Fatal Ignition(act5)

 ガウンとエンジンに火を蹴り入れて、大型バイクに跨った北極熊はハーフメットに上げていたゴーグルを下ろす。

 ブルーティッシュの地下格納庫。巨大な猛獣が唸るような低い排気音が壁に反響する中で、愛車をゆっくり前進させたアル

は、壁面にずらりと並んだ大型車両一台分のスペースに乗り入れた。

「メンバーと現場の規制線にはこっちで連絡入れとく。気をつけて行けよ?」

「うっス!」

 壁際に立ったアンドウがゲートを操作し、開いた向こうの緊急出動口が、地上までレッドランプを点灯させた。

 ワルキューレが勇ましい叫びを上げ、アクセルを開け放ったアルは砲弾のようにすっ飛んで行った。




「こちらは先日の位置とは海を挟んだ反対側になるのであります」

 埋め立て造成された区域に降り立ち、装備を確認したエイルは先に立って歩き出す。後ろから小走りについていったノゾム

は、メンバーと共に巨大倉庫を見上げる。

 背後には山のように積み上げられた貨物コンテナ。その向こうは海。貨物運搬の中枢たる埠頭は広い範囲で警察による封鎖

が行なわれていた。

 警備員が巨大な虫と遭遇した。…というのが今回の出動に繋がった最初の情報。発生位置が明確だったので封鎖は早く、従

業員は全て避難済みで、現在確認されている人的被害は警備員五名の負傷のみ。ただし、それとは別に警備員二名と連絡が取

れていない。

 救助と駆除が今回の任務。屋内での戦闘が想定されるため、エイルはガスマスクと催涙手投げ弾、独特なシルエットの短機

関銃P90を装備し、腰の後ろに催涙弾頭や冷却弾頭を放つためにハンディグレネードを帯びていた。ノゾムや他のメンバー

にも、催涙手投げ弾と防御用マスクが渡されている。もっとも、視界を狭める上に暑いので、いざ使用する段になるまでは装

着しないが。

 運搬車が出入りするためのゲートとシャッターを開き、残りの警備員が自力で脱出して来た場合と、虫が出た場合に備え、

簡易指令所を兼ねた二名が陣取る。後の九名は突入して内部を捜索するのだが…。

「広い…!」

 見取り図を渡されたノゾムは、敷地の広さと倉庫の大きさ、そして多さに絶句する。九名で探索するのはかなり厳しい規模

だった。

「ヤマギシさんは自分と同行するでありますから、八班に別れての行動となるであります」

「え?」

 再び絶句するノゾム。調停者はペアかスリーマンセルが行動の基本となるのだが、ブルーティッシュは全員が精鋭。ケース

によりけりだが、急を要する場合は独り一班の個別行動で事に当たる。

 自分ではとてもこなせないと、ノゾムは愕然とした面持ちでエイルに従い、ゲートを抜けた。

「他の支部に詰めているメンバーが増援で来るでありますから、駆除は後回しでも良いのであります。我々はできる限り素早

く生存者を発見、救出するのであります」

 足早に進むエイルは、話しながらも物陰、曲がり角、進路、頭上などあらゆる場所に気を配り、簡易指令所に逐一報告して

ゆく。マップのエリアは瞬く間にチェック済みの面積を広げるが、それも屋内に入った後は減速する。生存者が身を隠してい

