Evolution of White disaster (act7)
診察を終えた医師が立ち去った後、トウヤ、カズキ、そしてアルの三人は、ベッドの上で上体を起こして座っているノゾム
を、かける言葉も見つからないまま、気遣わしげに見つめていた。
頭を包帯でグルグル巻きにされ、俯いている若い狐の目は、自分の手をじっと見つめている。
限界を超える高出力で発火能力を発動させた代償。
力の負荷に耐えきれなかったノゾムの瞳は、色を識別する機能を失っていた。
この街の調停者と馴染みが深い、腕の良い寡黙な老医師は、ノゾムの瞳を確認した後、別室に呼び出したカズキに、詳しい
検査は状態が落ち着いてからと前置きしてから告げた。
ノゾムの目は、恐らくは二度と本来の機能を取り戻す事は無いだろうと。
カズキは何も言わなかったが、トウヤとアルは警官の表情から、ノゾムの目の状態は決して良くない事を悟った。
項垂れたままじっと手を見つめていたノゾムは、ぼそっと、唐突に何かを呟く。
「ん?何だ?」
カズキが気遣うように優しげに尋ねると、ノゾムはゆっくりと顔を上げ、三人の顔を見回した。
「安い、代償だったなぁって…」
言葉を失った三人から、再び手に視線を戻したノゾムは、ぼそぼそと続けた。
「タカマツさんでも勝てなかった相手…。なのに僕は生き延びて、この程度で済んでる…」
狐の目から、ポロリと涙が零れた。
「…辛い…です…!なんで…、なんで僕なんかが、生き延びちゃうんだろう…!」
自分などより、もっと役に立つ者が生き延びるべきだったと、ノゾムは感じている。
生き延びた喜びより、生き延びてしまったという重圧の方が、彼にとっては大きかった。
「…こういう言い方も、なんだけどな…」
カズキは静かに口を開き、俯いたまま涙を零しているノゾムを見つめた。
「タカマツさんが身を捨ててまでお前の命を繋いだのは、無駄じゃなかったはずだ。生き延びたお前があいつらの潜伏先を狭
めた上に、魔弾の条件まで整えた訳だからな」
「…そんなの…、結果論じゃないですか…」
泣きじゃくりながら応じたノゾムに、カズキは即座に応じた。
「ああ、結果論だ。だがな、たまたまだろうが何だろうが、結果や理由をこじつけろ。お前は今夜あいつらに一矢報いて、一
般人に及ぶ可能性があった危険を大きく削った。判るか?生かされた意味があったと、そう割り切れ」
顔をあげ、おずおずと自分を見たノゾムに、カズキは大きく頷いて見せた。
「ドッカーが、そしてタカマツさんが命懸けで守ったお前が、今夜、多くの人々から危険を遠ざけた。あいつらと自分が為し
た事を誇れ。あいつらの分まで胸を張れ」
笑みを見せた監査官から視線を外し、ノゾムは再び俯いた。
俯いたまま小さく二度頷いたノゾムから視線を外し、カズキはトウヤとアルに目配せする。
「今夜はもう休んでおけ。ご苦労だった、ヤマギシ」
労いの言葉と共に穏やかな笑みをノゾムに向けると、カズキはアルに視線を向けた。
「行くぞ。休ませてやれ」
促された白熊は、ノゾムを見遣って少し躊躇っていたが、トウヤから小声で「一人にさせてやろう」と告げられると、しぶ
しぶながら後に従う。
一人になった病室で、ノゾムは灰色に見える自分の手を眺めながら、
「…リーダー…、皆…、タカマツさん…」
硬く目を閉じてポロポロと涙を零しながら、掠れた声で呟いた。
目眩を感じて壁に手をつき、前のめりになって立ち止まったカズキを、
「大丈夫ですか?担ぎ込まれたばかりなんですから、無理はいけませんよ」
トウヤは気遣うように肩を貸しながらたしなめる。
「済まん…。けどなぁ…、どうにも落ち着かん…」
気分が優れないのか、カズキは軽く顔を顰めた。
「今回のヤマ、おそらく最初に思っていた以上にデカい…」
「まず座った方が良いっスよ?体弱ってるんスから…」
トウヤに肩を借りているカズキを、横から腕を差し出したアルが少々強引にベンチへ座らせる。
