Evolution of White disaster (act8)

「生憎と寝具が足りぬでな…。済まぬがこの部屋を使って貰いたい」

赤銅色の巨熊の案内で部屋に通されたレッサーパンダは、内装を見回して口を開く。

「…ここはもしや、ユウトさんの部屋でありますか?」

フリルのついた可愛らしい水色のカーテンや、水玉模様の掛け布団。

箪笥やテーブルの上に置かれた可愛らしい小物類に、明るい色合いのクッション類。

住人の好みを如実に反映している、首都に居た頃と同じような内装の部屋は、エイルにとっては馴染み深い物であった。

「他の誰かであればともかく、君であれば無断で使わせたところで怒りはすまいよ。気兼ねなく使って欲しい」

そう言ったユウヒの顔をちらりと一度見上げたエイルは、自分には明らかに大き過ぎるベッドに視線を戻す。

行方不明になっている妹の事を話題に出しながらも、ユウヒの声にも表情にも感情の揺れは見られない。

内心はどうあれ、客の前では動揺を全く表に出さず、相手に気を遣わせないように振舞う。

だからこそアルも、心配はしながらも日々を健やかに過ごせている。

友人が常々言っていた、自分の兄は強いひとだという言葉を、エイルは思い出す。得意げな笑みを浮べていたその顔と共に。

「汚さないよう気をつけて使わせて頂くであります」

ペコッとお辞儀したエイルは、ふと視線を感じて首を巡らせる。

開いたままのドアから見える廊下に、鈴つきの首輪をした白い猫が佇み、レッサーパンダを見つめていた。

「………」

エイルが無言のまま、じっと白猫を凝視している事に気付いたユウヒは、レッサーパンダの様子をそれとなく探りながら口

を開いた。

「この近辺に住んでいるのだが、この事務所の常連客なのだよ」

「…この猫さん…」

ボソリと呟いたエイルは、相変わらずマユミに視線を固定している。

もしや何か勘付かれたのか?と、ユウヒとマユミが焦りを感じ始めると、エイルは不思議そうに首を傾げながら呟いた。

「以前、とある事件の関係でブルーティッシュが探していた猫さんに似ているであります」

なんだその事か…。と、内心でほっと胸を撫で下ろしたユウヒは、

「本人…いや、本猫だ。その件で不破殿とユウトに懐いたらしく、ちょくちょく遊びに来るようになったらしい。人に馴れて

おるらしく、俺にもアル君にも警戒するそぶりは見せなんだ。名はマユミという。君も仲良くしてやってくれぬかな?」

これぐらいは話しておいた方が、かえって余計な詮索はされずに済むだろうと、エイルの意見が正しい事を認めながら、つ

いでに用意していた説明を口にする。

「了解であります」

頷いたエイルが白猫から視線を外し、再び室内を見回し始めると、マユミとユウヒはほっと息をついた。



シャワーを頭からかぶりながら項垂れているアルを、隣でボディシャンプーの泡だらけになっているアンドウがチラリと見

遣る。

「まだショック抜けてねーのか?」

「………」

尋ねたアンドウに、どんよりと暗いアルは黙ったまま答えない。

「気にすんなって。ほじくられたからって死ぬ訳でもねーし。まだいてーの?」

「…痛いっス…」

ぼそっと応じたアルは、「はぁ〜…」と盛大なため息を吐き出した。

「恥かしくて死にそうっス…。オレ、もうエイルさんの顔まともに見れないっス…」

「エイルはああだから気にしてねーと思うけどな…。お前もあんまり気にすんな。ただの検査の一環だ、ただの」

「…だ、だって…!アソコっスよ!?あんな穴見られた上に触られて指入れられてグリグリされてさらに奥…!」

アルは言葉を切ると、その時の感覚を思い出したのかブルルっと身震いした。

「…オレもう、お嫁に行けないっス…」

「婿な。…ってか、どっかに嫁ぐつもりだったのかよ…」

応じたアンドウは、シャワーヘッドを体に押し当てるようにして泡を洗い落としながら考える。

(なるほど…。榊原財閥のご令嬢と上手くつきあってけば、逆タマも有り得るか…)

