Teacher

「今日は磯の写真たっぷり撮れたよ!」

 大柄な狸は今日も朝からご機嫌だった。

 早朝の漁から戻った早い時間。庭の台所傍で食卓につくのはカムタ、ルディオ、そしてカナデ。獲れたばかりの魚介をふん

だんに使い、素材を活かして仕上げた少年の料理に舌鼓を打ち、和気藹々と朝食を摂りながら会話が弾む。

 来島から一週間。カムタの家に寝泊りし、島の子供達の臨時教師をしつつ、周辺の取材や撮影を進めているカナデは、すっ

かり島に馴染んでいた。

「これ、本にあったブイヤベースってのやってみたんだけど、どうだろ?」

「美味い」

「バッチリ美味だよ!」

「そか!んじゃ次は何作ってみっかな!」

 セントバーナードと狸から褒められて、少年は顔を赤らめ喜び笑う。

 カムタは首都から戻って以降、入手したレシピ集を参考に様々な料理を試している。これまで島伝統の調理法がメインだっ

たとはいえ、カムタの基礎はしっかりしているため、足りない材料は島風にアレンジしているのだが、試作の数々は今日まで

一つも失敗していない。また、カナデからもいくつか料理を教わっているが…。

「そういや、カナデ先生はどんな食い物が好きなん…」

「ラーメンだネ」

 カムタが問い終えるのを待たずに喰らい付く狸。やや目の色が違う。

「ラーメン?ラーメンならオラ達も好きだぞ!何処でもイチバンラーメン置いてあるしな!」

 カムタが言うラーメンは袋詰めのインスタント。マーシャルでは日本の食品メーカーが出荷しているインスタントラーメン

が食卓の一品としてもスナックとしても非常食としても大人気である。

「あれも悪くないけど、生麺はまた違う味わいがあるんだよネ」

「ん~…。ヤン先生が言ってたホンバのホンモノのヤツか?」

「そうだネ。発祥は大陸なんだけど日本では大衆食の代表格でネその店に行かないと味わえないラーメンもあるし麺の形態に

スープの作りに出汁の違いと同じ系統のスープでも解釈一つで完全に別物になるんだよ特に日本じゃ地方の特色が出てるご当

地ラーメンも多いけどやっぱりハカタキタカタは外せないしヤマガタも尋常じゃないよあと醤油や味噌の産地はそれだけで味

わいが変わるネ実に奥深いよ」

『………』

 カムタとルディオが顔を見合わせる。何を言っているのかよく判らない。やけに早口でとうとうと語る大狸は…、

「あっさり醤油も好きだし魚介系スープもいいし背脂たっぷりギットギトなスープも愛してるよ…。チャーシューもパイタン

も味噌野菜もワンタンも山盛りモヤシも味玉も素晴らしいよ…」

 少し喋るペースを落とし、一度言葉を切る。うっとりした目つきで、半開きの口からだらしなく舌を出し、恍惚の表情を浮

かべながら。

「あれはそう、カロリーの暴力だよ…。それでも抗えないんだよ…。お腹周りの贅肉がまた増えちゃうって判ってても食べず

にはいられない…、そんな魔性の料理だよ…」

 ほふぅっ、とため息をついたカナデは「Wise men say Only fools rush in But I can't help Falling in love with you…」などと

名曲を口ずさみ、「つまり、ロマンなんだよ…」と謎の締めくくり。

「よく判んねぇけど、カナデ先生がラーメン大好きマンだって事は判った」

「ラーメン大好きカナデさん」

 カムタの意見にルディオもぼんやり同意する。

「ここらでもどっかで食えんのかな…?」

 考え込むカムタは、しかしまだ知らない。

 カナデがあまりにも熱く愛を語ったのがきっかけになり、この先数ヶ月でラーメンの作り方まで覚えてしまう事は…。



 朝食を済ませて食器類を片付けたら、腹ごなしの軽い運動。広い場所に移った少年は上半身裸になり、狸の指導で護身術を

習う。

「そこから…、こう。突くのと逆の腕は引きつけて、ギュッと脇を締めるんだよ。軽く息を吐くのを忘れずに…」

「フッ!」

 半身になって腰を落とし、空手のそれにも似た構えになったカムタは、カナデから手取り足取り動作を指導され、言われた

通りに右掌を素早く突き出す。

 肉付きの良い上体でたわわな胸や腹が弾み、張りがある褐色の肌が揺れる。素早い捻転を加えて繰り出された掌底突きは、

たった一週間基礎トレーニングを手ほどきされただけでも、充分堂に入ったモーションになっていた。

「こうかな?」

「上々だよ、カムタ君は飲み込みが早いネ!痛めつける事より、相手の体勢を崩す事を考えるんだよ?踏ん張るためだけじゃ

なく、相手が転んだらソッコー逃げるためにも、足はちゃんと踏み締められる所に置いておくんだよ?突くコツは、相手の体

の真ん中に一本の柱が通ってるイメージで、そこを突いてバランスを崩させる感じだネ。顔面が効果的だけど、顔よりは胴体

の方が狙い易いし、息も詰まるから、胸の真ん中をしっかり突くように心掛けるのがいいよ。あと、顎はしっかり引いて、ブ

レないように首を固める事。顔を殴られて頭が揺れたらフラついちゃうからネ」

 異邦人の手引きで護身術を教わるカムタを見守っているのは、鶏に餌をやっているルディオだけではない。

(今日もカラテ?の練習ですか…)

 家を囲む木々の中からはリスキーも様子を窺っている。肥った狸は見た目によらずやたらと勘が良く、何度も尾行と監視に

気付かれそうになったので、リスキーほどの手練が本気で、全力で、本業の暗殺を決行する時と同様のレベルで気配を消さね

ばならなかった。

 来島から一週間ずっと監視しているのだが、カナデの動向にはリスキーの目から見ても不審な点はなく、エルダーバスティ

オンは勿論ほかの何処かと接触している様子も無かった。取り越し苦労だったかと感じ始めている。

 カナデの身元が確かな物だと知っていながら、なおもリスキーが気になったのは、実際に見た彼の身のこなしや歩法につい

てだった。鳥を脅かさないように近付いて撮影する際、カムタに乞われて護身術や受け身などを教える際、カナデが見せる足

運びや身のこなしは、リスキーの…つまり一流の暗殺者のソレに近い物になる。そこだけが気になっているのだが…。

(日本の武道は色々あると聞く。もしかするとあの護身術も、噂に聞くニンジャとかの流れからの武術なのだろうか?)

