Market

 カムタが待ちに待っていた、市が立つ日がやってきた。

 船着場には大小様々多数の船が係留され、隙間の海面が見えないほどの鮨詰め状態。島のあちこちでは大荷物の行商人や、

バザーの賑やかさを体験しに来た旅行客の姿が見られる。

 この日ばかりは他所の島どころか他国からも大勢ひとが入り、島中が活気にあふれるのだが、特に賑わうのはメインマーケッ

ト会場となっている砂浜に並んだ露店群。

 今日の市に備えて準備してきたカムタとルディオも、露店エリアで手作りの籠を並べ、朝から売り方をしていた。

「やったなアンチャン!もう半分も売れちまったぞ!」

 昼までまだまだ時間があるのに、売り物は既に半分以上はけている。飛ぶような売れ行きにカムタは大喜び。

 少年の脇には売り物と同じ籠が置いてあり、中には熟れたマンゴーが詰め込まれている。

「リスキーが言った通りだな!「目立つが勝ち」って!」

「そうかもなぁ」

 頷くセントバーナードは、派手な色の布をカムタが縫い合わせたお手製ティーシャツを着せられている。その広い胸から腹

にかけてはリスキーが考えた売り文句…「果物が三倍美味くなる籠(当社費)」という文言がカムタによって刺繍されていた。

なお、いつもは「X2U」が浮かぶ背中にも、今日は同じ文章が記されている。

 バザーのため「仕事」と並行して準備を進めていたカムタとルディオに、仕事上で上司に付き合い様々な国とその祭りをい

くつも眺めてきたリスキーは、簡単なアドバイスをした。ひとはどんな店に近付き易く、どんな時に財布が緩み易いのか、と

いう事を。

 そのアドバイスが、ルディオの格好とカムタが切るマンゴーである。

 極端に大柄なルディオは立っているだけで目立つ。目立つ上に和む外見なので、宣伝のティーシャツを見て貰い易い。しか

も、シャツの字は目立つ位置に刺繍されながらもあえて小さめにしてあるので、確認したくなった客は店の近くまで寄って来

てくれる。

 そこでカムタが、テシーを介して取り寄せて貰ったマンゴーを売り物の籠から取って、その場で切って無料で試食して貰う。

 テシーが目利きしてくれた熟した果実は文句の無い芳醇な甘さ。それを試食した客は、ただで帰るのも気が引けるのでつい

でに籠も買ってゆく。しかもカムタはサービスで籠の中にマンゴーを一つ入れるので、これを見ていた別の客も悪い買い物で

は無いような気がして、ついつい手を伸ばしてしまう。

 それに加えて、カムタは今回テシーの助言を受けて、軽食や飲み物を売っている店などとは距離を置いた場所に陣取り、椰

子の木印の刺繍を施した幟を立てて、ココナッツジュースも売り物にしている。

 懐っこくて愛想が良いカムタの売り口上は、別の店を見ながらそれを聞いた客の目も寄せる。遠めにも目立つ巨漢とコロッ

とした少年の店は、首尾よく多くのバザー客の関心を惹けていた。

「ココナッツのジュースがあるの?」

 カムタは懐っこい笑顔で振り返り、「らっしゃい!」と客に対応する。今度の客は中年女性のふたり連れで、ブロンドの白

人だった。

「英語できるのね?ボク」

 ホッとした様子で微笑んだ女性達は、「そういえばシャツも英語…」とルディオの方に顔を向け、改めてその顔を見上げ…。

「…え?」

「あら?」

 目を大きくし、黙り、次第に驚きの表情に変わる。

「ハーキュリー・バーナーズ!?」

「うそ!?本当にハーク!?」

 悲鳴に近い声を上げた女性達を、その視線を受けているルディオはキョトンと見返す。

「ハー…キュリー…?」

 首を傾げるルディオ。覚えの無い音の連なりだった。

「え?あらいやだ、別人?」

 ルディオの反応を見た婦人達は、急に顔を赤らめて恥らった。

「ごめんなさい、とてもよく似ていたものだから…」

「貴方、ハーキュリー・バーナーズと似てるって言われたこと無いかしら?」

 照れ隠しに微笑する婦人達の言葉にも、ルディオは反応できない。参照できる物が無いのか、記録的記憶にアクションはな

く、誰の事を言っているのか全く判らなかった。

「それは…、おれと似た顔をしているんだなぁ?」

「顔が似ているなんてものじゃないわ」

「そうそう、背格好もそっくりよ。そうね…、顔つきがちょっと、それから瞳の色が違うくらいかしら?貴方の瞳もチャーミ

ングだけれど、トルマリンのようで」

「「ニューゲート・ブラックドッグス」の「ハーキュリー・バーナーズ」。ラグビー選手だったんだけれど…、聞いた事はな

いかしら?行方不明になった時はかなり報道されたと思うけれど…」

「いや、ないなぁ」

 ルディオはカムタをチラリと見遣った。

 少年は黙っている。黙り込んで、婦人達の言葉を必死に記憶している。

(ハーキュリー・バーナーズ…?行方不明になった?ラグビーの選手で、ニューゲート・ブラックドッグス…?)

