Answer

 懐深い入り江に砂が溜まってできているようなポケットビーチに、子供達の歓声が響く。

 既に踏み乱されてグニャグニャになった砂上の円の内側で、体格のいい少年が熊と見紛うような狸の巨漢と組み合って、歯

を食い縛り顔を真っ赤にしている。

「ガッツだカムター!」

「負けんなー!」

 短パン一枚になって取っ組み合う簡素な相撲の真似事に、少年達は夢中になって汗をかいていた。

「んぐぐぐぅ…!」

 砂地に足裏を食い込ませ、力いっぱい押しているカムタだが、押せども押せどもカナデのふくよかな胸に押し付けた顔がめ

り込むばかりで、狸の足は全く下がらない。磯に鍛えられ荒波に揉まれて育ったカムタは、屈強な力自慢が多い島の大人達に

も負けないほど力持ちなのだが、カナデはそれを優々上回る。しばし真っ向から押し合い勝負をした後に、ズンズン足を運ん

で円から外へとカムタを追い出してしまった。

 自分達の中で一番力が強いカムタですら敵わない。悔しがる少年達だったが…。

「さあそろそろ疲れてきたよ!次は誰かナ!?」

 汗だくで息を切らせ、太鼓腹を激しく上下させながらカナデはチャレンジャーを求める。

 半ば遊びが混じっているとはいえ、これも一応体育と力学の授業。接地する足の摩擦。砂地に食い込ませる角度。重心の位

置と高さ。そういった力とバランスの関係性を、数字や図式ではなく体感させる事で学ばせている。

 カナデは島に来て島民に接し、その気風を知って授業に取り入れた。良くも悪くも島の民は単純な事を好み、自分たちの暮

らしや利害、楽しみに関係のない事はあまり熱心に知ろうとはしない。複雑な数式や見慣れぬ図形を駆使して教えようとした

ところで、子供らもピンと来ないし興味を示さないだろう。だからカナデは、島に馴染みのある、しかもルールが単純でそこ

まで厳密でもない、おまけに自分も中身を知っているスポーツ…相撲を以って授業を行なう事にした。

 その目論見は大正解で、馴染みのある単純な力比べに「コツ」という形で力学の話を織り交ぜると、少年達はより強く押す

ために、カナデに勝つために、熱心にこれを覚えて取り入れた。もとより頭で理解していなくとも、力の入る入らないについ

ては体感的経験的に感じていた事である。カナデから判り易く実践させられながら教わると、少年達はあっという間に意識し

て体を使う術を覚えてしまった。

 これには親達も大喜びで、重い木箱やら丸めた綱やらを運ぶ際、腰の入れ方や力の入れ方が目に見えて良くなったと口々に

言っている。さらには、応用でテコの原理やバランスの事も教わったので、荷物の積み方も運ぶ順番も崩すコツも、効率よく

テキパキこなせるようになっている。

 遊び、楽しみ、学んでゆく子供達を相手に汗をかきながら、カナデは今日も手を抜かない。投げたり掛けたりといった技術

は使わないが、力だけは本気で入れる。そうして限界になるまで相手を入れ替えて、最後の最後には負けてやるのがこの狸の

やり方。子供達に達成感や連帯感を覚えさせる事まで込みなのがカナデの授業である。

「こないだのパターンで行く?」

「だな!やろう!」

「んじゃオラ一回休んで次行くぞ!」

 相談した少年達は、息が上がっている狸に次々挑み、やがて体力を削りきり…。

「わはー!もうダメー!」

 小柄な少年のスピーディーな揺さぶりで巨体が泳ぎ、膝が笑ってたたらを踏んで、カナデはゴロンと砂に転げた。

『よっしゃー!』

 歓声を上げる少年達。砂の上に寝転がって荒い息を漏らしながら、カナデも「あ~、やられちゃったよぉ~!」と、満足そ

うに笑っている。

 子供達が相談して挑む順番や戦法を決めるのも授業の内。

 軽量で小柄だが機敏な少年は引っ掻き回してスタミナを削れる。馬力がある少年は筋肉疲労を蓄積させられる。皆の持ち味

を自覚しあい、攻略方法について相談するのも、カナデが少年達に学んで欲しい事。

 少年達の価値観が単純な運動能力に寄っており、経験がある遊びとして最適だったので相撲を選択しているが、これが違う

場所なら相撲以外の何かで似たような事をする。見た目はいかにも鈍重そうだがカナデは一通りのスポーツを標準以上にこな

せるので、ボディランゲージによるコミュニケーションはお手の物である。

「それじゃあ、軽くひと泳ぎしたら授業だよ!」

 小休止を挟んで少年達を海に入れ、砂と汗を落とさせたら、砂地を黒板に頭の運動。

 カナデが少年達に教えるのは主に社会科関係の事。島の中で育ち、限定的…というよりも断片的にしか他国を知らない子供

らへ、経済や歴史、面白い風習や変わった地形など、判り易く絵を描きつつ、面白おかしく説明する。

 来島から二ヵ月半。すっかり島に馴染んだカナデは、マレビトの教師として皆から慕われるようになっていた。

「このままずっと、ず~っと、こんな日が続いたらいいな!」

 このところ、カムタはよくそう言っていた。



