Alter
翌日も、島は平穏だった。
その翌日も。そのまた翌日も。
子供達に色々教えながら精力的に島々を飛び回って取材を進め、スケジュール通りに仕事を進めていたカナデは、ついに予
定の消化を終えた。
見習いたいバイタリティだと、すぐ息が上がる太り過ぎの虎医師は半分以上本気で零し、見習えば良いのに、とリスキーに
腹肉をつままれていた。
家を提供しているカムタは、他の子供達よりもカナデから学ぶ時間が多かった影響か、この三ヶ月で様々な事に興味を持ち、
自発的に学習に打ち込んだ。異邦人がもたらした知識と本で学んだレシピを元に、幅を広げたレパートリーで料理に勤しみ、
暇さえあれば、疑問があれば、すぐカナデに質問した。
良い教師と言える。体型と顔以外は完璧だ、とリスキーが冗談めかしていたが、カナデはジャーナリストという本業の枠を
超えて有能な男だった。この近辺の学校に勤める正規の教師よりも博識で、教え上手で、やる気を出させる才知に長けている。
島人全員に慕われるようになったジャーナリストが、島で暮らした三ヶ月強。
みるみる知識を得て、深めて、カムタの中で「世界の概念」は広がった。そして…。
「………」
雌鶏達の声で目を覚めたカムタは、ベッドの上で身を起こし、だいぶ伸びて寝癖だらけになった蓬髪をワシワシ掻いて、そ
ろそろテシーに髪を切って貰おうとぼんやり考えながら、しばらく壁を眺めていた。
起きたばかりの少年の目を、雲に光を遮られた空を映して窓灯りが染める。
やがてカムタは何かに気付いた様子で顔を俯け、パンツのゴムを摘んで引っ張り、中を覗く。蒸れてしっとりしたパンツの
中から熱が逃げて、股間がスースーした。
ポコンと張った腹の段差。その下にある両脚の付け根との間で、逆三角形にムッチリ盛り上がる肉。その下端…肉付きのい
い股座に根元が埋まって短く見える陰茎が、立ち上がって硬くなっていた。
陰毛には程遠い、目を凝らしてもなお地肌の色に紛れて見えない柔らかな産毛しか生えていない周囲の状態もあって、勃起
してもなお包皮を被っているソレは幼い子供の陰茎のよう。だがそれでも、陰嚢は以前より大きくなり、陰茎その物の直径も
増している。
生まれてから十五度目の雨季。知識を得て学ぶ間にも、カムタの体や心は別に変化を続けていた。
以前も時々あったのだが、一ヶ月半ほど前からカムタはほぼ毎朝この状態になり、しばらく治まらない事に気付いた。気に
なって質問してみたら、ヤンは何やら言い難そうな様子で「大人になってきている兆候」と述べて、カナデも一瞬口ごもって
から「健やかな成長の証拠」と言葉少なめに言っていた。
なおその後、カムタから先生と呼ばれているふたりは少年にどう性教育をすべきか、こっそり密会して相談していたのだが、
その事は呆れ顔で聞いていたリスキー以外には知られていない。
パンツの中に手を突っ込んで、カムタは陰茎を握る。厚みがあるポッテリした手には小さいソレは、手の中で小さく脈打っ
ている。
次第に頭がしっかりしてくると何か夢を見ていたような気がして、薄い記憶を手繰ったが、殆ど思い出せない。海があって、
ルディオが傍にいた。そんな日常のひとコマのようなシーンだけが断片として頭に浮かんでいる。
ギュッと陰茎を握る。体重はあるし筋肉もついており、ボリュームその物はあるのだが、カムタの身長は平均的。性的な成
長で言えば知識面も含めてやや遅れているとも言える。まだ精通しておらず自慰も知らない少年は、体の奥の疼きの正体も、
その鎮め方も判らない。
下っ腹が疼いて落ち着かない。夢の中身は覚えていないのに気持ちは引き摺っているのか、胸の奥に切ない痛みと物寂しい
感覚がある。
どんな夢を見たのだろう?気になりながらも、少年はのろのろとベッドを降りた。
みるみる知識を得て、深めて、カムタの中で世界の概念は広がった。そして…、離れ離れになる意味を、物理的な距離を、
カムタは把握してしまった。
少年から青年へ、やがては大人へ、心身ともに成長の最中にある少年は、以前と変わらず明るく朗らかに快活に振る舞いな
がら、しかし…。
―カムタはちょっと、顔が変わってきたなぁって感じてる―
―顔つきか、目つきか、雰囲気か…―
ぼんやりしているようで、ルディオはカムタの内面…精神の変化を察知していた。
重々しく濃い黒雲の下、鶏の鳴き声に応えて小屋から出してやったルディオは、庭を散歩し始めた雌鶏達を眺め、今朝も顔
を見せに来たヤシガニと朝の挨拶を交わしてから、最近ずっとそうしているようにぼんやり顔で考える。
自分が何者なのかはまだ判らない。だが、それでもいいと感じている自分も確かにある。
カナデはもうじき島を発つ。別れという物が迫っている事を感じ、しかし別れという物を経験していないルディオの胸には、
どう受け止めて良いか判らない感情があった。
いつか自分も、記憶が戻ったら見知らぬ場所へ帰ってゆくのだろう。
そうしたら、カムタはこの家で独りで暮らすのだろう。
毎日自分で料理したものを、ここで独りで食べるのだろう。
危険が無くて、変化が無くて、安全で安定した毎日を、少年は独りで送るのだろう。
庭の台所脇にあるテーブルを見遣る。そこに独りで食事する少年の姿を想像してみる。背を向けて座っているずんぐりした
少年の顔は見えないが、その後姿は酷く寂しく感じられた。
「…おれは…」
ぽつりと、巨漢は呟いた。
「おれは、記憶なんか別に欲しくないんだろうなぁ…」
帰る場所など必要ない。記憶が無くてもいい。記憶や過去を求めるのは、そもそも自身の知らない過去が、カムタや周りの
皆に危険かどうか知りたいからに過ぎない。
カムタと一緒に生活していくうえで不自由がないのなら、永遠に記憶が戻らなくとも構わない…。自分がそう考えている事
を、ルディオは改めて自覚する。
自分に本当の家族や仲間、友人達が居たとしても、それがどれほど大切なのか、今の自分には判らない。寂しい思いをして
いるかもしれないし、忘れられていると知ったら悲しいだろう。
だが、今の自分にとって大切な家族はカムタで…、悲しませたくないのは、寂しい思いをさせたくないのは、やっぱりカム
タで…。
自分には本当に帰る場所があるのか?本当にそこへ帰らなくてはいけないのか?
