Fatal Ignition(act11)

 ドッペルゲンガー。

 ブルーノ・ハイドフェルドが持つ能力は、分類上は幻術の一種という事になる。形式は「受動型」。作用は「誤認誘発」。

幻術としての強度はさほどではなく、光学機器や録音機等にも普通に声や姿が捉えられる。

 だが、この能力はその特殊性において、活用方法を誤りさえしなければ有用である。

 ドッペルゲンガーは、ブルーノに意識を向けた者自身の認識に作用する。能力起動中の彼に意識を向けた者は、そこに「そ

の場に居て欲しい」あるいは「居ても問題ない」類の、既知の誰かの姿形を自ら投影する。

 この能力で欺けるのは視覚だけではない。声も、体臭も、思念波パターンすらも、受け取り手側が「そう思った」形に置き

換わる。

 ただし、あくまでも投影は見る側のイメージであるためブルーノ自身が意図的に誰かに化けられる訳ではなく、状況によっ

ては…例えば「誰も来ないはずの状況」などでは、存在そのものを怪しまれるのでそもそも役に立たない。

 それでも、接近したり潜り込んだりするには重宝し、その効果自体は非常に強力と言える。というのも…。

 

(リミット全オフだ!ぶっちぎるっ!)

 地を蹴る寸前に禁圧を外し、唐突に放たれたクロスボウの矢のように、丸く肥ったマヌル猫の体が加速しつつ跳躍する。

 頭領と誤認させられていた虫使いは容易く接近を許してしまい、そこは既にブルーノの距離。瞬時に肉薄された壮年は身を

かわすものの、跳び蹴りを避けられたブルーノはすれ違い様にナイフを一閃し、狐面の頬にガツッと当てる。散った火花に重

なって、両者の視線が交錯した。

(避け切れなかっただと!?)

(ツラぁ拝まして貰うつもりだったが、結構頑丈なマスクじゃねぇか。遺物の類か?)

 ブルーノ・ハイドフェルドは一対一のナイフ格闘術においてナハトイェーガー一の使い手。第二種程度の危険生物であれば

単独で秒殺が可能。得物をナイフに限った格闘戦であればミオですら未だ及ばず。肉弾戦に限ればイズンにも肉薄するレベル

にある。

 故に「ブルーノの距離に持ち込める」という一点だけでも、ドッペルゲンガーは非常に強力な能力と言える。

 着地し、ザザザッと靴底で土を掘り返しながら踏み止まったブルーノは、驚いているノゾムをチラリと見遣り…。

「「やまぎし」か?」

「え?」

 目を大きくしたノゾムは、

「仲間かラ聞いた。おレは敵ではない」

 イントネーションはややおかしいながらも、きちんと日本語になっているブルーノの言葉で耳を立てる。

「三浦さんの仲間の方なんですか!?」

「そうだ。みうラは仲間だ」

 判ったら安心して下がっていろ。そんな視線を投げかけたブルーノは…。

(ガキじゃねぇか)

 ノゾムが庇っていたサラマンダーの抜け殻を見遣り、

(ラドより、ミオちゃんより、下じゃねぇか)

 ノゾムをもう一度見遣ってから、壮年に目を戻す。

(…子供を痛めつけてたのかテメェ?アアン!?)

 その双眸に嚇怒の感情が黒々と満ちて、無数の皺が鼻面へ獰猛に刻まれた。

(手錬…!しかもブルーティッシュではないのか!?)

 壮年はブルーノの身のこなしや斬撃の鋭さから、相当に手強い相手だと認識し、すぐさまジャンビーヤをもう一本引き抜く。

 刀身から光刃が伸び、壮年が二刀で身構えるのを待って、ブルーノはドスッと大きく一歩踏み出す。余裕ではない。自信で

もない。ブルーノはその「矜持」に従って相手が武装する事を許した。

 踏み締めた足に体重をかけ、そこを足掛かりに再びの禁圧解除。剛風で被毛を撫でつけられ、流線型のマヌル猫が一気に間

合いを詰める。

 防御も回避も考えない一直線な突撃に対し、壮年は素早く、牽制するように二刀を振るう。軌跡が闇に円を描いて…。

(な!?)

 マヌル猫は躊躇わず右腕を突っ込んで来た。腰から上を大きく捻り、拳を突き出して殴りかかるようなその動作は、牽制を

完全に無視している。普通は閃く刃に目を引かれ、切られる事を意識するものだが、ナイフ格闘の達人であるブルーノは「本

当にヤバい刺突斬撃」が反射的に判別できる。例え無闇やたらに剣を振り回されようと、自分が突ける隙と危険なエリアが正

確に見分けられる。

 突き出された拳が握るナイフは、ブルーノが狐面の「目」と判断した額のセンサーを狙う横薙ぎ一閃。堪らず首を引いた壮

年は手首を返し、伸びたブルーノの腕を双刃で切り落としにかかる。

 が、マヌル猫は残像すら残る速度で腕を引いて、交差する光刃が通過するなり、左手の中でクルリと回し、握りの向きを変

えた山刀を突き出す。ザスッと音が鳴り、腰を引いた壮年の胸元でマントがザックリと裂かれた。

「ちっ!」

 シュンと大気が焼けるような音を立てる。出力を上げた光刃がリーチを伸ばし、逆袈裟の斬り上げを繰り出すが、ブルーノ

はまたも素早く腕を引いていた。ただし、山刀を手放し、宙に残して。

(何だと!?)

(甘ぇぞゴルァッ!)

