Hostage rescue

「レイニーは戻らない。一度沖へ出せ」

 リーダーの男が告げた言葉に、誰も異を唱えない。船はすぐに桟橋を離れ、静かに夜の海へ溶け込む。

 島が見えなくなったのを確認してから船室に降りたリーダー格の男は、不可視のロープで縛られ、身動きできないまま転が

されているテンターフィールドの青年を見下ろす。

「ン!ンンー!ンー!」

 脅えた表情で唸るテシーは、身を捻って逃れようとしたが、外された肩が痛んでろくに動けない。

 男は涙目になっている青年の前で屈むと、石版を持った手を軽く振った。

「…っぷはっ!」

 猿轡だけが消えて呼吸が楽になったテシーへ、リーダー格の男は、

「騒いだら逆の肩も外す」

 静かな、それだけに寒気を催すような声音でそう告げる。脅しではない、男にとっては単に事実を突きつけての「交渉」で

ある。

 フゥフゥと呼吸を乱しながらも、男が本気だと悟ったテシーは、上げそうになった悲鳴を押し殺した。

 揺れ具合から船が離岸したのは知っている。叫んでも助けは来ないと判っている。

(こんな事なら…)

 脳裏を過ぎったのはヤンの顔。

(昨日のうちに、言っておくんだった…!)

 もうダメかもしれないと考えた途端に、心残りが蘇る。

 カムタの父の死、その遠因として当初は辛く当たってしまったあの医師へ、誠心誠意島に尽くして生きてきたあの医師へ、

想いを伝えると共にはっきりと言っておくべきだった。

 ごめんなさい、と。自分は間違った事をした、と。

 きっとあのひとは、何だそんな事かと、もう気にするなと、照れ隠しにそっぽを向いてまともに取り合わないのだろうが、

それでも、つけなければならないけじめとして…。

「あの虎の男は、何だ?」

 テシーの思考を断ち切ったのは、男が発した言葉だった。

 か細く震えているテシーの視線を受け、男は続ける。

「仲間がひとりやられた。相当な手錬と見るが…、お前はあの男が何者なのか知っているのか?」

 戻らなかったメンバーも他の組織で言えばトップクラスの精鋭に匹敵するレベル。だからこそメンバーを捕らえたと述べた

虎の男を警戒している。ハッタリでない事はバイタルサインが途切れた事からも判っている。少なくとも戦闘服を剥がれヘッ

ドセットが取り上げられた状態にあった事は間違いない。間違いなくスイープシステムは作動したが、そもそもあの時点で既

に殺されていたとしても不思議は無い。

「………」

 テシーは口ごもる。何だ?と言われても判らない。それどころか、男が何の話をしているのかいまひとつ理解できない。物

騒な話らしいと感じはするのだが…。

「…本当に知らないようだな」

 男は青年の反応を確認して身を起こすと、部屋を出て行った。

 船室に残されたテシーは、閉ざされたドアを呆然と見つめる。

(先生が…、何だって…?)



「どうなっているんだ…!何故応答しない、リスキー…?」

 呆然と呟くヤン。

 カムタの家から助けを求めて通信を試みているのだが、リスキーは一向に応答しない。

「リスキーの方でも何かあったのかな…」

 カムタの深刻な表情とひそめた声で、肥満虎は総毛立った。

(まさか、リスキーのところへも!?)

 テシーの救出を頼むどころか、リスキーの安否まで不明。となれば、ヤン達には頼れるツテはもう無い。

 ルディオは別室で、襲撃者の持ち物だったヘッドセットを密封容器から出して見張っている。向こうからの連絡が入る前に

リスキーに相談したかったのだが、もしもそれが叶わなかったら…。

(僕が何とか対処しなければならない…!)

 一方、ルディオは寝室でひとり、沈黙するヘッドセットを見つめている。

 電源は入っている。向こうからの呼びかけがあればヤンを呼びに行く手はずになっていた。カムタとルディオの存在は伏せ

ておいた方がいいというのがヤンの意見。ヤンがONCの構成員だと言い張るのは危険だが、現状、情報が欲しいらしい向こ

うを釣り上げるにはこれ以外に手段が思いつかない。

(おれが、もっと頼りになるならなぁ…)

 ルディオが変じ、獣に主導権が移れば、危険生物すら圧倒する戦闘能力を発揮できる。だがそれは自発的に行なえる事では

ない。そもそもどうすればテシーを救い出せるのか判らない。行動するにも正解となるアクションが何なのかが判らない。

(ヤン先生は凄いなぁ。機転って言うんだろうなぁ。咄嗟にああやって誤魔化して、後に繋げられた。おれも頭が回ればいい

のになぁ)

 そうしてルディオは思い浮かべる。白昼夢に現れる白い狼の事を。

 思えばあの狼は、あの部屋でのやり取りを見るに、指導する立場かそれに類する者だったように思える。かつて自分は彼か

ら何かを学んでいたのかもしれないと、ルディオは考える。だが、断片的にしか見ていないあの情景からは、こんな状況を打

開する手掛かりを都合よく思いつけたりはしなかった。

 そして…。

(アレは…)

 続けて思い出したのは、意識が飛んでいる間に見たと思しき、初めて見た景色の事。

 雪が舞うビルの屋上。ログハウス。そして…。

(「ハウル・デスティーワーカー」と「ハーキュリー・バーナーズ」…)

 確信していた。狼はあの白い部屋の男ではなく、鏡に映った犬も自分ではないと。

 そう、「別人」だった。似ていない訳ではない。それどころか容姿は瓜二つだったが、「記憶を失う前の自分」という意味

ではなく、完全に「別人」と認識した。

 だからこそ判らない。

 彼が自分でないのだとしたら、一体自分は何故あの光景を見たのか?

