Ruined country

 それは、カムタ達が暮らす島国から遠く離れた、乾いた大地での出来事。

 カムタ達「ヴィジランテ」が、異形の怪物や人智を越えた怪異を島から除け続けていた春の、ある日の出来事。



 連続した銃声が響く。硬い煉瓦を踏む靴音を追いかけるように。

 煉瓦で固められた地下道の床や壁に反響しながら、遥か後方の地上から追いかけてきたその音は、その軽快な響きが皮肉な

ほど簡単にひとを殺せる音。

 カンテラを手に、ひとり地下道を走るのは中東系の顔立ちをした壮年。

 土埃と煙に汚れた顔には夥しい汗の筋が走り、仕立ての良い執務衣は煤だらけで、裾が破れている。

 元々は聡明で意志の強そうな眼差しが印象的だった壮年は、しかし疲労と衰弱で顔に蔭りを刻み込まれていた。

 民族紛争、宗教戦争、エネルギー紛争、そんな幾多の理由による争いが延々と続くこの土地で、壮年は指導者だった。数時

間前までは。

 軍がクーデターを起こしたのは日没から二時間後のこと。軍を掌握した若き将校は、融和政策を進める壮年を除こうと画策

していた。

 軍の高官は、夜半に発された声明を信じるならば若き将校達クーデター推進派によって「粛清」されたらしい。

 熱にうかされながら自己の民族の優位性を説き、憎しみと怒りと、それらを発散させるという欲望に人々を駆り立てようと

する若人の演説を、壮年は憤りを通り越して憐れに思った。

 若き将校は、異民族を除き異教徒を除く事を善であると、正義であると、声高に主張した。

 そんな考えが不幸と争いを呼び込むとして、壮年は彼が生まれる前からずっと「闘って」きた。長らく無政府状態だったこ

の地で、民族、宗教、エネルギー問題に取り組み、長い時をかけて、先進国連合から国家として認められる政府を作り上げた。

 次代のために。未来のために。そう信じて作り上げてきた国の中から、そこで生きていってくれるはずの若人が異を唱え、

銃を取り、同胞を撃ち殺した。

 政権が認められてから、たったの二年。その終焉は、国の内側から崩れる形で迎えられた。

「…う…!」

 呻いた壮年が足を止め、壁に寄りかかる。

 脇腹を押さえた手の隙間から血が滲み、じっとりと掌を染め上げる。

 妻は撃たれた。まだ赤子の娘を守ろうと、寝かせている部屋へ続くドアへ駆け寄ったところを、背中から撃たれて。

 妻の亡骸を踏み越えて兵士が寝室に押し入り、まだ一歳にもならない赤子が寝かせてあるベッドへ無慈悲に銃口が向けられ、

轟音が数度響いた。

 吹き散らされた繊維が舞う光景を呆然と眺めた壮年は、妻と娘の遺体に縋りつくこともできなかった。

 側近に手を引かれ、隣室に引っ張り込まれ、ドアの向こうから銃を乱射される中でダストシュートのような抜け穴に押し込

められた。

 ダストシュートを降りきったところで轟音が鳴り、粉塵が吹き出してきた。爆薬で道を塞いだ側近がどうなったのかは考え

るまでもない。

 そして今、壮年は「万が一」に備えて作られていた地下通路へと定められた手順で辿り着き、脱出しようとしている。

 だが、脱出したとて何になるだろう?

