Wash well

「お前が送って寄越したエルダーバスティオン製のグリモアだが」

 カーテンを締め切り、ドアの外に見張りの護衛を配した執務室で、鷲鼻の白人は電話機を片手にモニターを見つめていた。

そこには暗号化された何かの解析データが表示されている。

「均一化された質から見ても量産品の擬似レリックである事は間違いない。粗悪、…になるはずだ。本来ならばな」

『…「本来ならば」、ですか』

 応じた声はリスキーのもの。いくつか回収できたグリモアはONCの連絡員経由で急ぎフェスターの元へ届けられ、即座に

解析にかけられていた。

 エルダーバスティオンの力は熟知しているはずだったが、想定以上の脅威である実行部隊…術士への対策は必須。そもそも

人員を退かせるべきとの意見も半数近い幹部から出ているため、采配のためにも判断材料は必要だった。

「腹立たしい事に高性能だ。流石にウチで数個確保している純粋なレリックのグリモアには及ばないが、模倣した廉価品とし

ては破格の品質と言える」

 技術力の差が浮き彫りになる解析結果は、フェスターとしては面白くない物だったが、事実は事実、受け止めて考え、行動

しなければならない。

『技術的なブレイクスルーでもあったんでしょうか?それとも、特別な素材でも大量確保できているんでしょうかね?』

「ひとの骨だ」

 部下の沈黙でフェスターは察する。リスキーは勘付いていたのだと。

「ラボで解析するのは勿論、アグリッパ師も招いて確認して頂いた。二時間ほど前の事だが…」

 ONCがパイプを持つ中でも最も高名な術師を招き、実際に手に取って子細に確認して貰った時の事を、フェスターは思い

出す。むっくりした犬のメイガスは、目深に被ったフードの下で、酷く顔を顰めていた。

「確かに「そういったグリモア」は存在するそうだ。体毛や血液、中でも骨粉…、使用者と血縁的に近しい者のそれらを練り

込むなどした物は、思念波への反応も蓄積係数も非常に優れているらしい。ただし、弊害があるのでその製法はまず選択しな

いそうだ。予想外のイレギュラーを引き起こす可能性もある邪法との話だが…」

 リスキーから送られたグリモアのサンプルは、経年測定により近年作製された物だと判明している。つまり、先祖などの墓

を掘り返して得た骨ではなく…。

『…話は変わりますが、別の組織が介入していると思しき件の調査はいかがですか?』

「殆ど進んでいない。が、何かが居るのは間違いないだろう」

 エルダーバスティオン側にもかなりの被害が出ているらしい。だが、それはONCの戦果ではない。間違いなく、マーシャ

ルにはさらに別の、それも戦力的にはONCと同等以上の勢力が入り込んでいる。

「リスキー。ギリギリまでは譲歩するが、すぐにでも引き上げられるよう体勢は整えておけ。あくまでもお前はONCの構成

員だ。いざとなれば弟の事は諦めるか…」

『…承知しております』

 通話を終えたフェスターは電話機を下ろすと、小さくため息をついた。

 いざとなったら弟の事は諦めて放り出せ。さもなくば、ONCの保護観察下におく形で拉致し、移動させろ。それがフェス

ターからリスキーへ言い渡している弟の処遇。

 リスキーは掴み所もないし隠し事もするが、仕事はできるし結局のところ忠実でもある。最終的にONCを裏切るような選

択はしないとフェスターは確信している。

 フェスターは悪人ではあるが、肉親の情を全く解さないような悪党ではない。自分自身の人生を投げ打って未来を与えよう

とした弟が、望んだ形とは大きく異なる環境と状況に置かれている…。そんなリスキーの苦悩も察している。

(便宜はできるだけ図りたい、が…)