 あれが現実にあった事ならば、一体自分は何故あの記憶を持つのか?

(「おれ」は…、「だれ」だ…?)

 疑問。だが、それとは別にルディオは胸のざわつきを感じる。

 あの光景を思い出すと、切なく、哀しく、そして暖かな気持ちになる。

 そう。あの白い部屋を覗き見た時とは決定的に違う事があった。その景色には、確かに何者かの「感情」が付随していた。

「記録」ではない。それはまるで「記憶」のようで…。

 垂れ耳がピクリと動く。微かなノイズを感知して。

 目を向けると、ヘッドセットのランプが点滅して見えた。

(通信だ。先生とカムタに教えないと)



「逃げた、か」

 もぬけのからになったホテルの部屋で、格好だけは旅行客を装い、アロハシャツにグリモアを忍ばせた三名の男は、痕跡が

完全に失せている客室の状態に舌を巻く。

 長期滞在中の客をマークし、手荒に聞き出すという乱暴な作戦は、リスキーが滞在していた部屋にも及んでいた。ONCの

構成員であればよし、そうでなければ口封じ、部屋に押しかけられた者はどちらに転んでも不幸にしかならない。

 いつ察したのか、どう逃げたのか、手早く姿をくらませたこの部屋の客は、間違いなく手錬だと三人は認識する。

 その、警戒される男はどうしているかというと…。

(念の為に荷物を移動させておいて正解だったな…)

 ホテル外壁の雨水管を伝い降り、丁度着地したところである。その頭上から、風呂敷包みを六本の脚でしっかり持ったフレ

ンドビーが降下してくる。

 包みの中身は、信号傍受を警戒して電源を落とした通信機一式。ホテルを引き払う手続きこそ間に合わなかったが、嫌な予

感に従って帰島してすぐ荷物を運び出し、ボートに移動させておいた。手掛かりは何も残していない。

 だが、このマーシャルに出向しているはずの他の構成員は大半が信号途絶の状態。由々しき事態を通り越して危機的状況で

ある。

(嫌な予感がおさまらない…。シーホウの安全を確保しておくべきだな…)

 調査部隊が壊滅させられたこの日をもって、ONCはエルダーバスティオンと抗争状態に陥った。このマーシャル諸島を舞

台にして。



(落ち着け。大丈夫、上手くやれる…!)

 丸い影が一つ、夜更けの道をゆく。

 通信機で相手方からの指示を受けたヤンは、単身で指定された場所へ向かう。リスキーが身を隠しながら島に向かっている

事など知る由もなく、安否を気に掛けながらも行動に移らざるをえなかった。

 指定されたのは島の岩礁区域。カムタが漁にゆく岩場。虎の医師が身に帯びているのは、腰の横へ目立つように吊るした大

振りなガットフックナイフ。ルディオが漂着した時に身に付けていた品である。

 この大振りなナイフは秘匿技術の産物だと以前リスキーから聞いた。ONCでも造れないレベルの代物で、巨漢の身元の手

掛かりにしようにも逆に心当たりが無い、とも。組織の構成員のふりをするならば、この品は説得力の補強になる。

(まだ来ていない?…いや、あそこの影は…)

 高台に到着したヤンは岩場を見下ろす。灯りはないが、よく目を凝らせば岩場に直着けしている船が海面の反射を遮り、黒

い輪郭を見せていた。
ゴクリと唾を飲み込み、虎は岩場へ降ってゆく。岩場に響く夜の波音が、耳を叩く潮風が、今は無闇や

たらに怖く感じられた。

 程なくヤンは船影の輪郭をよりはっきりと視認し、その手前に数名の影がある事に気付く。

(同じ服装だな…)

 診療所に隠してきた、獣に屠られた男の死体と同じ格好だと確認し、この連中で間違い無いと確信したヤンは、充分な距離

を残して足を止めた。

「ご足労痛みいる。自己紹介などして絆を深めたいところだが…」

 リーダー格の男が口を開く。しかしその挨拶がメッキ以上に表面上の物である事をヤンは察知していた。

「お互いに忙しい身の上だ。早速本題に入ろう」

 虎はリーダーの左右に立つ黙したままの男達を見遣る。人質に誰も付いていない事も、船をすぐに動かせるようにしていな

い事も考え難い。少なくとも船内にひとり以上居るはずだと目星をつけた。

「ああ、同感だね」

 軽く肩を竦めた医師はポケットに手を入れる。左右の男が反応しかけたが、ゆったりとしたその動作は紙巻煙草を取り出す

ためのもの。

「できれば一服吸い終える前に話し合いが済めば助かる」

 余裕を窺わせる態度で煙草を吸い付けるヤン。しかしそれは渾身の芝居である。背中にはじっとりと汗をかき、気を緩めれ

ば膝が笑い出しそうだった。

「単刀直入に言えば、我々は君達がこの近辺で探している物が何なのかを知りたい」

 リーダーの視線を真っ直ぐに見返しながら、ヤンは内心安堵し、それから気を引き締める。

 答えられる疑問だった。ONCの流出物最後の一件は、カブトムシをベースにした極めて高性能な生物兵器だという事を知っ

ている。知能が高いため他の兵器とは違いそうそう騒ぎを起こさず、ひっそりと何ヶ月でも潜伏していられるらしい。

 だが、これを正直に告げるだけではダメだと、ヤンは気付いた。

(教えたら殺されるだろうな…。僕もテシー君も…)

 告げるだけでは解決しない。まずテシーを開放させなければ。ヤンは煙草の煙を深く吸い、自分を落ち着けながら吐き出す。

「答えても良いが、まずは人質の無事を確認させて貰おう」

 強気の姿勢を崩してはいけない。事実そうでなくとも対等だと虚勢を張らねばならない。

「判った。では人質に叫んで貰おう。「関節の一つでもハンマーで潰して」」

「!」

 目を見開きそうになったヤンは、済んでのところで自制した。

「それは少々困る。何せ上にとっては重要人物だ、怪我でもされては私の首が飛ぶ」

 落ち着き払った態度を装うヤン。テシーを船の外へ出させるのは難しい。となれば…。

(仕方がない、か…!)