 ステップアウトで回避したマヌル猫は、刃の振り終えに合わせて前蹴りを繰り出していた。柄の端を掠めるように蹴られた

山刀は、高速旋回する鉄の風車と化す。

「ぬぅ!」

 首を傾けて避ける壮年。反応が遅れれば高速回転する刃が顎下から顔面を断ち割るところだった。が、ブルーノの攻め手は

まだ終わっていない。

 太い脚が唸りをあげる。脇腹を狙った右のミドルキックを、腕を引きつけて肘で受けた壮年は、特殊樹脂性のエルボーガー

ドが一撃で蹴り砕かれる感触に慄き、腕とあばら骨がミシミシと悲鳴を上げる衝撃の痛みに呻きを漏らす。

 サバイバルナイフを逆手に握っているブルーノの右腕が、間髪入れず突き込まれる。狙いは頚動脈。あわやという所で回避

姿勢を取った壮年の首が、表皮から5ミリ切り裂かれた。

 上体を斜め後ろへ倒すような体勢から、壮年は右足で蹴り上げた。が、その脚に激痛が走る。

 がら空きと見えたマヌル猫の出っ張った腹…。そこを蹴り上げようとしたのだが、出っ張った腹の陰に隠す格好で待ち構え

ていた左手が、いつ引き抜いたのか、予備のやや小ぶりな片刃ナイフの刃先を下向きにして待ち構えていた。

 蹴りを受ける位置に滑り込んだナイフは、柄を力を込めた腹筋で止められ、壁に固定されたような状態。その刃が壮年のズ

ボンを裂き、脛の骨を掠めて突き刺さり、脹脛まで貫通している。

 その、突き刺さったナイフを手首を傾けることでしっかり「引っ掛け」る形にし、ブルーノは壮年の脚を手掛かりに引き倒

しにかかった。同時に、かわされて抜けた右手も手首を折り曲げ、壮年のうなじめがけて切っ先を戻す。

 二条目の切り傷が壮年の首についた。避けられたのは運のおかげ、もしや、という感覚頼みで首を捻った結果に過ぎない。

ブルーノの実力を肌身で理解し、面の下で壮年の顔は脂汗にまみれている。

 これが、イズンから「極めて実戦的」という賞賛を引き出し、アドルフをして「えげつない」と言わしめる、ブルーノ・ハ

イドフェルドの格闘術。ミオに仕込んだのは「お行儀のいい」部分だけで、オリジナルである彼自身の戦技はリッターの物と

も軍の物とも一線を画している。

 武装はいずれも現行技術による刃物で、丈夫ではあるが特殊ではない。光刃とまともに打ち合えばあっさり壊れる品である。

だが、武装がいくら優れていようと当たらなければ意味がない。ブルーノは装備で大きく劣りながらも虫使いを圧倒している。

 どうっと背中から倒れ込んだ壮年の胸に、ブルーノの靴裏が踏み下ろされる。全体重と力を容赦なくかけた殺す気の一踏み。

骨格の強度からして一般人と異なる虫使いもこれは堪らず、胸骨がベキベキと音を立ててへし折れた。

『頑丈だな。生きてるとは運が良いぜテメェ。今の内に降参するか?』

 殺す気だったが息があるなら好都合。捕まえて色々吐かせてやろうかと、母国語で降伏勧告を行なったブルーノだったが…。

『しねぇってか。そうだろう…よっ!』

 振り向き様に右のナイフを、飛来したコックローチの顔面に突き立て、そのまま腕一本で勢いも慣性も捻じ伏せて叩き落す。

その隙に、壮年は仰向けの状態から左脚を上げ、ブルーノの腹へ蹴り込んだ。

 ドボッ!と、腹肉に踝まで埋まる強烈な蹴り。常人ならば内臓破裂は免れない衝撃がブルーノの体を突き抜ける。踏ん張り

が利かず吹き飛んだブルーノは、体型に見合わない身軽さで一転し、四つん這いで着地する。そして、そこから即座に飛びか

かった。その動作は精彩を全く欠いていない。

(効いていないだと!?)

 驚愕する壮年だったが…、

(そんなんで俺が止まるとでも思ったかよ!痛かねぇぞこんナラぁっ!)

 実際は相当効いている。精神力で苦痛を捻じ伏せ、万全の状態と変わらない動作を実現させているだけ…つまり根性論によ

る「効いていない」である。

 右足が死んだ状態でも身を起こした壮年は、左手のジャンビーヤを投擲した。

 対抗するようにブルーノも右のナイフを投擲する。宙ですれ違ったブルーノのナイフは、その鋭さと重みと運動エネルギー

で、命中した箇所…狐面の額にあるカメラに突き刺さり、破壊する。面が外れて宙を舞い、壮年は衝撃で仰け反り天を仰ぐ。

 そして、ブルーノの眼前に迫ったジャンビーヤは、スパンと軽快な音を立てて柄を掴まれた。回転しながら飛来する刃物を、

柄が前に来るタイミングを見計らってあっさりキャッチしてのけたブルーノは、そのまま失敬して臨時の武器にする。

 仰け反らされた顔を壮年が戻した時には、ブルーノは既に眼前だった。

 ジャンビーヤを振るう壮年。その光刃の軌跡に頬毛を僅かに散らさせ、最小限の動作で避けたマヌル猫は、逆手に握ったナ

イフの峰と手首の外側で、ジャンビーヤを握る壮年の手首を挟み込んでロックし、動きを封じつつ、奪ったジャンビーヤを壮

年の左の肩口に突き刺して固定し…、

『グーテ…ナハト!(くたばりやがれ)』

 その顔面へ、渾身の膝蹴りを叩き込んだ。

 強固なプロテクターで護られた膝頭が鼻を叩き潰し、頭蓋にめり込み、顔面を大きく陥没させる。壮年は膝蹴りの勢いで吹

き飛ばされ、仰向けで落ち、しばし痙攣した後に動かなくなる。

 動きが無くなるのを見届けてから構えを解き、背筋を伸ばして振り向いたブルーノの視線を受けて、ノゾムはビクリと身を

竦ませた。

 が、歩み寄ったブルーノは…、

「頑張ったな」

 狐の眼前で屈むと強面を緩ませて笑いかけ、その頭をガシガシと乱暴に撫でる。そして、もう動かない女性の遺体にチラリ

と視線を向けた。

(サラマンダーは…、消滅か。もう反応しねぇな。計器に出てる反応は、ラドの話だとこの子の能力のモンだろう?…これで

一応ミッション完了って事になんのか…)

 結果はともかくとして任務自体はこれで終了。とりあえず連絡を、とブルーノは首のチョーカーに触れた。



 荻が揺れる河川敷。ミオは眼前の相手から目を離さない。

 青年と相対するのは、狐の面を着けた若い男。

(あれだけのコックローチの群れを制御しながら、直接戦闘も同時にこなせるのか…!)

