Fatal Ignition(act7)
『少尉!?少尉大丈夫ですかー!?』
煙が立ち込める地下で、口元をハンカチで被いながら涙目になっているミオは、やっと回復したラドからの通信に「ええ、
なんとか…」と鼻声で応じた。
サラマンダーが放った熱線は部屋中をズタズタに溶断しており、天井も一部を除いて崩落している。熱線がプラズマに近い
性質を持つのか、通信も不調をきたす程の電磁波まで生じていた。崩れ落ちて埋まってしまったので、部屋の奥がどうなった
のかは確認できないが…。
(運が良かった…!出入り口は埋まらなかったし、全部は崩落しなかった…)
ミオが背を預けている部屋の隅は、すぐ脇にドアがある。落ちて来た天井のパネルボードがドアにもたれかかる形になって
いるが、容易に除けられるし外にも出られる。
「サラマンダーの反応が判らなくなってしまいました。計器が彼我距離ゼロと表示して…。勿論、ホラー映画みたいに天井裏
とか床下に居るわけじゃないみたいなんですが…」
これでは追うに追えないと困っているミオの呟きに、ホッとしたラドが応じる。
『ああ、たぶん力の余波みたいなものまで検知しちゃってるんですー。垂れ流した分だけで計器がイカれちゃうなんて桁違い
ですよー、ほんとにー。機器の不調じゃなく周囲の環境が原因ですからー、復旧は難しいですねー…』
「となると、ここから先は計器で探れませんね…。ミューラー特曹の方はどうでしょう?」
『あー、それですー!特曹は発火能力持ちの調停者を保護してー、そのまま一緒に行動しててー、計器が誤作動しっぱなしだ
からこっちはあてにしないでー、って言ってますー。それで、ですよ少尉ー?』
ラドはミューラーから受けた連絡を手早くミオにも伝え、
「グート…!」
分隊長は許可を下す。
「貯水槽01、02、03…、貯水量メーターはこれか。えぇと次は…、接続確認ランプの点灯…、オーケー。排水ゲート操
作板…、コレかな?よし、貯水開始…」
備え付けてあったファイルを開き、マニュアルを確認しながら操作に入ったノゾムは、少し迷いながらもスイッチを弄って
ゆく。ランプや札の赤や黄色で訴える警告色こそ認識できないが、色の濃さで警告や注意が判別できるのでノゾムも操作に困
らない。
エイルを通じて許可を得たノゾムは、コックローチの侵入経路となっている下水との接続路、そして排水溝を一掃する作戦
に取り掛かっていた。
排水路の清掃のための機能を利用して貯水槽に水を貯め、緊急放出措置により排水溝及び点検坑へ一気に流し込み、コック
ローチを押し流した上で、下水との接続を遮断ゲートで断つという作戦である。成功すれば今まさに地下から這い上がって来
ているコックローチ達を押し流した上で、これ以上の侵入も防げる。増援の到着が遅れている今、限られた人数で対処するに
はコックローチの後続を断つ一手は効果が大きい。
初めて弄る類の機器類で、自信がある訳でもないが、ノゾムはテキパキと操作をこなしてゆく。普段なら失敗は出来ないと
いうプレッシャーで動けなくなっても不思議ではないのだが、趣味のテレビゲームでこういった複雑な操作を要求される場面
もあったので、それと同じだと自分に言い聞かせ、作業へ没頭する事で、ノゾムはプレッシャーを押さえ込んでいる。
その後ろから、ミューラーは固唾を飲んでノゾムの作業を見守っている。
(この操作はワシだけではどうにもできんかった。運が良かった…)
ここからの操作で事態を好転させる事はできないだろうか?と訴えたミューラーにノゾムが提示したのは、コックローチの
侵入経路を塞ぐのみならず、強制排水で侵入しかけていた分まで押し流す作戦。もし成功すれば自分達も、コックローチで埋
