Capital
コッコッコッコッ、と首を振り、慣れない庭をチョコチョコ歩く雌鶏二羽を、セントバーナードはいつものぼんやり顔で眺
めている。
バザー翌日。午前中に間に合わせで作った簡素な鳥小屋の中には、運び込んだ干草が敷き詰められていた。
カムタとふたりで作った鳥小屋。これからは食事に玉子が加わる。
カムタは奥の部屋に引っ込んで荷物の整理中。ルディオは庭に出て少年が来るのを待っている。
今日から増えた住民二羽を眺めるセントバーナードは、昨夜の事を思い出していた。
「別人じゃないですか?」
十分近く、驚き、考え、迷った末にリスキーが口にしたのは、カムタ、ヤン、そしてルディオ自身とも同じ意見だった。
アジア系の青年が観ている雑誌のページには、ハウル・ダスティーワーカーと肩を組む、巨漢のセントバーナードの写真が
載っている。
ハーキュリー・バーナーズ。失踪した英国のラグビー選手。バザーで商品と共に島に持ち込まれた新たな情報…。
「顔も姿もよく似ていますが、顔つきが違い過ぎる気がします。性格と言うか人格と言うか…、中身からもう違うような気が
しますね…」
リスキーの意見は、ハウル・ダスティーワーカーと「白い部屋の狼」を比較した際にルディオが感じる物と、ほぼ同じ感想
でもあった。
そう。きっとルディオ自身ではない。しかしそんな判断を下しながら、なおもソレは「手掛かり」だった。
「「白い部屋の狼」とそっくりだが別人の、ハウル・ダスティーワーカー…、行方不明者」
ヤンは整理するように改めて一同へ語る。
「ルディオさんとそっくりだが別人の、ハーキュリー・バーナーズ…、こちらも行方不明者」
リスキーは頬に指を這わせ、「なるほど」と頷いた。
「偶然では片付け難い妙な一致がある上に、ハウル・ダスティーワーカーとハーキュリー・バーナーズは友人関係…ですか。
旦那さんと「白い部屋の狼」も…、友人かどうか正確な関係はともかく、近しい間柄ではあるらしいと考えられますからね…」
テーブルの上に身を乗り出し、「だからさ!」と声を大きくしたのはカムタ。期待で興奮しているのか、顔が紅潮している。
「アンチャンと「白い部屋の狼のひと」は、そのふたりの家族とか親戚かもしれねぇんだよな!」
血の繋がりがあるならば、声も見た目もそっくりなのには頷ける。瓜二つと言えるほど似ているのだから、血縁者という線
は捨てきれないというのが全員一致の意見である。
「ハウルもハーキュリーも有名人。コンサートや試合の映像は残っている。観客席などを探してみたら、案外見つかるかもし
れない。…まぁ、家族などの情報が無いかも調べてみるがね」
肥満虎は「手伝ってくれるか?」とリスキーに問い…。
「勿論喜んで。そういった事であればさほど苦労せず、巷に出回っている以上の情報を手に入れられますよ。我々は表向き海
の商人なんですからね」
青年が快く協力を引き受けると、ヤンはカムタとルディオを見遣る。
「僕の方もリスキーとは別に調べてみようと思う。少なくなってきた試薬の注文もしなければいけないし、ルディオさんの検
査で試してみたいテスターなどもある。それに医療品の配送業者の契約更新手続きもあるから、近々首都へ行くつもりだった
からな。…そこで提案なんだが…」
肥満医師はポッテリ丸っこい少年と、大兵肥満のセントバーナードの顔を見比べて訊ねた。
「ふたりとも、一緒に首都へ行ってみないか?あそこには店もここらとは比べ物にならないほどあるし、売り物も多種多様だ。
ひょっとしたらルディオさんの記憶を刺激するような物もあるかもしれない」
「なるほど。…この島では旦那が触れられる情報も制限されていますし、バザーでひとの動きがあったからこそ新たな情報が
入ってきたというのも確か…。一度色々見て回るのも良いでしょうね」
リスキーは同意すると、不在の間は自分が島の安全を守るので気がねなくどうぞ、と請け負った。
「首都…」
カムタはポツリと呟く。中退した学校で首都の名はマジュロだと教わっていたが、この島近辺でしか活動していないカムタ
にとっての首都は、印象としては「外国に等しい遠い場所」だった。
「どうするアンチャン?行ってみてぇ?」
話を振られたルディオは、いつもと同じくカムタとヤンに任せると返答した。
首都行きの話は昨夜の内に決まった。
雌鶏の小屋造りはやっつけ仕事になってしまったが、帰ってきてから改めて建てる事にした。
