Peer
細波が桟橋の脚を穏やかに洗う。
雨季の晴れ間、旅路を祝福するような青空の下、島人達に見送られた連絡船は水平線の向こうに去った。
異邦人の見送りのため船着場に集合していた島民は、船影が消えるまで見守って、三々五々散り始める。後まで残っていた
島人の中には、浅黒い肌の丸い少年と、巨漢のセントバーナード、すらりとしたアジア系の男と、でっぷりした虎の医師、テ
ンターフィールドの若者の姿があった。
「また来るって言ってたしな…」
少し寂しそうな笑顔を見せて眉尻を下げ、テシーが呟いた。
「さて!仕事仕事!目標もできた事だし、頑張んなきゃ!」
気合を入れるように声を大きくした、自分を叱咤するような面持ちのテシーへ、「ほう。目標というと…、バーの営業形態
でも変えるのかい?」と肥満医師が問うと…。
「あっ!いやっ!個人的目標と言うか何と言うかっ!」
慌てた様子でそう答えるなり、テシーは仕込みがあるからと踵を返す。
「あ、リスキーさん、ルディオさん、よかったら今日も試作食べに来てよ。張り切って作ったら量も種類も結構あって消費追
いつかなくてさ…」
「ええ、お邪魔します」
「うん」
アジア系の青年とセントバーナードの巨漢が頷くと、テシーは足早に引き返した。
「何でオラ誘われなかったんだろ?」
「僕もだが…」
カムタとヤンはやや訝しげだが、カナデが居た間はルディオとリスキーがペアで見回りついでに入店し、試作料理の消費を
手伝う事が多かったので、テシーも習慣でピックアップしてしまっただけである。しかし…。
(最近ちょっと余所余所しい感じもするし…、もしかして、何かテシー君を怒らせるような事でもしてしまった…とか…!?)
ちょっとドキドキして機嫌を直して貰う方法を考え始める小心な医師。
「次はいつ会えんのかな…」
最後にもう一度水平線を見遣って、寂しげながらも笑みを浮かべ、カムタは歩き出す。
笑顔でカナデを見送る事ができた。心配させないように師を送り出す事ができた。世界は広い。その事を教えてくれた恩師
と別れた寂しさを噛み締め、同時に再会を楽しみにして。
歩む少年の左に並ぶのはセントバーナード。顔を見合わせて軽く頷きあい、カムタはニカッと笑い、ルディオは穏やかに目
を細める。
「さて、エルダーバスティオンはゴタゴタしていますし、流出物の残りは一件です。旦那さんの身元という謎はまだ残ってい
ますが…」
島民が散開し、傍で聞いている者も見ている者も近くには居なくなったのを見計らって、後に続いたリスキーが述べると、
その隣に並んだヤンも「そうだな」と、たっぷりした顎を引いた。
「ルディオさんが誰なのか…。こっちも何とかしなければ」
「アンチャンが誰かなんて、そんなのとっくに知ってるさ」
ん?とリスキーとヤンが注目すると、カムタは首を巡らせて振り返り、セントバーナードの大きな手を握って、ニカッと輝
くような笑みを浮かべた。
「アンチャンはアンチャン。オラの家族だ!」
きょとんとしたヤンとリスキーを、カムタと手を繋いだまま振り返り、ルディオは「あ~…」と、何かを思い出しているよ
うな顔で声を漏らす。
「そういえば、まだ言ってなかったなぁ。おれ、記憶が戻っても戻らなくても、カムタと一緒に居る事にしたんだぁ」
『へっ!?』
足を止めた兄弟の口から揃って大きな声が漏れた。
「記憶が戻らなかったら島で暮らして、記憶が戻っても帰らなくていいならやっぱり島で暮らして、家が判ってどうしても帰
らなきゃいけない事になったら、そこにカムタも一緒に行く」
「ふたりで話し合って、そう決めたんだ!」
ルディオとカムタからそう説明されて、ヤンとリスキーはぽかんと口を開けた顔を見合わせ、それから同時に背中を丸め、
吹き出すのを堪えた。
願ったり叶ったり。ふたりともルディオがずっとカムタの傍に居てくれる事を望んではいても、ルディオ本人の境遇を考え
れば頼む事はできなかった。それが、本人の方からその意思を示してくれたのである。
「それじゃあ…、ルディオさんは少し準備をしなくちゃいけないな」
ヤンは嬉しそうに顔を綻ばせながら言う。
「もしも、記憶が戻った時に入れ替わりで、記憶が無かった間の事を忘れてしまったとしても、今の気持ちとふたりで決めた
事をちゃんと思い出せるように、音声や写真などで残しておこう」
「そうですね。…先生の撮影練習も兼ねて、写真は是非」
リスキーも同意しつつチクチク刺す。ヤンの何か言いたげな視線は涼しい顔で無視。
そうして四人は日常へと戻ってゆく。異邦人が去り、しかし単純に彼が来る前に戻る訳でもない、環境が少し変わった日常
へと…。
ストレンジャーはいたるところに小さな変化をもたらし続けている。
当人はそれを、本人や当事者が起こすべくして起こした変化だと言うが、きっかけという名の種を撒き続けている事に違い
はない。
時に知識を与え、時にそっと背を押した彼が去った後、やがて咲いた花は、微かな靴跡の傍で揺れるのだろう。
それから数日。
砂浜と湾を望む立地でホテルが立ち並ぶ、暖かい島のリゾートエリア。
日本人の顔も混じる観光客達と行き違うのは、大きな荷物を背負った大きな狸。
マーシャルを発ったカナデが到着したのはグアム。ただしここでは取材等の予定はなく、補給を兼ねた移動の経由地である。
