Fatal Ignition(act2)
「あ。フナムシ…」
コツコツとコンクリートを踏む傍ら、壁際の穴からチョロリと姿を見せた虫に、狐が反応した。
「ゴキブリじゃないっスよねソレ!?」
広い肩を竦めてアルが聞き返し、ノゾムは「フナムシだと思うよ?」とマジマジ確認しながら応じた。
「降雨時の排水用に海際まで配水管が伸びているであります。そこを通って遊びにいらっしゃったのでありましょう」
最後尾のレッサーパンダが応じると、
「え?それって遊びに来てるんス?」
先頭の大きな北極熊が振り返らないまま素っ頓狂な声で尋ねた。
「個人的な感想であります。仕事でおいでだったのであれば発言を撤回し謝罪させて頂くであります」
「フナムシの仕事って何スかね?」
「強いて挙げるなら食糧確保でありましょうか?」
任務中なのに緊張した様子もないアルとエイル。不謹慎と見えない事もない態度なのだが…。
(リラックスムードが…、何だか頼もしい…)
気負っていないその態度が、ノゾムの緊張を和らげる。軽口を叩き合ってはいるが、そこに危険な慣れや危うい惰性は無い。
加えて言うなら、二頭は決して不真面目でもなければ油断している訳でもない。
フォワードのアルは自身の大きな体が後続の視界を遮る事も承知しており、前方から決して視線を外さない。殿を務めるエ
イルは常に音の反響で後方に神経を向け、催涙弾を装填したグレネードのサイドに取り付けたミラーで視認も怠らない。真ん
中に置いたノゾムに役割を振らないまま、油断なく警戒移動している。
「飛び回る」ものを探すのに何故地下道に?というノゾムの疑問には、エイルが解説を入れた。
「ここは移動用の通路であります。見晴らしのいい場所まで一般人と接触せずに行けるのであります。また…」
レッサーパンダは「右手上方を御覧頂きたいであります」と促し、目を向けたノゾムはか細いタラップと取り外し可能な天
井の蓋に気付く。
「平時は点検整備諸々の用途に使われるのでありますが、我々が動く際には様々な施設へ直接侵入するための抜け穴になるの
であります。マーシャルロー以来、首都のあちこちにこういった物が設けられたのでありますが、この近辺は昔から残ってい
る物を活かして活用しているのであります」
「昔からあるんですか?こういう道が…」
「ここは元々が戦と…あ、もう出口っスよ」
アルは会話を打ち切って立ち止まると、天井の蓋に手をかけて持参したキーを突っ込む。蝶番とチェーンが金属音を響かせ、
開いたハッチはポッカリ空いたその向こうにオレンジの灯りを順次点けてゆく。
「これ、どこに繋がってるの?」
「臨海線の真下に出る穴っス。あとは上を移動っスね」
長いポールを先に突っ込む格好で、アルはその体格からすれば狭苦しい穴へ体を押し込み、先行する。続いてノゾムが、も
たつきながらもエイルに尻を押して貰って天井の穴へ入り込み、最後尾のレッサーパンダはチェーンを引いて内側から蓋を上
げ、施錠する。
そこからは壁面のタラップを登り、垂直に近い急勾配の移動となった。息を切らせて登るノゾムの前はアル。四方をコンク
リートで囲まれている上に頭上には巨大な尻。かなり圧迫感がある眺めで、変に息苦しくなってしまう。もしも足でも滑らせ
てこの尻が落ちてきたら…、と考えれば恐怖しかない。ノゾムでは支えようが無いので、間違いなく落下して末には下敷きで
ある。
腕も疲れてきて、ジワジワ汗も吹き出て、いよいよノゾムが苦しくなってきたところで…。
「到着~っス」
先頭のアルがタラップを上りきり、蓋を押し上げて狭いスペースに出た。
喘ぎながら顔を出したノゾムに手を貸して引っ張り上げると、もうそれだけで余裕がなくなる狭い部屋は、陸橋の脚の中に
ある空間。壁はそのままコンクリートで、防錆塗装された鉄骨も剥き出しになっている。
