渉のテーブルに着けさせた上で、それなりの納得を引き出せる答えを提示した。

 この場合、正解か不正解かなどという事はそもそも問題ではない。善悪の観念も道徳や倫理も持たない人外を納得させ得る

事が重要であり、それ以外の「答え」はどんな素晴らしい物でも無意味。

 カムタはジ・アンバーを納得させる答えを示せた。学者でも、指導者でも、政を行う者でもない、辺鄙な南の島で海の恵み

を糧に生きる、学問と縁遠い子供が…。

(坊ちゃんは…、案外「こちら」向きなのかもしれない…)

 犯罪者向き、という意味ではない。ONCの構成員に向いている、という事でもない。

 現代のひとと社会の理から外れている、存在を秘匿された者や物と向き合う側…。カムタの価値観や胆力は、そういった場

所に立つ者に相応しい物なのではないか?リスキーは素直にそう感じていた。

「では、さようならだ」

 さっと、テンターフィールドの少年の手が上がる。

 その先で、朝の日差しを受けた琥珀色が輝いた。

「あ!」

 ヤンが見上げたその先で、首から抜いて放り上げられたネックレスを、飛来したウミネコが咥える。

「…取り付く相手は、ひととは限らない、か…!」

 呻くリスキー。鳥に鼠に猫に犬…そんな対象に取り付けば、どんな所でも簡単に入り込める。ONCに潜り込むのも容易い

事だったのだろう。

 屋上の上を大きく二周旋回してから、ウミネコは飛び去った。

 行く先は判らない。ハミルの記憶を参考に行き先が決まったのか、それとも鳥任せなのか、判断はできない。

 騒ぎの種が島の外に放たれただけとも取れる決着だが、とりあえずは…。

(もう、この周辺には留まらないだろうな…)

 どう報告を上げようか考えながらも、リスキーはひとまず安心した。

 破壊する以外の決着はないと思っていた。実際に回収できてしまったらできてしまったで、ONC内で何が起きるか判った

物ではなかったのである。フェスターの管理下で永久封印処分になるならともかく、珍しがって手を出したがる輩も多いので、

混乱の種を抱え込むだけになってしまう。

(ターゲット・ロスト…。褒められた物ではないが、仕方のない結末か…)

「ハミル!」

 脱力して崩れ落ちた親友を抱えたカムタが上げた声で、リスキーは視線を降ろす。

 ジ・アンバーがその場を逃れるために嘘を言っていただけで、実際にはハミルは手遅れ…。という可能性については、まず

低いだろうとリスキーは考えている。

(そう、そもそも黙って潜んでいたわけでもないのか…。あれは別に周りを欺いて隠れようとしていたのではなく、あえて自

分の正体を明かす必要がなかったから、というだけの事かもしれない)

 案外ああいう手合いは、ひとよりもずっと正直な存在かもしれないとも思えた。

「…寝てる…のか?」

 気を失っているハミルの呼吸を確認したカムタは、駆け寄るヤンを見遣り、それから傍らの巨漢を見上げた。

 身じろぎもせずに立っていた獣の瞳から、ゆっくりと琥珀の色が失せて、トルマリンの輝きが戻る。

「………終わった、のかぁ?」

 気を失っているハミルを見下ろし、ネックレスが消えている事に気付き、周囲を見回したルディオが訊ねると、

「たぶん!」

 カムタは曖昧な返事をきっぱりと返した。



 そして、翌日の昼…。

「具合はどうかな?」

「ああ、済みません先生…」

 トレイに乗せてふたり分の昼飯を運んできた肥えた虎に、ベッド上のテシーが眉を八の字にして恐縮した。メニューはカム

タお手製、食べる前に暖めるだけの状態にしていた、鶏肉入りクリーム粥である。

「食欲は?例え無くとも、食べてもらわないと困るが…」

「あ、大丈夫です済みません…」

 ベッドサイドに腰を下ろしたヤンは、食べるようにテシーを促し、自分もまた食事を摂る。

 テシーには事情を一切説明せず、店で倒れているのを見つけた、という事にしている。

 でっちあげた診断書には「急性アルコール中毒」と記した。なお、リスキーが店の冷蔵庫から数本ジンを抜き、中身を移し

替えて空にして、意識が無い状態のテシーの口につけた上で空瓶をキッチンに転がし、マメな現場工作をおこなっている。拝

借したクルーザーの燃料もきっちり補給してあるので、所有者が異常に気付く事はまずないと思われた。

 迷惑をかけてしまったと、すっかりしょげているテシーの様子に…。

(本当に済まないテシー君!)