「応援するぜ。だから上手い事行ったら車の一台でもくれ」

「へ?」

唐突に妙な発言をしたアンドウに、そんな所まで考えていなかったアルはキョトンとした顔を向けた。



それぞれの短い休息の後に、眩い朝日が昇り、東護の街並みを照らす。

朝もやに包まれた事務所前の道路でアイドリングするジープに、赤銅色の巨熊と細面の男が歩み寄った。

「お世話になりましたっス!」

「お二人とも、お気をつけてであります」

白熊とレッサーパンダが口々に声をかけると、後部座席のドアを開けたユウヒは、振り返りつつ口元に笑みを浮かべる。

「短い間だったが、実に楽しい日々であった。そうそう来られる物では無いだろうが、その内また、河祖下に遊びに来て欲しい」

「うス!オレも楽しかったっスよぅ!ユウヒさんこそ、首都に来たら声かけて欲しいっス!」

笑顔で頷いたアルから視線を外し、次いでユウヒは隣に立つずんぐりむっくりしたレッサーパンダに視線を向けた。

「では、済まぬがエイルさんもよろしく頼む。俺では判らぬ品も多い故、正直助かった」

「お安い御用であります」

頷いたエイルは、事務所内の調停に関する品々を選定し、カズキの後輩である若手監査官に引き渡すという役目を買って出

ている。

本来であればカズキに出向いて貰って見定めて貰う予定だったのだが、療養中の彼に負担をかけずに処理したいと思ってい

たユウヒにとって、エイルの申し出は有り難い物であった。

ユウヒは最後に、二人の間で歩道にお座りしている白猫に視線を向ける。

マユミは「なぉ…」と短く鳴き、次いでコロコロと喉を鳴らしながら目を細めた。

別れの言葉を交わせぬ歯痒さを感じながら小さく頷いた赤銅色の巨熊と、立てた尻尾を優雅にくねらせる純白の猫は、互い

の目を見つめあう。

共に過ごした時間はそう長くないものであったが、今では互いを信頼に足る相手と認識している二人は、無言で別れの視線

を交わした。

妹とその相棒の足取りも掴めぬまま、こうして帰路に着かねばならないユウヒの心情を思えば、アルとマユミの心は暗く沈む。

しかし、ユウヒ当人が辛そうな素振りを見せぬ以上、せめて見送りは笑顔でと思い、二人とも寂しさを堪えて精一杯の笑み

を浮べていた。

「アンドウさんも、お気をつけてであります」

「おうよ。そっちもしっかりな?アル、エイル」

左手を軽く上げて応じたアンドウは、運転席に乗り込んでシートベルトをかけた。

本部へ帰還する彼は、一晩世話になったせめてもの礼という事で、新幹線が発着する駅までユウヒを送ってゆく予定である。

「では、いずれまた…」

顎を引いて会釈したユウヒは、ジープの後部座席へいささか窮屈そうに巨体を押し込む。

白熊と白猫とレッサーパンダに見送られ、ジープは軽くクラクションを鳴らし、朝もやの中を走り出した。

別れの寂しさを胸に、ジープの姿が消えるまで見送ったアルは、傍らのエイルを見下ろし、口を開いた。

「オレ、トレーニング終わったら弾薬補給と、病院にお見舞い行って来るっス」

「了解であります。では、自分はその間に担当監査官さんへの挨拶と情報収集を。…アルビオンさんがお世話になっていた調

停者さんにも御挨拶しておきたいのでありますが…」

「ナガセさんっスね?電話番号教えるっス」

アルと言葉を交わしながら階段に向かったレッサーパンダは、足元をトコトコついて来る白猫を見下ろす。

「………」

しばし無言でマユミを見下ろしていたエイルは、彼女が顔を上げると、首を傾げてその瞳を見つめた。

「どことなくでありますが…、変わった雰囲気の猫さんでありますね…」

小首を傾げながらそう呟いたエイルに「みゃお」と鳴いてみせると、マユミはそしらぬ顔でトトッと足早にかけ、先を歩む

アルの隣に並んだ。

(この方、勘が良いのかもしれませんね…。バレないように注意しないと…)



