Clue

 とっぷりと日が暮れた首都の空が暗く染まり、月と星が太陽と交代する。

 カムタらが暮らす島に比べれば人工の灯りが多いものの、それでも星々は生き生きと輝き、近い海辺からは潮騒が歌う優し

い子守唄が流れてくる。

 セントバーナードはホテルの部屋で、ベッドの上に胡坐をかき、視線を下に向けていた。

 視線の先では、日中調べ物をしていた最中に本屋でルディオが目を止めた、美術の本が開かれている。

 食事は四人揃ってホテルのレストランで済ませた。狸のジャーナリストもこのホテルに滞在しているはずなのだが、外に出

たまま戻らずに食事したのか、それとも食事の時間帯が習慣的に違うのか、あれ以降姿は見えない。また、チェックイン時に

視線が気になった三人組の男達の姿も、あれ以降見かけていない。

「『我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか』…」

 開いたページにある絵画の写真、ルディオはその下部に記されたタイトルを読み上げる。

 タイトルも作者も知識から参照できた。だが、感覚的に引っかかるのはタイトルではなく、絵そのものだった。

 しばし絵を見つめた後、ルディオは垂れ耳を動かし顔を上げる。

 間をあけずシャワールームのドアが開き、出てきたのは腰にバスタオルを巻いただけのカムタ。

「お待たせアンチャン!」

 少年の張りがある肌はそうと判るほど紅潮している。備え付けのソープ類が珍しくて、あれこれ試して体中に塗りたくり、

泡立てて遊んだ名残りである。

 石鹸の香りを漂わせ、ホクホクしながらベッドに腰掛けるカムタの隣で、ルディオは開いていた本をベッド脇の袋に戻す。

 大きな布袋には本屋で仕入れた資料になりそうな書籍類と、英国のロックバンド、プライマルアクター…つまりハウル・ダ

スティーワーカーの声が入ったCDが詰め込まれている。

「さっきの本か?何か思い出せたか?アンチャンが知ってた絵っぽい?」

 カムタに問われたルディオはかぶりを振ったが、本を突っ込んだ袋を見遣って、記憶を手繰ろうと試みながら口を開く。

「不思議な気分だ。あの絵のタイトルは、全部おれが知りたい事だなぁ」

 感覚的に引っかかるものを感じはしたが、白い部屋の白昼夢は訪れなかった。それはあの狼とは無関係に記憶にある物だか

らなのか…。

「なぁアンチャン。オラ思ったんだけど…」

 カムタは袋の中から、同じく昼間に入手していた別の本を取り出すと、パラパラとページを捲った。

「アンチャンとハーク、全然関係ねぇって訳でもねぇんじゃねぇのかな?」

 少年が開いたページには、目を閉じているセントバーナードの顔。試合後、移動中のバス内で居眠りしているハーキュリー・

バーナーズをパパラッチが撮った一枚が掲載されていた。

「目の色とか違うけど、寝顔はそっくりなんだよなぁ…」

 極端に睡眠時間が短いルディオの寝顔は、カムタ以外にはまず見る事ができない。ルディオと寝食を共にしている少年だか

ら気付けた事だが、起きている時のハーキュリー・バーナーズはルディオと印象がまるで違うものの、寝顔を写したこの一枚

だけは…。

「この写真だけ、アンチャンとハークの見分けがつかねぇんだよ…」

 それともう一つ、狸のジャーナリストから聞いた話の中で、カムタの印象に強く残った箇所がある。

(ハークは子供が好きだった。子供を大事にした。アンチャンも子供のオラを大事にして、意識が飛んでても守ってくれてる)

