Fatal Ignition(act9)

「ミューラー特曹には、この先は待機して頂きましょう…」

 寝ている間に崩れ、血も滲んだミューラーの頭に包帯を巻いてやりながら、ホテルに戻ったミオが耳を伏せる。

「何をおっしゃいますか少尉!ワシは全く問題なくしっかり働けますとも!」

 元気に応じるフリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長38歳独身は、包帯を巻いてくれるミオの胸が肩に触れ

ているので股間も元気。

 …なお、上官の外出中にラドとジャンケンして順番を決め、ミオの使用済みアメニティを均等に分け合っているのだから、

本当に元気である。

「そうですねー。もしもの時は少尉の盾になって貰わないとー」

 ジャンケンで負けてミオの使用済み歯ブラシをゲットし損ねたのもあり、軽くジェラシーを抱いているラドの物言いは判り

易く辛辣である。

 とはいえ、ミューラーの負傷は決して浅くはない。脳も頭蓋骨も無事だが、コンクリート塊が当たった所がパックリ切れて

いて、イズンの仕込みで衛生兵としての訓練も受けているミオがしっかり縫合をしたものの、動けば普通に出血して包帯に血

が滲む有様。激しい戦闘はさせられない。

 …ただし、それでもミオが入った後のバスタブの残り湯をたらふく飲んで恍惚とする余裕はあるのだから、実質本当に元気

である。

 なにはともあれ朝9時。ユミルから貰ったソフトで監査官専用ラインの情報を拾い上げつつ、ナハトイェーガーはホテルの

部屋で打ち合わせ中。この後の朝食にはテイクアウトもできるらしい「日本料理ネギタマ」を食す予定である。いまだに名称

の訂正は無い。

「ブルーティッシュにもサラマンダーの存在がしっかり確認されちゃいましたし、調停者と接触もしちゃいましたから、もう

本当に急いで何とかしなきゃいけないけれど…」

 ソファーにかけ、アイスミルクティーをチビチビ舐め、悩ましげに尻尾をくねらせるミオ。「ですねー…」と頷くラドにも

良いアイディアは浮かばない。

 推理力と閃きに定評があるラドだが、今回は「相対する組織」の情報が全く無い上に、一連の事件の背景もよく判っていな

いため、その時々の状況に対応するだけで精一杯。打開策や罠を準備するだけの余裕は無い。

(ブルーティッシュの作戦情報を入手できるようにはなったけどー、ここはあっちの庭だしー、不利は動かないんだよねー…。

決行は今夜でー、準備する時間もろくに無いしー…。後手に回らないように頑張るけどー…)

 もはや単にサラマンダーを追えば良いだけという話ではない。虫を使っている輩も確実にサラマンダーが目的、そもそもブ

ルーティッシュの守護がありながら首都中に広域展開を果たしている以上、かなり前から下準備を進めてきた事と、それを途

中で潰されないだけの手腕の確かさが窺える組織だと、ラドは警戒を強めている。正直なところ、上手い事ブルーティッシュ

に潰して貰えれば有り難いと期待もしていたのだが…。

(首都の守護者達に加えてー、あれだけのコックローチと貴重品の合金をー、それこそ湯水のように投入できるだけの組織ま

で競争相手だなんてー…)

 一応、別ルートで輸送させたミューラー用の重火器類も回収できたのだが、肝心の猪は負傷してしまい、装備が整ったとい

うのに万全とは言えない有様。こうなると、サラマンダーに敵対意思が無いという点は救いなのだが…。

(不利な情報ばっかり増えるー!しっかりバックアップしなきゃいけないのにー…!)