その日の午後。

分厚い鉄扉を潜ったエイルは、四方の壁が天井まで本棚で埋まった部屋で、小柄な影と向き合った。

天井で大型ファンが回り、淀んだ空気を吸い上げて新鮮な空気と入れ替えている地下深くのその部屋には、中央に鎮座する

大机の上に作動中のパソコンモニターが10台置いてあり、それぞれがごちゃごちゃと積み上げられた機器に繋げられている。

エイルは向き合った相手、自分と同程度の背丈の男に向かって軽く頭を下げた。

「お久しぶりであります。お師匠」

「また唐突な訪問だな、エイル」

応じた声は合成音のような奇妙な声質で、生の声ではない。

小柄な男は、しかし実際に男なのかどうか、性別どころか年齢すら判断がつかない。

男は目深にフードを被り、ローブのようなゆったりとした衣類を身に付け、頭の天辺からつま先まで一切露出していないの

である。

「この街のヤサを訪れたのは初めてだったな?」

大机脇のアームチェアにかけつつ口を開いた男に、エイルは頷く事で応じた。

「何故また東護町などに来た?…ああ、アルビオン・オールグッドを迎えに来たのか…」

尋ねた男はすぐに答えに思い至って頷きながら呟き、エイルは小さく首を傾げて尋ねる。

「アルビオンさんを知っているのでありますか?」

「面識はない。映画俳優を知っていると言う場合と同じような意味での「知っている」だ」

応じた男は椅子の上で短い足を組み、「で、何の用だ?」と、エイルを促す。

「この街に、少し珍しい危険生物が潜んでいるであります。…お師匠は既にご存知でありますね?」

「サソリの事だな?」

「ええ。ディーラーの中年共々、その潜伏先を調べて欲しいのであります」

男は腰を上げると、机の上に置いてあったA4サイズの図面を手に取り、エイルに手渡す。

「昨夜から今朝までにかけて、ギルタブルルとその売り手らしき男の姿を捉えたカメラの位置。及び推測される潜伏範囲の図

面だ」

受け取った資料をしばし見つめた後、エイルは顔を上げ、目深に被ったフードの下、男の顔を覆う闇へと視線を向ける。

「この情報、誰に売ったのでありますか?」

既に情報が纏められていた事からエイルは察する。自分が今見ているこの資料は、誰かの依頼で先に纏められていた物だと。

さらに、資料内の足取りに付記されている情報の時間帯から、客はほんの数時間前に訪れたばかりだという事も察しがつく。

「他の客の情報をただでホイホイ提供するようでは、情報屋などできんよ」

「では、いくらでありますか?」

そう問うエイルに、男は肩を竦めて見せた。

「そこそこ値が張るぞ。それと、サービスで言うが、今のお前にとっては買う価値がない情報だな」

短い沈黙の後、エイルは頷いた。とりあえず、情報を買っていった者は自分に敵対する者ではないのだろうと判断して。

「代金は後で振り込むであります。…それと…」

エイルは右腰に装着していた大型ポーチをあけて小さな保冷容器を取り出し、男に差し出した。

「お土産の、ノワールノワールの限定カスタードプリンであります」

「お代はいらんよ。それでつりが出る」

情報屋ユミルは含み笑いでも漏らしているのか、小さく肩を揺すりつつエイルの手から容器を受け取った。



病室のテレビを眺めているノゾムを、椅子に座ったアルはチラリと見遣った。

色を失ってしまったノゾムの目には、世界は白と黒のみで構成されて見える。

おまけに、強い光は視認の妨げになってしまうらしく、窓から日光が入り込むとテレビが見えなくなってしまった。

外から射し込む強い陽光を遮る為にカーテンを閉め切った病室で、ノゾムはじっとテレビを見つめている。

「…良かった」

唐突に口を開いたノゾムは、アルが「え?」と聞き返すと、包帯でグルグル巻きにされた頭から覗く耳をピクピク動かしつ

つ、口元を笑みの形にする。

「色は判らなくなっちゃったけれど…、ちゃんと見えてる」

言葉に詰まったアルを振り向き、ノゾムは微笑んだ。

「アル君は、今でも全然変わらないで見えるよ?瞳が黒っぽく見えるようになっただけ」

一晩明けて落ち着いたのか、ノゾムの口調はしっかりしていた。

だが、瞳の奥に時折見える揺らぎのような物に、アルは気付いている。

自分を庇った仲間が目の前で死んだ。

まだ17歳な上、調停者として歩みだして間がないノゾムの心に、今回の件がどれほど深い傷を残したか…。殉職した仲間

を何人も見てきたアルには、その辛さは良く判った。

それでもなお、気丈に笑って見せる太った狐に、アルは微笑みを返す。

ノゾムは乗り越えようとしている。弱々しさの中にしっかり芽吹いた何かを、アルは感じ取っていた。

ノゾムの目がもう元通りにならない事は、午前中の検査の後、主治医から正式に告げられた。

その際にも、若い狐は取り乱すこともなく、静かに頷いてそれを受け入れている。

その後にアルはこっそり聞いた。瞳にダメージを受けたノゾムは、おそらくこれから先、調停者を続けては行けないだろう

と、カズキとトウヤが話し合っていたのを、

ノゾム自身がどう思うかは判らないが、いっそ調停者認定が取り消された方が良いのかもしれないと、アルは考える。