 無数の糸がルディオの周囲にある。それらはどれ一つとして直接何かに結びついてはいないが、そのそれぞれが、偶然と断

じるには不自然な共通項を持っていて…。

「「白い部屋の狼のひと」が言ってたのは、なんかの例えとか、難しい表現とか、そういう事なのかもしれねぇし、頭が悪ぃ

オラじゃ上手く答えが出せねぇ。ヤン先生の話を聞かして貰いてぇけど…」

 カムタとルディオは視線を上に向けた。今現在、虎医師はテンターフィールドを酔い潰させようと頑張っている。

 生憎ホテルの部屋は混み合っており、シングル1部屋とツイン1部屋で取っていた予約を、ツイン2部屋に変更するのが精

一杯だったので、ヤンとテシーは相部屋となった。おまけにカムタ達の部屋は一階、ヤン達の部屋は三階と、部屋も離れてし

まっている。

 ヤンも重要な話があるという事だけは判っているので、それはもう必死にやっている。夕食の時からやたらと酒を飲ませて

いたが、何せ相手は酒豪のテシー、下手をすれば自分が潰れてしまう。必ず行く、とヤンは言ったが、意図的に酔い潰そうと

していても、客観的に勝率は五分以下である。

「アンチャンもシャワーして待ったらいいぞ?何かすげぇから。シャワーにメカみてぇなスイッチついてて、お湯の出方が変

わんだよ。あと石鹸がすげぇよ石鹸!匂いと泡!ブクブクーって出るぞ泡!」

 珍しい物に触れてやや興奮気味のカムタに勧められたルディオが、それでは、と自分もシャワーを浴びようと腰を上げたそ

の時、ドアがノックされた。

「済まない。遅くなった…!」

 酒臭い息を吐きながら、トロンとした目の肥満虎はようやくふたりの部屋を訪れた。何とかテシーを酔い潰させる事に成功

して。

「先生…。無理しねぇ方が良いんじゃねぇかな…」

 未成年のカムタが見ても危なっかしい千鳥足のヤンは、転びかけてルディオに支えられると、頭をフラフラさせながらベッ

ドに腰掛ける。

 水をガブ飲みして膨れた腹を擦り、ゲップを漏らしてから吐き気を堪えて口元を両手で覆う…。そんな医師は再三カムタか

ら大丈夫かと問われ、その都度平気だと応じ、少し落ち着いてから口を開いた。

「テシー君も旅で浮かれていたのか…、自滅に近い潰れ方だった…」

 ヤンが不自然なほど無理に勧めなくとも、テシーの酒のペースは早かった。アルコールに強い上に飲み上手なはずが完全に

ペースが狂っており、今現在はすっかり酔い潰れて眠っている。

 上機嫌なようで、しかしどこか緊張もしていて、少し様子がおかしかったテシーの内心に、ヤンは、本当は気付いている。

 が、いま優先すべきは…。

「それで…、何か判ったんだな?」

 瞼が重そうな医師は頑張って意識をシャッキリ保っている。長話になるとヤンもキツいだろうと考えたカムタは、自分達が

出会った日本人ジャーナリストの話や、ルディオの白昼夢、本屋で買った何冊かのハーキュリー・バーナーズに関する本と、

ルディオが興味を示した美術の本について、掻い摘んで話して聞かせた。

「海の底…」

 少しでも体内のアルコールを薄めて追い出してしまおうと、ひっきりなしに水を飲みながらヤンは唸る。

「信仰を馬鹿にする意図も、間違いだと言うつもりもない。これはその上での意見なんだが…」

 肥満虎はそう前置きすると、マーシャル近海の海底には文明の痕跡などは見られないと話した。勿論、シバ女王の宮殿や国

などは、その痕跡も含めて存在が確認できない。

 これは最新の調査による物で、諸島周辺の海底には人々の願いそのままに、どこまでもどこまでも魚と珊瑚の楽園が広がっ

ている。つまり、ルディオが話す「白い部屋」の窓の向こうに見えるような、「荒涼とした景色」ではないのだと。

「…いいかな?カムタ君」

 シバ女王の宮殿は確認できていない。その点で信仰心を貶されたと感じてはいないかと気を使ったヤンに、カムタは「オッ

ケーだよ先生」と顎を引く。

「オラだってもうそんなに子供じゃねぇよ。判ってる、本物の建物が海の底に建ってるわけじゃねぇって」

「…それで、その前提で聞いて貰いたいんだが…。ルディオさんが見る「狼が居る白い部屋」が海底だったとする場合、景色

から言えば、所在地は「マーシャル近海」ではないはずだ。…少なくとも珊瑚礁の景色じゃあないんだから…。加えて気にな

るのは、窓の外が海だとこれまで気付かなかった原因…、「魚の姿がない」点だな」

『あ』

 カムタとルディオが声を揃える。