 初めて耳にする言葉を正確に暗記しようと頑張るカムタ。ヤンやリスキーに調べて貰うには、検索するためのキーワードを

憶えておかなければならない。

 好かれていた選手なのだろう。寂しげな婦人達の言葉を聞きながら、カムタは目を輝かせて胸に刻みこむ。

(「ハーキュリー・バーナーズ」…!)





「カムタ君とルディオさんのところ、遠目には具合が良さそうだが…」

 砂浜に出された簡易診療所。島の要請を受けてここへつめている肥った虎の医師は、店が混み合う前にと、少し早く昼食を

届けに来てくれた青年にそう問いかけた。

「ええ!今回は売り方が上手い。誰かが籠を買うのを見ている客も、ついつい近寄ってってしまう…、そんな売り方してます

よ。先生の方はどうです?」

 朗らかに笑ってヤンに応じる青年は、白地に黒いブチがあるテンターフィールド。

「僕の方はとにかく暇だ」

「それは良かった!」

 バザーでは幸いここまで怪我人もなく、強い日差しに当てられた旅行客が軽い日射病で休憩に来ただけ。ここが暇な事は良

い事だ、と笑ったヤンは、忙しくても片手間に食べられるようにとテシーが気を利かせてくれたサンドイッチを、上手そうに

目を細めて頬張る。

「そっちは良いのかい?店に来る客も居るんじゃないのか?」

「ハミルに店番を頼みました。今日の売り物は数勝負!調理済みの物と飲み物を売るだけにしてありますからね、アイツなら

店番しっかりこなしてくれますよ」

「それなら心配無いな。…休憩して行くかい?」

 寝台は勿論待ち合いベンチもガラガラの簡易診療所内に視線を巡らせ、問いかけたヤンに、

「あ…、め、迷惑じゃなかったら!」

 テシーは一瞬言葉に詰まってから応じた。

 ベンチに座った二人の耳には、賑わう市の明るい騒音が潮騒と一緒に届いてくる。

 テシーは口数が少なくなって、ヤンも話題を探して黙り込む。

 ジ・アンバーがもたらした騒動以降、テシーは自分の中に眠っていた感情を認識した。

 同時にヤンも、彼が幸福感を暴走させられた際に、その本音に触れている。

 テシーは自分が何を言ったか覚えていない。ヤンもテシーがどの程度自覚しているのか知らない。

 だが、ふたりはそれでも何となくお互いの事を意識していて、その関係は今までのものから少しずつ変化していて…。

「今夜までは、忙しいですね」

 唐突にテシーが言って、ヤンの尻尾がピクンと立つ。

「そう…だな。お互い、旅行者達が引き上げるまでは忙しいだろうな」

「あ、明日の晩とか時間どうでしょう?飲みに来ませんか?慰労会ってことで…」

「それはいいね。お邪魔しようか」

 ふたりはお互いに、自分も相手も、変に喋り難くなる事を、不意に口数が少なくなる事を、自覚している。

 それが、不快さを感じたり、相手を嫌がったりしてそうなるのではない事も判っている。

 気持ちが判っているようで、距離はやはりあって、しかし妙に隙間をあけながら付かず離れずなふたりの沈黙を、バザーの

賑わいが埋めていた。



 シバ女王への感謝を示すシンボル…祭りに際して作られた簡素な木組みのポールタワーが立つ岩場を、木立の中からアジア

系の青年が眺める。

 しなやかで細身な猫科の肉食獣を思わせる青年は、腕を上げて額の汗を拭った。

「…何故…、よりによって今日ですか…」

 相対するのは黒光りする甲殻に身を覆われた、アリを人間大にして直立させたような異形の怪物である。既に左腋腹の脚を

失っている怪物は、リスキーのトキシンを打ち込まれてだいぶ弱っていた。

「結構楽しみにしていたんですけどねバザー。ええ、それはもうちょっとは楽しみにしていましたとも。それほどではないで

すがそこそこ楽しみに、ね。それが、よりによって今日ですか。何で今日ですか。ふざけてるんですか。嫌がらせですか。え

えそうですか」

 暗い目と声でブツブツ漏らしながら、リスキーはトキシンテープを巻いた毒手を構える。