 ヤンは腹を括る。ハナからこの可能性も考えていた。

「…ここは風が強くて煙草がやたらと燃える。人質の無事を確認がてら、中で話させて貰っても?」

 リーダーの双眸に微かな疑問が瞬く。

 ヤンの申し出は、事実上「捕縛される」という物だった。



 灯りが外に漏れない船室で、テシーはぐったりと横たわっている。

 外された肩の痛みに耐え、縛られて身動きもろくに取れない青年は、それだけで体力を消耗している。何処かに停泊してい

るのは、船体の揺れから察せられた。だが岸につけていたとしても脱出は無理である。

 様々な考えが頭の中を駆け巡る。男達は何者なのか?ヤンは彼らとどんな関係なのか?話し辛い過去があるらしいという事

は薄々察していたが、これまで詮索した事も無かったので見当もつかない。

 突如、ゴムが擦れる音が混じった独特な音を立てて、ノックも無く船室のドアが開いた。

 ビクンと身を震わせ、のろのろと首を上げたテシーは、開いたドアの向こうに立つリーダーの顔を見る。何となく判って来

た。彼らが顔を隠さないのは、自分を生かして帰す気が無いからなのだろう、と。

(先生…)

 どういった素性なのか判らない。ただそれでもテシーは、一度信じたヤンを変わらず想う。最後に一目、会いたかったと。

(…え?)

 テンターフィールドの目が丸くなった。

 見開かれた双眸に映り込んだのは、リーダー格の男が退いたそこに立っている、いつものアロハシャツ姿の、でっぷり肥っ

た虎の顔。

 肩の高さで両手を上げているヤンの体に触れ、二度目のボディチェックを終えた男が腰のガットフックナイフを外して取り

上げると、リーダーは顎をしゃくって促した。

「では、しばらくくつろいでくれたまえ」

 チラリと横目で一瞥したヤンが「ああ、そうさせて貰う」と応じて船室へ踏み込むと、閉ざされたドアが音高く施錠された。

「先…生…?」

 信じられないものを見る面持ちで呟いたテシーは、自分を捕縛していた見えないロープが解かれた事にも気付けなかった。

「テシー君…!」

 声を詰まらせたヤンは、それまでのポーカーフェイスを泣きそうな顔に変え、青年の傍に屈み込んで抱き起こす。

「っ!」

「どうした!?何処か痛めたのか!?」

 慌てたヤンは、激痛に顔を顰めたテシーの肩が外れている事に気付くと、すぐさま青年を抱えて肩に両手を当て、「息を止

めて、少しの我慢だ…!」と声をかけ、引き付けるようにしてはめ込んだ。

「っく…!う…!」

 一瞬の激痛に次いでいくらか楽になったテシーは、腫れ上がった肩を押さえてヤンを顔を見る。

「せ、先生…、なんで…」

 状況が飲み込めない。これは夢なのではないかと呆ける。混乱のあまり肩の痛さにまで現実味が無くなっているテシーは…。

「…!」

 抱き締められて、言葉を失った。

「…った…!…かった…!良かった…!」

 耳をくすぐるヤンの声音は、震えていて、鼻が詰まっていて、涙声になっていた。

「ああ…!生きていた…!僕は間に合ったんだな…!本当に良かった…!」

 きつくきつく抱き締めるヤンの体は震えていて、汗の匂いがした。

「良かった…!良かっ…、うっ…、うううっ…!」

 ヤンの声が嗚咽に変わる。

 テシーには状況が判らない。テシーは背景を知らない。それでも…。

「先…生っ…!」

 彼が自分を助けるために来てくれたのだという事だけは判った。



「大した度胸だな」

 船を出すよう指示しながら、リーダーは呟いていた。

「交戦して切り抜けるのは不可能と判断し、虜囚となって交渉を続ける方向にシフトしたらしい」

 口には出さなかったが、リーダーはヤンが戦闘要員ではないと見抜いていた。場数を踏んできたので身のこなしを見ただけ

でそうと知れる。

「ナイフは精霊銀の合金製のようです。相当な業物と見えますが…、どうにも「妙」です。これはまるで…、思念波を吸着し

ていると言うか…、「観測を」反射しないと言うべきでしょうか…?まるで、光を吸い込んでいるせいで観測できない、度を

越した黒い塗料のような奇妙さです…」

 ボディチェックした男が取り上げたナイフを確認しつつ、薄気味悪そうに述べると、リーダーは怪訝な顔になった。

「やはり思念波反響がおかしい。…と言うより、まるでそこにだけ「何かが無い」ように把握し辛いと思ったが…、一体どん

な得物だ?そもそも、戦闘員でない者が精霊銀の業物を帯びているものだろうか?案外、幹部つきの高位構成員なのかもしれ

ないな。だとすればあの落ち着き振りにも、実働隊に見えない体型にも納得だ。…小者であれば顔を見た瞬間に始末するつも

りだったが、思い止まって正解だったな。有用な話がたっぷり聞けそうだ。ナイフにはどんな仕掛けがしてあるか判らない、

とりあえず密封保管しておけ」

 返却する予定は無いが、上への土産にはなる。部下に命じて操舵室の保管ボックスへ持って行かせたリーダーは、ひょっと

したら予想外の大物を釣り上げたかもしれない、と軽く口の端を上げ…。

 ズン…、と船が揺れた。

 よろめいて壁に手をついたリーダーは、岩礁に底をぶつけでもしたのかと一瞬訝り…、

(違う!)