まっている先ほどの通路を使わずに、地下の経路を辿って違う倉庫へ移動できる。
ノゾムに許可を伝えたエイルは、プレッシャーになるだろうと考えてあえて告げなかったので、少年も猪中年も知らないが、
実は潜入したブルーティッシュのメンバー中4名が、地下から現れるコックローチに探索を阻まれ、生存者が居るかもしれな
い倉庫や小部屋に乗り込めないでいる。少年に委ねられたのは、現状を打破する起死回生の一手と言えた。
「ランプの点滅は…、貯水率8割のサインか。あと少し…」
退避が間に合わないメンバーが居れば連絡すると、エイルは言っていた。貯水サインが満杯を示すまで連絡が無ければ作戦
を実行できる。
やがて、三つのランプが点滅を止めて灯ったままになると、ノゾムは透明なカバーが被せられたレバー式スイッチ群を見つ
め、札を読み上げて慎重に最終確認する。「構内の作業者に注意」と記された目立つパネルが貼り付けられたそれらは、強制
排水弁の操作を受け持っている。
「やります…!」
ミューラーが見守る前で、ノゾムは意を決して排水ボタンを押す。
電源を入れられた監視モニターを見上げるミューラーは、そこにうごめくコックローチ達が、鉄砲水のように押し寄せた水
流で一気に長し去られる様を確認した。
「閉めます!」
ノゾムは続けてゲートの開閉スイッチを次々と操作した。排水ルートの大部分は頑強なゲートで次々封じれ、下水道から隔
離されてゆく。
(お見事!この機転に対応力…、よい騎士になれる逸材!)
ノゾムは気付いてもいないが、ミューラーは評価した。現況で行なえる有効な、しかも大胆な策を思いつき、実行するその
閃きと行動力を。
ミューラー自身は騎士ではない。だが、従者として、護衛として、部下として、優秀な騎士を数多く見てきた猪は知ってい
る。剣技や指揮能力に長けた者だけが優秀な騎士となる訳ではない。戦局へ柔軟に対応でき、策を見つけ出す閃きを持つ者も
また、騎士として多くの部下を生き残らせて大成する。
騎士の傍らに仕える者として、猪の直感が告げていた。
この若者はいつか必ず、優れた調停者になる、と…。
「…虫達が押し出された。侵入路も閉ざされたようだ」
狐の面を被った女性が、耳が出るように短く切りそろえた髪を風に揺らしながら告げる。
眼下には、内部で熱線を放射されて、あちこちから煙を上げている倉庫。
「様子を見に行く」
『確かに気にはなる。だが、姿をくらましたサラマンダーの行方も判っていない』
危険だと言外に告げる最年長メンバーの声に、
「買収した監査官による行動遅延行為も限界が来る。急げるならば急ぐべきでは?」
女性はそう応じると、数歩下がって軽く助走距離を取った。
『…仕方あるまい。若がお着きになる前に所在を再確認する』
仲間の了承を聞くと同時に、女性は屋上から跳んだ。そして、15メートル以上の高さを物ともせず着地すると、煙を吐い
ている倉庫に駆け寄ってゆく。
それを別棟から確認した中年の男は、「俺もゆく。外の監視は任せた」と通信で仲間に告げ、数歩下がって助走をつけよう
とし…。
「!」
最初に感じたのは、風切り音だった。大きなものが、単純な形状ではないものが、大気を引き裂き飛来する音。
素早く振り向いた男の視線の先へ、ドズンと、コンクリートの屋根に亀裂を生じさせながら、大きな塊が落下してきた。
四つん這いで着地したソレは、ボシュウッと白い蒸気を全身から噴出し、立ち昇ったソレが夜気に流れる中で身を起こす。
身長2メートルを越えているだろう、見上げるような北極熊は、吹き流されてゆく霧の中から赤く輝く瞳を男に据えた。
(一体何処から…?)
