Magus
岩場に寄せる波の音が心地良く耳をくすぐり、風が肌に気持ちよい、よく晴れた日の午前。
無人島の岩には係留されたゴムボート。生い茂る草を分けて進む勾配も緩い道。降り注ぐ太陽は椰子の影が和らげる。
絶好の散歩日和。そのさしてきつくもない、緩い坂道を…、
「ひぃ…!ふぅ…!ひぃ…!」
でっぷり肥えた虎は不恰好に腰を突き出し、顎を上げ、息を乱しながら登って行く。セントバーナードの巨漢に背中を押さ
れながら。
リスキーからの協力要請に、二日酔いをおして参戦したヤンだったが、意気込みはともかく完全にお荷物になっている。
「見晴らしが良い場所に着いたら待機して、見張りをお願いします」
先頭のリスキーはやんわり告げる。邪魔になるから休んでいてくれと言っては角が立つしヤンも意地になるので、適当な役
所を与えて休憩させる作戦である。
今日は、ONCが放ち、そして集団失踪したフレンドビーの捜索が目的。だいたいのエリアはONCの正規捜索隊が探して
いるので、リスキーは島の近くの無人島などを中心に探索する。カムタ達はその手伝いで同行しているのだが…。
(この籠、どう使うんだ?)
カムタは背負った籠を振り返る。捕まえてこれに入れる、と説明されているのだが…。
(どうやって捕まえんだろ?)
息も絶え絶えのヤンを無人島の高台に残し、リスキーは長年の勘を頼りに一行を先導する。
危険が少ない危険生物、と軽くロジックエラーを起こしそうな説明は受けていたが、ヤンをひとりにして良かったのか?と、
若干困惑するカムタ。だが、安全性についての疑問は数分後に氷解した。
「…居ました」
アジア系の青年が手を横に伸ばし、続くカムタを制止した。
「え?居んのか?」
眉根を寄せるカムタ。その後ろから前を覗くルディオは、瞳の色が変わっていない。
(リスキーもテープ出してねぇし…、本当に居んのか?)
繁茂する草の向こうに目を凝らすカムタは、まず目の高さで探り、次いで視線を下げた。
「………アレ?」
少年が眉根を寄せる。「アレです」と述べてリスキーがため息混じりにツカツカと出てゆく。
振り返るカムタと見下ろしたルディオが一度目を合わせ、改めて前を向き、リスキーに続く。
そこに、「彼ら」は居た。
「………」
足元を見下ろすカムタ。カナデからいろいろ学んだのに言葉が全く出てこなかった。
メロン大のクマバチが、のそのそと日陰を求めて地面を這っている。
屈み込み、妙に動きが鈍いその蜂をじっと見つめていたカムタは、ぷっくりした指で困惑気味に指し示しながらリスキーを
振り返った。
「…捕獲対象って、こいつら?」
「そうです!フレンドビーという種ですが…」
暑過ぎてやる気が出ないのか、地面に伏せたままブブブブッと翅を鳴らしているフレンドビー達を、猫の子でも捕まえるか
のように首のところで掴んで拾い上げ、背負った籠に次々と放り込んでゆくリスキー。配られた背負い籠の用途をやっと理解
するカムタとルディオ。フレンドビー達が無抵抗なので、野菜か何かを収穫しているようなシュール過ぎる絵面である。
「リスキー、何かすげぇ簡単に捕まえてるけど、こいつら刺さねぇのか?蜂なのに?」
「まず刺しませんよ。基本的には攻撃命令が無ければひとに危害を加えません。そういう生物兵器なんです。…いや兵器に分
類すべきかどうか悩ましい生物なんですが…、こんな性質はどこの組織でも再現できていません。これをデザインした科学者、
誰だか判らないらしいですがとんでもない天才ですよ…」
「害がねぇなら放っておいても良いんじゃねぇのか?大人しいみてぇだけど…」
カムタの意見にウンウン頷くルディオは、足元まで匍匐前進してきたフレンドビーの一匹を、子犬でも抱き上げるように両
手で捕まえ、顔の高さに上げてその複眼を覗き込む。放して~、とでも言いたげにモゾモゾ体を揺するフレンドビーだが、抵
抗はそれだけだった。
「そうは行きませんよ。ひとに危害を加えないとはいえ、立派な外来種です。生態系が崩れてしまいます」
「外来種…」
リスキーの言葉の何かが引っかかった様子で、数秒考え込んだルディオは…。
「外来種?」
自分の顔を指さしたセントバーナードに、「かも?」と真面目に頷くカムタ。
「そうかぁ。おれと一緒かぁ」
「ある意味で、ですよ!?変な共感をしないでちゃんと捕まえてくださいよ!?」
フレンドビーを木の幹にソッとくっつけようとするルディオを見咎めて制止するリスキー。正直なところとても面倒臭い追