 狸に武術の心得がある事をこの数日で確認したリスキーは、その身のこなしを「ミステリアスジャパン」の一部として解釈

し始める。

(もうそろそろ時間か…)

 じきにヤンも起き出す時間。とりあえずはルディオも居るので心配ないだろうと、リスキーは一時退散する事にした。

 ただ独り、リスキーの存在に最初から気付いていたルディオがそれとなく目を向けて労うと、微苦笑と会釈を残して暗殺者

は姿を消す。

 だが、突拍子も無いようで、しかしリスキーの勘は、実は当たらずとも遠からずというところだった。



 フリージャーナリストとして海外で本格的な活動を始める前、カナデはパトロンとなってくれた烏丸財閥の総帥から、援助

の条件として護身術を教わるよう申し付けられた。

 健脚な老紳士が数時間の登山を汗一つかかずにこなし、息を切らせたカナデを自ら案内した場所は、豊かに茂る木々が潮騒

のように歌う森の中、世間からひっそりと身を隠しているような深山の集落。ほんの二十数名だけが暮らしているそこで、カ

ナデが師事する男は世捨て人同然の暮らしをしていた。

 烏丸の総帥から師として紹介されたのは古武術に通じているという男。カナデと同等の大柄さで、逞しく重々しい固肥りの

体躯と、心の内まで見透かし魂まで射抜くような鋭い目が特徴。場所も素性も他言を禁じられているので、他所で師の話をし

た事は無いが。

 その師は、昔話の世界に迷い込んだような気になる、合掌造りの民家に住んでいた。いつも玄関正面の囲炉裏前に座し、着

流しを崩して身につけ、胸元どころか太鼓腹の上部が見えるほど大きく襟をはだけ、太い指先には細長い煙管を摘んでいた。

直々に稽古をつける際に作務衣を纏う以外は、いつもその格好でそこに居て、まるで置物のように動かず、毎日何か物思いに

耽っているように過ごしていた。

 容姿で最も目を引くのは隻腕である事。病で断ったのか事故で失ったのか、左腕が二の腕の半ばから無くなっており、着物

の袖が物寂しく垂れているのが印象的だった。素性を詮索する事は許されず、訊いても無視され、本人も語らなかったので、

隻腕の理由や家族構成は勿論、カナデは師匠の姓すら知らない。

 ただ「彦左(ひこざ)」とだけ、その大狸から名を教えられた。

 若くはないと思えるが、実のところ年齢はよく判らない。白いものがだいぶ混じって灰色に寄りつつある被毛は六十ほどの

老狸の色合いなのだが、重々しい体躯はその逞しさにも身のこなしにも老いを印象付ける物がなく、四十代半ばと言われても

納得できる。何より、弟子入りした十年ほど前と今現在で容姿に殆ど変化が無いので、元々老けた外見なのか、不便な土地に

住む疲れや心労で見てくれだけ老けたかしているだけで、実年齢は見た目や言動の印象以上に若いのではないかとカナデは考

えている。訊ねたところで腹の底を全く見せない無視を決め込まれるので、確かめようも無いのだが。

 そんな年齢不詳の狸は、集落における顔役か長のような立場にあるらしく、皆から敬われていた。

 そこは実に奇妙な集落だった。名を訊いても師は「ない」と言ったし、地図にも載っていない。後でふと思い立って調べて

みたが、航空写真でもその集落が認識できなかった。

 そこには雑貨屋どころか役場や郵便局、交番の類も無く、公共交通機関も通っていない。墓はあるが火葬場も寺も神社もな

い。そこへ行き着く道は所々で茂みに侵食されて、はっきりとは見えない獣道のような細い山道一本だけ。電気も水道も通っ

ていないし電話も無く、携帯は圏外だった。外から人も品も入って来ないので基本的に全てが自給自足で賄われており、小さ

な田畑や森の恵みを糧にし、味噌や醤油、酒や塩、煙草の葉なども自家生産していた。

 カナデはそこで一年間、住み込みでみっちりと技術と気構えを叩き込まれたのだが、それがまた徹底しており、安心して寝

る事もできないような一年だった。具体的には、師匠に稽古でしごかれる他、集落に住まう全員が隙あらばカナデに一撃叩き

込もうと四六時中狙っているのである。

 師以外から特にやられたのは、細くしなやかな肢体が印象的な、師の付き人のような立場にあるキジトラ猫の美男だった。

 例えばある時は、師匠の家の戸を開けた瞬間に小刀で出っ腹の表面を表と両脇腹で削がれ、両首筋へ深く切れ込みを入れら

れ、刃を寝せた切っ先を肋骨の隙間から心臓まで突きこまれた。アングリと口を開けたところで、瞬き一つの間に死を錯覚さ

せた相手は、大狸のポヨポヨの腹を竹の小刀の切っ先でチョンチョンとつつき、悪戯っぽくウインクしていた。目にも止まら

ぬ速さにも関わらず、全てが痛みを伴わない撫でるような接触で、その常軌を逸した武芸の練度が嫌でも判った。いつもの位

置に腰を据えてその様子を眺めていた師は、面白くもなさそうな…実際弟子の不出来具合があまり面白くなったのだろうが、

軽い顰め面で煙管を吹かしていた。

 柔らかな物腰でいつも穏やかな微笑を湛えている猫は、たおやかなその仕草や容姿とは裏腹に、小刀術と体術の達人だった。

キジトラ猫は集落滞在中のカナデの世話全般を師から申し付かっており、正確な年齢は言おうとしなかったがカナデと歳が近

いらしく、集落で最も親しい相手だった。が、最も不意打ちされた相手でもある。隙を見せるたびに鋭く脅かしては、情けな

い顔をするカナデに笑いかけていた。

 最もこっぴどく驚かされたのは、赤銅色の巨大な熊にだった。集落内では最も若いのに、師匠と同様に住民から恭しく接さ