中年の男はアルの後方を見遣ったが、飛び降りて来られそうな高い場所は近くにないように思えた。さすがに、敷地外の巨
大倉庫の屋根を疾走し、高低差40メートル、距離80メートルを飛び越えて来たなどと、推測し切れる物ではない。現行の
一般的な人類と一線を画す身体能力を持つ虫使いでさえも、アルの滅茶苦茶なルート選定を想像するには至れない。
「調停者っス」
ポールを一振りして腰を落とし、半身に構えたアルが警告を発する。
「容疑者としてお話を聞かせて欲しいっス。武装を解除して…」
北極熊は言葉を切る。中年の男は口上の途中で腰から短剣を引き抜いていた。
柄は何かの角か骨のような物で作られ、銀と宝石の装飾が施されている。刀身は弧を描いており、中央に溝が拵えられてい
た。ジャンビーヤ、中東の短刀である。
「ブルーティッシュの増援が到着した。侵入経路は不明」
中年の男はマスクの中に篭る低い声で仲間達に警告を発すると、逆手に握ったジャンビーヤを胸の前で水平に構えた。途端
に刃が薄く発光し始め、その刀身の曲線を延長するように、青白い燐光が伸びる。
(エネルギーブレードの類っスか…)
レリック、あるいは擬似レリック。おそらく柄は何らかの秘匿事項関連生物由来の素材で、銀の装飾は精霊銀、宝石は思念
波蓄積機能を有する合成宝玉、刀身自体も何らかの特殊合金だろうとアルは察しをつける。
中年がトンと床を蹴り、肩からすっぽり被ったマントを翻した。
(え?速くないっス?)
迎撃動作に入りつつ、アルは内心いぶかしむ。中年の接近速度はリミッターを外した獣人のソレに近い。見た目の上では人
間、つまり禁圧自体が存在しないはずなのに、である。
(強化手術とかしてるクチっスかね?)
床スレスレに下げたポール先端を、ヒュンと風切り音を立ててアルが跳ね上げる。狙いは武器を持つ右腕側…その付け根、
基点たる肩のさらに内、右の鎖骨。ポールで突き砕く心積もりで一撃放ったアルに対し、男は尋常ならざる反応速度で肩を下
げ、掬い上げるようにジャンビーヤの光刃を振り上げる。突きに入ったアルの、伸びた右腕を腋の下から切断する軌道だった
が、北極熊は即座に手首を返してポールを下側にし、腕と位置を入れ替える事でガードした。
(愚か…)
狐面の下で、男の目が微かに細まった。このジャンビーヤの光刃は、思念波を変換した高密度エネルギーで形成されている。
金属だろうとカーボンだろうと瞬時に焼き切るこの刃は電柱すら抵抗無く切り倒す。いささか太いとはいえ、ひとの手に握ら
れるポール程度で防げる物ではない。
はずだった。
ヂヂュンッ…、と鋼が熱せられるような音が鳴り、中年は目を見開く。
光刃が止まっている。ポールに止められている。間近で見れば、金属とも、磨かれた骨とも、漆などで表面を保護された木
材ともつかない、奇妙な質感と光沢を持つそれは…。
(遺物!?それも、神々の歴史の産物か!)
「せい!」
気合を入れて、腕を上に乗せた状態からポールを押し下げるアル。這わせた光刃で押し留めつつ懐に入り、もう一本のジャ
ンビーヤで喉を掻き切ろうと、左手を腰に伸ばしかけた中年は…、
「!?」
ガグンと膝を折り、両手をジャンビーヤに添える。
(ただの獣人ではない!)
中年には自信があった。彼の一族は獣人と競っても負ける事などない身体能力を持つが故に。しかし、目の前の若い白熊に
はあっさりと力負けを喫している。
押さえ込まれる前に後ろへ跳び転げ、後転の要領で転がった中年の背を、振り下ろされたポールが掠めて床を破砕した。
「でい!でい!でいっ!」
まるで、鍬を振り上げて耕すように、連続でポールを振り下ろすアル。床を破砕する連続攻撃を転がり続けて避けながら、
中年は横へ跳んで軌道を変えて脱出する。そして、ポールを振り下ろした状態にある北極熊の脇腹めがけてジャンビーヤの光
刃を振るった。
「っと!」
慌てて腰を引いたアルのベストが、ヂヂュンッと音を立てて浅く溶け断たれる。鼓谷製のジャケットがあっさり損傷させら
れたが、腹を薙がれるギリギリの位置で避けている。
(速い!この図体で!)
