Fatal Ignition(act10)

(おかしい)

 監査官から得た情報を元に作戦区域に侵入した狐面の中年は、雑居ビルの上に陣取り、燃え続ける篝火を窺いつつ眉根を寄

せる。
遠く焔を監視しながら、中年は場の空気に違和感を覚えて訝っていた。

(動きが無さ過ぎる)

 サラマンダーは現れない。が、それにしても静か過ぎる。ブルーティッシュの隊員と思われる影はそこかしこに潜んでいる

ものの、動きは見られない。

(いくら手練揃いの武装集団とはいえ、ここまで気配を殺せるものなのか?)

 もう少し接近して詳しく確認するべきかと、中年は身を隠していた避雷針の影から姿を現わし…。

「こっちは外れだぜ。残念だったな」

 その声を、頭上に聞いた。

 唐突に風が唸る。前触れもなく白が舞い降りる。剛風に覆われた白虎は風圧で着地の衝撃を消し、その大柄で筋肉質な体躯

は足音すら立てなかった。まるで、獲物に躍りかかる直前の猛虎のように。

 ダインスレイヴで気流を操作し、音すらも風で上方へ押し流し、接近を察知されずに近付いていたダウドがブンと巨大な黒

剣を振り払うと、付着していたコックローチの体液が屋上に散った。

(何時の間に…!)

 驚愕しながら中年は気付く。自分が使役して監視に当たらせていたコックローチ達が、断末魔の思念も、異常を知らせる反

応も、それどころか何の報せも発さずに、「ここまで一直線に」殺されている事に。接近する者を迎え撃つはずのコックロー

チ達は、標的を見つけて高速移動してくる敵を認識する前に即死させられ、警報装置の役目すら果たせなかった。

(デスチェイン…!)

