Fatal Ignition(act3)
カツカツと、固い床をブーツが踏んでゆく。逞しい体にフィットする黒いタンクトップと、都市迷彩色のカーゴパンツを着
用した偉丈夫が。
通路ですれ違った隊員に片手を上げて挨拶を返しつつ、ブルーティッシュ本部のラボラトリーエリアへ足を運ぶのは、大柄
な白虎…ダウド・グラハルト。ブルーティッシュのリーダーにして国内最強の調停者と呼ばれる男である。
聞いていた部屋の気密ドアを抜けたダウドは、そこに居た灰色の毛並みが美しい猫の女性と目を合わせる。
「有意義な情報が得られたのかしら?」
「ああ。帰りしなにアンドウから受けた連絡で、価値がさらに上がったところだ」
ネネの問いに首を縮めて応じたダウドは、技術者が提示したケース内の金属球…コックローチから採取されたセンサーを見
つめる。
「思念波じゃあなく、発火シークエンスなんかを観測する物らしいな?」
「ええ。奇妙でしょう?」
腕を組んだダウドは「ああ、奇妙だ。だがその奇妙さが合致するんだよなぁ、これが…」と面倒臭そうな顔になる。
「どういう事?」
不思議そうに眉根を寄せたネネに、ダウドはため息をついて告げた。
「「情報屋」が売り付けたがっていたネタはな、サラマンダーについてだった」
「サラマンダー?」
ネネが想像したのは、火炎を吐く器官を備える、寸胴のトカゲの姿をした危険生物だった。それならば、一般人には危険で
はあるがブルーティッシュにとっては時折対処する馴染みの顔である。しかし…。
「神話の方のな」
ダウドが付け加えた一言で目を大きくした。
「つまり…、現象生命体のサラマンダー?」
「ああ。経緯は不明…っつぅか、また吹っかけられそうだから訊かなかったが、どうやらもう首都に入ってるのは確実って事
らしい。誰かの管理下でじゃあねぇ、野放しの状態でだ。で…」
ダウドは金属球を見つめながら鼻を鳴らした。
「このセンサーはサラマンダー用って事だろうな」
「…つまり、サラマンダーが首都に入っている事を掴んだ組織が居る…」
ネネもまた金属球を見つめ、ポソリと呟く。
「…エルダーバスティオン…」
「たぶんな。このセンサーはコストが馬鹿高ぇらしい。そいつを惜しまず消耗品にくっつけて放つなんて真似は、そこらの弱
小組織じゃ無理だ」
ダウドはしばし顎を指で挟み、しごきながら考える。
「モノがモノだ。貴重だが生け捕りは考えねぇ方がいいな。対処できる隊員も限られてくる、見つけたら俺に連絡を寄越すよ
う徹底すべきだな」
「ええ。…まったく、あの子達もついていないわね…」
「ん?」
微苦笑したネネに横目を向けたダウドは、一拍おいて「ああ!」と声を上げた。アルの友人である調停者が、今日からこの
本部に宿泊する予定だった事を思い出して。
「忘れていたんでしょう?」
「忘れちゃいねぇ。ただちょっと記憶の片隅に押し込まれてただけでだな?」
「それ、忘れていたって言うんだと思うわ。…その子ヤマギシ君って言うんだけれど、宿泊させて貰う分働くって、緊急出動
について行ったのよ」
「なら時間給は払わなくちゃあいけねぇな。アルにしちゃあ珍しく真面目な友達を作れたもんだ。…いや、アイツそもそも友
達ほとんど居ねぇんだったな?珍しいのは友達自体か。わっはっはっはっ!」
声を上げて笑うダウドだが、
「笑い事じゃないわよ。アルは高校生なんだから…」
ネネは呆れ顔でため息を漏らしていた。
「よぉし!挨拶がてら酒とアダルトDVDでも持ってくか!」
「そこでどうして息子が友達に会わせたくない駄目な父親みたいなコンタクトをはかるの?未成年よ、未成年。それに、まと
めて試験を受けるためにわざわざ首都まで来ているんだから、勉強に休息といろいろ忙しいわ」
早速ちょっかいをかけに行こうとするダウドの尻尾をムンズと掴んで引き止めたネネは、ウインクして微笑んだ。が…。
「挨拶は朝食の時間でもしなさいな。とても可愛らしいワンちゃんよ」
ネネもナチュラルに、ノゾムが狐だとは思っていなかった。
休めるときに休むもの仕事。また出番が来ないとも限らないので夜間出動に備えたアルがさっさと仮眠に入ったその頃、ノ