中年は舌打ちする。ベストを霞めはしたが、そもそも切っ先の軌道は白熊の肌に届いていなかった。例え防具が無くとも傷
は負っていなかっただろう。
「せえっ!」
裂帛の気合を込め、両手持ちされたポールが捻りを加えて突き出される。またもや狙いは肩。ボッと音を立てて行き過ぎる
先端をかわした中年が、反撃に光刃を振り上げるも、手首を狙われた左手をポールから離して避けたアルは、そのまま腋の下
と右手で固定したポールを横薙ぎに振るう。
屈む中年の頭上を行き過ぎるポール。そのままアルは身を捻り、時計回りに一回転して遠心力を加え、再度薙ぎ払う。今度
の狙いは足元すれすれ。軽く跳んで避けた中年を…、
(しまっ…!)
ポールを追うように飛んできた「鈍器」…、丸太のような右足で繰り出した後ろ回し蹴りが襲った。
堪らず脇を締めた中年の右腕が筋肉を硬化させてガードするも、強烈な蹴りで木っ端のように吹き飛ばされる。
骨に亀裂が生じ、筋肉が断裂し、あばらが軋む。10メートル近く宙を舞った中年が着地する前に、アルの靴底が高速回転
を殺してギュヂヂヂッと音と煙を上げた。
到着からここまで、アルは禁圧解除を継続している。本来であれば負荷で全身ボロボロになっているところだが…。
身を屈めて前傾し、再びボシュッと白い蒸気を全身から噴出させたアルは、着地際の中年に肉薄した。
振り上げられるポール。ジャンビーヤを水平に構えて受ける中年。
ガドンッ!と、屋上全体が轟音と衝撃に揺れる。
着地際を狙われ、受けるしかなかった中年は、跪いてジャンビーヤを水平に寝せ、振り下ろされたポールを止めている。背
骨が軋み、筋肉が悲鳴をあげ、ついていた膝はメキリと音を立てて圧迫された。
「大怪我する前に降参するっス!」
膝をついている中年に上から圧をかけるアル。そのポールを止めながら、男は歯を食い縛った。
状況が悪い。白熊の狙いが巧みだった。刃の角度を変えてポールを滑らせ、反撃する事も考えたが、それで右へ流せば刃が
離れた瞬間に脇腹かあばら骨を殴り砕かれる。このまま耐え続けても、圧に負けた瞬間肩を上から打ち据えられて圧砕される。
どちらに転んでも戦闘終了…というより動けないほどの重傷、下手をすれば死ぬ程の深手を負うのは免れない。
(ならば!)
男は顔を上げてアルを見据える。アルが狐の面を至近距離から睨み返した瞬間、その額の中央にあるレンズが、パッと強烈
な光を放った。
「!」
目を焼かれたアルの手が、抵抗の喪失を感じる。
手首を返してポールを振り落とすも、砕いたのはコンクリートの床。即座に耳がピクリと動き、大きく踏み込みつつフルス
イングしたが、先端に感じた手応えは布のソレ。
(やられたっス!)