 ミオの右頬は浅く切れていた。が…。

(この若さでこの力。一体何者だ…?)

 虫使いの頭領もまた、ミオの戦闘能力に舌を巻いている。

 お互いに目的地は同じ。そして相容れない同士。サラマンダーを巡って対立する中で、奇しくもそのリーダー同士がかちあ

い、互いに足止めを強いられていた。

 既に数十斬り付け合って、互いにほぼ無傷ながら決め手がない。

 互いに隙を窺う、何度目かの膠着状態になったその時だった。

『こちら「古野」だ』

 チョーカーがミオに告げる。標的の女性を確認したが、既にサラマンダーの反応は消失していた、と。

 そして虫使いの頭領は、その少し前に部下の反応…狐面による相互の位置把握用の反応が一つ消えた事に気付いている。

(サンジェに続き、アブヤドもやられたか)

 ミオはハッとする。

 唐突だった。事前にそんな気配を見せる事もなく、若き頭領は迷わず身を翻した。同時に、最後の命令を受けたコックロー

チ達が、見境無く、無軌道に、破壊行動に移る。

 背を狙おうとトンファーを構えたミオは、

(…っく!今の優先は…!)

 追撃を諦めた。追って戦闘を継続しても時間が掛かる。それよりも事態を片付ける方が優先だと、第一分隊長は判断した。

「「鉄谷」です!」総員、コックローチの駆除を!」

 ぐっと身を屈めて疾走準備に入ったアメリカンショートヘアーは、

「敵総数計上不能…、駆除対象は「視界範囲内」!オーバードライブを使用します!三浦さんと今野さんは「僕の鎮圧措置」

に備えておいて下さい!」

 黒々と聳える塔のような、夥しい数の黒い虫が旋回する虫嵐の中へと突入してゆく。



(急に動きが変わったっス?)

 河川敷へ通じる土手の上で、北極熊は振り返る。周辺にはアックスモードのブリューナクで粉砕されたコックローチの残骸

が散らばり、夜風に異臭を混ぜ込んでいた。

 派手な立ち回りでコックローチを周辺からおびき寄せ、既に屍の山を築いて殲滅を遂げたアルは、

(数が多っ!?あの辺り…、もしかしてノゾムのトコじゃないっスか!?)

 自分の背後方向…川を中心とした一帯に虫が飛び交う柱が出現した事に気付き、慄く。

「ポイント46!遊撃に移るっス!抜けたフォローよろしくっス!」

 即座に持ち場から離れる旨を通信で宣言したアルは、白い蒸気をボシュウッと全身から噴出させ、夜風を押し退けて猛然と

進撃を開始した。



(様子がおかしい。…なんてもんじゃあねぇぞこりゃあ…)

 ブルーノは頭上を見上げる。コックローチが飛び交う空は黒く塗り潰されていた。 

(とにかく、こんなトコじゃあ身を隠すのも難しい。どっかに移動して…)

 自分は何とでもなるが、せめてノゾムは何処かの屋内にでも避難させるべきだと、周囲を見回すブルーノ。その太い腰に…。

「お?」

 ギュッとノゾムが腕を回してしがみつき、ブルーノは自分の出っ腹に顔を押し付けているような少年を困り顔で見下ろした。

(怖かったのかよ?ま、無理もねぇなぁ…)

 背中でも撫でてやりながら、何か言って安心させようと口を開きかけたブルーノは…。

「ふ、ふせ…、ふせて…!」

 ノゾムの脅えきった声に気付く。そして理解した。

(くそっ!気ぃ抜いちまってた!)

 首を巡らせたブルーノの目に映ったのは、仕留めたはずの壮年。

 顔を陥没させ、目玉も飛び出て、首も折れ、脳も損傷し、常人であれば死んでいる傷を負いながら、壮年は片手を高々と上

げて振り被っていた。

 その手に握られているのは、銀色の金属筒…爆弾である。

 ブルーノをしゃがませようと、伏せさせようと、腰にしがみついて必死に引っ張りながら、しかし恐怖で体が震えているノ

ゾムは…。

(ダメだ…。ダメだ、間に合わない…!)

 伏せてもかわせない。おそらくあの壮年はあの状態でもこちらへ爆弾を放る。直撃に近い状況になる。

 発火の視線は反射的に使用をやめた。先ほど火にくべられて爆発していた爆弾の性質に鑑みれば、爆発を拡大させてしまう

恐れがあった。

 そして、その震える手が、追い詰められた手が、最後に頼ったのは…。


―狙撃するつもりで撃たないのがコツであります。拳銃は「こういう武器」でありますから―


 銃口は、「だいたい」の位置に据えた。

 サイトは見なかった。両目を開けて狙う対象だけを見た。掠りさえすればいいと、そんな気持ちでトリガーに指をかけ…、

立て続けに引いた。

 プシプシプシプシッと、続けて小さく音が鳴った。ほぼ同時に、壮年の手を離れた缶にポッと穴が空いた。ギリギリの、縁

の位置に。

(あ…、当たった…!?)

 自分でも驚いているノゾムは、覆いかぶさってきたブルーノに庇われる格好で押し倒されて…。

 ドバオンと、何処か間の抜けた音を立てて缶が破裂する。底部近くの縁に穴を開けられた事で、底が吹き飛んで一方向に爆

風が走る不完全な爆発になり、伏せている二頭は強い衝撃で体を叩かれただけで済んだ。

『最後っ屁とはな…』

 舌打ちして身を起こしたブルーノは、今度こそトドメを刺そうと壮年を睨んだ。

 何も見えていないだろう顔をふたりに向けながら、壮年はまるで何かに指し示すように手を翳している。

『何をしようとしてんだか知らねぇが…、その首が落ちてもやれるかよ?』

 首を刎ねて確実に殺す。ブルーノは一歩踏み出したところで…、

「チッ!」

 再びノゾムを押し倒した。今度は飛びつく格好で乱暴に。

 狐を庇ったマヌル猫の背を叩いて、耳障りな羽音が飛び去る。

 通過したのは黒い虫。断末魔の思念に応え、ノゾムとブルーノを殺すべく、暴走する群れから離れて数十匹のコックローチ

が羽音を響かせる。

『最後っ屁は一発こいて終わりにしとけ!往生際悪く何発もひってんじゃねぇぞゴルァッ!』

 悪態をついたブルーノがナイフを振るい、降下して来たコックローチをすれ違い様に顎から腹、尻の先までバッサリ斬り裂

いて落とす。

(やべぇ!オイラぁともかくこの子は切り抜けられんのか!?…ああ。ああダメだろうよ畜生が!踏ん張るっきゃねぇか!)

