Sign

「いよいよ痺れを切らしたようで、大規模捜索をおこなう方針が決まったようです」

 アジア系の若者が珍しく苦虫を噛み潰したような顔で述べると、でっぷり肥った虎の医師は「は?」と不安げな面持ちになっ

て聞き返した。

 ヤンの家のリビング、一日の終わりにジムビームの瓶を片手にくつろぐ医師は、協力者から組織の行動方針変更について説

明を受けている。

「秘密裏に…、その、穏便に片付ける方針じゃなかったのか…!?」

 何かの映画で見た、戦闘用ヘリが飛び交い、飛行機からパラシュートで戦闘員が降下して来る光景と、パラタタタッと鳴り

響く機関銃の音を思い浮かべて、ブワッと尻尾を太くするヤン。

「隠密に、秘密裏に、という方向性は変わっていませんよ」

 応じたリスキーは、軽くかぶりを振った。

「さる幹部の提案で、探索のために生物兵器を投入する事になっただけで…」

「生物兵器!?冗談じゃない!」

 思わず声を荒らげるヤン。想像したのはこれまでに遭遇してきたインセクトフォーム達の姿。

「ああ、攻撃的な連中じゃありませんよ。一般人に害が及ぶ事はまず無いと断言できます。ただ、一般人の目に触れてしまう

おそれがあるので、この方針には個人的に賛同していなかったのですが…」

 リスキーはなだめるようにヤンへ説明しながら、「実は私も一匹預けられました」と、ソファーの脇に置いていたスポーツ

バッグを取り上げる。

「預けられた?」

「はい」

「…待て。待て待て待て。この話の流れでバッグが出てくるのはちょっ待っ」

 首をフルフル振っているヤンの態度に見られる、心の準備ができていないという意図を察しながら、リスキーは膝に上げた

スポーツバッグのシッパーを開ける。

「うわいうえ!?僕の家で危険な生物の兵器を持ち込んで放すとかそういう事は遠慮しろくださ…ぎゃあ!」

 ブブブッと羽音を響かせてバッグから飛び出して来た何かに驚き、仰け反ってソファーごと引っくり返り、ドシィンと家全

体を震わせた肥満虎は…。

「ぎゃー!ぎゃー!ぎにゃぁー!」

 バッグから出てきた何かが腹に乗っかり、ひとしきり悲鳴を上げた後…。

「………あれ…?」

 仰向けに引っくり返ったまま、涙目で胸元を見た。

 肥満虎の太鼓腹に乗っているそれは、イエネコほどの大きさで、ずんぐり真ん丸い体躯に短めの手足と小さな翅が生えてい

る。背中がオレンジ色の毛で覆われているその虫は、大きくなったクマバチとでも言うべき見た目の生き物だった。

「フレンドビーという、一応生物兵器です。ひとに従順で、命令でもしなければ誰かを襲ったりはしません。…好奇心旺盛で

人懐っこ過ぎるのが玉に瑕ですが…」

 実際のところ、これを連れてカムタの家の近くを通りかかっても、そして今この時も、「ウールヴヘジン」がすっ飛んで来

る気配が無いという事が安全性の証明になっているとリスキーは語る。

 しきりにきょろきょろしている生物兵器をマジマジと見つめるヤン。巨大な蜂なので怖い事は怖いのだが、愛嬌のある見た

目と仕草のせいで、そこまで恐ろしくは感じない。

「…これを使って、捜索を…?」

「ええ。物量作戦ですね、大量投入するようです。頭が痛いですよ…」

 はぁ、とため息を漏らすリスキー。言う事を聞くし従順、空も飛べるフレンドビー。確かに捜索の役には立ちそうなのだが、

嫌な予感がする。

(エルダーバスティオンの監視を刺激しなければ良いんですが…)

