Fatal Ignition(act8)

「ノゾムー!」

 壁に背を預けて座り込み、ミューラーから貰った包帯で足首を固めていた狐は、北極熊の声で顔を上げた。

 アルが息を切らせて走って来る。足取りは雑で、ドスドスと足音が大きく、上体はブレていて、肉付きのいい腹が駆け足に

連動してユサユサ弾んでいる。

 その、普段とは違う無駄が多い走り方でノゾムは気付いた。アルも相当消耗している事に。

「大丈夫っスか!?」

「うん。助けて貰っ…、あれ?」

 横手を見遣ったノゾムは目を丸くする。ついさっき、ほんの十数秒前まで、自分の隣で壁に背を預けて休んでいた猪の出っ

張った腹の段差が、視界の隅に見えていたのだが…。

「怪我、酷いんス?」

 アルに問われて視線を戻したノゾムは、「ううん。挫いただけだから…」と首を振る。

「…増援に入ってくれたんだ?」

「ちょっと遅れたっスけどね」

 多少の怪我はあっても元気そうだと判断し、ホッと息をついたアルはベストのポケットから親指の先ほどの包みを二つ取り

出すと、一つをノゾムに手渡し、もう一つの包装を解いて中身を口に放り込む。

 含んだ途端に濃厚な甘味が口の中に広がり、唾液を湧かせながら溶けてゆく固形物。栄養補助のために特別調整されたキャ

ラメルである。ブルーティッシュの開発部門が苦難の道筋を幾年間も辿った末に完成させた、「きちんと美味しい携帯食料」

の一つ。このキャラメルは手っ取り早くカロリーと糖と脂を摂取するための品。たった二ヶ月前まで採用されていた品はとに

かく酷い味と食感で、甘じょっぱいモサっとしたクッキー状の携帯食料だった。

 貰ったキャラメルを口の中でコロコロと転がしながら、ノゾムも敷地内を見回す。作戦行動は既に現場対処と、増援部隊に

よる残存コックローチの除去に移行しており、初期配備部隊は引き上げが始まっている。

 そんな中、レッサーパンダが指揮しながら男性を担架で搬送してゆくのが見えた。

 先にエイルから逃げ回り、まるでホラー映画の逃げる主人公よろしく、一般人とは思えない機転とタフさでなかなか捕まら

なかった方の警備員は怪我も無かった。だが、別のメンバーが救助したもうひとりの警備員は、リネン室に立て篭もって生き

延びていたが、逃げ込む際に太腿をコックローチに噛み裂かれて重傷を負っている。

 死者は出なかった。救助は成功したと言える。だが、ノゾムは浮かない表情だった。

(また、足手纏いになった…)

 手伝いが聞いて呆れる。下手をすれば自分を庇ったミューラーが死んでしまう可能性もあった。自分の働きをそう振り返っ

て、ノゾムは落ち込んだ。

(ぼくは…、また…)

 塞ぎ込んだノゾムの様子に気付き、「どうしたんスか?痛むっス?」と、オロオロ心配するアル。

 友人の気遣いが、心配が、今のノゾムには痛かった。



「惨敗ですね…」

 ラドが運転するレンタカーの後部座席、コンクリート塊が直撃したミューラーの頭に包帯を巻くミオは項垂れていた。

「いやはや面目ない…」

 包帯を回している上から猪の耳が下がって、「あ、特曹を責めたわけじゃなく…」とアメリカンショートヘアーが弁解する。

 ミューラーはノゾムを先導して屋外に出た後、周囲の安全を確認した上で、既に地上に出て隙を見計らっていたミオと合流

した。ノンオブザーブで一緒に姿を隠して貰い、後ろ髪を引かれる思いで少年を残し、こっそり離れたのだが…。

 ナハトイェーガーの離脱と前後し、ブルーティッシュの後詰は続々と到着していた。現場は封鎖されたまま、残存するコッ

クローチの掃討が迅速に行なわれている。それが済んでから鑑識にかけられるようだが、コックローチの駆除中に各所にセッ

トされていた爆弾が見つかって大騒ぎになり、急遽解体作業も同時進行となったため、作業完全終了の見通しはまだ立ってい

ない。

(増援も続々入っとったし、あの子は無事に回収して貰えたはず…)

 ミューラーは、頼りないようでもしっかり仕事をこなした少年の顔を思い出す。ついでにたわわな感触や仄かな体臭まで思

い出し、無意識に手をワキワキさせながら。

(細身は至高。しなやか万歳。ミチッと筋肉質も最高。それは間違いない。間違い無いが…、しかし…、ああいうポニョンッ、

モチッ、プニュンッ、フカフカッ、っとした感触もまた………………………えがった…!!!)