例えば、記憶がない今の状態のまま、帰るべき所や元居た場所が判明したとしても、そこへ帰りたいという気持ちにはなれ
ないだろう。自分が居るべき場所が「そこ」だったとしても、気持ちだけで希望を述べるなら…。
「おれは…、カムタと…」
カナデが加わり、三人で暮らしたこの三ヶ月で考えた事がある。
カムタは独りでも生きていける。自分の食い扶持は自分で何とかできる。ルディオも教わって漁を手伝うようになったが、
網をかける位置の選び方でも、素潜りの漁でも、未だにカムタの足元にも及ばない。そんなカムタはこれからどんどん大人に
なっていくのだから、もっと余裕が出て来るだろう。
それに、カナデのアイディアを元に作られた島の漁協のおかげで現金も手に入れ易くなったし、いずれは夢を叶えて自分の
船を持って、さらに豊かに暮らせるだろう。
だが、カムタは「豊かな暮らし」を望んでいない。その日その日に必要な分と、ちょっとした蓄えの分しか食料を得ない。
決して取り過ぎず、要る分だけを求める。少年はそういう性分だった。
少年が求めているのは、豊かで快適な生活よりも、一緒に暮らす家族ではないのか?
カナデが加わって賑やかになった食卓や、三人でギュウギュウに詰まって入った風呂、食事のメニューの相談や、嵐が来る
前日の戸締り確認に、手分けしての補修作業…。カムタはずっと楽しそうだった。テシー曰く、独りで居た頃よりも活き活き
して見える、と…。
だからルディオは考えた。
独りで生きられるカムタは、独りでも平気な訳ではない。本当は誰かと一緒に居たいのではないか?家族が欲しかったので
はないか?
「…おれは…」
ポツリと巨漢は呟く。
「記憶なんか要らないから、おれはカムタと一緒に居たいなぁ…。カムタが一番好きで、カムタが一番大切で、おれには…、
それ以上大切で好きな物なんてないしなぁ…」
雌鶏の声と足音に、ボソボソと声を被せるセントバーナードは…。
「!」
風向きが変わり、匂いを察知し、ハッとして振り向いた。
ヤシガニが前を横切ってゆく玄関口に、小麦色の肌の、丸々とした少年が立っていた。
磯に出る準備を終えて出てきたカムタは、ルディオと目が合うと「…あ…」と小さな声を漏らして、手にしていた交換用の
網をパサリと落とす。
「………」
何となく目を合わせ難くなったカムタは、雌鶏の方を見遣った。
ルディオは驚いていた。カムタが接近していたのが全く判らなかった。考え事をしていたというのもあるし、雌鶏の声に耳
を傾けていたのもあるが、音や気配を常人では考えられない精度で拾えていた巨漢は、今日このタイミングに限って、カムタ
が近付くまで気付けなかった。
「………」
「………」
しばらく、沈黙があった。
ルディオもカムタも言葉を発しない庭で、雌鶏達がコッコ、コッコ、と地面をつつきながら歩き回る。
「…おはよ」
「おはよう」
ようやっと言葉を発したカムタにルディオが応じる。
またしばらく沈黙があった。
ルディオはもう、今の独り言を聞かれたのだと確信していた。
怒ったかな?とも思った。皆が頑張って手掛かりを探してくれるのに、自分は記憶が無くてもいいと言う…。それは確かに
勝手な言い草に思えた。
「…アンチャンさ…」
カムタが口を開いた。ルディオを見ないままで、表情は硬い。
「家に帰りてぇとか、全然思ってねぇのか?」
「…わからない」
ルディオはこれまで何度もそうしてきたように、何度も口にした言葉を繰り返した。
本当に判らない。帰りたい、帰りたくない、と考える以前に自分の過去に全く想像力が働かない。世界のどこかに自分が暮
らしていた家があるという実感がこれっぽっちも湧かない。だから、記憶を取り戻す事にも執着できない。
「…でもさ…」
少年は続ける。硬い表情のまま、ひたすらに雌鶏を目で追いながら。
「アンチャンを待ってる家族がどっかに居るかもしれねぇんだ。いつか、帰ってあげなくちゃいけねぇよ」
「カムタは?」
「え?」
思わず訊ねたルディオも、問われたカムタも、顔を見合わせて押し黙った。
「…カムタは、どうなんだ?おれが帰ったあと、カムタは…」
「そりゃあ、オラは元通りだ」
答えてから、カムタは我知らず胸を押さえた。
「そんだけだよ。元通りになるだけ…」
筋肉の上に脂肪がたっぷり乗った、張りのある肌に、
「うん。アンチャンが来る前と変わんねぇ、元通りの生活に戻るだけだよ」
肉付きの良い太い指先が、キュッと深く食い込んだ。
胸がザワつく。潮に濡れた背中が強い風で冷えたような、苦しいような寒いような、落ち着かない感触が胸の奥にある。そ
れを押さえたいのに、手が触れられる位置にそれはない。
「…磯、見て来る…」
カムタはそう言い残して、取り落とした漁具の事も頭に無いまま、足早に庭から出て行く。
「………………」
無言のまま見送ったルディオは、少年の背が見えなくなった後、残された漁具を見下ろして自問した。
(なんでおれは、ついて行かなかったんだろうなぁ…)
これまで、ハミルとカムタが遊ぶ際や、他の子供達と一緒にカナデの授業を受ける時などに、気を遣って外す事はあったが、
今のようなケースでついて行かなかったのは…。
「………………………」
ルディオの分厚い胸へ、先ほどカムタもそうしたように手が添えられ、太い指が被毛の中へ深く食い込む。
追っていいのかどうかが判らない。ついて来るなとは言われていないが、朝の漁に同行するようになってから「行こう」と
言われなかったのはこれが初めてだった。
「一緒に居たくない…んだよなぁ…」