 幹部とは思っていたより不便な物だと、フェスターはため息を漏らして立ち上がり、緩めていたネクタイを締め直す。マー

シャル出征中の人員に対する情報共有会議の時間が迫っていた。





「それじゃあ、一安心っていう事なんですね?」

 ホッとした様子のテシーが、話を聞く間止めていた手を再び動かし、磨かれるグラスが軽快にキュッと音を立てる。

 夜八時半。特別何も無い日で、観光客も来ていないため、バーには店主の他、カウンターに着いている丸く太った虎の姿し

かない。朝が早い漁師ばかりのこの島では、夜八時頃になるとみな自宅へ帰って

「うん。まぁそうなんだが…」

 半分ほどビールが残ったグラスの縁についた泡を見つめ、答えるヤンは歯切れが悪い。気になったテンターフィールドが「

まだ何かあるんですか?」と訊ねるも、「いや、どうなんだろう」と虎の医師は明朗な返事ができなかった。

 考えたくない事だが「敵」の中にはこれまでと桁違いの何かが混じっているらしい。

 島へ戻る途中でリスキーはそう言った。

 獣が表に出ながら、しかし即座に動く事はなく、警戒するようにその場に留まっていたとアジア系の青年は報告した。何よ

り、「自分と少し似ていて同じ」とルディオは印象を語った。

(それは…、ウールブヘジンと似た何かが来ているっていう事なのか…?)

 リスキーは明言しなかったが、彼が同じ事を考えているのは明白だった。

 そして、彼は前々から言っている。ウールブヘジンが敵に回った場合、自分では全く歯が立たない、と。つまり、「敵」の

中にウールブヘジンと同等の存在が居た場合、リスキーですら戦力にカウントできず、頼みの綱は…。

(そもそも、ルディオさんの変化も気にかかる)

 ヤンの表情は険しい。ルディオは、これまでは認識できていなかった獣が表に出ている時の印象や感覚を、最近になって把

握できるようになってきたらしい。それは人格の統合が始まったから、という可能性もあるとヤンは考えている。

 そしてその統合が進んだ場合、果たしてルディオはどうなるのか?

(専門医の判断を仰ぎたいところだが、診せるのは危険過ぎる…)