 鼻の下が伸びるミューラー。手当に一生懸命で気づかないミオ。

「それにしてもー」

 ハンドルを握るラドが首を捻る。

「「帰りたい」…ですかー?」

 ミューラーがノゾムから聞いた、サラマンダーから告げられた意図のような物…。これがどうにも不思議だったのだが…。

(ひょっとして…)

 ミオは包帯を巻く手を止めながら、形の良い眉を寄せて考える。

 サラマンダーと相対した際の初撃は、空気の乱流による牽制。直接的な熱攻撃ではなかった。

 猛攻する間も回避し辛い反撃を仕掛けられて骨が折れたが、例えば炎にせよ熱波にせよ、屈折させ損ねて浴びる羽目になっ

ていたとしても即死するような物では無かった気がする。

 さらに、熱線による攻撃もミオが避けたわけではない。最初から狙いが外れていた。

 そして熱線を放たれた後も、部屋の出入り口とミオが居た場所は崩落の被害を免れていて…。

(そもそも、ここまで足取りが掴めなかったのはサラマンダーが移動する先で騒ぎが殆ど起こらなかったから…。ひとが多い

所にも何度か行っている事は確認できていたけれど、行く先でその力が目立つ形で振るわれた事はあまり無くて…)

 足取りを含めて掴めた情報が少な過ぎたせいで精査する事はできなかったが、今になって思う。自分達は重大な見落としを

していたのでは?と…。

「…ミューラー特曹、確認したいんですけど…」

「んはいっ!?確認!?」

 ノゾムの体は手触りが良かったのだが、同じ肥えているのでも自分の肉を掴んでみても手触りが良いとは感じないな…、な

どと自らの太鼓腹を軽く揉んで確認してみていたミューラーは、突然の問いで声を裏返す。

「今回じゃなくて以前の話です。封印中のサラマンダーを確保寸前まで行った、あの時の事なんですが…」

「船に潜入して黄昏とやりあった時の事ですな?サラマンダーが容器に入っておった時の…」

 ゴホンと咳払いして居住まいを正したミューラーに、「ええ」と頷いたミオは問う。

「ラグナロク兵の死体にとりついたサラマンダーは、特曹と遭遇した時、無視するように飛び去ったんでしたよね?」

「そうです。正直なところ、あそこで高熱放射なり火炎放射なりされては堪ったモンではなかったでしょうが、こちらには手

出しする素振りも見せずに逃走しました」

 くわばらくわばら、と人差し指と中指を揃えて喉仏の下をトントンと叩くミューラー。その返答を受けたミオは、静かに顎

を引いて一時考え込んだ。

 追い払うか逃げる。サラマンダーの行動は、よくよく考えてみればそれらを重視しているように思えた。そして気付く。何

故自分が、これまでに相対した神話級の危険生物とは違い、「手強い」というよりも「戦い辛い」と感じていたのか…。

(…サラマンダー…。ううん、あの個体は…、ひとに対する敵意が無い…?いや、もしかしたらそれどころか…)

 基本的に、ミオは完全に敵対せざるを得ない場合以外には、相手を問答無用で殺害するような解決方法は避ける。元々の性

格もあるのだが、交渉可能であれば武力解決以外の落としどころは無いかと考える癖がある。

 だが、人類とはメンタルがかけ離れている神話級の危険生物とこれまでに相対してきた際には、こんなやり難さは無かった。

ひとを歯牙にもかけない、興味もない、塵芥のように排除するだけの相手に対し、敵意や悪意を感じないながらも立ち向かい、

結果として狩る事に成功している。

(今までの神話級危険生物とは違う…)

 ミオがやり難かったのは、敵意や悪意をサラマンダーから感じなかったからだけではない。なるべく殺さずに済ませたいと

いう気遣いめいた物が、あの個体にはあったから…。

「………」

 ミオは思い出す。

 寒い、広い、白い、雪と氷の大平原で過ごした頃の事を。

 あそこで不幸にも、神話級の存在と出くわした時の事を。

 当時は無力でひ弱で臆病で、歯の根も合わないほど震えながら立ち竦むだけだったが、単騎で臨んだ純白の巨漢と白いクラ

ゲのような存在の戦闘を見届けた後で、ミオは上官がこう話すのを聞いた。

 

「敵意も無く、悪意も無い。ならば友好的かといえば、一概にそうとも言い切れない。敵意も悪意も抱くに値しなくとも、重

要な選択を一切経ず無感動に排除する事はあり得るからだ。足元の石ころを脇へ蹴り除けるように…。そうして排除されるの

はおそらく、明確な意志をもって滅ぼされるよりも報われない事だろう」

 