これまでに無かった事だが、今はカムタと距離を感じた。
自覚していなかったが、ここ最近、ふたりの関係はこれまでの物から少し変化していた。それまでと同じように一緒に暮ら
し、言葉を交わし、変わらない生活を送っていたようで、実は変わってきていた。一緒に居ながらも、それぞれ別々の事を考
えている時間が多くなっていた。
その、ほんの少しだけ距離を生じさせて、各々がじっくり考えるきっかけとなった男は…。
「行ってあげた方がいいよ」
項垂れるルディオの垂れ耳が動き、上げた視線の先には大柄で肥っている狸の姿。カナデは玄関口に出てきて立ち止まると、
片腕を肩の高さに上げ、壁について身を支えて、ルディオに視線を向けた。
追いかけない巨漢を非難している様子は無い。眉尻を下げて優しい微苦笑を浮かべているカナデの顔には、失敗して気まず
くなっている子供を眺める親のような穏やかさがある。
「時間をあけた方が良い時もあるけどネ、間があくとこじれる事もあるんだよ。行ってあげて、話をした方が良いと思うよ」
ゆっくり歩み寄ってきたカナデから、ルディオは「でも」と視線を外して下を向く。
「でも、カムタは「行こう」って言わなかったんだ…。これまで、こんな事は無かった…」
叱られた犬のようにしょんぼりと肩を落とすルディオの前まで来ると、カナデは「そうなんだネ…」と敷地の外へ続く小道
を見遣った。
「カムタ君にもルディオさんにも、事情はあると思うよ」
ハッと顔を上げたセントバーナードに、視線を戻した狸は頷いて微笑みかけた。「詮索する気はないし、知ってどうこう言
うつもりもないよ」と。
一緒に暮らしたこの三ヶ月でカナデは勘付いていた。カムタとルディオは親類ではない、と。
ふたりが気をつけていたのでヴィジランテとしての会話は聞かれていない。気付いたのは、家族や親類であればお互いに知っ
ていて当たり前な事を、初めて知ったかのような口ぶりで話し合う事が時折あったせいだった。
だがそれでもカナデはふたりの関係を「家族」と見ている。教えられた「兄弟のような親類」という関係については隠し事
も偽りもあるだろうが、彼らの仲の良さに、親しさに、信頼に、一片たりとも「偽物」は混じっていない。
「貴方は優しいひとだよ」
カナデはルディオに穏やかな笑みと言葉を向ける。
「もしかしたらカムタ君を傷つけてしまうかも?嫌な思いをさせてしまうかも?そう心配して迷ったんだネ。今は傍に居ない
方が、カムタ君には良いかもしれないって…。それはとても優しい事だよ」
カナデはルディオの気持ちを肯定した上で、「けれどネ」と諭すように続けた。
「たまには貴方の気持ちの通りに行動するのも良いんだよ?カムタ君が大切で、何より優先したいっていう貴方の気持ちはと
ても素晴らしい物だけれどネ、時には「自分はこうしたい」って主張しないと、言って貰えない側も不安になるものなんだよ。
カムタ君の方からは言い出せない事もあるだろうしネ」
セントバーナードの目が大きくなる。トルマリンの瞳には、戸惑いが混じりながらも理解の光が浮かんでいた。
ずっとカムタについてきた。カムタが良いように、カムタの為になるように、カムタに従う形で振舞ってきた。困らせるよ
うな事は言わなかった。
だが、もしかしたら、自分は「言わないことで」カムタを困らせたのではないか?
ルディオの瞳に微かな動揺と理解を認めて、カナデは笑みを深くした。
「それじゃあ、一つおまじないを教えてあげるよ」
そう言った狸は両腕を広げて、セントバーナードを腕ごと抱き締める。
「ギュッてネ?ハグするんだよ。不安な時も、寂しい時も、慰めたい時も、励ましたい時も、好意を伝えたい時も、ギュッて
相手を抱き締めてあげるんだよ」
自分より背が高い、自分より大きなルディオを、カナデはその柔らかで豊満な体で包み込むようにハグし、耳元へ言い聞か
せる。
「プラスの事は相手に伝わる。相手のマイナスはハンブンコできる。これはネ、そんなおまじないだよ」
最後にギュウッと一際強く抱き締めてから身を離し、カナデは鼻がつきそうなほど近くでルディオの顔を見上げた。
「さ!これで不安は半分引き受けたよ!でも元気はあげたよ!今度はルディオさんが「誰か」にしてあげる番だからネ!」
狸はグイッとセントバーナードの腕を引っ張り、敷地外への道へ向かわせて、その広く逞しい背中をトンと後押しした。
ルディオは、そのまま歩き出した。
ん、と顎を引き、真っ直ぐ前を向いて、カムタの元へ…。
見送るカナデは、少し申し訳なさそうな、寂しそうな、それでいて穏やかな、複雑な微笑を浮かべている。
自分はここを去る。一つ所に留まれない風の性分だから、同じところに留まり続ける事ができない仕事をしているから、こ
こを去る。
そんな自分が、去るべきか残るべきか迷っているルディオに「カムタと共に暮らせ」と言うのは身勝手が過ぎる。だからあ
んな言い回ししかできなかった。
答えをルディオに委ねて、大狸は空を見上げる。
降り出しそうな雨雲に覆われた雨季の島の空は、しかし部分的にほんのりと、雲を透かして明るい色に染まっていた。
潮騒が耳を打ち、岩場に当たって跳ね返る波飛沫が小さな粒を舞わせる。
夜明けから間もない曇天の磯。ザラつく岩の上に座って、伸びたざんばら髪を潮風になぶられながら、カムタは輝く海を眺
めていた。
座っているすぐ傍には深い窪みがあり、割れ目のようになって海水が溜まっている。
―記憶なんか要らないから、おれはカムタと一緒に居たいなぁ…―
ルディオが呟いていた言葉が、波音に重なって蘇る。