 「死の連鎖」、その二つ名に偽り無し。

 昨日の白い熊といいブルーティッシュはこんな輩ばかりかと、二度も容易く接近されて歯噛みする中年に、ダウドは不敵に

口角を吊り上げる。

「悪いが引っ掛けさせて貰ったぜ。こっちには俺だけだ」

 ダウドの言葉通り、こちらには潜伏しているメンバーを装ったダミーの人形を配置しただけ。人手が必要なキャンプファイ

ヤー側にメンバーを集中し、おびき寄せたエルダーバスティオンと虫はダウド単騎が迎え撃つ…。この白虎でなければ成立し

ない単独殲滅トラップだった。

「お前らが全員で何人か、本拠地は何処か、…なんて質問は山ほどあるが…」

 剣呑に瞳を輝かせ、ダウドは無造作に見える一歩目を踏み出した。

 途端に、雑居ビルの屋上を取り囲んで無数のコックローチが飛翔し、空を埋め尽くす。下から、あるいは別の建物から、あ

るいは高空から、飛来するその数、三十余り。

 中年の命令を受け、コックローチがダウドに襲い掛かり…、

「ま、素直に吐くとは思ってなかったが」

 話の合間に斬られて飛び散る。

「いいぜ、抵抗しろ」

 重さと大きさを無視するように、白虎の両腕が右に左に大剣を持ち替え、漆黒の剣閃を縦横無尽に夜へ刻む。

「諦めがついたら洗いざらい吐け」

 夜よりも濃い刀身が闇に奔る度、虫が残骸に変えられてゆく。紙切れのように容易く、その生命を断ち斬られて。

 僅かに揺れるのは上体のみ、体の向きすら変わらない。

 振るわれるのは双の腕のみ、下半身は悠然と真っ直ぐ歩む。

 まとわりつく羽虫を振り払いながら無人の野を往くかの如く、その白い虎は中年へ歩み寄る。コックローチの残骸が歩む左

右に残される。その数が十七を数えた時、中年は腰に手を伸ばし…。

 ドンと、夜気が震えた。白虎が踏み込んだその脚で。

 8メートル以上は間合いがあったはずが、広く逞しい背は今、反応すらできなかった中年の眼前にある。

 ダウドは既に動きを止めている。大股に踏み込んだ姿勢で、腰を落として半身に構え、漆黒の巨剣を握る両腕を振り終えて。

進路上に存在したコックローチ数体は纏めて轢断されていた。

 動作は、豪快ではあるが単純。大きく振り被り、間合いを詰めつつ振り抜いただけ。ただし剣速も踏み込みの速さも尋常で

はない。中年には振り被ったタイミングはおろか、剣先が動いた瞬間すら知覚できなかった。

 一足一息瞬き一つ。繰り出したのはただ一太刀。その黒剣の軌跡に重なった存在は、大気と同様抵抗も無く切り裂かれる。

 両者の頭上で現実味薄くクルクルと宙を舞うのは一本の腕。

 肩のすぐ下で切断された腕が、掴んだばかりのジャンビーヤを手放した。ダインスレイヴは中年の右腕を何の抵抗も無く切

断し、雑居ビルの天井を傷つけないよう床スレスレで静止している。

 ボウッと、一拍遅れて強風が駆け抜け、ざっくり切り裂かれた中年のマントが激しくはためく。トスンと音を立てて腕が右

に落ち、カランと軽い音とともに左へ短刀が転がる。愕然とする中年が痛みを感じる前に、切断された右腕が思い出したよう

に鮮血を噴出させた。

 アルとの戦闘で負ったダメージは確かにある。だが、そもそもダメージなど関係ない。反応すらできず、抵抗すらできず、

負傷の影響が出るような行動を取る事もできないまま、一瞬で利き腕を落とされていた。

「ぐあっ!」

 堪らず声を上げた中年は仰け反ったが、倒れる事も逃れる事も赦さず、虎の手が顔面を鷲掴みにする。虫使いの残った左手

が手首を掴むも、ダウドの腕はビクともしない。

(このマスク…、ああクソ、やっぱりか!あの時ミーミルが設計してた…!)

 左手でがっしり中年の顔を捕まえながら、指の隙間から細部が見える仮面を確認し、ダウドは胸の内で悪態をつく。

 それは確かに、あの時自分が思い付きで案を提示し、予想外に気に入ったらしいジャイアントパンダがそのまま参考にした、

狐面を模したブースター…。

(そりゃあまぁ本物しかねぇだろうよ。デッドコピーも模倣も発展も不可能だ。何せあの人類史上最高最悪の研究者、ミーミ

ル・ヴェカティーニが作ったモンだからな。判ってた。判っちゃあいたが…。…しかし結構ヘコむぜ…、俺がアイツに言った

デザインそのまんまの品が、この首都で悪さをするってのは…)

 ダウドのそんな内心など知る由もなく、中年は顔を掴まれたまま立ち竦んでいる。愕然として動けない、その理由は…。

(虫が…、応えない…!?)

 まだまだ残っているコックローチ達はしかし滞空したままで、呼びかけに従わない。それどころか、リンク時特有のフィー

ドバックが無い。指令が何処にも届いていない。

「ああ、虫を使おうってんなら無駄だぜ?」

 ダウドの言葉で目を見開いた中年は、そこで気付いた。

 漂っていた。白い霧が自分の顔の周辺にだけ。まるでそういった意図を持つように、緩やかな夜風に抗って流されもしない。

 出所は、仮面ごと中年の顔を鷲掴みにしたダウドの左腕。肘まで捲り上げた袖から露出する前腕から、白い蒸気が立ち昇っ

ている。

「この「ニブル」がお前の思念波をシャットアウトしてる。虫使いは頭から信号を出すそうだが…、仮面で増幅しても仕組み

自体は変わらんはずだな?」

 ツッと、男の顔を汗が伝った。

(この男、我々の事を何処まで知っている!?)