 カムタもルディオもヤンも呼ぶわけには行かない、めでたい市と祭りの日。運悪く他の島で取り逃されたインセクトフォー

ムが明方前に漂着してしまい、リスキーは他のメンバーに黙って危険排除中。

 さっさと片付けて自由になりたい。自分もバザーがどんな物か見たいし、簡易診療所を離れられないだろう弟に差し入れも

したいし、カムタとルディオが作った籠を一つ買っておきたい。

 しかし、そんなリスキーの焦りと苛立ちを他所に…。

「キシシキシキシシシッ………キッシー!」

「あ!」

 アリは、踵を返して思いのほか俊敏に逃げ出した。

「ええいっ!またか!」

 後を追うリスキー。しかしリーズナブルかつ性能も低くおまけに弱っているとはいえ、相手もれっきとした生物兵器。逃げ

の一手となれば肉体的には並の人間の域を出ないリスキーよりずっと速い。

「キッシー!」

「待てコイツ!」

「キシジルキシャー!」

 逃げに回った途端に動作の迷いが無くなったとでも言うべきか、予想外に動きが元気なアリ。妙に耳障りに響くその鳴き声

と激しい動きがリスキーの神経を逆撫でする。

(…これ、バザーが終わるまでに終わらなかったりしてな…)

 精神的な疲労と妙な苛立ちを覚えながら、リスキーは獲物を追いかけた。頼むから誰かと遭遇しませんようにと、運命の女

神に祈りながら。



 そんなリスキーの奮闘を知らず、カムタとルディオは昼過ぎには籠を売り切った。

「おっし!アンチャン、買い物して回ろう!」

 ルディオの手を引き、カムタはバザー巡りを開始する。

 いつも楽しい市巡りだが、今日はルディオも一緒のせいかウキウキと気分が弾んでいる。

「まず雌鶏だな!」

「先に買って、家に連れてくのか?」

「お金だけ払って後から連れてく。他にも欲しいの色々あるし、売り切れたら困るからさ」

 カムタは隣島から店を出しに来ている養鶏所の出店へ向かうと、テシーのバーにも卸しに来ている顔見知りの若い男に話を

して、「それなら若い雌鶏二羽、後で届けるよ」と約束して貰った。

「今日連れて来たのは食用の鳥ばっかりだ。玉子たくさん産むのが居るなら、親方に選んで貰って、元気がいいヤツ届けるよ」

「やった!あんがと!よろしくな!」

 最初の買い物は大成功。お代を先渡ししてプロが目利きする雌鶏の売買契約を結んだカムタは、「じゃあ次、調味料だ!」

とルディオを先導し、市の中を歩き始めた。

 ルディオが知識で参照できる食材や調味料は数多いが、実際に見たり味わったりした経験は殆ど無い。近場では作られてい

ない調味料や香辛料を選ぶカムタの姿をいつものぼんやり顔で眺め、時々意見を求められ、色とりどりの小瓶や容器をしげし

げと見つめ…。

(ああ、なんだろうなぁ、これ…)

 ふと、気付かぬ間に自分の胸に宿っていた気持ちに意識を向ける。

 食事の時の物とは少し違うが、これも同じ「楽しい」という感情…。

「あ!土佐醤油だ!アンチャンこれすげぇんだぞ!テシーがウチューサイキョーショーユって言ってるヤツ!ラッキーだな!

テシーにも買ってってやろっと!」

「見つけた!パルメザンチーズ!アンチャン、これでしばらく料理の味付けいろいろできるからな!」

「アンチャン!これじゃねぇのかジョニーウォーカーって!…あれ?何か字が違う?う~ん…、ジョリーポーカー…?あ。コ

レたぶんテシーが気をつけろって言ってた、名前がちょっと違って中身が全然違うヤツだ…」

 あれこれ手に取り品定めしつつ、目当ての物を購入してゆくカムタについて歩き、ルディオはフッサフッサと尻尾を振りな

がら荷物を預かる。

 買い物。きっと世界中の多くの場所で多くの者が経験する、ありふれた行為。マンゴーを入れていた最後の籠を買い物籠に、

カムタから受け取った調味料の小瓶類を入れてゆく。

 それは、知識としてしか買い物を知らないルディオにとっては新鮮な行為で…。

「マヨネーズかぁ…。どうすっかなぁ…」

 カムタが玉子たっぷりマヨネーズを手に取った瞬間、ルディオの前に白い部屋が広がった。

 