 潮風に乗って聞こえた子供達の笑い声に、セントバーナードが垂れ耳の基部を動かす。

「何かありましたか?」

 首の向きを変え、しかし立ち止まらないルディオに、並んで歩くアジア系の青年が問う。

「いや、カムタ達の笑い声が聞こえた」

「今日も楽しい授業のようで、何よりですね」

「ん」

 言葉を交わすふたりは日課のパトロール中。熱帯にもすっかり適応している健脚なリスキーと暑さも平気で疲れ知らずなル

ディオは、水面の波紋に揺れて歪んだ三日月のような島を端から端まで徒歩で見て回る。実行部隊でもあるふたりは万が一遭

遇してもそのまま「駆除」に以降できるので、ヤンとカムタを危険から遠ざけておきたいリスキーとしては、最も望む形のパ

トロールである。

 カナデが島に来てからというもの、日中にこのペアで見回りし、テシーの店での休憩などを挟みながら夕暮れまで過ごす事

が多くなっている。なお、今日は途中までヤンも一緒だったのだが、汗だくになった肥満虎があまりに辛そうだったので、先

にテシーの店に置いてきた。ただでさえ運動不足でスタミナ不足の医師では、片や足早に片や大股に、休まず島中歩き回る常

人離れしたふたりについてゆくのは難しい。

「しかしまぁ、平和で何よりです」

「だなぁ」

 今日もここまで生物兵器の痕跡は見つからず、連絡も入って来ない。決着を急ぎたい気持ちもあるが、とりあえずは平和で

ある。

 ここしばらく漂着物の発見が無いだけでなく、脅威として警戒していたエルダーバスティオンの手の者も見当違いの方面を

探索し続けている上に、どういう訳か連携が取れていない節まである。パトロールを怠りはしないがリスキーだが、不安材料

が少ないので、周辺に妙な物がないか探りつつも気楽な口調で巨漢に問いかけた。

「坊ちゃんがカナデさんと居る事が増えて、寂しく感じたりしているんじゃないですか?」

 からかうように言ったリスキーの顔に、「寂しい?」と横目を向けて、ルディオは少し考えて…。

「…わからない」

「そうですか?」

「でも」

「でも?」

「カムタはちょっと、顔が変わってきたなぁって感じてる」

「顔ですか?」

「顔つきか、目つきか、雰囲気か…」

 いつか自分も海に出る。

 父を奪った海を眺めながら、そう屈託無く夢を語る少年の気持ちが、正直ルディオにはピンと来なかったのだが、今では何

となく、海を見るカムタの横顔が少し変わってきた気がしている。

「ああ…。坊ちゃんもいつまでも子供ではないですからね。子供の頃こそ成長は早いものです。毎日少しずつ大人になってい

るんでしょう」

 リスキーは思い出す。まだ親から貰った名を名乗っていた頃、自分達兄弟にとっては、崖と谷、竹林と高い岩山、霧と雲、

そんな水墨画のような景色が広がる故郷が世界そのものだった。

 山と島という違いはあるが、外界を知らないと言う意味では幼かった頃の自分達とカムタは似ているようにも思える。

 「子供の頃、か…」と呟いたリスキーが遠くを見るような目をしていたので、何を思っているのか想像を巡らせたルディオ

は、声を小さくして訊ねてみた。

「ヤン先生とリスキーにも、カムタぐらいの時があったんだよなぁ?」

 ヤンとリスキーが兄弟である事を知っているのは、リスキーを除けばルディオのみ。カムタにも秘密の事なのでふたりきり

の時にしか触れられない話題である。

「はは…、それはそうですよ。ああ見えて幼い頃はとても可愛い…そう、虎柄の仔猫といった具合でしてね」

 応じたリスキーは、次いでルディオが発した言葉で黙り込んだ。

「おれにも、子供の頃があったのかなぁ?」

 当たり前にある。そんな答えが、しかしリスキーの口からは出ない。

 「ルディオ」という自分達が知るこの巨漢の人格は、記憶が無い今現在の状況に影響されたものと言える。記憶があった頃

の彼と今の彼を、本当に同一人物と考えて良いのかどうか、リスキーは考えた。

 ヤンとも話をしていた事だが、もしかしたら、記憶が戻ったらもう「ルディオ」ではなくなってしまうのかもしれない。単

純に、記憶を失っていた間の事を入れ替わりで忘れてしまうかもしれないし、記憶が戻る事で認識や考え方も変わり、全く違

う性格と立場の男になってしまうかもしれない。

 ヤンもリスキーも決して口には出さないが、そんな想像を巡らせながら同じ事を考えている。

 このままルディオの記憶が戻らず、全ての事件が片付いてもずっとこの島に居られればいいのに、カムタと一緒に居られれ

ばいいのに、と。

(もうじき全ての件にかたがつく…)

 前に視線を戻すリスキーは、物憂げに目を細めていた。

(我々が撤収すれば、諸島を嗅ぎまわっているエルダーバスティオンも退くだろう。平和な日々がやって来る…)

 そして自分はこれまで通りにフェスターの元へ。日陰を縫って闇に息衝く一匹の暗殺者へ。

(せめて旦那さんには、このまま島に残って貰いたいが…)