るかもしれない、あるいは死体があるかもしれない場所をしっかり探ってゆかねばならないので、どうしても時間が取られて

しまうのである。

 一方、簡易指令所を務める二名は、持ち場担当の監査官に増援の到着予定を報告し…。

「…ブルーティッシュの増援が十五分ほどで到着し始める。第一波は総勢十一名、次は十分遅れで六名…」

 パトカーに戻り、無線のスイッチを確認してから、監査官は携帯端末で何者かへ情報を流していた。


「C倉庫1階、クリアーであります」

 無線で探索状況を報告したエイルは、右壁を見つめているノゾムを振り返った。

「その壁の向こうは四階分吹き抜けで、大型の荷物を取り扱うスペースであります。二階から上にはベランダのように張り出

した通路がありますので、そこから確認してゆくであります」

「りょ、了解!」

 休憩室、給湯室、トイレなどの小さな部屋や狭いスペースもチェックして行かねばならないのだが、これもドアを開けつつ、

虫の襲撃に備えて銃を構えるという緊張を伴うもの。精神的疲労と緊張感から、ノゾムは肥えた体をじっとりと脂汗で濡らし

ている。

 階段は見通しが良いが、先導するエイルは隙の無い動きで壁に身を寄せ、折り返す階段の上、死角となる物陰など、素早く

P90の銃口と視線を移してゆく。その動きを少し不思議に感じていたノゾムだったが…。

(あ!虫の…マスターを警戒して!?)

 エイルの動きが対人も織り込んでのソレだと気付き、一層緊張した。

(そうか!倉庫内…、荷物が沢山あるここに居る虫は、単に入り込んだんじゃなく意図して侵入させられている可能性もある

んだ!ここにある荷物の中のどれかを狙っているとしたら、マスターも一緒に入り込んでいる可能性が…)

 ブルルッと、ノゾムの丸い体が震えた。

 虫を扱う「マスター」は、切り札となる戦力を自分の護衛につけるケースが多い。ノゾムが思い浮かべたのは東護で対峙し

た危険生物、インセクトフォームでも最大級の戦闘能力を持つサソリ…ギルタブルルの姿だった。あの時はアルが見事仕留め

るに至ったが、エイルでも足止めしかできず、ペースを握って撹乱はしたが決め手は無かった。もしも今、ああいった物と遭

遇したら…。

 不安が手足を縮めさせる。萎縮が視野と注意半径を狭める。

 エイルに続く格好で二階に上がり、近場のドアから屋内吹き抜け倉庫を覗いたノゾムは、そこで息を飲む。

 明かりが落とされた広大な空間。申し訳程度の非常口表示の光が浮かび上がらせるのは、巨人の積み木の如く重ねられたコ

ンテナ。端に寄せられて充電しているフォークリフト、天井まで巻き上げられた大きなクレーンフック、詰まれたコンテナな

ど、あらゆる物の影に怯えから異形を錯覚してしまうノゾム。

「ヤマギシさん、何か居るでありますか?」

「え!?」

 問われて初めてノゾムは自覚する。インセクトの体温は哺乳類とは違い、サーモスコープの類でも見つけ難い。暗闇に虫が

潜んでいるこの状況こそ夜目が利くノゾムが頼りになる。

(し、しっかりしなきゃ…!)