 頭を抱えたラドは、その上にポンと厚い手を置かれて顔を上げた。

「出陣前に、銃後の守りが景気の悪い顔をしとってはいかんぞ」

 若手をそう諭した猪は、「しかし物は考えようですぞ少尉?」と、努めて軽い調子になりミオに告げた。

「ブルーティッシュがどう動くのかはともかくとして、今夜動くのであれば我々にとってもそう悪い事ではありません。むし

ろ好都合と言えん事もないですな」

 ミューラーは、有利な要素を探して悩んでいた若者二名に告げる。余裕を失った訳ではない。元々さほどの猶予も余裕も無

かったのだから、決着が早まるのは悪い事とは言い切れない。長引けば長引くほど不利にもなるし、潜伏活動でボロも出しか

ねないのだから、ブルーティッシュが打って出た事を渡りに船と歓迎してもよいはずだ、と。

 そんなミューラーの提言で、ミオとラドはそれもそうだと深く頷き、重苦しくなりかけていた空気が柔らかくなる。

 第一分隊の最年長者であり、場数も踏んでいて経験豊富な猪は、若いふたりを物の見方や捉え方においてサポートできる。

実力はついても精神面に脆さが残るミオにとっても、実戦経験が少ない支援担当のラドにとっても、頼りになるアドバイザー

である。

 気が軽くなったところで、視点を変えて実際に対応するにはどう動くべきかという方向に話が移ると…。

「…ん?ラド、通信機に何か入っとらんか?」

 猪に指摘された蛙は受信ランプの点滅に気付き、情報共有の要である通信装置に取り付く。

「あ!えぇと…、入電ですー!えーと?第三分隊…、ん?」

 メッセージを読み上げようとしたラドは、そこで一瞬詰まり…、

「ブルーノさんがー、ひとりで援軍にー?」

 前触れもなく、突然入った到着連絡を、困惑しながら口に出した。

「曹長が?」

「ブルーノが?」

 尻尾と耳を立てるミオと、疑問の顔になるミューラー。

「あ奴を離したらまた第三分隊の足が…。イズン中尉も思い切りましたな」

「つまり、僕達はそれだけ不利な状況に居た、っていう事になりますね…」

 離脱も視野に入れたこの増員通知で、ミオには嫌でも実感できた。自分達がかちあってしまったサラマンダーを追っている

組織は、どうやら相当な厄ネタらしいと…。



(暑くねぇかオイ…!?)

 同時刻。サングラスをかけてスーツケースを傍らに立てている、ふっくら丸いマヌル猫は、駅を出て数歩の所で唸っていた。

(気温…41℃だと!?正気か…!?こんな気温と湿度と日差しでも、一般人が普通に仕事してんのか…!?)

 後ろから出てきた勤め人らしいスーツの男が、携帯電話片手に通話相手へひたすらお詫びしながら小走りに去り、タクシー

に乗り込んでゆく様を目撃して、絶句するブルーノ。

(確かに…、戦士だ…!)

 青ざめた顔で謝りながらタクシーで顧客の下へ急行する男の姿が、ブルーノには負傷をおして前線へ向かう戦士に見えてい

た。なお、マヌルネコが後輩にあたる隊員であるところの自称日本通蛙から吹き込まれた偏りジャパンな知識には「企業戦士」

「サムライ」「アメニモマケズ」なるワードがある。

(尊敬するぜ、どうやら本当に真面目な人種らしいな日本人ってなぁ…。って、学生もかよ!?)

 炎天下、バスにぞろぞろと乗り込んでゆくユニフォーム姿の野球部員達に気付いて目を丸くするブルーノ。軍隊のソレとも

少し違うキビキビシャキシャキした動作が清々しい。

(へっ…!こっちも音を上げちゃあいられねぇや…!)