 自身が凶弾に倒れながらも側近に逃がされた壮年は、その際に負った傷からの出血で急激に体温と体力を失いながら考える。

 自分はここで死ぬ。助かる見込みはない。例え地下道を抜けたとしても、そこから先には何も無い。もう一度やり直す時間

的余裕も、熱意も、力も、もう残ってはいない。

 ずるずると壁に沿って崩れ落ちた壮年は、

「………」

 コツン…。

 と、唐突に耳へ届いた、煉瓦の床を踏む音で目線を上げた。

 後方ではない。足音は行く手から聞こえた。

 コツン…。コツン…。

 一定のリズムで響く足音は、その主の体重を物語るように音が深かった。

 コツン…。コツン…。コツン…。

 崩れ落ちた際に壮年が床に下ろしたカンテラが、低く投げる灯りの輪。その狭い範囲のすぐ外側で、軍靴の音はコツンと止

まった。

「…私を殺しに来たのか…?それとも捕らえに来たのか…?」

「さて、どっちがお望みだァ?」

 グフフ…、と低く呻くような含み笑いに、壮年は眉根を寄せる。

 高い位置から落とされた声は、イントネーションがやや不自然だった。

「外国人…?」

「少し違うなァ。何せ俺様は「外国」も何も、何処の「国」にも属しちゃあいねェ」

 不可解な言葉に続き、パッと周囲が明るくなる。暗がりに慣れていた壮年は目の奥に鈍痛を覚え、一瞬顔を覆ったが、その

光は閃光弾などの類ではなく、裸電球が放つ程度の光だった。

 少し目が慣れ、ゆっくりと眼前から手を退かした壮年は、最初にゴツいブーツを目にし、それから太い脚を覆う濃いグリー

ンの迷彩柄ズボンを、素肌に羽織った同色の迷彩柄アーミーベストを、その上に乗る海棲哺乳類の顔を瞳に映し、息を飲む。

 そこに居たのは、青みを孕む黒と、ややクリーム色に寄った白の肌を持つ、鯱の巨漢だった。

 まるで筋肉でできたダルマのような体格で、縦横比がおかしく感じられるほどバランスが極端な体躯である。ベストは体躯

に比して小さく、脇腹の半ばまでの丈しかなく、前のジッパーも締まらない。肌が大きく露出したその出で立ちは、アラビア

の物語に登場する魔人を壮年に連想させた。

 如何なる品なのか、鯱の右肩の少し上に光源となっている光球が浮かんでいる。

 壮年は知らなかったが、ソレはライトクリスタルと呼ばれる品だった。所有者の思念を感知して意のままに浮遊し、いかな

るエネルギー源も必要とせずに熱を伴わない光を発生させ続けるソレは、現代の技術水準や科学力では作り出せないオーバー

テクノロジーの産物…レリックと呼ばれる品の一種である。

「…軍の者では…ないな…?」

 いでたちもそうだが、見た事の無い顔。確認する壮年に、鯱の巨漢は低く含み笑いを漏らしながら応じる。

「あァそうさ。俺様は軍人じゃねェ。…ま、昔どうだったかは別としてなァ。グフフ…!」

 鯱は、じっと自分を見つめる壮年を見下ろして「結構結構」と顎を引いた。

「どうやら俺様を「助けに来てくれた誰か」だとか、「天が使わした救い手」だとか、都合よく見ちゃいねェようだなァ。正

解だ。俺様はアンタの味方じゃねェ。むしろ敵だなァ。グフフ…!」

「…誰だ…?」

 壮年は問う。苦痛と疲労に息は乱れ、顔色も悪い。色濃い死相がそこに浮かんでいる。

「ソイツを訊いてどうなるんだァ?訊いても無駄、知っても無駄、そうじゃあねェのかい?んん?」

 ヒョイッと逞しい肩を竦めた鯱に、

「…そう…だな…」

 壮年は力尽きたように視線を落としながら応じた。

「…だがまァ「冥途の土産」って言葉もある。喉に小骨が引っかかった気分じゃスッキリ死ねねェだろうしなァ。特別だぜェ?

いつもなら「ジョン・ドウ」って名乗って煙に巻いてるところだァ。グフフ…」

 含み笑いを漏らした鯱は、

「俺様はシャチ・ウェイブスナッチャー。「黄昏」のエージェント…つまり最高幹部直属の部下だァ」

 その名乗りで、壮年を凍りつかせた。

「ふーん…?その面を見ると、どうやら黄昏の話は知ってるらしいなァ」

 低く笑ったシャチを、壮年は絶句したまま見つめた。

 「黄昏」。その言葉が持つ特別な意味を、壮年は知っていた。

 知ってはいたが、それは他愛も無い噂か、都市伝説か、陰謀論の類だと思っていた。

 この世界を「是」としない者達…。世界の終わりに向けて牙を研ぐ者達…。この世界に黄昏の幕を引く者達…。

「種明かしすると、このクーデターは黄昏主導だァ。実は俺様の同僚が仕組んだモンだが、そりゃァ遣り易かったらしいぜェ?