れていたので、集落内の名家筋なのかもしれないとカナデは思っている。

 2メートルを軽く越える巨躯の若熊には、何度も何度も気配も無く背後を取られ、無表情で無造作に後ろ襟を掴まれ、かき

集められた落ち葉の山や雪の山や新緑の茂みに放り込まれた。170キロあるカナデが腕一本で、である。時には頭上から、

時には建物の影から、その熊は巨大な割に気配も物音も無く出現した。

 痛い目には相当あったが、投げ込まれる先がもしも岩場や崖、木の幹や家屋の壁だったらと考えればまだマシ。乱暴なよう

でも手心は加えられていたし、何より、無愛想な若熊はカナデの薪割りから小屋の屋根の葺き替えなど、よく力仕事を手伝っ

てくれた。嫌な顔一つしなかったかわりにニコリともしなかったが…。

 彼らだけでなく、集落に住む全員が武術の達人なので、一発も食らわない日は修練終了日を除けば一日も無かった。彼らが

手にしていた木の枝や竹光などがもしも本物の得物だったなら、カナデは一年間の修練で通算九千回以上は死んでいた計算に

なる。
その甲斐あって、徒手空拳の護身術のみならず、半自動的に危機を察知し、回避手段を確保しておく習性も身についた

のだが…。



 とはいえ、カナデがカムタに乞われて教えているのは師に叩き込まれた中のほんの一部で、素手の相手と揉み合いになった

際に役立つ打撃法。凶器を持つ暴漢などが相手ならまた対応が変わって来るので、「相手がナイフとか鉄砲とか持ってたらと

にかく逃げるのが一番だよ」と諭している。

「それじゃあ、運動はここまでだよ!」

 一通りの動作練習を済ませたら、今度は勉強の時間。カムタと一緒にルディオも席につき、揃って社会科系の授業を受ける。

「昨日までのところで、質問とかないかナ?」

 まずは自分が暮らす場所の事を知るべきだと、世界史内でのマーシャル諸島の姿を詳しく教える所から始めていたカナデへ、

カムタが挙手する。

「昨日、カナデ先生途中で話すのやめたけど、戦争と爆弾って…」

 少年の問いで、狸は目を閉じて腕を組み、眉尻と耳を下げて口を波線にする。

「う~ん…」

 歴史の流れを知って貰いたかったので、凄惨な話はザッと流すだけに留めていたのだが、授業の中でそこだけ詳しくなかっ

たせいで、カムタは逆に気になってしまったらしい。

「愉快な話じゃないよ?」

「それでもオラ聞きてぇ。教えてくれカナデ先生」

 乗り気でないカナデに、少年はなおも頼み込む。

 戦争という言葉からカムタが考えたのは兵器の事だった。生物兵器…。虫の怪物然り、リスキーの体に施された改造然り、

そしておそらくはルディオもその範疇に入る。

 兵器が生み出される原因は争いにある。だからカムタは教えて欲しいと異邦人に教えを乞うた。

 カナデは少し困った様子でルディオを見遣ったが、兄であるセントバーナードが顔色を変えずにすんなり頷いたので、渋々

ながら説明を始める。

 それは、カナデが言ったとおり愉快な話ではなかったが、カムタは困惑や混乱ごと、語られる事を腹に収めた。

 少年は戦争などについては学校で少し聞きかじった程度で、争いと言ったら酔っ払いの喧嘩や、友達同士でのちょっとした

諍いからの取っ組み合いぐらいしか思い浮かべる事ができない。

 大勢が死んでしまう、大勢でやる争いが、戦争。

 国家規模の共同体という物が想像できないカムタにとっては、はっきり言って原因も動機も理解し難い。それこそ、死者数

千数万と言われても想像もつかない。家族や知り合いの数が小さな島の中に限られ、そのほとんどが親しいカムタには、この

島こそが一つの世界。自分の認識での世界が狭く、殆どが知り合いである。

 そんな少年にとって、戦争の結果として述べられる被害の単位は桁が大き多過ぎる。その上で、自分の価値観の延長で考え、

一つ一つの命の意味が重いため、「お互いにそこまでの被害を出してまで戦争をする意味」がまったく理解できない。

 食うために殺す。身を守るために命を奪う。カムタもそれを為すが、戦争については「お互いにそこまで痛い目を見るまで

やめられないのか?」という疑問がある。国の偉いひとは自分より頭がいい大人ばかりだろうに、何故、喧嘩の収め方が判ら

ない幼い子供がやり過ぎるような事になってしまうのだろうか?と…。

 説明の合間に挟まれるカムタの真っ直ぐで純粋な問いを、カナデは馬鹿にする事もなく、むしろ好ましいと感じながら、優

しく相槌を打って聞き、疑問の一つ一つへ丁寧に答えた。協定や条約や終戦や降伏があり、始まりも終わりもあり、戦争には

戦争のルールがあるらしいというのは判った。しかしそれでも…やはり判らない。脳よりも「気持ち」で判らない。

「サッパリ判んねぇんだ。この近くでも昔、爆弾の実験やったんだって。すげぇ大勢が死ぬ爆弾なんだって。昔、戦争で日本

に使われたヤツと同じ…。そんなのどうして要るんだ?」

「「反応爆弾」。忌むべき兵器だよ」

 身振り手振りで訴えるカムタにカナデが顎を引くと、ルディオはキーワードから知識を参照した。

 範囲内の「生物」だけに効果がある、人類史上最強最悪の殲滅兵器。都市一つを丸ごと「建物や物品はそのままに生物だけ

が居ない街」に変えてしまう究極の殺戮手段。

「アレの何が危ねぇんだか、どういう仕組みなんだかは知らねぇけど…」

「アレは、「生き物が生き物である事を利用した」兵器なんだよ。生き物は、熱っていうエネルギーを生産して活動するネ?