「それで、デカいってどういう事っスか?」
ベンチに腰を下ろしたカズキは難しい顔になり、尋ねたアルを見上げる形で応じた。
「…ギルタブルルを連れたあの男の身元が数時間前に判明した。名前は岡田運持(おかだうんじ)…、オブシダンクロウの幹
部リストにあった顔だ…」
国内でもかなり古い部類に入る大組織の名が出た事で、トウヤの顔が鋭さを帯び、アルは一度驚いたように目を丸くした後
に表情を引き締める。
「知ってのとおり、あそこは跡目相続のゴタゴタと敵対組織との抗争で、二、三年前から徐々に力を失っている。ところがだ、
去年と今回の二度、この街で起きた事件に幹部が関わっている」
「二回もっス?去年のって、どんな事件だったんスか?」
尋ねたアルに、カズキは「お前は知らんだろうが…」と説明しかけ、それから思い直す。
「…いや、管轄は違うが、アルは聞いてるか…」
首を傾げたアルの目を見つめ、カズキは口を開いた。
「榊原嬢が巻き込まれた、昨年の指輪の事件だ。実はアレにもオブシダンクロウの幹部が関わっていた」
さすがにこれには驚いたらしく、アルは「へ!?」とすっとんきょうな声を上げた。
「流石というか何というか、バジリスクとアークエネミーが撃退に成功したが…、依頼人を守りながらの戦いとはいえ、交戦
した神代嬢は浅くない傷を負わされた」
トウヤが補足し、カズキが先を続ける。
「たまたまなのか、それともこの街への進出を目論んでいるのか…。どちらにせよのさばらせておく訳にはいかん。直接的な
危険以外の理由でな」
一度言葉を切ったカズキは、トウヤとアルの顔を順に見つめ、押し殺した声で呟く。
「ユルい街だと思われ、目をつけられでもしたら…、後々面倒だ」
硬い表情で頷いた二人の前で、太った警官は大きなため息を漏らした。
「ま、プレッシャーをかけるような事を言ったが、この大変な時期に俺自身がこの様だ…。情けねぇよなぁもぉ…」
アルとトウヤは顔を見合わせ、これでは心労が相変わらずで、入院した意味があまりないのではないかと心配になる。
「む。ここだったか」
唐突に声が聞こえたのは、三人の間で会話が途切れた直後の事であった。
聞き馴染んだ声に、他の二人よりも早く首を巡らせたアルは、
「ユウヒさん?それにアンドウさん、エイルさんまで?」
通路を曲がって姿を現した、細面の人間の若者と、コロッとしたレッサーパンダ、そして極めて大柄な赤銅色の熊の姿を認
めて目を丸くした。
三人に歩み寄ると、まずユウヒが軽く会釈して口を開く。
「こちらのお二方が、先程アル君を訪ねて来られてな。火急の用との事なのだが、連絡がつかぬ故こうして直接案内したのだ
が…、取り込み中かな?」
「いいえ、こちらは構いませんよ」
腰を上げたカズキが応じると、ユウヒに案内されて来た二人は、揃って敬礼をする。
「ブルーティッシュ所属、特解中位調停者、安藤です」
「同じく、エイル・ヴェカティーニであります」
「ウチのでぶっちょがお世話んなってます」
「でぶっちょゆーなっス…!」
カズキに向かって深々と頭を下げたアンドウに、アルは口を尖らせる。
「…ときに、タネジマ殿?」
自己紹介が終わったのを見計らって口を開いたユウヒは、カズキに歩み寄ると厳しい表情を浮かべた。
「疲労で倒れたのだ。安静にせねばなるまい。体を休めてやらねば治る物も治らぬ」
「え?あ、あぁ〜…、いやまあ、そうなんですが…」
「先程居場所を訊ねた折、なぁすの方々も、さっぱり言うことを聞いて貰えぬと困り顔をしておられた。さ、病室へ戻られよ」
「い、いやしかし…、今後の事も少し相談しておきたいので」
難色を示したカズキを、ユウヒは「御免」と一言発すると同時に、両腋の下に手を入れ、ひょいっと、子供でも抱き上げる
ように持ち上げた。
「うわ!?ちょ、ちょっとご当主!?」
90キロはあろうかという肥満体のカズキを、子供でも扱うように小脇に抱えたユウヒは、「では、少々失礼…」と四人に