 そして、ビシリと鋭い音が走る。

 ダウドの手が五指に力を込め、あっさりと仮面を破砕する。砕けた狐面の下から現れた中東の人種を思わせる顔を確認し、

白虎は鼻を鳴らした。

(やっぱり中東系か…。こいつはホネだぜ、本当にあの一族が出張ってるとは…)

 予感が的中しても全く嬉しくないダウドに、

「ダウド・グラハルトは…!能力を持っていないはずでは…!?」

 中年は顔面を鷲掴みに捕らえられたまま呻いた。ダウドの腕が発し、自分の頭部を包んでいる白い霧は、原理不明の作用で

確かに思念波を封じ込んでいる。

「ああ。能力なんかじゃねぇ、こいつはただの「体質」だ。居るだろう?ちょっと体温高めのヤツとか、ちょっと汗っかきな

ヤツとか、いい匂いする女とか、湯気が出るヤツとか…」

 軽口を叩いたダウドは、ピクリと眉を動かした。

 カチッ…と、か細い音が、普通なら気付きもしないだろう小さな音が、白虎の耳に届いていた。

 手首を掴む虫使いの手が力を強めた。同時に、ダウドは中年の目にチラつく光に気付く。

 一矢報いた。

 眼差しに宿るそんな光を察知したダウドは、咄嗟に右手首を回して黒い大剣を旋回させ、中年の腕を肘の先で切り落とす。

そしてその直後…。

 ボンッ。

 腹に響く破裂音。盾にしたダインスレイヴの腹に、湿った音を立ててビチャリと残骸が付着する。

 舌打ちしたダウドが愛剣を振るうと、血や脳髄、頭蓋の破片、潰れた眼球や数本の歯が床に飛び散った。

「腹に一物、背に荷物。口にスイッチ、頭に爆弾。…ってか?古典的な手を使いやがる。おまけに…」

 頭部を失った中年の体が棒のように後ろへ倒れてゆくのも見届けず、ダウドは頭上を見上げた。

 最後の指令は自爆装置の作動と共に発せられていた。思念波に頼らず、埋め込んだ装置によって電波伝達された命令を受け、

コックローチ達が夜空を乱舞する。

 狂ったように舞い踊る黒い虫達が、手当たり次第に体当たりし、噛み付き、周囲の物に攻撃をしかけていた。

 そして、自爆装置の起動は機械的なシステムによって、他のメンバーにも状況を知らせている。

「離脱する。各々炎の精を捜索しろ」

 頭領の命令を受け、現場の静けさに違和感を覚え始めていた残りの虫使い達は、躊躇う事なく即座に場を離れる。

 仲間の仇を討たねば…とは考えない。怒りや憎しみや哀悼が無いわけではない。まず為すべき事を最優先するために、その

死に意味を持たせるために、彼らは目的達成に向けて動く。

 虫使い達が呼び込み、その区域に残したコックローチは、今回総出撃させた頭数の約半分にあたる七百以上。足止めと目く

らましにしては大掛かりだが、仲間を倒した相手を侮っていない証拠である。

(仕方ねぇ…。まずは、一般人を襲いかねねぇこいつらから殲滅する!)

 ノゾムの側も気がかりだが、暴走するコックローチは見過ごせない。

「ダウドだ!聞こえるかネネ!虫使いはひとりしか仕留めてねぇ、残りが逃げた!予想通りの「腕利き」だ!警戒しろ!」

 襟元のマイクに怒鳴るダウド。鎧袖一触だったが、それはこの白虎だからこそ。危ぶんだ通り、虫使い達は腕前も覚悟も超

一流と判断した。正直なところ、ブルーティッシュの上位調停者陣でも大多数は単身戦闘させたくないほどに。

(この有様じゃすぐには行けねぇな…。さて)