 あの頃極端に寡黙だった上官にしては珍しく、その時は少し口数が多かった。

 それはきっと、少なくとも自分はそんな存在ではありたくないと、祈りにも似た思いを抱いていたからなのだろうと今では

理解できる。生物兵器として造り出された自分の在り方を、ずっと考え続けていた男だから。

 そして思う。あのサラマンダーはきっと、ひとに対して完全な無関心ではない。本当に身の危険を感じればまた話は違って

くるのだろうが、少なくともひとの事を、無感動に排除する対象とは捉えていない。

 絶対的な力を持ちながら、しかしひとを殺さず済ませようとするその姿勢は…。

(ひとを簡単に殺せる力がありながら、むしろ骨の折れる方法で、できるだけ命を奪わずに済ませようとしている…。そんな

所が少し、あのひとの姿勢と似ているかも…)



 捻挫した足の手当てを受け、サポーターで護られた足をおっかなびっくり動かしながら部屋に戻り、ソファーに腰を下ろし

たノゾムは、ぼんやりと窓を、首都の夜景を眺めていた。

 色の判らない、黒白の濃淡があるだけの視界。首都の夜景は地上に眩しい星が降りてきたように明るいが、今はその眺めに

見とれる事もできない。

 無力感が無気力にする。力を得ようと訪れた首都で、自分は何もできていない気がする。

(…もう、出動に加えて貰うのはやめよう…)