加労働…本来しなくていい仕事である。皆に手伝わせるのも申し訳ないリスキーは、さっさと済ませてしまいたい。しかし…。
(だいぶ楽になってきた…)
椰子の木に寄りかかって腰を下ろしていたヤンは、水筒を煽り、口の端から漏れた水をグイッと腕で拭うと、改めて視線を
水平に走らせる。
9千平方メートルも無い、平らに近い小さな無人島である。この最も高い丘の天辺から見渡せば四方に海が見える。視界を
遮るのは草木ばかり、来た方向を振り返れば、ボートを停めた磯の附近まで確認できる。
明け方までテシーと宅飲みしていたヤンだが、たっぷり汗をかいてアルコールも抜けてきた。胃の調子も落ち着いて、気分
もだいぶ良くなっている。
フレンドビーは特に目的も無い時は、コミュニケーションでもしているのか無意味に集まって過ごす習性がある。ONCの
捜索隊が出向いていない場所で、かつ彼らが潜みそうな場所、とリスキーが目星をつけたのがこの島。出来る男である事は疑
いようもないので、ヤンはその勘を信じている。おそらくこの無人島にはフレンドビーが居るだろう。もし居ないとしても、
近くの島に…。
「…ん?」
水平線を見渡していたヤンは、遠い島影に目を止めた。
チカッと光ったように思えた次の瞬間、鼓膜と肌が同時に震える。
一瞬遠雷かと思った。遠くで雷が落ちたのかと。だが、感じた音も振動も雷による空の震えとは明らかに違う。
慣れない現象に、立ち上がりながら一瞬戸惑ったヤンは…。
(爆発…!?)
すぐさま通信機を取り出し、リスキーをコールした。
「生存者ゼロ。これより焼却作業を開始する」
戦闘服に身を包んだ男は、焦げ付いた地面が露出し、草木がなぎ倒された爆心地を前に、淡々と口元のマイクに告げた。
周辺には焼け焦げた残骸が無数に散らばっているが、それを一目で人体の一部と判別するのは難しい。転がっているのはひ
との死体だけではない。メロン大のクマバチもまた無数に転がっている。
ONCの武装した捜索隊七名と、フレンドビー十二匹。邂逅から十八秒での全滅。
タンパク質が焼けた異臭が漂う中、脚を三本失い、翅も失ったフレンドビーが、ヨタヨタと地面を這う。一瞥した男がスッ
と右手を掲げると、微かな風切り音に続いてバヅンと異音が響き、フレンドビーが縦に二分される。
男は掲げた右手に持つ石版を腰のホルスターに戻すと、左手でもう一枚の石版を掲げ、指揮でもするようにスッスッと宙で
振る。その動作に誘われるように、メラッと大地が燃え上がった。
大気中の可燃物質に干渉し、低い位置に集めて着火する術式。発火能力者の物に近いメカニズムによる現象を引き起こした
術士の男は、焼却時間と燃焼範囲を設定した術を残して立ち去る。
そうして一帯は、腰の高さまでの、燃え広がることのない炎で焼き払われた。惨劇の痕跡を残す事なく。
「嫌な予感しかしません」
籠に入れられてウゴウゴもがくフレンドビーを背負ったまま、リスキーは先頭を駆ける。続くのはカムタ、次いでヤン、最
後尾はルディオ。
ヤンから知らせを受けた瞬間に青年は察していた。他の組織と戦闘が行なわれたのだと。
通信網を確認したところ、どうやら一部隊との連絡が途絶しているらしい。もうじき調査確認のためにONCの別働隊が来
る。戦闘は拡大する可能性を孕んでいた。
ボートに籠を積み、シートを被せて隠し、エンジンに火を入れる。迅速に立ち去る必要がある。このままでは、カムタ達を
「組織の抗争」に巻き込みかねない。
「リスキーは行かなくていいのか?」
カムタの問いに、「まずは離脱が先決です」と青年は応じた。
「「荷物」があっては動き難いので、ひとまず先生のところに降ろしてから向かいます」
「オラ達は?」
「坊ちゃん達はそのまま島に居てください。これはヴィジランテの仕事ではありません。あくまでもONCの…」
離岸したボートの上でリスキーは言葉を切った。
水平線に船が見える。
漁船…ではないと暗殺者の直感が告げる。
「…逃げます!坊ちゃん、舵を!」
操船技術ならばカムタが上、舵を預けて双眼鏡を取ったリスキーに、ヤンが小声で訊ねた。
「お仲間か?」
「だったらまだマシなんですが…、伏せろっ!」
ヤンの首の後ろにリスキーの手がかかり、押し倒す。
ルディオが覆い被さる格好でカムタも伏せる。
間髪入れず、ボヂュヂュンッと、周囲の水面で水柱が立った。
さらに少し離れた所では海面がヂュウッと沸騰したように音を立ててへこみ、一気に気化していた。
「う、撃って来たのか!?」
悲鳴に近い声を上げるヤン。しかし…。
(銃撃!…いや違う、この違和感は…!)