続いて上がるエイルの邪魔にならないよう、先にドアから外に出たアルに促されて、踏み出したノゾムは…、
「わ…」
橋。臨海線を真下から見上げて思わず声を漏らす。各所に明かりが灯されて夜空に輪郭を浮かび上がらせる橋は、近未来的
でありながら幻想的だった。
「上に登るっスよ」
近場のタラップを掴んだアルが振り向いて声を掛けると、ノゾムは慌てて視線を戻す。
「ヤマギシさんには物珍しい風景なのでありましょう」
「え?」
エイルの言葉で眉を上げたアルは、ニンマリ笑う。任務に付き合わせる格好になったが、珍しい光景を見せられるのならま
ずまず良かったかなぁ、と。
またもや垂直移動になり、息を乱しながらアルの後を追ってタラップを登ったノゾムは、風をまともに受ける高所に少し恐
怖しながらも、その絶景に見入る。
灯りの数が東護とは段違いだった。
湿気を帯びた夜風の中、無数の光が細く線を延ばして輝く夜景。
都居襲撃事件とバベル戦役、たった数年の間に二度の戦災に見舞われながら、今や完全復興を遂げた首都の寝間着姿がそこ
にある。
「じゃ、行くっスよ!足元に気をつけるっス」
根回し部隊によって封鎖された線を、北極熊はのしのし歩いてゆく。ノゾムはおっかなびっくり前後を見遣り、本当に列車
が来ない事を不思議がりながら、海の上を渡る線路を進む。
「飛び回るって事は…、インセクト系っスかね?」
「可能性は高いであります。飛行能力があるタイプは概ね厄介でありますが…。最近流行りのが居るでありますからね」
「ああ…、オレあいつ苦手っス…」
心底嫌そうな声でアルが言い、ノゾムはゴクリと唾を飲み込む。
「て、手強いのが居るの?新型?」
「いや、手強いって言うか何て言うか…、嫌なんスよねあいつ…」
担いだポールで肩をトントンと叩くアルの幅広い尻で、短い尻尾がペションと下がる。
「どういうヤツなの?」
「…あまり…、言いたくないっス…」
言及しようとしないアル。その態度でますます不安にかられたノゾムは…、
「待って」
声を低くし、警告しつつ立ち止まった。
アルが腰を落としてポールを構え、エイルが前方のふたりに背を向ける格好で後方を振り返り、銃を構える。
「何か見つけたっスか?」
「後方は異常なしであります」
ノゾムは腰のブルトガングを抜きつつ、カーブを描く臨海線の側面を凝視した。
「…あれって、橋のパーツじゃないよね?」
「え?どれっス?」
能力の副作用で色覚を失ったノゾムの目は、光に対して敏感になっている。アルとエイルの目では判別できない灯りの影に
なっている位置で、黒っぽい何かが僅かに光を弾いているのがはっきり判る。
「パーツにしては不規則だし…、何て言うか…、異質?」
それは楕円形に近い黒に見えた。巨大な螺子の頭にしても形がおかしいし、並びも不揃いで、どうにもおかしいように感じ
たノゾムは…。
「それってその…、黒っぽいっス?」
「え?たぶん黒い…かな?影よりも濃い…、濃紺か黒みたいな濃さ…」
「結構デカいっス?」
「そう…だね?」
「結構多いっス?」
「六…、七個ぐらいあるかな?」
「エイルさん!」
「了解であります」
ノゾムへの確認を打ち切ったアルの声を受け、エイルは素早く横っ飛びして縁ギリギリに身を躍らせると、ノゾムが視線を
注いでいるポイントへ筒型の銃口を備えたピストルを向けた。
「照明、放つであります」
「らじゃーっス!」
「りょ、了解!」
目を庇う熊と狐。レッサーパンダが放った照明弾は、橋側のカーブを掠めるような軌道で飛翔し、パッと、乳白色の光を四
方へ放った。
そこに浮かび上がったのは、橋の側面にへばりつく小判型の黒い虫。
「やっぱ「あいつら」っスか!?」
うんざりした顔で叫んだアルは、ポールを両手持ちにして臨戦態勢。