 胸の中で力いっぱい詫びるヤン。結局はただの被害者であるテシーを、丸く収めるためとはいえ「酒でありがちな失敗をし

た若人」扱いをしてもっともらしい顔で説教しなければならないのは心が痛む。背中など罪悪感の脂汗でびっしょりである。

 なお、リスキーは診療所を離れ、上司へ結果を報告中。結局「石は発見したが鳥が咥えて飛び去った」と、追跡中の出来事

はともかく、結末だけは正直に報告する事に決めた。

 今後はONC内で探索班が編成される事になるはずだが、それで簡単に捕まるジ・アンバーでもない。ゆくゆくは要注意リ

スト…つまり「うかつに触れてはいけない品」に名を連ね、積極的には関わらない方針になるだろうというのがアジア系の青

年の見通しである。

(とにかく、事態は終息した…。あとは磯の死人達を早くお巡りさんが見つけてくれるように祈るだけだが…)

 心は痛むし、すっきりしない。それでも最悪の事態は避けられたはずだと、自分を納得させようとするヤンに…。

「あの、先生…」

 テシーがおずおずと話しかけた。

「本当に済みませんでした。で、有り難うございます…」

「うん?」

「夢うつつですけど、先生がおぶって歩いてくれたの、覚えてます」

 ヤンの尻尾がボサッと太くなってビンッと直立する。

(ま、まさか、記憶があるのか!?)

 全身からダラダラと冷や汗を流したヤンは、

「店からここまで、かなりあるでしょう?息が上がって疲れても、ずっとおぶってくれて…。乱暴に引き摺って来られたって

文句言えないのに…」

 事情を知っているわけではないようだと察し、心の中で安堵のため息をついた。

「…いや、もう気にしなくていい…」

 ぎこちない微笑を見せるヤン。それを照れているのだと解釈したテシーは…。

(先生の背中、柔らかくて広くて、何だか安心したな…)

 遠く遠く、おぼろげにしか浮かんでこない記憶の中の、ヤンの背中の感触を思い出していた。

(俺、幸せ者だ…)



「ハミルー!具合どうだ!?」

「元気かぁ?」

 病室に顔を出したカムタとのっそり付き従うセントバーナードをベッド上から見遣り、ハミルは「カムタ!ルディオさん!」

と驚いたような顔をした。

「ビックリしたぞ!」

「うん。したなぁ」

 しかつめらしい顔を作っているカムタと、ぼんやり顔のルディオは、今回は島間連絡船に乗ってハミルに会いに来ている。

 ハミルは学校がある島の病院で、短期間だが入院生活を送る羽目になった。両足の筋肉に断裂があり、数日間は歩行も禁止

されているので。

 とはいえ、ハミルの怪我と奇妙な全身筋肉痛は、それほど怪しまれなかった。

 結局は原因不明のまま、数年で話題にも上らなくなるのだが、ジ・アンバーが引き起こした事件による島中の騒ぎは、「化

学物質などを吸い込んだ事による意識混濁者の大発生及びその患者を目の当たりにした事で起きたパニック」という結論が出

された。

 このパニックで怪我をした者や、危険な目に遭った者も多数あったため、ハミルもその犠牲者のひとりという事で落ち着い

ている。

 ただ、出発予定の前夜に家に戻った後、いつ島を出たのか、いつ学校に戻ったのかも、ハミルも両親も判らなかったので、

皆で首を捻った。

 しかし結局は「何故か早朝に挨拶なしに学校へ戻って行った」という事になった。他の学生も急に帰郷するなど、学校関係

者の大半に異常行動があったようなので、ハミルにも何らかの影響が出ていたのだろう、と。

「食うのは平気なんだよな?来る途中の店でゼリー買って来たけど、これ大丈夫か?」

「うん!有り難う!」

 たった数日で急に痩せてしまった幼馴染を気遣い、両手で顔を掴んで目を覗いたりしているカムタは、内心ホッとしていた。

(ハミル元通りだ!頭おかしくなっちまったらどうしようかって心配だったけど、平気みてぇだな!よかったー!)