到着したばかりですぐ留守番させる事になってしまった雌鶏達を眺めていたルディオは、母屋の玄関に視線を移す。
「準備できたぞアンチャン!」
首都行きの用意を終えて出てきたカムタは、あまり大きくない脇に抱えられるサイズの布バッグを肩から吊るしている以外
は普段とあまり変わらない格好。しかし、穿いているのは少し色の良いホットパンツで、素肌に羽織ったベストも色褪せが少
ない物を選んである。ハミルお手製の首飾りを着用しているが、アクセサリーとしては素朴である。
ルディオはというと、そもそも体が大き過ぎて着用できる衣類が少ないため、おめかしのしようもなく、いつも通りにカム
タお手製のベストとハーフパンツ姿。荷物も少なく、替えの下着数着と、リスキーとやりとりするための通信機と小銭入れ程
度。漂着した時から持っているガットフックナイフは、必要になる事態にはならないと思えたし、他の島での船の荷物検査な
どで引っかかりそうなので、リスキーに預けておいた。
善は急げで、ヤンは昨夜の内にすぐさま宿を手配し、首都行きの段取りを整えてくれた。今日の昼の船で島を出て、首都へ
の連絡船へ乗り換える手はずになっている。
留守の間の雌鶏の世話はリスキーが率先して引き受けてくれた。カムタは意外そうだったが、アジア系の青年は、昔家で鶏
を飼っていたので扱いは心得ている、と笑っていた。
実は、これを聞いた虎医師が「ウチでもそうだったよ」と懐かしそうに目を細めた瞬間、ヤンと一緒に鶏の餌をやっていた
昔の日々を思い出したリスキーの表情が僅かに変化を見せたのだが、これにはルディオ以外気付いていなかった。
「何か手掛かり見つかると良いな!」
道中読むようにと例の雑誌も持ったカムタはバッグを叩いて笑顔を見せた。
初めての首都行き。好奇心が少しずつ膨れてきている少年に、セントバーナードは「ん」と頷いた。
その少し後、ヤンと待ち合わせた船着場で…。
「あれ?」
足を止め、桟橋を眺めてカムタは目を丸くした。
桟橋の上で待っていた丸っこい虎の横に人影が見えたが、見送りに来たリスキー…ではない。
少年が周囲を見回すと、人目を気にして隠れて見守っている暗殺者は、身を潜めた草むらで手を振るように雑草を小さく波
打たせ、カムタとルディオに所在を知らせた。
目立たないように顎を引いて応じ、桟橋に視線を戻したカムタは、
「あれ…、もしかしてテシーじゃねぇかな?」
大きな旅行鞄を足元に置いているテンターフィールドの姿を確認する。ルディオも状況が判らず不思議そうな顔で「テシー
だなぁ?」と頷いた。
「やあ、来たなふたりとも…」
ヤンは桟橋に登ってきたカムタとルディオに、何とも言えない微妙な表情を見せる。
「やあカムタ!ルディオさん!良い天気だな!」
上機嫌なテシーの横で、ヤンは妙な顔のまま口を開く。
「偶然だが、テシー君も首都へ酒の仕入れの関係で、輸送業者へ契約更新手続きに行くそうだ」
首を傾げるカムタ。テシーは留守にする予定がある時、前もってカムタに言っておくのが常だったのだが、今回は何も聞い
ていなかった。
だがそれもそのはず、テシーは今朝になって首都行きを決めていたのである。
市が終わったら慰労で飲み交わそう。ヤンは前日にテシーとそう約束していたので、「忘れていたが首都行きの予定があっ
た」と、朝一番で謝りに行った。
その話を聞くなり、テシーはその場でついていく事を決めた。更新時期はまだ先だが彼にも首都に本社がある業者との契約
手続きがあるので、前倒しにしたのである。
これはヤンからすれば完全に想定外の出来事だった。テシーが同行するとなると、ルディオの素性の詮索や考察、調査がや
り難くなる。テシーが業者との契約更新に行っている間にこっそり調べ物をするしかない。
ウキウキしているテシーは、宿泊の手配は現地で済ませようと思っていたが、せっかくなので三名と同じホテルに泊まる事
にした、とカムタとルディオへ告げた。
テシーを邪険にできないヤンだったが、これは正直なところ非常に有り難くない流れである。
(首都へは一泊の予定だ。…調べが長引きそうなら延長する事も考えていたが、テシー君が一緒となると表向きの目的を終え
た後に滞在を伸ばせば不審がられるかもしれない…)
カムタとルディオだけでも、社会見学の名目で首都へ残して行こうかとも考えたが、自然の中での自活はともかく、社会の
中での適応性となると…。
(…無理だ!)