―カムタが一番好きで、カムタが一番大切で、おれには…、それ以上大切で好きな物なんてないしなぁ…―
カムタはおもむろに膝を抱える。出っ張った腹が窮屈で苦しくなるほど強く。
自分は何故、帰らなくちゃいけないのだとルディオに強く言わなかったのか?それが正しいのに、どうして言わなかったの
か?自分を責める気持ちになりながら、カムタはその理由に気付く。克服したはずの感情が、乗り越えたはずの感情が、カム
タの中で強まって行く。
寂しい。
カムタの腕が力を込めて膝を引き付ける。ルディオの記憶が戻って、帰るべき家や家族が見つかって、この島を去ったら…。
その時は元に戻るだけだと考えていた。元通り、独りの生活に。
いつかはそうなるのだとずっと考えていたのに、そうなるべきだと思っていたのに、ルディオに問われ、改めて想像してみ
たら、胸の中が嵐の海のように乱れた。それはきっと、世界が広いという事を知ってしまったから。遠いという概念の本当の
意味を知ってしまったから。
寂しい。
乗り越えたと思っていた感情。克服したと思っていた感情。それはカムタの中から消えてなどいなかった。
背中を丸め、抱えた膝に顔を伏せる少年に、常のカムタの面影は無い。そこに居るのは、タフで明るく朗らかで生命力に溢
れた若い漁師ではなく、何処にでも居る、不安も悩みもあるひとりの少年だった。
雨雲の上の太陽が、天頂に向かってゆるゆると動いてゆく。跳ねた飛沫が張りのある肌に水滴をつけては、潮風がそれを吹
き落とす。
寂しい。
ポツンと独り、膝を抱えていたカムタは、
「カムタ」
かけられた声に、丸めていた背を震わせた。
聞き馴染んだ声。
毎日聞いてきた声。
誰の物よりも聞く声。
顔を上げないカムタの横に並んで立ったルディオは、傍にある、海水で満ちた深い窪みを見遣る。
そこは「始まりの場所」。
自分が目を覚ました場所だと、最初に出会った場所だと、ルディオにもすぐに判った。
何故カムタがこの場所に蹲っているのか、どんな気持ちでここに来たのか、理解できた。全てが始まったこの場所に改めて
来たのは、振り返るためであり、自分の気持ちを最初から見つめ直すためでもあるのだろう。
「カムタ」
巨漢が発した再びの呼びかけにも、カムタは答えない。顔を上げない。
答えられなかった。顔を見せられなかった。寂しくて零した涙に潤んだ目も、震えてしまうだろう声も、見せたくなかった
し聞かせたくなかった。
ルディオのあの言葉だけで、本音を聞いただけで、こんなにも心が乱れてしまったのは何故なのだろう?
(オラは我侭だ…。オラは弱虫だ…。我侭で弱虫で欲張りだ…。父ちゃんみてぇに立派な男になりたかったのに、オラは…)
ルディオはいつか帰るべきなのだ。その方が幸せなのだ。そう頭では考えているのに、去ってしまった後の事を考えると堪
らなく寂しくて、哀しい気持ちになってしまう。
「カムタ。いつか、おれの記憶が戻って、帰る場所が見つかったら」
ルディオの声が、きつく目を瞑っているカムタの耳に届く。
「一緒に、そこに行ってくれるかぁ?」
波の音が高く上がった。
岩場に当たって砕けた波が、岩を洗って海へと帰る。あるべきものがそこへ収まるように。
おずおずと顔を上げたカムタを見下ろしているルディオの、いつも通りのぼんやり顔には、微細な表情の変化が見られた。
それは、「照れ」だった。
理由は自分でも判らないまま、ルディオは少し恥かしく感じながら続ける。
「あと、その逆で…、おれの記憶が戻らなかったら…、あと、戻っても、帰る場所とか家とかが無かったら…」
一度言葉を切ったルディオは、屈み込んでカムタと目線を近づけた。
「このまま…、ずっとここに居ても、いいかなぁ?」
これが、ルディオの出した答え。
「どうすべきか?」「どうしなければいけないか?」ではない、「どうしたいのか?」という己自身の心への答え。
セントバーナードの太い指が少年の頬から涙を拭う。拭われた涙のその上で、カムタの目は大きく見開かれ、ルディオの顔
を映していた。
「おれは、カムタと離れるのは、寂しいなぁ」
やっと判った、自分の気持ちの中の「一番」。
「ずっと、カムタと一緒に居たいなぁ」
カムタと離れたくない。その気持ちこそが、ルディオの中では記憶を取り戻すことよりも優先される。
先ほど、カムタが近付いていても気配に気付けなかった理由が、今は何となく判った。それは、この少年を警戒の必要が無
い相手と認識し、心の底から気を許しているから。一緒に居るのが当然で、近付いて来るのが普通だから。だから、ルディオ
が求めて気配を探ろうとしない限り、カムタは警戒させる事なくその懐に入り込める。
そう、懐に…。
「………」
ルディオは宙に手を彷徨わせ、ぼんやりした目で広がる海を眺める。
重たくも、それが心地いい。そんな衝撃を胸で受け止めて。
「…っく…!う…!ひっく…!」
懐に飛び込み、抱きついてきたカムタの、嗚咽を堪えて必死さが滲む熱い息が、胸をくすぐる。
「オラ…!アンチャンど離れんの、ざびじっ……よぉ…!」
初めて言えた、本音。
「嫌だよぉ!せっかぐっ!でぎ、だっ…!大事な、家族なのにぃ!まだ独りになんのは、嫌だよぉ!」
ルディオのためにならないから、帰るべき場所がある巨漢の足かせになってしまうから、そう考えていたから気持ちごと押
し込めてきた、意識する事すら避けてきた、本音。
「アンチャンが居なぐなっだら寂じいよぉ!居なぐなっだ後の事考えだら…!胸が、痛ぐでっ!辛ぐで…!おっかねぇよぉ!