風を巻くマントの音が高々と舞い、目をやられながらもアルは理解した。聴覚で当たりをつけてくると察した男が、マント
を放り投げたという事を。
一方。先行して飛び降りた虫使いの女は、倉庫のドアめがけて疾走していた。
その行く手でドアが内側から開く。
飛び出してきたのは、脅えた表情の、憔悴した男性…生き残っていた警備員だった。警備員は走って来る女の、狐面を被っ
た黒ずくめという格好を見て、倉庫内で襲ってきた怪物の一種だと誤認し、悲鳴を上げる。
(見られたか)
女性は腰からジャンビーヤを抜き、すれ違い様に斬り捨てるつもりで前傾、速度を上げ…、
「!?」
唐突に横へ跳ぶ。直後、タタタタンっと銃声が響いて、女性が走って来たそのラインで火花が散った。
「間にあったであります。余計な鬼ごっこ兼かくれんぼでヘトヘトでありますよ」
巧みに隠れながら逃げる警備員を延々追っていたエイルは、げんなりした声で呟きつつ、狐面の女性にP90を向け直した。
警告はない。とりあえず手足でも打ち抜いて無力化してから降伏勧告するつもりである。何せ…。
(あの脚力はまともな人間では無いでありますね。おそらく…、ブーステッドマンか何かでありましょう)
太腿のシースからアーミーナイフを抜いて左手に握り、レッサーパンダは女性に向かって走り出した。
「…ブルーティッシュと遭遇。危険性を考慮し、サラマンダーの位置確認は諦める…!」
面の下で苦々しく呟いた女性は、エイルを牽制するために一応は交戦の構えを見せつつ、撤退のために退路を探り始めた。
(ん?羽音っス…?)
エイルの銃撃音を聞きながら、そこに混じる異音に気付いてアルは天を見上げた。
視界は光で焼きついて真っ白。撤退に入った中年が、呼び寄せたコックローチに捕まって宙高く舞い上がっているが、アル
には目視確認できない。
「急げ。離脱完了と同時に起爆する」
中年の男が皆へ通信で呼びかけ、厳重にロックされていた起爆スイッチを取り出し、爆破準備を始める。各倉庫に仕掛けた
爆薬は逃走を手助けするだけでなく、上手く行けば爆発によりサラマンダーも炙り出せるのだが、男達にとっては敗走の狼煙
でしかない苦渋の選択。頭領が来るまでにサラマンダーを捕捉しておくはずが、目的は達せられなかった。
(ご報告しなければ。ブルーティッシュには我々が知っていた以上の力がある。あんなにも若い獣人までも…)
中年は高空からアルを見下ろす。北極熊はまだ視力が戻らないようで、腰の辺りをまさぐりながらゴソゴソ動いていたが…。
「こんな時こそ、頼るべきはトモダチっス…!」
アルは装着していた鞘から小剣を抜き、ポールを持ち替えて先端を探ると、くぼみに剣の柄頭を合わせた。小剣と思われた
物は実は分割されていた「穂先」。ポールから剣先までが一直線になり、いわゆる手槍の形状となった得物は、こちらこそが
本来の姿。
「禁圧総解除!」
改めてボシュッと、アルの体から蒸気が溢れる。霧を纏った北極熊は、全身の筋肉をメキメキと怒張させ、握った槍を大き
く引き、身を縮め、撓め、捻り、そこから一気に伸び上がる。
「どっせぇーい!」
ゴッ…と大気を震わせて、重々しい響きさえ上げながら槍が夜空へ飛翔する。ただしそれはほぼ垂直に飛んだだけ。見えて
いないアルはろくに狙いもつけられない。
(目潰しをしておかなければまずかったな…)
コックローチに吊り下げられたまま、中年は槍を一瞥し…、
「頼むっスよ!「ブリューナク」!」
目を見開いた。北極熊の意思に応え、全力で投擲されたその勢いを殺さぬままに、槍は稲光のように鋭角に軌道を変えて宙
を駆け、穂先と進路を中年に向ける。
(まさかあれは…、追尾能力を備えているのか!?)
一閃。夜空を流星が駆け抜けた。
頭部から尻の先までブリューナクに突き抜けられたコックローチが体の中心部を円筒状に大きく穿たれ、パンッと音を立て
て残った手足や胴の残骸、体液などが飛散した。アルが全力で放るブリューナクは対戦車ミサイルにも比肩する暴威の塊、強
靭なインセクト系上位種ですら、直撃すれば微塵に砕ける。
追尾攻撃を「頼んだ」アルは寸前に羽音を頼りにしていたため、ブリューナクが狙ったのは羽音の源たるコックローチだっ
た。吊り下げられていた中年は支えを失って落下し、ブリューナクの疾走に伴って発生した衝撃波に近い突風に全身を叩かれ、
起爆装置も手放されたが…。
「来い!」
呼びかけに応じ、敷地の駐車場から別のコックローチが数匹飛び立ち、二匹が落下中の中年を捕まえ、残りが護衛するよう
に周囲に滞空する。
(空路は危険か!…む?)