 空を覆うほどのコックローチの大群を見上げ、ダウドは愛剣を振り上げて肩に担ぎ…、

「ん?」

 パンッ!と、破裂音に近い衝撃波を感じて後方を見遣った。

 振り返れば、群れ飛ぶコックローチの一角に、垂直の風穴が空いている。

 そこは、ビル下の道路にクレーターのような大陥没を拵え、垂直に跳ね上がった何かが弾丸のように駆け抜けた痕跡。その

垂直の通過線に触れていたコックローチが、まとめてゴッソリと、抉られるように、接触箇所を失っている。

「へっ…!」

 白虎がニヤリと笑う。刹那の間とはいえ「体ごと音速超え」という無茶苦茶な現象に至れる者など、この超戦士でも数名し

か知らない。

 コックローチ達が纏めて残骸にされた垂直の線の頂点、ダウドが居るビル屋上よりも遥か上空に獣が一頭舞い上がっていた。

 暗灰色の都市迷彩装備に身を包み、赤い燐光を纏うグローブを両手に嵌め、真紅の光が形を成した小刀を逆手に握り、大き

く身を捻った状態のシベリアンハスキーは、グローブの作用により物質化している思念波の小刀を爆散させ、その反発力を利

用して制動をかける。

 そのささやかな破裂音と同時に、遅れて駆け上がって来た衝撃波に飲まれたコックローチ達が、砕けて裂かれて微塵に飛び

散った。

 ハスキーは宙で一回転し、そこからビル上に降下。激突寸前にグローブから赤光を放出して再度爆ぜさせてブレーキにし、

器用に勢いを殺して着地する。

 人智を超えた機動と襲撃を披露し、自分の前に降り立ったシベリアンハスキーを、白虎は担いだ大剣で肩をトントンと叩き

つつ、片眉を上げて見つめた。

「「タンブルウィード・デリバリーサービス」、配達にお伺い致しました!」

 朗々と吠えたハスキーに、面白がっているような顔でダウドが問う。

「届け物なんぞ頼んじゃあいないが…。依頼人とブツは?」

 マーナは「はっ!」と、生真面目に背筋を伸ばして応じた。

「依頼人は拙者自身!お届けに上がったのは「助力」!義によって助太刀に馳せ参じました。どうぞ、今宵この場で轡を並べ

るお許しを!」

 深々と頭を垂れたマーナの堅苦しく暑苦しい物言いで、ダウドはからからと笑った。「相変わらずだな」と。

「丁度いい、ちょいと骨が折れる作業だった。手応えはねぇだろうが頭数だけは揃ってるからな、目一杯暴れて貰うか!…た

だし、オーバードライブの多用はするなよ?体に効くんだからよ。…ったく、嬢ちゃんは来てねぇんだな?乱入の狼煙替わり

に気安く使いやがって…」

「御意!」

 助勢の許可を貰ったマーナが、ダウドに背を向ける格好で身構える。

 同時にダウドは、マーナに背中を向けて両手でダインスレイヴを握り込む。

 この状況には最適な助っ人と言えた。ダインスレイヴが放つ断空の刃は広域殲滅に向くが、巻き込めば建物にまで被害が及

ぶ。一方でマーナは広範囲攻撃手段こそ持たないものの、機動力と白兵戦能力により次々と高速で仕留めてゆける。持ち前の

尋常ではない機動性もあって、一匹づつ潰してゆくのはダウドよりも速い。ダウドが軽く試算しただけで、殲滅に要する時間

は半分以下となった。

「一匹残らず叩き潰さなきゃならねぇぞ!逃がすなよ!」

「心得てござる!お任せあれ!」



 燃える炎を前に、独り佇む。

 サラマンダーを待つノゾムは、逃げ出したいのを堪えて踏み止まっていた。

 オペレーターから通信は入っている。もうじき現れるはずだと聞いている。じっとりと全身が汗で湿っているのは、真夏に

炎の近くに居るからという理由だけではない。

 土を踏む音が小さく響く。

 焼けた木が爆ぜる音に混じって消えそうなそれに気付いて、ノゾムはビクリと身を震わせた。

 おそるおそる振り向くと、そこにはジャージ姿の女性…サラマンダーの姿。

 向き直ったノゾムは、ゴクリと唾を飲み込むと、震える両手を左右に大きく広げ、敵意が無い事を示す。

 サラマンダーに表情は無い。ノゾムと10メートルほどの距離をおいて立ち止まり、じっと視線を注いでいる。