視力に不可逆的かつ重大なダメージを受けたという明確な理由がある以上、担当監査官であるカズキの権限により、本人の

意向を無視してそれが可能となる。

せっかく知り合えた同年代の調停者が廃業するのは、アルにとって寂しい事だったが、ノゾムの今後の事を思えばその方が

良くも思えた。

「あのっスね…、ノゾム君…?」

「うん?」

首を傾げた狐に、アルは首を縮めて俯きながら続ける。

「オレ…、謝んなきゃいけないっス…」

「…何が?」

不思議そうな顔をしたノゾムにアルは深々と頭を下げた。

「オレ…、ノゾム君の家がどんなだか、簡単に聞いたんス…」

少し驚いたように目を丸くしたノゾムを、アルは上目遣いに見遣った。

「オレ、能力持ちじゃないから…、前からその…、憧れてて…。それで、羨ましいとか…、ノゾム君の事情も知らないくせに、

あんな無神経な事言っちゃったんス…。…ゴメンっス…」

アルの恋人のアケミもまた能力者である。

彼女は、アルと初めて出会った事件の際に、十代も半ばを過ぎてから能力に覚醒した希少例であった。

一般人であるアケミが、それまでの生活から一変して監視を受けるようになった事は、アルにとっては忘れられない出来事

となっている。

自分が危機に陥ったせいで能力を目覚めさせてしまったのかもしれない。そんな負い目がある。

にもかかわらず、アルはノゾムの心情を推し量る事ができず、悪意のない憧憬の目を向けていた。

それが、向けられる本人の目にどう映るかという事までは考えが及ばぬまま。

自分の浅はかさと軽率さを悔やみ、しょぼくれながら謝る大きな白熊を前に、ノゾムは少し黙った後、フルフルッと首を横

に振って見せた。

「気にしないで。僕が、神経質になってただけなんだ、きっと…」

アルに微笑みかけたノゾムは、視線を落として自分の手の平を見つめた。

「役立たずの力だとばかり思ってたけど、今は、この力を持ってて良かったって思う…。だって、この力が無かったら、僕な

んかじゃあいつらに一矢報いる事もできなかった…。やっと…、やっと僕…、この力をちゃんと使えたような気がする…」

ノゾムは目を閉じて、胸に手を当てて静かに呟いた。

「嫌ってばかりいた力…。何でこんな力があるんだろうって、恨んだりもしたけれど…、今は…。…ふふっ!考えを改めるの、

ちょっと遅かったかな?」

目を開いて顔を上げたノゾムの表情は、すっきりしたものになっていた。



「潜伏先が絞れた!?」

携帯を耳に当てたトウヤが驚いて声を上げると、通話相手は『ええ』と肯定する。

役場等の公的機関が集中する街の中央、その一角に建つ十階建てのビル。

トウヤがリーダーを務める調停者チームは、その古いビルの六階から上を借り切って運営している。

今は臨時調停者連合チームの司令室にもなっているオフィスで、それぞれのデスクについて資料纏めや外回りの準備をして

いた数名のメンバー達は、

「そ、それは…!確かな情報なのかい!?」

オフィス最奥の所長席につき、珍しく興奮した様子で電話を受けているトウヤを一斉に見遣った。

『入手経路は企業秘密になるでありますが、信頼できる筋の情報であります』

応じたエイルは事務所の住所を尋ねると、すぐに資料を持って伺う旨を伝え、通話を切った。

携帯を畳んだトウヤは、椅子をガタンと揺らして立ち上がると、デスクに両手をついて身を乗り出し、メンバー達の顔をぐ

るりと見回した。

「パトロールは中止だ!資料の整理も後で良い!外回りしているメンバーも、可能な者は戻るように連絡を!エイル女史が到

着し次第作戦会議を始める!いつでも出られるよう、第一種危険生物との戦闘を視野に入れた出撃準備を整えておいてくれ!」

『イエッサー!』

メンバー達はトウヤの指示に応じ、表情を引き締めて動き出した。



「…あそこで威嚇に艦砲射撃はまずかったんスよ。脅しにしてももっとやり方があったんスから」

「そうだね。敵防衛部隊の戦意喪失っていう点では効果覿面だったけれど、自軍上層部の反侵攻派には逆に警戒心と恐怖心を

植えつけちゃったと思う」

「そうっス!元々艦長は上から睨まれてるんスから、ああいう場面でこそ、無血上陸みたいな、ある意味圧倒的な勝ち方はま

ずかったんス。エヌティーは撃たれるっていうアレっすよ」

「出る杭はうたれる?」

「む〜…。それっス…」

夕暮れの光で赤味を帯びたカーテンが外光を遮る病室で、少し恥かしそうに耳を伏せて頬を掻いたアルに、ノゾムは楽しげ

な笑みを向けている。

家族とも疎遠で、親しい友人もあまり居ないノゾムは、誰かとこんなにも言葉を交わしたのは久々の事であった。

最近では仕事中に必要なやりとりをする程度だったので、日常的な話題についてすらも誰かと話す事はなかった。

最近のニュースやタレントの話など、日常の事を話すのはもちろん、好きなアニメについても話ができるアルが病室に居て

くれる。

忙しい中済まないと思いつつも、アルが丸々一日病室に居てくれた事が、ノゾムは嬉しくて仕方が無かった。

(僕、会話に餓えてたのかなぁ…。こんなに楽しいのも、笑ったのも、本当に久し振り…)