近代社会にいまひとつ馴染んでいないカムタと、記憶喪失のルディオ。このツートップを街に置いて来るのは、社会勉強の
一環とするにはあまりにも不安すぎた。
「テシーも一緒かぁ」
海面を走る船の上、後部甲板で風を浴びながら波跡を眺めているカムタは、ヤンの微妙な態度の意味に気付いていた。
「調べ物、テシーも一緒だとやり難いもんなぁ」
手すりに腕を乗せ、その上に顎を乗せている少年の呟きに、すぐ隣で手すりを掴んでいるセントバーナードが頷く。
最寄の空港を目指して空路を使えば一っ飛びなのだが、航空機の使用では身元の確認をされるケースが多い。正体不明のセ
ントバーナードの身元を勘繰られてはかなわないので、一同は船を乗り継ぎ海路で首都を目指すことになった。そもそもルディ
オの身元についてはヤンとカムタの方が知りたいところなので、身元証明などできるはずもない。
テシーは船の乗り継ぎで首都を目指すルートを不思議がったが、リフレッシュを兼ねた船旅というヤンの説明でさらりと納
得した。
「テシーにも全部話せたら楽だけど…」
それはできない。言いながらもカムタにはそれが解かっている。
テシーにもハミルにも他の皆にも、ルディオや生物兵器の話はできない。知らない方が幸せ…というより、知ってしまった
ら危険になる可能性がある。うっかり「その事」を知って、誰かに話してしまった場合、「その筋」の者から狙われる恐れが
あるので。
だからこそ、自分達「ヴィジランテ」は秘密の内に秘密を処理する。皆が健やかに眠れるよう、外敵から守る寝ずの番…そ
れが自分達の役目だと解かっている。
「早く全部片付いて、隠し事しなくて良くなったらいいな…」
呟いたカムタは、上体を起こしてルディオの横顔を見遣った。
「それはともかく、初めての首都だ!オラ学校辞めたから、ハミル達が行った首都勉強の旅行にも行かなかったしな!どんな
トコなのか楽しみだ!」
「そうか」
「アンチャンはあんま楽しみじゃねぇのか?」
「楽しいかどうかが、よくわからないからなぁ」
いつも通りのルディオは、「美味ぇ飯とかあるかも?」とカムタが言うと、ハタハタッと尻尾を振った。が…。
「カムタが作る飯が、一番いいけどなぁ」
「…そっか?」
カムタは首を傾げながらも、少し嬉しそうに笑った。
「そっかぁ…!」
一方、船室内では…。
(そうだ。酔い潰させるのがベターだな…)
旅行気分のテシーから持参した酒を勧められ、瓶のまま口をつけながらヤンは考える。
(テシー君には用事が済んだ後で酔い潰れて貰って、調べ物の時間を確保する…!)
機嫌良くニコニコと酒を煽っているテシーの話に、にこやかな笑みで付き合いながらそんな算段を立てている医師は、しか
し重大な事を見落としていた。
テシーは、自分の数倍酒に強いという事を…。
途中一泊しながら四度船を乗り換え、道中で「お客様の中にお医者様はおられませんか!?」というレアケースにヤンがま
んまと引っ掛かりながらも無事に船旅は続き、最後の高速艇で遠目に島々を眺められる位置までやって来ると、カムタはデッ
キ先端に立って初めての首都を眺めた。
「アソコが首都かぁ…」
島へは丁度空の足が到着したところで、彼方から舞い降りた小さな粒が次第に大きくなり、空港へ降りてゆく様を、カムタ
は目をまん丸にして凝視した。
「飛行機だ…!初めて本物見た…!」
守るように傍らに立ったルディオも旅客機が舞い降りる先…初めて見る美しいラグーンを、トルマリンの瞳に映している。
マジュロ環礁。
本来はこの首都マジュロこそがこの国の正面玄関なのだが、本来ありえないルートで入国した漂着者たるセントバーナード
にとっては「はじめまして」の街である。
遠目に見てもなお高いと判る建物がいくつか確認できるが、全体で見れば緑と青の美しい島々。先進国と呼ばれる国家の首
都と比べればまだまだ自然の風が色濃く吹く。近代設備や西洋文化を少しずつ取り入れながらも、根底の生き方を変えていな
い…、そんなマーシャル諸島を象徴するような美しい首都である。
「授業で習ったかもしれないが、到着前にもう一度、軽くおさらいしておこう」
到着が近付いている事に気付き、船旅中ずっと一緒のテシーを伴ってデッキに上がって来たヤンは、カムタに教える風を装
いながらルディオにも説明するつもりで、首都マジュロについて話し始めた。
マーシャルの首都マジュロは、小さな島々が集まってできている。
六十を越える数の群島だが、主要な十二の島は第二次世界大戦に前後して、当時ここを拠点にした軍隊によって岩礁を埋め
立てられ、一続きになっている。
マジュロ「環礁」の名が示すとおり全体を見れば環状で、大部分が島に囲まれてできた礁湖。それを取り囲む陸地は礁湖の
3パーセント強の面積しかなく、広いところでも幅が2キロ程度の帯型となっており、上から見れば陸の大半が湖になってい
るかのような風変わりかつ美しい景観となる。
埋め立てによって繋がった島々は、現在では行政区、商業区、居住区が集まったマーシャルの主軸となっており、国際空港
が他国と空の道を繋いでいる。
米国、中国、日本に姉妹都市を持ち、文化交流が進んだこともあって宗教勢力は欧米のそれに近い。土着の風習や信仰や価