 日本の事をそれまで殆ど知らなかったナハトイェーガーのメンバーから見た、日本とその国民は、概ね好感度が高いようで

ある。

 先入観も手伝い、個人的に「尊敬して良い人種」と認定したブルーノは、戦うサラリーマンや練習試合に向かう高校球児の

姿で勝手に力付けられて歩き出す。

 おかげでマヌルネコはへこたれなかった。ここから先散々案内表示を読み誤り、乗換えを間違えて迷子になっても…。



 ブルーティッシュ本部地下。天井の高い、空間が大きく確保されたそこには、飛び込みもできる深さの50メートルプール

がある。

 メンバーのトレーニング用に作られている訓練用区画にあるのは、何も武器の取扱い練習や能力の訓練を行なう場所ばかり

ではない。基礎体力向上のため、トレーニング用の器具や設備もありとあらゆる物が用意されていた。

 その、まだ昼前で誰も使用していないプールの底を、白い熊が潜水泳法で泳いでゆく。

 息継ぎもせずにかなり長い距離を、水底すれすれでドルフィンキック。途中で浮上して水面に「プハッ!」と顔を出すと、

そこからダイナミックなバタフライを披露する。50メートル泳ぎ切ってゴールにタッチしたアルは、飛び込み台の横に座っ

て足をプラプラさせている丸い狐を見遣った。

「泳がないんスか?」

「いや…、あの…、流石にそこまで泳げないっていうか…」

 水泳が苦手なわけではない。調停者になるにあたり、アクシデントに対応するためにも泳ぎは達者な方が良いと、かつての

リーダーに仕込んで貰ったので、人並み以上には泳げるし着衣状態でも溺れない。しかし、50メートルの大半を息継ぎなし

で泳ぎ、殆ど休みも挟まず数往復するアルのレベルになると、もはや生き物としての質が違うのではないかと思えてくる。

 作戦開始は夕刻。気分転換になればと、プールが空いている時間帯を選んで誘ったアルは、あまり乗り気でなさそうなノゾ

ムの反応で若干ヘコんだ。

(緊張でそれどころじゃないのかもっスけど…)