二日ほど滞在し休憩を兼ねて物資等の補給をしたらパラオで、次いでフィリピンで、最後に台湾でそれぞれ仕事をしてから母
国へ帰る予定である。
予約しているホテルへ向かうその道中、歩道をゆくカナデは、自分を追い越したタクシーがウインカーを上げて減速すると、
眉を上げて立ち止まった。
「よぅ。久しぶりだなァ?グフフフフ…!」
歩道に寄って停まったタクシーの後部ドアが開き、中から話しかけたのは巨漢の鯱。鋭い牙を見せ、いかにも腹に一物あり
そうな笑みを浮かべている
身長2メートルにも達する、ボディビルダーを極端にディフォルメしたような筋肉達磨の如き鯱は、ニヤニヤしながらタク
シーの後部座席で財布を漁り…、
「あ。悪ィな、細けェのがあんまりねェ。コイツで頼むぜェ」
意外とマメな面を見せ、タクシーの釣銭を極力減らさないように会計する。
「相変わらずの腐れ縁だよジョン・ドウ。元気だったかナ?」
歩道に降り立った剣呑にも物騒にも見える鯱に、狸は屈託無く笑いかけた。軍事的に重要な拠点が存在するこの島に、軍事
関係者と名乗るシャチが居るのは不思議な事ではない。もしかしたらまた顔を合わせるかもしれないと思っていたほどなので、
驚きはあまり無かった。
「まァ、ちょいと忙しかったがなァ。グフフ」
応じるシャチは、しかし勿論偶然カナデと会った訳ではない。追う対象がはっきりしているなら、空路移動はシャチの情報
網に最も引っかかり易い移動の足。身元も偽っていないカナデの移動経路は、マジュロからの国際線チケットが予約された二
週間以上前の段階でしっかり掴んでいた。
とはいえ、マーシャル国内でのカナデの足取りについてはよく判っていない。本人が言ったとおり「忙しかった」のである。
「今は仕事中じゃないんだナ?」
派手なハイビスカス柄の極彩色アロハを羽織っている格好からそう判断したカナデに、「移動中の小休止って所だァ。グフ
フフフ…!」と応じるシャチ。剣呑に零れる謎の含み笑いだが、だいたいの場合は特に意味が無い。この巨漢が見せる不穏な
態度や笑いは普通にしている時でも出てくる一種の癖である。
「で、オメェはどうなんだァ?すぐ移動かァ?」
「うん。二日だけ滞在して補給諸々…、まぁこっちも小休止って所だナ」
「ホテルは何処に取ったんだァ?」
「すぐそこだよ」
カナデが顎をしゃくった先には、砂浜を一望できる大きな白い建物。この近辺では鉄板チョイスの最大手ホテル。
「奇遇だなァ。俺様もあそこだぜェ、グフフフ!」
「おや。これまた腐れ縁だナ」
「偶然ついでに今夜辺り、一杯付き合う余裕はあるかァ?」
「一杯どころか朝まで付き合えるよ」
歩道の端で会話する巨漢二頭は目を引くが、周囲は皆観光客。立ち止まってまで注意を向ける者はなかった。が…。
「なら善は急げだなァ、グフフフ!さっさとチェックイン済ませなァ。スタートは早い方がたっぷり楽しめるだろォ?」
今度の含み笑いは無意味な癖の物ではなかった。親しげに、そして強引に肩を組んで舌なめずりするシャチに、「まったく、
コッチの方も相変わらずだよ」と苦笑いして、カナデは急かされながらホテルへ歩き出した。
(会話の内容には、特におかしなところは無い…)
旅行者を装った男は、知り合いと出会ったらしい狸がホテルへ入るのを見届けると、少し間を空けてからエントランスへ踏
み込んだ。
肥った大狸は目立つ。フロントで手続きしている背中はすぐに見つかった。
エントランスに踏み入って、不自然さを見せないように歩いて、何もおかしな所を見せずに狸の後姿を覗った、僅か五秒間。
…その五秒で異常を察し、すぐさま最大限の警戒をすべきだったと述べるのは酷な事ではあるだろうが、結論としては、既
に手遅れだった。
(…?一緒に居…)
一緒に居たはずの鯱の巨漢の姿がない。それに気付いたと同時に、男の口元を分厚い手が覆い、体ごと後方へ攫った。
白昼堂々、大手リゾートホテルのエントランスで、従業員も、客も、誰一人として、男がふたり消えた事に気付いていない。
四箇所に設けられた防犯カメラすらも、天井に埋め込まれているスプリンクラーの「原因不明の漏水」により七秒前に故障し
ていた。
「エルダーバスティオンかァ?」
ガッシリと顔の下半分を掴んで覆い隠す、鯱の大きな手の下で、男のくぐもった声が漏れる。
スタッフオンリーのプレートが掲げられた、従業員が裏手から表舞台へ移動する際に使われる小さな部屋に引き摺り込まれ
た男は、壁に押し付けられていた。
どこかのんびりとした口調とは裏腹に、鯱の力強い手はおよそ人の物ではない怪力を以って男の顎を固定し、ミシミシと骨
に悲鳴を上げさせている。強烈な握力で締め上げてくるシャチの手首を、男は両手で掴んでいるが、引き剥がそうにもビクと
もしない。
「あァ、返事は要らねェ。だいたい判るからなァ」
質問に対して声の返事は不要。組織名を口にした際に男の目に見られた、驚愕の色の中に浮かんだ質が違う動揺で確認して
いる。
男はエルダーバスティオンの調査員。それも、監視と工作、戦闘までこなす上位のスイーパー。マジュロからの直通便があ
る各国の玄関口に配された、出国する中に怪しい者が居た場合に連絡を受けて動く事になっている対処要員のひとりである。
「運がねェなァ勤め人」
シャチは恫喝するでもなく、同情するような声音で呟く。