値観は、カムタ達が暮らす首都から離れた島々と比べればやや薄れている。
「まず僕らが向かうのは商業区だ。契約更新の手続き中は暇だろうし、待っているのもせっかくの時間が勿体無い。カムタ君
とルディオさんは「本屋」でも覗いて見たらどうかな?料理の本や魚の図鑑なんかが欲しいと、前から言っていたことだし…」
テシーの手前、内情を伏せたままそれとなく行動方針について考えさせる発言をしたヤンに、カムタは「うん!本とか楽し
みにしてたんだ!」と乗っかった。
相変わらず機転がきく少年に、医師が「きっとたくさんあるだろうな」と応じると、
「じゃあカムタ、気になった料理本は片っ端から買って、後で金額言えよ。俺も読ませて貰って参考にしたいから代金は半分
出す!」
機嫌が良いテシーの気前が良い提案に、カムタはパーッと顔を輝かせた。
「ホントか!?テシー太っ腹だな!」
「お前ほどじゃないよ」
ブニッと肉付きの良い脇腹を掴まれて、くすぐったがった少年は「ひゃふっ!」と変な笑い声を上げた。
高速艇から下船し、整備された港を珍しがりながら歩くカムタ。
漁のための船ではなく、バカンス用の船や旅の為の大きな船が多い。学校が丸々海に浮いているような巨大な旅客船や、豪
華なレジャーボートやクルーザーの群れが集う区域を目にし、カムタは「首都って大金持ち多いんだな」と目を丸くしていた。
マーシャルは貨幣経済の普及とその流通が充分とは言えない国であるものの、租税回避地として利用されているが故に、世
界中の金持ち達と無縁ではない。だがそれはあくまでも「外国の金」で、利用している彼等は「マーシャルの金持ち」とは言
えない。そんな実情を知ってはいたが、税の仕組みもよく判っていないカムタにそれを理解させるのは難しいので、今日の所
はヤンも触れないでおく。
珍しいものだらけで興奮気味な少年の様子に和み、何処まで乗っても同じ運賃のバスで商業区に入った一行は、ターミナル
となる通りで一度別れる事にした。
ヤンは契約手続きに行き、テシーはそれに付き添ってから自分の契約手続きを済ませにゆく。その間カムタとルディオは自
由行動で、時間になったら宿泊するホテル前で全員が集合する事に決められた。
旅行案内のリーフレットに宿の印をつけて貰ったカムタは、ヤン達と別れた後は、まず集合場所となる場所を真っ先に確認
しに行った。そう学んだわけでも教えられたわけでもないが、不慣れな場所では基点となる位置を押さえ、そこを目印に動く
のがいいという事を、天性の漁師は本能的に察している。
「オラ達ここで寝んのか…!」
三階建て、南国情緒を押し出したレイアウトや調度、装飾類が見られるそこは、旅行客からすれば「南の島のパラダイス」
を想起させるホテルである。が、カムタからすれば地元要素が多くて落ち着く、「ちょっと豪華になった馴染みの外観」とい
えた。
「飛行機ビューンの建物みてぇなトコだったらどうしようかって、ちょっと心配だったんだよな。興奮して寝れねぇかもって」
「飛行機ビューン?」
「鉄とかいっぱいで、ガラスでキラキラ眩しいピカピカなヤツ」
「ああ~…」
それはそれで楽しいだろうが寝れなくてヘバっては困る、とカムタは腕を組んでウンウン唸る。後先を考える賢さとは裏腹
に、格好良いハイテクホテルだったら興奮してしまう事を自覚している、大人びているようでもやっぱり子供のカムタ。
好奇心を刺激され、ホテル前を行き来する旅行客や、売店の係などをしげしげ眺めてみたカムタは、やがて自分とルディオ
の格好を確認し、それから改めて皆の姿を見る。
行き交う人々はみな肌の露出が少ない。少なくとも南国としてはかなり控え目で、カムタからすれば暑そうに見えるほどだっ
た。腰巻一枚の者は勿論、カムタやルディオのようなベストを素肌に羽織った風通しのいい格好の者も見られない。
「…これがトカイファッションってヤツか…」
う~ん…、と首を捻って唸ったカムタは、ホテルの玄関からのっそり出てきた男に目を向ける。
旅行者なのだろう。首からゴツいカメラを下げ、ショルダーバッグを脇に吊るした男は、ホテルの正面へ進んで振り返り、
外観を写真に収めた。
カムタには判らなかったが、見る者が見れば写真を撮り慣れているのがすぐに判る所作である。何せ立ち位置が決まってい
たかのように撮影ポイントへの移動に迷いがなく、振り返ってピントを合わせて撮影を終えるまでが淀みなく早い。
何となしにその背中を眺めていたカムタは…。
(…でっけぇひとだなぁ…)
旅人の体の大きさに感心した。流石にルディオほどではないが、体格が良い海の民を見慣れているカムタから見てもかなり
大柄な男である。
上背はルディオより少し低い程度。恰幅が良くて丸っこい肥満体だが、腕などの露出している部位では脂肪を押し上げてい
る筋肉の厚みが確認でき、相当な逞しさが感じられる。旅を満喫して上機嫌なのか、太い尻尾がゆったりと揺れていた。
やがて、数枚の写真を撮り終えた大男は振り返り、自分の方を見ているカムタとルディオに気付く。
(はぁ~、でっかいひとだナぁ…)
大男は自分以上に大きなセントバーナードに一瞬驚いたような目を向け…。
(…ん?)