 数が多い。流石に護衛しながらの応戦は厳しいと歯噛みしたブルーノの後ろで、

「…え?」

 へたり込んだままのノゾムは、首を巡らせて、無残な有様の壮年を見る。

 

―ミロ―

 

 そう、聞こえた気がして。

「…うっ!」

 小さく呻くノゾム。その両手は自分の下っ腹を押さえていた。

 熱い。臍下三寸という単語がノゾムの頭を過ぎる。腹の中、臓腑の下、体内の奥深くに熱があり、それが血流とはまた違う

物を辿って、体を高速循環し始める。

 ノゾムは前しか見ていない。ブルーノも目を向けていない。壮年にはもう見えない。そもそも「ソレ」は光学的に視認でき

る質ではない。
だから「ソレ」は、その存在をそこに居る誰にも気取られなかった。

 狐の肩に何かが居る。

 背中側から右肩の上に、よじ登るようにして身を乗り出し、ノゾムと同じ物を見ている。

 それは光にも見えて、炎にも見えて、しかし熱くはない。

 それはトカゲにも見えて、龍にも見えて、しかしどちらでもない。

 しなやかで長い胴、フッサリした尻尾、尖った耳。

 それは、純エネルギー存在が消滅寸前まで弱った末、休眠のために間借りした先で影響を受け、具現する容姿に変化が生じ

た結果、日本に伝わる「管狐」に似た姿となっていた。

 キュボッ。

 そんな音を立てて唐突に光の玉が出現していた。壮年の首から上を飲み込んで、西瓜のような大きさのオレンジ色の光の球

体が。

(また、「オレンジ色」が見える…)

 それは本来おかしな事だった。能力の発動に伴い視力を一時的に喪失しているノゾムにも、何故かそれだけは見えていた。

しかも、色覚を失っているその目に、いま出現している光球は確かに「オレンジ色」と見えていた。サラマンダーの発光と同

じように。

 それは副作用で色覚を無くして以来、ノゾムが初めて認識した「色」だった。色覚が回復した訳ではないが、炎に属する超

存在に能力者としてのノゾムが共鳴し、着色されたイメージで認識している。

 眩いオレンジ。それはしかし鮮やかさと美しさに反し、致命的な発火。

 球状の空間内という限定された範囲の内側には、周囲には殆ど熱を漏らさないまま、オレンジ色の熱エネルギーが集約され

ている。球型の「炉」の中で荒れ狂うのは、鉄鋼も容易く溶断してのけるサラマンダーの熱線に匹敵する超高熱。

 そんな物にひとの体が耐えられるはずもない。いかなレリックヒューマンとはいえ一たまりもない。したがって、壮年はそ

の首から上をごっそり、瞬時に「消却」させられていた。

 そして球状の焼却炉…否、「消却炉」は、出現した際と同様の唐突さでフッと消え去った。熱の名残による、大気の揺らぎ

だけをその場に残して。

(何だ?今のは…?)

 首を失ってドチャリと突っ伏した壮年から、傍らのノゾムへ視線を移し、ブルーノは何度も瞬きした。

(発火能力者と聞いちゃあいたけどよ…、あんなモン見た事も聞いた事もねぇぞ?どんな変り種だオイ?)

 コントロールを失い、暴走する群れの中へ戻ってゆくコックローチ達。

 キョトンとしているノゾムと、ポカンとしているブルーノは、やはりどちらも気付いていなかった。一瞬だけ姿を現わし、

またすぐに消えてしまった、炎の管狐の存在には。



(間に合え!間に合え!間に合えー!)

 リミッターを完全に廃し、負荷で全身をズタズタにしながら土手を疾走し、跳躍し、落下するアル。渾身の力をこめて戦斧

を振るい、全体重をかけてコックローチを叩き潰すなり、地面にめり込んだ斧頭をローキックで蹴り付け、アスファルトの破

片ごと横合いのコックローチに叩き付けてメシャリとひしゃげさせる。

 息は上がり、得物の振りは鈍く、全身は軋み、瞳の赤い発光は弱まり、白い霧の噴出も止んでいる。本来ならば数秒も保た

ないはずの無茶をここまで続けた反動は大きい。アルの特殊性をもってしても禁圧をフルに解除して動ける時間は有限、既に

消耗の限界に達していた。

(ノゾム!ノゾム!ノゾムッ!行くっスから!今行くっスから!すぐに!今すぐ…!)

 ガファッと激しく息を吐き、ガヅンと斧を地面について、アルは一時静止した。激しくむせ返りながらもショットガンを引

き抜き、迫るコックローチへ立て続けにスラッグ弾を打ち込む。

 北極熊は行く手で黒々と空を舞う壁の如きコックローチの群れを睨む。もはやそれは、うず高く聳える塔のようにも見えた。

 まだ止まれない。あの中にノゾムが居る。

 斧を持ち上げ、振り下ろす。上下する胸を宥める。

 腰から上全てを使ってスイングする。折れそうな膝を叱咤する。

 振り戻して風を巻きつけ、思い切り叩き付ける。全身が上げる悲鳴を無視する。

 ショットガンのトリガーを引き絞る。指の震えを捻じ伏せる。

 明らかに動きが悪くなりながらもコックローチを仕留め続けるアルだが、行く手にはうじゃうじゃと、土手の上の道にひし

めく黒い虫の姿。

 殲滅速度は相当な物なのだが、辿り着くまでスタミナと体が保たない。

(行かなきゃ…、いけないんス…!)