食べた物、飲んだ物、そういった補給をエネルギーに変える…。つまり」

 カナデはカムタの手を取り、ポッテリしたその手をさらに大きな自分の手で覆った。

「カムタ君の体には体温があるネ?」

「うん」

「僕の掌も温かいネ?」

「うん」

「その温度はネ、体が作ってるエネルギーの熱なんだよ。体が冷え過ぎるとひとは死んでしまうんだけど…、その辺りは判る

かナ?」

「うん!低体温だろ?海に投げ出されたら、日焼けと低体温に気ぃつけなきゃなんねぇ」

「その通りだよ。体温…つまり熱を生産する体の仕組みは生きてく上で必要なんだけど、「反応爆弾」に分類される兵器群は、

この生き物が持つ熱生産能力を狂わせてしまう特殊な線を放射するんだよ。この線を浴びると生物はみんな自分の熱で死んで

しまうんだナ。しかも、もし有効範囲外で線を浴びて生き残れても、体の仕組みが狂わされて、常にインフルエンザにかかっ

たような高熱に悩まされるようになる…」

 カナデの手に覆われた自分の手が、発する熱を逃せず熱くなってゆくのを感じながら、カムタはコクリと頷く。実際には劇

的な反応を経て凄惨な焼死体となるのだが、その辺りはあえて伏せた説明になった。

「けれどアレは、本来は爆弾の為に考案された技術じゃなかったんだよ。特殊な波長の線を当ててばい菌を殺す、消毒や滅菌

のための理論と技術が転用されてできあがってしまったんだナ…」

「消毒?」

「うん。光を当てて石鹸や洗剤みたいな効果を出すものだネ。元の殺菌理論を考案した科学者は、あの爆弾が使われた後に抗

議の遺書を残して失踪したよ…」

 黙りこむカムタに、「発案者に悪意は全く無かったんだよ」と続ける。

「マシンガンですらそうだったんだよ。「こんな簡単に大勢を殺せる武器があったら、誰も怖くて戦争なんてできなくなる」

…発明者はそう考えた。ダイナマイトだって、人の手だけじゃとんでもなく労力が必要になる作業を片付けるためにできた。

TNT爆薬なんてそもそも偶然の産物だよ。鮮やかな黄色を出すために頑張った独国の職人が特殊な製法で作った塗料…、そ

れが特定の条件で火薬になり得る事が判明したから生まれた…。そこにひとを傷つける意思なんて無かったんだよ。…けれど

考え付いたひとの、「こう使って欲しい」「こうなって欲しい」っていう願いとは裏腹に、それらは兵器になってしまったん

だよ。テクノロジーは、扱う側でどうとでも変わるんだよナ…」

 小さくため息をついて狸は続ける。

「人類は、きっとまだまだ幼いんだよ。なのに知識や技術だけが先へ先へと進んでしまって、精神的に扱える範疇を越えた物

を手にするようになった。何せ人類が「力」を持つのは車とかの免許と違って、それを客観的に審査する誰かも、許可を出す

誰かも居ないんだからナ。「世界は歪だ」って「彼」は言うけど、僕が思うにそれは…、精神の成長と力の成長のバランスの

悪さが原因なんじゃあないのかナ…」

 ルディオは瞬きした。

 話しているカナデの向こうに、大窓と、白い部屋が見えていた。



「………により、自滅という格好になった」

 椅子にかけ、テーブルに肘を乗せ、頬杖をついている狼の偉丈夫が、結論まで述べて言葉を切る。

 視界はしかし、狼を中央に捉えてはいない。狼と、そこから少し離れて窓の外を眺めながら立つもうひとりの男の間を中心

にしている。

 狼が座っているテーブルから5メートルほど離れた位置に立つのは、逞しい巨漢だった。

 アーミーブーツを履き、濃いグリーンの迷彩柄ズボンを穿き、ベストを羽織っているが、丈が短すぎて背中の下側三分の一

が肌を晒していた。

 青みを孕む黒と、ややクリーム色に寄った白の肌。白い部位も黒い部位も仄かに青味が混じったその男は、鯱の巨漢である。

縦横比がおかしく感じられるほど筋肉質で骨太な。

「グフフ…!身の程を弁えねェで、持て余す品を弄んだ末路が自滅か。まァ、お似合いの滅び方だろうなァ」

 やや不明瞭に声を発した鯱は、組んでいた腕を解いて口元に手を運んだ。咥えていた葉巻を太い指が摘み上げると、それを

追いかけるように吐き出された紫煙が窓の表面に当たり、大きな円を描いて広げる。

「行き過ぎた技術がひとを殺す、か」

 狼が応じるように淡々と述べると、「だがソイツをやめられねェのもひとのサガってヤツだァ」と鯱は肩を竦める。

「だから俺様達みてェなモンが生まれる。良かれ悪しかれ失敗も成功もしながらなァ」

「………」

 鯱がこちらを向いた。一方、狼は顎を引き気味にして押し黙る。

「そしてその結果の一つが、このグニパヘリル最後の戦士って訳だァ」

 コツコツとブーツを鳴らして歩み寄った鯱は、腰を曲げたり首を縮めたり下から覗き込んだりと、まじまじ観察してくる。

「…彼が「被検体」になる事は、もう確定事項なのか?」

 狼が漏らした静かな、感情の伺えない声に、鯱は首を巡らせて「あァ」と応じた。

「大将が強くお望みでなァ。反対する理由もねェってんで、どちらさんも容認かダンマリだったぜェ?」

 で、お前は?