ゾムは筆記試験の問題集と向き合っていた。与えられた静かで快適な客間は、勉強に集中できる有り難い環境である。
カリカリとシャープペンを走らせながら、ノゾムはイメージする。
免許を取るのがゴールではない。それを実務で役立てられなければ意味が無い。
役に立ちそうな免許は纏めて取るが、果たして自分はどんな得物を持つのが良いだろうか?問題を解きながら、ノゾムは今
夜の出撃を思い出した。
(アル君は銃身を切り詰めたショットガンを使う…。白兵戦中心で、リーチ外に出た相手を攻撃するのには、射程よりも取り
回しの良さと攻撃範囲が重要だから。…けれど、目的に応じてスラッグ弾を込める。混戦状態での同士討ちを避けるために、
選択肢を用意しているんだ)
自分のスタイルに合致する物を、汎用性も考えて選択するのは重要な事。銃器は紙のように軽い訳ではない。持ち過ぎては
装備重量がかさんで満足に動けなくなるので、片っ端から現場に持ち込める訳でもない。
(ぼくにあう物は何だろう?…って言うか、ぼくのスタイルって…?)
アルとは違い、ノゾムは自己のスタイルを確立できていない。状況に応じて…と言えば聞こえはいいが、対処するだけで精
一杯の受け身になっている。
(…このままじゃいけない…。バックアップするにしたってフォワードになるにしたって、みんな「自分の遣り方」を固めて
るのに、ぼくはいつまで経っても…)
単独で状況を制圧できるような力は自分にはない。発火の能力は対象を無傷で確保し難く、下手に使えば重傷を負わせてし
まうし、最悪の場合は殺めてしまう。能力に頼らない対象の制圧は、調停者としてやって行くならば重要な課題となる。銃器
の取扱い許可が欲しくなった理由の一つは、単に戦闘能力を高められるだけでなく、ゴム弾頭などでの制圧が魅力的だと思え
たから。
(メインポジションの確立もまだで、立ち回り方も煮詰められていないのに、銃だけ決めるのは難しいかも…)
テスト問題とは別の悩ましい問題を見つめながら、ノゾムはひとり頭を抱えていた。
同時刻。都内のタワーマンション、上層階。
「戻ったのか」
両袖机につき、椅子に深くもたれた老齢の男の罅割れた唇が言葉をつむぐ。
禿頭で、真っ白な口髭と顎鬚をたっぷりと蓄えた、痩せ細った老人である。
老いと病に蝕まれ、肌は古びた羊皮紙のように乾いているが、その声には未だ威厳が宿り、瞳には生気が濃く宿っている。
その顔立ちには、かつてこの街に居た、調停者から「調停者」と呼ばれた老人の面影があった。だが、無頼の徒でありなが
ら筋を通して仁義を曲げない、紳士と好々爺の顔を持ち合わせていたその老人にはあったある物が、この老人の貌には無い。
ひとを惹き付け安堵させる類の魅力が、そっくりそのまま冷厳な威風へと置き換わっている。
老人の視線は、入室するなり跪き、恭しく頭を下げた男に向いていた。
「楽にせよ」
「は…」
許しを得て頭を上げた男は仮面を被っていた。この国の祭りや舞踊などで使われるような、古いデザインの狐面を模した仮
面だが、まず色がおかしい。黒地に濃紺の隈取が施してあり、額にはカメラのそれを思わせる大きな光学レンズが埋め込まれ
ていた。
それは、見る者が見れば感心するか、嫌悪感を抱くだろう仮面。古式にのっとった外観を装いながら、最新鋭をさらに越え
たテクノロジーが詰め込まれている。
仮面を外すと、その下からは低い声音に比して意外と若い顔が現れる。中東系の顔立ちで、肌は浅黒く、やや彫が深い。端
正と言うよりは、自然と接して生きる事で整えられた民族特有の、厳しさを湛えた風貌である。二十代半ばか、三十路に届い
たかという年の頃に見えるが、顔の作りはともかく、力ある眼光にも鋭い眼差しにも、未熟と言い換えられる若さは無い。
「それで、首尾は如何に?」
老人の問いに、仮面を胸に抱いた男は一礼して答える。イントネーションにやや不自然な点はあるが、言葉自体は流暢と言
える。
「だいぶ絞り込むに至れました。虫達のグループが戻らなかった派遣位置から推測しますと、おそらく臨海エリア付近に潜伏
しているものかと」
中年の報告を聞いた初老の男は、「結構」と満足げに顎を引く。