 飛び込み台を挟んだ反対側の縁に指をかけ、体重を物ともせず巨体を引っ張り上げる北極熊。

 ザバァッと派手に水音を立てて水から上がったアルは…。

「…あの…、アル君」

「うス」

「パンツが…」

「うス?」

 気遣いから視線をそっと逃がしたノゾムの指摘で、競泳パンツがかなりずり下がっていた事に気付いた。

「ギャース!縮んでるんスかこのパンツ!?」

 プールサイドでジタバタとパンツを引っ張り上げる北極熊。白い体にくっきり目立つ競泳パンツはネイビーブルー。成長す

る体に置いてけぼりにされたのか、生地がムチッと張っていて少々きつそうに見えるパンツは、水の抵抗に耐えかねたのか尻

の半分まで露出させていた。

 一方、ノゾムが着用しているのはアルから借りたハーフパンツタイプの水着。いかに丸っこいノゾムでもアルとは腰周りの

サイズ差が大きいので、紐を締めた周辺に皺が寄って生地が余り気味になっている上に、だぼっと膝下まで覆われている。

 なお、ノゾムが借りたハーフパンツのデザインがアメリカンな星条旗柄なのは、例によって「当代の少年少女の好みはきっ

とこうであろう」と思い込んでいるネネのチョイスによる。ファンシーなハート柄パンツなどもそうだが、男の子が好みそう

な「可愛い」や「格好いい」に対するネネの勘違いに、気を遣っているアルは一向に突っ込めない。

 アルは全身から水を滴らせながらノゾムと同じように座り、自分が立てたプールの波を眺めながらしばし息を整え、口を開

いた。

「…作戦、ホントにいいんスか?ノゾム…」

「…うん」

 少し間があいたものの、狐の返事は比較的はっきりしている。

 ブルーティッシュが立案した作戦内容はアルも聞いた。同時に、ノゾムがサラマンダーとの交渉役になるという話も。

 チャプチャプと水音が立つ。立ち込める湿気には薬品の匂いが微かに混じる。学校に行っていた頃、体育の授業がプールだっ

た時にこの匂いを嗅いでいたなぁと、少し懐かしく感じたノゾムは…。

「アル君は、ここが家なんだよね?」

「そうっスよ?」

 アルに問い、その返事を聞き、さらに問いを重ねた。

「アル君からすれば、「帰ってきたい場所」って、ここ?」

「それはそう…、ん?んん~…」

 北極熊は一度考え込み、「やっぱ良くわかんないかもっスね?」と頭を掻いた。

 アルはずっとここで暮らしてきて、離れた事が殆ど無い。

 昨年は東護の調停者事務所に現地研修…という名目で、実質「頭を冷やして来い」という理由により送られた事もあったし、

クリスマスから年を挟んでもう一度長期滞在したが、どちらの時も特に里心めいたものがついた事は無かった。

「じゃあ、懐かしいとか…、もう一回行きたいとか、戻りたいとか…、そう感じる場所って、何処かない?」

「懐かしい、っスか?う~ん…」

 少し考えたアルは、複雑そうな表情を見せた。

「…リトルリーグで仲間と野球してた頃とかの事なら、時々思い出して懐かしく思うっス」

 単純に、懐かしい、良い記憶、…とは言えない。当時のチームメンバーは今ではもうバラバラになっているし、元から学校

も違っていた。通っていた学校では、嫌がらせも拒絶もあって野球部に入部すらできなかった。獣人差別の風当たりは強く、

アル自身も価値観を染められて、同世代の人間男子には逆に偏見の目を向けるようになっていた。どうせ嫌われる、どうせ避

けられる、と…。

 それでも、あの頃はまだ無邪気で居られた。現実を知らないだけだったとしても、価値観に染まらず物事を考え、感じ、接

し、笑いあっていたあの頃は、きっと十八年足らずのここまでの人生で、最も純粋に「友達」と遊べていた期間で…。

「その頃に戻りたいとか、思ったりする?」

「へ?」

 いよいよ質問の意図が判らなくなってきたアルだったが、

「ぼくは、殆ど無いんだ」

 ノゾムの神妙な声で押し黙った。

「何処まで戻っても、ぼくは家族から離れていたし、友達もあまり居なかった。能力のせいで監視付きだったし…。戻りたい

とか、あの頃は良かったとか、そういう思い出が殆ど無いんだ。あるのは、「あの時こうだったら」「あの時こうしていたら」

っていう、後悔だけ…」

 丸い狐は波打つ水面を見下ろし、しばらく黙って…。

「…たぶん…。たぶんだけど…。サラマンダーにはぼくと違って、そういう時間と場所が…、帰りたい、懐かしい、そう感じ

られる思い出があるんだと思う…。ぼくが見せられたのは、サラマンダーが戻りたいって思ってる、ずっと昔の風景で…」

 サラマンダーがどれほどの時を生きて来たのかは判らない。あの暖かな火の中から見た人々は、サラマンダーからすれば一

瞬で居なくなってしまう存在だったのだろう。

 気が遠くなるほどの長い時間を、きっと孤独に過ごしてきた。思い出だけ、忘れる事もできずに…。

「ぼくには何も思いつけない…。どうすればいいのか判らない…」

 アルはノゾムの横顔をじっと見つめている。切なそうで哀しそうな、思い悩む狐の顔を。

「ぼくは…、サラマンダーがどうして欲しいのか、どうしたいのか、知らなきゃいけないんだ。そうでなきゃきっと、交渉は

上手く行かない…」

 無言のまま、アルは頷いた。

 ダウドは捕縛と明言した。駆除の予定込みだったならああは言わない。

 そしてノゾムは、サラマンダーに対して友好的に接しようと考えている。サラマンダーはここまでに一度も、一般市民に対

して明確な敵対姿勢を取っていない。話し合える可能性は確かにある。

 北極熊はまた思い出していた。かつて刃を交えた、ブリューナクの以前の所持者である黄昏の戦士の言葉を。

(正義って…、正しい事って…、いい事って…、やっぱ、あのひとが言ってたみたいに…)