カナデが監視されるだけならば構わない。変に怪しまれるような行動を本当に危なくなるまで続ける男ではないし、そもそ
も多少の危険は自力で切り抜ける。
だが、自分と一緒に居るところを監視した…、その点は見過ごせない。エルダーバスティオン内に独自のパイプを持つシャ
チだが、それはあくまでも「客」として認識された上でのもの。本当の素性を知られるのはおおいに困る。
それは、突然の事だった。
首から頭の中に、メリパキッ…と、硬い何かが折り千切られるような音が這い上がってきながら横向きになった視界に、男
は戸惑った。
何が起きたか判らないまま暗くなってゆく視界には、鯱の無表情な顔があった。
空虚で硬質な、鉱物のような冷たい無表情だった。敵意も、悪意も、憎悪も、嫌悪も、憐みもない。それどころか何の感慨
も抱いていない。ひとが、足元の邪魔な石ころを蹴り除ける時、いちいち何も感じたりはしないように。
結局男は、自分が首をへし折られて死んだ事に気付けなかった。こんなにも唐突に、こんなにも簡単に、こんなにもあっけ
なく自分が死ぬなど、想像もしていなかった。
シャチは相手が事切れているのをしっかり確認すると、スタッフルームの小さな洗面台に寄り、蛇口を捻る。
途端に、供給水圧上はあり得ない勢いで蛇口から這い出た大量の水は、始末された男の遺体を包み込んで筒状に形を整えて
ゆき、遺体を直立させる形で内部に閉じ込めると、内側にいくつものきらめきを生じさせた。高さ幅ともに2センチほどの無
数のそれは、よく見れば鯱の背びれに似た形状をしている。
筒状の水の中で、背びれに似せられた氷の刃物はゆっくりと泳ぐように旋回を始め、一瞬後には高速周回に変じ、筒型の水
の中は真紅に染まった。
チェックインの手続きを終えたカナデが振り向くと、シャチはエントランスホールの鏡張りにされた柱を背に、手持ち無沙
汰で暇を持て余していたような顔で立っていた。
(…視線が消えたよ?)
違和感を覚えるカナデ。腕利きではあるが流石にリスキーには及ばない…、そんなレベルにある監視者の気配には気付いて
いたのだが、ホテルに入ったすぐ後で視線を感じなくなった。
(たまたま誰かの注意を引いただけだったのかもしれないナ)
危険は感じない。そう判断したカナデは警戒を緩め、待たせていたシャチに歩み寄る。
「部屋は何階だァ?グフフフ…!」
「五階だよ」
「結構離れてやがるなァ。俺様は二階だ、眺めはそっちの方が良いだろうなァ。それに…」
鋭い牙が無数に並んだ口を薄く開け、ベロリと舌なめずりしたシャチが囁く。
「未使用で清潔だなァ、グフフフ…!」
下卑た笑みを浮かべるシャチに、「まずは荷物を片付けたいよ」と耳を寝せて微苦笑を返すカナデ。
「一息ぐらいは入れたいネ」
「判ってる判ってるグフフフフ…!」
喋る傍ら、エレベーターのボタンを押したシャチは、その手を下ろす動作でアロハシャツのポケットに外から触れ、通信機
をオフにした。
黄昏の構成員は、基本的に任務中の特殊な状況などでもない限りは通信装置を入れた状態での行動を義務付けられている。
だが、最高幹部直属の駒であるシャチには高級将校以上の特権が認められており、一部の規則を無視する事もできる。部屋に
戻って休息する体を装って、プライベートな時間を伸び伸び過ごす心積もりだった。
「俺様も少ォ~し疲れてるからなァ。グフフフフフフ…」
軽口のようで、実はそうでもない。実際シャチはここしばらく忙しかったため、多少ではあるが本当に疲労がある。
カナデがマーシャルに向かうと知った後で、シャチはまず同僚達へそれとなく干渉を始めた。カナデが居る状況で動かれる
と、個人的に面白くない事になりかねないという判断からである。
かねてから現地でONCが動いている様子に興味を引かれていた同僚達へ、それぞれ個別に任務が回るよう、監視者たる自
分の立場を最大限に活用して、主に推薦する形で任務をあてがった。この手配の為、定期的に実績を上げられるよう確保して
おいたカードを何枚も切る羽目になってしまった訳だが、この程度の支出は仕方がないと諦めた。
さらに、エルダーバスティオンがONCの動きを監視…つまりマーシャル全体の調査に入った事を察知してからは、彼の組
織内に持つ複数のパイプを利用し、幹部同士の牽制と足の引っ張り合いによる現場の混乱を招いた。リスキーが首を傾げてい
たここ数ヶ月のエルダーバスティオンの動きの悪さはこれが原因である。
本来の任務を遂行しつつそこまでの労力を払ったシャチだが、しかしそれでも完璧とは言えなかった。マーシャルから出た
後のエルダーバスティオンの監視については、隊が独立している体制だったので干渉のしようが無かったのである。幸いにも
カナデの移動先がシャチ本来の任務地からチャーター便で数時間の距離だったので、こうして部下や上にも小休止を装い直々
に仕上げに赴いている。
もっとも、多忙だったのも今日までで終わり。カナデの出国が確認できた以上、もはやマーシャルに絡んだそれぞれの行動
や思惑をかき回す干渉は必要ない。あとはそれぞれの動向に任せ、同僚達の動きを見定めようというところ。
客室前に着いてロックを解除したカナデは、シャチを中に入れてテーブルサイドに荷物を下ろし、早速部屋の冷房を入れる。