「流石は伝承の「虫使い」。探し物においては「センサーズ」の上を行くか。これが人海戦術の力…いや、虫海戦術と言うべ
きかな」
「お褒めに預かり恐悦至極にございます。マイロード」
深く頭を垂れる男に、体が悪いらしい老人は軽く咳き込んでから続けた。
「では、異常等の報告があれば聞こう」
「は…。実は一件ございます。「目玉」をつけた虫が二体、それぞれ気になる映像を持ち帰りました」
老人の目が僅かに鋭さを増す。
「件のモノの手掛かりか?」
「そこはまだ何とも…。後ほど鮮明な画像に起こした物をお持ちいたしますが、まずはこちらを…」
許しを得てデスクに歩み寄った男は、目が疲れそうな粗い画像の写真を二枚、恭しく差し出す。
一枚目には、恰幅の良い猪がコックローチを潰す様が映し出されている。得物は中サイズの剣一本、コックローチ二体を同
時に捌いている様子から戦闘能力の高さが窺えた。
「この猪は?」
「認識票らしき物が首元に確認できるので調停者と思われますが、監査官から入手しているブルーティッシュのメンバーリス
ト、及び首都で活動中の届出がある調停者の最新リストには該当者がおりません」
「すると、活動根拠地を移動させていない者…。たまたま居合わせた都外の調停者か…。そうであれば、こちらの動きの障害
とは成り得ぬ」
「では、恐れながらもう一枚をご確認頂けますか?」
「こちらか。この女性は?」
次いで老人が見つめたのは、野暮ったい格好の女性の姿を映した物。
「武装していない。一般人、か?…いや、ならば何故コックローチが…」
「その女性と先の猪、それぞれの情報を持ち帰ったのは、同地区に放ったコックローチでした」
男の説明を受け、老人の瞳が強い光を帯びる。
「その慧眼と叡智で、どうぞ私めにご指示を、マイロード…」
男は恭しく、仮面を持つ手を胸に当てて頭を垂れた。
そして翌日。
ノゾムは火器取扱いの基本講習と筆記試験を受けるため、教えられた電車で会場に向かった。
これは知識面を重視しながらの適性検査であり、これをパスしない事には各種銃器の取扱い免許は発行されない。一日がか
りとなる長丁場だが、元々記憶力が良く筆記を充分勉強してきたノゾムは実技以上に自信がある。
注意深く、慎重に、集中力を絶やさず臨んで昼を迎えたノゾムは、近場の牛丼屋で昼食を摂る事にした。回転の早い店だが
流石に昼時とあって満員に近い。運よく空いていた端っこのカウンター席についた狐は…、
(あれ?)
続いて入店してきた険しい顔つきの男に目をとめる。
その男は肉付きの良い中年の猪だった。店内を素早く見回して、それから腕時計を確認して、顔を上げるなりノゾムの方を
見て、目を少し大きくする。拍子抜けしたような顔で。
猪はノゾムと目が合うと、もう一度腕時計を確認してから、店員に示されて唯一空いていた椅子…ノゾムの隣に腰を下ろす。
ノゾムが猪を怪しむ事はなかった。険しい表情だったのは満席に見えたから。腕時計を気にしたのは時間が無いから。こち
らを見て表情を変えたのは空いている椅子を見つけたから。自然にそう解釈していたので。
(やれやれ、計器が反応したかと思えば…)
店員にオーダーを告げているノゾムの隣で、猪…ミューラーは胸中でため息をついていた。
(何たる偶然、昨日の坊ちゃんとは…)
チラリとノゾムの胸元に視線を向けたミューラーは、メッシュの丸首シャツの襟元で、体毛に沈みながらも僅かに見える認
識票を確認した。名までは記憶にないが、昨夜ブルーティッシュと共に行動していた姿を確認したミオから聞いて、調停者だ
という事は知っている。
計器の反応が街中の、それも飲食店の店舗が固まっている昼時のビルを示したので、慌てて駆け込んだミューラーだったが、
反応した対象は昨日見かけた少年。駅も近く人通りも多い場所なので、サラマンダーではなかった空振りに、ミューラーも今
回ばかりはホッとしていた。
(若いとはいえ調停者。目の前で妙な行動をして変に疑われてもまずい。ここは何気なくさりげなく如才なく危なげなく滞り
なく怪しげなく…)
ミューラーはメニューを手に取り…、
(昼飯を食って退散せねば!)