アンチャンと一緒がいい!ずっと一緒が、オラはいい!」
口にした途端に、堰を切ったように本心からの訴えが漏れて、止まらなくなった。
カムタが初めて見せた少年としての脆さに、歳相応の弱さに、吐露された愛おしい淋しさに、ルディオの胸が早鐘を打つ。
「おれは…」
のろのろと、ルディオの腕がカムタの背に回る。言われた事を、して貰った事を思い出して、少年を包み込むように。
「おれも、カムタと一緒に居たい。…うん。ずっと、一緒に居たいなぁ…」
自分の気持ちを再確認しながら、セントバーナードが少年を抱き締める。
「ひんっ…!ひっく!ひゅんっ…!」
子犬のように喉を鳴らして泣きじゃくるカムタを、ルディオはギュッと抱き続ける。自分はここに居ると、ずっと傍に居る
と、態度で気持ちを示して。
分厚い胴に回りきらなかった少年の手が触れている背には、ベストに縫い記された「X2U」の三文字。
ルディオもカムタも知らないが、磯風にはためくベストのそれは、Close to Youをもじった物。
その意味は、「傍にいるよ」。
まだ判らない事ばかりだが、まだ知らない事ばかりだが、それでもルディオは答えを出した。
誰か居なくなってしまっても、誰が去ってしまっても、誰と別れてしまっても、自分は、日々変化してゆく少年を、その傍
らで見守り続ける。
それが、ルディオの答え。
思えば、目覚めて、カムタと出会って、空っぽの記憶に注がれ続けた善意と親切によって少しずつ変化してきた巨漢の、本
当の気持ち…。
何も持たず、何も知らなかったセントバーナードは、やっと、はっきり、自分の気持ちを言葉にできた。
サァサァと静かに霧雨が降る。
熱された島を雨季の恵みが優しく冷やす夜、バーのカウンターにはずんぐり丸っこい褐色の少年と、大柄なセントバーナー
ドの巨漢の姿があった。
「ルディオさんの食いっぷりに感動すらするね。…お代わりどう?」
エビピラフをガフガフと掻き込む、普段にも増して飯が美味そうなルディオは、テシーが問うと「ん」と頬を膨らませたま
ま顔を上げた。
「オラも何かお代わり!」
カムタも空になったリゾットのお椀を出して要求すると、テシーは一瞬不思議そうな顔になった。
(ふたりとも、何か…)
カムタがニコニコしているのはいつもの事だが、なにやら今日は特別機嫌が良さそうに見える。ルディオもいつも通りのぼ
んやり顔なのだが、店に入って来た時からずっと尻尾が緩やかに振られ、明らかに機嫌が良い。
何か特別良い事があったのだろうか?などと不思議に感じながらも、ふたりが美味そうに飯を食ってくれるので、テシーも
つられて機嫌が良くなる。
「エビグラタンあるけど、海老続きは飽きるかな…」
「食う!」
「食べる」
カムタとルディオが同時に即答し、「はいはい」とグラタンをオーブンに入れたテシーは、
「もしかしてふたりともすげー腹減ってる?今日何してたの?」
と訊ねてみた。サービスでハイネケンの瓶ビールをルディオへ、アップルジュースのパックを開けてカムタへ、それぞれあ
てがいながら。
「今日は一日ふたりで色々話して、色々考えたんだ!朝飯も食ってなかったし、頭いっぱい使ったから腹減っちまったよ。な、
アンチャン!」
「ん」
輝く笑顔のカムタに、閉じているように見えるほど目を細めてルディオが頷く。
(ルディオさんもこういう顔で笑う事あるんだな…)
話の中身もよく判らないが、セントバーナードの笑顔を珍しがって、テシーは首を傾げた。
カムタとルディオは一日ずっと話をしていた。朝飯をとりに帰る事も無く、昼飯を食べるのも忘れて、磯に並んでずっと話
し合っていた。日が射して、小雨が降って、止んで雨上がりの風が吹いて、雲間から光が射して…、一日の移ろいと天気の変
化を、じっとその身に浴びながら。
記憶が戻ったらどうするか。記憶が戻らなかったらどうするか。帰るべき家があったらどうするか。帰らなくても良かった
らどうするか。状況次第で選択肢は変化するが、それでも一本、動かぬ芯はふたりで決めた。
ルディオの故郷へ行くにせよ、カムタの島で暮らすにせよ、ふたりが離れる事は無い。移住するか島で暮らすか、どちらを
選んでもふたり一緒だと話し合って決めた。
だから、決めた後も色々話した。フィッシャーズデイの大会の事、次のバザーの事、シバの女王への感謝祭の事、ゴスペル
デイの事、クリスマスの事…。
話し合う事はいくらでもあった。ずっとずっと一緒だから。これからも一緒に過ごして行くから。
これまで通りの日々がこれからも変わらず続く約束…。それはこれまでにない、ふたりにとって大きな変化だった。
「…もうちょっと本腰を入れて調べれば、もっと情報が集まったかもしれないナ…」
一方その頃、カナデは与えられている部屋で資料を纏めていた。
大きな狸の巨体と比べれば妙に小さく見えてしまうノートパソコンのモニターには、カメラの画像ではなく、手記を纏めた
ワープロソフトのウインドウが展開されている。
キーの上を太い指が軽やかに素早く動き、絶え間なく叩いて文を綴る。カナデの目は自前のメモに向いており、殆ど画面を
見ていない。文章の塊を纏めて打ち込んでは後から見返してチェックする複写スタイルである。
カナデにはパトロンから「仕事のついで」として頼まれている事がある。各地の伝承や神話、民話や口伝…、話の出所を問
わず、どんな物がどんな国に伝わっているのか、本業のついでに調べて欲しい…。そんな頼みである。カナデの最大手パトロ
ンである烏丸は、リゾート開発に際して現地の民話などを取り入れたデザインやレイアウトを心掛けているので、参考にした
いという話だった。
「ここにも「塔」の神話があるんだよネ。どこから流入したのか…」