「マヨネーズ」

 狼の偉丈夫がテーブルの上に置かれたマヨネーズのボトルを掴む。

「様々な調味料が世に溢れる中、これは別格の存在と言える」

 断定的な口調で語りながら、狼は皿の上で開いたハムサンドの上へマヨネーズを垂らす。

「玉子の乳化作用が活用された人類史上最も偉大な発明のひとつ。ビバ、エマルジョン。元は肉用ソースだが、実際はどんな

戦場(皿上)でも活躍できる。酢が含まれるため菌に強く、悪くなり難い。またカロリーが高く、手っ取り早くエネルギーを

補給する事ができる」

 淡々としているようで、その口調がいつになく熱を帯びている狼。垂れ続けるマヨネーズがハムを覆ってゆき、次第に見え

なくなる。

「魚介、肉、野菜、どんな食材とも手を取り合える。エビとアボカドと寿司にマヨネーズを合わせようなどとは一体誰が考え

たのか…天才か。さらにマヨネーズは古今東西あらゆる食材に合うだけでなく、さらに発展させた多くの調味料を作る際には

重要な材料にもなる」

 狼が熱弁をふるう間に、開かれたサンドイッチの上に乗ったマヨネーズは、パティシエが飾り付けたケーキ上の生クリーム

のような芸術的デコレーションとなった。

「国を問わず様々な料理にも合う。マヨネーズ自体のレシピも多様性に満ちている。味わいを変えるために他の調味料と合わ

せれば無限の広がりを見せる。まさに宇宙。さらに、その国の風習や宗教で禁忌とされている材料を抜いて作る事も、その土

地で手に入り難い材料を避けて作る事も可能だ。そう。マヨネーズはひとが作った国境すら易々と越える。まさに国境無き調

味料。国境を越えてマヨネーズあり」

 マヨネーズに覆われたサンドイッチをうっとりした表情で見つめながら、狼は囁いた。

「わたしは思うのだが、様々な要因で一つになれない人類が、世界中の国が、もしも一つに繋がる時が来るとしたならば…。

それを為すのはひとではなく、マヨネーズかもしれない」

 

「………」

 白昼夢が消え失せた後、しばしルディオは考えた。

 ひとが変わったようになっていたが、マヨネーズについて熱く語っていたあれは、本当にいつものあの狼だろうか?と。

 そして、あの二つあったマヨネーズ&マヨネーズ&マヨネーズ&ハムサンドを、自分も食べたのだろうか?と。

「カムタ」

「うん?」

「マヨネーズの宇宙で国境越えが世界中で繋がるらしいなぁ」

 かなり中身をはしょったルディオの説明。当たり前に「なんの話だアンチャン?」と首を傾げるカムタ。

「白い部屋の狼が言った。かもしれない」

「よし買おう!」

 ルディオの記憶に関係があるかもしれないと考えて即座に購入を決めるカムタ。マヨネーズの宇宙に差し挟まれる疑問は存

在しない。

 それはそれとして、マヨネーズを三種類ほど買っているカムタの姿を眺めながら、ルディオは…。

(ああ、そうだなぁ。「知ってる」だけじゃ判らないなぁ、それで経験できる「楽しい」は…)

 つくづく思う。自分はこの島で生まれたに等しいのだと。カムタと共に経験した事が、今の自分の人生そのものなのだと。

(なぁ、おれの中の「ヤツ」…)

 ルディオは自分の中に居るはずの、自分とは違う、琥珀の目をした何かへ語りかける。

(お前は、どういう事に「楽しい」を感じるんだろうなぁ)

 そんな思索は、立ち止まったカムタの呼びかけで中断した。

「アンチャン、これ…」

 少年が立ち止まって見下ろしているのは、本が並んだ露店だった。

 ルディオにはすぐに判った。カムタの視線が何に向いているのか。

「おっちゃん!コレちょうだい!」

 少年は即決で本を取り、値段を訊いた。カムタの褐色の手が掴んでいるのは、白に近い灰色の被毛を纏う狼が表紙を飾る、

一冊の音楽雑誌…。

(「ハウル・ダスティワーカー」…)