 リスキーの心配は人目に触れ易くなるからというだけではない。この国に入り込んだ別組織の監視者達に気付かれないか、

そして気付かれた時にエルダーバスティオンがどう出るかという点も懸念材料。

 彼の上司であるフェスターはこの作戦を支持していない。それでも止められなかったのは、他の幹部…立場上彼の先輩にあ

たる者の指示によるものだったからである。その幹部は強気なメンバーで、どうにもエルダーバスティオンを軽く見ているフ

シがある。フェスターと敵対してはいないが、その性格上、采配や運用においては意見が合わない。

「フィッシャーズ・デイ…、でしたっけ?大イベントなんでしょう?作戦スケジュールと丸被りじゃないですか…。坊ちゃん

も準備していたようですし、イベント終了までは知らせないでおきたいと思うんですが、どうでしょう?」

 少年に対する気遣いを欠かさない常識人な暗殺者に、

「ああ…、うん…。そうだな、終わってから教えるべきだろう」

 引っくり返ったままのヤンはそう応じてから、「ところで」と、腹の上に乗ったままの蜂を見て眉根を寄せた。

「そろそろコイツを退けてくれ…」

「刺しませんよ?触っても大丈夫です」

 しれっと応じるリスキーだが、流石に素手で掴んだりするのは怖いのでヤンは困り顔だった。



 一方その頃、カムタの家では…。

「アンチャン皿取ってくれー」

「ああ」

 真ん丸い少年はセントバーナードが運んできた大皿に、茹で上がったばかりのパスタを移し始めた。今日は夕刻から風が強

くなったので、夕食会場は流し台がある屋内の台所である。

「カムタ」

「ん~?」

 少年の手元を見ながらルディオは問う。「何か良い事があったのかぁ?」と。

「あ、判るかー!テシーと船の話してきたんだ!」

 カムタは手を動かしながら頬を紅潮させた。

「船、売ってくれるってさ!」

 パスタを皿の上へ山のように盛りつけながら、カムタはニカニカと歯を剥いて笑う。

「ローンって言うみてぇだけど、金はちょっとずつ払ってけばいいし、魚とかで払っても良いんだって」

「あ~…、テシーの船って…」

 思い出すように視線を上の方で彷徨わせるルディオ。

「うん!何回も借りたろ?あの「磯風」号だ!」

 それはおそらく、ルディオがこの島に来て最も多く乗った船。クルージング用の洒落た、しかし機能性も併せ持った良い船

だった。

「アレで海に出られるようになったら、沖にしか居ねぇ魚も釣れるし、網もかけられるようになる!リスキーから貰ったお礼

の金もかなりあるし、でっかい買い物すんならやっぱ船しかねぇと思うんだ!」

 ルディオに反対する理由は無い。だが、おれはどうしようかなぁ、と少し困った。

 島が平和になり、ヴィジランテがその役目を終えたら、ルディオにはする事が無くなってしまう。

 カムタと違って単独で漁をする知識も腕もないが、磯の漁場をチェックして回ったり、食事を用意しておくなど、漁師の夫

を持つ妻のような仕事はできるようにしておかなければいけないかなぁ、などとセントバーナードは考えた。

(カムタが漁から帰るのを、留守番して待つのかぁ…)

 それは何だか暇そうだし、寂しい気もするなぁと、カムタを家で待つ自分の姿をルディオが想像していると…。

「そしたらさ、船で漁に出んだ!ふたりで!」

「…!」

 身を乗り出したカムタの言葉で、トルマリンの瞳が真ん丸になった。

「ふたりで…」

「そうだよ、一緒に出んだ!」

「…ああ…、そうだなぁ…」

 ルディオはゆっくりと顎を引く。何度も何度も繰り返して。

「それは、いいなぁ…!」

 目を細めて笑うルディオの尻尾が、ゆったりフサフサと揺れていた。

「譲って貰えんのは免許取った後になるけど、フィッシャーズ・デイには船出してくれるってさ!大物狙えんぞ!じゃあ食お

うアンチャン!」

「ん」

 絶品のカルボナーラソースを絡ませて、粉チーズを振りかけたパスタと、ホウレン草とベーコンのバター炒め、そして目玉

焼きで夕食。穏やかな夕餉はここしばらく続いている。

 ONCの流出物は残り一体。それが片付けばヴィジランテの役目は終わる。それを見越し、カムタとルディオは今後の生活

について考え始めていた。

 テシーから船を譲って貰うのもその一環。磯の漁に加えて沖で網などをかけられるようになれば収入は増える。カナデが発

案した組合形式の市場運営はすっかり島に定着し、カムタもそこに参加している。これからは物々交換のみならず現金の使い

方にも慣れてゆかなければならない。

 少年ながら優れた漁師であるカムタは、これまでもルディオを養えていたが、今後は違う。これからはふたりで力を合わせ

て生活してゆくようになる。

 ああ何と素晴らしい事だろうか、とルディオは感慨深くなる。パスタをガフガフ掻き込みながらなので傍からはちっとも感

慨深そうに見えないが。

 居候ではなく、カムタと力をあわせて一緒に生活してゆく。一緒に、というのが良い。色々教えて貰わなければいけない。

もしかしたらカムタが風邪を引いたり怪我をしたりして漁が出来ない日があるかもしれない。そんな日には自分が漁に行って、

獲物を持ち帰って、カムタは喜んで…。

 フサフサと、ルディオの尾は揺れ続けていた。



 そして、一大イベントであるフィッシャーズ・デイがやって来た。

 マーシャルで七月に行なわれるフィッシャーズ・デイは、いわば漁師の祭典。島でもこれに合わせて様々な催し物が執り行

われる。

 式典会場となった浜辺には漁師達が集まり、エントリーシートに名前を記入してゆく。カムタとルディオも受付を済ませた

それは「漁大会」。スタートから昼の刻限までに釣った魚の、重さや量などを競う大会である。

 昨年までは単純な大きさや重さ比べだったのだが、今年からは組合がその場で簡易競りを行って値段を競う部門が新登場し

ている。

 会場には各種海産物を磯焼きなどにして提供する店が並んでだいぶ賑やかになっている。もしものための医療班としてヤン

も会場入りしているが、周辺警戒に当たっているリスキーの姿は無い。

(今日は隣島を集中捜索する日…。早く見つけて欲しいのは確かだが、何もこのタイミングでなくとも…)