 ルディオが身元不明であっても、ウールブヘジンが正体不明であっても、カムタにとって大切な存在である事には変わりな

い。リスキーはそう考えている。

 弟のために己という存在を公的に抹消し、故郷を去ったリスキーだが、その判断自体を悔やみはしていないものの、残され

た弟の境遇を思えば「正解」ではなかったとも感じている。

 だからルディオには、あの時の自分には出せなかった答えを出して貰えはしないかと、胸の内では祈っている。



「ああ、カナデさんか」

 診療所のドアを叩いた相手が狸の大男だと気付くと、戸が開く寸前まで怪我人病人を想定して構えていた肥満虎は、少しば

かり表情と気を緩めた。

 ニコニコしながら「お邪魔するよ先生」と室内に入ったカナデは、「また湿布を譲って欲しいよ」と腰の後ろをさする。

「今日も子供達と運動を?」

 後ろを向いて棚の引き出しを開けるヤンの背中に「相撲の真似事をしていたよ」と応じながら、カナデは手近な丸椅子に腰

掛けた。

「この島の子はみんな元気だよ。体力は結構あるつもりだったんだけどナ~、筋肉痛との戦いだネ」

「羨ましい活発さですが、怪我にはくれぐれも…っと…。ははは、貴方に説教は不要か…」

 湿布を二袋取り出して向き直ったヤンは微苦笑している。最初こそ多少警戒していたヤンだが、このジャーナリストの身元

の確かさはリスキーも認める所、もう疑いは抱いていない。何より…。

「いやいや、たまには苦言説教その他諸々貰うべきだよ。いつまでも若いわけじゃなし、もう立派にオジサンだからネ」

 耳を倒して恥じ入った苦笑いを浮かべる狸の顔で、ヤンも苦笑を深めてしまう。

 不思議な男だと思う。紛れもなく余所者なのだが、余所者というその立ち位置のまま島に溶け込んでしまっている。頼り甲

斐のあるハードボイルドな医師のポーズを取っているヤンだが、基本的には小心で用心深い。そんな虎でもカナデという人物

には安堵して心を開ける。朗らかで飾らず、知的で思慮深い、そんなところにも魅力を感じる。

「では背中を出して」

「済みませんよっと、どっこいしょ」

 丸椅子を回転させて後ろ向きになり、窮屈そうな前屈みになりながら背中を丸め、シャツをたくし上げてズボンを少し下げ

た狸の腰…尾の上へと、ヤンは丁寧に湿布を貼ってゆく。

 仕事柄動き回るカナデでも、島の子供らを纏めて相手にするのは骨が折れるそうで、時々腰に来るし筋肉痛にもなるらしい。

「島を出るまでに鍛え直されそうだよ」

 そんな事を言って笑うカナデの後ろで、ヤンは笑いながら耳を寝せた。

(そうか。もう滞在予定の三分の二をとうに過ぎているんだな…)

 カナデはこの島を拠点にし、他の島へ足を伸ばして仕事をしている。ONCの部隊も探索している範囲内なのだが、ある意

味で絶対安全というお墨付きの存在なので、リスキーの話では変に疑われたりしていないらしい。

 ヴィジランテとしての活動の際には、怪しまれないようにメンバーの誰かがカナデの見える範囲に居残る格好で対処してい

るが、そもそも件数が減っており、カナデ滞在中に片付けた生物兵器は二体だけ。ONC正規部隊が確保した分もあるので、

現在の残件は2となっている。

(カナデさんだけじゃない。リスキーともじきにお別れか…)

 肥った医師は想像する。リスキーが去った後の事を。

 信用できない、してはいけない、そんな職種の男だと本人も言うし理解もしているが、リスキーは自分の使命と責任には誠

実で、スマートでない殺しは好まない。暗殺者としてのポリシーを持っており、得にならない荒事は一切しない。殺害による

口封じはあくまでも最後の手段であり、そうしなければならなくなる状況自体が失敗の結果と断じており、その身に秘めてい

る危険性ではそこらの強盗やチンピラとは比較にならない割に、それらよりよほど理性的で安全と言える。そんな理念や人格、

価値観や美学、そしてポリシーをヤンは信頼している。ひとを殺める仕事という自分とは正反対の存在でありながら、そのプ

ロ意識も評価できる。

(頼もしいのは事実なんだが…、実際の所、そういった実務的な事だけじゃなく…)

 腕が立つし頼りになる。しかしそんな点とはまた違うところで、リスキーが居る生活を少なからず好ましく感じているとい

う自覚がヤンにはあった。

(口では何て言っても、寂しくなるんだろうな…)

 自分の、演じたいハードボイルドな医師とはかけ離れたウェットさを自覚しているヤンは、そんな事を考えて…。

「そういえば、リスキーさんもあの漫画が好きだそうだネ?」

「え?」

 診療室の匂いを嗅いだカナデが急に思い出して話題を変え、唐突な切り出しに困惑したヤンは…。

「先生の蔵書を読んだりしていたんだよ?」

 そう重ねられてピンと来た。狸が言っているのは、ヤンが愛読している日本の漫画…顔を走る縫い傷と黒白の髪が印象的な

無免許医の漫画の事だと。しかしリスキーの口からその漫画の話を聞いた事は一度も無い。

「いや、初耳ですよ?」

 そもそもあの漫画を読まれてしまったら、崖の上にこの診療所が建っている理由も、ウッドデッキでパイプを吹かしてハー

ドボイルドを気取るのも、全て影響を受けての事だと見破られそうな気がしているので、リスキーには漫画の存在も教えては

いないのだが…。

(…もしかして、知っていて黙っていたのか?)