中年は目を凝らした。
アルがガックリと屋上に突っ伏し、身を覆っていた霧がたちどころに晴れる。そしてその傍らへ、舞い戻ったブリューナク
がガツンと、穂先を下にして突き立った。
(が…、ガス欠っス…!こ、ここに来るまでに…!飛ばし過ぎたっスか…!)
疲労が限界に達したアルが動けなくなると、中年は追撃の危険性が下がったと判断し、仲間達へ撤退の好機である旨を伝達
し、急ぎ離脱するよう促した。
踏み込まれた先でブーツの底が焦げる。
軸足の靴底をすり減らして回転、逆手に握ったナイフでの一閃を避けた仮面の女性に対し、蹴り飛んでローリングソバット
にスイッチしたエイルは、それを屈んで避けた相手に至近距離からP90の銃口を向ける。
滞空状態の一瞬を突くどころか、その不安定な姿勢からの追撃。予想以上の白兵戦能力を見せるエイルに舌を巻きつつ、仮
面の女性は横に身を投げ出して地面を転げる。
そこへ飛来する二匹のコックローチ。一匹は女性を背中から捕まえて飛び上がり、もう一匹はエイルに襲い掛かる。
(リミッターカットはもう使えないでありますね…)
禁圧を解いた状態でも仕留め切れなかった女性が夜空へ去る様を、弾切れになったP90を放り捨てつつ一瞥したエイルは、
ナイフ一本を得物にコックローチとの肉弾戦へ移行した。
一方その頃、ミューラーとノゾムは安全になった地下の排水路を辿って移動していた。
元々が汚水と呼べるような汚れた水ではなく、コンテナなどを洗浄した程度の水を逃がす排水路なので、幸いにも殆ど臭わ
ない。
「あそこのタラップから上がればたぶん車庫です。隣の倉庫は、その先を曲がってもう一つ先にあるタラップですね」
先行するミューラーを追いながらノゾムが位置を知らせる。逃げ場の無いルートなので、ミューラーは両手に得物を握り常
に臨戦態勢。ノゾムに合わせて歩調を落としつつ警戒前進している。
(少尉はお怪我などされていないらしいが、相手がアレではなぁ…)
上官を心配するミューラーは、サラマンダーは何処へ逃げたのかと考え…、
「あれ?」
ノゾムが発した声と同時に足を止めた。
「女のひと…?」
不思議そうな声を発するノゾム。曲がり角から現れた女性の姿に一瞬驚き、しかしそのジャージ姿に気付いて警戒を解き、
逃げ遅れたひとかな?と考えて…。
「………」
猪は、無言のまま左腕を横に伸ばし、ノゾムを制した。
「三浦さん?」
生存者を救出しないと、と疑問の声を投げかけようとしたノゾムに、ミューラーは低く「後退」と告げる。
(運が無い…!ええい運が無いぞ!まさか!よりにもよって!満足な遮蔽物も逃げ場もない、こんな場所で出くわすとは!)
ミューラーは知っていた。先にラドを経由し、ミオが遭遇したサラマンダーの入れ物の外見的特徴を。
(後退できるか?さっきの横坑まで下がり切れるか?避ける手段は…)
奇しくも、コックローチの群れと出くわした先ほどと似た状況。少し進めばタラップがあるのだが、登っている間に攻撃さ
れたらおしまい。コックローチの時のように閉めたドアで足止めできる状態には無い。
(ぬう!無理か!)
腹を決めたミューラーは、ノゾムにもう一度「後退!」と叫び、肩を掴んで後方へ押しやる。
「逃ゲル!ユックリ!静カ!」
ここに至って、目にしている女性が逃げ遅れた民間人ではないと察したノゾムは、改めて、驚きを込めて視線を送り…。
(オレンジ…?)