その姿に記憶を刺激され、膨大な脳内資料の中からあるスポーツ選手の顔を引っ張り出す。
「「ハーク」…。「ハーキュリー・バーナーズ」…?」
その名は小声で呟かれただけで、20メートル以上離れているカムタの耳には届かなかった。が…。
「カムタ」
「ん?」
垂れ耳を僅かに動かしたセントバーナードが小声で少年に告げる。
「あの男、おれを見て「ハーキュリー・バーナーズ」って言った」
ルディオの地獄耳はしっかりとその声を拾っていた。
「ホントか!?じゃあちょっと話してみっか?」
ルディオから小声で教えられたカムタは、さっと上げた手を大男に向かって振ってみせた。
「なー、そこのひと!旅行!?」
気さくに呼びかける現地民の少年の笑顔に、大男は温和そうな笑みを見せて顎を引くと、のっそりと歩み寄る。
そのゆったりした歩調と大股な足取りに、ルディオはまたピクリと垂れ耳を反応させた。
(リスキーに、少し似てる…かなぁ?)
その大男の歩みは足音を殆ど伴わない。前に出した足を踵から下ろし、それから足裏全体を地面につけ、踵から徐々に上げ
始めて最後につま先を離す。摩擦音をほぼ立てない、リスキーら「暗殺者」のソレにも通じる独特な歩き方と体重移動だった。
「そうだよ、旅行中。…英語できるんだネ君?とても上手だよ」
ゆっくり歩み寄る男を、ルディオはぼんやりした顔のまま観察する。
大柄で、肥り肉で、しかしただ肥満体という訳ではない。活力に溢れた巨体の男は狸の獣人…。
「オラはカムタ。アンチャンはルディオ。旅人さんは何処の国のひとだ?」
「僕はカナデ。ジャパニーズだよ」
隈取のような丸い紋の中で目を細め、少年と巨犬に笑いかけたストレンジャーは…。
「ジャパニーズ?」
カムタが少し目を大きくし、次いで口にした言葉で顔色を変えた。
『もしか、して、力士?関取?旅人さん?』
口をあんぐりあけた狸は「…驚いたよ…!」と感嘆する。カムタが話したのは日本語…狸の母国語である。ややイントネー
ションがおかしいものの、意味は完全に理解できた。
「あはは!よく言われるけど違うよ。まあ、この体型で日本人って言うと、色んな国で「スモウレスラー?」って訊かれるん
だけどネ!」
気をよくして応じた狸は、ふと気になった様子で「英語も日本語も上手いんだネ?」とカムタの顔を覗きこむ。
『島、日本語、喋る、ひと、多い。父ちゃん、は、婆ちゃん、から、日本語、知った』
旅人の反応が良かったので、カムタが頑張ってそのまま日本語で話し続けると、狸は目を皿のようにし、少年の厚意に付き
合って母国語で話しかけた。
『驚いたよ!上手なんてモンじゃないネ!』
『学校、で、相撲、習った。日本、の、色々、知ってる』
そんな、異国語で会話を交わすふたりに、
『おれも、詳しくはないが喋るだけなら大丈夫だなぁ』
ルディオもさらりと参加した。
これで目を剥いたのはカムタである。
(え!?アンチャンも喋れんのか!?)