 そんな問いを含む間をあけた鯱に、狼は答えず、こちらに顔も向けない。

「…そうかい」

 無言で肩を竦めた鯱は、顔をこちらへ向け直す。

「世界は歪だ」

 不意に鯱の目が細められた。それは、覗っているようにも嗤っているようにも哀れんでいるようにも見える、ひどく奇妙な、

そしてどうしようもなく冷めてもいる表情だった。

「おめェはこの「世界」を、存続に値するモンだと思うかァ?」



「…っと!話が飛躍しちゃったよ、ゴメンゴメン!」

 カナデが舌を出して謝る。

 ルディオが白い部屋を見ていた間、時間は全然経っていない。

 ドクンと、胸が高鳴った。

(?)

 少し驚いたルディオは、分厚い胸に手を当てる。

 奇妙な感覚がある。落ち着かない、あまり心地良くない感覚が。

 何かに似ていると思い至り、記憶を手繰ったルディオは、すぐに思い出した。

 それは、似ていた。

 島の交番で、ONCと繋がっていた駐在に騙され、牢に閉じ込められた時に覚えた感覚…。牢に閉じ込められ、少年の危機

を察した瞬間に覚えた「危機感」に。

 ドクンドクンと高鳴っていた胸は、次第に鎮まって数秒で戻る。

 セントバーナードは垣間見た光景と今の感覚を記憶に留めつつ少年を見遣った。

 カムタは少しぼんやりしていた。狸の話は、判り易く丁寧な説明にされてはいたが、とても全ては理解できなかった。

 だが、当初の願いとは裏腹に使われる技術についての話と、それを語るカナデの遠くを見る目とやるせない表情は、カムタ

の印象に強く残った。



「カムタ。朝に一回、白い部屋を見た」

 リビングのソファーに座り、首都で買った料理の本を開く少年の横で、ハウルダスティーワーカーの記事が載っている雑誌

を開きながら、ルディオは小声で囁いた。

 少年はセントバーナードを見遣り、それから開いているドアと廊下を見遣る。

 既に陽も沈んだ夜半、カナデは五分ほど前にテシーの店へ酒を飲みに行った。ドアさえ開けておけば戻れば聞こえるので、

今なら秘密の話もできる。

「何か判った事あったか?」

 期待して問う少年に、セントバーナードは鯱の巨漢について話した。

「白い部屋に、狼のひとの他に鯱のひと?」

 初めてのケース。戸惑いながらも変化と進展を喜ぶカムタに、ルディオは付け加える。

 意識が現実に戻った直後に覚えた、危機感について。

「部屋の光景を見てる間は何も感じなかった。戻ってから急に胸が…、カムタ?」

 少年は心配そうに眉尻を下げ、ルディオの分厚い胸にヒタリと耳をつけた。

「今は大丈夫だなぁ」

「そっか。…でも油断できねーぞアンチャン?「シンフゼン」とかいうおっかねぇ病気が心臓を殺しちまう事があるって、前

にヤン先生が言ってたからな」

「ああ、じゃあ先生達に話す時に診察して貰った方が良いかもなぁ」

「念には念を、目には目を、歯には歯をって言うらしいしな」

 とりあえず今は何ともないと聞き、ホッとしたカムタは顔を離すと、セントバーナードの逞しい胸をポンポンと叩いた。

「それ、途中から何か違うのと合体してるなぁ」

「そうなのか?ホントはどんななんだ?」

 そんなやり取りを少年と巨犬が交わした、数十分後…。



「………」

 立ち止まった狸が空を見上げる。

 人工の光が少ない、光害と無縁な島である。満点の星空が頭上に広がり、細い流れ星まではっきり見えた。

 カナデが腕に引っ掛けているトートバッグには、ルディオとカムタへの酒とジュースの土産が入っている。

「一枚だけ」

 おもむろに呟いてカメラを取り出し、天頂に向けた狸は、そのままピタリと動きを止めた。

 本来ならば三脚を用いて行なう露光撮影の簡易な物。カメラを真っ直ぐ上に向け、身じろぎ一つせず呼吸も止めて、じっく

りたっぷり待つ狸は、極端に太っていて腹も出ているのに、静止したその姿はどこか美しい。毛ほども動かないが故の、安定

の美がそこにある。

 やがてカメラを下ろし、大きく息をついたカナデは、「長時間露光でじっくり何枚も撮りたくなるネ」と目を細める。そう

して佇んでいた狸は、おもむろに振り向いた。

「こんばんは」

 かけられた声に、後ろから歩いて来たアジア系の青年は「こんばんは」と、軽く手を上げながら応じた。

 リスキーはこのジャーナリストに対して「諸島で環境保全に取り組むNPO団体の者」という事にしている。隠れ蓑の団体

は実際に存在する真っ当なところで、身分証明もしっかりあるため、カナデも身元を怪しんでいない。

「今日はまた特別に綺麗な星空ですね。そちらも夜の散歩ですか?」

 歩み寄って微笑むリスキーは、いつも通り、トキシンテープが仕込まれたベルトを締めている。

「確かに、星も綺麗だよ」

 応じたカナデはひとのいい笑みを浮かべる。その顔はほろ酔い気分で少し緩んでいた。

「どうですか?この諸島は」

 警戒されていないと判断し、他愛ない様子で話を振るリスキー。しかし暗殺者は会話から相手の中身を測ろうとしている。

僅かな動揺も不自然な態度も見逃すまいと、微笑みの形のままに双眸が狸を探った。

「美しい島だよ」

 機嫌が良さそうな狸は迷わず応じた。

「身勝手だけど、いつまでも変わらず、この美しさを保ち続けて欲しいネ」

 ん?とリスキーの眉が潜められた。

「身勝手、ですか?美しいままであって欲しいのは」

「そうだよ?ああ、別に貴方達の活動をどうこう言っているつもりじゃないんだよ。気を悪くしたらごめんネ?」

「いえ、気分を害したわけではありませんよ。ただ単純に、身勝手と思うその理由に思い当たらなかったもので…。よろしけ

れば教えていただけませんか?」

 リスキーの問いに、カナデは再び空を見上げながら応じた。

「灯りが少ないから星空が美しいよ。けれど夜道は暗いし見通しが悪くて危ないよ。工場もないから水も空気も綺麗だよ。け

れど大規模生産設備も無いから外貨は手に入り難いよ。都会に住むひとから見れば、それは不便な環境だろうけれど、そのお

陰で美しい…。不便なままであって欲しいと間接的に願うような物だから、やっぱりちょっと身勝手だと思うんだよ」

「…なるほど…」

 相槌を打った青年は、カナデに倣って空を見上げる。

(なかなかステキな殺し文句だ)