少し喉が渇いたので、まずは冷たいものを飲もうと冷蔵庫に向かいかけると…。
「…結構汗ばんでるよ?」
狸が耳を倒して笑う。壁にかけられた鏡に映るカナデの顔の横には、後ろから抱きすくめたシャチの顔。ゴツい左手はカナ
デのベストの前から入り、シャツ越しにたわわな乳房を掴んでいる。
「グフフフフ…!それがまた良ィんじゃねェかァ…!」
左の首筋にベロリと舌を這わせたシャチは、「結局一息つく暇もないよ」と零したカナデへ鏡越しにニタリと笑いかけると、
ポケットに手を突っ込み、黒い合皮巻きのスキットルを取り出す。
蓋を開けて直にスコッチウィスキーを含むと、半分を飲み込んだシャチは、もう半分を含んだまま、カナデの右頬に手を添
えて自分の方を向かせ、唇を奪う。
口移しで含まされたシャチの唾液と、火がつくようなキツい酒を、喉を上下させてコクンと飲み込んだカナデは…。
「…ジョニーウォーカーだネ…」
口の間にかかった唾液の釣り橋が、狸の唇の動きで落ちた。
「そういえば君も何度か飲んでたよ。好きなのかナ?」
「グフフ…。まァ、同僚の影響ってヤツだなァ」
再び鯱が顔を寄せ、かぶりつくような深い口付けに狸が応じて…。
ベッドが軋む。重みを受けてギシリギシリと、喘ぎに音色を重ねて。
小さいとは言えないサイズだが、鯱と狸の巨体が上にあると妙に縮んで見えた。
肘と膝で支えられた肥えた体が、前後に揺られてたわわに弾む。
枕を抱き締めて顎を埋めるカナデはキツく目を瞑り、「んっ…!んっ…!」と揺れに合わせて搾り出されるように、鼻にか
かった声を漏らす。
「グフフフフ…!随分と溜まってたんじゃねェかァ?えェ!?」
太い尻尾を掴んで背中側に押し付け、大きな尻に腰を打ちつけるシャチがニタニタと、笑みと唾液を口の端から零した。
「そ、そっちこそ…、んあっ!た、溜まり過ぎだし、出し過ぎ…、だよ…!」
鼻面を埋めていた枕から少し顔を浮かせ、カナデが反論する。
休憩も挟まず、繋がったままの三戦目。太陽は水平線に近付き、室内には濃厚な雄の体臭が充満していた。カナデの被毛は
すっかり汗を吸って濃く変色し、シャチの体表は濡れて光沢を帯び、尾先のフィンからベッドの外へ水滴となった汗が滴る。
「もうお腹タポンタポンだよ…!」
陰茎を抜かれないまま突かれ続けているので、続けられた射精で注ぎ込まれた精液が溜まり、腸液と混じり合って腹の中で
揺れている。肉棒で栓をされた格好になり種汁が腸内に溜まっているのだが、注ぎ込まれて掻き回されて擦り回されて感覚が
おかしくなって、下腹部を中心に全体が膨れているような錯覚があった。
「はなっからタポンタポンの腹じゃねェかァ、グフフフフ!」
脇から腕を回したシャチは、円を描くように被毛まで柔らかい腹を撫でると、次いで上下に揺すって弾ませた。
「そういう意味じゃないよ…!」
「じゃあどういう意味だァ?グフフ…!」
言いながら一度手を引いたシャチは、口元に持っていった指をねぶるように舐めて湿らせる。
「それ、判ってて言…んうっ!」
臍に指を入れられ、抗議を中断して息を詰まらせるカナデ。
「あ、そ、ソコは…、はひ…!んあぅ…!」
唾液でぬめりを帯びたシャチの指がグリグリと臍をほじくり、狸は湿った息を荒らげて懇願する。
「そ、そんなに圧しちゃダメだよ…!お、お尻から漏れちゃう…!」
「グフフフフフフ!たっぷり種付けされて孕まされた気分だろォ?まんざらでもねェんじゃァねェのかァ?」
シャチの腰が打ちつけられる度に狸のたわわな体があちこちで弾み、激しく揺れる。力んで尾を上げているシャチの逞しい
両脚の下から覗けば、膝を立てて尻を上げたカナデの股。肉付き良く張り出した太腿の向こうに自重で下がった腹の曲線が弾
み、太い脚の間で玉袋が激しく揺れ、ぶら下がった仮性包茎の男根がタラタラと透明な滴を垂らす。
「ひゅんっ…!」
一際深く突かれた狸が切なげな声を漏らし、気を良くしたシャチがさらに激しく中をかき回す。ジュップジュップと淫靡に
湿り音を立て、繰り返し突く度に、陰茎が締められ快感が芯まで響く。
「腹ん中グチャグチャに掻き回される気分はどうだァ?グフフフ…!」
スリットを押し割って露出した凶器のように太いシャチの肉棒が、押し広げられたカナデの直腸内をミッチリと埋め、前立
腺を擦り上げ、圧迫する。慣れては来たがその太さ故にまだ少し苦しく、しかし強い快感もある。そんなカナデの鼻にかかっ
た喘ぎはいつまで聞いていても飽きる事はなく、感度の良さでテンションが上がりっぱなしのシャチはニタリと笑みを深めた。
「グフフフフ!まだまだ締まりは充分だなァ!どうだァ?久々の俺様のチンポは堪んねェだろォ!?グフフッ!」
空いている手を脇から下へ回した鯱が、重力に引かれて下がった狸の右乳房を強く掴み、指を食い込ませると、堪らず目と
口を開けたカナデが「あっ!」と高い声を上げた。シャチの手がふくよかな胸を乱暴に揉みしだき、乳首を摘んで弄ぶと、カ
ナデの声はますます高くなる。
身を重ねるのは初めてではない。これまでに身を重ねた回数など数えてもいないが、シャチはカナデの反応と感度にいつま
で経っても飽きる事がない。初々しい生娘のような反応も、恥じらって顔を隠すのも、声を抑えようと頑張るところも、何年