確認した事は無かったが、セントバーナードの口から初めて訊かされた日本語は、上手と褒められるカムタどころではなく、
ネイティブと遜色ない流暢さだった。
カムタが喋れるなら別におかしくはないだろう、と日本の言語を使ってみたルディオだったが、少し遅れて、一体自分の頭
の中には何種類の言語が記憶されているのだろう?と気になった。
『お兄さんも上手だネ!懐かしい気持ちになるよ!』
『懐かしい?』
『故郷の言葉はあまり使う機会がなくてネ!』
狸は大喜びで顔を綻ばせると、ルディオの顔を改めてマジマジと見つめた。
「…ところで…。お兄さん、ハーキュリー・バーナーズに似てるって言われたことないかナ?」
「へ~、やっぱりよく言われるんだよ?」
「うん。でもそのハーキュリーってひと知らねぇからさ。オラもアンチャンも不思議な感じ。な?」
「ん」
焼き串を売っている屋台前の歩道端で、少年とセントバーナードと狸は立ち話に興じていた。
カムタは基本的に気がよくて気さくで開放的。旅慣れている狸が話しやすい雰囲気という事もあって、ニッポンジンキシャ
サン…カナデとはすぐに打ち解けている。
「有名なラガーメンだよ。僕はスポーツの専門家じゃないけどネ、記者仲間達は「史上最強のプレイヤー」って評価してたよ」
カナデはルディオの顔を改めて見つめ、「それにしても、本当によく似てるよ」としみじみ言った。
「そんなにソックリなのか?」
「うん。目の色と表情が違うから、よく見ると別人だって気付くけどネ。彼の瞳は鮮やかなブラウンだったよ」
ざっくばらんで豪快で気さく。多少荒っぽくて血の気が多かったが、良い顔でよく笑う男だったと、カナデはハーキュリー・
バーナーズについて述べた。
「愛称は「ハーク」っていってネ、だいたいのメディアはその呼称を使ってたよ」
焼き串を驕られた上に、ハーキュリー・バーナーズについて本格的に調べ始める前から詳しく教えて貰ったカムタは、内心
で大喜びしていた。
スポーツの専門家ではないと言ったが、カナデは専門外の事についても博識なジャーナリストだった。プレイヤーとして広
く知られるハーキュリー・バーナーズの事のみならず、その私生活についても耳に挟んだ事を教えてくれた。
「とんでもない酒豪だったらしいよ。ジョニー・ウォーカーっていうお酒が特にお気に入りだったらしくて、チームメイトと
数量限定品を賭けてよくアームレスリング勝負してたらしいね」
(ジョニー・ウォーカー…。アンチャンが言ってた酒だ!)
カムタはルディオと視線を交わすと、知りたかった核心の方へ話題を寄せる。
「家族とかどんなだったんだろ?行方不明になったら心配とかされたろうなぁ…」
「そうだネ…。皆心配して、今でも帰りを待ってるだろうナ…」
「奥さんとか居たのかな?子供とか…」
あえて遠回しに家族に迫ろうとしたカムタに、
「結婚はしてなかったよ。歳がいったお父さんと、確か…最近俳優と結婚した妹さん、ハークの失踪後に養子に入った親戚の
少年が居るだけだネ。お母さんは若い頃に亡くなったそうだし…」
狸はポンと、核心に迫る答えを寄越した。
(それじゃあ少なくとも、兄弟じゃあないなぁ)
ルディオはまず、容姿が近い代表例である兄弟の線を消す。
カナデの話を纏めると、ハーキュリー・バーナーズは英国の名家出身者らしい。彼は小さい頃からラグビーに打ち込み、学
生時代には恵まれた体格とパワー、運動神経などを活かし、ラグビー選手として名声を欲しいままにした。
性格的にはだいぶ大雑把で、天真爛漫な面が強く、若干粗野な部分もあったものの、基本的には「戦士」であり「紳士」で
あった。強いプレイヤー達との闘いを求め、鎬を削るギリギリのゲームを至上の喜びとする…。そんな好戦的な面もあれば、
強敵チームのエースが負傷した時には一報を受けるなりすぐさま見舞いに行き、心底しょげながら闘えない事を正直に残念が
る面もある。優れたプレイヤーの引退には敵味方関係なく盛大な贈り物で労い、ニューカマーには分け隔てなく期待のコメン