 ぜひっ、ぜひっ、と気管から異音を零し、なおも前進し続けていたアルは、ピタリと、異常を察して足を止めた。

 コックローチが二体、墜落してきた。片やうつ伏せに、片や転がって仰向けになった二体は、翅も広げたままビクビクと痙

攣していたが、すぐさま動かなくなった。

 その、頭部と胸部の継ぎ目には深い刺し傷があり、ただ一刺しで神経節を正確に破壊している。

(何スかこれ…?えっ!?)

 素早く目を動かしたアルは、右から左へ夜風のように駆け抜けた影に、かろうじて気付く。

 あまりに速く、あまりに暗く、その影は一度アルの視界から逃れた。

 上方から落下しつつ宙で二体仕留め、着地から即座に逆方向へ駆け抜けた影が移動した後には、正確に、無慈悲に、急所を

刺し貫かれて絶命したコックローチが残される。

 風切り音が鳴り、細い何かが鋭く伸びる。それをアルがワイヤーだと認識した時には、絡め取られたコックローチは、それ

を巻き取って一気に跳ね飛んで来た影に頭部と胴の継ぎ目を深々と斬られている。接触した影はワイヤーを解きつつ、コック

ローチが落下する前にその体を踏み台にして跳躍し、次の獲物に襲い掛かっている。

 ただの一匹にも例外は無く、平等に、速やかに、無慈悲に狩る。影はトンと跳躍し、宙のコックローチを立て続けに刺し殺

し、それを踏み台にしながら空中をジグザグに移動し、街灯の上に着地した。

 そのタイミングで、アルはその姿をようやく視界中央に据えた。

 それは、小さな影だった。

 その周辺だけ夜闇が濃くなったかのように暗く、顔までは判らない。ソレが闇を引き連れてきたように、周辺の灯が弱まっ

ているようにも見える。

 身構える肉食獣のように体を丸め、街路灯の上に蹲るソレと、一瞬視線があったとアルは感じた。

 ブワリと全身の毛が逆立った。禍々しく、猛々しく、刺々しく、寒々しく、毒々しく、重苦しい気配に肌が粟立つ。

 ソレは「良くないモノ」だと直感した。危うい何かだと解った。なのに…。

 一時静止しながら、影はその若い白熊を見下ろしていた。

 困惑を湛える赤い瞳。乱れた息で上下する肩。武装しているが今のところは排除対象ではない。

 狭められた思考の中で簡素な判別を済ませ…、

(…あ…)

 ミオは一瞬だけ、本来の思考を取り戻す。

 自分を見上げている、若いながらも大きく、肥っていて、白い熊。その姿を眺めながら呼吸を整えると、アメリカンショー

トヘアーは再び跳んだ。

 コックローチの群れの只中へ飛び込んでゆく影を、とりあえず敵ではないと認識して、アルは見送る。

 夜の狩人。

 出し抜けにそんな単語が頭を過ぎった。

 そしてこの時に見た、「良くないモノ」と認識した危うい状態…暴走しかけているミオのオーバードライブ、ブラックアウ

トは、アルの胸に強烈な印象を残して焼き付けられた。

(と、とにかく!ちゃーんス!)

 確認可能な脅威を通り越した異常…命を狩る黒い風の乱入と通過で、コックローチ達も混乱を来たした。根源的な恐怖を与

え得る「淘汰する側の存在」に、生物としての本能が無反応ではいられなかった。

 頭が冷えたアルは、横っ飛びに土手の斜面へ身を投げ出す。

 もはやコックローチ達も滅茶苦茶な動きをしている中、ロックオンが外れたのを良い事に坂を転げ落ちつつポケットに手を

突っ込み、キャラメルをありったけ掴み出すと、頬張るなり噛み砕いて咀嚼する。

 そして斜面の下で足を踏ん張り中腰で停止し、そこにあったモノ…、先ほど自分が大斧で殴り飛ばしたコックローチの、ひ

しゃげた死骸に視線を注ぐ。

(セクハラはかえられない、ってヤツっスね…)