 底ではなく、衝撃の起点は船体の上と判断し、デッキに駆け上がる。そして見えた甲板に、ソレが居た。

 着地の姿勢で背を丸め、中腰になっている巨躯。無造作に下がった右手は、甲板を見張っていたはずの男の頭部を鷲掴みに

している。

 リスキーに言わせれば「素敵な殺し方」。おそらく反応すらできなかったのだろう、首が折れている男は、きょとんとした

顔で事切れていた。

 琥珀に光る瞳は、静かに、出てきたリーダーへと向けられた。

 岩場を疾走して加速をつけ、自らの跳躍力をもって離岸した船までの60メートルを飛び越え、甲板に飛び乗ってきたソレ

は、見張りに出ていた術士をひとり、着船と同時に屠っている。常軌を逸した術を用いる者達から見ても完全に予想外の力業

による奇襲は、警戒していてなお防ぎきれない。鮮やかで迅速で容赦も躊躇いもない襲撃は、術士達に対処を許さなかった。

「コイツ何処から…!」

 船体後方から回ってきたもうひとりの男がグリモアを掲げ…、

「ベッ!」

 獣が無造作に投げつけた仲間の死体を命中させられ、全身の骨を砕かれながら船外へ放り出される。

 初戦を経て獣は学習していた。男達が持つ「石」は「武器」であると。使用される前に屠らなければ痛い目に遭うと。

 獣はゆっくりと視線を巡らせる。まるで何かを探っているように。

 これは、ヤンがその身を賭して勝負に出た大博打だった。

 獣がカムタを護る、その行動方針はもはや疑いようも無い。だが、排除対象と見なしてはいないらしい自分に対し、積極的

な守護行動を取るかどうかは判らない。

 もしも、危機に対して獣が反応を示さなかったなら、ヤンもテシーも助からないところだったが…。

 獣は垂れ耳をピクつかせる。

 気配は残り五つ。

 その内二つは覚えがある。

 片方は少年を大事にしている虎。

 もう片方は少年が慕っている青年のもの。

 獣は知っていた。獣は憶えていた。十数分前、少年を大切にしている肥った虎が、必死になって懇願していた声を。

 言葉は判らない。何を言っていたのかは判らない。ただ、助けを求められた事だけは理解できた。

 だから彼らを助け出す。少年の仲間達を危険から遠ざける。そのために障害を排除する。

「始末する」

 リーダーの顔から表情が消えた。理解した。全力でかからなければ全滅すると。

 リーダーを中央に左右へ散開する術士。これに対して獣は、両手を胸の前で向き合わせる。

 不可視の力が集約される。圧縮され、反発し、開放を求めて荒れ狂う力はやがて限界に達する。

 効果の程は学習した。相手が厄介である事も学習した。その上で獣は判断した。

 即、殲滅すると。

 獣が両腕を開放するように左右へ広げた次の瞬間、その足元で甲板中央がひしゃげる。まるでそこへ巨大な球体を上から押

し付けられたように陥没を生じさせて。

 床の陥没は獣の足元から扇状に広がった。瞬きよりもなお短い一瞬で男達へ到達したのは、超音速の、幾千層からなる衝撃

の津波。

 まず、男達が構えたグリモアが端から粉上になって散った。次いでそれを持っていた手の皮膚が裂け、肉が削ぎ落とされ、

骨が露出し、すぐさま砕け、霧よりも細かくされた血飛沫を伴ってあらゆる組織が分解されてゆく。

 人体が耐えられる限界を超えた多層衝撃の津波。それを爆心地付近でまともに浴びた術士達は、何が起きたのか把握する事

も、反撃を試みる事も、回避を行なう事もできないまま、衣類含めて文字通り木っ端微塵にされて夜の海へ散る。衣服につい

ていた留め具やベルトのバックルなど、衝撃波でひしゃげた金属を除けば、原型どころか痕跡も残っていない。

 それはもはや破壊ではなく、分解だった。

 デッキ表面から上を削ぎ取られたように破壊され、ギイィ、ギイィ、と不快な軋み音を立てながら海面に揺れる船の上で、

獣は周囲をゆっくり見回した。

 脅威は排除できたと判断した獣は、残った気配を頼りに、ドアも無くなってただの穴となった階段を降り…。



「な、何が…!?」

 船が沈没するのではないかと思うほどの衝撃と瞬間的な縦揺れに、テシーは身を硬くした。

 船室の電球は消え、薄緑の非常灯だけが頼り。闇の中で青年の体をしっかり抱き締めながら、ヤンは確信する。

 獣は、自分の頼みを聞いてくれたのだと。

「エンジンが爆発したんでしょうか?何がどうなって…」

 うろたえるテシーは、ドアノブが回る音に反応し、ビクリと身を竦ませる。

「大丈夫だ、テシー君…」

 ヤンが囁く。衝撃で歪んだのだろう、隙間を開けたドアは軋み音を立てて止まった。そして…。

「先生、中に居るかぁ?」

 聞こえてきたのは、場違いにのんびりした声。

「ルディオさんか!ああここに居る!テシー君も一緒だ!外の連中はどうなってる!?」

「もう居ないなぁ」

 ホッと安堵したヤンは、「ドアが歪んだかもしれない。通路の辺りにマスターキーはあるだろうか?」と訊ねる。この場合

のマスターキーとはつまり、ドアを破壊して開けるための斧類である。

「見当たらないなぁ。でも、何とかできる」

 ルディオの返事に次いで、体当たりされたドアがドシン、ドシン、と揺れ、数度目の衝撃音に続いてガゴンと蝶番が壊れた。

外れたドアは、内側に倒れ掛かったところで大きな手にハッシと掴まれる。