光に反応して動き出した黒い虫は、そのまま橋の上部へ這い上がってきた。カサカサと軽快な動きで、滑るように素早く。
生産が容易で環境の変化に強い。実に大量生産と多数運用に向いたその危険生物は…。
「…黒いカナブン?いや、フナムシ…なのかな…?」
息を飲むノゾムに、
「ゴキブリっスよ!」
心底嫌そうな声で応じるアル。
「ゴキブリ?…って…、ああ!ゴキブリ!」
一瞬遅れて理解する狐。アルにとっては日常的にあちこちで見る虫だが、東護には殆ど生息していないのでノゾムにはあま
り馴染みがない。
「サーチャーコックローチという危険生物であります。戦闘力はさほどではなく、ゴキブリさんがそのまま大型化したレベル
の脅威でありますが、実は最近確認された新しいタイプでありまして、生態や特徴については目下鋭意編纂中でありま…」
「速っ!?」
エイルの解説を遮って声を上げるノゾム。コックローチは一斉に、三名めがけてガササササッと接近を開始した。
「ギャース!」
同じく悲鳴を上げたアルは大きく仰け反って…ポールを大上段に振りかぶっていた。両腕に思い切り力を込めて。
刹那、ポール先端が大きくアーチを描く。
「寄るなっス!」
高速接近するコックローチの頭部へと、その先端がメギパキュッ!と、嫌な音を立ててめり込んだ。
「来るなっス!」
打ち据えたポールを反動で跳ね戻しつつ、身を捻って繰り出したミドルキックが、飛び掛ろうとした二匹目のコックローチ
の頭部を側面からメキョッと破壊。
「近付くなーっス!」
蹴り出した脚をドシッと落とし、両手でポールをしっかり握り、どっしり太い腰を思い切り捻ったアルは、脇を抜けようと
した三匹目をフルスイングで、しかも美しいバッティングフォームでかっ飛ばす。快音…とは言い難い酷い音が橋の上に響き
渡った。
「…え?」
ポカンとするノゾム。
来るな寄るなと言いながらもダイナミック害虫駆除。苦手、嫌、と言ったアルの言葉に嘘は無い。嘘は無いが、嫌々ながら
も圧倒している。
実はアル、ナリはデカいがゴキブリが大嫌いである。セキュリティバッチリのブルーティッシュ本部内でも開放的な居住ス
ペースには、誰かが空けたまま忘れて出かけてしまった窓から訪問したり、メンバーの私物持込などに紛れ込んで侵入したり
する。しかも部屋の中を汚くしているせいで、気付けばアルの寝室へも入り込んでいる。だいたいは、片付けに来たネネが中
身が出ない絶妙な力加減でスリッパ二刀流で仕留めたり、遊びに来たイソギンチャク型危険生物が捕食して痕跡残さず始末し
たりする(ただしこの事実をアルは知らない)のだが、時にはタイマンしなければならない状況にもなる。そうなると、こう
して巨大ゴキブリと格闘している今と同じような叫びを発しながら激しくバトルする事になる。
コックローチの攻撃手段はオーソドックスな噛み付き。口吻を伸ばすとか毒牙を備えるとかそういった類の特殊な物ではな
く、普通に組み付いて噛み付くだけ。噛力は非常に強いが戦闘用インセクトフォーム程ではなく、一般のケブラーベストでは
同じ箇所を噛み続けられると破壊されるものの、鼓谷製の防刃装備であれば牙が貫通する事はまずない。
持ち味は機敏さで、速度はフルスロットルのスクーターレベル。特筆すべきは一瞬でトップスピードに至る妙に気持ち悪い
初速と加速力にある。しかも飛ぶ。さらに生命力がウリの危険生物で、明らかに致命傷を負っていても動ける限りは迫ってく
る。戦力的には圧倒できるのだが、ゴキブリが嫌いなアルにとってはどんな危険生物よりも嫌な相手だった。
一方、エイルはグレネードに装弾していた弾頭を変更し、狙い済ましてトリガーに指をかけた。
群れの中で一匹だけ、三名の姿を近距離で確認した後に、背を向けて逃げようとしている。その行動が気になったので、迫