 立場と環境で正義の定義は変化する。

 サラマンダーは危険である。しかし、駆除という解決方法が正しいとは限らない。自分も経験した事のない「危険生物との

交渉」という難題に挑むノゾムが、アルにはとても立派に見える。

 難しい。難しいが、きっと「調停」とは、振り翳した「正義と思しきもの」を、大義の名の元に振り下ろすだけの事ではな

い。ノゾムやダウドが打ち出した交渉という解決手段は、きっと「立派な調停」なのだと、今のアルには思えていた。




 首都の夕刻が間もなく終わる。それは「彼ら」にとって、狩りの時間の訪れでもある。

「しかしまぁ、判り易くて助かりましたなぁ」

 ミオから受け取った双眼鏡を覗きながら、頭に包帯を巻いたミューラーが呟いた。負傷を理由に与えられそうになった休息

は断固辞退して上官にくっついてきている。

 暗視サポートシステムのおかげで鮮明に見える双眼鏡の、円二つ分に切り取られて拡大された視界中央には、やや低めのビ

ル屋上にあるヘリポート。そこでは篝火のように火が燃えている。

「サラマンダーをおびき寄せるための火、という訳でしょうね…」

 ミューラーの隣に立つミオは、体の横に垂らした両手で軽く拳を握る。

「僕達にとっては好都合です。ノンオブザーブで姿を隠して接近できますから」

 ガス漏れという事でかなり広範囲の住民が退去させられたその一角が、ブルーティッシュが用意したサラマンダー捕獲の舞

台だと、ナハトイェーガーは監査官の情報網を通して知った。ふたりが立っているのは誘い出すためのポイントを望める、封

鎖区域内のひと気が失せたマンションの上、貯水タンクの陰である。

(けれど、こうなると時間はあまりかけられない…)

 ミオは静かに思考を巡らせる。本国に状況は連絡した。サラマンダーと「交渉」できる可能性がある、と。場合により捕縛

でも処分でもなく、第三の可能性…つまり合意の上での隔離を模索しても良いとの了承を得られはしたが…。

(少しでも困難だと感じられたら、元々の方針に従え。…か…)

 ミューラーの報告…つまりサラマンダーと意思の疎通ができたという少年の発言を信じたいが、まかり間違えばこの街が火

の海になる相手。切り上げの判断には自分達の身の安全のみならず、罪も無い人々の命も絡む。

(難しいなぁ…)

 ため息を漏らしたミオは…。

「何なら、もっと近くで見物するか?」

 ミューラーが、ミオが、得物に手をかけて素早く振り向く。

(何処から!?)

 腰を沈め、抜き放ったカッツバルゲルを水平に構えた猪は、自分が無意識に防御主体の構えを選択している事に気付いた。

 冷や汗が背を伝った。全身が総毛だった。屋上のドアも閉まったままだった。間違いなく数秒前まで誰も居なかった。声を

聴くまで気配すら感じなかった。

 なのに、その巨漢の白虎はそこに居た。

 白い被毛にくっきり浮かぶ黒いストライプ。筋骨隆々たる体躯は身の丈2メートル。鍛え抜かれて発達した筋肉に覆われた

体は、しかし鈍重さを感じさせない。勇壮な虎が軽々と担ぎ上げるのは、全長2メートルほどもある、分厚く幅もある漆黒の

無骨な大剣。

 左手を腰に当て、悠然と夜風に尾を揺らせながら、ブルーティッシュの総大将がふたりに金色の目を向けていた。

(英雄、ダウド・グラハルト…!)

 ミオの喉がコクリと鳴る。

(あのひとが…、勝てなかった相手…!)

