Fatal Ignition(act6)

 低く不機嫌そうな唸りを漏らすバイクに跨り、北極熊のライダーが通信機に大声で訴える。

「閉鎖領域がおかしいっス!立ち入り禁止区域に近づくルートが二次避難ルートと重ねられてて大渋滞っスよ!?自動車用道

路まで緊急開放って、バスと電車の客も全部徒歩移動で高速に上げてるっス!現場からそんな離れてないのにっスよ!目と鼻

の先っス!…「目と鼻の先」であってるんスよね?」

『ああ、あってる』

 アルは延々と連なるブレーキランプの長い列を睨んでいた。道路管理車用ゲートの向こうに乗り入れたワルキューレに跨っ

たまま、渋い顔で。

 検問と迂回案内に一般車両が停められて、高速は「事故による大渋滞」というアナウンス。本来は移動に困らないはずが、

不手際により現場へ向かう調停者達まで巻き込まれる格好で足止めされてしまっていた。

『しかし、確かにそりゃーおかしいな…。こっちに上がってきてる封鎖計画案と違い過ぎる』

 応じるアンドウの声には疑いの響き。現状に合わせて封鎖線が大きく変更される事は確かにある。だが、今回は…。

(むしろ、前もって言ってたら「絶対ダメ」って言われるだろうこの封鎖形態が先にあって、誤魔化すために普通の案を送っ

てよこした…?)