トを寄せる。
だが、彼に纏わる数多のエピソードにおいて人々の印象にもっとも深く刻まれているのは、その公明正大な人格である。
勝つために全力を尽くすのがモットーでありながら、ハーキュリー・バーナーズは卑怯な手を極端に嫌った。正々堂々、誰
にも文句のつけられない闘いを是とし、逃げ切れば勝ちのゲーム展開での時間稼ぎや、相手チームの主力を封じる戦術を非と
した。これについてはチームのメンバーの提言はおろか、例えオーナー命令でも絶対に従わず、それをやれと言うなら自分は
フィールドに上がらない、と頑なに突っぱねた。
本人の感性で受け入れ難いというのもあったようだが、そこまで頑として譲らなかった最大の理由は…。
「「そんなプレー見せられて、子供が喜ぶかよ!」…って、その都度本気で怒ってたらしいよ」
「子供好きだったのか?ハークって」
長々と話を聞いている内に愛称を使うようになったカムタへ、カナデは「大好きだったらしいよ。と言うより…」と頷いて
先を続けた。
「彼が少年期まで一緒にプレーした中にはネ、恵まれない家庭環境の選手も居たんだよ。そんなプレーヤーは華やかなプロの
舞台に上がるまでラグビーを続けられなかったりもした。彼はその頃の事をずっと憶えててネ、「プレーを続けられたら歴史
に名が残るかもしれなかった子供達が居た」って、事ある毎に言っていたんだよ。そして彼は、そういった恵まれない子供達
の救済の為にも働いてたんだよ。彼が出資した、彼の名前がついてる児童保護施設や病院もたくさんあるんだよ?フィールド
で闘い続けたプレーヤーだけど、フィールドの外では貧困や病、社会格差…、問題山積みな「世界」とも闘ってきたひとで、
僕が知ってるのは…」
カナデの言葉を聞きながら、ルディオは数度瞬きした。
カムタに、カナデに、その向こうの通りに、「白い部屋」が重なって見えて…。
「我々は「世界」と戦っている」
椅子にかけた狼が、白味の強いグレーの頬に手を添えて、テーブルに肘をつく。
「「世界」と敵対しているのが我々だが…、さて、この「世界」とは何だと思う?」
その視線は荒涼とした薄暗い窓の外に向けられているが、顔は窓に映り込んで見えた。
「「世界」の定義は人々の認識による。各々が抱く「世界」の意味は異なる物だ。例えば、ここで生まれ、まだ海の上に出た
事の無い君の場合…、「世界」と言われても、実際に捉えられているのは極々狭い範囲だろう」
狼は質問していない。返事を期待せず、講義を行なうように話し続けている。
「視座を何処に置いているかによっても「世界」の意味は変わる。時代の移り変わりとともにやって来る未来もまた新たな
「世界」と言えるし、古くから続く営みもまた一つの「世界」と言える。あるいは…、この「世界」自体が、様々な価値観を
持つ幾多の人々それぞれが持つ、無数の小さな「世界」の集合体なのかもしれない」
狼は言葉を切ると、首を巡らせて顔を向けた。
「我々は「世界」と戦っている」
繰り返した狼は目を伏せる。
「…だが…。今の私には、どの「世界」と戦うべきなのかが判らなくなってきた…」
その精悍な顔には、疲れと迷いが見られた。
数十秒間の事だったのだろうその白昼夢は、しかし実際には一瞬の事。現実に引き戻されたルディオの耳には、
「…そっちの「活動家」としての彼の方だネ。そっちの方向での業績についても評価されてるひとなんだよ」
と、カナデの言葉が先ほどの物から続けて聞こえた。
(「ここで生まれ、まだ海の上に出た事の無い君」…?)
ルディオは狼が口にした言葉の中から、最も気になったその部分を頭の中で繰り返した。
(それは…、どういう意味なんだ…?)
思い返し、意味をはかりながら、ルディオはハッとした。
(…「海の上」…?)
あの白い部屋の窓から見える、暗い外側。
荒涼とした景観が広がっている窓の外の景色を、荒れ地のようだと感じていたが、あそこは…。
(…海底…だったのか…?)