 精神性はどうあれ、ルディオの肉体がひとの範疇から逸脱している事は誤魔化しようの無い事実。診察の際に簡単な検査を

されるだけで異常性が露呈する恐れもあった。

「先生?」

 目を上げたヤンは、心配そうなテシーに「ああ…」と微苦笑を見せた。

「大丈夫だろう。とりあえずは、ね」

 嘘は、自然に言えた。



「アンチャンが昔居たトコなのかな?そいつらのトコって」

 ノートパソコンの画面に映し出される、ビルを写した風景映像を眺めながら頬杖をついたカムタが問うと、ルディオはいつ

ものように「わからない」と応じた。

 画面に次々と映し出されているのは、ビルの屋上に何らかの建物がある映像。ルディオの証言を元にリスキーが集めたデー

タである。

 自分と似て、同じ。

 ルディオ自身の感想というよりは、「獣がそう感じた」のを「思い出した」ような印象。リアルな夢から醒めた後に見てい

た事を思い返し、実際に経験した訳ではないのに生々しい現実感を伴う感覚を追憶するのにも似ている。

「会えたらさ…」

 カムタが一度言葉を切る。

 ソファーに並んで座るふたりの間に、沈黙が落ちた。

「アンチャン、帰んなきゃなんねぇよな」

 画面の景色が変わってゆく。画像を切り替え、カムタの指がキーを押す音が、妙に大きく聞こえた。

「わからない」

 いつもの答えを返して、

「でも」

 ルディオは付け加える。

「もし帰るならカムタと一緒だ。そこが「カムタによくないところ」なら、おれは帰らない」

 それはもう決めていた事。例え自分の古巣が判ったとしても、そこへ連れて行く事でカムタが不幸になるなら帰らない。も

しそうだったら、自分はずっとカムタとこの島で暮らすのだと。

「そっか」

 囁くような小さな声には、カムタの安堵が微かに滲む。

「ん?」

 ルディオは画面から目を離し、視線だけ横に、少し下へと向ける。

 尻をずらして来た少年の太ももが、脚にぴたっとくっついていた。少し汗ばんだ肌に、体温と湿り気を感じる。

 不快ではない、若々しい…というよりも未成熟な、子供特有の汗の香りが鼻をくすぐる。

 これまでそうして命を生きてきた。そんな痕跡が窺えるように、カムタの体からは潮と草の匂いもする。それは、採った、

食った、身になった命が、まるでその若々しい体に残り続けているようで…。

「ん」

 鼻の奥を小さく鳴らして、ルディオは画面に目を戻す。

 触れた肌が温もるように、胸の中にも灯った温もりを噛み締める。

 尻尾がふさっと、軽く揺れた。



(警戒し過ぎ、という事もないだろう…)

 痩せた月が浮かぶ空を一瞥し、リスキーは潮風に踊った髪を押さえる。

 新月直前、自分であれば、仕事であれば、タイミングとして狙う可能性が高い夜。殺し屋の青年はフレンドビーのバルーン

を伴い、船着場や、隠れて上陸できる入り江を見回っていた。

 岩礁が多くてシーカヤック以外は適さない入江、小船でなければ寄れない遠浅の浜、カムタから教えられたリスキーの頭に

は、島の防衛に役立つ地理が叩き込まれている。

 ルディオの、つまり獣側の感覚の印象によれば、察知した気配は「似ていて同じ」らしい。もしも、あの獣と同等の生物兵

器が敵として立ちはだかる事になったなら…。

「………」

 軽く首を振るリスキー。

 自分では勝てない。弟も、恩人も、この島も護れない。まともにやったなら。

 だからこそ、せめて先制はされないように警戒しなければならない。真っ向勝負で敵わなくとも、こちらから奇襲を仕掛け

られればまだ可能性はある。

 既に、報告とともにフェスターを通じて手配した。主義を曲げ、いつもは個人的に使用を控えるような様々な武器を取り寄

せている。

(さて、頑張ろうか…)