グフフ…!」

 唸るように響く独特な含み笑いを漏らし、鯱の巨漢は言う。

「単純で脳みそもねェ、神のためなら命も惜しくねェ、そりゃあもう自分の命も他人の命も等しく襤褸切れみてェに使い潰す

気マンマンの若造の「自分の考えは正しい」って思い込みにつけ込んで焚きつけて、そのステキな妄執(ゆめ)を実現できる

ようにちょいと力を貸してやったのさ」

「…それで…、締めくくりとして、私を殺すために待ち伏せていたのか…」

 シャチの言葉を遮った壮年の声には、もはや怒りも宿ってはいない。疲れ果てたその声音は、まるで枯れ木を撫でる乾いた

風のようだった。

 シャチは太い首を縮めて「まさか」と応じる。

「生きようとしねェ奴に興味はねェ。アンタはそのままそこで勝手にくたばりなァ」

 事実、壮年はそう長く保たない。出血は既に致死量に及んでおり、早急に輸血などの手段で治療を受けなければ確実に落命

するのだが、この状況で手当てが見込めるはずもない。

「私は…、間違ったのか…」

 壮年は俯き、浅く早い呼吸の隙間から言葉を紡ぐ。

「進めた融和政策が、民族の誇りを圧迫し、暴走させたのか…」

「知らねェなァ」

 そっけなく突き放したシャチは…。

「だが、アンタは誇ってもいいなァ」

 顔を上げた壮年の目が、物思いに耽っているようなシャチの顔を映した。

「アンタがやってきたこの二年は、ここじゃァこの五十年で最も平和な二年だったろうなァ」

 鯱の巨漢は場にそぐわないほどのんびりとした声で、少し前に観た映画の内容を思い出している風情で述べる。

「「だからこそ」だァ。だから「黄昏」には、「お頭」には、都合が悪かったんだァ。良い具合に治安が悪かったこっち側で、

アンタに倣って融和政策を進める政府が増えて落ち着いて来ちまうと、先進国連合がここら辺に割いてる治安維持の労力が減っ

て、いろいろと遣り難くなっちまう。そうアンタは…、優秀過ぎて、正し過ぎた。「黄昏」最高幹部の腰を上げさせ、こうし

て俺様をこの国に来させる程になァ」

 シャチは口の端をほんの少し上げる。

「アンタは黄昏の敵だァ。この世界の為になる事を続けて来た、世界の味方だァ。だから俺様達から見れば敵って訳だァ。…

が、必死に生きてここまで漕ぎ付けた生き様と、実際に成し遂げたその成果は、敵ながら天晴れだったなァ」

 その笑みには軽い同情と、確かな賛辞が宿っていた。

「この後、アンタと優秀なブレイン共って柱を失ったこの国は瓦解する。国はクーデター派に蹂躙されて跡形も無くなる。そ

してクーデター派は「内部分裂によってたった一週間で全滅」するってェのが黄昏が書いた筋書きだァ」

 とうとうと流れるように語ったシャチは、壮年の肩を見る。

 荒かった呼吸が緩くなっていた。出血が進み、意識も朦朧としてきた壮年は、体を支えていられなくなり、ゆっくりと床へ

うつ伏せに崩れ落ちる。

 鯱は黙して壮年を見下ろし続けた。

 連続する遠い銃声が鎮魂歌。呼吸は徐々に遅くなり、苦痛は他の感覚と同じく遠ざかる。

 その意識が、二度と醒めない夢の中へ落ちる寸前…。

「………」

 屈み込んだシャチが口を開き、壮年の耳元へ、小声で何かを囁いた。

「…!」

 一瞬、壮年の目が見開かれ、焦点が床に合う。

 次いで、その口元が緩み、瞼が落ち、長く息を吐き、そしてそれきり、壮年は二度と動かなくなった。

 何を思うのか、気怠そうにも物憂げにも面倒くさそうにも見える半眼を壮年の亡骸に向けていたシャチは、やがてその遺体

を逞しい肩へ軽々と担ぎ上げ、すっくと立ち上がって踵を返す。

 クーデター派が地下通路を嗅ぎつけたのだろう、複数名の足音が反響しながら耳に届く。

 シャチの所属する組織は、確かにクーデター派を焚き付け、活動を支援した。が、何も彼らに政権を取らせてどうこうしよ

うだなどとは考えてもいない。

 最初からクーデター派には滅んで貰う予定だった。自分達が干渉した事実が露見しないよう、最終的には全滅して貰う計画

である。

 壮年の…前指導者の死体はクーデター派には渡さない。身柄を確保できないまま、逃亡されたかもしれないという疑いを抱

いたまま、クーデター派は統治宣言に至らないまま、この国を徹底的に探し尽くし、破壊し尽くし、そして一週間で自壊する。

…そういうシナリオになっている。

 シャチは壮年の遺体を担いだまま、ライトクリスタルの灯りを消し、ゆっくり、ゆっくり、地下通路を戻る。

 その背後で、奇妙な現象が見られた。