会釈し、廊下を歩き出す。
「下ろして!下ろしてくださいって!」
「そう遠慮なさるな。病室まで送ろう」
「いや遠慮とかじゃなくて!」
「院内では静かになさるべきだぞ?タネジマ殿」
もがくカズキを強制連行し、ユウヒが姿を消すと、トウヤはブルーティッシュの三人に会釈した。
「それでは、私も失礼させて貰います。こっちも一度事務所に戻って準備を、その後仮眠を取る事にするから、アル君も充分
休んでおくようにな」
「うス。お疲れっス、ナガセさん」
ユウヒ、カズキに続いてトウヤも立ち去ると、アンドウはアルの顔を見上げた。
「その様子じゃ、体の方は万全らしいな?」
「バッチリっスよ。…ところで、どうしたんスか?こんな夜中にわざわざ直接来るなんて…」
アンドウはエイルに目配せすると、「場所変えるぞ?」と言うなり踵を返して歩き出した。
テレビや自販機が置いてある、見舞客用の休憩スペースは、深夜という事もあり明かりが落とされていた。
照明をつけて手近なソファーにかけ、アンドウがその事を告げると、
「ネネさんが倒れた!?」
かけていたソファーが、立ち上がったアルのふくらはぎに当たって後退した。
アルは向かい側に座ったアンドウに詰め寄った。
「ど、どういう事っスか!?何があったんス!?無事なんスかネネさんは!?」
血相を変えてオロオロと取り乱すアルに、アンドウは「落ち着けよ」と静かに応じ、座るように促す。
「ケガとか病気って訳じゃねー。冬の事件以降、指揮官減った分のフォローに回っててな、疲れが出たらしい。昨夜退院して
今は本部の自室で休んでる。…リーダーも似たような多忙さだが、あの人は別格だからな…」
ほっとしたように表情を弛め、どすんとソファーにへたり込んだアルを、アンドウは目を細くして見つめる。
「が、安心はできねーんだよ。人員不足が補えねー内はリーダーとカンザキさんにかかる負担は変わらねー。状況を改善する
には少しでも戦力が必要だ」
アンドウは言葉を切り、アルの目をじっと見つめる。
「連れ戻しに来たんだよ。今のブルーティッシュにゃ、お前の力が必要だ」
「へ!?」
目を丸くしたアルから視線を外し、アンドウは横を向く。
自販機で飲み物を買ってきたエイルから紙コップ入りのコーヒーを受け取り、一口啜ったアンドウは、コーラを受け取って
礼を言っているアルに視線を戻した。
「メンバーの補充は進められてるが、いかんせんリーダーのお眼鏡にかなうようなメンバーはなかなか見つかんねー。今だけ
その場凌ぎでメンバーに加えるってつもりは、やっぱりねーみてーだしな」
アルは手元のコーラに視線を向けて黙り込む。
「予定より早くにお前を連れ戻しに来たのは、おれの独断だ。リーダーもカンザキさんも知らねー。…エイルはまぁ、抜け出
そうとしたら勝手にくっついて来たんだけどな」
「念のため、ボディガードであります」
メロンソーダを啜りながら頷いたエイルから視線を逸らし、アンドウは面倒臭そうに「だからいらねーっつーの…」と呟く。
二人のやりとりを聞きながら、アルは俯いたまま考えた。
幼くして母を喪ったアルにとって、ネネは姉と母の中間のような存在である。心配でない訳がない。
だが、それでもなおアルは躊躇う。
現在の東護の状況と、今自分が当たっている事件…。このままにして去ってしまうのは耐え難く感じられた。
「…悪いんスけど…、もうちょっとだけ、時間貰えないっスか?」
俯いたまま呟いたアルを、アンドウとエイルが見つめる。
「まだやり残しがあるんス…!」
顔を上げたアルは、二人の同僚の顔を交互に見遣る。
「今、この街にデータが殆ど無い危険生物が潜伏してるんス。そいつと、そいつのマスターのせいで…!」
言葉を切って悔しげに歯ぎしりしたアルは、身を乗り出してアンドウに訴えた。
「お願いっス!オレ、こんな半端じゃ納得いかないんスよ!」