そんな事を考えたノゾムの前で、アルは腕時計を確認し、

「あっ。三十分前っスね。ちょっと売店行って菓子とか飲み物買って来るっス!」

アニメが始まる前にと、椅子から腰を浮かせていそいそとドアに向かった。

「何か欲しい物あるっス?」

ドアを開けたところで振り返ったアルに、チョイスは任せると応じたノゾムは、笑顔で手を上げた白熊に、手を振り返して

送り出す。

病室を出て、病院独特の匂いとざわつきに満ちた白い廊下を歩みつつ、アルは苦笑いしながら胸中で呟く。

(何でオレ、首都には一人も居ないのに、この街でばっかり友達できるんスかね?)

エレベーターで一階の売店まで降りたアルは、あれこれ考えつつ大量に菓子類を購入した。

やがて、菓子や飲み物が詰まった大きな紙袋を胸に抱え、満面の笑みで帰って来たアルを、ノゾムは少し驚いているように

目を丸くしながら迎える。

「ず、ずいぶん買って来たね…?」

「どういうのが好きか判んなかったっスから…。まぁホラ!沢山食えば早く良くなるっス!」

サイドテーブルに所狭しと菓子を並べ始めたアルに、いくらかかったのか尋ねたノゾムだったが、

「安上がりで悪いっスけど、オレからのお見舞いっスから、気にしないでいいっスよ」

と、やんわり支払いを拒否され、恐縮する。

アルが並べた菓子類を眺めながら、カズキやトウヤ、他の調停者達から見舞いに貰ったゼリーやようかん、フルーツ類の事

を考え、

(退院するまでにまた太っちゃいそう…)