クワッと両目を見開く。何故気合を入れるのかというと、メニューが難問だからである。会話については危ういながらもそ
こそここなせるようになったミューラーだが、大半の漢字がまだ読めない。しかも…。
(ま、まずい…。まずいぞ…!こ、これはまずい…!)
スペースを取らない名前だけのメニュー表は達筆な筆文字で記されており、アレンジされたせいで覚えたはずのひらがなが
読めない。外国客用に複数の言語で表記されているメニュー表も置いてあるのだが、運悪くミューラーの席の前には日本語表
記のみの物が置いてあった。
無用な関心を持たれたくないので、メニューについて尋ねるのも避けたいミューラーは…。
(…む?)
ノゾムの前に丼が出てくると、猪っ鼻をスンスン鳴らして顔を上げた。
丸い少年の前には、丼から溢れそうな緑の刻み葱の上に、玉子が乗った牛丼。緑と黄色のコントラストが鮮やかなその丼か
らは、肉と葱の香りが絡み合いながら熱で漂い出ている。
「…え?」
今まさに箸をつけようとしていたノゾムは気付く。隣の猪が向けている視線に。
「…あの…、何か…?」
(しまったぁっ!ワシとした事がぁっ!)
ノゾムに話しかけられ、ガン見してしまっていた事に気付いて動転するミューラー。
「ア、ア…!」
相手は調停者。下手に素性が知られたら任務がアウトになるコース。勿論そうなったら少尉には褒めて貰えない。むしろ相
当がっかりされる。
冷静になれ。落ち着け。大体の場合はたぶん通じるという魔法の言葉をラドから教わった。あのヒキガエルが「魔法の~」
と述べる時点で怪しさ120%なのだが、流石に大事な任務に関係する事で悪ふざけなどするはずもない。しないだろう。し
ないな?信じるぞ?…と心の中で自分に言い聞かせながら、ミューラーは魔法の言葉を口にする。
「ドーモ」
「え?あ、どうも…」
ペコリと会釈するノゾム。
首都に知り合いは殆ど居ないので、ブルーティッシュのひとかな?それともさっき一緒に講習を受けた中に居たひとかな?
と考えて、向こうは自分を知っているらしいのにこちらは顔と名前を覚えていないケース特有の気まずさを持て余し、ヘラッ
と曖昧な愛想笑いを見せる。
(お、おお笑った!ドーモも返された!グートだヒキガエル!全ての道はドーモに通ず!)
一安心したミューラーは、ある事を思いついてノゾムの手元を指差した。
「ソレノめにゅーハナニ…」
猪の太い指が丼を指している事に気付き、ノゾムは「あ、これですか?」と視線を下に向けた。
「ねぎ玉です」
「ネギタマ」
「葱、好きなんです」
「ネギ」
「葱が嫌いでなければですけど、美味しいですよ?」
「オイシイ」
勝利を確信した笑みを浮かべ、サッと誇らしげに手を上げる猪。
「ネギタマ、オネガイ、スル!」
もうすっかり相当怪しい外国人になっているのだが、客観的に自分を見られないミューラーは気付いていない。それどころ
か上々の芝居ができていると思い込んでいる。
やがて出てきた熱々の牛丼を、ミューラーはハフハフ言いながら掻き込んだ。
「美味しいですか?」
「オイシイ」
食べ終えて席を立ちながら尋ねたノゾムに、モゴモゴと応じるミューラー。
「よかった…!」
去り際の笑みを印象深く胸に刻んだミューラーは…、
(うむ!少尉のような猫も良いが…、あの少年のような犬も良いな!)
犬ではないとは露ほども思っていなかった。そして…、
(そして「ネギタマ」!ふっふっふっ…!これは良い!少尉にも教えて差し上げねば!)