 ヤンが言うとおり、白昼夢の中で窓の外に魚影を見ていたら、ルディオはすぐに海底だと気付いていたはずである。

「珊瑚も海草も魚の姿もない荒涼とした海底…。何もないようで、これも手掛かりだ。「荒野だと思ってしまうほど何もない

という条件を満たす海底」と、絞り込みの方針が固められ…、ウップ!?」

 突然口元を押さえたヤンは、「失礼…!」と腰を上げ、急いでトイレに向かい…、やがて派手に嘔吐音が響いた。

「だ、大丈夫か先生!?」

 見かねたカムタがついて行き、便器に向かって屈んでいるヤンの丸まった背中を撫でてやる。

 そして数分後、胃が空っぽになり吐く物もなくなってスッキリしたヤンは、顔を洗って口を漱ぎ、改めて腰を据えて情報の

纏めに戻った。

「それで、ハーキュリー・バーナーズとルディオさんの関係についてだが、確かに目の色が違う点は重要だ。しかし…、例え

ば病気や怪我などが原因で瞳の色が変化するケースもあるし、そもそもルディオさんは瞳の色が短時間で変化する特異体質だ。

瞳の色だけでは別人という根拠にならない」

 カムタとルディオは顔を見合わせた。

 確かにヤンの言うとおりだが、トルマリンの瞳に、変化後の琥珀の瞳…、どちらもハークの目とは色が違う。その事をカム

タが指摘すると、

「これは…、もう少し調べてはっきりしてから言うべきだと思っていたんだが…。実は、ルディオさんの血液には、植物の体

液との共通点がある」

「…へぇ…」

 頷きながらも視線が天井付近を彷徨うカムタ。

「へぇ」

 きょとんとしているルディオ。

「…ああ…その…」

 意外そうな顔つきのヤン。両者の態度に戸惑いが隠せない。

「反応が…、ちょっと、こう…、薄くはないか?ふたりとも…」

「だってオラ難しいこと判んねぇし…」

「おれは、調べが進んだんだなぁ…って思った」

「カムタ君はともかく、ルディオさんは自分の事なんだから少しは驚くところだと思うんだが…、いや、ショックを受けなかっ

たという意味では、これでいいのか…」

 きっとショックを受けるだろうと思っていたセントバーナードが平気そうなので、ひとまず安堵してホッとため息を漏らし

たヤンは、ルディオの血液サンプルから判明している現時点での情報と、ほぼ確定と思われる推測を述べ始めた。

 ルディオの血液は樹液のソレにも似た性質を持つ。ルディオの体は負傷した際、出血跡が強固な血塊で覆われ、その下で生

物の範疇に収まらない常識外れの高速修復が行なわれるのだが、この傷を保護する血塊が、血液のソレよりも樹液的な成分作

用による凝固に近い。固まった血液とは比べ物にならない丈夫さを備える。

 そしてサンプルの血液から判ったのは、プレパラート等の薄い隙間に入った場合、ルディオの血液は…。

「赤味が薄れて緑色を帯びて見える。葉緑素に似た成分の作用らしいが」

 緑はともかく、琥珀色に変化する理由についてはまだ詳しくは判らない。そんなヤンの言葉を聞いたカムタは、セントバー

ナードの目をハッと見遣った。

 トルマリンの瞳。その緑の正体は…。

「おそらくルディオさんの瞳の色は、この特殊な血液による物…毛細血管内という狭い範囲に入った体液の緑化によるものだ

ろう。…これはリスキーにも意見を聞いた事だが…、体液を変質させる肉体の改造というものもあるらしい。リスキー自身の

体にも体液や体質の変化があるそうだが、そのおかげで彼は毒物や薬物に対して非常に強い体質になっている。ルディオさん

の場合は傷の高速修復や身体能力に影響しているんじゃないかと思うんだが…」

 ヤンは言葉を切り、「ルディオさんは日向ぼっこが好きだったな?」と訊ねた。

 ルディオは「ああ」と頷き、カムタも「そういやそうだな」と顎を引く。セントバーナードは夜が明けるとすぐ外に出て日

差しを浴びるし、ぼんやり過ごす間も日当たりがいい場所に居る。カムタの家では屋外の台所近辺にあるベンチによく座って

おり、ヤンの家に行っている時も用事がなければ水平線が一望できるウッドテラスを好む。

「あれは何故なんだ?」

「う~ん…」

 考えてみたが、特に思いつく理由はない。気持ち良いような気がして、気付けば日向に出ている。この南国で、過ごし易い

日陰ではなく、強い日差しが照る中へ…。

「自覚が無いという事は、つまり感覚的に「そう欲して」の事なんだろう。おそらくあれで、ルディオさんは光合成している」

 ヤンが述べた途端、カムタが「あ。草とかのアレか!」と学校で習った単語に反応した。