リスキーはその戦闘経験から、今の攻撃に合致する現象を導き出す。
圧縮した空気の高速射出。
真空球による砲撃。
(複数の作用!術士の攻撃か!)
双眼鏡で確認できた相手の船は、観光や釣りにも使われる小型クルーザー。遠浅の島につけるためにリスキーが用意した内
海専用のボートでは、足の差で追いつかれる。
「島を回って向こうに行く!底がある船じゃ通れねぇ岩礁地帯越えてけば、このボートでも逃げ切れる!」
状況を把握したらしいカムタの提案は頼もしいが、リスキーは歯噛みした。相手はこちらを殺す気でやってくる。距離を取っ
ても攻撃して来るだろう。
(いっそ上陸して戦闘を試みるべきか?)
島におびき寄せ、地上で戦闘する。そんな案を検討し始めたリスキーは…、
「アンチャン!?」
カムタの声でハッとした。
セントバーナードがボートの後部に仁王立ちしていた。
琥珀の瞳で遠い船影を見据え、獣は胸の前で掌を向かい合わせにする。
チリチリと肌がくすぐられる。しかしその微弱な振動は、弱々しさとは裏腹にリスキーの肌を粟立たせた。
ヴァ…。
ボートの周辺で海面が白く変じる。振動になぶられて細波が生じていた。直後、周辺に数回着弾の水柱が上がり、向き合わ
せていた両手を離した獣は大きく上体を捻る。
その右手は、何かを掴んでいるように五指を広げていた。丁度、掌にあまるサイズのボールでも持っているかのように。
「っ!」
カムタが、ヤンが、リスキーが、揃って耳を塞ぐ。
ガウンッ、と鉄塊同士が衝突したような音を響かせ、力任せに壁を殴りつけるような動作で獣が右腕を振り抜いていた。豪
風がカムタの褐色の肌を叩き、蓬髪が、ベストが、激しくバサバサと煽られた。毛が逆立って太くなったヤンの尻尾が、突風
で千切れんばかりに激しく振られた。ボートが激しく揺れる周囲では、そこにだけ嵐が訪れたように高波が生じ、白い波頭が
暴れ回る。
そして約九秒後。水平線近くに見えていた船影の一部が、木っ端微塵に弾け飛んだ。
沈んではいないが航行不能になったようで、敵船は攻撃を停止した。沈黙した敵船の方向を呆然と眺めるリスキーの頬を、
冷や汗が伝い落ちる。
(まさか…、ウールヴヘジンは術士の砲撃を「打ち返した」のか!?)
獣が用いるのは、大気への干渉や、振動波、あるいは衝撃波に関する能力だとリスキーは推測している。いま受けていた攻
撃は大気を操作して武器にする術の一種。確かに質が近い現象ではあるが、跳ね返すなどという力技も、それで三キロ以上離
れている船舶を狙い撃つ精密性も、リスキーですら聞いた事がない。ともかく…。
「攻撃が止みました!逃げます!」
ハッと我に返ったカムタが舵を切る。その横で腰を沈めた時には、セントバーナードの瞳はトルマリン色に戻っていた。ヤ
ンは気が気でない様子だが、攻撃が来ないか耳を立てて気配を窺っている。
(エルダーバスティオン…か。「縄張り」外でこんな乱暴な、いきなり吹っかけるような仕掛け方をする連中などそうそう居
ない…!)
双眼鏡で敵船に動きがない事を確認しつつ、リスキーは露骨に顔を顰める。その頬を、舳先が弾いた潮水が濡らしていた。
リスキーがホテルを取っている島にボートをつけ、フレンドビー達ごと隠した後で、一行は追っ手などに注意しつつ市場を
抜け、一度島の反対側まで経由してから港へ向かった。
「事後処理がありますので、皆さんは島へ帰っておいてください」
道中で周辺を警戒しつつ、リスキーは途中で別れると切り出して三名を送り出す。
ヤンは納得していない様子だったが、他の組織とONCの事はヴィジランテの仕事の外だと言われて引き下がった。
定期船に乗り、島へ戻りながら、カムタにも「どうなってんだろ?」と問われたものの、ヤンにも詳しい事情は判らない。
攻撃してきたのはリスキーの組織とは別の組織で、推測できるのは友好的な関係ではないらしいという事。
(前にリスキーが言っていた、好戦的な組織という連中だろうか…。もともとの仕事はもう一つで終わりだったというのに…)
船着場から遠ざかる船の上でため息をついたヤンは…、気付いていなかった。
桟橋脇の待合室でパンフレットを広げながら、若い女性二人連れが談笑している。
その手元が、周りからは見えない位置で端末を操作していた。
―ポイント209で確認された虎獣人の成人男性は、定期航路船で移動中。所定管轄に監視を引き継ぐ。オーバー―
「いらっしゃい先生!」
入り口の戸を抜け、夜闇の中からぬぅっと入ってきた客が肥満の医師だと認めるなり、パッと顔を輝かせるテシー。
「ああ、邪魔するよ」
微妙な半笑いを浮かべるヤン。目を真っ直ぐ見辛くて少し逸らした虎の様子を見て、テンターフィールドも思い出したのか、