経っても、三十路の半ばを越えた今でも、全く変わらぬままなので、いつでも新鮮な気持ちで抱いている。それに加えて、精
力が尽きない自分に何だかんだで最後まで付き合えるタフさもまた気に入っていた。
とはいえ、ふたりは恋人と呼ばれるような関係には無い。そういった意識はお互いに無いし、そもそもいつも一緒に居るわ
けでもない。誰より大事な相手という意識は全く無く、しかしちょっとした顔見知りよりは親しいという友人の延長のような
関係ではあるが、しかし普通の友人がしないような事までしており、ふたりの間にあるのは奇妙な友情プラスアルファという
曖昧な感覚。
「出るぜェ…!出すぜェそろそろォッ…!そらァ!オメェも種汁絞り出せェッ!」
グッとシャチの尻が力み、えくぼを浮かべる。
「あっ!?ああああぁっ…!」
シーツに爪を立てて強く握ったカナデの中へ、白濁した体液が大量に注ぎ込まれた。
繰り返し注ぎ込まれる精液に腹の中を満たされ、孕まされて腹が膨れるような錯覚を味わって、自らもダラダラと白濁した
精をシーツへ落とし、カナデも果てた。
乱れた息で肩を上下させ、潰れるように身を横たえた狸に覆い被さって、シャチはその丸い耳を甘噛みする。
「良かったぜェ…!グフフフ!」
「ふぅ…、ふぅ…、も、もうお腹いっぱいだよ…!ちっとも休ませてくれないんだからナ…。意地悪さまで相変わらずだよ…」
言葉では非難しながらも、求めるように首を捻ったカナデの唇に、シャチは応じて軽くキスをした。
「オメェは相変わらず可愛いなァ、カナデ…。グフフフ…!」
こんな時だけ名前で呼ぶシャチから顔を叛けるカナデだったが、恥らう一方で太い尻尾は正直にモソモソ揺れていた。
カナデから見れば、シャチは「少し自分と似た歩き方をする男」。素性には立ち入らない方が良いと忠告もされているし、
それを素直に受け入れて詮索する気も皆無だが、世界中の様々な危険と死が入り混じる場所でよく出会うこの男に、親近感を
感じているのは確かだった。
シャチから見れば、カナデは「自分と質が違う世界の敵」。行く先々で歴史の分岐に立ち合い、人々に意図せず変化と成長
を促し、しかし何者も排除しようとせず何物も奪わないその生き方は、手段こそ異なるが「今の世界を上書きして行く」とい
う意味でシャチ達が続けている事にも通じる部分がある。
世界は残酷だが、それでも捨てたものではない。…それがカナデの考え。
世界は歪だから、存続の価値があるか疑わしい。…それがシャチの考え。
世界の冷たさと酷薄さをまざまざと見せつけられてもなお、祈りにも似た期待を捨てないカナデの「頑固な甘さ」に対し、
シャチは一定の評価を下している。ただしそれでも彼の理念や価値観はカナデとは大きく異なっており、この狸のように優し
い期待を人類に抱く事は無い。
だからこそ黄昏の海で独り、昼の終わりを待っている。
敵対はしていないが正反対。確かに交流がありながら、しかし両者には大きな間隙がある。そしてもしもその間隙が埋まっ
たとしたら、どちらかが、あるいは両方が、この世界から消える事になる。
今のところはカナデの支援者も、シャチが属する組織も、ふたりのこの小さな秘密を把握できていないが、もしも露見した
なら、黄昏はカナデ・コダマという存在を抹消にかかり、疑惑がかけられたシャチもただでは済まない。同時に、カナデの身
に個人で対処できない危機が及んでいる事が知れれば、彼の最大手パトロンが裏の顔をあらわにしてカナデの奪取にかかる。
そうなれば、ふたりが会う事は二度とないだろう。
仲間とは言えない。親友とも呼べない。しかし対等の付き合いで、お互いを評価もしているし、親しみもある。
健全でもなく一般的でもなく表現もし辛いその間柄を、ふたりは「腐れ縁の関係」と呼んでいる。
葉巻を咥え、薄い煙の輪をプカプカと吐き出し、「充実してたなら何よりだァ。グフフ…」と、シャチは何も知らない顔を
して他人事のように零す。
窓の外には黄昏の海。弱りゆく残照は刻々と色を変えてゆく。夕風が波を立てているが、ガラスの内側ではそれも感じられ
ない。
「仕事しながらだけどナ、伸び伸びできたよ」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら、カナデは太い尾をゆったり振る。シャワーを浴びた後なので腰にタオル
を巻いただけの格好。一方シャチは逞しい筋肉の隆起が見られる体躯に一糸纏わぬ全裸。
「あの国は本当にいい所だよ。機会があったらバカンスに行ってみたらいいよ」
「休暇が取れたらそうするかァ。グフフフフ」
カナデから掻い摘んでマーシャルの話を聞いたシャチは、しかし狸が意図して話題から外したので、滞在中家に住まわせて
貰ったという「兄弟」の子細までは知りようもなく、そこが医療品関係の流れから不審さを感じた島である事にも勘付いてい
ない。
「どっこいしょっと…」
カナデがベッドをへこませて隣に座ると、シャチはシガーケースから新しい葉巻を出した。カナデは日常的な喫煙はしない
のだが、誰かに付き合う時や勧められた時は口にする。特に、こういった事の後などは。
葉巻の吸い口を乱暴に噛み千切ったシャチはジッポライターで先端を炙って火を吸い付ける。厳密な作法で繊細な味を楽し