「大丈夫かヤン先生?良かった、テシーも居るなぁ?」

 ドアを強引に開けて姿を現した影。顔ははっきり見えないながらも、相手が誰なのか判っているテシーは、呆然としながら

「…ルディオさんまで…?」と呟いた。

 混乱がますます深くなるテシーだったが、

「…はぁ…」

 自分を抱えているヤンの体が、ため息を漏らすと同時にガクンとバランスを崩すと、「先生!?」と声を裏返す。

 べたんと床に尻を落とし、小刻みに体を震わせるヤンは…。

「しまった…」

 苦々しい震え声で呻いた。

「安心したら…腰が抜けた…!」



 数分後、大破して波に揺れながら沖へ遠ざかってゆく船に、一艘のボートが近付いた。

 舳先に立つアジア系の青年は険しい顔だったが…。

「坊ちゃん、右に寄せて下さい!旦那さんが手を振ってます!」

 甲板から上が滅茶苦茶になって海を漂う船の上、両手を上げて大きく振っているセントバーナードの姿を目にし、ホッと息

を吐き出した。いつも通りののんびりした動作、ヤン達に何かあったらルディオもこんなに落ち着いてはいないだろう。

「りょうか~い!よいしょぉっ!」

 応じたカムタが舵を切り、巧みな操船でボートを寄せる。ボートの上空ではリスキーが連れて来た無数のフレンドビーがブ

ンブン飛び回り、周辺を警戒していた。

 呼び出しに応じて指定された場所へ向かうヤンと、その護りとして遠くから監視するルディオを見送って、カムタはひとり

だけ家に残っていた。リスキーはそう簡単にやられたりしない。信じて望みを捨てず、通信を試み続けるようヤンが頼んでお

いたので。

 そして、危機を切り抜けていたリスキーは、島の近くまで接近したところで通信機を起動し、カムタの呼びかけをキャッチ

した。

 海の素人には高い危険が伴う夜間航行だが、リスキーはフレンドビー達を放って周辺警戒と誘導を任せる事で、何とか島へ

帰還し、岩場でカムタを拾いつつ、轟音を上げた敵船へと駆けつけている。

「カムタ、リスキー。先生もテシーもここに居るぞ」

 ルディオが船内で見つけたロープを甲板から下ろし、受け取ったリスキーはそれをしっかりとボートのフックに結びつけ、

「無事で何よりです…」と首を縮めて応じる。

「周辺の破片など、目立つものを集めろ。大きなものはそのままでいい」

 ロープを掴んだままリスキーが痕跡消去を命じると、フレンドビー達は波間に漂う船の破片などを集め始めた。

「上手く行ったんだなアンチャン!」

 ボートの舵を握ったままカムタが呼びかけると、ルディオは「うん」と顎を引く。ふたりとも生きている。綱渡りを含む作

戦だったが、成功と言えた。

「遅刻なのか、タイミングが良かったのか…」

 小声で漏らすリスキー。カムタの通信をキャッチしてからこの道中まで、ヤンとテシーとルディオがどうしているのか聞か

されている。

 ロープを伝ってデッキに上がり、徹底的に壊された船を見てギョッとしたものの、崩壊した甲板にテシーと共に座っている

ヤンの姿を認め、とりあえずは安堵した。

「先生、立てないって言ってる」

「えー!?怪我したのか!?」

 ボートを見下ろしているルディオから状況を聞いて、カムタが声を上げた。

「腰が抜けたって」

「え?そうなのか?怪我したんじゃねぇんだな?」

「怪我でなくとも大事です。先生の体重ではボートに降ろすのも一仕事ですよ」

「………」

 赤面して黙り込んでいるヤンの横で、テシーも黙っている。

 落ち着ける場所に移動したら事情を話す。そうヤンは約束した。だから今は、何も判らないままでも信じて待とうと決めた。



「まぁ、仕方ありませんよねこれは」

 ひょいっと肩を竦めるリスキー。涼しい顔だがこれはちょっと自棄になっているなぁと、カムタとルディオは顔を見合わせ

た。なにせ今夜のリスキーはやたらとため息が多いので。

 ここはヤンの家。一行は術士達の船から取り上げられていたルディオのガットフックナイフを回収し、使えそうな資料や機

材類、特殊な封印でシールされた石板…予備のグリモアなどを持ち出した上で、フレンドビーを働かせて痕跡を残さないよう

海上掃除してから爆弾をセットし、丁寧に沈めて戻って来た。なお、フレンドビー達もそのまま引き連れて戻って来ており、

ヤンの家のリビングは飛んでいる蜂やら床を這う蜂やら椅子に上がっている蜂やらルディオの背中にしがみついている蜂やら

カムタの頭の上で寝ている蜂やらでごった返している。

 医師は別室でテシーと話をしている。正直に話すというヤンに最初はリスキーも反対した。だが、既に色々な物を見られて

いるし、完全に巻き込む形にもなっているのだから、半端に誤魔化して説明するのは無理だと述べて、虎の医師は意見を曲げ

なかった。

 確かに、嘘を混ぜて誤魔化そうにも何処かでボロが出るとリスキーも思う。フレンドビーは突然変異のナントカで強引に説

明するとしても、術士の技で捕えられていた事や、非合法な真似を堂々と行っていた彼らの存在そのものについては誤魔化す

のも厳しい。しかし秘密の共有者がまたひとり増えるとなると流石に頭が痛い。ただでさえこの半日の内にONCの構成員達

の大半と連絡が取れなくなっており、指揮系統は既に壊滅していると見られる。リスキー自身も既に余裕がなかった。