 ミューラーはミオの様子を横目で窺う。

(勝てる相手でも、逃げられる相手でもない、か…!?少尉の能力で離脱できるかどうか…)

 最悪の場合、ミオに離脱して貰い、自分は足止めの末に自害する事も視野に入れた。もし捕まって素性がバレてしまったら

本国に、リッターに、国際問題級の迷惑が掛かる。

 だが…。

 

―ナハトイェーガー。その男と事を構える必要は無いわ―

 

 ミオの耳に「声」が届く。ダガーの刃にちらりと、白い女性の姿が映り込んだ。

(え?)

 青年の目が刃に向いたその時には、女性の輪郭は朧に霞んで遠ざかるように消えてゆく。

(事を構える必要が無い?どういう…)

 レディスノウの忠告に戸惑ったミオだったが…。

「…あ~…、そっちのアンタか?」

 白虎はミューラーに目を向けて、軽く首を傾げた。敵意も警戒も篭っていない、むしろ気安い声と態度で。

「太ってて、猪で、強くて、頼もしい、おじさん、と…。ヤマギシが言ってた「助けてくれた他所の調停者」ってのは、アン

タの事だろう?」

 砕けた口調で話しかけられ、パチパチとミューラーが瞬きした。

(…強くて頼もしい?ワシの事をあの子はそう言ったのか…!?)

 注意するポイントがこんな時でもブレないフリードリヒ・ヴォルフガング・ミューラー特務曹長38歳独身。

「ああ、あんまり日本語が得意じゃあねぇって言ってたっけな?難しいなら返事はいいが…」

 ダウドの目が動いてミオに据えられる。アメリカンショートヘアーの容姿を改めて確認した白虎は、一瞬訝しげに眉を上げ

たが、結局何も指摘せず先を続けた。

「そっちの若いのは?日本語はできるのか?」

 ミオも意表を突かれていた。白虎は世間話でもするような気楽な口調で話しかけて来る…。神話も殺すとされる「英雄」が。

「え、ええ…」

 これは一体どういう状況になっているのだろうかと、困惑しつつも慎重に返事をしたミオに、ダウドは「そりゃあ良かった」

と頷きかけた。

「報告は聞いてるぜ。ウチの坊主のダチが助けられた、ってな」

 今度こそ、ミオもミューラーもポカンとした。ダウドがニッと歯を見せて笑いかけてきたので。

「まずは礼を言うぜ。手間ぁかけちまったな。頭の傷は大丈夫か?ヤマギシを庇った時のなんだろ?」

 問われたミューラーが戸惑いながら「山岸ハ?無事?」と口に出すと、ダウドは顎を引いて首肯する。

「ああ無事だ。こっちも預かってる身でな、大怪我なんぞされなくて助かったぜ。有り難うよ」

 どうやらあのモッチリした子が「敵ではない」と報告を上げてくれていたようだと察し、猪は安堵のため息を漏らす。

「あの、僕達は…」

 素性は明かせないが敵ではない、と説明しようとしたミオは、「ああ、良い良い、説明は」と、パタパタ手を振ったダウド

に遮られた。

「訊かねぇし語らねぇ。調停者同士のマナーは守るぜ。恩人相手ならなおさらだ」

 逞しい肩を軽く竦めた偉丈夫をきょとんと見つめるミオ。ダウドは「だから黙っとけ」とウインクする。

(あのひとがあそこまで評価していた訳だ。器が大きい…!)