「単に食事量の多さでエネルギーを賄っているだけじゃあない。睡眠時間が極端に短い事や、休息無しで長時間動ける事…。

あれらは日中、太陽光を浴びているだけでもエネルギーを生産できるからじゃあないだろうか?もしかしたら、漂流中に命を

落とさなかったのもその体質による物なのかもしれない」

「すげぇなアンチャン!」

 単純に感心するカムタ。だが…。

「…待てよ?カイゾーで血が変わる?で、アンチャンの元の目の色は?」

「そう。つまり…」

 ヤンはルディオの顔を見つめて言った。

「元の色は判らないんだ。だからさっき言ったように、ハーキュリー・バーナーズとの瞳の色の違いは別人であるという根拠

にはならない。そして顔つきの違いだが…、記憶がないルディオさんは、記憶を失う前とは物の考え方、価値観、そして性格

も少なからず違っているはずだ。性格や人格が滲み出る表情の差は、記憶喪失が原因になっての事じゃあないだろうか?」

「それじゃあ…!」

 カムタはルディオの顔を見上げ、ヤンも顎を引く。

「ハーキュリー・バーナーズは行方不明になった後、何者かによって肉体を改造された…。その後どうなったのかは判らない

が、とにかくソコから脱出したか放り出されたかして島に漂着した。そして「白い部屋の狼」だが、そちらも「ハーキュリー・

バーナーズと同じ経緯を辿った」可能性が…」

 ルディオの目が丸くなった。容姿は似ているが別人の印象…。ヤンの推測が正しければ合致する。

「ハウルが行方不明になったのはハークよりも前…。「白い部屋」でのやり取りはそれぞれが同一人物だとすれば辻褄が合わ

ないが、双方とも記憶を喪失していたなら…」

 ヤンは言葉を切り、小さく息をつく。

「…そう考えればある程度の辻褄は合うが、決めてかかるのも危ない。違っている可能性も高いんだから、方向性を絞り込む

根拠が欲しいところだ。…せめてハーキュリー・バーナーズとルディオさんが同一人物かどうか、DNA鑑定でもできれば手っ

取り早いんだが…」

「でぃーえね?って何だ先生?」

「DNAというのは…」

 ふたりのやり取りを聞きながら、ルディオは、ああ、そうかぁ、とぼんやり考えた。

 判りきっていた事だが、自分が元は誰であろうと、やはりもう確実に、まっとうなヒトではなくなっていた。その事には特

に失望したりも、悲観的な気分になったりする事もないが…。

(おれは、なるべく急いで記憶を取り戻した方がいいのかもなぁ…)

 判って来た。自分が何者であれ、ONC以上の技術を持つ何者かによって肉体を改造されているのだという事が。

 ソレが何処の誰なのかは判らないが、危険な連中か否かを見極める必要がある。

 自分自身の記憶は、個人的には無くても別に困らない。だが、記憶があればカムタや仲間達に危険が迫る事を防げるかもし

れない。

(『我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか』…)

 胸の内でセントバーナードは呟く。

(アレは、おれが知りたい事ばかりだなぁ…)



 一時間ほど後、隣室に戻ってベッドの上にテシーの寝姿を確認したヤンは、隣の寝台に腰掛けて息をついた。

 罪の意識が胸を突く。

 多少なりともアルコールは回っていた。酒が判断力を鈍らせた部分もある。

(…ルディオさんは平気そうだったが、もう少し、上手い打ち明け方があっただろう…)

 巨漢の心情を思うヤンだったが、リスキーに言わせれば「それは余計な気の回し方」らしい。記憶を失う前のルディオを取

り巻いていた環境は、平和や善意とは縁遠いはず。どんな事実でも掴むなり受け入れて吟味して行く必要がある。それこそ事

務的に。…というのがリスキーの弁である。

 ヤンにもそれが合理的だと判るのだが、彼の謎めいた過去はともかく、自分が知る今のルディオは「良いひと」である。な

るべくなら辛い思いはして欲しくない。

(僕はどうにも、打ち明ける事に関しては下手らしい…)

 胸の内で呟いたヤンは、テンターフィールドの寝顔を見つめた。

(…本当に、打ち明けるのが…)

 ハッと顔を上げたヤンは、腰を上げて窓に歩み寄った。

 外は暗がり。夜明けは遠く、ホテルに面した海の沖に漁火が見えるばかり。

(何か反射したような気がしたが…、気のせいか)

 ここは首都。車も普通に走るこの国一番の都市である。夜間でも光源は珍しくない。

 気を取り直してシャワールームへ向かったヤンは、すぐにその事を忘れてしまった。



(…あのデブ、意外と勘が良いようだ…)