 壮年が零して床を染めた、その血液…赤い水溜りがそのままベロリと、シールが剥がされるように綺麗に捲れ、床から宙へ

浮き上がった。

 点々と残る生乾きの血痕も同様に浮き上がり、シャチを追うようにフワフワと宙を漂いながら次第に集まり、一つに纏まる。

 やがて、宙に浮遊しながら完全な球体となった時、ソレは固体となっていた。

 冷却による固体化ではない。圧縮された事で固形化を遂げたソレは、シャチがその鰭のある尾を一振りすると、その意思に

従い、撃ち出された砲弾のような速度で天井へ激突する。

 それが黄昏のエージェント、最高幹部のひとりフレスベルグ・アジテーターの懐刀たるシャチ・ウェイブスナッチャーの能

力。その一端。

 能力類型は「支配」。特定の条件を満たす現象や物質、形質などを支配する能力者。

 そしてシャチが支配する対象は「水」。条件を満たし支配下に置いた「水」を自在に使役する力である。

 本来の主である壮年の体から離れた血液は、シャチの支配対象となって使役され、地下道の天井に深々と埋まった上で、そ

の形状を毬栗のように変化させて破壊、容易く崩落せしめる。

 騒々しい音を立てて落下した天井の破片が、壮年が持ってきたランタンを直撃し、灯を消し去った。

 それを皮切りに滝のように降り落ちる天井と瓦礫を背に、シャチは歩む。背に吹き付ける粉塵と騒音の隙間から、崩落の音

に気付いたクーデター派の兵士が上げる声が聞こえたが、委細構わず悠然と。

 やがて通路は幅10メートルに及んで崩落し、クーデター派が土砂を除いて開通させた頃には、月が沈んで太陽が天頂まで

昇っていた。



 そして、十日が過ぎ…。



「あ~………」

 荒涼とした瓦礫の町を見渡して、男がひとり、声を漏らした。

 乾いた風が砂塵を巻き上げ、風景をセピア色に染めている。

 埃っぽい風を身に浴びる男は三十路半ばから後半に見える。非常に大柄で逞しく肥っている、熊と見紛う体格の狸だった。

 報道関係者である事を示す腕章を太い二の腕にはめ、首にベルトをかけたカメラを豊満な腹の前に吊るし、来訪者を拒むよ

うに吹く砂風に目を細めている。

 黒い瞳はしばし、破壊された荒涼たる街の残骸を映した後、瞼が降りて覆い隠された。

 丈夫なグローブを嵌めた分厚い手が弔意を示し、たわわな胸に指を伸ばして添えられる。

 数日前までここには国があった。人々の営みがあった。家があった。仕事があった。喜びがあった。悲しみがあった。幸せ

があった。不満があった。諍いがあった。

 そういった一切合財が、ほんの数日間で消え失せてしまった。

 軍の強硬派がクーデターを起こし、政府関係者をほぼ皆殺しにし、首相の身柄を押さえられずに街を強制捜査し、疑心暗鬼

から始まった内輪揉めによってあっけなく瓦解し、嵐のような十日が過ぎた今、ここにはもう、かつて国だった残骸が横たわ

るのみ。

 黙祷を終え、大男は静かに瞼を上げる。

 廃墟の街にひとの気配は無く、亡国の風だけが、もう何もかも残っていないと異邦人へ告げるように、寂しく咽び吹いていた。

 男はジャーナリストである。貧困、紛争、疫病、災害、若い内から世界中のあらゆる災禍の中心に飛び込み、こういった景

色を幾度も目にしてきた。
だが、この寂寥感に慣れる事はない。慣れてはいけないとも思っている。見て、聞いて、感じて、

その寂しさも切なさもやるせなさも、写真に切り取って世界中へ発信している。

 ふと、狸は丸みを帯びた耳をピクつかせた。

 クーデター派が瓦解した後、暴徒化した残党は連合軍の掃討作戦により排除された。一般市民はクーデター派が政府関係者

を探し回っている五日間の内にほうほうの体で逃げさっており、ここにはもう残っていないはずだった。

 風向きが変わった途端に何かに反応を示した狸は、足場にしていた塀の残骸から砂埃と瓦礫に埋まった路面へ飛び降りる。

 ドスンと重い音がする。無用心に気配を隠さないその行動は、「ここに居る」という意思表示。

 音を立てて大股に歩む狸の足取りに迷いは無い。崩れ切れずに残ってしまい他から浮いて見える、三角に聳える煉瓦壁の角

へ近付いてゆく。

 そして、大人の背丈ほどに残ったその壁の角の、板切れや残骸に埋もれた内側を覗き込んだ。

 そこに、少年が居た。

 日に焼けた肌を煤塗れにし、板切れを布団のように身に掛けて、力なく横たわる、十歳にも満たないだろう少年が。

 衰弱で光を失った瞳が、ぼんやりと狸を見上げている。

(奇跡だよ…)