と、ノゾムは微苦笑しながら心の中で呟いた。

番組が始まるまであと少しとなり、アルはテレビを見やすいように体の向きを変える。

これまでも時折たまたま部屋に来たアンドウと一緒に観た事はあったが、彼の場合は番組には興味が無く、付き合いでただ

眺めていただけである。

これはノゾムにとって貴重な体験であるだけでなく、アルに至っては、同じ趣味の相手と一緒にアニメを鑑賞するのも初め

ての事だった。

だが、二人がささやかな楽しみの時間を迎えようとしたその時、病室の室内スピーカーがポーンと、軽快な音を立てる。

『アルビオン・オールグッド様。いらっしゃいますか?』

「はいっス?」

天井を見上げて返事をしたアルに、ナースの声が告げる。

『ナガセトウヤ様より外線が入っております。至急、最寄りのナースセンターまでお越し下さい』

電話の内容に察しが付き、アルの表情が引き締まる。

「すぐ行くっス!」

スピーカーに応じて立ち上がったアルは、ちらりとテレビに視線を向け、眉尻を下げてしょぼんとした表情になった。

「たぶんアレっス。…約束守れなくて悪いっスけど、行って来るっスね…」

「う、うん…」

表情を改めて頷いたノゾムに、アルは空元気の笑みを向けた。

「念のために録画の予約しといて正解だったっス。オレは片付いてからゆっくり観るっスから!んじゃ、また明日っス!」

片手を上げたアルはドアに向かい、ノゾムはその背に声をかけた。

「アル君!あの…、くれぐれも、気を付けてね?」

「うっス!」

首を巡らせ、口の端を上げて頷いたアルは、足早に部屋を出てゆく。

閉じたドアをしばらく眺めていたノゾムは、アルが壁のハンガーにジャケットをかけたまま出て行った事に気付いた。

自分よりも遙かに優れた調停者だが、アニメも観るし忘れ物もする。

改めて、アルをより身近に感じながら、ノゾムは取り残されたような気分になっていた。



病院の正面玄関前に走り込んだジープの後部座席に乗り込んだアルは、ハンドルを握るトウヤに礼を言いつつ、エイルの手

回しでカルマトライブの事務所から持ち出されていた自分の装備を身に付け始める。

アルがナースセンターで受けた短い通話を終えてから、僅か五分程度後の事である。

上着を病室に忘れてきた事に気付いたが、戻っている時間も惜しい、トウヤに訳を話して、ジープに積んであった予備の防

弾防刃ベストを借りて済ませる事にした。

ライフジャケットのようなベストは肩と胴体部の左右に切れ込みが入っており、紐の長さでサイズを調節できるようになっ

ていたが、紐を最長にして調節しても、アルの巨体には少々窮屈。しかし贅沢が言っていられる状況でもない。

斜陽で朱に染まる二車線道路を飛ばしながら、トウヤは準備を終えたアルに話しかける。

「潜伏している可能性が高いと絞り込めた場所は、全部で六箇所。五箇所へは別の斑が向かっているから、私達二人は最後の

一箇所を探索する」

トウヤがそれぞれの斑の戦力の内訳を告げ、他の斑が五人から六人の編成になっている事を知ると、アルは首を傾げた。

「エイルさんも何処かに入ってるんスか?」

「いや。彼女は単独で動くそうだ。可能性が低い場所も当たってみると言ってね。数名同行させようと申し出たんだが、一人

で良いと断られた。…大丈夫だろうか?」

「問題無いっス。エイルさん一人が一部隊になるっスから。それに、たぶん単独の方がやり易いんスよ。巻き添え出さないよ

うに気をつけなくても良いっスから…」

苦笑いを浮かべて応じたアルは、自分達の斑が二人だけという偏った編成にも文句は言わない。

トウヤが二人だけで戦力は充分だと見積もった事を、自分の腕を信頼してくれている何よりの証だと理解しているからである。

気になるのは自分達よりも、他の班の事であった。

第一種上位の危険生物には、十人で当たる事が望ましいとされている。

人数不足故の苦肉の人数配分ではあろうが、ギルタブルルと遭遇した班はマスターを捕縛するか、足止めして応援を待つ事

になる。

できれば自分が行く場所に居て欲しいと、アルは願う。

ベテランの調停者でも歯が立たなかった相手。さらにはノゾムを庇ったとはいえ、一度は自分も出し抜かれた。

他のメンバーの手には余る相手だが、近接戦闘を得意とする自分であれば、ある程度善戦できると踏んでいる。

相楽堂特製凍結弾という新兵器も準備できた。一度目のようなヘマをせず、上手く立ち回りさえすれば…。

銃に特殊弾を装填してベルトに固定し、次いで長い布包みの口を開いて中のブリューナクを確認したアルは、ふと気になっ