 疑念を強めてゆきながら、アンドウは『判った』とアルに応じた。

『サブリーダーがさっき戻ったところだ。こっちは許可取って監査官側と話をつける。ただ、そいつですぐ現況が変わるわけ

でもねーから…』

「………うス!」

 応じて通信を切ったアルは、ワルキューレのエンジンを切り、タンクにブルーティッシュのエンブレムと連絡先、「調停中」

と書かれた撤去防止マグネットステッカーを貼る。警察も道路管理者も、これに気付けば事情を察する。

「んじゃ…」

 装備を確認したアルは、渋滞中の車両から見えないように少し移動し、放送用スピーカーが立つ鉄柱の下まで来ると、ぐっ

と身を屈めて背を丸めた。

 全身に力を漲らせ、背中や手足が筋肉で膨れた直後、ボシュッと、衣類の隙間や襟元などから白い蒸気が吹き出す。

「禁圧…、解除!」

 ゴッ!…と、重々しい振動だけがそこに残された。

 ひとっ跳びで3メートルはあるフェンスの上に跳び乗ったアルは、そのまま空中に身を躍らせた。

 白い蒸気を棚引かせ、放物線を描いて北極熊が宙を飛び、落差5メートル、距離20メートルの位置にある低めのビルの屋

上に着地。さらにそこから端まで走って加速をつけ、跳躍して隣のビルのベランダへ飛びつくと、指がかろうじてかかる段差

にしがみ付きながら壁を二階分一気に登りきり、また屋上から隣のビルへと飛び移る。その体は、落下からの着地、あるいは

大跳躍に移る寸前などに、一際派手に蒸気を吹き散らしていた。

 ネネにはこっちで話をする。ここからの行動は任せる。

 先ほどの通信でアンドウからそう許可を貰ったアルは、ひとが選択しない最短距離…まともではないルートで現場を目指す。

 そして、その速度はもはやひとの範疇にない。知っている者が見れば驚く事だが、その無茶苦茶でありながら目標までの最

短時間到達を達成する移動方法とルートの選択手法は、神将、神代勇羆のソレに匹敵するでたらめぶりである。

 白い霧を纏う白い熊は、しかし例え目撃されても大して問題にならない。なぜならば、これだけの大きさの物がこれだけの

スピードで高所を飛びまわれば、目にしたものがあまりの現実感の無さに、目の錯覚か「ビル風で吹き飛ばされていくビニー

ル袋」などと考えてしまうので。



 上が明るく、下が薄明かりの、貨物倉庫に繋がる従業員用通路。そこにずんぐり丸い影が二つ、寄り沿うように身を屈めて

いる。

「ありがとうございます…」

 灯りの乏しい通路にマグライトを立て、天井を照らす光を頼みに負傷を確認し、捻挫した右足首の包帯を結び直してくれた

猪の顔を、礼を言ってノゾムは見上げる。
座り込んでいる狐の前で、片膝立ちのミューラーは大きく頷くと、首元に手を入れ

て認識票を見せた。

「わたしハ三浦。調停者」

 本人は日本人になりきっているつもりで名乗るものの、実際には自信に反して怪しさ満点のイントネーション、かつカタコ

ト。しかし…。

「「三浦」…、日系の方なんですね?」

 調停者に外国人は珍しくない。苗字は日本風だが、おそらく育ちがこちらではない日系人なのだろうと解釈するノゾム。認

識票への信頼があるので怪しむ気持ちは全然湧いていない。

 ミューラーはドアを一瞥し、その振動と音で耳を震わせた。心底嫌そうに。

(鍵もかけたし破られもせんだろうが…、しかし弱ったぞ…。手持ちの武装であんな群れと立ち回るのは無理、あっちには進

めんな…。ただでさえ気色悪い相手だというのに、あんな山盛りとは…!)

 位置の絞り込みを日中から行なっていたミオが、再開した調査でついにサラマンダーの反応をキャッチしたのは日没後の事。

奇しくも虫使いが放ったコックローチの発見がきっかけとなった。

 ラドの分析によれば、反応は98パーセントの一致率でサラマンダー。様々な影響を受ける外気中での観測でこれだけの一

致ならば確実と言い換えてもいい。捕縛、あるいは処理のため、ただちに作戦を決行したナハトイェーガーだったが…。

(少尉に報告せねばならん。虫もそうだが、本物の調停者と鉢合わせたと…)

 後方から監視しているラドからの報告で、ブルーティッシュが乗り込んで来た事は把握していた。だからこそ出会い頭にい

きなり攻撃する事もなかったのだが、コックローチの群れも含めてあまり良い状況とは言えない。何せ出会った調停者は負傷

している。この状況下で放り出すのは危険だった。

「おじさんは…」

 どうしたものかと考えているミューラーに、自分も認識票を見せたノゾムが話しかけた。

「ブルーティッシュのメンバーではないですよね?」

 理解のためにちょっぴり間を空けてから無言で頷くミューラー。

「首都には他にチームがほぼ無いらしいし…、フリーの方なんですか?」

 やはり少し間を空けて頷くミューラー。

「でも出動要請はブルーティッシュに出されてて…」

 何故ここにブルーティッシュ以外の調停者が?とノゾムが疑問を抱いている事を悟り、ミューラーは内心大慌てした。

(ま、まずい!どうやって突き止めた?などと訊かれては返答が…!そもそも会話の難易度が高めになってきとる!)

 対処しきれなくなりそうだと、妙な汗をかいたミューラーは、魔法の言葉「ドーモ」と一緒に覚えたある文言を思い出した。

「依頼主ノ情報ハ守秘義務ニヨリ言エナイ」

 困ったらこれで会話を打ち切れ、とラドから教わり丸暗記した言葉を、ここぞとばかりに述べるミューラー。本人は上手く

言えたつもりだが棒読みである。

「あ。そうですよね、失礼しました…」

 依頼主同士が合意している、あるいは公言を許可する官公庁等の公式依頼である場合などを除けば、調停者同士でも仕事の

内容を軽々しく打ち明けるべきではない。ルールとマナーに照らし合わせて引き下がり、耳をぺったり伏せて詫びるノゾム。

ミューラーは、追求されなかったという安堵と共に…。

(…いい…)

 何かに胸を射抜かれる。「また」。

「坊ちゃんとも少尉ともまた違う…。控えめで素直、かつ自信なさげで儚げで、こう、なんともこう、支えてやらねばという

感情がワシの胸の中からムクムクと…!」

 フリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長38歳独身。恋多き男である。そして多き恋が実った事は一度もない

ので独り身である。

「…こちらは場内に取り残されている人たちの救助が目的です。事件発生の経緯はまだ判りませんが…」

 これぐらいなら、という線で状況を告げるノゾム。今回のブルーティッシュの出動目的は救助が第一。目的が違うのかもし

れない猪にもこう告げておけば、生存者を見つけた際に誤って攻撃したりする事も無いだろうし、保護もして貰えるだろうと

踏んでの事である。猪の目的については、コックローチの発生源かそのマスターを調べる、あるいは確保する事だろうと想像

した。

「了解」

 顎を引いたミューラーは、腰を上げると…。

「あ…」

 ノゾムの手を引いて立ち上がらせ、肩を貸す。

「あの…」

 顎をしゃくって歩き出したミューラーに引っ張られる格好で、痛めた足を庇われながらノゾムも歩き出した。

「…ありがとうございます…」

 恥かしくて、情けなくて、顔を伏せて礼を言った少年を支えながら、

(いい…!何と言うべきか、ラドやワシとは違う太り具合なのか?それとも毛並みのせいか?モチッと柔らかく、フカフカで、

こう…、マシュマロのようなっ…!あああああこれは堪らん!こんな感触の抱き枕でもあれば!)