 弱々しい残り火を前に、狸は胸の内で嘆息を漏らした。

 暴力が街を蹂躙し、その暴力同士が喰らいあって、吹き荒ぶ暴力が街から去る間、家族とはぐれた少年はずっとここに居た。

脚が瓦礫に挟まれて動けなかったので、息を殺して隠れ続けた。

 骨が折れている。衰弱もしている。だが、動けなくなった少年は、その苦痛と引き換えに生き永らえていた。

「大丈夫、僕は敵じゃないよ」

 狸は両手を広げ、敵意が無い事を示す。少年に反応は無い。

「君ひとり?家族は一緒じゃないのかナ?」

 語りかける狸は少年の身を覆う瓦礫に逞しい手をかけ、軽々と、次々と、片っ端から退かしてゆく。風が咽ぶ廃墟の街に、

作業の音は軽快に響く。

 大きな体を活かし、三人前の馬力と疲れ知らずの体力で、狸はあっという間に少年を掘り出すと、カメラの三脚に使う組み

立て式のパイプをザックから取り出し、骨折した脚へ添え木代わりにくくりつける。

 手馴れた様子で素早く応急処置した狸は、少年の目の前へ、水筒とクッキータイプの携帯食料を差し出した。

「よく頑張ったナ!偉い偉い!」

 少年達が使う言語を流暢に操り、励ますように褒めて、狸は笑いかける。

 その、優しげで愛嬌がある丸顔を彩る、敵意の欠片も無い笑みが、少年の目を潤ませた。

 助かった。

 その実感が、齧らされたクッキーの味と、水で潤された喉の震えで補強される。

 怖かった。辛かった。寒かった。痛かった。

 耐えて来た物が一気に吹き出て、乾きで痛めた喉から嗚咽を漏らす少年の頭を、狸の手がゆっくり撫でる。

「捨てた物じゃないよ…」

 狸の口から漏れた呟きは、少年には聞き覚えの無い、東洋の島国の言語だった

 やがて、少年が食料を少し口にし、口を潤した後、狸はその太い腕で少年を軽々と胸に抱き上げた。

「僕は「カナデ」、ジャパニーズだよ。君は何て言うのかナ?」

 そして狸は難民キャンプの方向へと歩き出す。少年の家族が無事だとすれば、そこで再会させられるはずだった。



 国連所属の治安維持部隊が形ばかりの守りを固める難民キャンプへ、狸は負傷した少年を抱えて足を踏み入れた。

 兵士の姿は少ない。少ない上に人手が足りないので、負傷者の搬送やら傾いたテントの張り直しやら、雑多な事まで手伝っ

ており、歩哨はろくに立っていない。

 防衛線の構築が要らない、兵士が兵士としての仕事以外にまで手を出す、そんな有様からも、クーデター派の徹底的な壊滅

ぶりが窺えた。もはや、「敵」に備える必要性が皆無となっている。

 大柄な狸は救護所の旗を掲げるテント群に向かって歩んでゆく。テントの影の中から疲れきった無数の視線がぼんやりと、

歩む狸と抱かれた少年に注がれるが、反応らしい反応は無い。

 そこには、喪失感と疲労が蔓延していた。

 狸は、派遣されている医師団のメンバー…テント周辺の負傷者に問診を行なっていた中年男性に声をかけ、事情を話して少

年の治療を求めた。

 衰弱が酷かったのですぐに治療を行なって貰える事になり、係員に抱かれてテント内へ運び込まれる少年は、

「あ…」

 何か言いたげに首を巡らせて視線を向けたが、狸は柔和な微笑を浮かべて軽く手を上げ、そのまま少年を見送った。

 そして、人道支援のために派遣されている救護所の若い係員に話しかけ、少年を発見した位置を伝え、道すがら訊き出して

いた家族の情報を伝える。

「ああ、判りました。家族は無事です。移動できる体力があるので今朝方2キロ向こうの第二キャンプに移って貰ったところ

ですよ。奥さんが逃げる最中に転んで掌を怪我しましたが、みんな元気です。息子さんが見つからないと嘆いていましたが…、

運が良かった」

「本当だよ…」

 ホッと肉付きの良い胸を撫で下ろした狸は、支援チームの連絡担当者に渡してくれと、メモを一枚残して救護所を後にする。

 数分後、ベテランの支援チーム事務員は、若い係員からメモを渡され、内容を一読するなりため息をつく。

「知っているひとなんですか?何が書いてあったんです?」

 若い係員に問われたベテランの山羊は「KARASUMA」と記された連絡先を眺めつつ、顎鬚をしごきながら口を開いた。

「援助要請だ。彼のツテやパトロン達へのな」

「パトロン?ツテ?」

「彼はフリージャーナリストだが、彼の活動を支援する者は多い」

「…えぇと…。ジャーナリストなのに?難民支援ができるようなパトロンが居て?」

 首を傾げた若い係員に、ベテラン山羊はポツリと言った。

「彼を支援する者達それぞれの思惑はどうあれ、支援物資は本物だ。これで食料飲料物資には困らなくなる」

「…何者なんですか?あのひと」

 若い係員の問いに、山羊は微苦笑して応じる。

「ジャパニーズの民間人だ」

「…は?」

「本名はカナデというらしいが、私も皆もあまりその名前では呼ばないな。そう、彼を呼ぶときは…」



 難民キャンプを出て、廃墟の町並みを再び目指そうとした狸は、600メートルと進まずに足を止めた。

 電線が切れて垂れ下がり、照明も無くなってただの鉄柱と成り果てた、高さ5メートルほどの鉄製照明塔の残骸に、逞しい

体躯の鯱の巨漢が、葉巻を咥えて紫煙をくゆらせながら寄りかかっている。

「グフフフフ!腐れ縁だなァ「ストレンジャー」」

 鉄柱に背を預けて腕組みしているシャチは、親しげに狸へ話しかける。

 ストレンジャー。「見知らぬひと」「異邦人」などを意味するその言葉が、この界隈での狸記者の渾名となっている。ろく

に母国へ帰らず、年がら年中世界を飛び回っている自分にはピッタリの渾名だと、カナデ自身も少し気に入っていた。自分に

はピッタリだ、と。

 巨漢に話しかけられた大狸は、「また会ったよ、「ジョン・ドウ」」と、こちらも親しみが篭った苦笑いを返す。

 ジョン・ドウ。意味は「名無しの権兵衛」「とあるひと」「何某」といったところ。シャチが頻繁に用いる偽名だが、本人

も偽名と看破される事に頓着は無い。むしろ、転じて身元不明死体に仮称としてつけられるこの偽名をシャチ自身も気に入っ