 トルマリンの瞳が表紙の狼を映す。

 中古の音楽雑誌は、「プライマルアクター」という英国のバンドを特集した号だった。



「何だ?具合でも悪くなったのか?」

 簡易診療所を訪ねたカムタとルディオの顔を見比べたヤンは、

「…それとも、何か出たのか?」

 リスキーが全く顔を見せない事もあって、異常事態かと勘繰った。

「違うんだ。なあ先生、ちょっと場所借りていいか?いい本見つけたんだ!」

 カムタは断りを入れると、返事も待たずに待合ベンチの前に屈んで雑誌を広げた。ルディオも少年の頭越しにその手元を覗

き込む。

 メインボーカルのハウル・ダスティワーカーが飾る、特集の1ページ目。鮮明に写された狼のカラー写真を見つめ、セント

バーナードは考える。違う、と。

「…顔は、背格好は、似てるんだけどなぁ…」

「やっぱ違うのか?「白い部屋の狼のひと」と…」

「印象が違う…って言うのかなぁ?」

 ルディオが覚えている狼は無表情の事が多い。雑誌にある写真のハウルは、あの狼と顔こそよく似ているが、より物憂げな

表情が多く見られるものの、時に穏やかな笑みを見せている。

 人格に、そして性格による顔つきの違いだろうか、顔の造りはよく似ていても、ルディオの印象では、ハウルはあの狼とは

「別人」だった。

 「違ったか~…」とガックリするカムタの横から覗いたヤンも「ハウル・ダスティワーカーか」と呟き、記憶を手繰る。

「ルディオさんは以前、ハウルの声は「白い部屋の狼」と似ている、とも言っていたな…」

「ああ、似てる」

 頷いたルディオに、ヤンは目だけ向けて言った。

「気休めというか、あまりに楽観的な想像なんだが…、「ハウルの親類」という線はまだ残っている。顔も声もそっくり…、

直接見ていない僕やカムタ君はともかく、ルディオさんが「顔と声は似ている」と判断するなら、血縁の可能性はある」

「そっか!じゃあハウルの家族とか調べたら見つかるかもしれねぇんだな?狼のひとが!」

 顔を上げたカムタは、家族写真が載っていないかとページを捲り…。

「………え?」

 3ページほど捲った後で動きを止めた。

「…これは…?」

 覗きこむヤンが驚きに呻く。

「………」

 ルディオが無言でじっと、その写真を見つめる。

 そのページには、セントバーナードの巨漢と肩を組み、打って変わって明るい笑顔を見せるハウルのカットがあった。

 カムタが、ヤンが、ルディオとセントバーナードを何度も見比べた。

 瓜二つ。点刷りで画像が粗いモノクロページだが、写真の中でハウルと肩を組んでいるセントバーナードは、ルディオとは

その肥り肉体型から大柄さ、顔形や被毛の色分けパターンに至るまでそっくりだった。

 ただ一つ違うのはその表情。写真の中のセントバーナードは、歯を剥いてニッカリと、まるでカムタが笑う時のような快活

な笑顔を見せている。

 無言のまま三名が目を遣った写真の説明書きには、こう記してある。

 「ニューゲート・ブラックドッグスの優勝記念セレモニーにて、親友のハーキュリー・バーナーズとのツーショット」



 市が終わる。島から徐々に騒がしさが薄れてゆくのが判る。

「終わりますか…。そうですか…」

 息を切らせて肩を上下させるリスキーは、ようやく仕留めたアリを木立の奥へと引っ張り込みながら呟いた。その直後…。

「…キシジルキシャー…」

「………っ!」

 しぶとく生きていたアリに憤怒の形相で数十発ストンピングを見舞い、今度こそしっかり息の根を止めたリスキーは、晴れ

晴れしい…と表現されるものとは間逆の曇りまくった表情である。

 ショーンの置き土産完全処理にまた一歩近付いたのだが、達成感より疲労感があった。

 正直なところ残念だった。市は年に二度しかないと聞いている。次回は半年後の開催と考えると…。

(その頃には任務を終えて、フェスターの元へ帰っているだろう…)

 それがあるべき姿で、この島に身を寄せているのは非常事態ゆえの一時の事に過ぎないのだが、リスキーは島に馴染み始め

ており、居心地が良いと感じている。

 社会を捨て、世界に背を向け、物陰を縫うように生きてきた日陰者が、どうしてこうも安らげるのかと、自分でも不思議に

思う。

 本来の仕事に復帰した時、このロングバケーションを終えた自分は、いったいどのような喪失感を抱くのだろうか?