 迷惑にしかならないから、自分は出ない方がいい。

 耐えかねたように俯いたノゾムはチャイムの音で耳を立てた。振り返って見遣れば、来訪者を映すドア脇のモニターには若

い北極熊の姿。

「もう寝るトコだったっスかね?」

 労いに来たアルは両手にグラスを持っていた。食堂で頭を下げて用意して貰ったチョコチップ入りバニラシェイク。きっと

喜ぶと思っていたアルだが…。

「ううん。まだ、ちょっとだけ起きてようかなって…」

 ノゾムは浮かない顔だった。

 その目はアルを直視しない。できない。申し訳なくて。足首を痛めていたノゾムは、引き上げの際にはアルにおぶられて帰っ

てきた。疲弊しているアルにさらなる負担をかけたのだと、負い目を感じてしまう。

 見られるのが、辛い。気を使われるのが、辛い。改めて思うのは、きっと自分はアルの友達に相応しくないという事…。

 失望が、無力感が、自分への諦観が、ノゾムを落ち込ませる。

 流石にノゾムの異常に気付いたアルは、活躍の話を聞くどころではないと察し、居心地の悪い、言葉の少ない、ふたりきり

で向き合って過ごす時間を、味がしないシェイクを啜る音で埋めた。



「調べがついたわ」

 火をつけていない煙草を咥え、ピコピコと上下に揺らしながら待っていたダウドは、ネネが執務室に入るなり、椅子の背も

たれから背中を離して身を乗り出す。

 午前一時。窓の外には幾分減った首都の明かりが灯っている。爆弾の除去はようやく終わり、周辺の下水道にも駆除部隊を

送り込んだので、成果の報告待ちという状況だった。その間に、一度は現場に赴いたネネをあえて呼び戻し、調べさせていた

のは…。

「飛び去る直前にエイルが撮影してくれた画像と一致するわね。木村奈々緒、「普通のOL」よ」

 ネネがデスクに広げたのは写真類。髪の長い若い女性が映っているそれらの中には、ノゾム達が見たジャージ姿の物もある。

「二週間前に捜索願が出されていたわ。無断欠勤を不思議がった同僚と上司が訪問して、家族にも連絡していたみたい。この

辺りの経緯に不自然な点は無いわ。ただ、現場の状況を纏めた資料を送って貰って確認したけれど、そっちに少しおかしな部

分があって…」

 女性のアパートは部屋に鍵もかけられておらず、最初に訪れた同僚と上司は部屋の中を確認できた。そこで見つけたのは、

リビング中央に置かれた燃え尽きている練炭と、玄関側だけ剥がされた目張りのガムテープ。

 練炭自殺を図り、そのまま気が変わってやめ、外へ出たとも思える状況だった。アパートのエントランスにある防犯カメラ

には、夜明け前に外へ出てゆく女性が映っていたのだが…。

「…練炭自殺は成功していたんだろうな」

 ダウドは写真の中の女性を見つめる。職場の飲み会だろうか、赤い顔で笑う皆に混じる女性は、ただ独り、何処か哀しげで

儚げにも見える、陰のある顔をしていた。

「この直前辺りに「前の入れ物」を失っていたんだろうサラマンダーは、たぶん練炭の火と消える命の気配にでも惹きつけら

れて、この娘の部屋に入り込んだ。熱を食うって言っても、やっこさんにとっては燃焼してるモンが一番良いんだろうしな…」

「それで、ヤマギシ君が言っていた、サラマンダーから感じたっていう「帰りたい」っていう意思…、どう思う?」

「故郷ってモンがない俺にゃあ共感するのも難しい話だな」

「フィンブルの皆の事を考えても?」

「………」

 ネネの問いに、ダウドは黙り込む。

 脳裏を過ぎるいくつもの顔ぶれ。よっス、と片手を上げて挨拶する白い巨大な北極熊。豪快に笑う金色の老獅子。気難しそ

うなワーカーホリックのレッサーパンダ。顔立ちがそっくりな赤い瞳の乙女達。面倒だ面倒だと文句を言いながら、結局誰よ

りも働く羽目になっていたジャイアントパンダの、デスクに向かっている白衣の背中…。

「難しいな。…もう戻れやしねぇんだが…。まぁ、気持ちは何となく判らんでもない」

「おそらくだけど…」

 物思いに耽る白虎の前で、灰色の猫は思案するように形の良い顎の横に指で触れ、軽く首を曲げる。

「サラマンダーは、ヤマギシ君が見たヴィジョンに近い環境に戻りたかったんじゃないかしら?単に存在維持の糧を得るだけ

なら火山にでも篭ればいいんだから、放浪する事に意味が無いわ」

「食事がそのまま仕事じゃねぇ、ってか…」

 目を閉じ、ガリガリと頭を掻いて、ダウドは呟く。

「あの丸いワンコを丸焼きにせず見逃した…。炎ってカテゴリーである程度近かった…ってのもあるのかもだが、案外そのサ

ラマンダー…」

 ノゾムが語ったヴィジョンの事を思い出しながら、ダウドは薄く目を開けた。

 おそらくそれは、炎がサラマンダーとなった頃…「生まれ」た頃の記憶なのだろうと察しがつく。神話級の危険生物との意

思疎通など滅多に無い事だが…。

「信じ難い事だが、普通の生物を超越してる存在のくせに「ひとが好き」なのか…」

 奇しくも、ダウドもまたミオと同様の結論に辿り着き、サラマンダーを主軸に据えた対処作戦を練り始めた。



 同時刻。

「例の監査官から情報を得られた」

 傅く虫使い達を前に、デスクについている老人は厳かな声で告げる。

 エルダーバスティオンの幹部、その居城たるビルの一室には、飛び交うヘリコプターの音も入らない。

「ブルーティッシュはサラマンダーの存在を嗅ぎつけたようだ。今後は対処行動を取るだろう」

「申し訳ございません!」

 平伏したのは中年の男。

「捕縛に失敗したばかりか、我らの囲い込みが仇となって奴等にサラマンダーの存在を…」

 命か、許されるならば働きを持って詫びたいと述べる中年に、「責めた訳ではない」と老人は静かに応じる。

「何かが失敗する度に処断していては人材が減るばかりよ。何より、汝らのように優秀な者を下らぬ処罰で失わせるのは愚か

しい」

 冷徹ではあるが理性的。敵対者に容赦はないが使える配下には寛容。支配者としての器の深さを覗かせた老人の、寛大な赦

しに恐縮した虫使い達は…、

「むしろ、都合が良いかもしれぬ…、とは思えぬか?」

 老人の問いで顔を上げる。

「は。この口から語るは厚顔に過ぎますが、恥をしのんで申し上げるならば、好機と取れない事もございません」

 口を開いたのは虫使い一同の頭領である若い男。

「炙り出しも囲い込みもブルーティッシュがやってくれるのであれば、それを掠め取るだけで手に入ります。各種労力も省け

るという物で…」

「同感だ。あの監査官がさらなる情報を引き出せれば、より動き易くなろう」

 老人は背もたれに身を預け、軽く顔を上げて天井を見る。

「サラマンダー…。滅多に無い玩具だ。欲しいところだが…、最悪、他所の手に渡る事だけは避けたいものだな」

 手に入らないならば、他に渡らぬよう消せ。

 主君の意図を汲み、虫使い達は深く頭を垂れる。




 翌朝、午前六時。

 首都の閉鎖地下道を歩き抜けて辿り着いた部屋で、ミオは背の低い何者かと向き合っていた。

 向き合う相手は男か女かも判然としない。それは、フードをすっぽりと被って顔を見せていないからである。

(この国で最高峰の情報屋、か…。最後の手段だったけれど、仕方がない)