文章を見返しながらカムタお手製のアイスティーを啜り、ひと息入れながらひとりごちる。
巨大な樹、天に届くような建造物、世界を内包する山…、そういった伝承や神話については各国各地で聞かれる。だがカナ
デは、この島の老人達から聞いた話に特別興味を持った。
雲まで聳える、無数の枝を持つ塔。シバの女王が建てさせたという塔の話が、狸には珍しく感じられた。
(この諸島では塔なんて身近な建造物じゃないよ。世界内包神話の類型にしたって、この環境ならむしろ樹木系や生物系…巨
大な木とか、世界を背中に乗せた亀や魚にでも例えられそうな物なんだけどネ…。そもそも…)
カナデは腕を組んで首を捻る。
シバの女王と、その王国。
これ自体は他の地でも伝わる神話なのだが、主な伝承地として知られる国々から見て、マーシャルはそのどことも遠く離れ
た位置にある上に、他の地域での神話と異なる箇所が多い。もはや忘れ去られかけている信仰らしく、諸島でもごくごく一部
にしか伝承が残っていないようだが…。
(シバの女王と、天を衝く塔…。この組み合わせは他で聞いた事が無いナ…)
複数の神話や伝承が合体させられた物とも考えられるが、このマーシャルは文化流入や民話の交配が起こり易い環境とは言
えない。しかもその伝承は、首都からも離れた、異文化に触れ難い環境にある島々でのみ聞けた。
それはまるで「伝わって来た」のではなく、異物が混入しなかったが故に「風化や変質を免れて残った」ようにも思えて…。
(ま、ありのままでいいかナ。出資者もそれをお望みだし、綿密な調査は正規の調査員さんがやるしネ)
実際に進出や開発が決まったら烏丸から正式な調査チームが派遣されるので、カナデの報告はざっくりした物でも構わない。
(そう言えば…)
一度手を休め、カナデは文面の一点を見つめた。
(「小島」、かぁ…。あそこもそろそろ工事が…)
烏丸の総帥が私的な客だけを招く島の別荘が、そろそろ改装工事を終えるはずだと思い出した。
(またフウちゃんに良い土産話ができたナ)
ふっくらムクムクした働き者の顔を思い浮かべるカナデ。
カナデが帰国して報告に赴く際、烏丸の総帥は労いを兼ねて私的に所有している小島へ招く。烏丸の別荘と来客用のコテー
ジ、そして管理人用の小屋だけが建つその小島は、住み込みで暮らしている若者が管理を任されていた。
住み込みの管理人は、ホッキョクグマではないが白い被毛が美しい熊の若者。身の丈が軽く2メートルを越えており、カナ
デ以上の大兵肥満でもあるのだが、いつもニコニコしている気の良い若者なので威圧感はない。むしろ純真無垢な子供のよう
でもあり、巨大な着ぐるみめいた和やかさがある。
本人は失語症で一切喋れないが、他者の話を聞くのは大好きで、カナデが語る異国の話を円らな目をキラキラさせて熱心に
聞いてくれる。
世間から切り離された島で暮らす若者については「ワケアリ」と総帥から聞かされただけで、素性までは知らない。だが、
師匠達の集落の存在同様、小島でのんびり幸せに暮らす彼の話をカナデが他所へ漏らす事はない。
(さて、土産話に纏めるためにも、もう一踏ん張りだよ)
島を発つ日は近い。済ませるべき事は早めに済ませて、別れを惜しむ時間に当てたかったカナデは、纏め作業を再開させた。
パチパチと音を立てる薪の上で、串に刺した野菜や肉が香ばしく焼ける。
皆で火を囲む宴の席、目を細めて注がれた酒を飲み干すカナデは、別れの宴で普段より蒸す夜を惜しんで送る。
出発の二日前。明日は出発準備の仕上げにあてられ、明後日の早朝には島を発つ。ゆっくり夜更かしできるのは今夜が最後。
雨季の最中の晴れ渡った一日は、島を去る異邦人への手向けのようでもあった。
また来るよ。そうカナデは言った。
それが島民達には何より嬉しかった。
「…で」
火を囲む輪から少し離れたパンダナスの木立の中、俊足の肉食獣を思わせるしなやかな肢体の青年は、肉食獣らしさがまるっ
きり失せた丸い虎に肩を竦めて問う。
「いつになったら戻るつもりです?」
「も、もう少ししたら戻る…!」
じっとり湿った厚手のハンカチで顔を拭うヤン。さっきからこの繰り返しである。
「泣き上戸という訳でもないでしょうに…」
「悪かったな…!」
鼻声で唸るヤンに対し、リスキーはやれやれと首を振った。
ヤンも元は余所者で、本人は知識が偏っていると言うが立派にインテリである。島の皆とは知識も感性も未だにやや離れて
いるのだが、同じく余所から来た知識人であるカナデとは気もあったし話題もあった。友人と呼べる間柄になった狸が去って
しまうのは、やはり寂しい。
カムタや子供らの手前、涙など見せられないと述べて身を隠し、さめざめと泣くヤンを見守りながら、
(私が帰る時も泣いてくれるかな?シーホウ…)
リスキーはふと、そんな事を考えてみる。
幸いと言うべきか、進展が無かったと言うべきか、カナデの滞在中、ヴィジランテの出動はたった一度しかなかった。それ
でも一体無事に駆除できて、残るは最後の一体のみ。…もっとも、最後に残ったのが一番強力な一体…カブトムシをモチーフ
にした最高級の生物兵器なのだが…。
そして、ONCの動きを嗅ぎまわっているはずのエルダーバスティオンは、ここのところ活発な調査をしていない。逆に不
気味にも感じられるのだが、どういう訳か動きがチグハグで連携も取れていないように思えるというのが、エルダーバスティ
オン専用に組織された工作員部隊からの報告を受けているフェスターの総括。
(我々が引き上げればエルダーバスティオンも引っ込む。島は安全になる。最後の大物さえ片付けば…)
広場に目を戻すリスキー。爆ぜる音と共に火の粉を舞い上げ、踊る炎の陰影が、笑っているカナデやカムタ、ぼんやり顔の