離れていても判る女性の目の発光に、その異常さに気付いた。
(オレンジ…?目に…オレンジの光…?オレンジ???)
驚いているノゾムを促し、背に庇いながら、ミューラーもジリジリと後退した。
(接近すればまだ目があるものの…、こいつは参ったわい…!身を隠す場所も迂回路も障害物も無い!あの熱線を撃たれたら
終わる…!)
緊張の汗で手の平がジトついた。下手に刺激したら先制攻撃…、しかもそれが即座に全滅に繋がる。比較的安全だったさっ
きの操作室にノゾムを残して来るべきだったと悔やんだ。
サラマンダーはその場に佇んでいたが、じっとふたりを見つめた後、ミューラーの手元に視線を据える。
トンファーがある。「あの宝珠」を嵌めてあるトンファーが。
そしてその双眸に、より強くオレンジの光が灯る。
「グッ!」
間に合わない。全力で走っても届かない。近付く前に攻撃が来る。その事実を嫌でも確信させられて唸ったミューラーは、
振り向き様にノゾムに飛び掛かり、なりふり構っていられず乱暴に押し倒す格好で体を浴びせ、組み敷いた。
「えぶぅっ!」
体重があるミューラーの重みをまともに受けてノゾムが呻いたが、猪は構わず、自らの体で覆い隠すように少年を守り…。
刹那、その上方…天井すれすれを、糸のように細く絞られた熱線が通過する。
排水路の天井が、ヂュインッとフライパン上で水滴が蒸発するような音を立てて熱線で切り払われ、崩落する。
大小細かな破片が降り注ぐ中、ノゾムに覆い被さったミューラーの、庇う余りに無防備だったその後頭部に、コンクリート
の塊が命中した。
消え入る意識のその際に、猪兵がレディスノウへの祈りと共に思い浮かべたのは…。
(エアハルト様…!坊ちゃん…!少…)
急に力を失い、重みを増した猪の下で、「三浦さん!?」と呼びかけたノゾムは粉塵を吸い込んで激しく咳き込んだ。
崩落は短時間だった。ナイフで削ぐように薄く薙ぎ払われただけだったので、通路が埋まるほどにもならなかった。
もともと湿気も多い場所である。粉塵はすぐにおさまって…。
「三浦さん!三浦さん!?」
ミューラーの下から這い出して呼びかけたノゾムは、肩を支えて引っくり返そうとして、ヌルリと、手に触れた血の感触に
気付く。
「あ…、あああ…!」
まただ。
ノゾムは己の手を黒々と染める血に慄く。
また自分は、庇われた。
また自分は、守られた。
また自分は、誰かを犠牲にした。
ピクリとも動かないミューラーの、頭から流れる熱い血。フラッシュバックする、自分を守って逝ってしまった先達の姿。
まただ。
ガタガタと震え始めたノゾムは…。
「…!」
ピクリと、ミューラーの体が震えた事に気付く。
(い、生きて…!生きてる!)
ミューラーは命中したコンクリート塊で頭が切れ、流血しているものの、気絶しているだけだった。そもそも落下してきた
コンクリート塊は大きく見えはしたが、広い面はあっても薄かったので、当たったと同時に割れている。
「三浦さん!しっかり…、ひっ!?」
生きていると知ってホッとし、改めて呼びかけたノゾムが悲鳴を上げる。視界の端に入った「脚」に気付いて。
音も無く接近していた女性がそこに居る。地面から数センチ浮き、無表情のままノゾムを見下ろしている。
瞳の奥に、確かに、オレンジの光が見えた。
小刻みに体を震わせながら、ノゾムは腰のブルトガングに手を伸ばした。エイルに借りた銃の事など思いつきもしなかった。
(こ…、今度は…!今度は、今度こそは…!)