 そんな事を考えていたリスキーは、携帯端末のシグナルに気付いて取り上げる。

 ヴィジランテ内で用いている連絡用機器ではない。ONC…上司であるフェスターからの直接連絡を受けるための簡易受信

装置である。

(メッセージ?はて、進捗の報告は一昨日済ませたが…。まぁ、ご報告すべき事は増えたわけだ。急いで連絡をしなければ)

 怪訝な顔をしながらアリの死骸を隠し、片付ける段取りを済ませ、追跡途中で身軽になるために隠しておいた荷物などを回

収し、端末を置いている最寄…つまりヤンの家に向かった青年は…。

「…何故…、今日ですか…!」

 タブレットを開いて確認した上司からのメッセージを三度読み上げた後、呻くように吐き捨てた。



 市は終わり、日が沈んだら大人の時間。

 テシーのバーは大繁盛でてんてこ舞い、ハミルとも遊べないので、カムタはヤンの家へ夕食作りに赴いた。

 勿論いつもと同じくルディオも一緒で、簡易診療所から引き上げたヤンに同行し、三名一緒に崖上の家へ向かう。

「市の熱気か、季節の変わり目か、今夜は蒸すな…」

 でっぷり肥えた体は上がる気温に対応しきれておらず、肥満医師はハンカチでグシグシと顔を拭う。一方、種としては寒冷

地対応なはずのルディオは、気温が高くとも平気なようで、いつも通りのぼんやり顔のまま苦にしている様子は無い。

「リスキーが居るな。…結局、市では見かけなかったが…」

 明かりが灯る我が家を見遣って述べたヤンに、先頭を歩くカムタが「リスキーはそういうの好きじゃねぇのかな?仕事がそ

ういうんだからか?」と首を巡らせて問うと、

「いや、それなりに期待していた様子だったんだが…」

 肥満虎はリスキーの言動を思い出しながら首を傾げた。市や祭りについていろいろ訊かれたので、興味が無いわけではない

はずだが、と。

 そうしてヤン、カムタ、ルディオが順に玄関を潜ると…。

「お待ちしておりました」

 明かりを灯したリビングで、リスキーは三名を待っていた。

 その表情でヤンは気付く。これは何かあったのだ、と。

「何が起きた?」

 医師の問いに、暗殺者は「一口には説明できませんし、起こるかどうかも未確定ですので、腰を落ち着けて皆様に報告を…」

と、神妙な顔で応じた。

 どちらかと言えばリスキーは普段から軽口を叩き、余裕を窺わせる言動が目立つ。にもかかわらず、今夜の彼にはふざける

様子が全く無い。それで事態の重要性を感じ取り、三名は促されるままテーブルについた。



「「エルダー・バスティオン」…」

 顔を顰め、豊満な胸の前で腕を組んだヤンは、リスキーが話した組織の名を呟いた。

「今日まで忘れていたが、僕を飼っていたトコロもたぶんそこと取引していた。名前だけ聞き覚えがある」

 組織から医師としての仕事しか与えられていなかったヤンが名を知っている事から、大口の取引先だったのだろうと察しは

ついた。人身売買組織の取引先、かつ大口の客となれば、「真っ当で無さ」にかけてはお墨付きと言って良い。

「ソコはリスキーのトコよりデッカイのか?」

「返答が難しいところですね…」

 カムタの発した問いで、リスキーは困り顔になって考え込む。

「行動範囲や拠点の数で言えばONCが上でしょう。しかし暴力、財力、権力を含む「力」という観点で言えば、エルダー・

バスティオンは我々を越えています。あそこはウチ同様に古い組織ですが、その母体となったのがどうやら国家転覆を企んだ

さる国のお貴族様達だったようで、その資産や財力は一企業であるONCを遥かに上回っていますから」

「それは、抗争になれば君達の側が財力の差で負けるという事か?」

 ヤンの突っ込んだ問いに、リスキーは躊躇いも無く「おおまかにはその通りです」と応じた。

「おおまかには?」

「ええ。正確には財力以外…、「総合的に見ても負ける」ので」

 リスキーは肩を竦めて詳細を述べ始めた。

「ウチは背徳的な行為もやりますし違法な物も取り扱いますが、基本的には利益を追求する「商団組織」です。兵器の生産も

手がけ、それを売っているという意味では勿論大罪人の集団ですが、違法行為や非人道的行いも、えげつない口封じやライバ

ル社の蹴落としも、全ては利益を得るための手段でしかありません。…というよりも、私のような者が「仕事」をするという

のは何らかのミスがあった場合となります。武力は整えるし暴力も用いますが、それ自体が目的ではありません。が、彼らは

「力」を追求する組織です。彼らが財にあかせて集めた武力は一体どんな規模になっているのか、正確に知る組織はたぶん無

いでしょう。ウチに取引記録が残っているだけでも、通算で一個大隊が編成できるほど生物兵器をお買い上げ頂いております。

抱えた「兵隊」の数も「兵器」の数も我々とは比べ物になりません。いずれは世界を牛耳る組織に…、あそこは、そんな事を

大真面目に何世紀も考えてきた連中ですよ」

「夢は大きく世界征服、か」

 小馬鹿にするように言ったヤンだったが、しかしその目は笑っていない。

「しかし、それを早急に実行に移す事も、露見させる事もなく、今日に至っている訳だ」

「ええ」

 リスキーが頷くと、ヤンは「性質が悪いな…」と呻いた。

「忍耐強く辛抱強く焦らず慎重に周到に準備を重ねている…。そういう手合いは本気な上に賢い。本当に性質が悪い…」

「まったくもってその通りです。馬鹿な事を考えているようで馬鹿じゃあないので、手に負えません」

「そんな組織が、この海域付近を探っている、か…」

 顔を顰めて唸るヤン。

「あくまでも探っている段階ですが、注意するに越した事はありません」

 リスキーは上司から受けた連絡の内容を思い出す。フェスターから彼に伝えられたのは、端的に言えば「注意喚起」だった。

 

 目的は不明だがエルダー・バスティオンがマーシャル近辺の海域をうろついている。

 本格的な調査団派遣とは思えないが、所属の小型船などが主に観光を目的として複数入国した事が確認された。ONCが正

規派遣している部隊にも、下手に刺激しないよう連絡を行なった。

 加えて、あの「愚か者の疫病神」が生前秘密裏にエルダー・バスティオンへ情報の横流しを行なっていた事が発覚した。そ

ちらの海域でのあの腹立たしい流出事故について把握している可能性が高い。

 向こうも得にならない事へわざわざ首を突っ込んで来ないとは思うが、もしかしたら我々が把握していない何かがそちらに

あるのかもしれない。…件の琥珀色の結晶体のようにな。

 こちらでもエルダー・バスティオンの動向を探り、情報を掴み次第連絡する。

 

 追伸

 

 可能な限り接触するな。

 なお、お前が就いているのはONCの正規任務ではない。

 