 怯えていた自分を恥じ、意識して奮い立たせ、素早く視線を走らせる。ただし注意深く、反射を、動くものを、一つも見逃

さないように…。

「エイルさん…!サーチャーコックローチが二体、クレーンフックから少し右に離れた天井の梁の段差にくっついてます…!」

 チャッと素早く銃を構えるエイル。その視線はノゾムが注視する位置へピンポイントに注がれ、暗闇に溶け込む黒い体と、

光沢の僅かな反射を捉える。

「視認したであります。他には居ないでありますか?」

 コックローチもこちらの存在に気付いている。注意を外さないまま問うエイルへ、ノゾムはさらに視線を走らせて…。

「この通路の反対側…、何だろう?清掃用具ロッカーを横倒しにしたみたいな箱があるんですが…」

「見取り図では、この作業倉庫で火災が発生した際に使用する消火ホースが各階層の空中通路に設置されていたであります。

方角からしてそれではないかと」

「それって箱型ですか?外にホースとかは出てませんか?」

「非使用時は完全収納されているはずでありますが?」

 ノゾムは目を凝らす。

 箱がある。横長の、長方形の箱が。距離もあり、暗過ぎて輪郭がハッキリしないが、その横にごちゃっとしたシルエットが

見える。それが、とぐろを巻くように置かれたホースや、ゴテゴテした消火器具の一部でないのなら…。

「…人…間…?…あ、そうだ。たぶん大人のひと…、警備員さん…!?」

 生き物かもしれないと疑いを持って凝視したノゾムは、その影が頭を抱えて身を縮め、息を殺して隠れている人間男性であ

る事を確信した。さらに…。

「コックローチが…、もう一匹…!」

 階下に動きがあった。男性が居るその真下付近、コンテナの影から壁へと、何かを探すようにゆっくり動くコックローチを

ノゾムの目が捉える。どうやら男性の正確な位置は判らないまま、呼吸か何かを察知して動いているようだが…。

「上の二体はこちらを窺っているであります。刺激すれば襲ってくるでありましょう。向こうの一体はこちらに気付いていな

いでありますが、あちらの男性の存在を察知しているであります。意識をこちらに向けさせれば、三体ともこちらへ来るであ

りますね」

「じゃあ…、引き付けます!」

 即答したノゾムを横目で窺い、エイルは小さく顎を引く。

「帯同者資格により発砲許可は降りているであります。必要なときは躊躇わずに撃つでありますよ。…大丈夫」

 P90の銃口を向こうの壁へ…今まさによじ登ろうとしているコックローチへ向け直し、エイルは囁いた。

「ヤマギシさんは、落ち着いて撃てば当てられるのであります」

 タタタタタンと、軽快に音が鳴る。

 よじ登っている壁を銃弾が連続して抉り、驚いたコックローチがポロリと落ちた。次の瞬間、天井にしがみ付いていた二体

が落下し、宙で翅を広げる。

「飛翔して来るであります。走るでありますよ」

「はい!左を狙います!」

 狭い通路では立ち回りが不利。白兵戦は分が悪い。先に立って走り、救助対象である男性を目指しながら、エイルはP90

を連射してコックローチを迎撃する。一体に集中した銃弾は、しかしダメージを与えても落とせない。絶命寸前まで動き回る

のがこの危険生物、弾痕から体液を撒き散らしながらも羽ばたき、接近する。

 一方ノゾムは宣言を受けてエイルが狙ったのとは逆の一匹へ、発火の視線による牽制攻撃を仕掛けた。走りながらでは照準

がブレるエイルとは違い、対象座標の把握から発火までは一瞬。狙い違わずパッと火の花が咲き、翅の一部をメラメラと燃や

しながらコックローチが階下へ落ちる。

(もう一匹は…!)

 男性に接近していた方のコックローチに目を向けたノゾムは、

「あ…!」

 一直線に迫るその姿を見る。

「伏せるであります」

 咄嗟に腕を掴み、ヘッドスライディングするように倒れ込むエイルに引っ張られて、ノゾムも倒れ込む。そのすぐ上を、手

すりを掠めて飛来したコックローチが通過して壁に激突し、そのまましがみ付いた。

(やはり、ヤマギシさんを優先して狙うでありますか…)