むよりも、気軽に気楽に吸うのが性に合っているとの事で、どんな高級葉巻でも扱いは少々雑。だが、そこがこの男らしくも
感じられて、カナデはこの粗野な吸い付け方を気に入っている。
シャチが葉巻に火をつけるのを眺めていたカナデは、ベッドの上へ無造作に放り出されているスマートフォンが視界に入り、
僅かに首を傾げた。
「…ん?また端末変わったんだナ?」
シャチは何食わぬ顔で吸い付けた葉巻をカナデに渡しながら、「業務用ってヤツだァ。俺様の番号は前と変わってねェ。グ
フフフ」と述べ、カナデもそれ以上気に留めなかった。
だがそれは、シャチが先ほど始末したエルダーバスティオンの構成員から取り上げた品である。一見すれば広く出回ってい
る人気のスマートフォンなのだが、組織専用の秘匿回線を使用する機能や、データの高度な暗号化、秘匿物を簡易判定する機
能などが盛り込まれたエルダーバスティオンの最新鋭機器。登録された使用者を生体認証し、異常な起動が確認されれば自ら
システムをクラッシュさせるセキュリティもついている。
シャチはカナデがシャワーを浴びている間に、堂々とこれを操作して構成員になりすまし、「対象監視続行中」の報告を行
なっていた。この後一日「異常なし」と調査結果の通信を送り続け、その後しばし適当な報告を上げた後でこの端末を破棄す
れば、カナデに追跡が及ぶ事もなくなる。
何食わぬ顔を装うまでもなく日常的にやっている事。シャチの態度におかしな所はなく、流石にカナデも異常を察知できな
い。ベッドの端に引っ掛けられたシャチのズボンのポケットに、生体認証突破用の工作員の指と眼球が、溶けない氷で保存さ
れている事も含めて。
なお、端末と眼球と指だけ失敬した死体の残りは、その「能力」によりあの場で即座に「容器の要らないミキサー」で液状
に近くなるまで解体し、操作した水流で洗面台の小さな排水溝から流している。解体する際に生じる血液は本人が死体となっ
た事で「占有権」が失われており、シャチの支配が及ぶため、現場には血の一滴も残されていない。
しばし会話が途切れた。二頭がくゆらす紫煙は黄昏の色をその身に帯びて、ベッドの上で揺れたむろう。
「休んだら飯に行こうぜェ。運動したら腹が減っちまった。グフフゥ…」
カナデは短く「うん」と応じる。
「そっちは腹はあんまり減ってねェかァ?たっぷり詰め込んでやったからなァ。グフフフフ!」
カナデは短く「減ったよ」と応じる。
カナデのからかいへのリアクションが薄い。シャチは一度口を閉ざし、口内に葉巻の煙を溜め、ゆっくりと逃がした。そう
して数秒の間を空けて…。
「…相当「良い旅」だったみてェだなァ?」
おもむろに口を開いたシャチを、カナデが横目で見遣る。
何故そう思うのか?という問いかけの視線に、シャチは「口数が少ねェからなァ。グフフフフ…」と応じた。嬉しい、楽し
い、「良い旅」を想い返す時、通り過ぎてきた景色を反芻するカナデの口数が減る事を、シャチは知っている。
ただし、カナデがこの様子を見せる事は、実はあまり多くはない。カナデが渡り歩く場所は平和で美しい国ばかりではなく、
むしろ世界は凄惨で残酷で、楽しい思い出ばかりではないという事もまた、シャチは知っている。
「マーシャルの写真集とか考えてみようかナ…」
「グフフ…!そりゃいいなァ。写真集は一年半ぶりかァ?」
「意外とよく覚えてるもんだナ?」
「これでも一応オメェのファンだからなァ。グフフ…!」
写真と言えば…、とカナデは思い出す。
(アレは、そろそろ島に届く頃だよ?)
カナデが去り、あっという間に数日が経った。
島の組合は順調に運営が続いており、学ぶ楽しさを知った子供らは、学校の授業はつまらないと言って教師を困らせながら
も、以前より真面目に勉強に励むようになっている。
カムタの家の、頭数が減った庭の食卓には、昼食を摂る少年とセントバーナードの姿。
カナデに教わったクラゲの酢の物や貝の酒蒸しなど、明らかに酒の肴用の物を加えた食事を摂りながら、今頃は何処まで行っ
たのかなぁ、などとふたりが話していると…。
「カムタ君!ルディオさん!カナデさんから写真が届いたぞ!」
ライダーの体重で苦しそうなエンジン音を上げるヴェスパに跨り、ハーフメットを被った医師が庭に突入。愛車を停めて食
卓にどてどてと駆け寄り、封筒から手紙と写真を取り出した。
届いたのは、カナデが出国直前に投函したお礼の手紙と、道中でプリントした記念写真。リスキーが上手く撮ってくれた一
枚は、美しい海を背にする三人を中心に据えている。
カナデを中心に、右手側にカムタ、左手側にルディオ、それぞれが笑う狸に肩を組まれ、笑顔とぼんやり顔で立っている。
そんな写真をまじまじと見ていたカムタは、頬も耳も紅潮させて輝くような笑顔になった。
「アンチャン!明日写真飾るヤツ買いに行こうな!ソイツに入れて部屋に飾ろう!」
「うん。それがいいなぁ」
顔を輝かせたカムタに、ルディオは尾を振りながら目を細めて頷いていた。
ふたりは知る由もない。
ストレンジャーから送られた、このたった一枚の写真が、やがて自分達の運命を左右する事になるとは…。
「降伏し、貴様らが所持する全てを我らが主に献上しろ」
凛と張りのある声が、空調が利いてなお食欲をそそる香りに満ちた広間に響く。