 あの男の事だから、知ったらからかって来そうな気がするのだが…、と首を傾げたヤンは、ふと思い出した。

 最初にあの本に触れた、故郷での事…。集落の診療所に置いてあった、日本語のフキダシに訳が手書きされたあの漫画は、

ヤンにとっては「ただの本」ではなかった。
例えばコミックスのヒーローに憧れるように、例えば映画の中のタフな主役に憧

れるように、幼い虎はその医師の話にのめりこんだ。
善人とはとても言えず、しかし悪と断じられるような存在でもないその

主人公を、村に住む他の子供らはどう受け止めていいか判らず、むしろ顔が怖いと敬遠していた。だが兄だけは、ヤンが好き

なその漫画も、主人公も、好意的に評価していた。

(…リスキーが居る内に、ちょっと話題をふってみようか…)

 ここまで深くなった付き合いだから、今さら漫画の影響を笑われる程度は何でもないさと、肥った虎はひとり苦笑いを浮か

べる。
もしかしたら真似ているところを馬鹿にされるかもしれないが、それでも、話をするのがすこし楽しみだった。



「お?いらっしゃいカナデさん」

「こんばんは、今夜も来たよ」

 日が落ちて、夕食の時間も過ぎた頃、バーに狸がのっそり現れた。

 テンターフィールドの青年は愛想よく笑う。酒を買える所も飲める場所も少ないので、カナデはバーの常連になっている。

「ファジーネーブル頼むよ」

「はいはい、ちょっとお待ちを…」

 カウンターの椅子にそこからはみ出るサイズの尻を乗せたカナデへ、彼が好きなカクテルを準備しつつテシーが問う。

「ああそうそう、訊きたかったんですけど、「ジョニーウォーカー」ね」

「うん?手に入りそうなんだよ?」

「ええ。各種扱ってる業者見つけたんですけど、値段もばらばらで種類があって…。ラベルカラーがいろいろあるんですけど、

何がどうだかさっぱりで。どういうんだか知ってます?」

「少しだけならネ」

 カウンターに置かれたカクテルグラスを取り、一口ぐっと含んで飲み下し、「プハーッ!」と気分良く息をついたカナデは、

問われるままにかつてジョニーウォーカーを飲んだ時の印象を語り、テシーがそれを詳細にメモする。

「ああ、それから!簡易市場の一ヶ月清算出たって親父が!」

 テンターフィールドは父から聞いた、島に新しく作られたシステムについて、最初の一ヶ月分の出来高が上々だったという

話をした。

 テシーの家に招待されて晩飯と酒を馳走になった際、その席で乞われたカナデは他国の漁業システムについて話をした。

 この島ではいわゆる漁協のような物や市場が無く、ほぼ全ての世帯が漁を営んでいるが、その大半が小漁師、一割が漁船を

利用した網漁を行なっている。前者は大がかりな漁をせず己の手や小舟で手に入る獲物を自家消費したり、余りを買い付け業

者に売ったりしている。後者は各々が近場の島の業者に持ち込むなどして売却している。

 しかし、この双方でどうしても「浮く」物が出て来る。

 小漁師の場合、少量しか獲れず纏まった量にならない魚介は買い手がつかず、買い付け業者が来るタイミングか否かで外貨

に換えられるか自家消費するかが決まるため、取り過ぎても腐らせてしまう。
漁船を持つ者の場合も、網にかかった少量の魚

種や変わり易い物は手に余る事がある。また、漁で使用する分と魚介を他の島へ運ぶ分の燃料は、漁の成果が振るわなかった

場合はなかなかの痛手となる。

 さらに共通して言えるのは、取引先が各々別々で、取引そのものが円滑か否か、公正かどうかも含めて個人差がある事。昔

ながらの自家消費の漁に近代の商売が接してきた事で、貨幣紙幣の価値に不慣れな島民が口先で丸めこまれ、一方的に搾取さ

れるケースが時々あるのも確かだった。

 自らも漁師でありながら商売人であり事業主でもあるテシーの父は、以前からこういった問題点をどうにかできないかと考

えており、カナデから他国の話を聞いて参考にしたがった。
そこでカナデが、自分が見てきた中でもこの島に合いそうな仕組

みをいくつか参考にして提案したのが、島の変化のきっかけとなった。

 簡易市場。島で獲れた魚介を一旦市場が買い上げ、纏めて運搬や販売を行なうという手法。

 製塩場の輸送船と運搬航路を共有し、日に一度纏めて他島の市場へ持ち込む事で燃料費の問題をクリア。個別では纏まった

量にならない種の魚介類も、業者が購入してくれ易い量で纏めた出荷可能。試しに数軒の漁業者がテシーの父主導で組合を作

り、試験運営してみたところ、長期的に見れば馬鹿にならないコスト削減に繋がり、純利益の増加も少なくない事が判明した。

 そうして今では、島の住民全員が組合に所属し、これまで他島との取引に不便があって現金が手に入り難かった島民も、市

場持込みによって手間をかけずに安心して金を得られるようになった。
急いで作られた小屋の市場と組合事務所と水揚物保管

所は、今はまだ掘っ立て小屋と屋根があるだけの素朴な木組み構造だが、来年には組合出資でしっかりした物に立て直される