 事前情報でアクセスする方法を入手していたミオは、情報屋ユミルに両手で持ったトランクを差し出した。中身は持参した

「前払い金」である。

「ブルーティッシュの予定をなるべく詳しく調べたいのですが、お願いできますか?」

 受け取ったトランクを開けたユミルは、そこに整然と並べられた赤い宝珠を見つめる。ミオ達が使用しているサラマンダー

捕獲用に調整された宝珠の、未調整版…いわゆるまっさらな状態の品々である。

「…ほう…。思念波蓄積装置の一種か」

 一つ摘まみ上げてしげしげと見つめた後で、ユミルは満足げに頷いた。

(ヴァルキリーアイにも似ているが…違うな。どうやら既存のどの品とも出自は異なるらしい。新技術と言って良いだろう…)

 ノーブルロッソの解析データを元に製造された宝珠を一目見るなり、興味をそそる品だとその価値を認め、ユミルは依頼の

内容を問う。

「具体的にはどういった類の情報が知りたい?これだけの品だ、メンバーの休憩時間から当番、里帰りの予定、リーダーが飲

みに行く予約を入れている店まで向こう三か月分は調べ上げてやるが?」

 メンバーの予定はともかく、ダウドに限ってはプライバシーなどあったものではない。とにかくやる気にはなってくれたと、

ミオは交渉を開始する。

「ここ数日中にブルーティッシュが実行するだろう作戦を、判り次第、簡単な概要でもいいので教えて頂きたいんです」

「何だそんな事か」

「え?」

 ミオがキョトンとすると、宝珠を一つだけ取ったユミルは、トランクを突き返した。

「え?え?」

 やはり受けて貰えないのか?と混乱するミオに、

「その程度の情報にこの量では高過ぎる。対価はこれ一つで十分だ」

 ユミルはさらりとそう言って、くっくっと、笑いを堪えているような声を漏らす。

「容易過ぎる仕事にそれほどの対価を要求する訳には行かない。安く見積もられても困るが、ぼったくっては沽券と信用に関

わるという物だ。そちらにメンツがあるように、アンダーグラウンドにはアンダーグラウンドの遣り方と流儀がある、という

事でな。それでブルーティッシュは現在、大規模作戦を計画中だ。決行は今夜。詳細はまだ伏せられているが、こちらが調べ

た後に連絡を待って動き始めても手遅れだろう」

「!」

 長々とした前振りからあっさりと情報を開示され、驚いているミオをよそに、ユミルはパソコンの一つに向かって軽やかに

キーを操作し、何らかの情報をダウンロードした記録用マイクロカードを抜き取り、客に差し出す。

「監査官専用の通信ネットワークに侵入してログを収集するためのソフトと、セキュリティ突破用のソフトを入れた。セキュ

リティは短期間で更新されるので使えるのはここ数日…おそらく来週には書き換えが来るので無効になるが、今夜なら問題あ

るまい。ああそうそう、携帯でも使える軽さにしてある。あとはリアルタイムで必要な情報を入手し、自分で判断すればいい」

 流石に面食らって、ミオはパチパチと瞬きした。情報を欲しいと言ったら、相手方に仕掛けた盗聴器の受信装置を渡された

ような物である。そもそも…。

(この情報屋の前じゃ、秘匿情報に関わる厳重なセキュリティーも役に立たないんだ…!)

 この国の機関がヌルいのではない。情報屋の技量が常軌を逸しているのだと認め、ミオはゴクリと唾を飲み込む。自分達の

素性もその気になれば洗い出せるかもしれないと考えれば、間違っても敵対できない相手だった。何より…。

(僕が元ラグナロク兵だと、調べられてしまったなら…!)

 