身長190センチを超える、発達した筋肉が美しいラインを描く逞しい黒豹の美丈夫が冷たい瞳を向けるのは、宮殿の一室
かと見紛うような広く豪奢な会食場の奥。身なりのいい男達が、屈強なボディガードに庇われる形で部屋の行き止まりへと身
を寄せ合っていた。
直立する黒豹から二歩前へ進んだ位置には、良く似た顔のアメリカンショートヘアーが合計十二名。成人したばかりの年頃
に見える無表情な猫達は一列に並び、銃身を切り詰めたマシンピストルを体の脇で上向きに保持している。命令があればすぐ
にも銃口を下ろし、斉射できるように。
そこでは数十分前まで重要な会合が行なわれていた。そして十数分前までは晩餐会が行なわれていた。だが今、せっかく用
意された晩餐の食事は大テーブル共々床へひっくり返され、鳥の丸焼きや割れた瓶、グラスの破片やローストビーフが、食べ
られる物もそうでない物も雑然と散らばり、毛足の長い絨毯には、コックが工夫を凝らしたスープやヴィンテージ物の高級酒
が混じり合って吸い込まれている。
豪州の闇を牛耳る六家の一つ。ONCとも取引があるその組織は、総帥の屋敷を制圧されていた。幹部会合が開かれ、警戒
が最も厳重になったこの日に。
黒豹は、むしろ都合が良いとしてこの日を選んだ。
厳重な警備も屈強な守護者も障害にならず、むしろ力を誇示するには都合が良い当て馬。何より幹部が一同に会した場を押
さえれば手間も省ける。
そもそも今日この組織で開かれていた会合は、同格である六家に名を連ねる二家が、合い次いで襲撃、殲滅された事を受け
ての物。まさにこの黒豹が行なった数々の襲撃について、対策のために話し合いが持たれた現場へ、話題の当人が招待状無し
に参上した格好である。
総帥が住まう屋敷は、気味が悪いほど静かだった。黒豹率いる部隊の侵攻は速やかで、静粛で、会場に入られるまで幹部達
に気配を悟らせなかった。だから、部屋の隅に追い込まれながらも、幹部達は勘違いしてしまった。屋敷の駐屯兵力と比べれ
ば取るに足りない数だ、と…。そもそも既にその兵力を喪失してしまっている事など、夢にも思わずに。
「どんな手で忍び込んだのかは知らないが、たったこれだけの兵力で私と遣り合うつもりかね?」
余裕を見せ、尊大な態度で言い放った初老の男へ、黒豹は不機嫌そうに、そして面倒くさそうに応じる。
「そちらの頭数を数えてみる事だ。たったそれだけで「ラグナロク」のエージェントと渡り合えると思っているのか?」
黒豹が「その言葉」を発した途端に、皆が凍りついた。
「ラグナ…ロク…?」
呻くような声。肌を伝う冷や汗。
知っている。世界最大、最強、最悪の非合法組織。
だが実際にその名を名乗った者を、決して小さくは無いこの組織の当主ですらこれまで知らなかった。
噂されるその強大さに反し、その組織の事は何も知られていない。実際には存在しない、都市伝説のような物なのではない
のかとまことしやかに噂されるほどで、存在に懐疑的な者もあれば、その名や存在自体を知らない者すら居る。
どうやら知っていたようだと、黒豹は瞼を半分下ろす。知ってなお無駄な抵抗はしないだろう、と。しかし…。
「…ハッタリか?いや…」
次期総帥となるはずの、当主の嫡男である壮年が囁いた。
口元がほんの少しだけ歪む。「欲」で。
「黄昏を撃退したとなれば、ハクがつく…!」
この場に居た皆にとって不幸な事に、男は甘かった。
屋敷にはまだ手付かずの兵力が健在だと、勘違いしていた。
乗り込んできた黄昏の戦力が見た目通りの物だと、勘違いしていた。
そして、噂が誇張されているだけで、黄昏という組織も実際にはそこまでではないと、勘違いしていた。
「そこまでではない」どころか、「それどころではない」のに。
男の呟きが他の幹部達へ伝染し、護衛達は主達が命じるままに交戦の体勢に移る。
ピクリと、黒豹の眉が動いた。
「降伏しろと言ったのだが、理解できなかったのか?」
その言葉に応じるのは、一斉に向けられた銃口。
途端に、黒豹の表情が一変した。
唇が捲れ上がり、並んだ鋭い牙が剥き出しになり、鼻面に無数の細かい皺が寄り、双眸がギシリと釣り上がる。
「貴様如き虫けらが…、黄昏に楯突くか!」
黒豹は激怒していた。
己が属する組織の名を知りながら牙を剥く…。この相手の態度から「舐められた」と感じ、即座に激高した。
その変化は迅速で、急激で、前触れもなかった。精神の均衡の危うさを感じさせるほどに。
黒豹の名はギュミル・スパークルズ。シャチと同じく、黄昏と称される組織における最高幹部直属のエージェント。
だが同僚達を監視しているシャチは、この男を利用し易いと見ながらも、部分的に危惧を抱いている。組織への忠誠が強い
点は評価しているが、その忠誠心の度合いが「異常」なのである。
己が、己の主が、そして組織が、舐められたり過小評価されたと感じると、ギュミルは途端に激昂し、過剰なほどの攻撃性
を見せる。任務自体は達成するが「やり過ぎ」てしまう。
ギュミルの意図を察し、アメリカンショートヘアーの戦闘部隊が左右に割れ、中央をあけた。
そこから、黒い稲妻が迸る。
「…え?」
銃を構えた男の目が下へ向いた。主達からの攻撃命令を待って、万全の姿勢で備えていたにも関わらず、黒豹は彼らの戦列
眼前へ一瞬で滑り込んでいた。
屈んだギュミルの一方の靴底が急制動の摩擦で絨毯を焦がす。そしてもう一方が…、