ている。自分にはピッタリだ、と。

 シャチとカナデは幾度も顔を合わせた間柄だった。お互いの事を「ジャーナリスト」「軍事関係を生業とする者」といった

具合でしか告げあっておらず、狸記者の素性を調査したシャチの方はともかく、カナデの方は鯱の巨漢の正体を知らないが。

「いつから来てたんだよ?」

「結構早ェ内だぜェ」

 歩み寄ったカナデはシャチの横で、膝丈ほどだけ残った壁の基部へ「どっこいしょ」と腰を下ろした。

「酷い物だよ」

「だなァ」

 ふたりは遠く、廃墟の町並みに目を向ける。「酷い」の意味は、そのまま惨状への感想などではない。

 一時でも安定を得ていた国が一時の嵐のようなクーデターで滅び、何も残らなかった。その「滅亡の形」への感想が「酷い」

だった。

「こんな酷ェ真似をする奴ァ、ろくな死に方できねェだろうなァ。グフフ…!」

「まぁ実際、同士討ちで全滅っていうのはろくな最期じゃないナ」

「そうだろなァ」

 シャチは語らない。そっちは確かにろくでもない惨めな最期を迎えて貰った、とは。そもそもシャチは、ろくな死に方が「

できなかった」とは言っていない。クーデター派を対象とした発言ではなく、その後ろで糸を引き、この亡国を創り出した自

分達に向けての言葉である。

 カナデは疑ってすらいない。だいたい、証拠も痕跡もなく思いつく者も居ないだろう。クーデターを扇動した組織があるな

どとは。そして、その実行犯のひとりが、こうしてのうのうと堂々と、今ここで顔を晒しているなどとは。

「それでも、逃げ延びた人達はまだ必死に生きてるよ」

「…ああ。必死に生きてるなァ。生きようとして生きてる。生きるために生きてる。…命ってのはそうでなくちゃならねェ…」

 カナデが口にした言葉に、シャチは深く頷いた。

 友人というほど親しくはないし、同郷というわけでも同僚というわけでもなく、どういう訳かよく出くわす腐れ縁の間柄。

性格も違い接点も薄いふたりだが、どういうわけか最初に会った時から気が合った。

 勿論、自分がやっている事をカナデが知ったら、この関係は終わるだろうとシャチは理解している。カナデは自分を理解し

ないだろう。そして自分は真実を知ってしまったカナデを殺すのだろう、と。

「いつ頃までこっちに居る予定なんだよ?」

「もうそろそろ出立だァ、俺様達の仕事は殆ど残ってねェんでなァ」

「確かに、軍が武力鎮圧するような対象がもう居な…ん?」

 狸はキャンプの方へ目を向けた。何やら騒がしいが、キャンプ入り口で、布に包まれた何かを抱いた女性が大勢に囲まれて

いる。

「一体何の騒ぎだよ?」

「あァ、赤ん坊が見つかったんだとよォ。「お偉いさん」の赤子か何かなのかもなァ」

 肩を竦めながら応じたシャチは知らぬ顔をして、難民の女性へ先ほど押し付けた赤ん坊の身元をぼかす。

「赤ん坊…」

 狸の口元が小さく動き、その目が何か思い出した様子でシャチへ向けられる。

「みんな元気にやってるんだよ?」

「あァ。元気過ぎて困ってるぜェ。グフフ…!」

「…それは…、よかったよ…」

 狸は目を細めて微笑むと、腰を上げて尻を叩き、埃を払った。

「世界はきっと残酷で、けれど捨てた物じゃない」

 呟かれたその言葉は、この狸の理念であり祈りでもある。その祈りを胸に、彼は世界を見つめ続けている。この世界に生き

る者達へ、自分達が生きている世界の横顔を発信し続けている。

 その理念を現わす言葉に、シャチは半分だけ同意している。

 確かに世界は残酷だ、と。

「そりゃそうと、そっちはいつからコッチ方面に来てたんだァ?」

「昨日国境を越えたばかりだよ。元々はマーシャル諸島の就学事情を取材するついでに、市や祭りも梯子取材する予定だった

んだけどナ…」

「ふ~ん。じゃあこっちが終わってから予定に戻る訳か…」

「そうなるよ。…じゃあそろそろ行くよ。赤ちゃんの顔を見にネ」

 幸運にも生き延びた幼い命を写そうと、笑って手を上げたカナデへ、シャチが「あァ、またな」と軽いハイタッチで応じる。

 そうしてキャンプへ引き返す狸の背中を見送って…、

「…マーシャル、ねェ…」

 誰にも見られていないそこで、シャチは目を細くして思慮深げな面持ちになり、咥えた葉巻をピコピコ振りながら小さく呟

いた。

 シャチは今回の「仕事」のためにこちらへ潜伏する前…出立の前日に、身元を偽って接触をもっている他組織の構成員へあ

る依頼を出していた。

 ある島国の中で「医薬品」の流れを調べて欲しい、と。

 工作員としても上司から信頼されている有能なシャチは、物の流れ方から探し物を嗅ぎ付ける。

 戦場は何処か、その規模はどうなのか、そういった事を調べるなら兵士と武器の流通経路と量や種類を探ればいい。だが、

暗闘に隠された戦いを探るならば、医者と薬を洗えばいい。

 その結果、シャチは医療用器具の売買記録に不審な点を見つけた。

 気になった買い手は小さな島の診療所。そこは、ある時を境に薬品等の購入量が増しただけでなく、様々な試薬や大掛かり

な検査機器まで購入し始めた。

 島の開発などに伴って人口が増え、医院の規模が拡大されたのかとも思ったが、個人的に調べても該当の島の開発計画など

は確認できなかった。

 さらに追跡調査として数年分の医療品流通を探らせた結果、この変化の異様さはシャチの疑念を深めた。

 可能性としては、貯蓄していた財で診療所をリニューアルしにかかった…という線もある。普通ならばその線をまず考える

ところなのだが、シャチにはその「時期」が気になる。

 この事実は現在シャチしか知らない。主である組織中枢の最高幹部へも調査を行なっていること自体報告しておらず、同僚

達にも教えていない。そもそも、あえて組織内の駒を使わずに個人のツテで別の組織に依頼したのは、上司や同僚達に勘繰ら

れないためでもある。

(「偶然」…。そう考えちまえばそこまでで、実際そうかもしれねェんだがなァ…)