やがてふたりは、街並みの写真を撮りにゆくと言うカナデと別れた。
まだまだ聞きたい話もあったが、幸い宿泊するホテルは一緒なので、話す機会はまたあると考えて。
本屋がある商業区を目指して、丸く肥えた狸の姿が見えなくなるまで歩いた後で、
「カムタ。おれは、大切な事を思い出したかもしれない」
と、ルディオはカムタに小声で告げた。
セントバーナードが掻い摘んで白昼夢の中身を話すと、カムタは考え込んで眉根を寄せた。
「「白い部屋の狼のひと」、いつも難しいこと言うけど…、今度のはどういう意味だろな?」
話をそのままの意味で取れば、白い部屋は海の底で、ルディオはそこで生まれて、まだ海の上に出た事がなかった…、とい
う事になる。だが、そんな事があり得るのだろうか?というのがカムタの素直な感想だった。
「それじゃまるでシバ女王様の…」
自分が例えとして持ち出そうとした話で、カムタは愕然とした。
「…海の底…の…」
言い伝えによれば、カムタ達…あの島の民が信仰するシバ女王は、「海底の宮殿に住み、不死身の戦士達を従えている」と
いう。
カムタは確かにシバの女王を信仰している。だが、海底宮殿などの話の大部分は御伽噺だとも思っている。
シバ女王が居て、宮殿はある。そう気持ちで信じてはいるが、実際に海底に宮殿があるとは思っていない。女王が統治する
「海底」とはつまり、他の宗教観で言う「天国」のような物で、この現世に物理的に存在しているわけではないのだと、シバ
女王はそういった遠い世界から自分達の営みを眺めているのだと、そんな印象を胸に信仰していた。
だが…。
「………」
一時言葉を失っていた少年は、まん丸にした目でルディオを見つめた。
非現実的なのは海底宮殿だけではない。非現実的な力を持つ男が、目の前に居る。
「アンチャンは…、本当に…、「女王様の戦士」だったりしてな…?」
結局、ヤンはテシーに付き合い返す格好で契約更新に同行してしまい、夕刻のチェックインで集合するまでの間、ろくに調
べ物ができなかった。
「済まない…。先に付き合われた手前、「じゃあここで…」と別れるのも気が引けて…」
宿泊するホテルの南国情緒を強調したロビー。上機嫌のテシーに気付かれないよう耳を伏せながら小声で詫びた医師に、買
い物で重く膨れたバッグをルディオに持って貰っているカムタも、小声で「気にしねぇで先生」と返し、そして収穫があった
事だけ告げた。
ヤンは一瞬息を止めたが、何食わぬ風を装い、テシーにはバレないようにチェックインの手続きを済ませて…。
「………」
カムタは無言のルディオを見遣り、「アンチャン?」と小さく訊く。
何かあったのか?と気にしたのは、ルディオが待合の客一組に目を向けていたから。
「…いや…」
かぶりを振るルディオ。三人組の男性客…欧米人であろう白い肌と明るいブラウンの髪は、バカンス客が多いこの首都では
珍しくないのだが、彼らから自分に向けられた一瞬の視線にセントバーナードは違和感を覚えた。
巨体のセントバーナードは目立つ。街中でも随分と奇異の目を向けられていたので、視線など珍しい物ではない。…と、一
度は考えたのだが…。
(何て言うか…、すぐに、わざと、目を逸らしたような気がするなぁ…)
男達はもうルディオに目を向けていない。三人とも手にした新聞へ視線を落としている。その様子は、関心を引かないよう
に、目立たないように、努めて振舞っているような雰囲気があって…。
「…アンチャン」
ルディオのベストの裾をつまみ、カムタが軽く引っ張る。
「目の色は変わってねぇ。危ねぇ事じゃねぇと思うけど、何か怪しいのか?」
少年は「危機」が迫った時のセントバーナードの反応を信頼している。琥珀の目に変わらない…つまり「ウールブヘジン」
が表に出ないという事は、危険らしい危険は迫っていないとも思えた。ジ・アンバーのような特殊な例外を除けば、だが。
「危ないとも言い切れないから、気にしないでおこう。変に目立つのもよくないだろうしなぁ」
それは、小声で囁かれた事だった。
ふたりの話の中身は誰にも聞かれず、チェックイン手続き中のヤンもテシーも気が付いていない。だが…。
「…さっきの大男、こちらを気にしていたな」
手続きを終えた四名が客室へと移動し、姿を消した後で、新聞から目を上げた男は仲間の顔を窺った。
「一緒に居た小僧とも何か話していたが…。顔の向きと立ち位置が悪い。どちらの口の動きも読めなかった」
二人目の男は一行が姿を消した通路をそれとなく見遣る。
「組み合わせから見て「同業者」とも思えんが…。何より、目立つ組み合わせなど避けるだろう?」
「だが待て。「海の商人」が派遣するとしたならば、そうそう「判り易い」者を置くだろうか?」
三人目の言葉に、先のふたりが一瞬黙る。
「目立ってはいるが、それもあえてのカモフラージュ…という線か」
「ああ。ガキは確実にこの国の人種だが、「子供」とも言い切れない歳に見えた。教育さえされていれば上手い演技が出来る
歳だ」
その会話は、新聞の見出しにある記事について語り合う合間に行なわれている。
誰にも気付かれず、誰にも注意を向けられず、男達はロビーで堂々と内密の話を進め…。
「探ってみるか。この近辺で動いている「海の商人」の動向からするに、連中は極秘ながらそれなりの規模でひとを動かして
いる。何をしているのか、上のお歴々は興味深いご様子だ。どんな情報でも取り零す訳にはいかん…」
数分後、三人の男達はロビーから姿を消し、夕食でレストランが混み合う時間になっても現れなかった。
リスキーが注意を促した対象…エルダー・バスティオン。
その調査員達は既に首都から入国しており、諸島のあちこちへ探りを入れている最中であった。