 役得。猪は餅狐の体の感触を噛み締めまくる。

 フリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長38歳独身。愛しの坊ちゃんにも少尉にもバレてはいないが、年季が

入った少年嗜好の男色家である。


 とはいえ、鼻の下を伸ばしながらも、ミューラーはやるべき事をきちんとやっている。公私両立というべきか、ノゾムの体

の感触を味わいながらも、チョーカーに触れて思念波読み取り式の簡易入力による通信を、少し離れた駐車場のレンタカーで

待機している中継局兼オペレーターのラドへと送っていた。

『特曹が調停者と鉢合わせたそうですー。ピンチだったので救助してー、負傷しているので護衛してー、とりあえず安全なと

ころまで非難させるとの事でしたー。駅で出くわして計器が反応してた、あの太ったワンコの子みたいですー。牛丼屋といい

凄い偶然…って言うか、考えてみれば、発火能力者で調停者なら、首都の事件で出くわす確率は高いですかー…』

 ミューラーが定型文組み合わせ入力で送った報告を、ラド経由でミオも把握する。

「それがいいです。…それと…」

 ミオは静かにチョーカーで通信音声を送る。

 その手はダガーとトンファーを握り、その足は前後に軽く開き、半身に構えてやや腰を落としていた。

 振動音が低く唸るのは、放熱のための設備が稼動しているから。それでもなお蒸し暑いそこは、地下一階の深さにある動力

室である。

「可能なら、そのまま特務曹長も敷地外まで離脱するように伝えてください」

『離脱、ですかー?』

 いぶかしげなラドの声は、

『!?しょ、少尉!?そこ、何が居るんですー!?』

 モニターしていた計器の数値に気付いて裏返った。

「対象を目視確認しました」

 油断無く構えるミオの前方には、野暮ったいジャージの上下に身を包んだ女性の姿。

 何処も見ていない、ただミオの方へ向けているだけの瞳の奥には、オレンジの光がうっすらと灯っている。

「封印処置を試みますが、失敗した場合はそのまま無力化を狙います」

『少尉ー!?そこ狭過ぎますよー!援護を待つか、外におびき出した方がー!』

 ラドが言う場の悪さはミオも承知している。ミオ自身、機敏さと機動力を活かした高速戦闘が身上なのだから、この閉鎖空

間では戦力が大幅に低下してしまう。

「無理そうなら一度離脱しますから」

 ラドの心配は判るが、引き下がれないというのがミオの本音だった。

 相手は発電施設級の高エネルギー存在。屋外に出してしまい、もし遮蔽物の無い場で放熱されてしまえば、出力次第で周辺

が焦熱地獄と化す。そうでなくとも、報告にあった熱線を放たれてしまったら、出力によってはその射程と威力から大惨事と

なるのは想像に難くない。だが、この施設内で戦闘した方が周囲への影響を多少でも軽減できる。自分の安全よりも他者の事

をミオは案じていた。

 何を考えているのかも、何を見ているのかも定かではない女性を前に、ミオはツッと足を進めた。直後、バウッと耳元で風

が唸る。

(空気が動…、いや!熱せられてる!?)

 女性を中心に室温が上昇し、熱された空気が荒れ狂う。部屋には突然サウナのような熱気が満ち、軽量なミオがバランスを

崩すほど大気が流動するが…。

 トンファーを構えたミオは、射線を揺さぶられながらも赤光弾を投射する。女性の胴を打ち抜く軌道だったが、命中寸前に

ギシリと音を立てて、何かに阻まれたように静止して、ひしゃげた光弾がパンと音高く弾け散った。

(思念波防御型のフィールド…。けれど、この程度は想定内!)