 そして、エイルの銃撃を受けながら飛来したもう一匹は、行く手を塞ぐように通路に着地する。

 突進してくる手負いのコックローチ。エイルは起き上がるのではなく、両手をついたまま腰を浮かせ、半ば逆立ちの状態で

蹴りを放った。ムチッとした体躯から繰り出されたカポエラを思わせる蹴りはリミッターカット済み。何処か可愛らしいモー

ションとは裏腹に、全く可愛げの無い音を立ててコックローチの頭部に命中。一蹴りで外殻を叩き割り、内容物を体液ごと派

手に撒き散らす。

 蹴った反動で体を反転させ、低空側宙の要領で着地したエイルは、ノゾムに襲い掛かろうとしたもう一方の複眼めがけ、P

90で連射を食らわせる。さらに、流石にひるんだコックローチへ、ノゾムを飛び越しながら射抜くような蹴りを見舞い、吹

き飛ばしてのけた。

 が、エイルの禁圧解除操作は長く保たず、肉体もそう頑丈ではないのですぐに反動が来る。一撃目と比べて明らかに蹴撃の

威力は下がっており、仕留められていない。

 構え直してトドメをさそうとしたエイルは…。

「あ!」

 背中にノゾムの声を聞く。

「ヤマギシさん!」

 思わず振り向いたエイルが見たのは、手すり越しに伸ばされた細い脚が、その鉤爪を引っ掛けて丸い狐を引きずり出そうと

する光景。

 先にノゾムが落とした一匹は、片翅を焼かれながらも平然と戦線復帰し、下からよじ登って奇襲を仕掛けていた。

「くっ!」

 体勢を立て直し、前方から飛び掛ったコックローチに銃口を向け直し、連射するエイル。もう一方の手が腰後ろのグレネー

ドに伸びるが、装填されているおは凍結弾頭。接触状態ではノゾムまで液体窒素を浴びてしまう。

「だっ…」

 襟にかかった爪によって乱暴に引き起こされ、手すりの向こうへと引っ張られながら、ノゾムは叫んだ。

「大丈夫!」

 その手には、分厚く重々しい、一振りの鉈。

「ブルトガング!」

 ノゾムの懇願を受け、握り締められたレリックウェポンは起動し、ヴヴヴ…と、コックローチ達の羽音よりも低い振動音を

発する。
モーションも振りかぶりもなっていない、単に押し付けるようにコックローチの顔面をブルトガングで殴るノゾム。

本来なら牽制にもなり得ない、腰も入っていないしリストも甘い一発だが…、

「ギシシシシジジギジジッ!」

 コックローチが苦鳴を上げた。叩きつけられた鉈が高速振動で外殻を破砕し、細かな破片を撒き散らして頭部に食い込んで

いる。しかも単に外殻を損壊させただけではない。ノゾムの危機感を感知し、その身を護らんと最大起動しているブルトガン

グが放つ振動波が内部へ流れ込み、コックローチの神経節までズタズタにしてゆく。

 二秒と少し。それが、ブルトガングがコックローチを絶命させるのに要した時間。息絶えたコックローチはグラリと揺れ、

落下し…。

「あっ!」

 力を失ったコックローチの爪が衣類に引っかかり、ノゾムは手すりの外へ引っ張られる格好で転落して行く。

「ヤマギシさん!」

 エイルが伸ばした手は空を掴み、ノゾムはそのまま階下へ。

「む!」

 折り悪く間をつめてきたコックローチに、グレネードをお見舞いして凍結させたエイルは…。

「げほっ!うぐ…、痛たたたた…!」

 下から響いたノゾムの咳き込みと声を聞きつつ、手すりから身を乗り出して下を覗きこむ。

「ご無事でありますか?」

「あ、あい…!だいりょぶれす…!」

 涙目で見上げるノゾムは、コックローチの亡骸が下敷きになったおかげで大怪我を免れていた。

 ホッとしたエイルだったが、しかし安心している暇は無かった。

「ひ、ひいいいっ!」

 倉庫に響く悲鳴。消火設備ボックスの脇に屈み込んでいた男性が、今の騒ぎに驚いて立ち上がり、走り出していた。

「待つのであります。我々は…」

 エイルの呼びかけも耳に届かない。怯えきった男性はそのまま空中通路を走り、非常口の明かりが灯るドアの一つへ飛び込

んでしまう。

「エイルさん!追いかけて下さい!」

 階下からの声でノゾムを一瞥したエイルは…、

「こっちは大丈夫です!すぐ合流します!

 少年が大きく手を振り回して無事をアピールすると、一つ頷いて駆け出した。

 レッサーパンダの影が、男性が飛び込んだドアの向こうへ消えるのを確認した丸い狐は…。

「っつ…」

 立ち上がろうとして右足の痛みに呻く。

(足首捻っちゃったか…)

 5メートル半の落下でこれなら運が良かったと、応急キットのスプレーで患部を冷やし、手早く包帯で巻き硬めたノゾムは、

沈黙したブルトガングを鞘に収め、足を引き摺りつつ近くのシャッターを目指した。

 一階通路とは繋がっていない車両乗り入れ用のシャッターで、その向こうは風除室。先にエイルと一緒に覗き、危険が無い

事は確認済み。

(あそこから一回外に出て、さっきの男の人が走って行った方に先回りを…)