予定が決まっている。

「資料纏まったら、お礼込みでカナデさんの所に持ってくって!」

「僕はお礼を言われるような働きはしてないよ?」

 大きな狸は耳を震わせて困り笑いする。テシーの父も他の猟師達も、大きな出費も無しに成果を上げられるシステムを発案

してくれたカナデを立役者としているが、自分は考えを口にしただけで働いていないのだから感謝されるのはおかしい、とい

うのが狸の弁。

「…それで…」

 やりとりが一段落すると、大狸は声を潜めて身を乗り出す。

「昨日、ヤン先生には言えたんだよ?」

「!?」

 自分も飲もうとしてグラスを取り出しかけていたテシーは、危うくソレを落としそうになった。

 ニコニコしている狸が「なかなか難しいかナ?」とグラスを傾けると、テンターフィールドは「意地悪だなぁ…」と顔を顰

めた。
昨夜、カナデがテシーの店を出る際に、珍しく少し酒が入った状態のヤンが入れ替わりでやってきた。他に客が居ない

状況、つまりふたりきりになれたのだが…。

「ま、焦らない焦らない。チャンスはまた来るよ」

 妙に勘が良いというか、変に察しが良いというか、カナデはテシーがヤンに抱く気持ちに、ふたりのやり取りを見ている内

に気付いていた。

 ふたりきりの時を見計らって切り出された当初、テシーは当然仰天して慌てふためいたが、カナデ曰く「僕もゲイだよ」と

の事。やんわりしているようで粘り強い餅のような狸には敵わず、降参する格好で渋々テシーも認めた。ヤンに抱く恋慕の情

について。

 カナデの見立てではヤンもテシーの気持ちを察している節がある。テシーが大っぴらにしないせいか、それとも他に理由が

あるからなのか、察してなお黙っている様子ではあるが、少なくともテシーの事を憎からず思い、嫌悪感などは抱いていない

気がする。

「押して駄目なら引いてみろとは言うけどネ、腰が引け過ぎてると相手も引いちゃうモンだよ」

「はい…」

 押しも引きもできていないテシーには返せる言葉が無い。余所者ではあるが、ジャーナリストではあるが、テシーはカナデ

の人柄を好いている。会った時には既にカムタが懐いていたというのもあるが、どうにも毛嫌いする手合いの報道者とは質が

違う気が最初からしていた。同性愛者の先輩として見るようになってからはなおの事、親近感が強くなっている。

 以前一度、カナデ自身には同性の恋人が居るのかと訊いてみた事がある。この問いにカナデは「残念ながら恋愛とはご縁が

無いよ」と語ったが、「「腐れ縁」だけだナ」と、何とも言い難い、困っているような残念がっているような恥かしがってい

るような、半笑いと苦笑いの中間の表情を見せて付け加えていた。

「答えを焦っちゃいけないけど、絶好のチャンスだと思ったら躊躇わない事だよ」

 グイッと豪快にグラスを煽り、空にしてからカナデは諭す。温和そうな目を優しく細め、顔を綻ばせて。

「テシー君は魅力的だから、きっといい答えが貰えるよ」

「そう…ですかね…」

 曖昧に返事をしながらも、テシーはカナデの言う事を信じてみてもいいかなという気になる。

 不思議なひと。

 テシーが抱くカナデの印象もまた、皆と似たようなものだった。



 一方その頃、リビングのテーブルに世界地図を広げたカムタは、諸島を覗き込んでいた。

 海の一点に浮かんだマーシャルは、ぷっくりした指で示せば全体がすっかり隠れてしまうほど小さかった。

「英国は…」

 指でつつーっと図をなぞり、ロンドンを見つけて止める。

「やっぱ遠いな…」

 どんなに晴れていても、崖に登っても、絶対に見えない遥か彼方。そこがハーキュリー・バーナーズが居た国。

 自分が目にしている範囲は狭い。数ヶ月前は理解できていなかったが、今はそれを感じ取れる。

 ルディオの事で色々と調べ物をして、カナデから色々な事を教えられて、カムタが抱いていた「世界の概念」は変わって来

ている。

 いたずらに知識を得ても「知っている」止まりだが、そこへ想像を働かせ、感じ取る事で理解の深度は変わる。異邦人が語

る見て聞いて触れて感じてきた世界の様々な面を、生に近い鮮度で教わり、カナデ越しに世界の姿を垣間見始めたカムタは、

それまでの漠然とした印象とは違う物を抱きながら、世界をイメージするようになった。

 波打ち際に立って眺める水平線までの距離は、身長160センチのカムタでは4.5kmほど。地球の外周は約40,07

5km。見えている範囲の向こうに8,900倍以上も世界は広がっているのだと、ざっと計算したカナデが教えてくれた。

 その実感し難いほど途方もない広さに驚くとともに、カムタは少し怖くなる。

 世界は広い。別に何とも思っていなかった言葉が、今はその意味を完全に変えていた。

 世界は広い。途轍もなく、途方もなく、どうしようもなく広い…。

(アンチャンの記憶が戻って、帰る家が見つかったら…)