突っ伏したまま動かないミューラーをうつ伏せに膝枕させる格好で、引き抜いた大鉈を両手で構え、震える切っ先をサラマ
ンダーに向ける。
(今度こそ、僕が守るんだ…!)
歯の根も合わないほど震え、それでも構えるノゾムの手の中で、しかしブルトガングは沈黙している。その力を解き放とう
としない。
女性はその沈黙する切っ先に目も向けず、ノゾムの目を真っ直ぐに見ていたが、
―………リ…イ…―
「…え?」
狐は思わず声を発していた。
女性の口元が僅かに動いている。音は無い。声にはなっていない。そもそもそれは言語ですらない。
ノゾムが「聞いた」か細いそれは、「意思」のような物だった。
―…………タイ…―
繰り返している。同じ意図の何かを。
ノゾムはゴクリと唾を飲む。
不思議と恐怖が薄れていた。敵意が無いと、伝わって来る意図で確信した。むしろ、この「訴え」を聞いてやらなければい
けない気がした。
「何…?何を伝えたいんですか…?」
―…カエ……イ…―
身を乗り出すノゾム。
もっとよく「聞き」取ろうと、言葉でも音でもないソレに「耳」を澄ます。
もどかしいと感じる。ただしそれは「相手がはっきり言わない」もどかしさではなく、「自分が上手く受け止められない」
もどかしさ。
―…カエリタイ…―
ハッと、ノゾムの目が大きくなる。
意味を理解すると同時に、ノゾムの頭の中にあるイメージが届いた。
それは、炎に包まれた景色。
燃える火の向こうにひとが見える。
人間…、獣人…、衣類とは呼び難い毛皮のような物を纏い、燃える炎の中に座っている。
十数名居た。老いた人間の男に、犬獣人の少女。若々しい人間の男に、体格のいい虎の中年。若い狼の女が毛皮に包んで抱
いているのは人間の赤子。
しかしその人々は、炎の中にありながら苦しんでいない。くつろぎ、何か言い交わし、笑みさえ見せている。
おもむろに、逞しい虎がこちらへ手を伸ばした。手に握られているのは肉がついた動物の骨。それが火に炙られて油を垂ら
して焼け始めると、ノゾムはようやく理解する。
これが、「火の中からの視点」だという事に。
そこはどうやら洞窟らしく、入り口から程近い場所で焚かれた火の中のようだった。
強い風が入って炎が激しく揺れると、それを守るように、肉を焼いていた虎が尻をずらして、大きな体で風除けになった。
横に並んで座ったのは若い、彫りの深い顔立ちの人間。虎と何か言い交わして笑い合っているが、やり取りの内容までは判
らない。
人間の赤子に乳をやりながら、その顔を愛おしそうに見つめる狼の女性。老人はその様子を見ながら、泣いている別の赤子
を抱いて揺すってやっている。
人間と獣人が混在する集団に囲まれて、炎は燃え、揺れている。穏やかに、優しく…。
(これって…)
炎を囲む人々を眺めながら、視線だけの存在となっているノゾムは感じ取った。
人々は、この炎を大事にしていた。
そして炎は、その人々を愛していた。
時が流れる。年月が経つ。赤子が少年になり、子供が成人になり、老人が居なくなり、虎が老いて痩せ、若者が髭を蓄えた
老人になり、新たな子が生まれ、少しずつ顔ぶれが増えてゆく。
数十年が一瞬に凝縮されて、高速で景色が変わってゆき…。
―…カエリ…タ…イ…―
ノゾムは呆然と見上げていた。天井に生じた大穴を。
熱線で穴を開けて外へ浮かび上がって行った女性は、もう姿が見えない。
「う…、ぐ…!」
意識が戻ったミューラーは、呻いて、それからノゾムが正座している脚に顔を乗せていた事に気付き、状況が判らないなが
らも一瞬鼻の下を伸ばして、それからハッと我に返る。
「サラマンダー!?」
身を起こして思わず口走ったミューラーの言葉を聞き、ノゾムは胸の内で繰り返した。
(サラマンダー…)
あの、寂しげに燃える存在の名を。