「あの…。話は…、できないかな?サラマンダー…」

 緊張のあまり乾いてヒリつく喉を震わせ、ノゾムは「調停」を開始した。



「少尉ー!?目標地点はこっちの川べりとは逆側ですー!首都の道判りにくいー!」

「ええい!渡れる場所はないのか!?」

 レンタカーのナビが示す目標地点は川の向こう。火が焚かれているのがはっきり見える。

「迂回路を探し…、あ」

 助手席の窓から周囲を窺ったミオは、頭上を飛んでゆく影に気付く。

 黒い、虫の影。頭上を通過したのは一匹だったが、慌てて暗視ゴーグルを覗くと、夜空をぽつりぽつりと横切ってゆく黒点

が確認できた。

「「良い事もあろうと考えながら、しかし常に最悪に備えよ」…」

 呟いたミオは、ブルーティッシュが抑え切る可能性に期待しつつも、おそらくは一つ誤れば転げ落ちてゆくのだろう最悪へ

の対策を取る事に決める。

「出ます!」

「出…え?」

 聞き返そうとしたミューラーは、走行中にも関わらず助手席のドアを開けて身を乗り出したミオの後頭部を見る。

「コックローチが移動中です!車を向こう岸へ回して下さい!僕は先行して迎撃します!」

 それだけ告げて飛び出しながらドアを蹴り締め、転がって着地の衝撃を逃がしたミオは、すぐさまワイヤーを放って傍の電

気屋の看板に取り付くと、そこから屋根の上に上がり、鉄塔と送電線の位置を確認した。

(最短距離で行くには…、アレだ!)

 一方、ハンドルを握るラドに後部座席から操作説明を訊いて、ミューラーは通信機に怒鳴る。

「ブルーノ!いま何処におる!?」



「目標を確認。ブルーティッシュの姿は無いが、おそらく潜んでいる」

 仮面を被った女性は、コックローチの一体に吊り下げられながら仲間へ連絡した。

 虫使いの若き頭領は、罠に割かれている人員自体が手薄であるという事は、同時に別所での捕獲作戦が進行中なのだろうと

判断し、彼女達に捜索を命じた。

 機動力、判断力、ともに並の調停者では手に余る相手だが…。

「!」

 女性が宙へ放り出される。コックローチが翅を撃ち抜かれて。

 ライフルの狙撃、それも十発以上の斉射。一体何処から、と目を走らせた女性の周囲で、さらに二匹、今度はナパーム弾で

コックローチが撃墜された。

(…あれは!)

 狐の面が拾ったのは河川敷にある野球場の影。

 ただし、夏の朝などは草野球で賑わう球場に陣取っているのは、勿論ベースボーラーではない。

 ピッチャーマウンドに仁王立ちするふっくらしたレッサーパンダの周囲には、トライポットなどで固定され、夜空に銃口を

向けた各種銃火器類。それぞれにワイヤーを結びつけ、能力の作用範囲下に置いたエイルは…、

「ようこそであります。そして、ごきげんよう」

 その能力をもって、一斉射撃で虫使いを迎撃する。

 エイルの能力は待ち伏せに向く。陣を準備して迎撃する戦闘でこそ真価を発揮するのが、彼女の「トリガーハッピー」。今

夜はノゾムの安全を優先するというダウドの許可もあり、殲滅を主眼に置いた容赦の無い布陣…具体的には30人規模の小隊

二組に行き渡るだけの銃火器を取り揃えて待ち構えていた。

(独り!?独りだけ!?それでこの軍隊のような集中砲火!?何がどうなっている!?)

 代わりのコックローチに空中でキャッチされ、落下を免れながら、女性は混乱しつつ唸る。

「こっちのルートには来るな!空路では一網打尽にされる!」



 銃声が遠く聞こえる。

 おそらくは嗅ぎ付けて来た虫使い達との戦闘が始まったのだろうと察しながら、ノゾムは目の前のひとならざるモノへ話し

かけた。

「「帰りたい」…って、言ったよね?」

 敵意が無い証明に両手を広げたまま、ノゾムはサラマンダーに問う。

「行きたい場所があるの?帰りたい場所が?もし、そうなら…」

 

―…カエリタイ…―

 

 また、ノゾムはあのイメージを受け取った。サラマンダーが有する記憶のヴィジョンを。しかし…。

(あれ…?)