 ルディオが居るべき場所が見つかったとして、そこまでの物理的な距離を思うと、カムタは怖くなった。米国か、中国か、

英国か、独国か、何処へ帰るのだとしても、マーシャル以外なら遥か遠くになる。

 帰ってしまったとしても会いに行けばいいと、以前のカムタは思っていた。他の国といっても海は繋がっているのだから、

大人になって自分の船を持てばどこにでも行けると感じていた。

 しかしそれは違うのだと、カムタはやっと理解した。外国と言われてカムタが想像していた距離は、首都への片道程度の物

だった。世界の広さはそんな尺度で測りきれる物ではなかった。

 カナデは、あと一ヶ月足らずで諸島を発つ。

 リスキーは、全て片付いたら仕事に戻る。

 ルディオは、記憶が戻ったら家に帰る。

 世界中離れ離れ。絶望的な距離。それを思うだけで胸の奥が苦しい。キュッと、紐か何かで締められているように…。

「カムタ」

 ハッと顔を上げた少年は、入り口に立つセントバーナードに気付く。

「どうしたアンチャン?」

 立ち上がったカムタに歩み寄ると、ルディオは「勉強してたんだなぁ」と地図を見下ろした。

「風呂、まだ入らないのかぁ?」

「あ」

 言われて時計を見遣り、食後から少し地図を眺めていたつもりが、二時間も経っていた事に初めて気付いた。

「頑張るなぁ」

 褒めてくれているルディオに、カムタは「ん…」と曖昧に鼻を鳴らして応じる。褒められるような「勉強」ではない。確か

に、学校で教わる「勉強」と違って、カナデが教えてくれる「勉強」は面白いのだが、いま地図を眺めていたのは…。

「カナデ先生は?」

「テシーの店に行ったなぁ。カムタとおれの飲む物も貰って来るって」

「そか。…先、風呂入っちまおう?酒飲みに行ったなら、カナデ先生はまた寝る前にシャワーだろうし」

 頷いて、風呂場に向かって歩き出したルディオについてゆきながら、「X2U」の文字があるベストの背中を見ていたカム

タは…、

「カムタ」

「ん?」

「疲れてるのかぁ?」

「え?」

 ルディオが振り向かずに発した問いで、面食らったような顔になった。

「何で?」

「最近、時々元気ない顔してる」

 そんな事ない。と反射的に応じかけて、しかしカムタは理解する。たぶん、皆が去る水平線の向こうを考えているときの顔

を、ルディオは見ていたのだろうと。

「…そんな事ねぇよ!?オラは元気だ!今日もカナデ先生と皆と相撲してきたんだぞ?どすこーい!って!」

 ふざけてはしゃいで元気があるふりをして、カムタはルディオの背中にドンとぶつかり、ラグビーのタックルをするように

腰を捕まえた。

 立ち止まり、腰に組み付いて見上げているカムタの顔を振り返ったルディオが、「そうか」と小さく顎を引く。

 後ろから腰にくっついた少年の胸元で、セントバーナードの尻尾がフサッと揺れた。元気だと聞いて安心したのだろうと、

少年には判る。

 だから、辛くなった。

 こうも自分を大事に思ってくれるルディオも、いつかは自分の家へ帰ってゆく。それが良いのだとカムタ自身も思う。だが、

いざ別れるその時に、自分は果たしてルディオを、ちゃんと笑顔で手を振って送り出せるのだろうか?

 今のカムタは、世界の広さと自分の弱さが、怖い。

 どうするべきなのか、どうなるべきなのか、正しいと思える答えは判っている。だが…。

「…なぁ、アンチャン?」

 ルディオの腰に後ろからしがみついて、どっしり頼もしい体躯と豊かな被毛を体で感じながら、訊こうとしたカムタは…。

「うん?何だぁ?」

「…やっぱ何でもねぇ!えへへっ!」

 笑って誤魔化し、問うのをやめた。

 記憶が戻っても帰ったりしないで、ずっとこの島に居ないか?