 胸の中で苦笑するリスキー。今の答えで確信させられた。まともでない者には思いつきもしない、繊細で思いやりに満ちた

謙虚な答えで。

 コダマ・カナデは、間違いなく「いいひと」に分類される側の存在だと。



「熱心な追跡調査もようやく終わりか」

 シャワー上がりで腰にタオルを巻いた肥満虎は、入浴中に戻ってリビングのテーブルについていたリスキーに気付くと、頭

を拭っているタオルの隙間から目を細める。

「おや、茶化しますね?」

 カムタお手製のアイスミルクティーを引っ張り出して飲んでいた青年は、向かいに腰掛けた虎へ苦笑いを見せた。

「いいや、感心しているし感謝もしている。そういう徹底した所に安心もさせられるからな」

 エアコンのリモコンを掴み、汗が引くまで設定温度を一時下げながら、ヤンは「「白」で良いんだろう?」と確認する。

「ええ。真っ当な類の人種ですよ。坊ちゃんにも旦那さんにも誠意をもって接しています。「いいひと」ですね」

 「いいひと」はリスキーの業界からすれば決して褒め言葉にならないのだが、最大限の無害表現でもある。

「あっという間に一週間。確かに馴染み易い人柄だが…」

 ヤンは丸顎を引き込んで、俯き加減で苦笑いを漏らす。

「島民最後のひとりにも、ついに認めさせたか」

「ええ。降参です、完全に」

 リスキーはおどけ、降参のポーズで両手を上げた。満足そうに微笑しながら。

 「島民最後のひとり」と、ヤンは言った。

 リスキーはいつの間にか普通に、島の住民に数えられていた。





 そうして翌日。何事も無く夜が明けてカムタは磯へ繰り出し、のんびり太陽が移動する間にカナデはカムタ達の案内で島の

あちこちを撮影し、同行するルディオは散歩と光合成を満喫した。

 穏やかに、平和に、島の一日が終わる間際。夕暮れに染まりつつある庭で、

「人間と獣人の違い、だよ?」

 鳥の腿肉…自分が教えた甘口醤油の和風炙り焼きにかぶりついていたカナデは、午後に教えた内容について補足を求めてき

た少年を見つめた。

「うん。「詳しい話はまた今度」って言ったけど、オラ気になる」

 カムタは食卓に着く獣人達…ルディオとカナデを交互に見た。

「ヤン先生も、人間と獣人は薬の使い方もちょっと違うから、治療方法にも違いが出るって前に言ってた。オラとアンチャン

もそこらだけはたぶん違うから、同じトコと違うトコを知りてぇんだ」

 「同じ」も「違う」も知りたい。そんなカムタの言葉で、カナデは柔和に目を細くした。

「立派な事だよ。違いを知らないまま「違わない」って言うのと、違いを知っても「違いなんかない」って言えるのは、やっ

ぱり違うからネ」

 でもとりあえず、美味しい物は美味しい内に食べるべきだとカナデは持論を説き、これにルディオも無言で無表情ながら尻

尾を振って同意する。

 そうしてまだ熱い内に肉にかぶりつき、磯の香りが漂う魚介のスープを飲み、デザートの果物に舌鼓を打った後、カナデは

メモの準備をしたカムタに授業を始めた。

「人間と獣人は、見た目がまぁ違うよネ。けれど体の造りもちょっと違うんだよ。種族差はあるけれど、大雑把に言うと骨と

筋肉の組織がかなり違ってて、特に筋肉は違いがはっきりしてるよ。鍛えれば筋肉もつき易いし、組織自体に差があって人間

の筋肉より強靭で力強く、だいたい人間のものより29%ぐらい重いんだナ。ただしトータルバランスが求められる複合競技

なんかや、持久力勝負だと、人間の方が優位だったりするよ。体操の総合とかトライアストンとかは人間の選手が大活躍だし

ネ。それに持久力…つまりスタミナは、多くの獣人は人間に劣るんだよ。被毛のせいで体温が下がり難い点もあるしネ。これ

も多少種族差はあるけれど、マラソンや遠泳なんかで好成績をおさめるのは人間のアスリートが多いよ」

「人間が有利なモンもあるけど、殆どのスポーツは獣人の方が強ぇて事かな?ハークみてぇに!」

「うん。けれどそのハークも、ランニングはあまり好きじゃなかったそうだけどネ。チャリティーマラソンの参加はたった一

回だけだったそうだよ」

「へぇ!」

「確かに獣人は人間に比べて身体能力が高めで、物理的に頑丈に出来ているけれど…、総合的に人間より優れているっていう

訳でもないんだよ。獣人は人間に比べて脆い部分もあってネ。例えば病気…、多くの薬は人間用に調整されているから獣人に

は効果が薄かったり、劇的に作用して薬どころか毒になっちゃう場合もある。加えて言うと、遺伝的にかかり易い病気もある

し、獣人しかかからない病気もあるんだよ」

「イデンテキ?」

「うん。人間と獣人の大きな違いは「獣因子」にあるんだけれどネ」

「ジューインシ?」

「親子で顔が似るとか、声が似るとか、そういうのは遺伝子の働きによるんだけどネ。獣人が獣人の姿で生まれるのが、その

獣因子の働きによるものなんだよ。実際には混血も進んでて、人間の多くも多少この因子を持ってたりするんだけど…」

 言葉を切ったカナデは、人間と獣人の混血になる場合、因子が濃いと獣人の姿で生まれ、薄ければ人間の姿で生まれる事や、

混血児が獣人の姿で生まれる確率は12パーセント弱だという事を掻い摘んで話す。

「遺伝なんかについては、また今度別に説明するよ。で、その獣因子が色濃い者だけかかる病気もあるんだナ」

「…BLVD」

 ポツリとルディオが漏らすと、「それもその一つだネ」とカナデが頷く。

「びいえるぶいでい???」