照れ臭そうに目を伏せる。
「え、ええと…!昨日はどうも…!」
「いや、こちらこそ…、有り難う…」
少しギクシャクしながら言葉を交わし、カウンターに歩み寄ったヤンは持ち帰りで酒を注文する。
「ここで飲んで行きたいのは山々なんだが、調べ物があってね。そのお供なんだ」
「それならあまり強くないのが良いですね」
しっかりしたフレーバーなので薄めに割って飲んでも飲み応えがある酒だと、ウイスキーの小瓶を取り出すテシー。礼を言
うヤンは、受け取ろうと伸ばした手がテシーの指に触れると、ハッと顔を上げた。
二頭の視線が至近距離で交わる。
カウンターの上の小瓶。重なった手。ポッと顔が熱をもった。
「………」
目を伏せたテシーの指が、ヤンの太い指に絡む。
「………」
瓶を倒さないようにそっとずらした虎の手が、テンターフィールドの手を包み込む。
「…また今度…。そうだ、週末辺りにでも…、その…、どうかな?また一緒に…」
「え、ええ…!喜んで…!」
目を合わせないまま、恥かしさに表情を硬くしつつ約束を交わす二頭。
言葉は少なく、しかし重ねた手は確かに互いの想いを伝え合って…。
入り口を潜って夜へ踏み出し、ヤンはガシガシ頭を掻いた。どうにもスマートに行かないものだ、と。
(いや、今は浮ついている場合じゃない。リスキーから連絡があるかもしれない、今夜は持久戦だ)
そんな事を思いながら家路を急ぐヤンが、道の向こうへ姿を消した数分後…。
「いらっしゃいませ~」
戸を抜けてバーに入って来た客を見て、テンターフィールドの青年はグラスを拭う手を止めた。
「…「同行者」にブチ犬という特徴の男は居なかったはずだ」
ブラウンヘアーの若い男が呟き、一緒に入って来た二名も頷く。
テシーは言葉が出なくなっていた。客の格好がどうにも場違いだったので。彼らはまるで、映画で見た特殊部隊の隊員のよ
うな格好で…。
「だが無関係とも言い切れない。無力化して確保する」
リーダー格の男がそう指示するなり、右に控えていた男が飛んだ。文字通りに、宙を。
まるで映画のワイヤーアクションのように、浮き上がり、降下し、テシーの肩口に手を置き、腕を取り、その背後へ回り込
むように床を踏み…。
ゴギン…。
「ぎゃ…」
上げかけた悲鳴は、しかし猿轡でも噛まされたようにすぐさまくぐもって消えた。
背中へ捻りあげるように右腕を捻り、肩関節を外して抵抗できなくした男は、テシーの体を不可視のロープで縛り上げる。
それは自在に動く空気でできたロープとでも言うべきもの。テシーの悲鳴が遮ぎられたのも、これを噛まされたせいである。
押し倒されてカウンターへ突っ伏すテシー。その眼前に、直前まで自分が磨いていた、そして取り落としたはずのグラスが、
きちんと立てて置いてあった。
「聞きたい事がある」
カウンターに歩み寄りながらリーダー格の男が囁いた。残る一名はドアの所で外を見張っているが、例え見張りが居なくと
も、縛られている上に腕を極められ、肩を外されてしまったテシーは逃げられない。
「我々はひと探しをしている。その人物は先ほどまでここに居たそうだが…」
強盗なのか?それにしては回りくどい。レジはすぐそこ。目も向けていないぞ?人探し?一体誰を…。
激痛で脂汗を流しながら、混乱で思考がグルグル回るテシーは…。
「虎獣人で、肥満体の成人男性。心当たりはないか?」
一瞬、目を大きくした。その変化を男達は見逃さなかった。
「ビンゴだ。虎の確保失敗に備え、念のために連れて行くぞ」
「戻ったよ。ルディオさんの方はどうだカムタ君?」
カムタの家。リビングを覗いたヤンへ、料理本を読みながら独りでソファーに座っていた少年は「おかえり先生。アンチャ
ンはまだだ」と返事をした。
「昼間のアレ、もしかしたらすげぇ疲れる事だったのかもな?こんなの久しぶりだ」
島に帰ってくる船の中でもウトウトしていたが、ルディオは強い眠気に襲われ、戻るなり眠ってしまった。それから数時間、
起きる気配が全く無い。
「リスキーから連絡が入るまでは僕達も動きようもないからな、今はそっとしておこう」
ウイスキーの瓶をテーブルに置き、カムタと向き合う格好で腰を下ろしたヤンは、通信機に目を向ける。忙しいのか、リス
キーからの連絡は別れてから一度も入っていない。
「どうなるか判らないから、交代で休んでおくべきだろうな。カムタ君も普段の時間には眠っておいた方がいい。何もなけれ
ば朝は磯に出かけるだろう?通信機は僕が番をしておこう」
「うん。じゃあアンチャン起きねぇけど、飯の準備だけしとくかな?」
腰を上げたカムタは、ギシリと軋み音が聞こえて反射的に床を見下ろした。タイミングが重なったのでそんな動作を取って