る側よりも優先したいと瞬時に判断していた。
大暴れするアルの脇を掠めるような、際どい軌道で狙い通りに飛翔した弾頭は、落下軌道まで計算されて見事に命中し、一
匹のコックローチを体半分凍結させ、機能停止させた。
「あとは殲滅でオーケーであります」
「ラジャーっス!ギャース!」
了解しつつも悲鳴を上げるアルは、
(…おかしいっス)
コックローチの行動に違和感を覚えた。嫌々ながら観察して。
先頭に立っているので突進してくる相手を迎撃しているが、その突進の軌道がどうもおかしい。直線で見た場合はアルから
少し外れている。
では、その直線上に誰が居るのかというと…。
「くっ!」
アルの前から、あちこち粉砕されながらも繰り返し押し寄せるゴキブリ達。そのリーチの外へ逃れた一匹を、ノゾムは力あ
る視線で捉えた。
直後、前触れもなくゴキブリの腹の下で炎が生まれ、ボウッと一気に燃え上がる。コックローチは脂ぎった体表を焦がされ
ながら、爆発力で腰高まで吹き上げられた。さらに続けてもう一度、さらに一度、立て続けに炎の花が咲き、浮かせたコック
ローチに回避不能の追撃を加えて後方へ弾き飛ばす。
ノゾムの能力は視線を媒介にする着火、焼却。ただし、同系統の能力者の中でも発火に偏ったバランスとなっており、燃焼
持続力は低く、何かに延焼でもしない限りは数秒程度で鎮火してしまう。また、生じた炎をコントロールする能力は皆無なの
で、発火後の作用まで想定しながら運用しなければならない。
だが、燃焼時間は短くとも、自在な操作はできなくとも、色覚を代償として進化したノゾムの能力には大きな長所がある。
それは、即時性と連射力。ノゾムは進化した能力を研磨した事で、極々僅かな時間差を設けた三点バーストを可能とした。
これにより、対象を焼き尽くすほどの持続力が無かった発火能力に、制圧力という特性が備わっている。
照明弾に発火と、人目を引く明かりが立て続けに灯るが、表向きには維持工事作業中という事になっている。例え知らずに
目にした者が関係機関に問い合わせたとしても、作業の情報が回答されるだけ。ブルーティッシュはいつもそうして、この首
都の闇から危険を狩り出し調停を為している。
「チャーンス!」
発火の視線で援護が入り、続けざまにエイルのグレネードが逆サイドに飛んできて一匹を吹き飛ばすと、アルは生じた隙を
逃さず左腕のバックラーの裏側にポールをガキンと打ち付けた。
盾の下に入ったそこでポールがロックされ、バックラーは腕から外れて収納していた刃を外縁にせり出させて固定する。
ポールとバックラーを合体させたそれは、円形の斧頭を備えた新型大戦斧。対象の確実な破砕を目的とした装備の組み換え
を終え、全身を大きく捻って後方へと振り戻したアルは…。
「どっせぇー!」
気合一閃、正面のコックローチを真っ二つに両断する。
さらに、撃ち付けた斧を手繰るように自らも踏み込むと、前蹴りで柄を跳ね上げた。蹴りの勢いも乗って天を衝いた斧は、
軌道上に入ったコックローチの胸部までを一撃で粉砕している。
「ぃよいしょぉっ!」
腹に力を込めて斧頭の慣性を捻じ伏せるアル。ビタリと垂直で止まった斧は、狙い済まして別のコックローチの頭部を破砕。
さらに片手を斧から放したアルは、引き抜いたショットガンでさらに一匹を蜂の巣にする。
(凄い…!)
精密に、慎重に、効果的な援護で発火の視線を飛ばしながら、ノゾムは舌を巻いていた。
シロクマの巨体は力強くも機敏に動き、コックローチを着実に仕留めてゆく。素早く動く対象へ、状況にあわせた蹴り放し
や踏み付けを交えながら。白兵戦能力も状況判断力も反応速度も、ノゾムが日頃見ている他の調停者達とは段違いのレベルに
達している。だが…。
(やっぱおかしいっス!)