てトウヤの後頭部を見遣る。

「ナガセさん。上位のレリックを使う時って、どんな感じがするんスか?」

「うん?どうって…、難しいなぁ。使い方っていう事かい?」

「うス。オレ適性が極端に低いらしくって、簡易レリックしか使えないんス。なもんで経験した事無いんスけど…、強力なレ

リックは、相応しいひとが持ったら習わなくたって使い方が判るんスよね?ライトクリスタルなんかは思えば勝手に動いてく

れるから良いんスけど、レリックの中には使い方が複雑な物なんかもあるじゃないっスか?」

「う〜ん。私もそれほど強力なレリックは扱った事がないから詳しくは判らないが…。適性があって、なおかつ相性が良けれ

ば、それの使い方を何処から学ぶでもなく理解できるという話は聞いた事がある。一説によれば、レリックが使い手にマニュ

アルをインストールしてくれるとか…」

「難しいっスね…」

「聞いた話では、シンクロできる者は手に取った時に使い方が判るそうだ。…例えばそうだな…、はさみを握った時、指を開

いて…、握って…と、いちいち動かし方まで意識しながら使ったりはしないだろう?」

視線を上に向けて少し考えてから頷いたアルに、バックミラーでその様子を見ていたトウヤは続けた。

「ああいう感じらしい。前々からそれの使い方を知っていたかのように、こう扱えばこうなる、というのが解るそうだ」

「そういうもんっスか…。ありがとっス。たぶんオレには縁が無いと思うっスけど、コイツ見てたらちょっと気になったんス」

「…まぁ、レリックの調整技術が進歩してきた昨今では、例え低くともある程度の適性があれば、個人仕様にカスタムして扱

えるようになってきている。その内に君も、自分専用に調整されたレリックを持つようになるのかもな」

「オレの…、レリックウェポンっスか…」

レリックとシンクロするというのはどんな感覚なのだろう?興味を覚えながら、アルはブリューナクを見下ろす。

あの竜人はレリックとしての機能を発動させていたが、アルにはどう使えば良いのか見当もつかないし、何度か念じてみた

ものの全く応えてくれない。

「いけず…」

指先でチョイと穂先の腹をつついた白熊は、ある事を思い出して再びトウヤに尋ねた。

「ナガセさん。ジークフリートって名前、知ってるっス?」

「ジークフリート?」

「うス。ちょっと前にそういうひとが居るって聞いたんスけど。たぶん調停者か犯罪者絡み…、秘匿事項関係者だと思うんス

けど、心当たりないっスか?白熊だったらしいっス」

アルの説明を聞いたトウヤは、「ああ…」と顎を引いて頷いた。

「もしかして、『白い災厄』ジークフリートの事かな?」

「白い災厄…、ジークフリート…」

トウヤの言葉を繰り返したアルは、少し身を乗り出して尋ねてみた。

「オレ、一回名前聞いただけで、他は何にも知らないんスけど、どんなひとっスか?」

「確か、世界を敵に回した男…、だったかな?先進政府連合軍に牙を剥き、ラグナロクを相手取って剣を振るったっていう…」

アルは眉根を寄せて疑わしげな表情を作る。

「先進政府連合軍と、ラグナロクと、やりあった…?どっち側のひとなんス?調停する方?それとも犯罪者っス?」

「犯罪者って事になるかな?世界の敵になった訳だし」

「…っていうか、そんな無茶苦茶しでかして、何で指導教本とかに載ってないんスか?」

トウヤは可笑しそうに笑うと、ミラー越しにアルをちらりと見た。

「噂話みたいなものなのさ。それだけの事をしたはずのジークフリートという男の記録は、裏の公式には一切残っていない。

本当は実在していなかったんじゃないかとも、政府連合が不都合な機密と一緒に存在した事実そのものをひた隠しにしている

とも言われている。君がさっき言ったように白熊だったという話だがね」

「都市伝説みたいなもんっス?」

「そんなところさ。もう十数年も前に出回った話だよ。それこそ私が小学生ぐらい…、君はまだ生まれてもいなかった頃だな」

曖昧に頷きながら、アルはブリューナクに視線を落とし、考え込む。

この槍の所持者であった屈強な竜人の戦士は言った。

ラグナロク総帥スルトの友であり、好敵手でもあった男、ジークフリート。

面識は無いと言っていたが、あの言葉には鵜呑みにした噂話を語っているような雰囲気はなく、むしろ確かな事実を語って

いるかのような印象を受けた。

まるで、会った事は無いが確実に存在していた、過去の偉人や英雄について語っているような口調…。

(腹刺されてたっスからね…。きちんと分析できてるとは限らないっスけど…)