 目を丸くする狐。受け取ったイメージはノイズまじりで、昨日よりずっと不鮮明になっていて…。

 

―…カエリタイ…―

 

 伝わって来るサラマンダーの意図が、その発信の強度とでも言うべきものが、昨日とは比べ物にならないほど弱い。

(もしかして…)

 不安を感じる弱々しさに、ノゾムは嫌な予感を覚えた。

「サラマンダー、もしかして…、弱っているの?」

 瞳の奥にチラつくオレンジの光が、昨日よりか細い。

 瞬間、ノゾムは受け取る。サラマンダーがここに至るまで放浪してきた道程の景色を。

 ただ、静かに燃えていたかった。人々の営みの傍らで、ただ火として過ごしていたかった。

 しかし、サラマンダーが望んだ古い時代の生き方をしている人々は見つからなかった。

 追われ、彷徨い、求め、海を渡り、辿り着いたこの街にひとはたくさん居たが、ここにも望んだ営みはなかった。

 ノゾムは理解した。サラマンダーは彷徨う内に力を失い、弱りに弱りっているのだと。昨夜、逃れるために熱線を幾度も使っ

た事で、もはやその火は消え入りそうになっている。

 もう危険な力は無いし、このまま放っておけば近いうちに消滅する。意思疎通のため部分的に感覚を共有したノゾムはそう

確信した。

 このまま消えてくれれば首都は安全。そのはずなのだが…。

「どうしたらいいの?どうしたら、君の願いは叶うの?」

 ノゾムは、もう害が無いからこそ、なおさらサラマンダーの望みを叶えたかった。

 

―…カエリタイ…―

 

 表情も無く繰り返すサラマンダーの、入れ物に過ぎないはずの女性の顔が、今はひどく哀しそうに見えた。

 もうサラマンダー自身にも、どうしたら望みが叶うのか判らない。叶わないかもしれないという、諦めすら抱いている。

「どうすれば…。どうすれば…」

 悩むノゾムは、ピンッと軽く、そして場違いな金属音を夜風の中に聞いた。

 その直後、キャンプファイヤーの一基が「爆発」した。

「え!?」

 振り向いたノゾムの視線の先で、二基、三基と、立て続けに爆発してゆく炎。そして、ノゾムのすぐ傍の炎の中で、ピンッ

と音がした。

 眩しい炎の中に見えたのは、ジュースの缶を一回り大きくしたような、銀色の金属筒。スプレー缶のノズルとトリガーのよ

うな物が頂点についており、それが、顎が外れたペリカンのように大きく開いている。

 爆発物だと直感した途端、ノゾムは反射的に動いていた。

 あるいはソレが、守るべき対象の、一般人の、女性の姿をしていたからなのかもしれない。

 ノゾムは考える事も無く、炎とサラマンダーの間に駆け込んで…。

(あ…)

 爆風が背を叩くのを感じ、意識を失った。



 連続する爆発がおさまった時、全てのキャンプファイヤーは消えていた。

(しまった!)

 異常を察するなりネネはドアを開けて車外に飛び出す。

「至急ヤマギシ君の救助へ!」

 指示を出しながらもネネは考える。サラマンダーの反応はまだ捉えているが、爆発直前まで一切の「ゆらぎ」が無かった。

つまり、今の爆発はサラマンダーの仕業ではない。

 ネネの監視網すらすり抜けたのは虫使い達。その狐面に施されていた思念波探知ジャマーについてはダウドも存在を知らな

かった。さらに…。

(コックローチが…、これはもう軍ね…!)