 ホテル壁面。ロープで逆さまにぶら下がり、窓枠すぐ上に張り付いていた男は、ヤンがシャワールームに入ってゆくドアの

開閉音を確認してから、蜘蛛のようにするすると登ってゆく。

 特殊部隊のような闇に溶け込む出で立ち。マスクで目以外を覆い隠しているのは、ロビーでカムタ達を観察していた男のひ

とりである。

 巨漢と少年が居る部屋は一階だと判ったが、そちらは二階の客がテラスを開放して旅を楽しんでいるので、上からの接近は

不可能。

 ホテル前庭ではダンスアトラクションが行なわれているので、地上からの接近も難しい。

 距離をおいて望遠鏡で窓の中を窺い、録画した上で読唇術で会話内容を確かめようと、ひとりがナイトパーティーを行なっ

ている船上に入り込んで盗撮を試みているが…、これも見込みは薄い。運悪く、食事を終えて巨漢と共に部屋に戻った肥った

少年が、部屋に入っていた大きな蛾を追い出した際に窓に鎧戸を下ろしてしまったため、中が窺えなくなってしまった。

 正直、少し判らなくなってきた。

 肥満虎は多少用心深そうだが、身ごなしも足取りも素人。テンターフィールドは無防備に酔い潰れている。セントバーナー

ドはぼんやりしていて、ロビーで視線を向けてきた以外にアクションがない。肥った少年は歳相応の振る舞いで、怪しいとこ

ろはない。

 だが、確信を持たせないよう芝居を演じている可能性を疑い続ける思考が、彼らの頭の中には常にある。

 疑り深い事。それこそがエルダー・バスティオンが各地へ派遣している、「センサーズ」と呼ばれる調査員達に必須の資質。

 ひとりは壁面から、ひとりは廊下から盗聴を試みており、最後のひとりは船上パーティーの中から遠隔監視。どれか一つに

疑いを強めるような事柄が引っかかれば、そのまま追跡調査に移る心積もりである。

 「関係無い」という確証が得られるまで、その調査は継続される。

(このまま明日も観察し続ける方が良いだろう)

 今回、彼らを含む二十数名の人員をこの諸島に派遣したのは、ある上位幹部だった。慎重で執念深く何事にも徹底している

その幹部は、中途半端な報告を許さない。

 この命令の発端となったのは、別の若い幹部がある国の物流…しかも「医療品の類などというよく判らない物」について調

べているらしいという組織内での噂話だった。
その島国にどんな価値があるのかと調べさせた結果、その諸島は、先にONC

が秘匿事項抵触品などを流出させた事故海域近辺である事が判った。
ONCが何かしている可能性がある。それをその若い幹

部が嗅ぎつけている可能性がある。そう考えた上司により、彼らはこの諸島へ飛ばされた。センサーズの倍以上になる戦闘員

も含めて。

(怪しいものは片っ端から当たるに限る…)