アンドウは自分を真っ直ぐに見つめてくる薄赤い目を見つめながら、考え込むように腕を組んで口を開く。
「何があったか…詳しく話してみろ、アル」
「…なるほど…。次から次へと何だっつーんだ?厄でも貰ってんのかねこの街は…」
呆れているような口調で言ったアンドウに、話している内に熱くなってきたアルが訴える。
「仲間をやられて黙ってなんかいられないっス!目には目を!埴輪にはニイハオっス!ギッタギタにしてやんなくちゃ気が収
まらないっスよ!」
「歯には歯を、な?」
「そうかもしんないっス!」
アンドウは軽くため息をつくと、鼻息を荒くしているアルに訊ねる。
「お前、「目には目を、歯には歯を」の意味、判ってる?」
「うス?「やられたらやりかえせ!」っスよね?」
「違う。目を潰されたら目を潰し返すだけにしろ。歯を折られたら歯を折り返すだけにしろ。つまり「仕返しし過ぎるな」っ
て過剰報復を戒めてんだよ。報復推奨みてーな使い方は間違いだっつーの」
「そ、そうだったんスか?」
説明されている内にいくらか落ち着いたのか、少し恥ずかしそうに頭を掻いたアルに、アンドウは口の端を吊り上げて見せる。
「こういう場面で使うなら…、ブルーティッシュ隊則第17条だ」
困り顔で「何だったっスかね?」と首を傾げたアルに、それまで黙って話を聞いていたエイルが告げる。
「「恩は必ず返せ、仇は倍にして返せ」であります」
少し考えた後、「それじゃあ…」と視線を向けたアルに、アンドウは大きく頷いた。
「ボロクソにしてやれ。ダチやられて何もしねーでおめおめ帰って来たなんつったら、リーダーにぶっ飛ばされちまうぞ?も
ちろん、連れ帰ったおれもな」
「え?だ、ダチ…?」
「何だよ?ダチなんだろその狐?」
「えっと…、ど、どうなんスかね…?と、友達って言っちゃって…い、良いんスかね…?」
何やら照れ臭そうにモジモジしているアルに、アンドウは面倒臭そうに舌打ちする。
「でけー図体でモゾモゾすんな、気色わりーっつーの…」
「い、いやぁ、だってぇ…、オレっスよ?め、迷惑じゃないっスかね…?」
「お前ホント友達とかそーゆーのに耐性ねーのな…」
困っているような喜んでいるような、そんな微妙な苦笑いを浮かべているアルから視線を外すと、アンドウは考え込むよう
に目を細めながら天井を見上げた。
「しっかし、手こずりそうな相手だなまた…。…エイル」
「何でありますか?」
メロンソーダを啜りながら応じた同僚を、アンドウは横目で見遣る。
「お前残れ。んで、少しでも早く、確実に事件を解決させて、終わり次第アル連れて戻れ」
「了解であります」
「ちょ!?手が足りないんじゃないんスか!?」
慌てて口を挟んだアルに、アンドウは面倒臭そうに応じる。
「何とかするさ。だから早く終わらせてとっとと帰って来い。な?」
ぶっきらぼうに振舞いつつも自分を案じてくれているアンドウの心遣いが有り難く、申し訳なく、アルは深々と頭を下げ、
「うス…!」と、小さく返事をした。
「ところで、その危険生物どーゆーヤツなんだ?」
「オレもここで初めて名前聞いたんスけど…。ギルタブルルって言うんス」
首を傾げて「何だそりゃ?」と聞き返すアンドウに、アルは「やっぱ知らないっスよねぇ…」と頬を掻く。
「ギルタブルルでありますか。まさか、国内に残存していたとは思わなかったであります」
エイルがメロンソーダをチビチビやりながら呟くと、「そうそう…」と、先の説明を続けようとしたアルは、
「へ?エイルさんは知ってるんスか?」
驚いて目を丸くし、レッサーパンダを見遣る。
「これまでに二度、相手をした事があるのであります」
「聞かせてくれ。アルよっかお前の説明のが解り易そうだし」
これは好都合とばかりにアンドウが詳細説明を求め、エイルはそれに応じて淡々と説明を始める。
「国内における「裏の公的な」記録上は入国経歴の無い危険生物でありまして、国外でも殆ど記録が残っていないのでありま