 その問いかけも、承諾の答えへの期待も、身勝手な物だと感じられたから。





 そして、その二週間後…。

「感動だよ…!」

 湯気立つ丼を前に、大狸は分厚い両手を拝むように合わせる。

「スープは良いと思うんだ。麺が…、どうだろな?」

 カムタは少し心配そうな半眼になって眉尻を下げ、出来立ての料理を見下ろしていた。

 クンクンと確認するように鼻を鳴らしたルディオは、少し目を大きくしてから、スゥッと胸が膨らむほど大きく湯気を吸い

込み、フササササッと尻尾をせわしなく振る。

 カムタがこの日の昼食に出したのは手作りのラーメンだった。カナデが愛を熱く語るので一際強く興味を覚え、料理の先生

であるテシーと、カナデの話でよほど食べてみたくなったらしいルディオと、三名であれこれ試した末に出来上がった一品。

 幸いにもテシーは父に従って海外旅行に出た経験があり、ハワイで中華料理店の品々を味わっている。インスタントではな

いラーメンを知っているのは強みだったが、逆に、テシーが本場の四川拉麺しか知らないが故にハードルがやたらと高くなっ

てしまった。

 かん水がなかなか手に入らないので重曹を用いた麺作りにし、生地のベースはテシーが工夫して作った。出来上がった物は

ルディオがその怪力とスタミナを活かして丹念に踏み、揉み込み、しっかりと生地を設えた。仕上げにはテシーの店のパスタ

マシーンを使い、均一な太さに切り分ける工法が確立された。

 麺の茹で方についても、最も料理の経験があり、繊細な火の扱いから豪快な焼き上げまで自在にこなすテシーが試行錯誤し

た。疲れ知らずのセントバーナードが少し楽しそうにパスタマシーンで大量生産する麺を惜しみなく使って試作し、理想的な

食感に仕上がる火加減と時間をしっかり割り出した。なお、大量に出た試作茹で麺はそのままアルデンテ風のパスタっぽい料

理にして店で消費された。

 具材はシンプルな物にするとしてもスープには拘りたかったので、カムタがカナデから「トリガラスープ」なる物の存在を

聞き出し、首都で買った料理本に載っていた西洋のスープ類のレシピを参考に出汁の取り方を工夫した。
最も難航したのがこ

のスープ造りで、ジンジャー、ガーリック、鶏など材料の絞り込みは比較的早くに済んだのだが、肝心の鶏ガラの資料不足も

あって上手く扱えなかった。何度やってみても、ルディオですら尾を全く振らないまま飲む「エグみ漂う生臭いお湯」しかで

きなかった。

 暗礁に乗り上げたかに見えたが、ヤンから「知らなかったが、内蔵ごと煮込む物だったのか…」という素朴な疑問を呈され

て調べ直した結果、先に内臓等を取り除くのが正しい事が判明。アクを適度に除く事も判り、一気に進展した。

 完成品に具として乗せられたのは半熟卵と、いまひとつ味の染みが薄い試作チャーシュー…豚肉ではなく鶏肉のスライスを

使った物、そして美しい勘違いから採用された海老の天ぷら。カナデの祖国の大衆食そのままに作る事は食材の面で難しいが、

それを重々理解している狸は皆の創意工夫を喜んだ。

 南国の正午。ズルズルハフハフとラーメンを啜る音が庭に響く。暑い盛りの時間帯なので、カムタもカナデもすっかり汗だ

く。狸の口数は普段より少なめだが、その反応の薄さが夢中になっているという事を如実に物語っている。余分に作ったスー

プと用意していた麺がなくなるまでお代わりし、満腹になったカナデはポンポンと両手で腹を叩き、狸の腹太鼓。

「ご馳走様だよ…!美味かったよ…!ビックリだネ…!」

 この感想に満足し、カムタも詰め込んで膨れた腹を真似して叩く。

「間に合って良かった!カナデ先生が居る内にできるかどうか、テシーとアンチャンとゴニョゴニョしてたんだけど…」

 ナイショで練習したラーメン作りだったが、カナデに勘付かれる事なく不意打ちで提供できた。今頃はテシーの店でもヤン

とリスキーに試作を食べて貰い、感想を聞いているはずだった。カナデ達の評価が良ければ店のメニューとして提供を始める

予定になっているが、この分なら上々と言える。

「ホントはカナデ先生に訊きながら作った方が早く上手くできたんだろうけど、サプライズ?っての、テシーがやろうって」

「いや、ビックリだったよ!ビックリ仰天大騒ぎ!」

「じゃあ大成功だな!えへへ!」

 そしてカムタは視線を動かし、どんぶり片手に空になったスープ鍋を覗き込んで、垂れ耳と尻尾をクタンと下げているルディ

オを見遣り、「アンチャン足んなかったのか?」と笑う。

「また作ろうな!」

「ん」

 新たにレパートリーに加わったラーメンもそうだが、カナデから聞いて作り方を学び、覚えた料理などは他にもある。濃厚

なシチューにも似たカレールーを使った日本風のカレーライスも教わったし、甘口醤油で味付けする煮っ転がしや、豆から作

る手作り粒餡や、それを使ったオハギや餡子餅の作り方も教わった。実際に作ってみせるとルディオともども喜ぶので、熱心

に学んで実践した。

 本当に、学べた事が多い三ヶ月だった。

「………」

 食器を片付けにかかりながら、カムタは眉尻を下げる。

 カナデはもうじき島を出る。子供達の世話を焼いて、大人達と難しい話をして、評判を聞いたハミルの学校からも何度か臨

時講師に招かれて、精力的に動き回りながら、自分の本来の仕事も滞りなくこなして…。

 リスキーも「稀に見る敏腕」と賞賛していたが、本当にそうなのだとカムタも思う。巡り会えたのは幸運で、嬉しい事で、

楽しかった。

 輝くような三ヶ月。だからこそ、いよいよ迫ってきた別れの時が寂しい。

(カナデ先生は行く。…リスキーもいつか。そして…、アンチャンも…)