 翌朝、ホテルのチェックアウト後。

 よほどペースを乱したのか、珍しく二日酔いでまともに動けないテシーをヤンが見ている間、カムタとルディオは再び自由

時間を手に入れた。

 高速艇に乗り込むまで三時間。何処でも充分に見て回れるだけの余裕があったが…。

「え?調べ物、しねぇって?」

 驚いて立ち止まり、振り向いたカムタに、ルディオがこっくり頷く。

「色々買ったし、考える材料はできた。それに、昨日行けなかった辺りの店まで調べていたら、移動だけで時間が無くなるだ

ろうしなぁ」

「けど、首都なんてなかなか来れねぇし…」

「そうだなぁ、なかなか来れない。だから、カムタのためにも時間を使わないと」

 のんびり口調で提案するセントバーナードに、少年は丸くした目をしばたかせた。

「オラのため?」

「ああ。カムタは前に言ってたなぁ?アイスとか、クレープとか、にぎやかな所にはそういう物を食べさせる店があるって」

「あ~…!」

 カムタは言われて思い出して、思わず間の抜けた声を漏らす。

 確かに以前言ったかもしれない。他愛の無い、何かの話題のついでに口にしたかもしれない。そんな、カムタ本人も忘れて

いた事を、ルディオはちゃんと覚えていた。

「昨日、本屋に行く途中でクレープの看板を見た。移動するワゴンの店だった。もしかしたらあの近くに今日も居るかもしれ

ないなぁ」

「…けど、ホントにいいのか?アンチャン」

「うん?」

 カムタはそれでも訊いた。貴重な時間をそう使っても構わないのか?と。

「おれは…」

 ルディオは少し考えた。良いか悪いかを考えている訳ではない。答えは決まっていて、それをカムタへ伝えるためにどう言

うべきかを考えた。

「記憶も大事じゃない訳じゃあない。でもカムタも大事だ。カムタが嬉しかったらおれも嬉しい」

 それは、配慮をきかせる…というのとは少し違った。配慮や特別な気配り、気の回し方ではない。ルディオにとっては当た

り前の、自然に考えが至る事だった。

 カムタは数秒黙ったあと…、

「…へへっ!」

 頬を染め、鼻を擦って嬉しそうに照れ笑いした。

「じゃ、急いで探そう!クレープ!アイスクリーム!両方とも見つけられたらいいな!」

 そして少年は巨漢の手を取り、引っ張って歩き出す。

 何故かは判らなかったが、カムタはルディオの顔を見られなかった。

 恥かしいような、嬉しいような、顔がポカポカして胸がトクトクする不思議な感覚…。初めて来る首都に浮かれているのか

もしれない。賑やかな空気に浮かれているのかもしれない。カムタは自分の足取りの浮き上がってしまいそうな軽さを、とり

あえずはそう考えた。



 クレープ売りのワゴン車は、昨日ルディオが見たという場所のすぐ近くで見つかった。

 土産物の店の脇、車通りが少ないメイン道路から一本引っ込んだ曲がり角、派手な黄色い軽ワゴンをセントバーナードが指

差して、少年が歓声を上げる。

 多数あるクレープの品揃えに迷った末、ふたりはチョコとバナナ…オーソドックスな人気商品を選択した。

 薄い生地の感触と、その中から感じられるひんやりした温度差を不思議がり、はんぶんこして両方食べてみて、

「…おもしれぇ食べ物だなコレ!?」

 満面の笑みでカムタはそんな感想。味も食感も初めてのものだが、いっぺんに気に入ってしまった。同意して無言で頷くル

ディオは、

「アンチャン、口の周りクリームだらけだぞ」

 カラカラ笑うカムタに指摘され、ベロンと舌なめずりして口周りのクリームを舐め取る。

「なあオネーチャン、この近くでアイス食えるトコってあるかな?」

 クレープ売りの熟女にそう話しかけるカムタの後ろで…。

「………」

 セントバーナードは、ふと首を巡らせた。

 視線を感じたような気がしたが、ひとが多くて特定できない。道行く旅行者も巨体のルディオを珍しがって視線を向けてい

るので、その中の一つかもしれないとも思ったが…。

「アンチャン!「ふるーつぱへ」って知ってるか!?どんなのだろな!?」

 オネーチャンと呼ばれて喜び機嫌を良くした熟女クレープ売りから、甘いものが食べたいとの要望に対してフルーツパフェ

が美味しい店があると聞いたカムタが、ルディオに意見を求める。

「パフェなら…」

 セントバーナードは知識を参照し、太い指で宙にパフェの外観を器込みで描く。

「たぶんこんなのかなぁ?」

「よし判んねぇ!行こう!」

 即決のカムタは早足で歩き出し、促されたルディオは大股で歩き出す。

 カムタが教えられた店は大通りに面しており、甘味中心のカフェ半分、軽食屋半分という営業形態だった。

 南国リゾートに人々が求める要素を凝縮し、椰子の木が作る影に憩いを見い出せるオープンカフェと、南国風調度やサーフ

ボード等のマリンスポーツアイコンが飾られた店内席という広い店構え。

「結構でっけぇ店なんだな…。どれがふるーつぱへだ?食ってるひと居るかな?」