 顔を顰めながら死骸に手を伸ばすアルの双眸が、赤々と発光を強めた。



 数分後、息を吹き返しての全力吶喊でコックローチ達を薙ぎ払って突き進んだアルは、あの狩人が通過した後のコックロー

チの潰走にも助けられ、ようやく目的の川原まで辿り着いた。

 キャンプ場へ踊りこんだアルは…、

「ノゾムーッ!」

 叫び、そして気付いた。

「…みんな…!」

 ブルーティッシュの隊員達が円陣を組んでいる。その中心に据えられて保護されているのは、へたり込んでいる狐の少年。

「アル君…」

 疲れた様子のノゾムは、痛みがぶり返していた足首に簡易処置を受けていた。酷い汚れ具合でボロボロだったが、大丈夫だ

というように、アルに大きく頷いて見せる。

 そして、円陣を組んで防衛に徹するメンバー達の周囲では…。

「ネネさんまで!」

 精鋭揃いの闘舞台で動きが一段違っているのは、ブルーティッシュのサブリーダー。つまり「国内で二番目に強い調停者」。

 袖の無い、両腕が肩まで露出している薄手のウェアとベスト。しなやかな両脚のラインが強調される体にフィットしたズボ

ン。腰の後ろには二本の鞘が並行に固定されている。

 くのいちを思わせる軽装の闇装束に身を包んだ灰色の猫は、小刀二振りを手に舞い踊るような動きを見せ、一振りごとに確

実に急所を刺し、一呼吸ごとにコックローチを仕留めてゆく。
主力装備は小刀であっても、得物のリーチの短さは全く問題に

なっていない。本人が疾風のように間合いを詰めて一撃必殺を繰り返しながら移動している上に…、

「せいっ!」

 細身の体がどうやってそんな力を発揮するのか、モーションまで美しい空手の中段蹴りで、コックローチが砲弾のように蹴

り飛ばされて仲間に当たり、諸共に体の一部を潰されて絶命する。

 さらに、二本の小刀を背中に突き刺しつつ飛び越え、その反動を利用して背負い投げれば、カタパルトで打ち上げられたか

の如く放られたコックローチが、宙を舞っている仲間へ次々激突し、地面に叩き落してゆく。

 飛び道具が無いなら現地調達、という範疇を通り越した…もとい、既に趣旨が違っている戦闘方法である。

 アルから見てもかなりデタラメな戦闘能力を遺憾なく発揮しているネネは、

「アル!加わりなさい!」

 凛と響く声で命じ、「うっス!」と応じて北極熊も殲滅に加わった。

 育ての母と背を合わせ、呼吸を合わせ、アルは果敢に得物と力を奮う。去年は足手纏いだった。半年前は追いつけなかった。

だが、今はその背を預かれる。

「もうじきアンドウ君とエイルが来るわ。それまで持ちこたえれば…」

 ネネの言葉が終わらぬうちに、コックローチを轢き殺しながら来たのか、あちこちボコボコにへこんだトラックが激しいブ

レーキ音を響かせて土手上に到着した。

 荷台が翼のように開き、そこにずらりと並んだ銃火器類が鈍く銃口を光らせる。

 可動式固定具で埋め尽くされた荷台の中央には、腕組みして立つふっくらしたレッサーパンダの姿。

「不覚にも重要参考人を取り逃してしまった失敗は、ここで挽回させて頂くであります」

 トリガーハッピーが発動され、耳がおかしくなるような連続銃撃音を耳栓で防ぎながら、運転席から躍り出たアンドウは両

小脇に挟んだサブマシンガンを連射、固定砲台となったエイルを防衛し、近付くコックローチに優先順位を設定して正確に打

ち落としてゆく。そして…。

「サブリーダー!「ヴァリスタ」積んで来ました!調整終了ホヤホヤです!」

「…結構!」

 不敵に笑ったネネはアルに囁く。

「行きなさいアル。試運転には丁度いいでしょう」

「うっス!」

 トラックめがけて走り出したアルは、荷台の上、エイルが立つその横に寝かせられている、およそ武器とは思えない外見の

金属塊を認める。

 それは、掃除ロッカーとアルが表現する、四角柱の塊。

 ブルーティッシュ製の擬似レリックウェポン、「集積型複合兵装ヴァリスタ」。全長223センチ、総重量102.5キロ。

表面に凹凸の無い正四角柱と思われたソレは、アルの手が近付いた途端に思念波パターンを感知、継ぎ目すら見えなかった表

面が長方形にスライドして穴を見せ、そこから取っ手がせり上がり、側面では丸く陥没する形に穴が空いて、円形の穴の内側

に横棒が延びて握りとなる。

 上と側面の握りを掴んで引き起こしたアルは、四角柱を脇に抱えると、

「任したぞアル!」

「任されたっス!」

 アンドウの声に応え、抱えた兵器を宙に向ける。

 直後、前後も判らないシンプルな四角柱の前面…天板か底にあたる部位に、

「モード、「雷音破」っス!」

 アルの声に答えるように、ジャコンと音を立てて黒々とした穴が四つ出現し、内側を発光させ始めた。

 そして、僅かな時間差で立て続けに、ギギギギンッと硬質な音を上げて光弾が射出される。

 高密度エネルギー塊の砲弾は、闇夜を引き裂き黒虫を穿ち、高熱と衝撃で進路上の群れに風穴を空け、200メートルほど

飛翔する内に輪郭を崩壊させてゆき、最終的には光の粒子となって夜空に溶け消える。

 アルビオン・オールグッドが扱う事を前提に作られたそれは、オーラコートシェイプシステム…つまり擬似エナジーコート

展開、放出機構を搭載した兵器である。オーラコートシェイプシステム自体はブルーティッシュ本部などにも設置されており、

非常時には全体をフィールドで覆って防御する最終防衛設備なのだが、その一式は十人乗りワゴン一台ほどのサイズ。これを

長年の研究の末に縮小して出来上がった、人類史上初の個人携行型ACSS搭載武装…それがブルーティッシュ製擬似レリッ

クウェポン、ヴァリスタ。

 ライトクリスタルの浮遊機能を応用した重量緩和システムを備え、その驚異的な出力を支える特殊な動力炉を搭載しており、

奥羽の闘神、神代勇羆の協力を得て、その操光術を元に各種出力動作用プログラムが組まれている。

 その最大の特徴は「無限に等しい稼働時間」。使用者に強いるのは持ち運びと取扱いに伴う体力のみで、各種機能に使用さ

れる動力はヴァリスタ単体で完全に賄っている。

 ただし、弾切れは無いが…。

「ギャース!?一発撃っただけで赤表示が三箇所に出たっス!」

 抱えた四角柱の上面、丁度アルから見やすい位置に展開された立体映像のモニターが、射撃に際して本体数箇所に物理的不

具合が生じた事を知らせてきた。

「やっぱ神代の御当主の出力そのまま真似んのは無理があんだっつーの!バカなの!?バカなの!?」

「どうして出力をセーブするなどの対策をとられないのでありましょうか?理解に苦しむであります」

「ユウヒさんの三割ぐらいに抑えてるって聞いてるっス!だいたいオレが設定してるわけじゃないっス!ちょっ、もうちょい

頑張れヴァリスタ!」

 この武装の調整が難航しているのは、強烈なフィードバックがヴァリスタ内部の機器類に尋常ではない負荷をもたらし、頻

繁に不具合が発生するせいである。

 早くも再調整と修理が決まったヴァリスタで、アルは機能停止にびくびくしながら対空射撃を敢行し続ける。

 一方ネネは余裕が出来たと見て、体の両脇で小刀をシュピンと小さく鋭く振り、付着していたコックローチの体液を跳ね落

とす。よく見てみれば、二本の小刀の刃には無数の細かな刃毀れが生じているのだが、それがジワジワと修復されており、見

る間に鋭さが戻ってゆく。

 自己修復中の夫婦刀を腰後ろの鞘におさめると、ネネは足早に円陣の中心へ向かい、衛生兵の手当てを受けていたノゾムの

傍らで膝をついた。

「ご苦労様。…それで…」

 もう死体に戻っている女性の亡骸をチラリと見遣ったネネは、

「サラマンダーは…」

「は、はい…。説得は…、失敗しました…」

 女性の亡骸を見遣って無念さを滲ませるノゾムだったが、

(それはどうかしら…?)