いたが、すぐさま音の出所へ顔を向ける。
廊下に、獣が立っていた。琥珀の瞳を光らせて。
「あ。アンチャ…」
カムタの声が途切れる。一瞥してカムタとヤンの姿を確認するなり、獣は大股に玄関へ出てゆく。
「何か居るのか!?」
カムタと共に外へ出たヤンが見たのは、天を仰いだ獣がドンと地響きを立てて跳躍し、屋根の上へ跳び乗る姿。
見上げたふたりの視線の先で、痩せた月を背に立つ獣。
ヤンは息を飲んだ。屋根には先客が…、獣と相対している者が居た。黒ずんだ色彩の衣類に身を包んでいるので、容姿ははっ
きり確認できないが…。
突如、影が飛んだ。跳躍ではない、飛翔に近い動きだった。まるでミサイルか何かの推進装置を備えた飛翔物体のように、
影は夜に飛び込んで消える。
獣はグッと身を屈めると、それを追って屋根から跳び、同じく闇夜に姿を消した。
「追いかけよう!」
「うん!」
駆け出すヤンとカムタ。姿は見えなくなったが、飛翔した影も獣の行動も直線的である。スピードには追いつけないが、向
かう方向だけは判断できた。
見えないロープで縛り上げられたテシーが、船着場の船へ運び込まれる。
助けを求めようにも見えない何かで口を塞がれており、声が外へ響かない。見えないロープに縛られて引きずられていくテ
ンターフィールドを尻目に、リーダー格の男が傍の男に尋ねた。
「レイニーは?」
「追跡中ですが、撤収信号を送りました。すぐに戻るはずです」
バーから出たヤンの姿を追っているメンバーの状況をリーダーに問われ、若い男が応じた。
戦闘服姿の男達は5名。追跡と監視に当たっていた6人目のメンバーも、もうじき引き上げて来る。
「この島民が関係者ですか?」
「どうだかな。ただ、ONC構成員の疑いがある虎が立ち寄った店である事は確かだ。面識もあるらしい。話を聞かない訳に
はいかないな」
エルダーバスティオンは、最初に接触した海域からボートを監視していた。遠方から監視していたため、リスキーにも気付
かれなかったものの、距離があり過ぎて一度はまかれており、容姿を特定できたのは定期船に乗り込んだ際にデッキに出てい
たヤンだけ。それも「確実にそう」と確信している訳ではない。
疑わしきは潰す。それがエルダーバスティオンの、特にこの作戦を指揮している者のやり方である。そのためならば現地の
無関係な者を犠牲にする事も厭わない。
「二分経っても戻らなければレイニーに通信を」
「は」
風を切る巨躯の横で垂れ耳が靡く。
ゴウゴウと唸る風を押し退け、到底ひとが走る物ではない速度で、獣は真っ直ぐに疾走する。
突如、四つん這いに近い低姿勢で巨体が急停止し、踏ん張った足の下から土が弾け飛んだ。
身を起こした獣が琥珀の瞳を向けたのは、灯りがついたままのバー。
入り口をじっと見つめ、鼻を小さく動かした獣は、突如、大気を抉り抜くような速度で身を捻りつつ地面に伏せた。
その上を、一条の「線」が通過する。
瞬間的に描かれた線の先で、結ばれた椰子の木肌がジッと音を立てて抉れ、向こうまで抜ける風穴が空いた。線が消えた後
でパタパタと地面に落ちたのは、何点かの滴。無色透明の液体…何の異常もない「水」である。
直後、獣が駆けた。穴を穿たれた木とは反対側に。
再び線が宙に描かれる。僅かに身を傾かせた獣の肩から数センチ離れた位置を、さながらウォーターメスのような高圧水流
が通り過ぎる。
琥珀の瞳が見つけ出す。自分を狙撃した男の、木陰に潜ませているその姿を。
逃走を中断して待ち伏せに転じた男は、迫る獣を真っ直ぐに見据えていた。
振り被った腕が突撃の勢いを乗せて振るわれ、唸りを上げて通過する。男は残像すら残して後方に転げ、一回転して素早く
身を起こした。
その右手には、薄緑色の石版…グリモア。一枚に五種類の術を仕込んだ強力な武器。男はそのパーソナリティーから好んで
「水」に関係する術を用いる。高圧水流もその一つである。
男が翳した石版の前に大気中の水分が集められ、瞬時に胡桃大の水球ができあがると同時に、そこから線が伸びる。至近距
離の狙撃にも反応し、身を傾かせて回避した獣は、間髪入れず伏せた。薙ぎ払われた高圧水流がその背を掠めて通過し、左右
で太いパンダナスの木が切り倒される。
タンと後方に跳び、左手でもう一枚のグリモアを取り出す男は、立て続けに水流を放ちながら、眉根を寄せた。
(ブーステッドマン…にしても動きが異常だ。いくらなんでも速過ぎる…!もしかしたらコイツは…)
言葉を切り、男は仰け反った。
大きく踏み込み、横薙ぎに振るわれた獣の指が顎先を通過し、風圧だけでヘッドセット型通信機が外れて飛んだ。
(まずい!これは…!)