B-factor limited vital drain syndrome…。通称BLVD症候群。獣人だけがかかる遺伝性の不治の病だよ」

 耳慣れない言葉を聞いて考え込む少年に、カナデがそう説明する。

「ふじの…」

「治らない病気…正確には治療法がまだ見つかっていない病気だネ」

 カムタがカナデとルディオの顔を見比べると、狸は「発症率自体は低いんだよ」と安心させるように言った。

「それと遺伝性だから、発症する可能性があるかどうかは比較的簡単な検査で判る病気でネ、僕は発症しない血筋だったよ」

「そうなのか?じゃあ…」

 ルディオも検査して貰った方がいい、と言おうとしたカムタは、

「…まぁ、発症する可能性があるって判るとそれだけでヘコむから、検査受けようとするひとも少ないけどネ」

 とカナデが続けたので、妙な顔で言葉を飲み込む。

 狸は言わなかったが、さほど厳密ではない簡易血液検査自体は割と早くから確立されていた。ただしこれで発症確率ゼロと

判別できるのは五割未満で、完全に判別できるようになったのは近代になってから。しかもその検査は、発症者を救うためで

はなく、優生思想に基づき感染因子を持つ血統を絶やす事での根絶を目指して生み出された検査であり、ある国では政府がこ

の検査を利用して実質的な獣人の「削減」を行なった。正確な記録は残されていないが、当時の判別精度に鑑みれば、どれだ

けの者が「そう望まれて誤診された」のかは想像に難くない。そんな経緯もあり、BLVDの検査は様々な国や文化で忌避さ

れる傾向が強い。

「おれも発症しないタイプらしいなぁ。ヤン先生が血液検査のついでに調べてくれた」

 セントバーナードがあっさりそう言い、「そっか!」と安堵するカムタ。

「先生もテシーもそうらしい。島民に該当者は居ないらしいなぁ」

「比較的多いのはラテン系とアジア系らしいネ」

 とりあえず話をそこで本筋へ戻したカナデは、人間と獣人の違いについて纏める。

 人間は獣人と比較して子孫を残し易く、薬も豊富で多くの病気に強い一方で、獣人ほど外傷に強い体ではなく、傷の治りは

あまり早くないし、傷痕も残り易い。一点特化の特徴が活かせるタイプのスポーツなどでは獣人に水をあけられる傾向がある。

また、カナデはあえて言及しなかったが、多くの近代国家においては人間の方が社会的地位が高く、公共サービス面等での優

位性が高い。

 獣人は人間と比較して物理的に丈夫な肉体を持ち、身体能力に優れる一方、マイナーな病気にとことん弱く、人間には子孫

を残す能力で劣る。筋肉の組成の差から人間とは体積と重量の比率が違い、特に筋肉質かつ脂肪が少ない体質の獣人は水に浮

きにくくて泳ぎが苦手。同じくカナデは言わなかったが、社会的少数という弱みもある。

「それで、ここまで聞いてどう思ったかナ?」

 カナデの問いに、カムタは「う~ん…」と、とっていたメモを読み返しながら眉根を寄せる。

「違いって、尻尾だけじゃねぇんだな…」

「ソコなんだよ!?」

 思わず声が高くなるカナデ。

「もっと違いは多いよネ?顔の形とか体毛とか色とか…」

 これに対してカムタは首を傾けた。

「顔とか毛深いとか肌の色とか目の色とか、人間同士でも獣人同士でも見た目は結構違ってんじゃねぇかな?見た目の違いは

尻尾が生えてるかどうかで…。オラもアンチャンとか先生達みてぇな尻尾欲しかったなぁ。ヤン先生のとか縞々で格好良いし」

 少年の何ともいえない感想に、狸のモッサリした尾とセントバーナードのフッサリした尾が立つ。ヤンが同席していたなら

動揺を隠せないほど喜んだだろう言葉である。

「カムタ」

「何だアンチャン?」

「尻尾が生えてない獣人も居るぞ?」

「え!?」

 そんなカムタの様子をしばしポカンと眺めていたカナデは、やがて微苦笑を浮かべた。

 愚か故に的外れな事を言っているのではない。少年は違いを説明されて学んで、それでも「違うところもあるがそこまで大

きくは違わない」という結論に達した。そんなカムタの思考がカナデには少し嬉しかった。

「あと、なんかさ」

 カムタはメモを見返して言い、カナデは「うん」と先を促す。

「漁の役割分担って、得意なのとか不得意なのとか、そういうの考えてやってんだなぁって思った」

 今度の感想では、カナデは顔を綻ばせて大きく頷いた。

 この諸島には獣人差別が無く、主力となる漁業では人間と獣人が特色を活かして協力している。重い体が沈み易い筋肉質な

獣人は船上の力仕事を、泳ぎ達者な人間は素潜りで活躍を、といった具合に互いの長所を活用し合う。

 これはこの島に限らず、古くからの伝統的な暮らしを送る地域や部族に見られる特色である。特定の宗教や価値観の教義や

主義などに影響されず、それによる獣人排他や蔑視、差別が発生しなかったどころか、そもそもそんな思想を持ち得なかった

コミュニティでは、人間と獣人の違いは個性の一部としか認識されず、お互いの違いは実務的要素に鑑みて尊重される傾向に

ある。

 カナデは、これこそが本来の「世界のあるべき姿」ではないのか?と考えている。中世には獣人差別が起こり、近代ではそ

れが根深く残り、記録に残される限り、世界規模で見れば人間と獣人の関係は良好と言いきれない時代が続いてきた。だが、

世界中に獣人差別が広まる前は、きっと互いの関係は悪くなかったのではないか?と。

 それはカナデ自身が獣人差別と殆ど無縁の土地で育ったが故の価値観に基くものであり、西洋文化の取入れが長らく滞った

日本という国に生まれたが故の視座に基くものでもある。

(世界はきっと残酷だよ)