振り抜くようにグルンとショットガンを回転させて次弾を咥え込ませ、アルは違和感で眉根を寄せる。全コクローチの位置
と自分達の陣形を把握し、突破される可能性があるラインにいつでも銃弾を撃ち込める体勢を維持しながら、シロクマは横目
で丸い狐の立ち位置を再確認した。
(こいつらもしかして、ノゾムに興味持ってる!?)
コックローチ立ちの突進角度はノゾムに据えられていた。アルが一匹の突撃をショットガンの銃撃で阻むと、狐も流石に気
付いて「ぼく、狙われてる!?」と総毛立つ。
「とにかく!ちゃちゃっと全滅させるっス!」
吠えるシロクマの横へ、
「同感であります」
片手に拳銃、片手にダガーを握り、レッサーパンダが躍り出た。
(これまで無かった事でありますが、援護を厄介と認めたのかそれ以外の理由があるのか、連中の注意は明らかにヤマギシさ
んに向いているであります。衛生兵として甚だ不本意ではありますが、壁を厚くするべきでありましょう)
理由は不明。しかし明確に見て取れるコックローチの妙な行動。理由探しはひとまず置いて、エイルはアルと並んで前線を
構築し、コックローチの進路を完全封鎖した。
「あ~…こちら三浦。こちら三浦。どうぞ?」
太った中年猪は、体液でぬめった中型の剣…カッツバルゲルを気持ち悪そうに振って滴を振り落としつつ、チョーカーに触
れて通信する。
岸壁に波が寄せる音が低く聞こえてくる、入国管理局に程近い位置の排水路。一段低くなって周囲からは見えない、増水に
備えた段差の下に、ミューラーは身を潜めていた。
「危険生物を始末しました。ゴキブリ型…というヤツですな。今年の流行という話でしたが…」
ミューラーの足元には、頭部や背中を徹底的に突き刺され、最終的には頭部をぺしゃんこに踏み潰されて活動を停止したコッ
クローチが二体、屍を晒している。
「資料映像を見て判った気になっとりましたが…、いやコレは…」
カッツバルゲルを執拗に振って体液を振り落とす猪の顔は、盛大に引き攣っていた。
「初めて遭遇しましたが、とにかく気色悪い!なんと言うかこう、動きも見た目も気色悪い!脚といい触覚といい、生理的に
クる気色の悪さが堪りませんな!…え?そっちにも居る!?いやいやいや少尉!そこはなるべく手出ししない方がですな!」
慌てるミューラー。何せミオはダガーとトンファーを得物にし、白兵戦を主とする戦闘スタイル。つまり…。
「こやつらの汁、物凄く匂いますぞ!」
ミューラー自身、潰したコックローチの体液で胸を悪くしている。一般兵の数倍場数を踏んでいる猪は、多少の悪臭や腐臭
は問題としないのだが、今回は違った。
別に刺激臭で感覚を狂わされる訳でも、耐え難い悪臭で呼吸が困難になる訳でもない。ただ単に、とことん不快な臭気なの
である。鼻の奥にこびりつく様なネットリした匂いで、かつ蛋白質が焼けた火災現場のように脂っこさがある。しかも体液は
粘度が半端に高く、衣類には染み入るが振り飛ばせない。
「こ奴らまるで嫌がらせのような存在ですぞ!?無理に相手をしなくとも…、え?」
ミューラーは目を丸くする。「ネチョネチョしますね…」、というミオの若干落ち込んだ声を受信して。どうやら直接攻撃
で仕留めてしまったらしい。
「サラマンダーとは無関係でしょうが…、いやしかし、日本の首都には何と恐ろしい害虫が生息しておるのか…!」
基本的に豪胆なミューラーだが、どうやらゴキブリは生理的にダメらしい。本人も人生初経験の不快さである。
(ハッ!いや待てよ!?)