 神話級と相対するのはこれが初めてではない。普通のハンターが生涯に一度挑めるかどうかという「神話」を、単独ではな

かったがミオはこれまでに二体狩っている。

 射撃は無効化も視野に入れた牽制で、本命は別。牽制する刹那の間にミオは女性に肉薄していた。コマ落としのように間合

いが消失する、身の軽さを最大限に活かしたリミッターカットによる高速接近である。

 本命はこちら。構わず接近するミオが握り締めたトンファーの、長い方の先端には、対サラマンダー用の特殊兵装がセット

されていた。

 ボッと音を立てて大気が貫かれる。リーチを最大まで伸ばす、半身になって突き込んだ一撃が、フラリと揺れるように身を

傾かせた女性の肩を掠めた。

 直後、トンファー先端にセットされた赤い宝珠が強く光り輝き、サラマンダーが操る女性の体がガクンと揺れ、膝をふらつ

かせた。

 現象生命体用封印石。ギュンターの愛剣となっているレリックウェポンを解析し、技術を応用して造られた品。エネルギー

そのものの存在であるサラマンダーを吸収、圧縮封印するために特別な調整を受けた、いわば対サラマンダー特攻兵装。見た

目はルビーのような色合いの、ピンポン玉ほどの大きさしかない宝珠である。

 もっとも相手は神話の存在。存在の強大さや宝珠の損傷も考えれば一つで封印し切れるかは甚だ怪しいので、ミオとミュー

ラーが二つずつ、予備の三つをラドが所持している。

(効果はある。このまま…!)

 突いたトンファーを引き戻さず、そのまま横殴りで追撃するミオ。途端に、脅威であると認めたのか、女性の体はそれまで

の緩慢さとは打って変わり、すばやく柔軟に反って回避行動を取る。

 踏み込み、牽制でダガーを薙ぎ、組み合わせてトンファーの突きを交えるミオ。だが、女性はまるで激しく体を捻る情熱的

な踊りを披露するように、柔らかに力強く攻撃を避ける。

 全身から熱を放射する女性。浴びれば肌を焼かれる熱波を、ミオはノンオブザーブで屈折させて身を護る。

 音高く鳴ったのは、際まで追い詰めたミオの一振りが回避され、壁をトンファーが掠めた声。振り払うように水平に振るわ

れた女性の手が帯状に炎を投げるも、アメリカンショートヘアーは素早く四つん這いに伏せてかわし、そこから跳ね飛んでダ

ガーを閃かせる。それでもなお女性は軌跡を見切っていたように、振り始めには回避動作に入っている。単純に素早いだけで

はなく、まるで動きの起こりを予測されているかのようだった。

(反応が速い。肉体は普通の女性みたいだけれど、サラマンダーのコントロール下に入るとひとの範疇から抜けるのか…!ス

タミナも無尽蔵なのか、疲労も無いみたいな…!それに、理由は判らないけど何だかやり難い!)

 少々焦りを覚え始めるミオ。

 ミオの体はあまり丈夫ではなく、リミッターを外したままの戦闘を長時間行なうことができない。スタミナ以前に、連続使

用の負荷に筋肉も骨格も耐えられないのである。

 しかしサラマンダーが操る女性の体は入れ物に過ぎないので無理が利く上に、元々のスペックを無視した運動性能を発揮し

ている。全力のミオの攻撃を、かすりもしないほどの精度で避け続ける…、それはもはや一般人の肉体スペックでは不可能な

芸当だった。

 トンファーから光弾を放つ。踏み締める足場を狙ったそれすら、重力を無視するように女性の足が宙で止まり、虚しく床を

叩くのみ。

(「援護」が無い状況だから避けたかったけれど、なりふり構っていられない…!「ブラックアウト」を使用する!)

 暴走の危険性を考慮し、できれば使わずに済ませたかったミオは、オーバードライブの使用を決意する。万が一に備え、ラ

ドへ自分を沈静化させるための援護を要請するべくチョーカーに呼びかけようとしたその時…。

(しまった!)