男が右手のグリモアの術を変更する。瞬時に、空間から染み出るようにして出現した濃霧が周囲を飲み込む。
そして即座に、左手に握ったグリモアを起動する。
バヂッ!
刹那、激しい破砕音と共に、目も眩む青い光が周辺を駆け巡った。
濃霧に電流を走らせた男の眼前で、ビクンと身を強張らせた獣が動きを止める。
獣の口腔から、鼻腔から、全身から、体液が気化した湯気が立ち昇り、崩れ落ちるようにズンと膝をつく。跪き、項垂れた
その全身から、シュウシュウと嫌な匂いが焦げ臭く立ち昇っていた。
ふぅ、と息をつく男。放ったのは、いわば広範囲スタンガン。それも心臓が止まり神経が焼き切れるほどの高圧電流だった。
(何者だ?格好は現地民のようだが…、ONCのブーステッドマンにしては性能がおかしい。連中にこれほどの機能を付加さ
せる技術力は無いはず…)
男は動かなくなった獣を注意深く見つめ…。
ビルの屋上。その景色はそのように見えた。
コンクリートが向き出しの屋上は、金属製の高いフェンスに囲まれている。
殺風景…ではない。貯水タンクの他にもう一つ、目立つものがそこにある。
ログハウス調の平屋…、そう見える物がその屋上の中心に建っていた。
音は無い。広がるのは無音の景色、寒々しい曇天に粉雪が舞う。他のビルが下に見える風景の中を、視界が進んでゆく。
―ここは…、何処だろうなぁ…?―
ログハウスのドアを押し開けると、小さなカウンターが見えた。
床も壁も木目が見える、趣のあるバーにも似た内装。天井に数箇所設置されたランプが薄オレンジの光を控えめに投げ落と
す、長方形のやや広い部屋だった。
―…白い部屋じゃあ、ないなぁ…―
出入り口は長辺の左下にあたる位置にあるらしく、左手側は洗面所へ繋がるのか、いくつもの絵画がかけられた壁にドアが
一つついている。
視界が右に動くと、奥の壁に押し付けられたベッドが見えた。目立った装飾もない素朴な木造りのベッドだが、綺麗にメイ
キングされたそのベッドはキングサイズ。
その脇には小さな角テーブルを挟んだ椅子が二脚、肘掛もない簡素な椅子だが、これも木造りでどっしりと大きく頑丈そう
に見える。
そのすぐ脇には腰高の箪笥があり、上にテレビが置いてある。箪笥の後ろの壁の角には、大人が全身を映せるサイズの姿見
が一つ、部屋の中心の方を向けて立てられていた。
バーのようだが店ではない。居住空間を兼ねる、キッチンカウンターを備えたワンルームらしい。
カウンター向こうの壁には酒瓶が並ぶ棚と、食器類がおさまったキャビネット。品揃えも豊富で立派だが、背もたれもない
丸椅子が二つ据えつけられているだけのそこは、規模からすればホームバー。
ゆっくりと視点が移動する。覗き込んだカウンターの後ろには、成人男性一人が余裕を持って動ける程度のスペース。カウ
ンター裏には小さなシンクとガス台が備え付けてあり、まだ水滴が付着しているガラスのコップが一つ、グラススタンドに干
してあった。
急に視界が巡る。カウンターから旋回し、左に流れ、開きかけたドアに止まる。
ドアを押し開いて姿を見せたのは、筋肉質な体つきが逞しい、狼の成人男性。腰にバスタオルを巻いただけの半裸。白い、
やや灰色にも寄る、金属色を帯びたような被毛は湿り気を帯びており、光量の抑えられた室内で目に眩しい。
―あのひと…―
そこに誰か居るのを知っていたように、ドアから出て来た狼は驚いた様子も見せない。その代わりに…。
―じゃあ、ない…―
目を細め、微かな笑みを浮かべる。狼は軽く手を挙げ、拳を作り、トンと胸元に当ててきた。その口元が動いていたが、声
は聞こえない。何の音もしない。
―…このひとは…、「ハウル・ダスティワーカー」…!―
目前を通過した狼はカウンターの向こうに回ると、棚から酒のボトルを取った。
―「ジョニー・ウォーカー」…―
青いラベルのボトルから、氷を放り込んだ分厚いクリスタルグラスに酒を注ぎ、カウンターに置く狼。それを、視界の主は
カウンターの椅子に腰を下ろしつつ眺めている。
―………―
分厚くて大きな手が、グラスに伸びた。
―おれの…手…?―
狼が自らもグラスに酒を注ぎ、軽く上げる。
―………―
無音のままグラスが合わされ、グラスの中で波打つ酒が近づいてきて、視界の下に消え、天井が見えた。
視界が戻ると、カウンターにゴンと、中身が濡れた氷だけになったグラスが置かれる。
少量口に含んで、舌で転がし、味わってから飲み下した狼は、グラスと視界の主を順に見てから、咎めるように目を細めて
何か言った。それを制するように、大きな手が指を広げて掌を狼に向ける。
仕方がない、というようなため息を漏らした狼は、カウンターに置いてあったテレビのリモコンを掴み、腕を伸ばして電源
ボタンを押す。
視界がつられるように動き、ニュースが流れ始めたテレビを眺める。