 世界の広さを感じ始めた少年は思う。

 いつでも会えるテシーとは違う。会おうと思えばすぐに行ける島のハミルとも違う。カナデも、リスキーも、ルディオも、

外国に出てゆくのだから。

 寂しさを抱え、それでも面に表さないカムタの背を、ルディオは少し不思議そうに瞬きしながら見つめていた。





 出立まで日も少なくなり、カナデは毎晩のようにあちこちの家から送別の夕食に招待されるようになった。人情味溢れる島

民の労いに付き合い良く応えて、カナデは誘いの全てにお邪魔した。

 そんなある日の夜半、飯と酒をご馳走になって戻ったカナデは、リビングに居たルディオと延長戦の晩酌に入った。

 先に寝室に入ったカムタは、背中を丸め横向きに寝転がっていた。

 腹痛を堪えるように体を丸くしているが、別に腹は痛くない。ただ、胸の奥が切なく痛んでいる。

 いろいろ考えてしまう。その考えで頭がグルグルする。そして胸が締め付けられる。

 寝苦しくなって仰向けになり、天井を見上げるカムタは、ポッテリ厚い手をたわわな胸の中央に置いた。

 たちまちそこが蒸してジットリ汗ばむ。ふつふつと汗が浮き、丸みを帯びた肌を湿らせる。脇腹を汗がツツッと伝い落ち、

背中がシーツを濡らし、またゴロンと寝返りを打つ。

 寝苦しく、目が冴えて、ちっとも眠れない。

 最近、寝つきが悪い日が多い。寂しさ、悲しさ、そして不安…。そういった物で胸がシクシク痛む。

 無邪気で楽観的で明るくて朗らか。そんないつもの振る舞いを心掛ける少年は、誰にも言えず悩みを抱え込み、眠れぬ夜を

過ごす。

 カムタは利口で分別もあるので、自分のそんな気持ちが旅立つ者を困らせるという事が判っている。

 笑顔を、別れる時まで見せるのだと、カムタは自分に言い聞かせ続けた。



「もうすっかり馴染んで、我が家みたいに落ち着くよ」

 ソファーに座るカナデは背もたれに体重を預け、天井を仰ぎ見た。

「世話になったナ…」

 呟いた狸の向かい側でも、セントバーナードがつられるようにして上を見ていた。

「カムタは、アンタと会えて、色々教わって、良かったんだと思う」

「それなら良かったよ。宿泊費だけじゃ足りないほどお世話になったからネ」

 とは言うが、カナデがカムタの家へ入れた金はホテルの長期滞在料金の相場にだいぶ色をつけた金額で、むしろ正規のホテ

ルを拠点にした場合より経費はかかっている。これでも足りないとカナデが言うのは、宿泊場所としてだけでなく、美味い料

理をたらふく食わせて貰えて、案内などの取材協力もして貰えたからである。何より、暖かな家庭の一員として受け入れて貰

え、久しぶりに落ち着いた生活を満喫できた事もカナデには嬉しい。

「カムタは、いい生徒だったかなぁ?」

 ルディオの問いで視線を下ろしたカナデは、セントバーナードのぼんやりとした、真っ直ぐな眼差しを見返す。

 カナデはこの目が好きだった。ぼーっとしているようで、穏やかで、優しい、そんなトルマリンの瞳が。そしてその目はい

つも、少年を見守っている。

「カムタはよく、自分は頭が悪いから物を知らないとか言う。けれどおれは、カムタは賢い子だと思う。それは…、あ~…」

 ルディオがしばらく言葉を探し、「おれが、身内だからそう思うだけなのかなぁ?」と訊ねると、カナデは吹き出しそうに

なった。いつもぼんやりと表情に乏しいルディオの顔は、珍しく複雑な表情を浮かべていた。耳の基部を後ろに傾け、瞼を大

きくおろして細目になっているその顔は、困っているようにも恥かしがっているようにも見える。

 カムタを褒めて欲しいが、そんな事を要求するのが何となく恥かしい。身内への期待を抱きながらも身内贔屓を恥じる、そ

んな、情感豊かでなければ感じもしないだろう気持ちで、ルディオは表情を変化させていた。

「カムタ君は賢い子だよ。そもそも、頭の良さと知識の量はまた別の物だから、そう言って卑下するのはそもそも違うよ」

 カナデは目を細くする。答えを聞くルディオは、少し不安そうにも、期待しているようにも見えた。

「知識は人生を豊かにしてくれるよ。けれど、本人にとって必要無い、興味も無い、そんな知識を無理矢理詰め込んでも、あ

まりタメにならないんだよ。知識の価値は状況や場所でいくらでも変わる物だからナ…。そこを行くと、カムタ君は大人の漁

師達と大差無いくらい海にも魚にも船にも詳しいよ。そしてそれは、この島や海で生きていくために、素数よりも古典文学よ

りも大切な知識だよ」

 それらに価値が無いとは言わないが、活かし役立て楽しめる環境か否かで、有用性は当然として学習効率も大きく変わるも

のだとカナデは説く。これにはルディオも納得できた。カムタはこの島で生きる上で必要な事は大人同様に知っているし、食

べるのが好きで食べさせるのも好きだから、料理の腕の上達や工夫は他のもの以上に見える。

「僕もカムタ君はむしろ利発な方だと思うよ。あの子は、いま自分が生きている環境から求められる、必要な答えが出せる子

だと思うナ」

 カムタのソレは、自分が師から教わった心構えにも通じる所があると、カナデは考えている。

 いざ刃物を突きつけられた時、その金属の重量辺りの時価が判っても仕方がない。刺さる、切れる、それだけ認識できて、

それを防ぐためにどうすればいいかという答えが出せればそれでいい。

 師はカナデに頭の使い方と気構えをそう説明していた。平和とは縁遠い話ではあったが、状況から必要とされる答えや知識

の価値等は時と場合でいくらでも変わるというのは、この世の中の多くの出来事にも当てはまる。

 その点から言えば、カムタはむしろ普通より数段上の「必要な賢さ」を備えていると、カナデは評価している。

「そうかぁ…」

 ルディオの表情がいつものぼんやり顔に戻る。まるで緊張が解けたように。

 カムタが褒められたと感じ、嬉しくて、その尻尾はフサフサ揺れていた。