 一瞬、ほんのコンマ数秒、思考が挟まったミオの攻めが緩んだ瞬間に女性は間合いを外した。もう一度肉薄しようと一度は

考えたミオだったが、そこで察したが故の「しまった」だった。

 床を踏んでいない。数センチ浮いている女性の指先がミオを指し示し、瞳の内部からオレンジの光が強く漏れ出る。

 そのしなやかで細い指が、スッと宙を走った。先端から熱線を放射しながら。

 壁を、ドアを、機材を、瞬時に溶断した熱線は、倉庫施設内を駆け抜けた。


「わ!地震っ!?って、むぷっ!」

 壁や天井がビリビリ震える衝撃を感じ、慌てて天井を見上げたノゾムは、すぐさま猪に抱えられて床へ伏せさせられる。

 ピシリと壁面にひびが入り、まず頭上の蛍光灯をはじめとする落下物を警戒したミューラーは、ノゾムの上に覆い被さった

状態で周囲を窺う。

(どうもこれは、地震ではない、か?感じた振動は建物内で何かが爆発した時のような、衝撃で揺さぶられたのに近かった)

 パラパラと破片や埃が降る中でミューラーが考えたのは、自分とは別方向から回っていたミオが、標的と接触、開戦したの

ではないかという事。

(心配だが…、むむむ…!)

 ミオの事は心配である。任務や立場の事情抜きに、ミューラーにとってのミオは主君と仰ぐエアハルト家の長男と次男の友

人であり、個人的に好意と期待を寄せる若人。万が一の事があってはギュンターに顔向けできないし、失ってはリッターの、

引いては母国の損失、何よりミューラー自身ミオには長生きして欲しい。

 だが、目の前に居るこの未熟で怪我もしている少年を放って行けるほど、ミューラーは非情になれないし任務優先と割り切

る事もできない。敵であれば容赦はしない。その点ではミオと比較にならないほど徹底しているのだが、友軍や負傷者、民間

人に対してはどうしても情を排した行動を取れない。

 振動は、そう続かなかった。二度目を警戒して動かなかった猪の下で、

(…あ…。いい匂い…)

 続くかもしれないと、揺れに備えて緊張していたノゾムは、ふと鼻先をくすぐる匂いに気付く。

 覆い被さるミューラーの体から漂う、汗の香りが混じる加齢臭に、狐は反応していた。懐かしい、と。

 重量感のある厚い体躯。自分を組み敷くような体勢で、自らを盾にして落下物から守ろうとする、逞しく頼もしい大人の雄。

息遣いを伝える、腹の上に乗る張りのある腹。静かに殺した吐息の微かな音。顔が火照り、鼓動が少し早くなった。

 山岸望十七歳独身。実は同性に惹かれる少年である。しかも年上…どちらかといえば老けた雄、しかも逞しくも太り肉な男

にときめく嗜好である。

(よし、揺れは続かんな?これで…、………柔らかい!?)

 衝撃が連続せず、おさまったと判断したミューラーは、通路の先を窺いながらも意識が自分の下の方へ向く。

 若い汗の香りが昇って来ている。シャンプーの残り香だろうか、酸味の薄い汗の匂いに、清涼感のある石鹸の香りが混じっ

ている。押し倒す格好で庇った少年の柔らかで肉厚な腹が、腹筋に力を入れて衝撃に備えていた自分の腹に、呼吸のリズムを

伝えてくる。

 フリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長38歳独身。好意を抱いていない同僚たちには結構バレているが、年

季が入った(以降省略)。なお、毛が無いのは守備範囲外との事で、年齢的には合致しているもののラドは除外されている。

(と、ととととにかく、急ぎこの子を外に出し、少尉殿と合流せねばならん!)

 ずっとこのままで居たいむしろもっと密着してみたいそんな欲求を何とか押し殺し、ミューラーは身を起こす。

「あ、あ、あああああのっ!あ、ありがとうございますっ…!」

 ノゾムもハッと我に返り、しどろもどろになりながら口を動かした。

 身を挺して庇ってくれた猪に礼を言い、「ドーモ」と不思議な返事をされた狐は…。

(また…、足手まといに…)

 すぐさま進行方向の安全を見定めにかかるミューラーの行動を見て、現場に居る自分に立ち返り、途端に情けない気分にな

る。反応の良さでも、咄嗟の判断の中身でも、自分は周りの調停者に全然及ばない、と…。

「急グ。進メ」

 ノゾムを助け起こして先を急ぐ事にし、言葉少なく促したミューラーは、しかし狐にギュッとしがみ付かれる格好で引きと

められた。

(お、おおおおう!柔らか…!フカフカしてムニッと…!今の衝撃が怖かったのか?むふふ…!未熟さもまた愛くるしい…!