 ONCの捜索隊がばら撒くはずのフレンドビーが、漁に夢中になっている島民達と接触しなければよいのだが…と、胃が痛

くなるヤン。一応この島は対象外だとリスキーは言っていたが、近くの小島などはどうなのかよく判らない。

「入賞目指して頑張ろうなアンチャン!」

「ん」

 開会式が終わるなり船着場へ駆けて行くカムタとルディオ。目指すのはテシーが待つ、譲って貰う予定のクルーザー。操船

自体はできるがカムタはまだ免許を持っていないため、公の場ではテシーなど免許所持者の同乗が欠かせない。

「カムター!エンジン暖まってるぞ!」

 甲板の上からテンターフィールドの青年が叫ぶ。

「サンキューテシー!すぐ出発すんぞ!」

 デッキを駆け上がり舵を握ったカムタに、

「アイアイ、キャプテン」

 テシーと共に係留ロープを解いて引っ張り込みながら返事をするルディオ。

「…キャプテン?」

 きょとんとする少年と、「だって、カムタは船長だなぁ?」と当たり前のように言うセントバーナード。

「そうだな。ルディオさんの言うとおり、今日はカムタが船長だ!」

 テシーも同意すると、カムタは「えへへ…、船長かぁ…!いいなソレ!」と照れ笑い。

 出航したクルーザーが向かうのは、今日のために当たりをつけておいた回遊ポイント。投網の機材なども無いので大漁部門

の入賞は勝ち目が薄い。大物狙いの一点張りで入賞を目指す。

 磯の香りが遠退き、舳先に切られた潮風が分かれて散る。勝手知ったるクルーザーを、カムタは己の手足のように扱って沖

へ出る。

「ここらが良いかな?アンチャン、準備は?」

「オーケー」

 大型魚籠を引っ張り出し、手すりにタモとモリを立てかけながら甲板から応じたルディオは、X2Uと背に記されたベスト

を脱いで、飛ばされないよう手すりにギュッと結び付けた。

 半裸になったセントバーナードはその巨体に沖風を浴びて尾と被毛を揺らせる。鮮やかなツートーンの毛に覆われた、ガッ

シリした手足に太い胴。張りのある腹も分厚い胸も、肥えているというよりは逞しい固太り。今日のために用意された真新し

い水着を穿き、足にフィンを装着してゴーグルとシュノーケルを首に下げている。

 テシーに頼んで取り寄せて貰った尻尾穴付きのハーフパンツは、カムタの新調したパンツとお揃いで、ネイビーブルーに白

いサイドラインというすっきりしたデザイン。これは本人達も気に入っていた。

「お!似合ってるね。やっぱりお揃いにして良かったろ!」

 テシーが笑い、カムタとルディオは互いの水着姿を見遣る。

「だな!チームって感じすっかも!」

「うん」

「おーし!頑張ろうなアンチャン!」

「うん」

 梯子を船腹に垂らし、船番のテシーを残してふたりはそれぞれ静かに海面へ。ゆるやかな波に揺られ、装着したゴーグル越

しに海中を確認する。

 強靭な釣竿も器具も無いカムタとルディオが大物を狙うなら、素潜りで格闘するしかない。少年の狙いは百キロ単位の大物

である。

(う~ん…。潮の流れちょっと変わったかな?)

 前に来た時とは様子が違うぞと、カムタは眉を潜めた。この辺りは海流が行き違うポイントで、回遊魚が多く通りかかる場

所だったのだが、今日は小さな魚群がちらほらと点在するだけ。

 モリを片手にフィンで潮を蹴り、肥った体でスイスイ泳いで海中を探索するカムタを、海面スレスレの位置を泳いでいるル

ディオは見下ろす格好で眺めている。

 獲物を探しながら数回息継ぎに上がって来た少年の様子で、どうも迷っているようだと感じたルディオは、船とカムタの位

置を確認しながら少し距離を取り、周囲を広く見始める。そして…。

(ん?)

 魚影を見つけた。一匹だけ単独の影を。

 それなりの大きさと見て取ったが、折悪くカムタは潜水中で距離もある。知らせる間に何処かへ行ってしまったら困るので、

ルディオはフィンで水を蹴り、魚影に接近した。

(どうやって捕まえるかなぁ?)

 大きな魚に近付いてゆきながら考えるセントバーナードの双眸が、淡く変色し…。

「…ぷはっ!」

 海面に浮上したカムタは、まずクルーザーの位置を確認してから周囲を見回した。遠くに大会参加者の漁船が見えるが、ル

ディオの姿は無い。

(アンチャンまだ潜ってんのか)