(経験上、小競り合いで済む段階はとうに過ぎた。「兵隊」が投入されるのは間違いない…)

 流出物の回収どころではない、これはもう組織間抗争に発展している。

(きっとお呼びがかかるだろうな…)

 フェスターに呼び戻されるか、それとも戦力として投入されるか、どちらにせよもうじき「休暇」は終わりだと、リスキー

は確信していた。



「………へぁ?」

 変な声が、変な顔になった虎の口から漏れた。

 その目に映るのは、瞳をキラキラ輝かせているテンターフィールドの青年。

「いや、だから!「正体不明のヒーロー」みたいなものって事ですよね!?」

 一応、ヤンは正直に話した。

 ONC…非合法組織が流出させた危険な生き物や道具の事。

 同時期にたまたま漂着した、彼らに対抗できるルディオに協力して貰っていた事。

 事態の沈静化を望む非合法組織の構成員…リスキーの援助を得て島を防衛してきた事。

 なるべく判り易いように、所々掻い摘んで説明したヤンの話を聞いて、テシーが辿り着いた結論は…。

「皆に秘密で島に迫る危険と戦うって、まさに「ホンモノのヒーロー」じゃないですか!」

 困惑しつつもヤンは思い出した。カムタもこんなイメージを口にしていたな、と。それもそのはず、カムタもテシーも情報

の仕入先が一緒である。

「えぇと…」

 眉間を揉むヤン。

「テシー君。その…、怖くなかったのか?」

「こ、怖かったに決まってるじゃないですか!もう殺されるとばっかり!」

 即座に応じるテシー。「怖かったし混乱したし正直いまだってちゃんと理解できてませんよ」と。

「でも…、先生達はああやって、ヤバい連中から島と俺達を護ってくれてたんですよね!」

「………」

 胸元をボリボリ掻くヤン。テシーの真っ直ぐな目で生じるこそばゆさとムズ痒さと罪悪感が酷い。

「うん…まぁ、その…、な。大した事はできてないんだが…」

 医師はゴニョゴニョ呟く。糾弾されるよりは良いが、変に勘違いされているのにそれを上手く正せないのがもどかしい。

「それで、こちらの事情は把握して貰えたかな?」

「ええ、まあ、複雑な気分ですけど…」

「驚いていると思うが他言しないで欲しいんだ。下手に首を突っ込むと、テシー君が今日出くわした連中みたいなのが襲って

来る事もあるだろう。それと、特にルディオさんの事は秘密にして欲しい。本人も自分の事が判らないんだ」

 この通り、と頭を下げる医師。

「あ~…、まぁそれは黙ってますけど…。それにしてもビックリしましたよ。まさかルディオさん…」

 難しい顔になるテシー。

「カムタと血が繋がってなかったなんて…」

(え?そこ?)

 きょとんとするヤン。

「気が合うとこも仲が良いとこも、親戚っていうか兄弟そのものっぽかったから、全然疑ってませんでしたよ…。でもまぁ、

実質兄弟みたいな感じだし…、別に変わりないかなぁって」

 気持ちがタフというか能天気というか、カムタと比べれば繊細に見えるが、やはりテシーもこの島の住民なのだなぁと、変

に感心してしまうヤン。

「とにかく!そうと知ったら協力しますよ」

「それは助かるれぇえええええええええええええ!?」

 頭を下げかけた所でテシーの発言内容が想定と大きくズレている事に気付き巻き舌で疑問の叫びを発するヤン。

「要るでしょう?張り込みの夜食配給とか、秘密を護るための口裏あわせとか、そういった民間の協力者は?」

「い、いいいいいいやそうではなくてええええええ…?」

 もうどう説得したら良いのだ?と頭を抱えたくなるヤンに、

「頑張りますよ!だって…、先生達もこれまで頑張って来てくれたんでしょう?」

 テシーはノリノリの様子で、しかし内心では…、

(そうだ。手伝える事も何かあるはず…)

 真摯に、真面目に、自分達を護ってくれていた者達を支えたいと考えていた。ささやかな事しかできないとしても…。


 数十分後。

 一服すると言ってウッドテラスに出たヤンは、パイプを片手に紫煙をくゆらせ、灯りのない沖を眺めていた。

 この海に、リスキーが船底を爆破したあの船が沈んでいる。

「…うっ…!」

 パイプがゴトンと床に落ちる。

 目を見開き、両手で口を覆い、ヤンはヨタヨタとテラスの端へ行くと、手すりを掴んで体をくの字に折る。

「おぶぇっ!」

 太鼓腹が激しく蠕動し、気付けに飲んだビールが胃液と共に激しく逆流してきた。口からだけでなく鼻腔からもアルコール

と胃液が噴出し、潮風になぶられながらビシャビシャと地面にぶつかる。

「おごぉっ!おえっ!げぇっ!」

 ひとが死んだ。

 自分が死なせた。

 そうなると確信していながら、それを期待して獣を誘導し、殺させた。

 非合法組織の構成員だった。テシーを救う為だった。自分の身を守る為でもあった。…だが、どんな理由があっても、自分

が殺させたという事実は変わらない。これが上手く行けば相手は死ぬと理解していながら、明確に、そうなる事を望み、あの

結末を目指した。

「おぼぇっ!げぇっ!おうぇっ!」

 初めてだった。誰かの命を奪おうと明確に考えたのは。

 憎くなかった訳ではない。しかし憎悪で殺した訳ではない。

 怒っていなかった訳ではない。だが憤怒で殺した訳でもない。

 あれは、目的達成の意思による、冷静で強固で明確な殺意だった。

(今更…か…!)