 ネネは疑問を感じている。サラマンダーの気配は無い。だが、「ノゾムの気配」が僅かに変質している。それに先ほど確か

に、一瞬だけだったが…。

(もしかして…、もしかすると…)

 軽く頭を振り、一度その思考と疑念を振り切ったネネは、意外と早く動かなくなってしまったヴァリスタを青ざめた顔でバ

シバシ叩いているアルを遠く望んだ。

「ところで、ここへ一番早く助けに入ったのは誰だったかしら?」

 アルではない。先ほどアルだと認識したノゾムの元へ駆けつけた反応は、本人の物ではない。アルは今しがた到着したばか

りで、ネネが来た時に居たのは他の隊員数名だけだった。

「あの、別のチームの調停者だったみたいです。昨日助けて貰った猪の三浦さんの仲間だって…。ブルーティッシュの皆さん

が援護に来たら、いつのまにか姿が見えなくなってましたけど…」

「…なるほど」

 疑問が解けたネネは、しかし不思議がった。

(一体どんな能力かしら?思念波パターンを他人の物に似せられるの?そもそもアルを知っていて、思念波を似せていたのか

しら?…いえ、その後判別できなくなった事を考えると、単純にパターンを似せて成り済ます能力とも言い難いような…)

 正直助けられたと思う。興味深いし気にもなる。しかし今は…。

「世界は広いわね…」

 刃の修復が終わった小刀を抜いて、ネネは再び戦闘に加わった。



「ラド!5キロ減速!」

「了解ですー!…うひー!近い近い近いー!」

 悲鳴に近い返事をしたラドがアクセルを緩めると、併走するコックローチの翅が運転席の窓を叩いた。

 レンタカーの天井にはどっかと尻を据えた猪。取り付けた専用ベースキャリアからベルトを伸ばして体を縛り、固定砲台と

なったミューラーは、

「ええい鬱陶しい!」

 シールド付き対戦車砲…パンツァーシュレックを担ぎ上げ、舞い飛ぶコックローチの群れの中に特殊弾頭を撃ちこむ。発射

直前まで射手による起爆タイミング設定を受け付けている弾頭は目標距離を飛翔した後、ドバウッと音を響かせて爆散、コッ

クローチ達を焼き払う。

 ラドがレンタカーを走らせているのは橋の上。爆風によって周囲に被害が出ないよう最小限の注意を払うミューラーは、派

手な爆発と音でコックローチ達を脅かしつつ引き寄せる。

「右折だ!思いっきり切れ!」

「了解ーっ!…酔いそう…!」

 けたたましいスリップ音を響かせて、橋を渡り切るなり急激に進路変更をしたレンタカーの上で、ミューラーは右肩に担い

だパンツァーシュレックをそのままに、併走する格好で飛翔し、追いすがろうとするコックローチ二体へ左腕を向けた。

 握っているのは、握り柄の先端にそのまま弾頭がくっついたような、使い捨てのロケット弾簡易発射装置…パンツァーファ

ウスト。

 右折した車に追いつき損ねたコックローチと、間合いが開いたその直後、放たれたパンツァーファウストが先頭の一匹に命

中し、後続の三匹まで巻き込んで爆殺する。さらに…。

「グーテナハト!(永久に眠れ!)」

 真後ろから車に追いついてきたコックローチへ、猪は上体を大きく捻って振り返りつつ、パンツァーシュレックのゴツい砲

身を叩き付け、豪快に撃墜。

(近年数度の大規模テロ騒ぎと市街戦を通して、緊急時対処のマニュアルや体制がしっかりしとるとは聞いたが…、これほど

とは恐れ入る!)