 ルディオはあまり気にしていないようだが、カムタは気付いていた。あのセントバーナードは潜水時間も異様な水準だった。

呼吸を止めて二分三分当たり前に泳ぎ回っている。

 便利だなぁとは思うが、カムタにとってはそれだけである。ひととして異常な無酸素運動時間や潜水能力、ひとの範疇から

逸脱した部分を気味が悪いとは感じず、個性の一種としか考えない。

 やがて、カムタが居る位置から少し離れた海面に、ザプンとセントバーナードが顔を出した。

「カムタ。一匹捕まえた」

「へ?」

「これ」

 海面に浮上してきたルディオが、立ち泳ぎしながら両手で頭上に掲げたのは、体長50センチを超える魚だった。外傷は無

いが、セントバーナードに掲げ持たれたまま暴れる様子もなく、尾鰭や開いた口をピクピク震わせている。

「この魚は食べられるのか?」

「食えるどころじゃねぇぞアンチャン!大物だ!」

 薄い金色を帯びて美しいその魚はコケノコギリという。芳醇な味わいの白身魚で、煮ても焼いても生でも美味く、塩焼から

スープまで広く楽しめる高級魚。なかなか捕まらない上に相場も高めなので、テシーの店でもなかなか提供できない。市場に

持ち込めば高値で引き取って貰える品のひとつである。

 名前を聞いたルディオは、「コケノコギリ…?」と、顔の前に下ろしてしげしげと見つめた。

「コイツの事は知らねぇか?アンチャン」

 泳いで近付きながらカムタが問うと、セントバーナードは「わからない」と首を横に振る。名前を聞くと辞書のように詳細

が出てくる事が多いルディオでも、あまり知名度が高くない高級魚の事は判らなかった。この近辺ではご馳走でも、広く市場

に出回らないので世界的に見ればマイナーである。

「コレ、もしかすっとさ…」

 カムタは大型魚籠にコケノコギリをおさめつつ、顔を綻ばせた。

「単品値段部門とかいうヤツで優勝できるかもしれねぇ!こんなでけぇコケノコギリ、オラ初めて見たぞ!」

 へ~、と実感の無さそうな声を漏らすルディオに、カムタは「けど、モリも使わねぇでどうやって捕まえたんだ?」と、改

めて不思議に思い訊ねてみた。

「うん?ん~…、触ろうとしたら…」

「触ろうとしたら?」

「プカーって、浮いた」

「???」

 この時は、ルディオもカムタもその意味が判らなかった。

 後になって思い返せば、それは「兆し」の一つだったのだが…。



 大物のコケノコギリでテシーのテンションが急激に上がったものの、カムタはこのポイントはいまひとつ不調だと判断した。

 そして手堅く続ける事を諦め、時間内に二回移動し、漁師の勘で大当たりを引き当てて美味で知られる魚を大量確保。「漁

師の才能みたいなのがあるんだろうなお前…」とテシーを唸らせる。

 最初のコケノコギリを筆頭に高級魚中心の大漁。これなら入賞も夢ではないと、ホクホクしながら引き上げて…。



「あっはっはっはっ!ありゃムリだー!」

 単品値段部門五位の賞品である調味料や瓶詰缶詰のセットを抱いて、カムタはカラカラ笑う。優勝は2メートル超のバショ

ウカジキ、トローリングなどの器具もないカムタでは太刀打ちできない会心の大物だった。

「これアンチャンのお手柄だぞ?すげーな、キャビアだって」

 ルディオが捕まえたコケノコギリは会場で五位の値段が付いた。競り落としたのは目の色を変えたテシーである。カムタル

ディオペアは高級食材揃いの成果だったので、トータル金額部門でもそこそこ健闘したのだが、流石に投網漁船を有する漁師

達には敵わず、こちらは入賞を逃している。

「今夜は贅沢しような!…キャビアとか使い方判んねぇけど」

「うん」

 上機嫌のカムタとフサフサ尾を振るルディオが引き上げる。

(こんな大物のコケノコギリ、滅多にお目にかかれない…!塩焼き、ムニエル、それにカルパッチョ!)

 一方、ルディオが獲って来た瞬間から目をつけていたコケノコギリを落札したテシーは、デレッデレに緩んだ夢心地の顔を

していた。その理由は…。



 同時刻。お祭り騒ぎとは無縁に、ONCの捜索部隊の作戦行動を警戒していたリスキーは…。

「だから!言わんこっちゃない!」

 現場の混乱を無線傍受で聞き取り、ホテルの一室で頭を抱えて仰け反った。なお、リスキーに与えられたフレンドビーは、

ブブブッと羽音を立てながら天井付近を飛行し、器用に掴んだ雑巾で照明周りを掃除中。長期滞在契約で借りている部屋は、

リスキーがもっぱらヤンの家で生活している事もあり、ろくに掃除していなかったので所々に埃がたまりかけていた。

(そもそも、いくらフレンドビーが従順で大人しいと言っても、テイマーとしての訓練もしていないメンバーにいきなり貸与

して使いこなせなんて無茶にも程がある!)