牛丼という食べ物の名称を「ネギタマ」と誤って憶えた。
「侵入成功です」
『無茶しますね~』
同時刻。アメリカンショートヘアーの少年は、入国管理局の敷地内に侵入していた。
侵入者が狙いそうな場所にはどんなセキュリティーシステムがあるか判った物ではないので、ノンオブザーブで姿も足音も
誤魔化したミオは、敷地に入る職員に続く格好で、警備員が直接確認して開けるタイプのゲートを抜けている。
昼日中、最も目立つ時間帯に堂々と潜入して確認するというミオの大胆な発案には、そろそろ付き合いが長くなってきたラ
ドも驚かされた。
「入国管理局は勿論、政府機関の施設内なんかに居られたら探すのも一苦労です。けど、僕ひとりでなら何処にでも…」
職員の後ろを堂々とついてゆき、セキュリティーゲートを正面から抜けてゆくミオ。
その状況を通信機越しに、待機中の車内で報告されているラドは…。
(少尉にかかれば大統領も暗殺できちゃいますねぇ~…)
つくづく、彼が黄昏に付かなくて良かったと感じていた。
こんな調子で白昼堂々と、厳重な施設を重点的に数箇所探ったミオは、捜査対象から次々と除外してゆき…。
いつも通りの首都の日中がせわしなく過ぎて、伸びたビル影が夕風を冷やしてホッと一息つかせる夕刻。
「おおよそですが、半分くらい行けたと思います」
ホテルに戻っての情報共有でミオがそう報告すると、ミューラーは図面を見ながら唸る。
埋め立て区域内でも一般立ち入りが制限される施設の本当に半分近くを、ミオは単独で調べ上げていた。
「計器の有効範囲が半径50メートルもありますから、だいぶ楽チンでした」
しれっと述べるミオだが、そもそも敷地侵入自体が困難な場所が多い。この青年が第一分隊の隊長を任されている理由を、
第一分隊が極端に少数である訳を、ミューラーは改めて実感させられる。
(まかり間違って少尉がテロリストにでもなっていたら、それこそ国家レベルの脅威だった…)
正直、もしもミオと同じ能力を持つ者が敵として現れた場合、防衛手段が思い浮かばない。
かつて、ミオの能力についてヴァイスリッター外への報告は効果範囲や持続時間などを一部偽装して行なわれている…とい
う事を、元々の主君である白騎士団長から聞かされた際には、下手をすれば背信行為と取られかねない真似をする主君の判断
に眉を顰めたものだったが、今となっては英断だったと心から思う。
ミオの能力は驚異的で、下手に全てを公表すれば、自国の政府までが疑心暗鬼に囚われかねない。利用したい反面、自身の
背後にもその脅威が忍び寄る可能性を考えれば、適当な理由をつけて幽閉あるいは処分されてしまうだろう。
(我が祖国のため、リッターのため、そして平和維持のためにのみ少尉はこのお力を振るわれる。この事実をそのまま信用し
ろと言ったところで、頭でっかちな政治家共は聞き入れんだろうしなぁ…)
とはいえ…。
(かわいい…)
(かわいい…)
ミューラーとラドは、小さな手に余り気味なカップを両手で持ち、やや硬くて吸い難いバニラシェイクを頑張って飲んでい
るミオを注視する。何も知らずに見れば、ミオは童顔で可愛い普通のアメショ青年である。
夜間巡回前に手間と時間をかけず済ませられるからと、ラドがチョイスした夕食はファストフード。ハンバーグ二枚にチー
ズが加わった分厚いバーガーも口が小さいミオには食べ難そうで、手と口をあまり汚さないように気をつけながらひたむきに
モグモグしている。
(かわいい…)
(かわいい…)
食事を頑張る少尉で和みながら、部下達は可愛さと無縁にグッチャグッチャとバーガー類を貪り食うのであった。
なお、単独で人通りの多いところをチェックしていたミューラーの方からは…。
「特に進展はありませんでしたが…、少尉は「ネギタマ」という日本料理をご存知ですかな?」
ドヤ顔で少し間違った情報が共有された。
「ヤキソバ大盛りとチャーハン大盛りとグリルチキン4ピースと冷製コーンスープ大盛りとメロンソーダよろしくっス」
ブルーティッシュ本部の食堂。北極熊が遠慮なく注文するのに続いて、「えぇと…、天ざる大盛りお願いします」と丸い狐