す。分類上はサソリ型インセクトフォームで、推測危険度は第一種最上級クラス…、と言ってもピンキリでありますが、その
特性を鑑みれば、危険性はハヌマーン二頭分にも匹敵するでありましょう」
「随分高評価だな…」
応じたアンドウは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
というのも、エイルは決して対象を過大評価も過小評価もせず、解らない物について憶測で大きな事は言わないからである。
ここまでキッパリと、具体的な戦力比較例まで持ち出した以上、その危険生物は間違いなくそこまでやっかいだという事に
なる。
「最大の特徴は、不完全ながら擬態能力を持つという事と、猛毒や溶解液を分泌する尾の針であります」
「擬態能力?不完全な?どういうこった?」
「人間の格好してるんスよ。オレが会ったヤツは人間の男の子に化けてたっス」
尋ねたアンドウにアルが補足すると、エイルは一つ頷いて説明を続けた。
「擬態する対象となる人物の皮を剥がし、それを着込むのであります」
アンドウとアルが硬直し、エイルを見遣る。
「不完全というのはつまり、単体で擬態する能力を持つのではなく、誰かを殺してすり替わるしかないからであります」
「…相当エグいな…、そのバケモン…」
気分が悪くなって呻くアンドウに、衝撃を受けて呆然とするアル。
「じゃ、じゃあ…。あの…、男の子の姿は…?」
掠れた声で呟いたアルは、ついで目を吊り上げ、怒りの形相になる。
「…拉致しやすかったのか…、それとも、子供に化けさせりゃ油断を誘えると思ったのか…。どっちにしろ、思いついたヤツ
はロクなもんじゃねーな。…ちっ…、胸糞悪ぃー…」
アンドウもまた、飄々としている彼にしては珍しく、不快さを隠そうともせずに吐き捨てる。
不快さと怒りで黙り込む二人。しばしの後その沈黙を破ったのは、相変わらず表情を変えないエイルであった。
「話を戻すでありますが、脅威となるのは戦闘能力そのものの高さについてもであります。比較的軽量の危険生物ではありま
すが、速度、耐久力、膂力、どれもトップクラスでありますので」
レッサーパンダの淡々とした解説を聞き、首周りの毛を逆立てて鼻息を荒くしていたアルが、「ん?」と唐突に疑問の表情
を浮かべた。
「そういえば、尻尾に毒があるって話だったっスよね?」
「あるであります」
頷いたエイルに、アルは自分の顔を指差して見せる。
「オレ、尻尾の針で刺されたんスけど?」
白熊が発言した直後。エイルは素早く身を乗り出し、アルの頬をムギュッと掴む。
「いでぇっス!な、何スか急に!?」
抗議するアルの右目に指をあて、上下に大きく開いて瞳孔を確認したエイルは、次いで首の横に指を当てて脈を診ると、さ
らに左胸に顔の右側を押し当てる。
「あ、あの…。エイルさん?何してるんス?」
自分の胸に頬を押し当てているレッサーパンダの頭を見下ろし、ドギマギしながら尋ねたアルに、
「…大急ぎで検査が必要であります…」
心音を聴いていたエイルは、ボソリと応じた。
病院側に許可を貰って借りた診察室で、エイルはジープから取ってきた荷物を手早く展開した。
自前の白衣を纏い、各種診察器具や薬品類が収められた鞄を机に置いたエイルは、向かい合って丸椅子に腰掛けたアルの胸
に聴診器を押し当てた。
指示される通りに深呼吸しているアルは、いささか不安げな表情である。
先に採血され、頬の内側の粘膜も採取されたのだが、ここまでにエイルからは一切の説明が無い。
「あ〜ってするであります」
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜…」
「舌を出すであります」
「べ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜…」