 机に突っ伏すリスキー。とりあえず把握できたのは、捜索部隊が放ったフレンドビー達の大半がそのまま帰ってこなくなっ

た、という由々しき事態。ひとに危害を加える生き物ではないが、猫のような大きさの蜂など立派なUMAの一種、住民に見

つかったら大騒ぎになってしまう。

「…お前のお仲間達、何処へ行くか判るか?」

 見上げたリスキーの期待もしていない問いかけに、丁寧に高所の拭き掃除をしているフレンドビーは…、

「…?」

 眉根を寄せるリスキー。不意に高度を下げてきたフレンドビーはベッドの陰に着地し、グターッとダレて見せてから、冷房

の風が当たる位置までノタノタと移動して蹲る。

「………まさか?」

 しばしそんな姿を見せた後、舞い上がって拭き掃除を再開したフレンドビーを見上げて、リスキーは指で眉間を摘んで揉ん

だ。

「…熱でだれている、と…!?」



 日没後、鳥肉の串焼きとカナデから教わった応用で海老と貝の炊き込み飯を併行で作りながら、カムタは「キャビアかぁ」

と呟いた。

「使った事ねぇんだよな。珍しいモンって事は知ってるけどさ。アンチャンはキャビアって好きか?食った事あるか?」

「わからない。でもたぶんない」

 屋外キッチンに皿を並べながらルディオが応じる。キャビアがどういった物かという知識はあるが、実際に食べた記憶も味

の憶えも無い。

「そっかー。テシーに使い方聞いてみた方がいいな。失敗したら勿体ねぇし…。何処行ったんだろテシー」

 首を傾げるカムタ。先ほどキャビアの使い方を聞きに行ったのだが、珍しく店が閉まっていてテシーには会えなかった。

「うん。美味いと嬉しいなぁ」

「だな!あ。あんちゃん串焼きの皿取って」

 焼き上がった串から脂が垂れ、薪代わりの葉や枝からジュウッと煙が上がる。

「…アンチャン?」

 急に反応が無くなったセントバーナードを見遣り、少年はハッとした。

 宵闇に映える琥珀に光る瞳。

 表情が消え失せた巨漢は、じっと東の方を見つめている。

 三秒ほどで瞳の変色が失せて、トルマリンの瞳とぼんやり顔が戻ると、セントバーナードは少年に目を向けた。

「カムタ」

 ルディオは初めての事に戸惑いながらも、少年に告げた。

「島に「何か」来てる。おれの中のヤツが気付いた」

「え!?」

 カムタの目が見開かれた。

「初めてだなぁ。意識が飛んだ後に、こういうのを感じられたの」

 巨漢が言うとおり、これまでは獣が出ている間の事を、ルディオは「連続する意識の中に存在する空白の時間」としか認識

できず、その間の事は記憶も感覚も得られなかった。

 それが今は、表出して数秒で引っ込んだソレの感覚を、残滓のような物として認知できている。完全ではないとはいえ感覚

の引継ぎのような現象が生じたのは今回が初めてだった。

「船着場に、何か来てるみたいだなぁ」

 カムタにそう告げながら、ルディオは考えた。

 自分には判断できないが、獣は数秒で引っ込んだ。それならば目前の脅威ではないという事なのだろうが…。



 同時刻。リスキーから「想定通りにトラブル発生」という一報を受けてげんなりし、自棄酒でも飲もうかと考えていたヤン

は…、

「テシー君?店の方はどうしたんだ?」

 呼び鈴で玄関まで行くと、少し硬い表情で訪問してきた、緊張気味のテンターフィールドの若者を見て眉根を寄せた。

「今夜は…、その、臨時休業で…」

 テシーがグッと持ち上げて突き出したのは、中サイズのクーラーボックス。何だろう?とそれを見遣ったヤンは…。

「コケノコギリ、先生好きだったでしょう?」

 テシーの言葉でハッとした。

 ヤンはこの島に来るまでコケノコギリを知らなかった。初めて味わったのはテシーの店のムニエルだった。いつも獲れる訳

ではないコケノコギリだが、ヤンがこの魚を好きだという事を、テシーは覚えていて…。

「下拵えだけ済ませてありますけど…。その…、先生が食べたい料理にしようかなって…」

 ドギマギしながら周囲を見回し、ゴクリと唾を飲み込んで、ヤンは口を開き…。

「ああ、うん、そう…。とりあえず…、中、入ってくれるかな…?」

 テンターフィールドを迎え入れたドアが閉まる。その向こうへ消えた虎の声は、緊張気味に震え、少し上ずっていた。



 桟橋の脚を月明かりに煌く波が洗う。

 潮騒と潮風の中、船着場には黒い人影が数名分、棒のように微動だにせず立っていた。

「この島はとりあえず対象外と見る」

 口を開いたのは三十路ほどと見られる男性。白い肌にゴールドに近いブラウンヘアーの欧米人である。他に五名居る男達も

二十代から三十代と見られた。

 男達は黒に近い濃藍のタクティカルスーツに防弾ベスト、コンバットブーツを着用しており、暗視ゴーグルなどまで装備し

ている特殊部隊のようないでたちだが、銃火器の類は一切身に帯びておらず、その代わりに各々の両腰には四角いポーチが吊

るされている。ワンタッチで外せるボタン式のベルトで封をされているポーチの中身は、小さな辞書サイズ程の石の版。一見

して武器とは思えないが、ソレは、正体が何なのか理解している人種には最大限に警戒される武器である。

 その内の二つ、リーダー格であるブラウンヘアーの白人の腰に吊るされているポーチと、もうひとりの男のポーチからは、