くぅ~っ!)

 などと、一瞬鼻の下を伸ばしたフリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長38歳独身は…、

「居ます!18メートルぐらい先…、突き当りの、開けっ放しだったドアから一匹…いえ、二匹!」

 注意を促す狐の声で即座に気を引き締めた。

(あれは…、言われてみれば確かにコックローチ!しかしとんでもなく目が良い、夜目が抜群に利く)

 警告されて目を凝らし、やっと気付ける暗がりの先。非常灯を僅かに照り返す外骨格にも、ノゾムに教えられなければ距離

が狭まるまで気付けなかっただろう。

「あ!違う!」

 ノゾムの声が跳ねた。そしてミューラーも気付いて口をカポンと開けた。

 コックローチが出てきた開いたままのドア。そこからゾロゾロと黒い虫達が通路に出てくる。まるで、何かに追われている

ように後続から押されながら。

(今の衝撃で刺激され、逃げて来とるのか!?)

 素早く脳を回転させて施設の構造を思い出したミューラーは、職員通用口が他の倉庫と繋がっていた事を思い出す。おそら

くこのコックローチ達は衝撃発生源に近い倉庫から逃げてきたのだろうと察しがついた。

 先に現れた二匹がモタモタしている間に、後続がその上へ折り重なり、逃げ場を求めて乗り越えたり潜ったりと溜まり始め

る。そして、いよいよ数匹がスペースのある方向…つまりノゾムとミューラーが居る方向へと通路を這い始めた。

 巨大ゴキブリの洪水という悪夢のような光景。何十匹居るのか数えたくもない有様。いくら何でも多勢に無勢である。

「どあ!注目!」

 ミューラーが指差したのは五歩ほど先にあるドア。

 引き返そうにも通路には横道がなく、ドアも遠い。一番近い脱出路は、コックローチに接近する方向となる。ノゾムが足を

痛めている以上、引き返してコックローチと駆け比べに興じるのは危険だとミューラーは判断した。

「っ…!わ、判りました!」

 猪の意図を察し、覚悟を決めたノゾムは、カッツバルゲルを抜いて駆け出したミューラーに続く。

(さぁて、ワシはコイツの扱いにはまだ慣れとらんし、いまひとつ得意じゃあないが…)

 拳銃で狙うように、猪はトンファーの先端を前へ向ける。気付いたコックローチがガサササッと通路を進んでくる中、先頭

の一匹に狙いを定めたミューラーは、思念波をエネルギーに変換した光弾を発射した。

 思念波放出量や強度、安定性の面で劣るため、ミオの物と比べればミューラーの光弾は暗くくすんで見える。それでもその

威力は、ミューラーが全速力で駆け込んで全体重を乗せて力任せに蹴り込んだのと同等…当たり所さえ良ければ並のインセク

トフォームを一撃で絶命させ、そうでなくとも行動不能にするレベルの威力を持つ。

 メヂョッと音がしてコックローチの頭が陥没し、胸部に埋まり、あちこちが派手に割れて体液が吹き出す。失速した一体は

後続に飲み込まれるが、乗り越える動作が入ってコックローチの群れの進軍速度は多少遅れた。

 先行したミューラーはドアを開けず、続けてもう一発撃ちこんで追加で仕留め、代わって先頭となったコックローチに蹴り

を見舞い、同時に振り被っていたカッツバルゲルに体重をかけて斬り下ろし、続けざまに二匹、三匹と絶命させ、四匹、五匹

と手酷いダメージを負わせてやる。

(戦い慣れてるっていうか…、勇ましい…!)

 加勢の銃撃や発火は不要…というよりも自信がないし危ないと判断したノゾムは、ミューラーが意図したとおりにドアへ取

り付いた。が…。

「ロックが!」

 やはり猪が危惧したとおり、ドアは施錠されている。もしもミューラーが足止めに入らずドアに取り付いていたら、ふたり

揃ってまごついた所をゴキブリの波に飲まれていただろう。

「ブルトガング!何とか斬って!」

 大鉈を抜いたノゾムはドアノブの脇に叩きつけ、応えたブルトガングが超振動で破壊にかかる。火花を散らして食い込んで

ゆく大鉈、焦りながらもミューラーを見遣ったノゾムは…、

(………)