 無論、こちらが本当に敵対する立場だったならばこんな譲歩はしないのだろう。そして、出し抜きにかかられても対処でき

るという自信に裏打ちされた余裕なのだろう。ダウドが見せた寛容な態度に思わず微笑したミオは、

「ああ、しかしだ。もしそっちの目的が虫使いの方ならこっちに居て良いんだが、サラマンダーが目的ならここには来ねぇぞ」

「…はい?」

 さらりと言われて、目を丸くする。

「こっちは囮…つまりトラップだ。どうにもエルダーバスティオン辺りがサラマンダーを狙ってるようでな、引っ掛けておび

き出すつもり…」

「トラップ!?」

 思わず声を大きくするミオ。エルダーバスティオンという組織名を耳にし、道理で潤沢な資金がある訳だと納得もしたが、

そちらを詳しく問うよりも優先すべき疑問がある。

「こ、こんな規模の作戦を実行して、それがトラップ!?」

 ブルーティッシュはナハトイェーガーと違い、準公務員的な扱いとはいえ国家直属の機関ではない。にもかかわらずこれだ

けの事を実行する権限を持つのかと驚いているミオに、

「そこは契約のし方次第だ。何せ首都唯一の下請けだからなウチは。ま、トラップだって事は伏せてあるんだがな、「あの監

査官」には…」

 悪戯っぽくニヤリと笑うダウド。

 今回の事件、担当についた監査官までもが臭いとダウドは睨んだ。そこで今回は作戦内容の届出と要請を最初から偽ってお

いたのである。これによりエルダーバスティオンへ流出する作戦決行場所は、このトラップとして準備した区域となった。

 さらに、本来の作戦決行場所付近の封鎖と避難誘導については、信用できると見込んでいる別の監査官へ、開始直前ギリギ

リまで待ってから周知、実行して貰えるように話をつけてある。

 ミオが情報屋ユミルから得た情報収集ツールは正しく作動していたのだが、本来の作戦の情報はまだ回っていないため、吟

味可能になる前にこの偽情報を拾って行動に移ってしまっていた。そもそも監査官が信用できないという点については、ドイ

ツでは同様の役職が個人の使命感と倫理観を最優先にして採用されている事もあり、想像すらしていなかったので、まんまと

引っかかった格好である。

 思わずあんぐりと口を開けて顔を見合わせているミオとミューラーに、「とにかくだ」とダウドは先を続けた。

「サラマンダーはこっちには来ねぇ。あそこの篝火は合成物燃やしてるモンでな、やっこさんもそれほど好きじゃねぇはずだ。

本物のエサは別に用意してある。そっちで交渉する段取りがつけてあるんでな」

「「交渉」…ですか?」

 ミオの問いに確認が含まれている事に気付いたダウドは、この連中には言ってしまっても問題ないだろうと判断した。声に

含まれていたのは疑念ではなく、確認なのである。それはつまり、アメリカンショートヘアーも同様の可能性を考えていた事

を意味している。

「ああ。あの個体はひとに対して友好的と言える」

「…同感です」

 一瞬の逡巡を挟み、ミオもまた方針を晒しても問題ないだろうと考えて同意を示した。

「むしろ、「ひとが好き」なんじゃないかと思いました」

「なるほど、俺達と同じ見解だな」

 頷いたダウドはヒョイッと軽く肩を竦めた。「こっち側としちゃあ首都を守れればそれでいい」と。

「そっちの目的がどうあれ、結果的に被害が出ねぇなら邪魔はしねぇよ。悪用しねぇってんならサラマンダーを連れてったっ

て構わねぇ、欲しい訳でもねぇしな」

 渡りに船とはこれかと、ミオとミューラーは頷き合う。そして…。

「だが、できればだ」

 ダウドは少々言い難そうに、針金のようなヒゲを摘んで引っ張りながら顔を顰める。

「こっちが交渉役に抜擢した若手は今が正念場だ。結果がどうなるにせよ、交渉だけはさせてくれ」

「勿論、交渉で解決するのであれば、僕達にとっても望ましい事です」

 ミオは改まってペコリと頭を下げた。

「お言葉に甘えさせて頂きます」

 少しだけ、判った気がした。

 構成員500を超えるとはいえ、官でも軍でも組織でもない、一介の調停者のチーム。そんな民間組織が、どうして一国の

首都を守護する立場に任じられているのかが。

(できれば、少しお話をしてみたかったな…)