警官隊により発見されたテロ実行犯達のアジト、既に壊滅状態。誘拐されていたと見られる大学教諭は無事開放。
淡々と述べながらも困惑が窺える女性キャスターとスーパーに据えられた視界の端には、部屋の隅に立てられた姿見。
そこに、映っていた。カウンターの椅子に座っている男の姿が。
灰色の煤汚れが少し見られる黒いダウンジャケットを、グリーンのトレーナーの上に前をはだけて羽織り、タイガーカモの
ズボンを穿き、ゴツいブーツを履いている。
広い背中はジャケット越しにも判るほど肉付きがよく、分厚く丸みを帯びている。カウンターの丸椅子はそこそこ大きいの
だが、幅広い尻はそこから左右にはみ出しており、太い鉄柱型の脚すら何処か頼りなく見える。
小山のような巨漢は、セントバーナードだった。
グラスを片手に頬杖をついて、満足げにニヤニヤ笑い、太い尾をフッサフッサとゆったり揺らしている。
―「ハーキュリー・バーナーズ」…!―
(え?)
男は、一瞬で暗転した視界に戸惑った。
驚きよりも、疑問よりも、恐怖よりも、困惑が先に立った。
活動停止したはずの獣が、何事もなかったように顔を上げ、一足飛びに間合いを詰め、自分の顔面を鷲掴みにする…。予想
外かつ唐突で、その動きに対処し損ねた。
顔をその大きな手で覆われた状態でなおも、男には困惑しか無かった。
あり得ない。そのはずだった。何らかの方法で受け流されれば話は別だが、確かに感電していた。それなのにこの獣は動い
ていた。少なくとも哺乳類の体の構造では、こんな事はあり得ないはずだった。
ボギンと、首が鳴る。
それが、男がその生涯で聞いた最後の音となった。
「アンチャン!」
立ち止まったカムタに、セントバーナードがトルマリンの瞳を向ける。
「カムタ。これ…」
立ち尽くす巨漢の足元には、首を異様な方向に曲げて事切れた、戦闘服を纏う若い男の姿。
少年からやや遅れ、ドタドタと駆けて来たヤンは…、
「!?」
ひとの死体…恐らく獣が排除したのだろう男の遺体から、既に荒事に及んでいると察するなり、その大きく見開いた目を向
ける。テシーのバーに。
「テ………!」
一息入れたいほど疲れていたのも忘れ、虎はバーの入り口に飛び込んだ。
「行こうアンチャン!」
ルディオが戻っている以上、店の中に「危ない何か」がまだ居るとは思えないが、カムタはセントバーナードの手を取って
ヤンが飛び込んだ入り口へ向かう。そして…、
「…アンチャン?大丈夫か?何か疲れてねぇか?」
手を取るなり違和感を覚えた少年は、ルディオの顔を見上げ、一見すれば普段のぼんやり顔に浮かんでいる、確かな疲労の
色を確認した。
「うん。大丈夫だ」
応じるルディオは、全身のだるさ…修復中の肉体に残る痛みの残滓と熱を感じていた。だが、意識が飛んでいた間の「名残」
はそれだけではない。
初めての事だったが、獣が男を仕留める時、ルディオは意識があった。
正確にはその直前、感電による影響で目覚めたのか、フラッシュバックしたような光景を脳で視た時から意識が戻っていた。
鮮明に覚えている目覚める寸前の夢にも似た、不思議な光景を思い出すルディオ。
例の白昼夢のような、しかしこれまでに見た事のないヴィジョン…。
(皆には後で話そう。今はテシーの…)
「テシー君!?テシー君、居ないのか!?」
悲鳴に近いヤンの声が聞こえ、医師は入ったばかりのドアから慌しく出てきた。
「店内には居ない!まさか…」
嫌な予感がして、男の遺体を見つめるヤン。
既に殺されていた?その辺りの草むらの中で、冷たくなって…。
ガチガチとヤンの歯が鳴り出した。膝が笑って崩れ落ちそうになった。暗がりに転がった男の死体の向こう、草の中から覗
く木の根や落ちていた葉が、一瞬テシーの腕や手に見えた。
『…ニー…。…答せ…、レイ…』
肥満虎の震えがピタリと止まる。
カムタが弾かれたように左右を見渡し、音声の出所へ顔を向け、目を凝らす。
「………?」
気付いたルディオが首を傾げながら拾い上げたのは、男の頭から外れていたヘッドセットタイプの通信機。先ほどの放電の
影響を受けたのか、音声は不明瞭で途切れがちだが…。
『ライフモニターの…応が消え……る。何が…』
ルディオに駆け寄ったヤンが、マイクを掴み、音声を遮って叫んだ。
「おい!テシー君をどうした!?」
『………』
一瞬の沈黙。次いで『なるほど』と呟きが漏れる。
『声…主。貴様…虎の男…?』
「…?…。だったらどうした!?」
応じながら、しかしヤンは残った冷静な部分で考える。「虎の男」…、どういう訳か相手は自分を知っているらしい、と。
『ONC…な?訊きた…事…』
ヤンの耳がピクリと動いた。
(コイツ…、いや、コイツらは、僕をリスキーの組織の構成員だと思っているのか!?)