 正規任務で滞在しているわけではない…つまり自己判断での切り上げについては何処からも文句は出ない。

 あのフェスターが、目的を放棄して帰還する事を遠回しに勧めていた。

 自分も上司も慎重になるのも無理はない相手だという事を、リスキーは仲間達へ念入りに説明する。

「とりあえずは了解した。手出しはしない。…というより関わり合いになりたくないし、関わり合う必要も無い相手だ。僕ら

はあくまでもこの島を危険から遠ざけたいだけだからな」

「うん!わざわざつっつく事はねぇよな!」

 ヤンに続いて同意したカムタは、隣のセントバーナードを見遣る。

「アンチャン?…あ、そういやずっと黙ってたけど、何か気になんのか?」

「あ~…」

 問われたルディオは少し考え、

「おれがソコの構成員だった可能性は、あるのかなぁ?」

『………』

 顔を見合わせるリスキーとヤン。

「そいつらがこの近くに来たのは、おれを探しに来たから…、っていう可能性は…」

 誰もルディオに返事ができなかった。

 可能性はゼロではない。だが、相手が相手なのでうかつに接触するのはまずい。

 投げ込まれた可能性一つで、方針が定まらなくなった一同は、

「その可能性があるなら、おれはそいつらを避けた方がいいんだろうなぁ」

 ルディオ本人が続けた言葉で、揃って目を丸くした。

「だって、ソイツらは危ない連中なんだろう?もし、おれが昔そこに居たんだとしたら、おれが居るこの島や、これまで会っ

たひと皆が危なくなるかもしれないしなぁ」

 のんびりとした口調で口封じの危険性について語ったルディオへ、「いいのか?アンチャン」と、カムタがその顔を見上げ

ながら問う。

「家に帰れるかもしれねぇんだぞ?知ってるひとと会えるかもしれねぇんだぞ?」

 その問いかけに、ルディオは迷わず「いい」と答えた。

「今のおれには、記憶よりも家よりも、カムタと皆が大事だからなぁ。記憶なんて後でも良いし、手掛かりは他にもできたし

なぁ」

 一度きょとんとしたカムタは、やがて顔を緩め、照れ笑いした。

 素直に嬉しかった。とても大事なはずの「記憶」より、自分達の安全を優先すると言う、ルディオの考え方が。

「…では、そういう方向で行きますか…」

 いざとなったら多少の危険を冒してでもエルダー・バスティオンの構成員をひとり攫って尋問し、ルディオを知っているか

どうか調べなければならないかもしれないと考えていたリスキーは、少なからずホッとしながら言った。ルディオの身の上に

ついて情報は得たいが、空振りになる可能性も高い上に、失敗した場合のリスクが洒落にならない相手である。弟もここに暮

らしている以上、下手に刺激するのは上策と言えない。

「ルディオさんには済まないが、リスキーが警戒を促すような相手だ。なるべく接触せずにやり過ごしたい」

 己の過去を知る可能性よりも、自分達の身の安全を優先してくれたルディオの意を酌み、済まなそうに耳を倒しながらも同

意したヤンは、

「そういえば、旦那さんが今「手掛かり」と?」

 と、リスキーが話題を変えると、「ああ、そうだ…!」と思い出して少し目を大きくした。

「判断が難しいところだが、ひょっとしたら…というところだ。カムタ君、あの雑誌を…」

「うん!」

 促されたカムタはテーブルに籠を上げた。入手した調味料や酒などに混じってそこに入っている雑誌がリスキーの目を引い