 葉巻を摘んで口元から離し、鯱の巨漢はプカァッと煙を吐く。

 亡国の風が、千々に乱した紫煙を何処ともなく運び去った。























 南国の水平線に太陽が近付き、反射を残してじきに夜を連れて来る時刻。

 崖上に建つ診療所のリビングへ、ウッドテラスからアジア系の青年が入室した。

 猫科の肉食獣を思わせる、しなやかで流動的な身のこなし。足音を殆ど聞かせない暗殺者は、リビングに居た家主に向かっ

て口を開いた。

「何て恰好ですか?先生」

「!?」

 ビクンと丸い体を震わせたのは、でっぷり肥った一頭の虎。

 ビックリして全身の毛を逆立て、オドオドした気弱な素の表情を垣間見せた医師は、来訪者がリスキーだと確認するなりホッ

と表情を緩め、次いで顰めっ面になる。

「なんだ、リスキーか…」

 シャワーでも浴びたのか、ヤンは腰にバスタオルを一枚撒いただけの格好で、リビングの大テーブルについていた。

「「なんだ」とはまたとんだ労いですね。一応「仕事」帰りなんですが」

 肩を竦めたリスキーは不機嫌そうなヤンから、それでも「カムタ君がアイスティーを作って行ってくれたぞ。冷蔵庫に冷え

ている」と告げられると、「それはどうも」と応じ、憩いの一杯を求めて冷蔵庫に向かう。

 大瓶からグラスに注がれたのは一見すると普通のダージリンティー。よく冷えたそれを僅かに含み、口の中を漱ぐように舌

で転がして飲み下した後、さらに一口含んですぐさま飲み、口内から鼻に抜ける香りを満喫する。

 カムタがこまめに作り置きしてくれている、レモンとメープルシロップが香り付けで入ったダージリンティーは、仄かな甘

味が疲労を癒し、果実の香りが清涼感をもたらし、紅茶の成分がネバついた口内を清めてくれる。

 人体改造の副作用により、毒素だけでなくアルコール等まで分解されてしまうリスキーにとって、カムタのアイスティーは

酒以上の癒しであり労いの一杯。現場に復帰したら上司や同僚に勧めて流行らせようか?などと本気で考えており、カムタか

ら正確な分量で再現用レシピも教わった。

「パトロールの首尾は?」

「ある意味空振り、ある意味上々、…つまり何も見つかりませんでした」

 問うヤンにリスキーはシニカルな笑みを浮かべて応じる。成果無し…これはつまり危険な物が見つからず、島が平和だった

という事なのだが、裏を返せば「処理が終わっていない危険な物が保留されている」とも言える。全案件に決着がつかない限

り、本当の意味での安全な島には戻らない。

「明日は何事も無いよう祈るが…」

 ヤンは資料を見つめながら零した。島の住民達にとって、明日は特別な一日なのだから。

「坊ちゃんと旦那さんの方はどうなんでしょう?」

「もうじき終わる、と昼過ぎに来た時には言っていたよ。年齢的に子供とはいえ、カムタ君はこの島では立派に一人前の男だ。

僕らが心配したり気を揉んだりする事はない」

 カムタについて話す一時、虎の仏頂面が緩んでいた。年齢的には大人と言えないが、あの少年はしっかりしているし、逞し

く生きている。

(そこは心配していないというか、…個人的に、彼らの売り物に興味が…)