 宙に浮く蜂の影を伴って、殺し屋は独り歩む。

 行く先も定かではない明日は、まだ遠い。





「103個あった」

 眩しい太陽の下で輝く海を切り裂くモーターボート。その舳先に座ったカラカルが、飛沫で濡れる足をブラブラさせながら

言う。さして大きくもないその声を、激しい風の音の中でコヨーテはしっかり聞き分けていた。

「グリモア100個以上とかさ、すげぇ金かけてんねー。連中」

「これからさらに増える。狩り続ける限り」

 静かに応じたホニッシュは、行く手に見えてきた島影を眺めて口を閉じた。

 青く高い晴れ渡った空の下、美しい…と多くの者が感じるであろう光景に、ホニッシュもウォッシュも何も感じはしない。

そういった感性は兵器としての起動前に破棄している。

 波立つ水面に浮かんだ月のような形の島。二頭が向かうそこは、人口密度もこの諸島で平均的な、有り触れた島である。特

筆すべきは最近簡易市場制度が導入された事、数少ない医者が居る島である事、そして交番が火事になって警官がひとり殉職

した事、死亡事故があった事、この四点程度。交番の火事はともかく、事故死の件数も起きた出来事も、このような場所では

そう珍しくない。

「例えばさ、お前現地でどっか損傷したら医者にかかる?」

「いや。だが行かないとは言い切れない」

 ウォッシュの問いに答え、ホニッシュは呟いた。

「診察は受けないが、有用な栄養素や薬品などを頂戴する事はあり得る。進歩が遅れているこういった辺境であればなおさら、

入手できる確率が高い場所は貴重だ」

「なるほど」

 腕を組むカラカル。

「じゃあ医者からだ」

 ホニッシュの足元には手甲を収めた鞄。ウォッシュの後ろにはククリが入ったトランク。双方着替えも中に要れ、身に着け

ているのはアロハシャツにカーゴパンツ。

 旅行者のような装いの二頭は、小型ボートがギリギリ抜けられるような岩場を通り、ボートを断崖につけた。

 ひとが上陸できる場所ではないとして、リスキーもカムタも見張る重要性が低いと考えていた箇所…。しかしそこは、ひと

ならざる二頭にとって障害にもならなかった。



 茶色いシーカヤックが岩礁地帯を抜けてゆく。アンテナのように釣竿を二本立てた前に座るのは、コロッと太い色黒の少年。

 脂肪も厚いが筋肉量もあるので、この程度は労働の内に入らない。カムタはダブルブレードパドルを太い腕で巧みに操り、

シーカヤックは軽快なジグザグ軌道で海面に顔を出す岩を避けてゆく。ムチッと張りのある小麦色の肌には跳ねた海水と汗が

玉になって、強い日差しにキラキラと輝いていた。

 島の外周にいくつか存在する岩礁地帯や、30平方メートルにも満たない小島は、魚が居付くポイントでもある。近いとこ

ろへはシーカヤックで釣りにゆく島民も多いので、地元民であるカムタは怪しまれる要素皆無の偵察行動を行なえる。

 カムタひとりだけの単独行動に見えるが、実は違う。カヤックに座るカムタの太腿の上には、チョコンとメロン大のクマバ

チが乗っていた。カヤックには足を伸ばして座る少年の下半身を覆うように船体と同じブラウンのカバーが取り付けられてお

り、直射日光と人目からフレンドビーを隠している。

「なあ、バルーン」

 岩礁の間をスイスイ抜けてゆきながら、カムタはフレンドビーに話しかける。

「リスキーはあんまり詳しく教えてくれねぇけど、「危ねぇ組織」の連中がやられてるのは、「もっとすげぇ組織」の仕業な

んだよな?」

 返事をするようにブブッと翅を震わせるフレンドビー。

「リスキー忙しそうだし、本当は物凄く大変な事になってんじゃねぇのか?」

 椰子の木が十数本生え、草が茂っているだけの無人島にカヤックを寄せながら、カムタは瞼を半分降ろす。アジア系の青年

は情報をもたらしながらも、自分達に過剰な危機感やプレッシャーを与えないように、控えめな表現や言葉遣いを用いている

のではないかと、少年は考えている。

「リスキー達の本当の探し物も見つかってねぇ。やる事たくさんあって大変だろうし、気持ちとか疲れちまったりしねぇかな」

 案ずる少年は小島の岸壁へカヤックをつけ、ロープをかけて係留すると、ゴソゴソと股下に手を入れて船底をまさぐり、籠

を作る要領で拵えた自家製のバスケットを取り出した。中身はサンドイッチで、炙り焼きにしたチキンや玉子のマヨネーズ和

えが具になっている。

 予定ノルマの半分を超えたので、一息入れて昼食休憩。サンドイッチをパクつき、リスキーから貰った魔法瓶式の水筒から

冷えた水を飲みながら、カムタは小島の様子を改めて眺める。ぐるりと一周したが、誰かが上陸している形跡は無い。空振り