「がぺっ!?」
男の顎を蹴り上げ、首の長さを二倍にし、顔の長さを半分にした。
即座に身を捻ったギュミルの手刀が、隣の男の首筋に入るや否や、折れるどころか衝撃に耐えかねた首が、ボンと音を立て
て胴体に別れを告げる。
爛々と目を輝かせるギュミルがふたり屠った次の瞬間、アメリカンショートヘアー達が一斉に射撃を開始し、左右端から殲
滅にかかる。
男達はもはや組織だった反撃もできない。懐に入り込んだギュミルの異常な動きと戦闘力を見せ付けられて、男達は最も近
いその男へと銃口を向け、しかし捕捉できず、放つ弾丸が仲間を撃つ始末。
ギュミルは銃弾を避けている訳ではない。銃口の向きで射線を確認し、そこに身を置かないようにしている。
黒豹の長身を覆うのは、ダークグリーンの戦闘服。特殊部隊が用いるような防弾ベストを上に羽織ってはいるが、軽装と言
う他ないいでたち。整列している猫達も同じ格好をしているが、部下達がマシンピストルで武装している中、黒豹だけが銃器
の類を一切帯びていない。
帯びる武器は、見えている限りは腰の二振り。ベルトから左右に吊り下げ、ぶらつかないよう太腿の半ばにもベルトで固定
してある鞘に収まる、黒色の警棒のみ。10センチ程度のグリップを含めて全長30センチ強の警棒は、最大伸張時でも70
センチ強。取り回しに優れた標準的なリーチと重さ、形状をしており、外見上は特段変わったところがない。せめてこれを抜
く事を普通ならば考える所だが、相手が銃器で武装しているにも関わらず、黒豹はこれに手をかけない。
腰に吊るした一対の得物は、この程度の戦力が相手ならば抜く必要すらも無い。
自身がそのまま武器でもある生物兵器ギュミルは、徒手空拳で兵士達を殴殺してゆき…。
数分後。
広間の片側から流れ出た血溜りが、高級な絨毯を汚泥のような感触に変えた広間で、黒豹は足元を見下ろしていた。
アメリカンショートヘアーのひとりが、流れ弾を右眼に受け、仰向けに倒れている。
ギュミルがゴツンとブーツの爪先で側頭部を強く蹴るも、反応は全く無い。瞳孔の開き切った瞳が、蹴り揺られたまま虚ろ
にシャンデリアの輝きを照り返す。
「壊れたか。もう少しマシな性能の兵士を寄越すよう生産部に掛け合っておけ」
「承知いたしました」
傍らの、倒れている猫と全く同じ顔をしているアメリカンショートヘアーがギュミルの指示を記憶する。
そのひとりだけではない。肉塊か蜂の巣になった男達の死体を黙々と積み重ね、片付ける準備をしているアメリカンショー
トヘアー達も、顔形から体型体格に至るまでそっくり同じである。
彼らは全て、同じオリジナルから生まれたクローンである。特定の疾病やアレルギーなどに弱くない、汎用性の高い体質を
持った個体をベースとして生み出されており、感情を持たないよう脳に手が加えてある。
ギュミルは彼ら部下達に対して仲間意識を持っていない。道具同様と見なしている。
彼らを正しく消耗品として扱うギュミルは、しかしその性能に不満があった。特定の弱点を持たない代わりに、ベースの身
体性能がさほどでもなかったため、このタイプのクローンは総じて戦闘能力がさほどでもない。
(「例の実験」が成功していれば、クローン兵士共の使い勝手も向上していただろうに…)
不満げに口元を歪めたギュミルは、片付けを部下に任せて踵を返す。
血臭漂う広間を後に、事切れた構成員や使用人達の死体で埋め尽くされた廊下へ出た黒豹へ、出入口前に控えていた二頭の
獣人が恭しく頭を垂れた。
片や中背のカラカル。湾曲した大ぶりな鞘を右腰に帯び、血塗れになった内反りの大型ナイフ…ククリを片手にぶら下げて
いる。
片やギュミルと変わらない長身のコヨーテ。両腕にゴツい金属製の手甲を嵌めており、収納式の鍵爪から血が滴っている。
双方共にギュミルと同じ戦闘服を着用しており、身を染めている夥しい返り血の量が奪った命の数を物語っていた。
「引き上げる。RF-KKR-21、RF-COG-7、同行しろ」
『はっ!』
二頭がギュミルに敬礼する。彼らは特別仕様の生物兵器でありながら固有の名を与えられておらず、ギュミルも名付ける必
要性を感じないため、そのまま生産管理ナンバーで呼称している。
二頭を後ろに従えて歩き出した黒豹は、廊下を踏むたびに湿った音を立てる靴裏と血臭に顔を顰めた。
(失敗作とはいえ、ガルムシリーズの後期型はまだ使い勝手が良かったな)
この二頭を近衛兵として使うようになる前に、部下として一時期配備されていた犬獣人の事を、ギュミルはふと思い出す。
機能停止するほどの損傷を負ったので廃棄処分としたが、性格はともかく腕は確かだった。今の近衛や兵隊の質を考えると、
使い潰したのが少々惜しくも感じられる。
(とにもかくにも、あと二家で任務完了。内通した家だけを残し、ラグナロクの便利屋として利用するという計画は、我が主
ならではの損得を見越した上策よ…。…さて、当初の予定より大幅に遅れたが…)
今後の見通しに思いを巡らせながら、黒豹は静かに瞳を光らせる。
(マーシャル近海、か…。エルダーバスティオンも動いているそうだが、デリングもビュルギャもまだ行動を起こしていない。
シャチもしばし任務が続くようだ。…大した物は無いと思うが、諸島に一番乗りと洒落込むか)