 胃液とアルコールで口も顎も胸元も濡らし、ヤンは自嘲の笑みを浮かべる。

 元より綺麗な身ではない。今日までこうしなくて済んでいたのは、リスキーと獣がその手を汚して来たからに過ぎない。

 奪われない為に奪う。これまで彼らがして来た事を、そうせざるを得なかった事を、今夜自分もやっただけ。今夜自分にそ

の番が回って来ただけ。綺麗事を言っていられなくなる時が訪れただけ…。

(ああ、そうだ…。自分だけ手を汚さずに済ませられるなんて、そんな虫のいい話はない…)

 吐瀉物の臭いが潮風に吹き散らされる。えずきながらも丸めていた背を戻し、手すりを掴む両手に力を込め、ヤンは沖を見

据える。

 覚悟は決まった。皮肉にも、彼の兄が望んでいなかった覚悟が。



「第3、第5班との連絡が途絶、それ以外の班は作戦遂行中です。監視及び連絡班の被害は目下ゼロ、監視体制は維持されて

おります」

 ピシリと仕立ての良いスーツを纏う、プラチナブロンドをオールバックに纏めた屈強な中年が、タブレットを片手に報告を

読み上げる。

 高級ホテルのスイートルームのような贅を尽くされた一室は、しかしそういった部屋とは一線を画す。イミテーションでは

ない、歴史的価値もある絵画や壷、皿や燭台などの調度品に、高級な絨毯にテーブルなどの家具類。取り揃えてある品々は見

る者が見ればため息を漏らすだろうが、それなりの感性があれば別の意味でため息をつく。

 その部屋はちぐはぐだった。高級な物を集めるだけ集め、しかしそこに統一感もデザイン性も窺えない。財を誇示して品の

無さを露呈する、典型的な「悪趣味な金持ちの部屋」といった趣である。

 その部屋の主たる男は、レッドローズカラーのバスローブで身を包み、ブランデーグラスを片手に窓から夜景を見下ろしな

がら背中で報告を聞いていた。

 そろそろ老人にさしかかろうかという年齢だが、肌色も瞳も健康的で若々しい。肉体の衰えも見られず、適度に筋肉が維持

されている。

 彫りの深い顔立ちでドイツ系と見られる男は、禿頭であるのみならず眉も睫毛も、体毛と呼べるものが全く無い。これは人

為的に若い肉体を維持する薬品を常用している副作用である。

 何処か爬虫類めいた顔を巡らせた主は、部下に告げる。

「ONCも必死と見える。弱者といえども窮鼠と表現するには力ある組織、多少の犠牲は出て当然。状況を見て後詰めの量を

検討する」

「仰せのままに。時にテオドール様、「あの方」の方は如何なさいますか?」

「情報収集を取り辞めたそうだな。もはや興味なしという事か、あるいは私との衝突を避けたいのか、…後者であれば利口な

事だが」

 テオドールと呼ばれた男はグラスを煽ると、一拍間を空けて「監視だけは続行せよ」と命じる。今回のマーシャル派兵も、

元を辿れば彼が監視している他の幹部が物流を調査していた件に行き着く。若造とはいえ油断ならない相手と目しているので、

手を引いたように見えても気を許せない。

「「クロブシ」に動きは?この件はヤツの耳にも入っているはずだが」

「目下、これといって動きは見られません」

「ふん…。「本家」の動向観察に忙しい、か…。ヤツの方も日本を離れぬ限り監視だけで充分だろう」

 エルダーバスティオン最高幹部のひとり、テオドール・ロッテンマイヤー。

 マーシャルに伸びる手は、組織内でも強硬な手段で知られるこの男の物だった。



 その、数時間前…。

「警告に従えば面倒が無かったものを…」

 穏やかな潮騒が月夜に歌う、南国の砂浜。黒豹は黒焦げになった死体の頭をゴリッと踏みつける。

「ギュミル様ぁ、グリモアどうしますか?」

 首を巡らせた黒豹の目に映ったのは、砂浜に屈み込んでいる中背のカラカル。大振りなククリを握る彼の前には、切断され

た人間男性の手首が、石版を掴んだまま転がっていた。その周辺には、手、前腕、二の腕が1セット転がり、首が一つ、呆け

た表情で胴から離れて立っていた。

「…無駄に解体するな。掃除の面倒が増えると何度言えばわかる?」

 苦々しい顔で唸る黒豹に、カラカルはシュンと耳を倒した。

「すみません。ウケるかなぁって…、作品名、サモトラケのニケなんですけど…」

 フンと鼻を鳴らしたギュミルは、一瞥して「翼がない」と評価を下すと、もう一方の従者へ目を向けた。

 跪くコヨーテの左右には仰向けに倒れて絶命している二名分の死体。いずれも喉笛を鉤爪で抉られている。

「それなりに質が高いグリモアだ。ラグナロク製には及ばないが、献上すれば我が君にお喜び頂けるやもしれん。思念波遮断

シールを施した上で回収せよ」

『は!』

 黒豹の名はギュミル・スパークルズ。

 カラカルの名はウォッシュ・ビス。

 コヨーテの名はホニッシュ・ウェル。

 ラグナロク最高幹部直属の精鋭、エージェントとその近衛。

 第5班の術士達の不運は、彼らをONCの構成員と誤認し、付け回した挙句に襲撃してしまった事。

(他のエージェント連中は任務継続中…。この諸島に何があるのか、この目で確かめるとしよう)