 ダウドからの連絡で覚悟はしていたが、想定以上の数だった。まるで夜空がボロボロと崩れて降り注ぐように、コックロー

チ達が次々と舞い降りて来る。対空砲火を命じはしたが、それを抜けて来た数が尋常ではない。

「出るわ!後をよろしく!」

 腰の後ろで並行に装着していた二振りの小刀をシュピンと引き抜く。その能力の特殊性故に、隊を統率、サポートするべき

ネネなのだが、ノゾムの身に危機が迫っているとなれば理想形を放棄するのも止むを得ない。

 ノゾムのフォローに入ろうとしたブルーティッシュのメンバーも、ゾワゾワと数を増してゆくコックローチに接近を阻まれ

ている。最速で駆けつけられる手段は自分の単騎駆けだと判断したネネは、無数のコックローチの思念波まで受信してしまう

負荷に目を瞑り、感応を拡大してノゾム周辺の様子を探ろうとして…。

(…この反応…。何故…?)

 負荷の苦痛で顰めた顔に疑問の色を浮かべた。得られた情報は、吉報としてもよい物ではあったが…。

(アルがもう接近している!?あの子、何時の間に!?)

 そんな報告は受けていない。持ち場を離れる際には必ず連絡するように言っておいたのに。アルに限ってそんな初歩的なミ

スはしないと思うのだが…。

(冷静さを欠いているのかしら…)



 炎の欠片が飛び散って、あちこちでパチパチ燃える中、座りこんだサラマンダーは俯いている。

 瞳に映っているのは、防護服の背面を焼かれ、あちこち焦げて煤けて黒くなった、丸い狐。

 横向きに倒れて動かないノゾムの傍らで、座りこんだサラマンダーはその横顔を見ている。

 狐は気絶していた。ネネの指示で着込ませられた厳重な防護装備の重ね着は、かさばって動き難いが効果は抜群。毛先が焦

げはしたものの火傷も負わず、気を失いはしたがほぼ無傷である。

 

―…カエリタイ…―

 

 自分を護り、気を失った少年の顔を見下ろしながら、サラマンダーは繰り返す。

 

―…カエリタイ…―

 

 サラマンダーの手が、ぐったりしている狐の頬に触れる。

 

―…アナタモ…カエリタイ…?―



 暖かい。

 焚き火の傍に居るような、体の一面だけが熱をもつような温もりを、ノゾムは感じていた。

 朦朧とする意識の中、横臥している事だけはなんとなく判る。その、体の前面を向けている側が暖かい。

 ふいに、オレンジを感じた。

 それは大きいのか小さいのか判らない。近いのか遠いのか判らない。炎の帯のようで、綺麗で、神々しくて、そして暖かな

光を放っていた。

(ドラゴン…?)

 優雅に身をくねらせて宙に浮いているソレを見たノゾムは、東洋の、体が長くてしなやかにくねる龍を連想した。

 

―あなたも、帰りたい?―

 

 言葉ではなく、音ではなく、意識が頭に流れ込む。これまでになくはっきりと。

(帰る…?)

 ノゾムはぼんやり考えて、ああそうだ、試験が終わったら帰らなくちゃ、と思い出した。

(東護に帰ったら、タネジマさんやトウヤさん達にちゃんと報告しなきゃ…。もうお盆だから、お墓参りにも行かなきゃ…。

リーダーと、皆のお墓に、花を…)

 そんな思考を聞いていたかのように、オレンジ色に輝く龍のようなものは、頷くようにして頭部をゆらした。

 そして宙を泳ぐように近付いてきて、遠近感が逆転したように近付くほどに小さくなって、横臥するノゾムのふっくらした

下っ腹…ヘソのすぐ下の辺りにスゥッと入り込んで…。



「がふっ!げほっ!」

 咳き込んだノゾムは、涙目になって激しく身もだえした。

 全身が激しく叩かれたように痛い。胸が苦しくて慌てて空気を吸うと、一緒に吸い込んだ煙でまたむせてしまった。

 その眼前で、座っていた女性の体が傾き、ドサリと横倒しになる。

「…!?」

 我に返ったノゾムは、身を起こすなりサラマンダーの顔を覗きこんだ。

 もう、目にあの光は無かった。もう、完全に止まっていた。もう、生命の残り火すら無かった。

(…助けて…、あげられなかった…)