 壁に設置されたシャッター操作ボタンは赤と緑のランプつきで、それぞれ上下を向いた三角型。判り易いパネルデザインに

感謝しながら、開くボタンにタッチしたノゾムは…。

「…え?」

 シャカシャカと動き回る無数の足を、開いたばかりの隙間に見た。

 そこは、確かに安全だった。数分前まで。

 だが今は、排水用大型ホールの密閉蓋を下から押し開けた夥しい数のコックローチがひしめく、悪夢のような部屋と化して

いた。

「うわ!」

 慌てて閉ボタンを連打するノゾムだったが、この手のシャッターは事故防止のため動作が緩慢で、特に閉じる際は神経質な

遅さとなる。しかも、何かが挟まった場合は負荷検知により強制停止する。つまり…。

「ああああ…!」

 じりじりと後退するノゾムの眼前で、這い出そうとしたコックローチの背に当たったシャッターが緊急停止。自分達の厚み

よりほんの少しだけ狭い隙間から、黒い虫はギシギシとシャッターを揺らして這い出て来る。

 右足をくじいたノゾムは早く走れない。下手に刺激しないようにゆっくり後退するも、埋め込まれたセンサーによって発火

能力者に反応しているコックローチ達は、興味を失う事無く寄って来る。

 他のドアを探したノゾムは、距離にして20メートル程の位置に非常ドアを見つける。足首を痛めていなくとも、走って逃

げ込むには微妙な遠さだった。

 フォローも無い状況。自身の発火能力だけでの完全撃退は難しい数。借りた拳銃を使うとしても正直自信が無い。牽制で炎

を放ってから一気に走るにしても、タイミングを間違えればドアへ逃げ込む前に追いつかれる…。

 ハァハァと息を荒らげながら、ノゾムはコックローチ達を刺激しないように後ずさり、ドアとの距離を繰り返し確認する。

 もう少し。もう少し。今すぐ身を翻して走り出したい、恐怖からの欲求。相手への刺激が即危機を招き入れる状況下、脇目

も振らず逃げ出す誘惑に耐えて後退を続けるノゾムだったが、

「う…、ううう…!」

 コックローチの前進速度が増す。いくらかは警戒もしていたのか、それとも状況を確認中だったのか、それまで多少は遅かっ

たのだが、ノゾムを脅威でないと感じたのか前進が大胆になってきている。

 後ずさるスピードを少し上げるも、コックローチとの距離は開かないどころか、どんどん詰まっている。這い出てきたコッ

クローチはもはや視界一杯に広がっており、両端側はノゾムを取り囲もうとするように速度を上げていた。

 包囲されたらおしまい。振り向いてから走り、ドアへ辿り着くまでの猶予となる彼我の距離を考えれば、刺激せずに後退す

るのも限界だった。

 ゴクリと唾を飲み込むなり、ノゾムは視線に力を込める。

 ボワッと、普段よりも広範囲で燃え上がる炎。触覚を焦がされ、体表を焼かれ、コックローチがギィギィと口元から音を発

するが、丸焼きにするほどの火力は無い。範囲を広げた分だけ燃焼温度は低く、炎は熱気だけを残して一瞬で消え去る。

 発火と同時に踵を返して駆け出したノゾムに、一瞬だけ足止めされたコックローチ達が殺到した。

 踏み出すたびに右足が痛んでいるはずだが、それすら意識できない危機的状況。一刻も早くレバーハンドルノブを掴もうと、

ドアの遥か手前から手を伸ばしている不恰好な疾走。人々のざわめきのようにも聞こえるコックローチの足音と、不快に耳を

震わせる翅音が、どんどん背中に迫り…。

(と、届い…!)

 指先からノブまで50センチ。何とか間に合うか、ギリギリの緊張に晒されるノゾムの目の前で、

(え?)