虎は口元に人差し指を立てる。幸いにもまだ喋っていないカムタとルディオは、その存在を認識されていない。医師の考え
を察し、ふたりは無言で頷いた。
「ああそうだ。だが質問はこちらが先だ。バーの店主をどうした!?」
緊張と恐怖と怒りで乱れそうになる心を精神力で捻じ伏せ、ヤンは通信相手に問う。
連中はONCの構成員に用がある。そして自分の事を構成員だと思っている。ここでもしも構成員でないと知られたら話を
打ち切られる可能性もあると、ヤンは考えた。
『丁寧…預かって…る。こちら…隊員…どうだ?』
「捕まえて身包みを剥いだ。今は気を失っている」
死体をちらりと見るヤン。垂れ耳を少し伏せるルディオ。
「だが、無事に帰るかどうかはそちら次第だ。あまり協力的でないか、あるいはそちらがバーの店主に危害を加えた場合…、
人質らしい扱い方をせざるを得なくなる」
『具体的…は?』
「まず手の指から、次いで足の指から、四肢の最も遠い位置の関節から順にハンマーで潰す。それでも足りなければ切断する」
落ち着き払って「交渉」に臨む虎医師の態度に、カムタは感心しつつ頼もしさを感じた。スパイ映画のようだ、と。しかし
ヤン本人はというと、自分が脅しとして口にしている不可逆的人体破壊の内容に怖気を禁じ得ない。医師であるが故にリアル
に思い浮かんでしまうので、でまかせとはいえ想像するだけで堪える。
「そちらがさらったのは仲間ではない、地元の有力者の息子だ。組織の事は何も知らない。無関係ではあるが、今後のために
も取り戻さなければ幹部がうるさい。重要な人物である事は認める。大事に扱え」
せめて当面はテシーが無事でいられるようにと、大事な人質である事を強調するヤン。そんな芝居が功を奏し、通話相手の
男は虎をONC構成員と判断した。
『…判った。が…、そちらが握った人質の扱…について…、心配無用だ』
ブヂュッと音がした。湿った、嫌な音が。
視線を動かしたヤンは出かかった悲鳴を飲み込む。カムタは顔を顰めて目を覆い、ルディオは瞼を少し上げた。
倒れていた男の死体が胸部の所で煙を上げている。その背中側へジワジワと広がるのは、赤黒い血。傍に落ちていたグリモ
アは中央から亀裂が生じ、事故車両の割れたフロントガラスのように細かな破片になってボロボロに崩れる。
足手纏いになれば遠隔操作で始末する…。惨い死に様そのものよりも、理に叶っているが人道から逸脱したその所業に、ヤ
ンは吐き気を催した。
『連絡…待て。それ以外…行動…、人質の身を危う…する…。おって、身柄引き渡…の連絡をする。その通信機…大事に持っ
て…け』
その発言を最後に通信は切れた。
スイッチを探り、オフにしたヤンは、盗聴の危険性も考えて改めて口元で指を立て、カムタとルディオが頷いたのを確認す
ると、テシーの店から調理用の密封容器を持ち出し、キッチンペーパーで包んだ上で中に入れた。
それでも遮音が完璧である自信は無いので、ヤンは念のために容器を離れた地面に置いたうえで、声を潜めてくれと前置き
してからカムタとルディオに話しかける。
「リスキーに連絡を取らないと…!コレは僕らの手に余る!」
チラリとバーを見遣るヤン。
失敗したらテシーが殺される。今の通話中、自分の手が彼の命を握っていたのだと思い返すと、全身をドッと冷や汗が濡ら
した。