「カムタ、暑い…!」

 厚くて火照った両手で顔を挟まれているハミルは、抗議してようやく開放されると、

「………」

 ゼリー詰め合わせの箱を凝視している巨漢に気付き、「あ。せっかくだから皆で食べようか?」と気を利かせて提案した。



「大騒ぎだったってな?」

「うん」

 カップのピーチゼリーを匙ですくいながら、「ぜんぜん覚えてないけどね」とハミルは頷く。

 ジ・アンバーが主導権を握っている間の事は、ハミルの記憶には全く残っていない。ある意味ではルディオと同じである。

 黒い部位に生じた白毛化や体の衰弱については、患者だらけでてんてこ舞いの医師も満足な診断ができず、よほど怖い目に

あったのだろう、という曖昧な意見しか言えなかった。

「隣の島の工場地帯から化学物質みたいな物が飛んでいたのが原因じゃないかって、みんな言ってるよ。今は正常な大気状態

に戻ってるらしいけど」

「カガクおっかねーな。落ちてても触んねぇようにしような」

 よく判らないまま頷くカムタ。少なくともカガクナントカはハミルを操らないだろうが、体に悪いなら触らないほうが良い

だろうとは思った。

 妙に大人しく、チマチマと少量ずつマスカットゼリーを口に運んで尻尾を振っているルディオに至っては、もはや話を聞い

ていない。

「皆が言うんだ。おかしくなってたひとは、「しあわせ」「しあわせ」って呟いてたって」

「………」

 黙したカムタから視線を外し、ハミルは窓の外を見遣る。

 青い空は綺麗で、それだけに余所余所しくも感じられて…。

「カムタの幸せって、何?」

 ギクリとするカムタ。しかし…。

「僕は、お見舞いに来てもらえて幸せだって思うし、先生に褒められて幸せだって思うし、兄さんにご飯作って貰って幸せだっ

て感じる…。全部バラバラな事なのに、それは全部幸せなんだ…」

「…だな」

 正気だと察してホッとしながら頷くカムタは、その通りだと感じていた。

 小さな幸せは日々無数に見つかる。自分はそれで満足し、幸せな人生だと感じている。

 だが、全てのひとが同じわけではないのだとも、理解できている。

「幸せ、かぁ…」

 カムタは呟く。ジ・アンバーには偉そうに言ったが、結局自分もよく判らないのだなぁ、としみじみ思いながら。

 