 ガチャリと、レバーノブが回った。

 引きこみ型のドアが向こうへ遠のき、ぽっかり四角く開いた空間は、しかし占有者の体で大半が埋まっていた。

『!?』

 声にならない声を上げたのは、ノゾムと…、

(ぬあああああ!?何だこの状況は!?)

 鉢合わせした猪…ミューラーも同様だった。

 が、この場での経緯の理解は難しくとも、ミューラーの現状を見ての判断と行動は早かった。

 猪の実戦慣れはミオだけでなくリッターの上層部も買っている。猪は駆け込んでくる少年が前に伸ばしていた腕を引っ掴む

と、引っ張り込みつつドアを蹴る。

 乱暴に蹴り込まれたドアは分厚く丈夫なので壊れはしなかったが、それでも中央が大きく陥没して、轟音と共に殺到してい

たコックローチの先頭を痛打、弾き返しつつ閉まる。しかし…。

(ちぃっ!ねじこみよったか!)

 ノゾムを引っ張り込みつつドアを蹴ったミューラーは、後ろへ倒れこみながら苦々しく顔を顰める。背中から倒れつつ見上

げる天井。そこを、飛翔してきたコックローチが立て続けに二匹、翅を壁にぶつけてバランスを崩しながら通過した。

「わうっ!」

 手を捕まれて引っ張りこまれたノゾムは、下敷きになったミューラーの肉厚な体でバウンドしており、息を詰まらせはした

が怪我は無い。

 無事の確認も後回し。ノゾムを抱き止めたミューラーは寝返りを打つ要領で少年を横に退けつつ上下入れ替わり、身を起こ

した時には既に右手でカッツバルゲルを、左手でもう一本の得物を引き抜いている。

「ツリュック、ツリュック!(下がれ下がれ!)」

 ノゾムには母国語で下がるよう叫びつつ、ミューラーは通路奥に着地したコックローチに向かって突進する。

 着地するなり方向転換したコックローチは、幅2メートル程度しかない、非常灯のみの薄暗い通路をシャカシャカと前進し

て来る。ドスドスと勇ましく突進した猪は、踏み込みながら右腕を振り上げ、体重をかけて振り下ろした。

 バキャッと音が響き、頭部に深々と切れ込みを入れられるコックローチ。それを踏み越える格好で二体目に向かったミュー

ラーは、めり込んだ剣を引き抜こうとしたが…。

(あ、危な…!)

 抵抗が強くて抜けず、動作が一拍遅れているようにノゾムの目には映った。

 二体目のコックローチが飛びかかる。剣はまだ下方。間に合わないタイミング。…と思えた。

(え!?)

 ノゾムは息を飲んだ。

(すごい…!)

 ガギンと、硬質な音が通路に響く。猪が頭をガードするように上げた左腕に、飛び掛ったコックローチが喰らい付く格好に

なっているが、その牙は衣類にすら傷をつけていない。ガードのために上げたミューラーの左腕は、もう一本の得物…黒いト

ンファーを握り込んでいる。

 ヴァルキリーウィングC。

 ミオ・アイアンハート少尉が運用し続けた試作モデルで検証を重ねた末、少数量産に成功した擬似レリックウェポン。ナハ

トイェーガー専用の基本装備である。

 飛び掛ったコックローチを殴り遣るように払ったミューラーは、背中側から壁に激突したそこめがけて、握り直したカッツ

バルゲルを突き込む。

 コックローチの胸部中央へ鍔元まで埋まるほど深々と剣を突き刺した猪は、片足で踏みつけるようにして床にゴヅンと叩き

つける。

 もがくコックローチを踏みつけて固定しつつ、捻りながら剣を引き抜いたミューラーは、とどめの一撃を胸部と頭部の継ぎ

目に叩き込んだ。

(誰…なんだろう…?)