 家の掃除も、高いところはルディオ、狭いところはカムタと、体の大きさで手分けするよなぁ、と話している「兄弟」を眺

めながら、カナデは微笑みながら思う。

(けれど、それでも、捨てたものじゃないんだよ)





 その、夜半の事だった。

 長らく勉学に触れて来なかったカムタは、頭を使い疲れた様子で少し早めにベッドに入り、ルディオはひとり、リビングの

ソファーに腰を沈めていた。

 ベストを脱いでソファーの背もたれにかけ、カーゴパンツを穿いただけの半裸でくつろぎながら、眺めているのは美術の本。

 絵の良し悪しは判らない。だが、眺めているとホッとするというか、気分が落ち着くというか、好ましい気持ちになってい

る事だけは判る。

 変化が生じているのはカムタだけではない。少年が異邦人を通して「外」を眺めるように、ルディオは資料を手にしながら

自分の「内」を覗いている。
微細な物だが、確かに気分の変化はある。ハウルの、ハークの、写真やエピソードに触れる時、

絵画を眺める時、不快ではない気持ちの動きを感じる。

 セントバーナードはそっと、傍らに置いていたナイフを取った。

 鞘に収まったガットフックナイフを抜き、その銀に輝く刀身にトルマリンの瞳を映してみる。リスキーに調べて貰ったが、

素材はともかくとして刀身グリップ共に、形状が同じ物は一般流通している中に存在しなかった。

 身に付けていた衣類を除けば、漂着した際にルディオが所持していたのはこの一振りだけ。リスキーによれば「精霊銀」と

いう特殊な希少金属を使った合金でできているらしい。これも彼曰く「秘匿事項」の側に入る物で、自然界には存在しない。

 このガットフックナイフはカミソリのような切れ味に加え、常識では考えられない耐久性をも両立させている。おそらくは

ルディオの体に手を加えた組織が造った物なのだろうが、一体なにを殺すためにこれだけのスペックを備えているのかと、リ

スキーも首を傾げていた。これは自分の為に用意された品なのだろうか?と、巨漢はじっと刃を見つめて考えた。

 鞘にナイフを戻し、それを握る手元をしばし見下ろしていたルディオの垂れ耳が、玄関の気配を感知して微かに動く。

「ただいまだよ」

「おかえり」

 顔を上げたルディオに姿を見せたのは、テシーの店へ行っていた大狸。ほろ酔いでニコニコしているカナデは、カムタはも

う寝たと聞くと、テーブルを挟んでルディオと向き合い、腰を下ろして酒瓶を二本置く。

「お土産だよ」

 テシーの店で買ってきたコロナビールを勧められると、瓶を受け取ったルディオはキャップを外して香りを嗅ぐ。ルディオ

は時々ヤンに付き合ったり、テシーの店へ行った時に勧められて飲む程度で、日常的に飲酒する習慣は無かったのだが、カナ

デが来てからは晩酌に付き合うようになっていた。

 コツンと瓶をぶつけて、それぞれがラッパ飲み。げふぅ~っ、と気持ち良さそうに盛大なゲップを漏らしたカナデは、ゴッ

キュゴッキュと一気に飲み干すルディオに目を向け、「いい飲みっぷりだよ」と目を細くした。

「ルディオさんはどんなお酒が好きかナ?」

「あまり詳しくないから、よくわからないなぁ」

 あっという間に瓶を空にしたルディオは、カナデがもう一度煽る様子を見ながら正直に答え、思い出して付け加える。

「ジョニー・ウォーカーっていう酒は、飲んでみたいと思うけどなぁ」

「いいお酒だよ。有名だからこの国でも探せば見つかるだろうし、通販で取り寄せする手もあるネ。テシー君に頼んで付き合

いがある業者を当たって貰えば、探して手に入れてくれるはずだよ?」

 ああ、テシーを頼れば良かったのか。と今更気付いたルディオは、ハウルやハークの事を考えつつ、ジャーナリストに訊い

てみる。

「カナデさんには、おれがどう見える?」

「「どう」、だよ?」

 聞き返されて、質問が曖昧過ぎたと感じたルディオだったが、自分の状況を話せないので説明に詰まる。ハークに似ている

自分が、ルディオと名乗る本当の名前も知らない男が、広く深い見識を持つ記者にはどう見えるのか?そんな事が気になった

のだが…。

「話し方も仕草ものんびりしていて、見ていると和むよ」

 セントバーナードが表現に困っていると察しながら、カナデはそう印象を語った。

「貴方はとても優しい目をしているよ」

「おれが?」

 少し目を大きくしたセントバーナードに、大狸は柔和な笑みを浮かべて頷いた。

「誰かを傷つける事を全く考えていない…。そんな気持ちにさせる綺麗な目だネ」

 それは違うと、ルディオは感じた。この手はいくつもの命を握り潰して来たのだから、と。

 だが、曖昧な問いに対し、事情を知らないまま応じたカナデの答えは、それでもある意味で当たってもいる。ルディオ自身

の意図で誰かを殺めた事はなく、そうしてきた記憶も無いのだから。

 否定する代わりに、ルディオは言った。

「綺麗、かぁ…」

 と、実感が全く湧かない表現に、少しくすぐったさを覚えながら。



 こうして、ストレンジャーとの共同生活は順調に始まった。

 そして、三ヶ月続くこの生活が、カムタに、ルディオに、そして他の住民達にも、変化を促してゆく。