慎重に呼吸音と心音を聴き、口の中まで調べているエイルに、腕組みをしたまま壁にもたれかかり、様子を見守っていたア
ンドウが、痺れを切らして尋ねる。
「…で、何調べてんだ一体?」
「毒の影響の有無であります。通常の成人男性ならば、専用の解毒剤を即座に投与しなければ10分と保たずに死亡する程の
猛毒なのでありますが…、何の処置も無しに元気でいられる理由がさっぱりであります。見当もつかないのであります。体が
大きいせいでありましょうか?」
首を傾げるエイルは、シャツを捲くっているアルの胸や腹、腕や首などで白い被毛を掻き分け、下の皮膚の血色を確かめる。
こそばゆそうにしながらもじっと我慢しているアルから視線を逸らし、エイルは先ほど採血しておいたアルの血液が収めら
れた七本の試験管を見遣る。
検査用の薬品と共に血が入れられた五本の試験管には、毒物反応は無い。
しかし、六本目と七本目、毒物が分解された時に生じる成分に反応する薬剤の方は、僅かながらも反応を見せていた。
「…どうやら、深刻な異常は見られないであります…。おまけにどういう訳か、毒素が体内で分解された形跡が見られるであ
ります。何故こんな事が起こったのかは判らないでありますが…」
説明したエイルは、ほっとした表情を浮かべたアルの前で、自身は表情を浮かべないまま考える。
(どういう事でありましょうか?アルビオンさんの証言と検査の結果だけから推測するならば、自力で分解したという事にな
るのでありますが…。ギルタブルルの毒の構造上、通常の生物の身体機能ではありえない現象であります…。…まさか…?)
しばし考え込んだエイルは、かぶりを振って頭を切り替える。推察は後回しにし、今は検査を済ませるべきだと判断して。
「では次に、下着だけになって診察台に上がるであります」
「え?まだ何かやるんスか?」
嫌そうな顔をしたアルに、エイルはコクリと頷く。
「おそらく問題ないとは思うのでありますが、確実な所を確認しておかないと、自分も安心できないのであります」
しぶしぶながらも診察台を軋ませて上ったアルは、エイルに指示されて四つん這いになる。
「両肘と膝をついて…、そうであります。あとは力を抜いて楽にしておいて欲しいであります」
「で、何するんスか?…注射とかっス…?」
嫌そうな、そして不安そうなアルの視線を受けながら、エイルは鞄から手袋と器具を取り出しつつ、アルの背後に回る。
薄いゴムでできた、内側に粉がふいてあるピッチリした医療用手袋をはめているエイルを見遣り、
「!?」
アルよりも先にアンドウが悟った。これから何が行われるかという事を。
「おれ、廊下に出てんな?」
「了解であります」
「アル」
「うス?」
ドアを開けて廊下に足を踏み出しながら、アンドウは診察台の上で四つん這いになっているアルを振り返った。
「…頑張れ…」
「…へ?うス…」
首を傾げながら返事をしたアルは、ドアが閉じられると首を巡らせてエイルを振り返る。
「で、何スか今度は?」
「直検であります」
「ちょっけん…?何スかそれ?」
「直腸の検査の事であります」
応じたエイルは、アルの腰を覆うピンク地に黄色い星が散りばめられた派手なパンツを掴み、ズリッと引き下ろした。
「ぎゃース!?何するんスか!?」
慌てて尻を押さえて前へ逃れたアルに、エイルは無表情のままこれからする事を詳細に告げる。
「い、嫌っス!そ、そそそそんなトコまでっ!それに、エイルさん手も指も太いじゃないっスか!絶対無理っス!」
「内臓に異常が出ている可能性もあるのであります。確認しておかないと、後で大変な事になるかもしれないのであります」
あからさまに怯えているアルが、「異常って…、どんなっス…?」と尋ねると、エイルは「例えばでありますが…」と前置
きし、背筋が寒くなるような症状をすらすらと口にした。
「………あとは機能不全でありますね。使用不能になるどころか壊疽も起こり得るので、最悪の場合は切除という事も…。手