 パンツァーファウストの使用済み発射筒を傍らのボックスに放り込み、パンツァーシュレックに砲弾を再装填しつつミュー

ラーは唸らされる。ブルーティッシュの無茶な作戦も大した物だが、ギリギリの時刻からの避難誘導と閉鎖を任された監査官

の仕事も見事。最初こそ残っているかもしれない民間人を意識していたナハトイェーガーだが、市民の排除は完璧と判断し、

人目を気にせず大立ち回りを演じている。

 さらに二匹、おまけに二匹、駄目押しで三匹。景気良く砲撃して次々撃墜数を稼いでゆくミューラーは、装填が必要になっ

たタイミングでチョッキに吊るしていた卵形の手投げ弾を掴み、キャップを咥えて紐ごと食い千切るように引き抜くと、三つ

数えて投擲。破片を撒かず爆発力のみで対象を殺傷するよう調整された改造型M39が、コックローチを三匹纏めて爆殺する。

 なるべく建物を壊さないよう注意してはいるが、届いた重火器類を温存する必要もないので、今夜は大盤振る舞いである。

「よし!ラド、少尉殿の回収地点は…」

 言いかけたミューラーの横手で、ガッと屋根の縁に手が掛かった。

 食い縛った歯の隙間からフゥフゥと荒い息を漏らし、自らの体を屋根の上へ引っ張り上げ、血走った目で素早く周囲を見回

したのは…。

「少尉!」

「え!?今の揺れ少尉なんですー!?」

 闇夜の中でなお暗い、闇を纏った猫の青年。

 オーバードライブ、ブラックアウト。ミオに絶大な戦闘能力を与えるこの切り札は、しかし未完成で、使用中は精神が獣性

に蝕まれてゆく副作用がある。普段穏やかなミオも使用中は豹変して高圧的かつ攻撃的になり、獰猛で無慈悲な狩人と化す。

今もなお、ミューラーとラドの安否を確認するなり次の標的を選びにかかっており、合流する取り決めをした事も、離脱の算

段をつける事も、既に意識の彼方に押し遣ってしまっている。

「少尉殿!」

 ミューラーは大声で吠える事で獣と化したミオの注意を引くと、屋根に取り付くその手を掴み、力任せに引き寄せた。

 反射的に牙を剥き出しにしたミオは、ボフッと、肉厚な猪に抱えられる格好になり、

「大丈夫です!大丈夫ですぞ!敵は既に潰走中です!もう後追いする必要もございません!」

 耳元に大声でそう語りかけられると、抵抗しかけていたその体から僅かに力が抜ける。

「うっ!」

 呻いたミオの体をミューラーはしっかり抑える。アメリカンショートヘアーの背中には、猪が握った筒が押し付けられてい

た。手の平に収まるサイズのそれは、保護用の筒型プラスチックガードに覆われている注射器。ミオの暴走対策に準備してあ

る鎮静剤投与器具の一つである。最悪の場合は捕獲用の銃器類を使う事になるのだが、ミューラーもラドも上官に銃口を向け

る事は心情的にも極力避けたい。

「問題ございません!もう大丈夫ですとも!」

 宥めて冷静さを取り戻させながら、しかしミオの背中を撫で擦るミューラーの手つきは…、有り体に言って若干嫌らしい。

ついでに尻まで撫でている。

「…特曹…。軍曹も、無事ですね?」

 理性と冷静な思考を取り戻したミオの声を聞き、ミューラーは「失礼しました」と、そっと身を離す。

「済みません。熱くなり過ぎていました」

 困ったような顔を見せたミオは、揺れる車上で体を安定させようと体勢を変え、激痛に呻いた。

 ミオの華奢な体はオーバードライブの負荷に長時間耐える事ができない。既に運動限界を超えており、筋肉も関節も動くた

びに軋む。

「ご安心を、あとはワシらに任せて頂ければ!」

 ドンと胸を叩くミューラーは、なかなか合流できない助っ人の事を考える。

「あとはブルーノだけですな。上手く離脱できとると良いのですが…」

「俺がどうしたオッサン?」

 声と同時にダゴンッと、レンタカーの後部が大きく沈んだ。

 自走で後方から車に追いつきつつ路肩の自動販売機を足掛かりにし、フレームがある頑丈な部位を選んで飛び乗ってきたの

は、ずんぐりごつくて真ん丸いマヌル猫。

「ブルーノ曹長!」

「おおブルーノ!」

「えー?ブルーノさんなんですー!?見えないところで振動だけ来るからー、いちいちビクビク物なんですけどー!?」

 ブルーティッシュのメンバーがノゾムの保護のために駆けつけたどさくさに紛れ、ブルーノはその能力を活かして紛れ込み、

誰にも見咎められる事なく離脱した上で第一分隊と合流していた。

「報告通りサラマンダーはダメだった。上への報告じゃあ消滅って事になんだろうな。が、オッサンが気にしてた太ったワン

コは無事だ。お仲間連中が駆け付けるまでは護衛してやったぜ?」

「そ、そうか!…残念だったが、サラマンダーが大暴れせんだけでも良しとするべきだろう…」

「にしても、発火能力ぅ?そんな括りかよありゃあ?たまげたぜオイ」

「む?あの子の能力がどうかし…」

 ミューラーが訊き返そうとした途端、顔にも煤が派手に付着しているマヌル猫は、ブシュンッとくしゃみをして鼻を啜り上

げる。

 ノゾムの発火能力の精度に驚いたのだろうと解釈したミューラーは、「酷い格好だが、何があった?」と質問を変えて、ブ

ルーノは分かり易い渋面で煤にまみれた体を叩いて埃を払う。

「いろいろあったぜマジでよぉ…。けどまぁドンピシャで合流できたんだ、OKって事にするぜ。あとは離脱だな?」

 マヌル猫はニヤリと笑い、それから口数の少ない…というよりも少々トロンとしているミオの顔を見て、訝るような表情に

なった。

「…まさか、ミオちゃん…」

「ええ、ちょっと無茶しちゃったかも、というところで…」

 体中ビッキビキでもう動けない、苦笑いを浮かべているミオを見つめて…、

(イズン中尉に知られたら「残念だ…」案件じゃねぇかっ!)

 据わった眼でじっと見つめて責めて来るジャイアントパンダの顔が頭を過ぎり、ブルーノは盛大に顔を引き攣らせた。



 一方その頃…。

「少しかかったが、こっちは片付いた。合流するぜ」

 濡れそぼった黒い街の一角で、白虎はブンと黒剣を一振りする。

 トラップとして利用された区域は、建物も路面も、その殆どが原型を留めぬほどに粉砕された死骸と体液で濡れて汚れて異

臭を放っていた。

 この戦力であるが故に、ダウド独りとそれ以外という乱暴な分け方が、ブルーティッシュ内では「戦力二分」という扱いに

なっている。が…。

「おう、もう良いぜ?」

 今回は結果的に独りではなくなった。白虎が目を向けた先に、影が一つ立っている。

「然らば、失礼して…」

 グローブに灯る赤光を消して、マーナはタバコを咥えた。そこへ歩み寄ったダウドが、参謀の形見のジッポライターで火を

差し入れる。

 自壊抑制剤を吸入して戦闘後の一服をつけたマーナは、周囲を見回して眉根を寄せた。

「よりによってこの姿のインセクトが量産されるとは…。シノが怒り出しそうな生産体制にござる」

「ああ、アイツもゴキブリが大嫌いだったっけな」

「殺しますが」

「だろうよ」

 作戦開始直前になって監査官の別働準備を察知し、ダウド単騎での迎撃戦と本隊による本命の両面作戦となる事を察知した

ユミルは、本人の希望通り、白虎の手伝いができる方へマーナを向かわせていた。国内最強の調停者と、瞬間的にとはいえダ

ウドや神将に並び立てるだけの力を持つマーナのコンビである。コックローチの大群は散開も逃亡も許されず、一匹残らず殲

滅されている。

 こちらで仕留められたコックローチの数は河川敷近辺と同等。つまりたったふたりの仕事の結果が、残るブルーティッシュ

メンバー全員の仕事と同等という事になる。

「…さて、もう一仕事だ!」

 強風が吹き上がる。舞い上がったのは、巨剣をサーフボード替わりにして舞い上がった白虎。

「後でユミルに連絡を入れる!後片付けが終わったら、久々に一杯つきあえ!」

 飛び去るダウドがニヤリと笑って言い残すと、マーナは尻尾をフサフサ振りつつ頷いて、その後ろ姿に向かって力強く拳を

突き上げる。

「ご武運を!」

 殲滅戦は、いよいよ終盤に差し掛かろうとしていた。