何かに気付く猪。
(この取れ難い体液…!少尉殿の御体をお清めするにはお手伝いが必要では!?もしもお背中など洗い難いところに付着して
しまっていたならば!いたならば!いたしてしまったならば!それはいたしかたなし謹んでこのミューラー!少尉の体を隅々
まで清め…)
いけない妄想に浸り、半開きの口からよだれを垂らしそうなほど緩んだ顔になっている、フリードリヒ・ヴォルフガング・
ミューラー特務曹長38歳独身。
(一匹だけ、反射的に逃げようとしていた…)
足元の死骸から目を上げて、ミオは正面を見据える。
車の音が近い、歩道から植え込み一つを隔てた芝生の上、アメリカンショートヘアーの少年は、三匹のコックローチの死骸
に囲まれて佇んでいる。
ミューラーの心配と期待をよそに、青年の体と衣類には返り血一滴もついていない。ただし刺したダガーだけはベッタリと
汚れているが。
ひとが通れば見られる位置だが、しかし通行人がミオの存在を把握する事はない。その能力により、殺処分の場は外からの
視認が不可能となっている。
ミオの目が向いているのは、傍の三匹とは別の死骸。一際離れた位置に転がる一匹の死骸だった。
投擲された予備のダガーが寸分狂わず頭部と胴体の継ぎ目に命中し、鍔元まで突き刺さって神経節を破壊、一刺しで絶命さ
せている。それでもなお、生存のための動作ではない痙攣で手足を動かしているゴキブリを慎重に観察しつつ、ミオは一匹だ
け逃げようとしたコックローチに近付くと…。
(何か装着…いや、埋め込まれている?)
複眼の少し上、ひとで言うならば額の真ん中とでも言うべき位置に、ピンポン玉サイズの金属球を見つける。
「コンラッド軍曹。この映像、解析できますか?」
映像を送り、チョーカーに触れて尋ねたミオは、ただちに調べたラドから、この危険生物に発生する器官ではなく、何らか
の人工物のように見える、という回答を得た。「持ち帰って確認してみるべきでしょうね…」
確信があった訳ではない。が、現場での働き方についてイズンから徹底的に仕込まれたミオは、こういった物に気付けば放
置しない。
全く関係ないと確信できない物については常に関係性を疑え。…というのがあのジャイアントパンダの弁。サラマンダーを
探す途中で見つけたコックローチ。その身に埋め込まれている人工物。ミオはこれらが任務と無関係とは断じなかった。
この時のミオも、凍結させて確保したエイルも、まだあまり意識していなかったが、この判断は正解だった。
この、撤退する一匹こそが重要な点。このコックローチ達は、頭数が減るような交戦時には、敵対者の姿を確認した後に最
低一匹がマスターの元へ逃げ帰るように設定されていた。
「うえぇ…、酷い目にあったっス…」
帰還して開放されるなりシャワールームに駆け込んだアルは、頭から湯を浴びて、付着したコックローチの体液を洗い流す。
ネットリと着いた体液は水だけでは落ち難いというおまけつきで、床に胡坐をかいて座り込んだアルは、ボディーソープを
しっかり泡立ててガシガシ擦ってゆく。有害ではないのだが、とにかく匂いも感触も出所も気持ち悪い。
幸いにも直接接触がなかったノゾムは汗を流すだけで済むが、大暴れして頭からうなじから浴びまくったアルは被害甚大で
ある。
「手伝うね?」
「サンキューっス!えへ~!」
洗い難いだろうと、アルの背後に立って首の後ろの辺りを洗ってやりながら、ノゾムは気になった事を尋ねた。
「最近、あのインセクトが多いの?」
「うス。ちょっと前まで見なかったんスけど、ホントここ最近になって出て来たんスよねぇ。最新型ってヤツっス…」
「アレ、さ…」
狐は手を動かしながら思い出す。コックローチの行動を。
「ぼくの事、狙ってた?」
「あ~…」
目を閉じて額を擦っていたアルは、「実はオレも、もしかしてそうだったんじゃないかな~、って思ったんス」と頷いた。
「後から考えてみて、ノゾムが能力使ったからかも?って思ったんスけど、でも…、使う前からノゾムに興味っていうか、注
意っていうか、そういうの向けてたような…、ふげぁほっ!?」