遅れになる前に異常の有無を確認し、然るべき処置を行う必要があるのであります。ギルタブルルは元々要人暗殺用インセク
トフォームでありますから。その毒にはターゲット殺害の失敗時に備え、そういうダメ押し機能が満載なのであります」
「わ、わわ判ったっス!判ったっスからもう良いっス!」
診察台の上に座り込み、股間を押さえて顔を引き攣らせながら応じたアルに、エイルは元の体勢に戻るよう指示する。
泣きそうな顔で再び四つん這いになったアルは、首を巡らせてエイルを見遣り、涙目になって懇願する。
「…や、優しく頼むっス…。お、おおおおお願いだから痛くしないで欲しいっス…!」
「努力はするでありますが、痛みに関しては保障しかねるであります」
レッサーパンダは思い遣りに欠けた客観的見解からの正直な答えを返し、白熊は恐怖に顔を引き攣らせる。
「では、失礼するであります」
言うが早いか、エイルはジェルでぬめらせた右手の指を、ヅブッ!と、いささかの手心を加える事も無く、アルの尻に捻じ
込んだ。
「おぎゃぁああああああああああああああああああああス!?」
アルが懸念したとおり、コロっと太ったエイルの指は、やはり太かった。
堪らず声を上げ、仰け反ったアルの後頭部に、エイルの注意が飛ぶ。
「じっとしているであります。あと、力を抜くであります。でないと…、ミリッ…!でありますよ?」
「ミリッて何っ!?あひっ!」
侵入したエイルの指に内部をまさぐられ、アルは妙な声を上げる。
クックッ…、ヌプッ…グリッ!
「ちょ、ちょちょちょまぁ〜…!え、エイル…さ…あっ!」
グリグリグリ…。グリグリグリグリ…。
「そ、そんな…あふっ!ぐ、グリグリ…!しないでっ…スぅ…!」
「…浅い部分には異常が無さそうでありますね」
呟いたエイルはおもむろに指を曲げ、アルは「かふぁっ!?」と妙な声を洩らす。
「ちょ、え、エイルさん…、お、押しちゃ…!や、やめっ…!」
「ここは前立腺であります。大事な所でありますよ?」
「そ、そほぉ…なんス…かぁ…?」
全身をプルプル震わせ、涙目になりながら応じるアルからすれば、はっきり言って、エイルが探っている部位の名前などど
うでも良い。一刻も早く終わる事をただただ切に願っている。
「念には念を入れて、後で精液サンプルを採取させて貰うでありますが…」
エイルは机の上に置いたシャーレをちらりと見遣った後、目の前の巨大な尻、指を突っ込んでグリグリしているピンク色の
肛門に視線を戻す。
「もう少し奥の方まで探ってみるでありますね?」
「お、奥ぅ…?」
ツププッ…プ…、ヅブシッ…!
「あぎゃあああああああああああああああああああああああああああスっ!?」
エイルの指が一気に根本まで押し込まれ、アルは窓がビリビリ震える程の絶叫を上げた。
「こんな所におられたか」
廊下を歩いて来たユウヒが声をかけると、ベンチに座っていたアンドウが腰をあげ、軽く会釈する。
「あの監査官はどうなさったんです?」
「眠っておられる。四、五時間は目が覚めぬようにさせて貰った」
ユウヒが口の端を軽くあげ、首筋を指先でトントン叩きながら応じると、アンドウは苦笑いして肩を竦めた。
「リーダーの話じゃあ、えらく頑張り屋な監査官だそうで…。多少強引にでも休んで貰った方が良いかもしれませんね」
頷いたユウヒは視線を廊下の奥に向け、アンドウの背後を見ながら首を傾げた。
「…汚されたっス…。オレ…、オレもぉお嫁に行けないっス…」
右手を壁につけ、左手で尻を押さえながら項垂れて、何やらブツブツ呟いている白熊を見遣りながら、ユウヒはアンドウに
「アル君は一体どうしたのかな?」と尋ねる。
「あぁ…。そっとしといてやって下さい。初めてのA体験で心身共に大ダメージ食らってるっぽいんで…」
アンドウは気の毒そうな表情を浮かべながらアルを振り返ると、次いでその向こうから歩いて来たエイルに視線を向ける。