それぞれ石板が取り出されていた。

 クリームに緑色の絵の具を混ぜたような温かみのある薄緑色の石版を、リーダー格の男はタブレットのように保持している。

一方、チームの中で最も若い面長の青年は上に向けた平手に石版を乗せ、耳を澄ますような面持ちで天を仰いでいた。

「蜂が一匹も居ない。連中が既に捜索を終えたのか、それとも到達していないのかは判らないが、異常な飛翔体は感知できな

い。タイニーは?」

「同意見です。特に虫の飛翔に伴う振動は感知し易い物ですから、ふたりがかりで見落とすとは思えません」

 リーダーの男とその若い男は、同じ機能を持たせた石版の力でこの島全体をスキャンしていた。ウールヴヘジンが反応した

のは、その探知そのものに対してだった。

「では引き上げる。無駄足…とは言うなよ。これで一つ範囲が狭まったのだからな」

 夜の海面に溶け込むような色の小型ボートに乗り込む男達。リスキーがフレンドビーを連れて別の島…滞在しているホテル

へ移っていたのは幸運だったとも言える。

 そして不幸な事でもあった。もしもリスキーがこの現場を見ていたならば、男達が手にしたものを見ていたならば、即座に

フェスターへ報告し、こちらに居るONCの構成員達へ警告を発して貰っていた。

 男達が所持する石版は「グリモア」と称される品の一種。そして男達は「術士」と呼ばれる秘匿技術の伝承者であり行使者。

ONCのインセクトフォームどころではない、比較対象にも出来ない危険な存在。

 リスキーの懸念通り、ONC幹部の浅慮による刺激で、エルダーバスティオンはマーシャルに差し向けてしまった。総勢で

5班30名、一個師団を無傷で蹂躙し得る実行部隊を。

 数分後、桟橋に到着したカムタは沖に消える小船の影を、その優れた視力で捉えた。

 今夜は誰も漁に出ない。フィッシャーズ・デイの夜は海にも魚にも感謝して休むのが慣わし。沖に出てゆくあの船は島の誰

かではない。

「…何だったんだろうな、アンチャン…」

「わからない」

 いつもと同じ返事をして、しかしルディオは「ただ…」と加えた。

「島を襲いに来たり、誰かを狙ったりした訳じゃあないのかもなぁ」

「だから目の色がすぐ戻ったのかもな。先生とリスキーにも話しとこうか?」

「リスキーのところの人達って事は、あるかなぁ」

「う~ん…、もしかしたらそういう事もあんのかも…。じゃあ先にリスキーに言うか。明日までホテルに行ってるらしいから、

戻ったら通信だな!」



「げふ…」

 食事を終え、コケノコギリのフルコースを馳走されたヤンは膨れた腹を満足げにさすった。

 レモンをかけて食べる薄衣のフライ。野菜と合わせた酢がきいているカルパッチョ。ホワイトソースのムニエル。食材の味

を最も楽しめる切り身の塩焼き。そして頭や骨で出汁をとって貝柱を具にした潮の香りが芳醇なスープ…。白身ではあるが味

わいは芳醇なのがコケノコギリ。リビングには魚の香ばしい匂いが充満している。酒にも合う味付けにされており、テーブル

上のワインボトル二本は片方が空で、もう片方は中身を三分の一ほど減らしていた。

「明日の朝食用に焼いた切り身を残してますから、温めて食べてくださいね」

 美味い美味いとたらふく食べて貰えて、すっかり気を良くしたテシーは、食器を片付け始めながら冷蔵庫を示した。

「ああ、うん…。悪いね、すっかりご馳走になって…。貴重品なのに…」

 遠慮なく食べたなぁと、今更ながらがっつき具合が気恥ずかしくなってきたヤンに、テシーは「いえっ!」と声を跳ねさせ

て応じた。

「美味そうに食って貰えるのも、たくさん食って貰えるのも嬉しいです」

「…そうかい」

 尾を振っているテシーの背を見遣ったヤンが、食器片付けをひとりでやらせる訳にもいかないと、腰を上げようとしたら、

「あ!先生はそのままで、ゆっくりしてて下さい!」

 テーブルへ食器を取りに来たテシーが、胸の前に手を上げて押し留めるジェスチャーを交えながら止めた。

「いや、しかしテシー君にだけやらせるのもだな…。今日の僕は店の客じゃない、ただご馳走された身で…」

「片付けまで含めてのご馳走、っていう事で…」

 テシーに皿を取り返されると、ヤンは渋々腰を下ろした。

「なんなら一服してて下さいよ。すぐ片付きますから」

 テーブルについたままのヤンが向ける目が気になったのか、テシーはウッドテラスで一服して来てはどうかと提案する。邪

魔になっているという自覚もあってどうにも尻の座りが悪い肥満虎は、何となく追われるような気分で素直にテラスへ。

 フィッシャーズ・デイの夜。どこも漁を休んでいるので漁火も無い暗い沖を、ヤンはマッチを手にしながら、しかし喫煙す

るのも失念して眺める。

 潮風が妙に涼しいのは体が火照っているせい。その火照りは、アルコールのためだけではないとヤンは自覚している。

 やや厳しい表情で考えるのは、「ジ・アンバー」の件での出来事。

 精神に干渉し、幸福感や幸福への欲求を増幅、暴走させるジ・アンバー。幾人もの島民がその被害に遭った際、テシーもま

た弟に憑依したジ・アンバーの影響を受けていた。

 その結果、「幸せ」を暴走させられたテシーがどうなったかというと…。