泡だらけの額を擦りながら喋るという考えなしの行動を取っていたアルが、鼻腔からシャンプーの泡の侵入を許して思い切
り咳き込む。
「げふあっほふ!へぶっち!」
「ちょ!大丈夫!?」
ノゾムに背中を撫でられながらしばらく咳き込んだ後で、アルは「いやもう全然平気っス!」と涙目で強がり、やっと体液
を洗い落として腰を上げる。
「サンキューっス!」
「どういたしまして」
立ち上がったアルの背中をその場で眺めながら、ノゾムはため息をついた。
「…ん?どうしたんス?」
肩越しに振り向いたアルに、ノゾムは言う。節目がちになってボソボソと。
「…ぼく…、身長の伸び、止まっちゃったみたい…」
「え?伸び?」
「うん…」
しょぼんと耳を倒すノゾム。
調停者の認定を受けた際に身体測定や健康診断を受けているのだが、その時も、そして先日のチェックの時も、十五歳の時
から全然伸びていなかった。元々は並の背丈だったのが、今は歳から言えばやや低身長となっている。
「アル君ぐらいは無理だとしても、せめて160欲しかった…」
ノゾムが思い描く調停者像は、今でもかつてのリーダーのまま。あの広く頼もしい背中に自分はちっとも近づけないと、身
長の事も含めて気が滅入ってしまう。
「それは…」
慰めようとして、上手いセリフが思い浮かばなくて一度口ごもったアルは…、
「あ!でも!」
と、やや下の方を指差した。
「チンチンはノゾムのがでっかいっス!」
「え?」
下を向いた狐は、一拍置いてバッと両手で股間を隠す。
「な、何言ってるの!?」
「オレ体ばっかデカくなってこっちは全然なんスよね~。あっはっはっはっ!」
腰に手を当てて股間を突き出す格好で、腹を揺すって笑ったアルは…、
「は…はは…」
慰めようとして自虐となり、
「…………………はぁ…」
ショボンと肩を落とした。
「…う、うん…。これからだよ…、これから…」
三角コーナーの下の角にチョコンとついたモノを見て、それからアルの顔を見上げ、腕をポンと叩くノゾム。
慰める側と慰められる側が、綺麗に逆転していた。
一方その頃、サラマンダーが見つからないまま撤収したナハトイェーガーは…。
「コレ~、たぶんこの計器と似た装置ですよ~」
ミオが持ち帰った金属球を分析したヒキガエルは、腕時計型の計器を指差しながら説明した。
外から見れば球体に近いソレは、全貌としては眼球にも似た形になっていた。金属球型のセンサーには微細なレンズが無数
に散らばり、映像を記録する機能が備わっている。さらに、後部からは無数のコードが神経節のように伸び、コックローチの
神経に接続されていた。何より特徴的なのは…。
「こっちがサラマンダー探知用に用意した、発火励起現象感応板と同じ素材のチップが…、あ~、これですこれ~、こうやっ
て入ってます~」
ピンセットで慎重に金属球を腑分けしたラドは、内部で煌く焼けた鉄のような色の金属板を、ミオにも見えるように露出さ
せた。
「…グート」
ラドの作業机を覗き込みながら低く唸るミオ。
正体が判明したのは良い。だが、まずくもある。自分たちが用意した計器と似た性質のセンサーが、危険生物…おそらくは
何者かのコントロール下にある存在に埋め込まれている。それはつまり…。
「僕ら以外に、サラマンダーがここに来ている事を知っている者が居る…。探している者が居る…」
「そう考えていいでしょうね~」
一度そこで会話が途切れ、席を立ったラドが紅茶の用意を始める。ミオはじっと作業机の金属球を見つめ、今後の方針につ
いて考える。
「ブルーティッシュはコックローチを処分していた。そもそもそのための出動だったみたいですから、コックローチの主は非
合法組織…でしょうね」
「おそらくは~」
秘密裏に処理したかったが、どうやら非合法組織と思しき者がサラマンダーの存在を既に嗅ぎつけていたらしい。こうなる
と、下手を打てば争奪戦となる。そして最悪の場合、自国のミスで放たれたサラマンダーが、他国で非合法組織の手に渡り、
甚大な被害を出す事に…。
(国際問題、と一言で片付けられない大惨事に繋がる可能性がでてきた…!)