がオーダーを入れる。
制服姿の夜間当番組がちらほら見えるが、非番のアルはティーシャツ短パン、ノゾムも私服姿で食事に来ている。
今日の手応えはそこそこだったとノゾムから聞いたアルは、本人以上に上機嫌。向き合って食事するノゾムが見ているだけ
で満腹感を覚える食いっぷりで、内容と感想をあれこれ尋ねる。
機嫌が良いのは結果が大丈夫そうだったからというだけではない。明日はノゾムの講習も試験も入っていないので、今夜は
夜更かしできると踏んでいる。勿論、ノゾムが試験勉強をしたい事など考えていない。
デザートにフルーツ盛りまで詰め込んで、普段より出た腹を満足げにポンポン叩いてゲフゥッとゲップを漏らしながら、ノ
ゾムを伴って食堂を後にしたアルは…。
「今夜一緒に見ようと思ってDVD借りて来たんス!」
「え?」
ノゾムの予定お構いなしにいきなり切り出して面食らわせた。
「劇場版っス!」
「え?」
「菓子とジュースも用意したっス!」
「え?」
短い尻尾をピコピコ振りながら先を行くアルは…、
「ん?何かあんまり乗り気じゃないっス?」
やっと気付いて立ち止まり、振り返る。
「もしかして何か用事あったっスか?」
もしかしても何も、免許を取りに首都へ来たノゾムからすればまさかの質問である。
だがアルは今回のノゾムの首都訪問を、「友達が遊びに来る「ついでに」免許も取って行く一大イベント」…という受け止
め方をしていた。元々友達が少ない事もあり、年頃の少年として当たり前に喜び、楽しみにして、ノゾムには言っていないが
首都のサプライズ名所巡りまで予定している。珍しく計画的に。
ノゾムは、「勉強しようと思ってた」と、言おうと思って…。
「…あの、ぼく」
言おうと思って…。
「…ええと…」
思って…。
「予定…ない…、かも?」
結局、残念そうに耳を伏せたアルの顔を見ていたら言えなくなってしまった。
「そっスか!良かったっス!じゃあさっそくゴー!アンドウさんエイルさん!飯お先したっス!」
「あ、おふたりともこんばんは…」
意気揚々と歩いてゆくアルと、なにやら複雑そうな顔でついてゆくノゾムを、挨拶を返して見送ったアンドウとエイルは、
「アル、何かテンションおかしくねー?」
「そうでありますか?」
食堂に向かう足を止めて言葉を交わす。
「友達居ねーからなーアイツ。来てもらってテンション上がってんのかね」
「はて?そういう物でありますか?」
「お前はテンション平坦過ぎなの」
「冷静沈着でありますからして」
「そりゃー頼もしいこって…」
打ち寄せる波が夜風に音を添える、臨海エリア。
人々も寝静まり車通りも絶え、遠くサイレンが聞こえる埋立地。造成されて合理的に人工の陸となったそこで、夜の歩道を
歩む者がある。
野暮ったいジャージを穿いた女性は、何処へ行くでもなくフラフラと道をゆく。角を曲がったり、引き返してみたり、目的
地があるようには見えない移動の仕方は、正気を失いさ迷い歩く狂人のようでもあったが、しかしその顔には狂気どころか、
何の感情も思いも見られない。
不思議なことに、女性が歩いた周囲は涼しくなっている。確かに数度気温が下がり、しかしすぐさま空気がかき混ぜられて
しまうので、その影響は残らない。
望洋とした目をぼんやり前に向けて歩く女性は、その歩みと同様に脈絡無く足を止めた。
その行く手の高い塀の上から、背後の角から、カサカサと這い出て来るのは、膝を抱えて背を丸めた人間ほどもある、黒色
の巨大な虫。
コックローチを前にしながら女性は動じない。相変わらず表情を浮かべず、視線を定めもしない。風に揺られる草のように
僅かな揺れを見せているが、しかしその胸は、全く上下していなかった。
呼吸も、脈も、発汗も無い。それなのに立って、歩いて、動いている。そんな女性に、コックローチ達はカサカサと、長い
触角を振りながら近付き…。
ボッ…と、音がした。
光が一瞬路面を照らし、熱されたアスファルトが異臭を上げる。そして、そこに居たはずのコックローチが一匹、忽然と消