たが…。

「ああ坊ちゃん、そういえば籠は売れましたか?」

「全部売れたぞ!」

「そうですか…」

 少し残念そうなリスキーに、

「リスキーも籠欲しかったのか?じゃあコレやるよ!最後の一個だ」

 カムタは使っているその籠を指差して見せた。

「良いんですか!?おいくらです!?」

 即座に食いつくリスキー。普段は飄々としている青年だが、よほど欲しかったのか目の色が変わっている。

「果物入れたり買い物に使ったりしたからな。タダでいいよ」

「何をおっしゃいますか!勿論御代は支払いますとも!」

 喜んで財布を出すリスキーに「本題に入っていいかな?」とジト目で突っ込んだヤンは、

「「ハーキュリー・バーナーズ」…。リスキー、この写真を見てどう思うか、君の率直な意見を聞かせて欲しい」

 雑誌を掴み、問題のページをリスキーに突きつけた。







 マーシャルの首都、マジュロ。

 宵闇に沈んだその空港内の、国際線を受け入れるエリアで、入国審査官はパスポートに貼られた丸顔の狸の写真から目を上

げた。

 標準的な背丈の入国審査官が見上げなければいけないほどの大男が、審査待ちでカウンター前に立っている。

 恰幅の良い狸の大男だった。無地の白い半袖ティーシャツの上にポケットだらけのカーキ色のベストを羽織り、ベストと揃

えた色のカーゴパンツを穿き、足首まで保護するゴツいブーツを履いている。出っ張った腹や豊満な胸などのラインがティー

シャツ越しにはっきり判るほどの肥満体なのだが、ただ太っている訳ではなく、丸太のように太く逞しい四肢を見れば相当な

力持ちだろうと察せられた。

「観光ですか?」

 審査官に問われた大男は、流暢な英語で「いや、仕事なんだよ」と応じた。

「こう見えてもジャーナリストでネ。スモウレスラーに見える…、な~んてよく言われるんだけどナ!」

 前をはだけて羽織ったベストから覗く太鼓腹を、記者だと言う旅人はポーンと、音を立てて平手で叩く。コミカルな音と動

作が順番待ちで並んでいる入国者達や空港係員の笑いを誘い、入国審査官も思わず笑みを零す。

「「マーシャル共和国ニヨウコソ。コダマ・カナデ・サン」。今週はずっと晴れの予報ですよ」

 審査官が口にした比較的聞き取り易い日本語での挨拶は、名の呼び方も大男の国での物にならっていた。

「あはは!有り難う、久しぶりに母国語が聞けたよ!」

 大男は太い尻尾を振って歓迎の挨拶を喜び、目尻を下げる。

 荷物の受け取りカウンターに向かい、のっそのっそと巨体を揺らして歩き去る狸の背を見送る審査官は、

(スモウレスラー…。確かに)

 彼が口にした言葉を思い出し、口元を笑みの形にする。マーシャルでは日本の文化が身近で、旧日本軍が駐屯していた間に

伝来した相撲も比較的馴染みがあるスポーツの一つだった。

 税関と検疫を抜けて、十歳児がゆうゆう入れるだろうサイズのパンパンに膨らんだザックを受け取り、軽々と背負った大男

は、足取り軽く空港を出て予約していたホテルへ向かう。

「さて、チェックインしたらとりあえず飯だナ!長旅の後はラーメンか肉に限るよ!」

 かくしてストレンジャーはマーシャルの土を踏み、南国の宵闇の中へ消える。

 自分がこの年にこの国を訪れた事が、後々どんな変化をもたらすのかも知らないまま。