 緊張を強いられながらも平静を装ったミオが退去した、その三十秒後…。

「親方、よろしかったので?」

 パソコンがゴチャゴチャと並べられた部屋の奥から、身の丈180センチ近い、ガッシリした筋肉質のシベリアンハスキー

が姿を現した。

「今の若者、風体がラグナロクのクローン兵士に酷似しておりました。それに、調停者を名乗りながらブルーティッシュの動

向を探るというのは、いささか不可解にござる」

「言いたい事は判る。が、これで良いのだマーナ」

 元ラグナロク兵マーナ・ガルムは、親方と仰ぐ情報屋の言葉に顎を引く。

「親方がよろしいとおっしゃるのであれば、拙者は従うのみにござる。して…、此度は傍観でよろしいので?」

「…ああ、そうだな。それについてだが…」

 ユミルは少し考えて、くっくっと苦笑の色合いを帯びた含み笑いを漏らした。

「よりによって、お前達が首都に来ているタイミングで事を起こすとは…、エルダーバスティオンはよくよく運が無いらしい」

「では…」

 少し身を乗り出したマーナがユミルの様子を窺う。その双眸は期待で僅かに光っていた。

「頼もうと思っていた荷運びは表の荷物だ。シノひとりでも…というより、物々しくて仰々しくて騒々しいお前が一緒より、

シノひとりの方がスムーズだろう」

「な!?」

 意外と傷つく事をさらりと言われたマーナが鼻白むと、

「流石、わかってらっしゃるよ」

 その後ろから若い女性が、さばさばとした口調で言いつつ姿を見せた。顎が尖った細面で、若々しさに似合わず修羅場を乗

り越えた者特有の精悍な面構えをしている。美人の部類に入るのだが、野生味が強くて弱々しさは無い。

「こっちは任せてアンタは行ってきな。これでまた、ダウドの旦那にいくらか借りを返せるじゃないか?」

 逞しい夫を肘でつつき、シノがニヤリと笑うと…。

「無論!」

 マーナは胸を張り、右腕を胸の前でグッと曲げ、力瘤を作って拳を握る。

「グラハルト殿に助太刀できるとあれば、このマーナ・ガフッ!?」

 口上の途中で唐突に吐血するマーナ。

「ゴフッ!ゴフッ!くっ!持病の癪が…!」

「アンタ!また起き抜けの一服忘れてたね!?」

 持病というより自壊の発作。呆れ混じりに怒鳴ったシノの横で、屈み込んで煙草…吸引式自壊抑制剤に火をつけたマーナは…、

「ゴフッ!ゴフッ!…ス~…、フ~…、…いや、お騒がせして申し訳ない」

 一服つけるなりシャキッと立ち上がった。吐血から一転してすっかり元気である。

『本当に騒がしい』

 責めるシノとユミルの呆れ声は完全にハモっていた。




(急用って、何だろう…?)