 胸の内で呟きながら、歩み寄ったリスキーは弟の手元を窺った。

 ヤンが広げている資料は、パッと見ただけでは内容が全く判らない、数字とアルファベットと記号がビッシリと並んだ何か

の表である。

 だが、リスキーにはそれが何なのか一目で判る。ここしばらく、ヤンとふたりで何度も確認した資料がそれだった。

「何度見ても結果は変わりませんよ」

「…判っているさ」

「何度調べても同じ結果だったでしょう?」

「判っているとも」

 本当に判っているのか?と肩を竦めるリスキーの前で、ヤンは臍の窪みが深い腹回りを軽くモソモソ掻き、眉間に深く皺を

寄せた。

 考え込んでいる。そして苛立っている。同時に途方に暮れている。

「旦那さんには早めに伝えるべきかと」

「…判っている…」

 同じ言葉を繰り返しながら、それでもヤンは表を見つめる。そして、自分達が至った結論に見落としは無いかと探している。

むしろ、見落としがある事を望みながら。

 表にされているのは、ルディオの血液サンプルのデータと、「ある生物」の体液サンプルのデータ比較だった。

「先生から言い辛いなら、私から旦那さんに話してもいいですが…」

「それはダメだ」

 リスキーの申し出を、ヤンは即座に遮った。

「…僕は医者だ…。ルディオさんの体について調べると請け負ったのは僕だ。話す時は僕の口から言う…」



 編み上げられた籠がテーブルの上に重ねられ、軽い音を立てて揺れる。

 見下ろしたカムタは両腰に手を当て、満足げにニンマリ口元を緩めた。

「アンチャン、もう終わるか?」

 首を巡らせた少年の目に映るのは、床へ作業用に広げたシートの上で胡坐をかき、最後の籠を編み上げている巨漢のセント

バーナード。

「あと少し…」

 いつもと同じぼんやり顔だが、ルディオの太い指は器用に籠を編み上げている。

 記憶も無いし、実際に初経験なのだが、カムタから教わった手順とコツをきっちり守って籠作りに従事するルディオは、売

りに出しても恥かしくない出来栄えの品をちゃんと作れている。

 流石にカムタの方が手馴れており、作成ペースも早いのだが、ルディオも後半はだいぶ慣れて、最終的に出来上がった籠の

総数は例年の四割り増しにもなった。

「…できた」

「お疲れー!」

 最後の籠をテーブルの上で重ね置き、セントバーナードは仕上がった物をゆっくり見回す。

 大きなフルーツ類をテーブルの中央に飾り置きできる、広くて浅めの籠。転がり易い芋や小ぶりな果物類を入れられる、深

めの籠。ふたりが作っていたのは、島の伝統的手法で編んだ二種類の籠だった。

「おっし!飯にしようなアンチャン!明日はいよいよ市だ、しっかり休んどかねぇと!」

「ん」

 頷いたルディオはカムタに続いて夕焼け色に染まる庭のキッチンへ向かい、部屋には山と重ねられた籠だけが残された。

 春の市…フリーマーケットはいよいよ明日。

 基本的に自給自足と物々交換だけでも安定して日々を乗り切れる逞しいカムタは、通貨に頼る必要が無い。水道や電気の料

金払いなどで必要な分は、テシーの助けで魚介類を換金して賄い、払い込みまでやって貰っているので、金銭そのものを手に

取る機会自体が極端に少ない。

 だが、今回の市では特別欲しい物がある。

 日々の食事に玉子を添えるというささやかな野望を胸に、カムタは明日の市で雌鶏を狙っていた。

 それに加え、市の度に手に入れている異国の調味料類も今回はより多く手に入れたい。

 カムタはヤンから「匂い」が記憶を刺激するケースについての話を、簡単にだが聞いていた。

 匂いを嗅いで記憶が戻る…とまではいかなくとも、ルディオが憶えのある匂いと巡り会えれば、故郷の手掛かりにはなるか

もしれない。

 とはいえ、知っている気がするという調味料には、テシーの店でいくつかぶつかった。ただし、ケチャップなどの世界中に

広まっている物なので、手掛かりにはならなかったが。

「調味料でなきゃ、何か飲み物とかでも良いんだよな?」

 ゴロッと大振りに切った鶏肉を野菜類と共に鉄串に刺し、炙り焼きにするカムタは、視線を上に向けて考えながら話す。

「強い匂いがあるモンっていうと、酒とかもそうかな?」

「だなぁ」

 テーブルについて待つルディオは、垣間見た「狼が居る部屋」の事を思い出した。

「…「ジョニー・ウォーカー」…」

「うん?何だソレ?」

「酒らしい。もしかしたら、おれはソレを飲んだ事があるのかもしれないなぁ」

「何で?」

「「白昼夢」の中で、狼に勧められてたからなぁ」

「へぇ~。…狼のひとも、アンチャンと同じ国のひとなんだよな?たぶんだけど…」

「どうだろうなぁ…」

 人間の人種特徴とは違い、獣人は種の特徴が地域に準じない。「その種が多く居る土地柄」、「この地域にしか居ない獣人」

などと、大雑把な生息域の偏りはあるが、人間で言う「○○系」というような物は外見に出てこず、どこで生まれてどこで暮

らしてどんな血筋であろうと、種の固定された姿からそうそう外れない。

 そうでなくとも5世紀頃には宗教的見地から「穢れた者」としての迫害が広まり、獣人は世界中で大移動した経緯がある。

その数十年後には大半の獣人は生息域と種の結びつきが希薄になってしまったため、元々のルーツを辿れなくなってしまった

種も多い。

 狼の生息もかなり広範囲に渡るが、セントバーナード種も同様で、迫害による流浪や、生命力や丈夫さを活かした開拓や開

墾、大航海時代の遠洋航海などにより、早くから南方やアジアにまで散らばっており、ルディオがどこの民族系統なのかを種

から推測するのは事実上不可能と言えた。

 さっと塩で味付けした貝の串焼きと、魚の切り身のフライをテーブルへ運びながら、カムタは「市にあるかな?そのジョー

ジジョーカーって酒?」とルディオに話しかけた。

「「ジョニー・ウォーカー」だ」

「そっか。ジョニーか」

 名前を覚えて、カムタは考える。

(…アンチャンのためにも、手掛かりになりそうなモンが売られてたら手に入れてぇなぁ…)