「………」

 太い指で弄ばれ、厚い掌の上で転がされるマッチ箱がシャラシャラ鳴る。立ち尽くしながらも落ち着きがないヤン。

 ジ・アンバーの影響を受けた他の被害者同様に、テシーにも暴走時の記憶は無い。あんな形で本心を知られてしまうのは本

人にとっても不本意極まる事だろうし、説明する訳にもいかないので、黙して語らないのが一番良い。そっと胸の内に秘めて

おくのが一番良い。

 …と、確かに一時は思った。

 だが、ふと気付いてしまった。注意して振り返れば、前々から兆しはあったのだと。

 鈍感というよりは想像外故の見逃し。ヤンが想像、思考、想定する事柄の外だったので、その兆しに特別注意を払う事がな

かった。

 そして、思い返してゆく最中に別の事にも気付いてしまった。

 ジ・アンバーによってテシーの心が、気持ちが、精神が、無下に踏み躙られたと感じたあの時、ヤンは確かに激怒していた。

暴走している「罹患者」への医療従事者として必要な警戒や注意、そしてあって当然のはずの怖れにも優先し、胸にあったの

は哀しみと同情だった。人智を超える怪物であるジ・アンバーに対し、脅えるどころか矢面に立つ事すらできた。

 小心な自分をそうまでさせたのは、テシーだった。

「こんな僕が、か…」

 ポツリと漏らした声が、潮風に攫われてテラスを去る。

 色恋沙汰には縁がないと思っていた。女に興味を持つ余裕もない少年期を、追い詰められ飼い殺される青年期を送った。

 そもそも脛に傷のある身の上。母国の国籍すらも兄の名で登録された偽りの物。他の国では暮らしてゆけないし、まっとう

な勤め先も見つかるまい。

 好かれる見てくれでもない。痩せていた頃もハンサムではなかったし、こんな不恰好に肥ってしまっては、誰も言い寄る気

にならないだろう。

 男として魅力があるとも思わない。せめて外見程度はと、漫画の医師を真似てタバコをふかしハードボイルドを演じている

が、性根は変わらず昔から小心者。

「そんな僕を、か…」

 似たような二度目の呟きは微苦笑混じりだった。

 結局、使わないままマッチをポケットに戻して、ヤンは踵を返す。

「あ。済んだんですか?」

 ドアを開けてのっそり入って来た肥満虎に気付き、食器を洗いながらテンターフィールドが首を巡らせた。

 その、よく見れば紅潮が窺える顔を一瞥したヤンは、「ああ」と曖昧に返事をして、気恥ずかしそうに少し背を丸め、首を

縮めながらテーブルセットに戻る。そして腰を下ろし、胸に手を当て、スー…、ハー…、と繰り返し三度深呼吸して、真顔で

数回頷き…、

「な…オホン!なぁ、テシー君?」

 皿を拭いているテンターフィールドの背中に目を向け、ヤンはカラカラになった喉を気にして咳払いしながら話しかけた。

「はい?」

「その…。それが終わったら…。ワインもまだ残っているし…、もう少し飲まないか?」

「え?」

 テシーが手を止めて首を巡らせた。驚いているような、少し緊張しているような、それでいて期待もしているような、見慣

れたはずの顔に浮かぶ見慣れない表情。

 乾いた喉が嫌に気になった。心音がやけに耳元に響いた。唾を飲み込んで、喉をウッウンと鳴らして、ヤンは口を開く。

「こんな時間だし、もう店を開けないだろう?…あ。いや、他に用事が無かったらの話で…」

 肝心な所で余計な気を回して歯切れの悪い言い方になってしまった自分を胸中で責める。

「は、はい…!用事は、うん、無いですから…!い、いいですね…!」

 心なしか上ずった声で応じ、テシーは顔を戻して皿を拭く手を動かし始める。

 ふたりはそれきり無言になった。皿が磨かれる音と、置かれた食器が触れ合う音が、息も殺したふたりの耳にはやけに大き

く響いた。

 やがて、テシーは皿拭きを終えてテーブルに戻った。

 それまでと同じ席へ着くように、テンターフィールドは反対側へ向かうつもりだったが、その足が戸惑うように止まった。

 指先まで肥っている虎の手が伸びて、ワイングラスを引き、自分の物と並べるように置き直す。

 腰を低く浮かせたヤンが、尻を横にずらしてスペースを空ける。

 今は、それが精一杯の勇気。

 テシーは立ち尽くし、並んだグラスとワインボトル、そして尻をずらしてから不自然に目を伏せて黙っているヤンを交互に

見遣る。

 ふたつのテイスティンググラスはメーカーが異なり、透明度もデザインも違う。

 元々独り暮らしだったヤンには食器類をセットやペアで用意する習慣が無く、ちょくちょく寝泊りするようになったリスキー

も酒を飲まないため、今日使っているグラスも不揃いだった。

 並んで座った二頭と同じで。

「………」

「………」

 目を伏せて黙りこくっているヤン。

 足を揃えて座って沈黙するテシー。

 もう部屋に雑音は無く、沈黙は重たく、空気は張り詰めている。

 どちらもボトルに手を伸ばさない。どちらも何も言い出さない。

 判っていた。もう双方共に、相手がどう思っているのか判っていた。

 それなのに、ほんの少しの、たった一歩の、関係性を変える踏み込みがこんなにも難しいとは、思ってみた事も無かった。

(動け!黙っていては駄目だろう!だいたい長時間動きが無いのがもう不自然過ぎる!)