難しい顔になったアルは、かぶりを振ってブリューナクの包みの紐を縛りなおし、頭を切り替えた。

調査ポイント付近まで、あと僅か。



「…くそっ!」

苛立たしげに舌打ちをした中年は、手にしたビールの缶を握り潰した。

中身が三分の一ほど残っていたアルミ缶からビールと泡が吹き出し、その手を汚して床に落ちる。

広い雑木林に隣接している、広大な敷地に遺棄された建造物が立ち並ぶ郊外の廃工場。

日没後の夜闇に蹲る建造物群は、全体的に土埃を被って色褪せ、所々ひび割れ、苔むし、ツタが這い、正に建物の死骸とい

う風情。

元は作業所であった二階にある、奥行き20メートル、幅15メートル、高さ4メートル程のその部屋は、床も壁も天井も

コンクリートがむき出しになっている。

部屋に入って右手側の壁にずらりと並ぶ窓のガラスはひび割れ、所々穴が開いており、割れ落ちたガラスがその下に散乱し

ていた。

採光目的の大きめの窓からは隣接する倉庫の苔で変色した壁が見えるが、敷地外の細い道路や、田畑を隔てて遥か彼方にポ

ツポツと建つ民家からは、部屋の位置は陰になって見えない。

ガランとした部屋の中央付近には、毛羽立った畳が二枚敷いてあり、そこに畳んだ毛布が重ねられている。

クッションにした毛布の上に座った中年は、頭部全体を包帯で巻いており、目と口と耳、鼻の下部だけを露出させている。

中年は苛立ちまぎれにひしゃげた缶を壁に投げつける。

コンクリの壁に当たった缶が耳障りな音を立てて床に落ち、コンクリートに反響した騒々しい音に顔を顰めた中年は舌打ち

をした。

この街に来てしばらくの間は順調だったが、ここ数日は何もかもが上手く行かない。

ギルタブルルの売却交渉に調停者の邪魔が入って以来、どんなに居場所を変えても追ってくる。

よほど優秀な者が指示を出しているのか、それともあの夜に厄でも被せられたのか、ここまで食らいついてくる相手は初め

てであった。

視線を横に向ければ、身じろぎ一つせず壁際に立つ男の子の姿。

目を閉じてスリープモードに入り、まるでマネキンのように静止しているギルタブルルが纏う皮膚は、所々焼け焦げ、酷い

ところでは内側に収まっている本体の外殻が覗いている。

生物の生皮を被って擬態するギルタブルルは、本体が分泌する体液によって着込んだ皮を活性化させ、生きた状態に保つ。

だが、それはあくまでも外観と柔軟性の維持の為の物であり、元々の細胞の再生能力を超える事は無い。

擦り傷などの軽微な損傷ならばともかく、本体が露出する程の傷が生じた外皮は、例え上手く修復できたとしても痕が残る。

擬態しての潜伏能力こそが大きな魅力となるこの危険生物にとって、目立つ外傷が残る事は大きな痛手となる。

ノゾムが色覚を犠牲にし、臨界を越えて発生させた炎は、ギルタブルル本体にこそ大きなダメージを負わせるに至らなかっ

たが、その商品価値と潜伏機能を著しく損ねさせていた。

中年はさらに視線を動かし、ギルタブルルの横に置かれている金属筒を見遣る。

その中では、手持ちの最後の一体となってしまったアントソルジャーが待機している。

インセクトフォームの売却に来た自分が、自身の護衛のために大半の商品を使い捨てる事になるとは思ってもみなかった。

先の大規模戦闘で疲弊しきっているはずのこの街の調停者達が、何故ここまで執念深いのか、中年にはその理由が判らない。

新たな缶ビールのプルタブをあけ、グイッと煽ってから「くそっ!」と悪態をついた中年は、

「ご機嫌斜めのようでんな?オカダはん」

突如聞こえた声に缶を放り出して中腰になり、腰の後ろのダガーに手を当てながら、全身に緊張を漲らせる。

一つしかない部屋の入り口、ドアも無くなりポッカリと開いたそこに、ずんぐりと背の低い影が真っ黒な闇を背にして立っ

ていた。

右耳を中心に茶色い円が、左耳を中心に黒い円が、それぞれ目の下まで広がっている三毛猫の顔を睨み付け、中年は舌打ち

をする。

窓から差し込む弱々しい灯りに浮かび上がっているのは、見知った顔である。が、味方ではない。

「ふん…!お前が追っ手に差し向けられたのか?舐められた物だな、私をお前一人でどうこう…」

フード付きの黒いコートを纏う、黒ずくめの太った三毛猫は、微笑を浮かべながらポテッとした右手を顔の前に上げ、チッ

チッチッと人差し指を左右に振り、中年の言葉を遮った。

「早とちりして貰ったら困りますがな。一人やおまへんで?」

一瞬窓の外に視線を向けた中年は、周囲に三毛猫以外が潜んでいる気配が無い事を確かめると、口の端を歪めた。

「下らんブラフだな…。どこに居ると…」

「おろ?見えてへんのでっか?」

中年の言葉は三毛猫が口を開いた事で再び遮られた。

「さっきからここにおるっちゅうに…。なぁ?ランゾウはん」

その名を耳にした途端、中年の目が大きく見開かれた。

三毛猫の背後にわだかまる闇。それが、ただの闇ではない事に気付いて。

部屋に一歩踏み入り、横に退いた三毛猫の背後で、のそっと闇が動いた。

身を屈めて入り口を潜り、音もなく部屋に踏み入ったそれは、見上げるような大男であった。

漆黒のインバネスコートを纏った巨漢は、2メートル半はあろうかという長身で、胴も腕も脚も太く、とんでもなくボリュ

ームがある。

黒いバイザーで双眸と表情を覆い隠した巨熊の、鮮やかな赤銅色の被毛を、窓から差し込む僅かな月灯りと夜風が控えめに

撫でる。

目の前に居ながら、中年には巨熊の気配がまるで感じられない。

太く大きい体躯もさながら、その身に纏う静けさまでが巨木のような男であった。

「…葬り屋(はぶりや)、ランゾウ…!」

喉をゴクリと鳴らした男の足下に、三毛猫の視線がチラリと向く。

転がった缶から零れたビールが、コンクリートの上に水たまりを作っている。

この暗がりでは、零れたのがビールでも水でも血でも、黒い水たまりに見えるだろう。三毛猫はそんな事を考えながら口を

開いた。

「末期の酒やのに、勿体ない事しはりましたなぁ?」

その言葉と同時に、巨熊が相変わらず足音一つ立てずに一歩前に出る。

胸の高さに開いて上げられた、黒い指出しグローブをはめた大きな左手が、ゴキリと関節を鳴らしつつ指を動かした。