「お礼の挨拶は済んだであります」
「オッケー、んじゃ引き上げっかね。エイル、部屋はどうする?ビジネスホテルで良いか?」
「自分は何処でも構わないであります」
それを聞いたユウヒが首を傾げ、アンドウが手短に、エイルが一時的ながら東護町に滞在する事になったと告げると、
「ならば事務所に滞在なされてはいかがかな?空き部屋は多い。寝泊りだけならばそう不自由なさらぬと思うが」
ユウヒは事務所の一室を宿泊に利用してはどうかと勧めた。
アルが滞在している事もあり、共に動くのであれば同じ場所に居た方が都合が良いだろうという巨熊の提案に、アンドウと
エイルはしばし話し合った後、この申し出を有り難く受ける事にした。
「では、さっそく参ろう。お二人方も長旅で疲れておられるだろう。男料理ゆえ簡単なもので済まぬが、アル君の夜食にと用
意しておいた食事がある。少々加えて作り直すゆえ、着いたならばまず風呂でも浴びて…」
「…ちょっと待って下さいご当主?」
アンドウはユウヒの言葉を遮ると、どんよりとした空気を纏っているアルを振り返った。
「…アルの夜食…?ご当主が用意なさってるんで?」
「うむ。あまり手の込んだ物ではないが」
「…もしかして、毎度の飯全部?」
「うむ。男料理で恐縮だが」
これを聞いたアンドウは、呆れたように肩を落としてため息を漏らす。
「…神代のご当主様に一体何やらせてんだよ?ウチの白熊坊やは…」
崩れかけたビルが並ぶ、立入禁止区域の路地を、極めて大柄な影がゆっくりと歩む。
まるで筒を思わせるシルエットは、足音一つ立てずに歩み、完全に闇に溶け込んでいる。
数時間前まで調停者達が展開していたその区域を歩んでいた男は、まばらに雲がかかった夜空を見上げた。
足を止め、粉雪がちらつき始めた空を見上げたその男を、ビルの隙間から射し込む月光が照らす。
その巨漢は、熊獣人であった。
脛の半ばまで届く漆黒のインバネスコートを纏い、同じく黒いブーツを履き、手には黒い指出しグローブをはめている。
真夜中にもかかわらず、鼻梁に乗せた黒いバイザーで両目を覆っており、表情は窺い知る事が出来ない。
露出の少ない格好だが、頭部も、グローブから出た太い指も、鮮やかな赤銅色の被毛に覆われているのが見て取れた。
コートのせいで体型までははっきり判らないが、胴体はかなり厚みがあり、小山のようなボリューム。身の丈は2メートル
半にも迫ろうかという巨体である。
しばしの間、舞い降りる雪を見上げていた巨熊は、不意に首を巡らせ、横手の路地を見遣った。
その細い路地の暗がりから、幅のある低い影が姿を現す。
「どないでっか?なんや感じましたやろか?」
キーの高い声を発しながら巨熊に歩み寄ったのは、フードつきの黒いハーフコートと黒いコンバットズボン、そしてこれも
また黒いコンバットブーツを身につけた三毛猫の獣人。
黒ずくめの三毛猫は、太った体に似合わぬ軽やかな足取りで、靴音一つ立てずに巨熊の横に立ち、自分よりも1メートル近
く高い位置にある顔を見上げる。
巨熊は無言のまま視線を前方に向け、軽く顎をしゃくった。
「ありゃりゃ…、もぉ逃げてもぉたか…。追えそうでっか?」
三毛猫の問いに、巨熊は黙したまま首を小さく左右に振った。
「ま、しゃあないですわ…。相手も相手やし、そう簡単には捕まらんやろ…。まったく…、このくそ忙しい時期に、よりによっ
てギルタブルルなんぞ持ち逃げしよって…」
顔を顰めて頬を掻いた三毛猫は、肩を竦めながら巨熊を見上げる。
「夜明けまであんまり時間あらへんし、今夜のところは一旦引き上げましょか、ランゾウはん」
やはり黙したまま顎を引いて頷いた、ランゾウと呼ばれた赤銅色の熊は、粉雪を落とす夜空を今一度見上げて小さく鼻を鳴
らした。
常識を外れた鋭さを備えた嗅覚が捉える、微かに残った焦げ臭さと血臭。
寡黙な追跡者は、追っている相手が傷を負っている事を確信していた。