 絶命したことを確認してから身を起こした猪の姿を、ノゾムはポカンと眺めた。装備が異なるしエンブレムも着用していな

いので、おそらくブルーティッシュではないが、何処かで見たような気がした。

(あ!もしかして牛丼屋で…)

 ピンと来たノゾムに顔を向け、マグライトを取って足元を照らしながら状態を確認したミューラーは、

(…む?何処かで見たような顔…あ!調停者のネギタマの犬の少年か!?)

 すぐに思い出した。が、やはり狐だとは思っていなかった。




 唸りを上げて首都高を疾走するワルキューレ。跨る北極熊はゴーグル内に表示されるマップとポップアップ表示から、視線

を空に向ける。

(これ、もしかしてヤバげな雰囲気じゃないっスか…!?)

 臨海エリアを目指すバイクの上からは、時折空を飛ぶ黒い小判型が見える。

(見える範囲だけでもコックローチが何匹も向かってるっス!なんスか今日!?イベント!?)

 ゴーグルに表示されているメッセージで、規制線維持のために人員が増やされている事、援護に向かうはずのブルーティッ

シュ各支部の部隊が流入阻止のために戦闘を開始した事が告げられる。

(まさか…、リーダーが言ってた虫使いが、本腰入れてきたって事っス!?)

 車線を変更しつつ加速し、車両の隙間を縫うように走行しながら、アルは先を急いだ。




「対象を捕捉」

 狐面の下でくぐもった声を漏らす壮年。

 見下ろす先は広大な敷地を有する配送業者倉庫。送信されてくるコックローチからの視覚映像が、野暮ったいジャージを穿

いた女性の姿を捉えている。

「位置は32ゲートの表示がある仕分けライン近く。…熱動力源が感知できている。「食事」のために潜り込んでいたと推測」

 ジュンッ…と、鼓膜を震わせない音を、壮年は感知する。跡形も無く灰燼にされたコックローチが最後に聞いたその音と共

に、送信されてくる映像が途切れた。

「目を失った。別の班を送る」

『了解。こちらは調停者と思しき太った犬の若者と、救援に現れた猪の中年を確認』

 マスクに内蔵された通信機から、同僚の女性が告げる。

『第二大隊は地上へ進出完了。このまま足止めを続行。手が必要なら指揮系統をそちらへ回す』

「現在は不用。ただし、若が到着なさるまで捕捉し続けるのが困難な場合は「目」を借りたい」

『了解』

 虫使い達がターゲットを再捕捉したのは二時間前。虫を忍び込ませて存在を確認した今は、制圧し、位置を特定し、コック

ローチを全てつぎ込む心積もりで続々と呼び寄せている。

 本来、虫はマスター登録した者に従い、命令権は個人の物となる。だが、この虫使い達はマスター登録という手順も、それ

に使用する大掛かりな機材も必要とせず、より高度で柔軟性の高いコントロール能力を持っている。

 マスター登録…主従の固定化が必要ない彼らは、コントロール権限を仲間内で譲渡し合う事が可能。これはつまり、ひとの

軍隊と同様に、柔軟に指揮系統を組み替えられる事を意味する。

 さらには、有効距離1キロ程度という制限はあるものの、使役する虫から情報を吸い上げ、一種の感覚共有まで可能。第三

者へ提示する場合は機材の力を借りて画像に起こすなり映像にするなりしなければならないが、自身はダイレクトに虫が見て

いる物を知覚できる。

 だが、複数個体を同時に使役しつつ、その感覚と自分の感覚を並行処理する事など、普通の人間には不可能。感覚そのもの

を受信するのも、本来であれば弊害として感覚の混乱が生じる。そもそも虫の感覚による物事の捉え方はひとのソレとは大き

な差があり、「意訳」して咀嚼するにもセンスと経験が必要となる。しかも、そうして虫から受信した感覚を自身の感覚と同

時進行で処理する脳には凄まじい負担がかかる。

 しかし彼らはこれをこなす。脈々と受け継いできた血によって。

 これが、機器を開発してなお応用には至らなかった、虫使いの一派であるウムダブルチュ一族の力。人間と同じ姿形をして

いながら部分的に大きく異なる古代種…「天然のレリックヒューマン」が有する能力だった。