えている。
消失…否。焼失だった。
女性の瞳の奥に微かなオレンジが瞬いた次の瞬間、おもむろに目を向けた先で、視線を据えられたコックローチは瞬時に燃
え上がり、死骸も残せず夜風に舞う白い灰と化していた。
コックローチが詰め寄る。だが、結果的には一匹も、女性に触れる事はできなかった。
視線が撫でたそれだけで、コックローチは瞬時に焼却滅失せしめられる。恐るべき火力、驚異的な温度でありながら、しか
しその膨大な熱量を伴うはずの焼却は、極めて限定的な範囲にのみ効果を及ぼしている。
余波でアスファルトが熱されるも、溶け出さないばかりか焦げ付く事もない程度の影響しか漏れていない。
能力者の力とすれば破格の精度と火力だが、しかし彼女はひとではない。実際には「彼女」と称するのも正確ではない。
女性の死体に憑依し、動かないはずのソレを動かしているのは、サラマンダーと呼ばれる存在である。
やがて女性は再び歩き出す。そこに何かが居た痕跡すら残さず、周囲の熱を食いながら。
「スカー…、スコー…、スピー…」
床に敷いた布団の上で大の字になって寝息を立てている北極熊を、ベッドの上で身を起こした狐が見下ろす。
尿意を覚えて目覚めた深夜、ノゾムは見慣れていない客間を寝ぼけまなこでぼんやり見回した。
照明は落とされて、足元が判る程度の小さなライトだけがついた薄暗い部屋は、ノゾムが与えられた寝室。アルと一緒にア
ニメのDVDを観賞し、勢いがついてそのまま話し込んで、気が付いたら日付が変わっていた。時計を見れば、ベッドに入っ
てからまだ三時間も経っていない。
終始嬉しそうだったアルの顔を思い出し、その寝顔に重ねたノゾムは自然と微笑む。
嬉しかったのはノゾムも一緒だった。友人は少ない。元々あまり居なかったが、中学卒業後に調停者を目指すようになって
からはほぼ関係を断っている。好きな事を話題にして気がねなく話に興じる事も、そもそも相手が少ないのでそうそうできる
事ではなかった。
アルと話をして彼の事を知る度に、少しずつ共感を覚えている。
実力は違う。戦果も違う。周囲の期待も違う。何より、自分がその違いを大きな物と知っている。だが、所々で自分達は少
しずつ似ていた。この道を選んだそもそもの動機や、今に至るプロセス、調停者を目指したその歩みの早さに違いはあっても、
それでも結果的に似た部分がそこそこあった。
友人が少ない同士。何でも話せる同年代が居ない同士。普通の少年のように過ごす時間が貴重で輝かしく思えるのは、アル
もノゾムも変わらない。
狐の目がアルの体を這う。色を失ったノゾムの目は、暗闇では人並み以上に物が見える。四肢を投げ出して眠るアルの格好
も、大きくあいている口も、ティーシャツが捲れて露出した腹も、窪みが広いヘソも、分厚い胸も、太い腕も、逞しい脚も、
シーツや衣類の皺までもはっきり見えている。
羨ましいと思う。立派な体格が、強靭な体が。
だが嫉みは無い。違いと差を嘆きで埋めない。
アルの手がハート柄トランクスの中に突っ込まれ、あられもない格好で股の辺りをモソモソ掻く。タオルケットも放り除け
た豪快な寝相で、よくよく見てみると体が布団に対して斜め30度ほどに傾いており、盛大にはみ出している。
ノゾムはベッドを降りて、端に除けられたタオルケットを掴むと、丸出しのアルの腹にかけてやった。
「えへ~…、さんきゅー…っス~…」
にへら~っと笑うアル。起こしてしまったかと顔を見たノゾムだったが、にやけ顔のまま眠っていた。反射的な寝言である。
アルを起こさないよう気をつけて静かにトイレへ向かう。起きていなくとも気配は感じているのか、北極熊の耳はピクピク
と動いていた。きっと、察知している物が異常と感じられたらすぐさま跳ね起きるのだろうと、ノゾムはかつてのチームリー
ダーの事を思い出す。調停者を目指すノゾムに様々な指導と手解きをしてくれたリーダーは、種族こそ違うがアルと同じく白
い熊だった。
(縁があるのかな…?)
奇妙な一致を面白がって、ノゾムは小さく尻尾を振った。