 長い長い沈黙を挟み、意を決したヤンが口を開き…

「…テッ…、げはふっ!」

 声を発しかけたヤンは、まるで喉に異物が入ったような勢いでむせ返る。緊張のあまり喉が渇き過ぎて、貼り付いて、出た

声はヘリウムガスを吸った者の声のように妙な高さになっていた。

「だ、大丈夫ですか先生!?」

 急きこみつつ自分の胸を撫でて宥めるヤンの横で、こちらも長々と固まっていたテシーが、ようやく動けた。ワインをグラ

スに注ぎ、ヤンの咳が落ち着くのを待って差し出した後には、自然な動作で自分のグラスにも注いでいた。

 チクチクする喉にワインを流し込み、ようやく話せるようになって「有り難うテシー君、済まない…」と声を発したヤンは、

テシーと視線を合わせ…。

『…プッ…!』

 どちらからともなく小さく吹き出す。

 アクシデントが潤滑剤。何とも締まらないが、生まれてこの方ずっと締まった人生を送ってこられなかった自分は大事な時

でもこうなのだなぁと、諦めと呆れと自嘲と、まぁいいさというある種の開き直りを胸に受け止めていた。

「テシー君、その…。最近何か、面白い事は無かったかな?笑えるような話は…」

「笑えるような…ですか?」

「ああ。えぇと、そう、例えば…、細かい事が気にならなくなるぐらい面白い話題が、いいかな…」

 テシーは目を大きくし、そっと視線だけを下に向ける。

 体の横で、ふたりの間で、椅子に置いていた左手。そこに、厚くて柔らかい大きな手が被せられていた。

 熱くて湿っているヤンの掌。手の甲でそれを感じながら、テシーは自分でも驚くほど落ち着いていた。

 当然嬉しい。嬉しいが、はしゃいで騒ぐような嬉しさとは少し違っていて、じんわりと染みて来る嬉しさがある。

(ああ、きっとこれが「俺の幸せ」なんだ…)

 いつ頃からか、何がきっかけになったのか、時折意識するようになっていた事に、今夜答えを貰えたような気がした。

「えっとですね…、旅行客から聞いたトンデモ失敗談とかどうですかね!?確かまだ先生には話してなかったヤツがあったと

思うんですけど…、手すりにクリフハンガーして大陸間旅行した化粧ポーチの話とか」

「うん?それはまだ聞いていない…、な…」

 ヤンの言葉が一瞬途切れ、続けながらもその目は下に向けられる。

 自分の手の下でテシーの手が動いた。手首が回って、引っくり返って、仕事柄扱う薬品などで荒れてしまった、漂白したよ

うに妙に白くなった毛に覆われている指に…、

(ああ…。応えてくれるのか、君は…)

 下からテシーの指が絡んだ。掌を合わせ、互いの手をしっかりと組み合わせるように。



「結論から言いますと、ONCではありませんね。島は一応「休暇中かつ自主的に捜索協力中」という事になっている私の管

轄にされていて、探索の範囲外になっていますから」

 アジア系の青年は通信を寄越した少年にそう応じ、深くため息をついた。

(間違いなく、他の組織のさぐりだな…。何処の者だ?)

 もはや嫌な予感しかしないのだが、さしあたって対処すべき案件があるリスキーは、これ幸いと話を切り出す。

「ところで坊ちゃん。できれば旦那さんにもなんですが、少々手伝って頂きたい事がありまして…」

 通信機に向かうリスキーの背後からブブブッと巨大クマバチが飛んで来て、ホバリングしながらゆっくり降下し、アイスレ

モンティーを卓上に降ろす。次いで空になったマグカップをクレーンのアームのように六本の脚で掴むと、ブブブッと洗い場

へ飛んでゆく。

「…ええ。まぁ、危険ではない危険生物…と言いますか…。申し上げ難いんですがちょっとそいつらがまた…、何と言うか…」

 眉間を押さえるリスキー。ストレスで胃が痛い。

「…大量にばら撒かれていまして…」

 ただでさえONCが流出させた秘匿事項案件類のせいで大変な事態になっていたというのに、今度は捜索のために用意した

モノが大量に行方不明。流石のカムタも大激怒だろうと、怒鳴られる覚悟で事情を話したリスキーだったが…。

『大変じゃねぇか!うん、オラもアンチャンも手伝うぞ!何すればいい!?』

 少年の反応に鼻白み、次いで、そういえばこういう子だったな…、と頭を掻いた。

 とにもかくにも、これで作業は手早く済みそうだとリスキーは安堵した。

 懸念していた通り他の組織が行動を起こした。少しでも早く目前のフレンドビー脱走事件を片付けて、様々な事態に対応で

きるよう身軽になっておきたい。

 何せ、相手が組織の構成員…つまり「ひと」であれば、ヴィジランテのメンバー…ヤンやカムタには…、

(手を汚させる訳には行きませんからね…)