ルディオを彩っていた。
(私の送別会はさすがに望むべくもないし、もしやられても困ってしまうが…)
真っ当な日向の存在であるカナデをほんの少し羨ましく感じて、リスキーは苦笑しながら左右に頭を振った。
(ヤキが回ったかな…?私も…)
深酒して家に戻った後、カナデはカムタとルディオ、訪ねてきたテシーやヤンと、島に来る前に知り合った顔ぶれで二次会
にもつれこんだ。
リスキーはヤンから誘われる前に遠慮した。上司に連絡があるから、という建前を口にして誤魔化したが、実際には万が一
の事態に備えて闇に潜み、島に異常が無いか確認している。カナデと皆がのんびり酒飲み語りできる最後の夜だから、朝まで
邪魔に入られたくなかったのである。
二次会の目玉は、ついにテシーが入手した酒…ジョニーウォーカー。それも高級なブルーラベルである。
酒を飲めないカムタは、ルディオの手のグラス…テシーが作ったボールアイスを浮かべている琥珀色の液体をしげしげ見つ
めた。
「綺麗な色だな、コレ…」
アンチャンの変わった後の目の色みてぇだ。という言葉が出かかったが、カムタは慌てて飲み込んだ。
琥珀色。
以前はあまり馴染みが無かった色なのだが、ルディオと出会ってからは印象深く、因縁深い色になった。探したこの酒然り、
ジ・アンバー然り、ウールブヘジン然り…。
暑くないのか、セントバーナードにぴったりくっつき、鼻の穴を大きくして匂いだけ嗅いでいるカムタを、カナデは優しく
細めた目で眺めていた。
どんな話をしたのかは知らないが、カムタとルディオの仲は変わらず良好。それどころか、あの日以降は以前よりも楽しそ
うに、そして嬉しそうにしている時が増えたように見える。
何があったのか、どんな問題だったのか、どんな話をしたのか、そういった事をカナデは一切訊こうとしなかった。
カムタとルディオの本当の関係は知らないし、詮索しようとも思わない。何か事情があると察してはいるが、それを暴こう
という気はさらさらない。本当の関係など自分が知る必要はないと思ってもいる。ふたりがお互いに必要とする間柄である事
に、違いは無いのだから。
「乾杯!」
『かんぱ~い!』
テシーの音頭でグラスが合わせられ、琥珀色が揺れる。
ルディオはしきりに香りを確認した後、それをチビリと舐めてみた。
トクン…。
胸の奥で僅かに、心臓が弾みをつけて鳴った。次いで、絵画を見ている時と同じ感覚…安らぎの感覚がより強く湧き上がる。
懐かしい。
痺れを感じる舌先で、味が無くなるまで琥珀を転がしたルディオは…。
「お?珍しいねルディオさん。そんなに気に入ったのかい?」
そう言ったテシーの、見つめるヤンの、顔を覗くカムタの視線で首を傾げる。
セントバーナードは微笑していた。ホッとくつろぐような、和らいだ表情で。
「いい顔するネ。美味い酒に良い友達…、本当に楽しい夜だよ」
カナデのそんな言葉にルディオも共感する。
(ああ、そうだなぁ…。楽しいんだなぁ…)
狸に付き合っていたこの三ヶ月の長閑な夜の晩酌を、自分は楽しんでいたのだなぁと、今更ながらに感じた。
「………」
一方、マンゴージュースを飲みながらも大人達が飲んでいる物が美味そうに見えるのか、物欲しそうに人差し指を咥えてい
るカムタに、
「カムタ君はまだダメだ」
「そうそう。大人になってから」
ヤンとテシーが口々に釘を刺す。
「カムタが大人になったら、毎晩一緒に酒を飲むのかなぁ?」
ルディオが何気なく口にした言葉に、「でしょうねー!」とテシーが笑い、「だよ」とカナデが頷き、「程ほどに」とヤン
が苦笑する。
あまりに自然な流れで言われたので、ヤンも気付いていなかった。ルディオの発言に含まれた重要な事に。
「でもちょっと匂いだけ…」
「匂いで酔っ払うからやめとけってば。結構強いんだぞ?この酒」
ルディオのグラスに顔を近づけるカムタと、肩を掴んで止めるテシー、そして穏やかに目を細めているヤン。そこには、カ
ムタが漠然と思い描く、「こうなったらいいな」と感じる未来の縮図があった。
―カムタが大人になったら、毎晩一緒に酒を飲むのかなぁ?―
意識せず漏らしたその言葉は、ルディオが決めた答えの表れ…。
そして、翌日…。
「ニッポンってあっちかな?」
「たぶんもうちょっと北向きだなぁ」
「こっちの方?」
「ああ。でもカナデさんは真っ直ぐ日本に帰る訳じゃないなぁ」
「あ、そうだった」
波が打ち寄せる砂浜で、少年とセントバーナードは水平線を望んでいる。
荷造りも終わり、最後の散策に出たカナデは、何度も案内してくれたふたりの背を砂浜から眺めていた。
「こんなにも名残惜しいのは久しぶりだナ」
呟いたカナデに、傍らのヤンが煙草を咥えた口元を笑みの形に崩して応じる。「それも、皆が喜ぶセリフですよ」と。
「気持ちは判りますよ。私も離れ難い気持ちです」
珍しく同行してきたリスキーがそう言って、ヤンはカナデに対する表向きの方便だろうと受け止めたが、リスキー自身も遺
憾な事に、今ではこれが本音だったりする。
仲睦まじく寄り添うふたりの背中をしばらく眺めていたカナデは、おもむろに動いた。
スッと腰を沈めて片膝をつき、脇を締めた腕を支えにして、添えた手でシャッターボタンに触れる。
止める暇も無い流れるような動作。腰の高さで一枚撮ってしまうカナデ。
カムタは良いがルディオの写真が記事にでもなったらまずい事になるかもしれないと少し焦ったヤンと、カメラかメモリー
を偶然の不幸な事故を装って破壊する事を本気で吟味するリスキーは…。
「…随分と、コンパクトなカメラですね?」
「いつものカメラじゃないんですか?」
仕事用のゴツい一眼レフは首から吊るされたままだった。カナデが撮影に使ったのはベストの胸ポケットから出した防水の