 ミオがユミルの元を去ったその頃、内線連絡で起こされたノゾムは、迎えに来た執務員の女性に案内されブルーティッシュ

本部のオフィスエリアへ足を運んでいた。

 用が無ければメンバーも来ないフロア。がらがらの廊下を先導されたノゾムが通されたのは、リーダー…ダウド・グラハル

トの執務室。

 案内の執務員は来訪を告げ、ノゾムを室内に入れると、一礼して退室した。

 デスクの前にはダウドが腕組みして立ち、そこから少し離れた左手側にはネネが立っている。首都で一番目と二番目の調停

者ふたりの視線を受けて、ゴクリと唾を飲むノゾム。

 昨夜の出撃で自分に起こった事や自分が知った事は全て話した。こうして直々に呼んだのは落ち度を責めるためだろうかと、

ビクビクする狐は…。

「現象生物サラマンダー」

 出し抜けにダウドが口にした名でハッとした。

「コックローチを使ってやがる連中の目的はソイツだ。一連のゴキブリ大発生も、そもそもはサラマンダーが背景にあっての

物と考えられる」

 ダウドは語る。昨夜の事件も、首都でコックローチが増え続けたのも、全てはソレを手に入れようとしている組織の手によ

る物だと。
そして、サラマンダー自体も極めて危険。カテゴライズ外のレベルにある神話級の存在。常識的な範囲にある人々

が抗えるものではない脅威…。

「…の、はずだった」

 広い肩を竦める白虎。

「ところがだ。纏められた報告書を読むと、どうにも不可解だ。やっこさんは「帰りたい」って言ったらしいな?」

「は、はい…」

 自信無さげに頷くノゾム。確かにそんな意図を感じたと思うのだが…。

「昨夜は現場に到着した後でネネも広域探査した。その結果、範囲外に去った思念波の残滓を拾えたが…、これまた奇妙な事

に「敵性反応」とは判別できなかった」

「……?」

 顔を上げたノゾムは、ダウドの言葉の意味を理解し損ねてきょとんとした。

「つまりだ。やっこさんには敵意がない。人類と敵対する意思がない。それどころか潜伏中の事を考えれば…、「静かに暮ら

してた」とも言える」

 少しずつ理解の光が広がるノゾムの目を、ダウドはじっと見つめる。

「それで、だ。ブルーティッシュはやっこさんと「交渉」する事にした」

「!?」

 ノゾムの体が僅かに震えた。ダウドの目が怖かった。真っ直ぐ見てくる目が怖かった。そこに宿る期待が怖かった。

「向こうからコミュミケーションを取って来た以上、お前とは波長が合ってるんだろう。交渉役を任せたい。できるな?」

「無理です!」

 ノゾムは叫ぶように即答していた。自分でも驚くほどの大声で。

「だ、だって!ぼくは役立たずで!一緒に居るひとを危ない目にあわせて!そ、そんな…!そんな…!首都を焼き払えるよう

な怪獣を相手に、ぼくなんかが交渉なんて…!」

「言い方が悪かったな」

 ダウドは静かにノゾムの言葉を遮ると…。

「「やれ」。作戦準備はもう六割方進んでる。計画は実行する。他の選択肢はない」

「…!」

 グッと言葉に詰まったノゾムは、ダウドの視線に耐えかねて俯いた。

「無理です…。絶対失敗する…!そしてまた、ぼくのせいで誰かが…!」

「ドッカーのオッサンみたいに…、か?」

 少年の体が凍りついた。かつて憧れ、かつて追いかけ、かつて想いを寄せ、かつて自分を守って死んだ男の名を挙げられて。

「オッサンは、お前を庇って殉職したんだったな」

 のろのろと顔を上げたノゾムの目で、疑問を理解したダウドが告げる。

「飲み友達だった。オッサンが首都に居た頃…、首都にまだブルーティッシュ以外の調停者チームがあって、フリーもゴロゴ

ロ居た頃の話だがな」

 ああ、そうか。ノゾムはそう感じた。

 このひとはきっと、あのひとが死ぬ原因になった自分を嫌っているのだ、と。しかし…。

「勘違いするんじゃねぇぞ小僧?」

 ダウドの口の端が獰猛に歪む。威嚇する虎の顔に気圧されて、思わずノゾムは仰け反った。

「オッサンは自分の判断でお前を護って、自分の判断で死んだ。自分が死なせたとでも思ってやがるのか?ならそいつは思い

あがりってモンだ。お前なんかじゃあ逆立ちしたってオッサンを殺せやしねぇよ」

 ずいっと足を進めるダウド。

「「世界」は犠牲の上で成り立ってる」

 ノゾムは硬直して動けない。

「俺達は犠牲を積み重ね、犠牲の上に生かされてる」

 少年の眼前で足を止め、偉丈夫は脅えるその目を見下ろした。

「お前に、「犠牲に報いる覚悟」はあるか?」

 答えられないノゾムに、ダウドは続ける。

「お前に、犠牲にしたくねぇヤツは居るか?」

「え…?」

 伊達眼鏡をかけた狐の顔が思い浮かんだ。学生時代の同級生の顔が思い浮かんだ。顔を合わせた事も無い、ネットゲームで

繋がっているフレンドの名前が思い浮かんだ。

「国のために戦えなんて言わねぇ。世界平和のために戦えとも言わねぇ。お前は、自分が犠牲にしたくねぇヤツの顔を思い浮

かべろ。ドッカーのオッサンはな、そりゃあ立派な調停者だったが、何も国を救おうだの考えてた訳じゃねぇ。仕事の時はい

つだって、親しい誰かを護りてぇって考えてたそうだ」

「リーダーが…」

 ノゾムは知らなかった。少年が未熟だった事もあり、ドッカーは若き調停者にまず生き延びる術と心構えを説いた。そして、

そこから先の「姿勢」については、ついぞ教える事ができなかった。

「昨夜、逃げ遅れた警備員の内、ひとりが重傷を負った状態で救出された」

 ノゾムの表情の僅かな変化を認め、ダウドはほんの少し目を細めて教える。

 コックローチに大腿部を噛まれていた男性は、満足な止血も行なえない状況で立て篭もっていた。出血が酷く、もう少し遅

れていたら助からなかっただろうと医師が言っていた。その本来ならば「もう少し遅れるはずだった」状況を変えたのは、ノ

ゾムだった。

 ノゾムが機転を利かせて排水路の封鎖を行なった事でコックローチの侵入が途絶え、前進できるようになったブルーティッ

シュのメンバーは男性を危うい所で救出できた。

「お前は昨夜、犠牲を一つ減らしたんだぜ?」

 ダウドは言う。自分が救ったのだという自覚も無く、きょとんとしているノゾムを見下ろして。

「さて、もう一度言うぞ?」

 白虎は踵を返し、デスクの向こう、窓際へと歩き去る。その逞しく遠い背中を見つめるノゾムに、太い声は告げた。

「サラマンダーと「交渉」する。アレと本気でドンパチする羽目になれば首都も甚大な被害を受けるが、やっこさんと話し合

いで解決できるなら犠牲は抑えられる。その「調停」をお前がやれ。コイツは依頼じゃあない。ブルーティッシュとアライア

ンスを組んでる、東護調停者連合のメンバーへの正式な要請だ」

 ノゾムはしばし黙った後で口を開いた。

「…作戦の内容を、教えて下さい…」

 