 猪の立ち回りに、一瞬意識を奪われた。

 リッターの美意識からすれば優雅さに欠けて泥臭いミューラーの戦技は、その実、混戦乱戦に適応した戦い方でもある。戦

闘経験があるからこそ優先順位も見誤らず、頭数で圧倒されながらも抑えていられるのだが、その立ち回りそのものだけでな

く、単純な「武器の巧い扱い方」がノゾムの注意を引いた。

 手首を固めて根元側を叩きつけ、切断するのではなく重さと圧で断つ。スナップを利かせて翻し、攻撃を弾いて切り返す。

手の延長として扱い、腹でたたいて攻撃をいなし、そのまま削ぐように斬りつけて攻め手に傷を負わせる。ミューラーが見せ

るカッツバルゲルの数々の扱いは、武器そのものと自分の腕力、体重、スピードを巧く噛み合わせて回しており…、

(ああいう風に使えるんだ…)

 かつてのリーダーがブルトガングをどう使っていたのか、入隊してすぐ離別を経験する結果になったノゾムは把握していな

かった。だから、ミューラーの闘い方を見てハッとさせられた。ブルトガングも、本来はああいった使い方をすべきなのでは

ないか?と…。

 ナイフでも、標準的な剣でもない。大鉈という独特の形とバランスが特徴となっているブルトガングは、ミューラーが用い

る「喧嘩剣」とも用途が似ている部分がある。

 ガヅンと音を立てて、ブルトガングが下がる。

「開きました!」

 ノゾムが叫ぶと同時にミューラーは手近な一体を蹴り上げて引っくり返し、ヴァルキリーウィングCの光弾を立て続けに二

発打ち込みつつ後退する。

 開いたドアを盾にして飛び掛った一体から身を守ると、ノゾムに続いて内に入ったミューラーは、

「焼きます!閉じて下さい!」

 勢い良くソアを閉めた。その直後、閉じる寸前にノゾムが飛ばした発火の視線が効果を発揮し、コックローチごと通路を焼

き払う。

 ドアのロックは壊してある。鍵をかけられないのでここでは防ぎ止められない。奥に居るノゾムは足の痛みを我慢して下り

階段を駆け降り、続くミューラーはドアを開けて入ってくるコックローチへ、振り向きながら数発の光弾を打ち込んで…。

「ハァ…!ハァ…!」

 閉ざした扉を見つめ、荒い息をつきながら、ノゾムは額の汗をぬぐった。

 階段の先には小さな踊り場があり、作業倉庫の排水を行なう設備…操作室に繋がっていた。鉄製の丈夫な扉は、ミューラー

が内から鍵をかけると、コックローチ達の侵入を完全に防いでくれた。

 押されて時折震える扉から視線を外したミューラーは、緊急時用に予備電源で動いているのだろう、入室者を感知して蛍光

灯がついた室内を見回した。各種操作盤の他、天井付近の高い位置にはやや下向きに取り付けられたモニター類があり、いず

れも通電している。しかも、地下排水設備の点検孔や排水溝を通じて他の倉庫などへも移動できるようになっており、上手く

すればここからの脱出も可能。

 そして猪は、入手した見取り図では気付けなかったこの部屋の重要性に勘付いた。

「…何?文字、意味ハ?」

 並んだ操作ボックスとコントロールパネル類、無数のスイッチやランプ類を指差してミューラーが問うと、恐々とドアを見

ていたノゾムは、

「…えぇと、排水…、点検孔1、2、3?封鎖ゲート操作盤…?これって…」

 スイッチやランプ毎に記されている文字を読み上げて、ノゾムも気付く。

「ここ…!排水設備系統の操作が全部できるんだ!」

 おそらく定期的に大掛かりな清掃などで使われるのだろうその小部屋には、「使用注意」のマグネットシールが大量に貼ら

れたスイッチ類が集中していた。ここ一か所で施設全体の排水を統括しており、コックローチ達が侵入に使用していた下水と

の接続を断つ遮断水門も操作できる。

「ここを上手く使えば、これ以上のコックローチ達の侵入が防げます!」

「グート!」

 拳を握って深く頷くミューラー。

 早速現況報告しつつ操作の許可を求めるため、ノゾムが借り物の通信端末でエイルを呼んでいる間、ミューラーもこっそり

とチョーカーに触れて…。