 興味津々で客席を眺め回したカムタは、「あ」と漏らしたルディオの声に「ぱへあったかアンチャン!?」と食いついたが…。

「あそこの男、昨日の…」

 セントバーナードが指差した先を見遣って、同じく「あ」と声を漏らした。

 オープンカフェの一席に、妙に目立つ大柄な男が、これまた大きなザックを脇に置いて座っている。

 旅行客の心を一本釣り、野趣溢れるココナッツの実丸ごとジュースにストローを挿し、たっぷりした頬を両手で押さえ、心

の底から幸せを堪能してすすり上げているのは…。

「ジャパニーズジャーナリスト…だなぁ」

 日本人の記者と名乗っていた、昨日の狸であった。

「はぁ~…!ココナッツ丸ごとっていうのはやっぱりロマンだよ…!南洋幻想に直接触れる幸せだナ!おっと、甥っ子共に写

真を撮って行かなきゃいけないよ…」

 首にかけているゴツいカメラではなく、いそいそと懐から取り出した接写向きのコンパクトデジカメで、ココナッツジュー

スの写真を撮ろうとしたストレンジャーは、

「…んんっ?」

 裏面のモニターに表示された被写体の向こうに、見覚えのある少年とセントバーナードの姿がある事に気付いて顔を上げた。



「なるほど、君の島ではもう春の市が終わったんだネ?」

「うん!今年も賑わってた!」

 カナデに同席させて貰い、フルーツパフェに夢中になったカムタが、口の周りをクリームだらけにしながら頷く。

 深いグラスに入ったパフェはトロピカルなデザイン。アイスにフルーツ、生クリームと、甘味の集大成を味わう少年は、生

まれて初めて食したパフェに目を白黒させていた。

 一方ルディオは味わっているのかいないのか、無表情のまま黙々とスプーンを動かしているが、尻尾が振られているので喜

んでいるらしい事は確かである。

「ぱへ美味ぇな!な、アンチャン!」

「ん」

 ご機嫌なカムタ。頷くルディオ。

「パフェを食べるのは初めてなのかナ?」

「うん!さっき教えて貰ったんだ!」

 狸の問いに答えたカムタは、パフェにも色々種類があると聞いて目を輝かせた。

「この店のメニューにも…ほら、チョコレートパフェにプリンパフェ、ゼリーパフェがあるよ」

「え!?写真にあったのだけじゃねぇのか!?」

 店のパネルに表示されていたオーソドックスなパフェを選んだカムタは、選び方を間違えたのかと目を丸くする。

 表情豊かな田舎少年に、カナデは「看板メニューだから、ソレが一番外れがないよ」と笑って応じた。

「他のも食ってみてぇな!アンチャンも食うだろ!?」

「ん」

 ルディオの同意を得て、パフェメニューを全て試そうとするカムタに、カナデはやんわりと忠告する。

「あ~、そんなに一度に食べない方が良いよ?アイスだからネ、お腹冷やして壊しちゃうよ」

「でもオラ、次いつ首都に来られるか判んねぇし…!」

 よほど口にあったのか、必死さが滲むカムタの訴えに対し、「それじゃあ…」と狸は提案を挙げた。

「どれも一つずつ注文して、三人で分けるのはどうかナ?僕も一種類注文するからネ」

 妥協案を示されたカムタは一も二もなく頷いた。

 そして…。



「デザートの料理本かぁ…」

 何なら自作できるようレシピを押さえればいい。そうカナデに提案されたカムタは、狸の案内で昨日とは違う書店に入り、

料理本のコーナーに立った。

「英語も普通に読めるんだネ?」

「うん」

「じゃあ…。あ、コレなんかがいいんじゃないかナ?」

 カナデが手に取った本を開き、パフェ類のページを開くと、カムタは「ホントに載ってんだ!?」と顔を輝かせた。

「材料の問題はあるだろうけど…、ほら、アレンジも載ってるから役に立つはずだよ。代替できる材料なら手に入り易いかも

しれないしネ」

 パフェ以外にもプリンやムースなど、有名な西洋菓子の作り方が網羅されているレシピ本には、粉類やバターの使い方につ

いてカムタにカルチャーショックを与えた。

「すげぇ…!テシーにも教わってねぇ事がいっぱい載ってる…!ジャーナリストさん、菓子にも詳しいのか?」

「実家が菓子屋なんだよ。日本伝統の菓子類のネ。跡継ぎにはならなかったけど」

「へぇ~!ジャパニーズな菓子かー!どういうのあんのか気になるな!」

 学校を中退したカムタはテシーに習った事と経験則を元に料理するが、その知識と技術は島の文化に根ざした物となってい

る。食材や調味料の特性などについて科学的に解説し、使用方法から応用についてまで載せているレシピ本は未知の知識の塊

と言えるし、詳しく知らない国の料理や菓子は未知の魅力に溢れて見える。

「その本は菓子類だけど、同じ発行元のシリーズがここにもあるよ」

 カムタの興味を察し、カナデは西洋系の代表的料理を集めたレシピ本を示した。

 食事、デザート、両方面をカバーするそれは、少年にとっては調理の宝典。当然のようにカムタは、「両方買う!」と即断

する。

 そんな少年の、興味と好奇心で生き生きした顔を眺めながら、

(カムタ、嬉しそうだなぁ…。外のひとと話すこと、少ないからかなぁ…)