「…後悔してるの?」

「ん?」

 窓の外を向いたままのダウドは尻尾をクタンと垂らしていた。咥え煙草の白虎が吐き出す煙も、心なし元気が無いようにネ

ネには思える。

 引き受けたノゾムが部屋から出て行った、二分後の事である。厳しい態度で少年に臨んでいた白虎はため息を漏らしていた。

「そりゃあなぁ…。ドッカーのオッサンが残した坊主だしなぁ…。やっとアルにできたダチだしなぁ…」

 はぁ~…、と覇気無くため息をつく、珍しく歯切れが悪いダウド。

 ノゾムはアルがやっと増やせた友人、ダウドにもなるべく大事に扱ってやりたいという気持ちはある。だが、ノゾムは調停

者なのである。危険な目に合わせたくないからといって、一般市民の命よりも彼の安全を優先する事は、できるできない以前

に職業倫理として許されない。正直なところ、「よりによって調停者に友達を作りやがって」「あのデブい柔道熊みてぇな一

般人の友達増やせば良いってのに」と思わないでもないのだが…。

 とにもかくにも、友達になってしまった物はもう仕方がない。下手な甘やかしは寿命を縮めるし、長い目で見るならば鍛え

た方がいい。まずは「気持ち」を。

「…鞭を入れてでも、ここらでちょいと変わって貰った方が良いんだよなぁ…」

 現場叩き上げで、上とも下ともそういった付き合いしかして来なかったダウドは、本当はノゾムのように気弱な者をどやし

つけるのが苦手だった。
それでも今回は、少年が調停者として生き延びられるよう発破をかけてやるべきだろうと考えた。ト

ウヤ達調停者連合はノゾムを気遣ってキツくは出られない。ならば自分がと、少々でしゃばってみたのである。というのも…。

「アルも随分と気にしてやがるしなぁ…」

 

「ノゾム、落ち込んでるみたいなんス…」

 昨夜、ノゾムの様子を見てきたアルは、耳をペタンと寝せてダウドの執務室まで相談しに来た。

「元気が出る励まし方とか、何かないスかね?」

 眉を八の字にし、背中を丸めて肩を落とし、頭をガリガリ掻いて悩む北極熊に対して、報告書と睨めっこし、作戦立案に耽っ

ていたダウドは、しばし考えた後に告げた。

「んなモン、一晩寝て起きりゃあ気持ちも切り替わって解決してるだろうよ。お前もとっとと寝て気持ち切り替えとけ」

 そうしてぞんざいに追い払った後で、ダウドは立案中だった作戦を全て白紙に戻し、一から書き直した。そうして出来上がっ

たのが先ほどノゾムに告げた、彼を中心とする「調停」である。

 

「ネネ」

「何?」

「頼む」

 短いダウドの声で、ネネはピクリと耳を動かした。

 何を「頼む」と言われたのか、ネネには判った。ノゾムの身を護ってくれと、白虎は言っていた。言われるまでもない事な

のだが、少し意外ではあった。

 ダウド・グラハルトが「頼んだ」のである。一般人でも保護対象でもない、調停者ひとりを護ってやってくれと。調停者と

して、国内最大のチームのリーダーとして、ネネ以外の誰に対しても、例え口が裂けても言えない事だった。

 白虎は窓の外を眺めたまま振り向かない。ノゾムとサラマンダーを天秤にかけたこの作戦、無茶で生じる皺寄せは全て自分

で引き受けるつもりだが、それでも手が届かない部分が出てくる。

 今回、ダウド自身はノゾムがどんな状況に陥ろうと助けにゆけない。勝算が低い訳ではないが、危険が無い訳でもないこの

作戦で、万が一の時にノゾムを救出できるのは…。

「任されたわ」

 灰猫が微笑する。「はぁ~…。俺も焼きが回ったかぁ~…。歳食ったかなぁ~…」などとブツブツぼやいて尻を掻いている

ダウドの様子を、少し面白がりながら。

 ノゾムはアルにとって特別な、年の近い、友達に成り得た調停者仲間。末永く同業者としてやって行って欲しいからこそ、

ダウドは少年に鞭を当てた。

(あなたは結局、子供には甘いのよね…)

 伴侶があの少年に抱く期待と、息子が連れてきた友人に対してどう接すべきなのか戸惑う父親のような葛藤が、ネネにはき

ちんと判っていた。