コンパクトデジタルカメラである。
「うん。私用の写真はこっちで撮ってるんだよ」
カナデが応じると、そう言えば時々違うカメラを持っていたなぁと、ヤンは記憶を手繰る。
「僕の甥っ子兄弟はイマイチ仲が良くなくてネ。正確にはお兄ちゃんの方が弟を一方的に嫌ってるんだけど…、カムタ君とル
ディオさんの写真で「世界には種が違ってもこんなに仲がいい兄弟が居るんだよ」って伝えてやろうと思ったんだよ。思い出
の記録の一枚としてネ」
(ああ、そういう事なら…)
(別に問題にはならないか)
リスキーとヤンは目配せして頷き合う。展覧会などに出されたら困るが、親戚に見せるだけなら問題ないだろう、と。
勿論、ルディオとカムタの関係が親類ではないと知り、ワケアリらしいとも察しているカナデにも、彼らの写真を広く公開
する気は無い。あくまでも私用として、思い出の一枚に留めておくつもりである。
「…そうだ!思い出の写真だったら、カナデさんも一緒に写ったらいい!」
肥満医師が提案すると、「ああ、それはステキですね」とリスキーも同意した。
「え?でも僕は写真写りがあんまり良くないんだよ…」
遠慮しておきたそうな雰囲気で耳を倒し、困り顔になった狸だったが…。
「たまには被写体になるのも良いでしょう?それに、一緒に映った写真が手元に残ればカムタ君も喜びます」
ヤンの説得で「う~ん…、それなら一枚…」と承諾する。
そうしてデジカメを預かったヤンが声を張り、振り向いたカムタとルディオに、歩いて行ったカナデが並ぶ。
虎医師は片膝をついて先ほどのカナデの姿勢を真似ると、脇を締めてカメラを構え…。
「…」
「…」
「…いつ撮ればいいんだろう?」
顔を向けてきたヤンの質問でコケそうになるリスキー。
「な、何ですかそれは?」
「いや、考えてみたら記念写真を撮るなんてこれが初めてで…。うろ覚えなんだ」
「声を掛けて、撮る合図をしてあげて下さい」
「ああ、そうだったな!」
気を取り直したヤンは尻尾を姿勢よくピンと立てつつカメラを構え直し…。
「…何て声をかければ?」
耳を倒して再び顔を向けてきたヤンの質問で膝がカクンと折れ、リンボーダンスの姿勢から何とか持ち直すリスキー。
「セイチーズ、ですよ!」
「ああ!そうだ!」
生真面目に構え直すヤン。雲行きが怪しいぞと不安を感じるリスキー。
「Say cheese!」
『チーズ!』
虎の声で口端を上げるルディオ以外の二名。
「これでどうですかね?」
戻って来た肥満狸に肥満虎がカメラを返す。「どうもだよ!」と早速メモリーを呼び出したカナデは、ルディオとカムタと
共にモニターを覗き込み…。
「…あれ?撮れてないよ?」
「え!?」
首を傾げるコダマと驚くヤン。
「もしかして、ちゃんとボタンが押されてなかったんじゃないですか?音がしなかったような気もしますから…」
「たぶんそうだネ。軽く押すとオートフォーカスで、しっかり押し込むと撮影音が鳴るから、もう一回お願いするよ」
「わ、判りました…!」
赤面しつつもう一度カメラを預かるヤン。波打ち際に戻る三名。
「Say cheese!」
『チーズ!』
パシャッと、今度はきちんと撮影を知らせる電子音が鳴った。
「今度はどうだったよ?」
「任せて下さい。音も鳴ったし今度こそバッチリ…」
再び戻って来たカナデ達が、ヤンが差し出したデジカメで画像を確認してみると…、今度は凄まじくブレていた。
狙っても難しい奇跡のミスショット。カムタは左右に高速で動いているような具合で2.5人分に分身、太めで色黒な忍者
少年が参上。背格好が比較的近いカナデとルディオに至っては分身の内の一体が奇跡のフュージョンを果たし、毛色や紋様や
隈取が絶妙に混じり合って新種の謎生物…タヌキバーナードが誕生している。
「す、済みません!もう一回…!」
鼻まで真っ赤にして謝り、撮り直すヤンだったが…。
「Say cheese!」
『チーズ!』
三度目は、カメラのストラップが中央にかかった。
「Say cheese!」
『チーズ!』
四度目は、動いたストラップを押さえようとして太い指がかかった。
「仕事から離れたらどれだけポンコツなんですか!?」
堪らず声を大きくするリスキー。
「し、仕方ないだろう!?記念写真なんていう滅多にない撮影のスキルなんて学んだことが無いんだから…!普通の患部の接
写なんかとは勝手が違うんだ!」
記念写真を撮る機会など稀だという口ぶりのヤンだが、患部の接写を普通と表現するのはむしろ少数派である。
「記念写真の撮り方なんて、改まって学ぶ物とかじゃあないでしょうに…」
「な、なら君がやってみろ!意外と難しいんだぞ!?」
怒ったヤンからカメラを押し付けられたリスキーは、軽く顔を顰めつつ三人に波打ち際まで戻って貰い、ファインダーに捉
え、そういえばここしばらく暗殺ターゲットの隠し撮りをしていないな、などと物騒にも唐突に本業の事を思い出しつつ、そ
んな事はおくびにも出さず「スマイルお願いしまーす」と朗らかに声をかけて…、
「あ。せっかくですから…」
ジェスチャーでカナデに指示を出してから、「Say cheese」とシャッターを切る。
「どうだ!?難しいだろう!?」
失敗前提で同意を求めたヤンは、
「…!?」
無言のリスキーからさばさばと、文句のつけようも無い一枚をデジカメのモニターで見せられて絶句し、ピンと立って震え
た尻尾を元気なくクタンと垂らす。
「難しい、ですか」
「………」
意地悪くからかうリスキーに、ヤンはグゥの音も出ない。
「良い一枚だよ!記念になるネ!」
カムタ達と一緒に画像を覗き、からから笑ったカナデは、リスキーが撮った一枚に太鼓判を押した。