 ルディオはそんな感慨を抱き、考えた。

 元々懐っこい少年だが、ひょっとしたらこの狸とは特別ウマがあうのかもしれない、と。



 時間も迫り、船着場に向かうためにそろそろ移動しなければいけないカムタは、同行してくれたカナデに礼を言い、よけれ

ば自分達の島にも寄っていって欲しいと告げた。

「そうだネ。それもいいかもしれないよ…」

 大きなザックを背負っているカナデは、既に首都を発つ予定だった。高速艇のチケットも購入済みなので、まずはそちらへ

移動してから考える、とカムタに応じる。

 ひと時行動を共にしている間に、カムタが学校を辞めて自活しているという話は聞いた。カナデは今回、祭りなどを取材し

つつこの国の教育システムや就学の状況について調べるつもりだったので、自主退学したカムタの生活状況は取材対象として

申し分ない。

「島までの乗り継ぎはさ、えっと…」

 ヤンから渡されていた移動日程のメモを取り出したカムタが、帰り道となる、島を渡る順序を読み上げると…。

「え?」

 大狸が目を丸くした。

「ん?オラ何か変な事言ったかな?」

「いや…、偶然っていうのはあるモンだよ…」

 ポリポリと頬を掻くカナデ。これから乗る予定の船もそうだが、カムタ一行が道中で宿泊する島と、カナデがひとまずの移

動先に決めていた島は一致していた。

 国内線専用の空港がある島なので、移動の選択肢が収斂するのはそう不思議な事でもなかったし、泊まるホテルも違うのだ

が…。

(縁があるのかもしれないナ…。細かなスケジュールはこれから立てる予定だったし、同行してみるのも手だよ)

 カナデはそう考えた。偶然として片付けず、勘や巡り会わせを機と捉えるのが、このジャーナリストのやり方である。

「よし、じゃあまず君達の住んでる島へ行くよ!」

 ストレンジャーの決断は早い。カムタは喜び、ルディオも軽く尾を振る。

 セントバーナードは考えていた。きっと物知りだろうこの旅人と話す事は、カムタにとって貴重な経験になるはずだと。

 その予感は正しかったが、しかし正確とは言い難かった。

 カナデ・コダマ。

 そのジャーナリストとの出会いは、島の外を殆ど知らなかったカムタの意識を、一変させる事となる。



(移動…。高速船を使うのか。…あの狸は前日からホテルに居た。待ち合わせしていた知り合いという訳ではないようだが…)

 双眼鏡で三名の状況を覗い、読唇術で会話内容を拾った男は、少し思案してから仲間へ連絡を入れた。

 怪しまれないよう一便違いの高速艇で尾行するため、チケット入手を指示する男は、行き先が移動の中継として不自然では

ない島なので、もし顔を覚えられていても問題ないと考える。

(ジャーナリストという事だったが…、あの狸も少々気になるな)

 記者という話だが、どうにも堅気とは言い切れない感覚がある。まだ、どこがどうおかしい、とは言い切れないのだが。

(表の身分がカモフラージュという可能性もゼロではない、か…)

 再び双眼鏡を覗き、三人の様子を窺おうとした男は…。

「!?」

 硬直し、息を止めた。

 双眼鏡越しに望む、手が届きそうに錯覚するほどの、実際には遠い遥か彼方。

 そこに立つセントバーナードが、見えないはずの距離の向こうから男の方を見ていた。

 目が合った。

 そう感じた次の瞬間、セントバーナードはふいっと視線を巡らせ、船着場へのルートを示して同行者たちに声をかける。

(…気のせい、か…?)

 南国の空気が肌に熱い午後、妙な寒気を感じた男は鳥肌立ちながら額の汗を拭った。

(気のせい…だろう)

 男はそう思う事にした。一瞬、セントバーナードの瞳が琥珀色に光っていたような気がしたが、きっとそれも気のせいだろ

う、と。

 が、この時既に、男の心の中には植えつけられていた。

 優秀であるが故に、幾度も任務を達成してきた腕利きであるが故に、本能的に異常を察知していた。

 しかもその異常は、「確かめなければならない異常」ではなく、「深入りしてはならない異常」であった。



「…カムタ」

「うん?」

 襟を軽く引っ張られ、歩調を遅らせてルディオに並んだカムタは、

「一瞬、意識が飛んだ」

「…今か…!?」

 カナデに聞かれないよう声を抑えたルディオの告白で、表情を硬くする。

「もしかしたら、昨日感じたのも気のせいじゃあないのかもなぁ」

 小声で打ち明けるルディオも、それを聞くカムタも、リスキーの言葉を思い出している。

 エルダー・バスティオン。

 ONC以上の大組織で、過激な団体。

 抱えている兵隊も兵器も尋常ではないのなら、例えばリスキーのような、気配を察知する事すらも困難な手練が派遣されて

いても不思議ではない。

(もしかしたら、尾行されてるのかもなぁ…)

 ルディオの見解は、そのままカムタも同じ。

(先生に相談しねぇと。リスキーに連絡して、何か考えて貰わなくちゃいけねぇよな…)



「カムタ君とルディオさんが来たな。…おや?」

 船着場で待っていたヤンとテシーは、少年とセントバーナードに同行している大狸を見て、怪訝そうな顔をする。

「…誰ですかね?」

「さあ…」

 首を傾げる虎とテンターフィールドに、少年とセントバーナードと狸が合流する様を、三人の男はひそやかに見定めていた。