 身分を隠さねばならない今は叶うべくもない事だが、ミオはこの出会いを惜しんだ。

 かつて自分にこの男の事を語った上官が、同じ気持ちになっていた事など知らぬまま…。



 パチパチと火の粉が上がる。

 川原に設けられたバーベキュー設備を借り切って、ブルーティッシュはキャンプファイヤーを二十数基用意した。

 熱エネルギーを食うとはいえサラマンダーにも好みはある。天然木に各種植物から抽出した高級オイルを惜しみなく振りか

け、高級備長炭で焚き付けたキャンプファイヤーは、いわば「総天然の炎」。サラマンダーにとってはまたとないご馳走のは

ずだった。

 組み上げられた木々が勢い良く燃え上がる川原で、しかし炎を見つめているのは、特別製の耐熱装備を着せられたノゾムた

だ独り。

 ノゾムは、ダウドに上告して作戦の一部を変更して貰った。その結果、ダウドの案ではノゾムを視認できる距離で待機し、

いつでも飛び出せるように配置されるはずだったブルーティッシュのメンバー達は、バーベキュー施設の敷地内にひとりも居

ない。

 交渉失敗時にはメンバーが救援に駆け付けるのが遅くなる。そのデメリットも理解した上で、ノゾムは自らこう望んだ。

 伏兵がサラマンダーを刺激してしまう可能性を考慮した事もあるが、避難指示と封鎖がギリギリまで遅らされるという作戦

の性質について考えたノゾムは、一般人の逃げ遅れや紛れ込みに対応できるよう、自分よりも周囲のためにメンバーを割くよ

うダウドに頼んだ。

 いいんだな?と一度だけ確認し、ダウドはその案を受け入れた。覚悟を汲んでの事である。

 無論、エルダーバスティオンにトラップを見破られれば、ここは攻撃に晒される。そうでなくともサラマンダーと独りで直

接相対するのだから危険極まりない。だが、この判断を間違いだとは思わない。

 勿論、怖い。恐ろしい。心細いし不安も強い。それでもノゾムは、じっとサラマンダーの訪れを待つ。その様子を…。


(いい調停者だわ)

 少し離れた場所に停めているワゴン車の中で、椅子に体重を預けて脱力し、目を閉じているネネは、ノゾムを広域探索の中

心に設定して監視していた。遺物である首飾りを着用し、感覚を拡大させて精密に思念波走査するネネは、怖いのを堪えて佇

んでいるノゾムを評価する。

 怖がりながら、という点をネネは特に高く評価した。その勇気を、行動を、そして「怖い」という大切な感情を置き去りに

しない事を。

(大丈夫。きっと上手く行く…)

 そしてネネは薄く目を開ける。

(来たわね…)

 椅子から身を起こしたネネは、傍らで通信装置に取り付いている隊員へ告げた。

「明らかにヒトじゃない、けれどしっかりした思念波が観えるわ…。ポイント036から042に、手出しせずに通過させる

よう指示をお願い。ポイント20番台は打ち合わせたラインまで詰めて川方向へ。10番台は川下を警戒。…ポイント42の

バスク君にはいつでもエアバッグを展開できるよう通達して」

 なだれ込まれる可能性が最も大きいのは、コックローチが水路上の空間を飛翔してそのまま移動経路に使える上流方向。特

に戦闘能力が高い隊員を多く配置しているが…。

「…それと、ポイント46に連絡。打ち合わせ通り、状況によっては遊撃を認めるけれど、持ち場を離れる時はくれぐれも連

絡を忘れずに、と」

「了解!」

 ノゾムを危険に晒す作戦ではあるが、彼を死なせないために打てるだけの手は打ってある。ブルーティッシュは本部に最低

限の人員を残すのみで、実働隊である調停者達のみならずバックアップ要員までほぼ全員が現場に出向き、狐の少年が立つ河

川敷を中心にして包囲網を敷いていた。

 つまり、トラップとして用意された偽の封鎖区画側に配置されている面子は…。