内心冷や汗をかくミオに、冷えたダージリンティーを用意したラドが歩み寄る。
「「黄昏」っていう可能性は、ありますかね~?」
問いながらアイスティーのグラスを差し出したラドの顔を、ミオは静かに見返した。
態度も表情も口調もいつも通りなヒキガエルだが、その目の奥には洞のような暗さが窺えた。
「どうでしょうね…。計器に使った合金は、確かかなり希少な物でしたよね?」
「です~。練成の手間もかかるし~、素材も高価だし~、作ってもろくに使い道がないですからね~」
発火系、燃焼系の能力者を探知するのであれば、思念波に反応する計器で良い。ナハトイェーガーが特殊金属を用意したの
は、サラマンダーの反応がひとの思念波とはかけ離れ過ぎているせいで従来の機器では補足困難だったからに他ならない。こ
の特殊な探知機の核となる金属の練成には、相当な資金、素材調達能力、技術力が要求されるのだが…。
「…並の組織では作れない…」
「と、思いますよ~」
ミオは再び黙り込む。ラグナロクが関与している可能性はゼロではない。だが、どうにも引っかかる。
(サラマンダーの存在を察知しているとしたら、エージェントを投入するはずだよね…?探査レベルの進展状況だったとして
も、虫を使ったりするかな…?)
丸ごと存在を抹消できるような小さな町ならともかく、ブルーティッシュが守護するここで、アクションを悟られるような
前処理から入るだろうか?そんな疑問を抱いたミオは…。
「…ラド軍曹。この国の首都近辺でも活動が認められる非合法組織のリスト、どうにか入手できませんか?できれば…」
アメリカンショートヘアーはスッと鋭く目を細めた。
「インセクト系の危険生物を好んで使用するか否かまで含めて…」
なお、この打ち合わせに参加していないミューラーは…。
「落ちん!落ちんぞこのヌチャヌチャ!?頑固な油汚れか!?」
バスユニットでコックローチの体液と格闘中だった。被毛の中に染み込むような根の深い汚れ方をしており、なかなか劣勢
である。
(少尉の御体が汚れなかったのは残念…いや幸いだったが!幸いだったがっ!これはまずます惜しい…、いや本当に良かった
のだがっ!)
これだけ落ち難いならば、公にミオの入浴を手伝い体の隅々までたっぷり観賞しつつ労わりを込めて洗う事ができたのに…。
と、良からぬ悔やみを抱くフリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長38歳独身。
「奇妙であります」
身を綺麗に清めてからラボへ入ったエイルは、凍結処分で確保したコックローチの個体から採取された金属球の鑑定結果を
係員から聞かされると、首を傾げて耳を倒す。
「何のためのセンサーでありましょうか?」
「不思議だよな。っつーか気味がわりーよ。発火系能力特有の励起反応をキャッチするセンサーだなんて…」
同席したアンドウが顔を顰める。
「他の個体の神経節にも、記録機能こそ無いものの、センサーそのものはほぼ同一のチップが埋め込まれていたそうでありま
す。発火系能力者であるヤマギシさんに反応したのでありましょう。それはそうと…」
レッサーパンダは若き参謀候補の横顔を見上げる。怪訝そうに片耳を倒して。
「「気味が悪い」…でありますか?」
「ん?」
無菌操作ユニット内の分解された金属球を見ていたアンドウは、エイルの視線を受けて目だけ向ける。
「その印象の根拠がお判りであれば、説明を頂きたいのであります」
「ああ、そんなに難しい事じゃねーよ。能力者対策にせよ、能力者探索にせよ、思念波を探知する造りにした方が確実だし、
わざわざこんな高級品を作る手間もかからねー。何でわざわざこんな仕様のセンサーを使い捨てのゴッキーに埋め込んでんの
か…。高級品なのになんでひとの手で運用しねーのか…。そこらを考えると気味が悪いって話だ。まるで…」
アンドウは一度言葉を切り、顎下に触れて呟く。嫌そうに顔を顰めながら。
「接触したらヤベー物を想定してるみてーじゃねーか?」