「テシーさんは帰ったんですか?」

「ああ。でっちあげの患者だし、もうしあわせ症状の再発の恐れも無いから、帰して問題ないだろう。…というよりも、病人

扱いが心苦しかった…」

 夕刻、帰ってきたリスキーにそう応じて、「首尾は?」とヤンは訊ねた。

「想定通り、上司は頭を抱えている様子でしたが、探索班が編成されたようです。私が単独で動いた事にしているので、こち

らの活動については勘ぐられていません」

「それは何よりだ。…ところで、そっちのツテでレントゲンや超音波検査機なんかを使えたりはしないか?」

「何です藪から棒に?」

 冷蔵庫からアイスティーを出したヤンは、グラスに注いでやりながら、首を捻っているリスキーに「ルディオさんだよ」と

応じる。

「ジ・アンバーの口ぶりからすると、ウールブヘジンはアレの同類で、ルディオさんに寄生している可能性がある…だったろ

う?敵ではないと思いたいが、本体の所在は掴んでおきたい」

「どうも。…それで旦那さんの体内の様子を確認したい、と…」

 グラスを受け取ったリスキーは、納得した様子で頷き、冷たいアイスティーを一気飲みする。

「そういう事だ。カムタ君の幸せのためにも、少しでも正体に迫れるなら…」

「結論から言いますが、そういうツテはありません」

「そうか…」

 ガッカリするヤンに、しかしリスキーはこう続けた。

「ですが、買えば良いじゃないですか?私はそういった品を確保できませんが、上司から頂いている活動費は、頭金だけで自

家用ヘリとヨットとRV車が一括購入できる額です。今後の診療所でも活用できるでしょうし、我々が負傷した時にも使う可

能性があるでしょう?例えば腹に銃弾が入った時とか…」

「考えたくないが、確かに有れば心強いか…」

 内臓疾患や妊婦検診用など、用途は広いなぁと想像を膨らませるヤンに、

「それにしても、坊ちゃんの幸せですか…。それも結構ですが、先生もそろそろ幸せを追求してはいかがです?いつまでも若

いままではいられませんよ?」

 リスキーは茶化すような口調で本心を口にする。

「…幸せになる事なんて考えていない。僕は贖罪のためにここに居るんだからな」

 ヤンはブスッとした顔で応じ、「風呂に行く」と身を翻した。

 その背を見送るリスキーは…。

「…幸せになってくれないと、兄さん困るぞシーホウ…」

「ん?何か言ったか?」

「いいえ、何も…」



「幸せって何だろう?か~…」

 湯船の中から天井を見上げ、カムタは何度目かの呟きを繰り返した。

 体の熱を心地良く吸い出す水風呂の中で、向き合う格好のルディオも「何だろうなぁ」と応じる。

「ひとでもよく判らないのに、ひとじゃないジ・アンバーがそれを判ろうとするのは、凄く大変な事なんだろうなぁ」

「そりゃそうだよな。よく判んねぇけど、アイツはもう何百年も調べてんだろ?大変だよきっと」

 そう言うカムタは、その何百年も続けられてきたジ・アンバーの調査が、自分の言葉で方針を変えたという事実が、どれほ

ど貴重なケースでどれだけ重大な事なのか、考えてもいない。

「そういえば、アイツはアンチャンの事が判ってるみてぇな口のきき方してたよな?」

「ん。おれ…って言うか、おれの中のヤツだなぁ」

「…落ち着いて詳しく訊いとけばよかったな…」

「仕方ないなぁ。余裕もなかったんだからなぁ」

 今になってルディオの素性を探るチャンスを失った事を悔やむカムタだったが、巨漢自身は気にしていない。

 カムタが不幸せにならなければ、幸せ。

(おれは、それだけでいいなぁ)



 それから幾ばくかの月日が流れた、東洋の島国で…。

「…って訳でさぁ…。なぁ、聞いてる?トモダチだって、ただのトモダチ」

 髪を茶色く染めた青年が、不満げな顔をしながら歩く。

 傍らを歩く若い女は、表情が沈んでいた。

 石畳の歩道を露店が埋め尽くす、祭で賑わう商店街。

 浮気を疑う女性と、二股をかけていた男性のカップルは、祭の空気に触れてもなお態度が硬い。

(ったく、シツケーっての。どうすりゃ納得すんだよ面倒くせぇ…)

 どう言いくるめようか思案する男は、

「…あ。気になるのあった?」

 アクセサリーが並ぶ露店の前で足を止めた女性に、喜び勇んで訊ねた。

 金属製の十字架やピースエンブレム、安っぽいが割高のメタルアクセサリーが並ぶその中で女性が目をとめているのは、一

番端にある、他の商品とは趣がかなり違うネックレスだった。

「………」

 女性は吸い寄せられるように手を伸ばし、それを摘み上げる。

 貝殻を加工したキラキラした飾りと、琥珀のような色の石がついたネックレスは、どうにも他のアクセサリーとは統一感が

ないデザインで、明らかに浮いていた。

「それ気に入った?ならプレゼントするぜ!おっさん、これいくらだ?」

 値段を訊かれた店主の中年ハムスターは不思議そうに瞬きした。

 仕入れた記憶がない、見覚えのない売り物である。商品を並べた時にも気付かなかった。

 だが、これは当然の事。目を離した隙に野良猫が端に置いて行ったのだから。

「…えぇと…。うん。二千円」

 まぁいいか、と割り切って、他の品と一律同じ金額を口にし、男から御代を受け取るハムスター。

 女性はネックレスを掴み、しばらくじっと石を見ていたが、

「………」

 グルリと首を巡らせて、男の瞳を見ながら微笑んだ。

 機嫌が直ったと勘違いして、男は喜んだ。

 その笑顔が感情を全く伴っていない、異質な笑みであることには気付けなかった。そこまで深くは女性の事を見てこなかっ

たから…。

「ねえ。貴方のしあわせは何?」









 その石は

      今も何処かで

             誰かを観ている。