 無力感に打ちひしがれて肩を落とす。話し合えたはずなのに、判り合えるはずなのに、結局自分は何もしてあげられなかっ

たのだと…。

 調停は為せず。

 任されたのに、請け負ったのに、自分は…。

「ソレか」

 太い声が聞こえた。ブルーティッシュの隊員だろうと思い、顔を上げたノゾムは…。

「…!」

 そこに立っている男を見るなり、違うと、即座に気付く。

 黒いマントを羽織り、黒い狐の面を被った肩幅の広いその男は、声からすればどうやら壮年らしいが、ブルーティッシュで

はない。その手には、銀色の金属缶が握られていた。

 炎に爆弾を投げ込んで灯りを失わせつつ、コックローチで立ち入りを封鎖、混乱に乗じてサラマンダーを確保する。これだ

けの事を、一名でも現場に着けばやってのけるのがこの虫使い達。

「うう…!」

 サラマンダーの気配が消えた女性の体を庇うように、ノゾムは膝立ちのままずりずりと前へ回り込んだ。

 震える手で銃を握り、男に向ける。

「ちょ、調停者です…!武器を捨ててください!」

 壮年は答えずに踏み出す。警告を無視されたノゾムは、ガタガタと震える手で狙いを定め、片目を瞑って見定め、足を狙っ

て引き金を絞った。

 が、借り物のグロックが放った弾丸は、壮年がほんの少し動いたのと逆側へ大きく外れる。

(避けるまでもなかったか。…未熟過ぎる。どうやらブルーティッシュもピンキリらしい)

 壮年はノゾムが構えた銃の向きで、射線を正確に把握し、発砲前に回避行動を取れていた。超人的な反応速度と視力、身体

性能を持つ虫使い達にとって、拳銃の銃口一つなど恐れる物ではない。

 再びの発砲も結果は同じ。狙いすましたにも関わらず、壮年の足を狙った弾丸は闇中へ飛び去る。

 直後、ノゾムは視線に力を込めた。

 発火プロセスは即座に完成し、狙い通りに壮年の肩口でボンッと炎を咲かせたが…。

(よ…読まれた!?)

 銃撃を交えれば不意をつけると踏んでいたノゾムだったが、壮年は一切油断を見せず、半歩横に退き、耐火能力を備えたマ

ントで炎を払い散らしている。発火能力を持つ「肥った犬」の事は、回収できたコックローチの情報で把握していた。

 壮年は腰からジャンビーヤを抜く。その刀身が青い光刃を伸ばし…。

「待て!」

 その声に、壮年とノゾムは同時に反応した。

(アル君!?)

 右に首を巡らせたノゾムの目に映ったのは、暗がりから駆け出して来る大きな白い熊。

(頭領!…面も付けずに…)

 左を向いた壮年の目が捉えたのは、燃える残骸を飛び越しながら疾走してくる黒い影。

(あれ?)

(む?)

 そしてふたりは同時に違和感を覚える。

 疾走してくるアルの足取りは大股で力強く、しかしどこか荒々しく…。

 駆け寄ってくる虫使いの頭領は、足取りが妙に大雑把で…。

「…へっ!誰を見た?」

 ノゾムが見るアルが、壮年が見る棟梁が、ふたりとも知らない声で問いながらニヤリと不敵に笑った。

 違う。

 ふたりがそう認識した瞬間、駆けて来る男の姿がブブンとノイズ混じりにブレて、現れたのはがっしり肥えた体格のいいマ

ヌル猫。

「な!?」

 思わず声を上げた壮年は既に間合いに入られていた。マヌル猫の右手には大振りで肉厚なサバイバルナイフが、左手には山

刀と呼べるサイズのナイフが、それぞれ逆手に握られている。

 ナハトイェーガー第三分隊、ブルーノ・ハイドフェルド曹長。

 コードネーム及び固有能力の名は、「ドッペルゲンガー」。