 同僚達が行動に移れない今、先んじて主を喜ばせる事ができると、ギュミルは意気込む。

 表向きは雑件を片付けながらの視察、つまり上級将校としての主な責務についている事になっており、他の同僚も自分の所

在を正確に知る事はできない。

(我が君に利する物であれば持ち帰り、害成す物であれば滅ぼす。さて、ONCやエルダーバスティオンは、何を巡って小競

り合いをしているのか…)

 二分後、夜の逢引に出たカップルがこの砂浜を散策したが、何も異常な事はなかった。

 夜半の数分間に起こった一方的な虐殺は、ホテル近くのビーチ、観光スポットの真ん中で堂々と行なわれ、痕跡一つ残され

なかった。



「くあァ…!」

 逞しい巨漢の鯱は、大欠伸で目尻に浮いた涙を手の甲で拭う。

 どっしりした椅子の背もたれを軋ませて反り返るシャチの前には、これまた重量感のあるオークのデスク。素朴な木目が暖

かな机は、高級感がありながらもけばけばしくは無い。

 卓上にはデスクトップパソコンが置かれている他、ノートパソコンやビデオカメラ等が無造作に並べられていた。

 品の良い調度品はデスク周りだけではない。応接用ソファーセットも、高級ブランデーやウィスキーが並んだインテリアを

兼ねる酒棚も、半収納式でテレビを抱える台も、飾り気は無いが実用的な名工のハンドメイド品ばかりである。

 カナダ、ブリティッシュコロンビア州ヴィクトリアに建つ、広大な敷地を有する古風な洋館。ここは貨客船の運行で収益を

上げている運航会社の会長の邸宅である。

 が、その会長であるオリバー・ラングとは、シャチ・ウェイブスナッチャーの偽名の一つ。活動の隠れ蓑として使うために、

傾いた海運業の老舗を丸ごと買い取って得た偽りの身分。

 隠れ蓑とはいえ、会長が表に出ない事を除けば経営はまともで、後ろ暗い所は一切無い。運営のために雇って仕事をさせて

いる経営陣がひたすらに有能なので、シャチがする事といえばたまに行なうおおまかな舵取り程度。シャチの上司であるラグ

ナロクの中枢幹部すらこの事は把握できておらず、一般人でしかない社員達も会長の正体を知らない。過去のちょっとした件

でストレンジャーには繋がりを知られているが、それでも「親類が会社の偉い人でコネがある」という認識で、正確なところ

までは把握されていない。

 背伸びから体を戻したシャチはメインであるデスクトップパソコンのモニターに目を向け、何らかのログデータらしい文字

列を眺めながら頬杖をつき、マウスを掴んでスライドさせてゆく。

「くあ…」

 二度目の欠伸をして目を擦ったシャチは、憮然とした顔で腕を組んだ。

(ここ数日、ギュミルの行動ログが「おとなしい」なァ…)

 ひょっとして、と思いながらもそれだけでは確信が持てない。

「…マーシャル、なァ…」

 ポツリと呟き、シャチは太い指でノートパソコンのモニターに触れる。スリープを解除された画面に表示されたのは、熊の

ように大柄な大兵肥満の狸が何処かの船着場での木材積み込み作業を撮影している姿を、横から撮った写真。

「………」

 しばし無言で、カメラを構えるストレンジャーの横顔を見つめたシャチは、三度目の欠伸をしてから卓上電話を取った。

「アイリッシュコーヒー頼むぜェ。どうやら長丁場になりそうだァ、軽食付きでなァ」

 二度のコールで繋がった執事へそう注文を出したシャチは、

「ん?あァ、ローストビーフサンドとか、ツナでもいいなァ。どっちにしろマスタードタップリで頼むぜェ。あ?朝飯?別に

無くたって良…………………。あァ!判った判った!食うから作れェ!」

 体を気遣う出来た執事の苦言を遮り、諦めた様子で朝食準備を承諾したシャチは、腰を上げて窓辺に向かうと、カーテンを

捲り、正門まで灯火が並ぶ自然公園のような庭を眺める。私室ではあってもコンバットスーツ姿。調べ物のために一晩寄った

だけで、翌日昼には立ち去る予定である。

(さて、調べ物をとっとと片付けねェとなァ…。任務は詰まってやがるが、どうにも気になって仕方ねェ…)

 こういった、特段理由が見つからない「予感」を、シャチは決して無視しない。同僚経由でマーシャルの情報を得たのも、

カナデがマーシャルへ行っていたのも、何らかの流れに自分が乗っているせいではないかと疑っている。

 ただしそれと向き合えるのは、いくつかの国を傾かせ、いくつかの組織を消し、多くの命を奪った後での事になる。

(「運命の女神」とやらの手管か…。それとも俺様の気のせいか…。ま、じきに判るだろうがなァ)

 

 黄昏はついに諸島へ至った。事態は、誰ひとりとして状況を正しく把握できないまま、混迷を深めてゆく。