ではあったが異常が無いのは良い事である。

 食事を摂る少年の脚の上で、フレンドビーも合挽き肉のミートボールをプラスチックの小皿に出して貰って、嬉しそうに翅

を震わせながら食べている。基本的に果実や樹液を好むフレンドビーだが、ひとが食べられる物は何でも食べられる。好みは

個体によって異なるらしいが、カムタに付けられたフレンドビーは挽肉や魚のすり身を団子状にした物がお気に入り。

「オラ達もだけどさ、決着つかねぇとリスキーも落ち着かねぇんだよな…」

 事が済んだらリスキーは帰ってしまう。それは確かに寂しいが、もはやそんな事を言っていられる状況でもない。

「バルーンも仲間のトコに帰りてぇだろ?」

 少年の問いに、しかし食事しているフレンドビーは反応を示さない。

「アンチャンは…うん。もし帰る事になってもオラがついてくから良いんだけどさ」

 もしかしたら、事件が全て終わった後には皆がバラバラになるのかもしれない。

 そんな事を考えるカムタは、勿論まだ気付いていなかった。

 終わりの先触れが、既に島へ上陸している事には…。



「あー、熱中症かも?何か寒気してだるくてあちこち痒くて眩暈もするかも?あと耳鳴りも」

「そこに座って下さい。すぐ」

 ヤンは表情を引き締めてカラカルに指示し、まず口をあけるように促した。

 旅行者だと言う若いカラカルは、診療所の椅子に腰を下ろして脚を揃え、行儀良く手を上に乗せた。

(熱中症の症状ではない。というよりも絞れないな…。食中毒?いや、何らかのウイルスに感染しているおそれもある…。旅

行者となると風土病への耐性もないから…)

 口腔、瞳孔、心音、脈拍を確認してゆくヤンに、

「先生、ずいぶん太ってるね」

 カラカルは気さくに、そして不躾に話しかける。

「医者の不養生というヤツですが、心配は無用です。自分の体に関してはともかく、患者の体に対しては普通に医者をやれて

いますよ」

 言われ慣れているヤンは血圧を計りながら応じ、

「………?」

 耳をピクリと動かした。裏側…母屋の方で物音がしたような気がして。

「ああそうかい。それは良かった。でも、そういう体型って突然死とかあるっしょ?心不全とかさ。血管詰まったりも」

「まあ、そうですね」

 絡む元気があるなら心配は要らないかと、健康そのものの血圧の数字を確認したヤンは、

「………」

 メモを取りながら考える。違和感について。

「旅行者の患者って結構来る?」

「多いかどうかはともかく、まあ来ない月はありませんよ」

 カラカルの態度は、体調不良を訴える割に余裕がある。旅慣れているから…というような事では説明できない。旅人こそ体

の不調には気を配る。旅慣れているカナデは、ちょっとした体の違和感にも敏感に反応し、念のためにスケジュールを調整す

る程だった。

「有名人とか、変わったヤツとか、来た事ある?」

「この島は観光する場所も無いですからね。生憎俳優や歌手を診療した事はありません」

 逆に、旅に慣れていないからというのも考え難い。不安だからこそ饒舌になるという事はあるが、そうして口数が多くなる

場合、だいたい話題は自分の体の事になる。ところがこのカラカルは…。

「この島って突然死多い?太ってる島民多いけど」

「さて…」

 さらに先ほどの物音…。リスキーではない。今日は一時間ほど前に休憩に戻ったばかりで、また見回りに出ている。カムタ

はフレンドビーと一緒に岩礁周りをシーカヤックでパトロールしている。テシーならそもそも大声で挨拶する。そしてルディ

オは…。

「昨夜と今朝の食事内容は憶えていますか?普段あまり食べない物を口にしたりは…」

 聞き取りに入ったヤンは、しかし神経を背中で尖らせている。あれっきり物音は聞こえなくなったが…。

「アレルギーはありますか?それと、ビタミン剤などで体に合わない物があれば…」

 質問を重ねるヤン。その間にもメモを取っていくが、書いている内容が自分でも頭に入っていない。聞いた事をそのまま写

すのが精一杯である。

「…では、このまま少しお待ち下さい。薬を取ってきます」

 腰を上げたヤンは、診療室を出てゴクリと唾を飲む。

 空のベッドにカーテンが引かれた部屋。薬品の戸棚を探り、ビタミンの錠剤等を取り出しつつ、虎医師は平静を装う。

(もしもの引き延ばしが、最悪のタイミングになった…!)

 ヤンは気付いていた。呼吸も乱さず、声も上げず、何とか自制した。振り向いて確認したいという衝動も含めて。

 ベッド周りに半分引いたカーテン。その下側に見えていた。ブーツを履いた足が。

 居る。侵入者が居る。

 気付いている事に気付かれないよう、ヤンはビタミン剤の瓶を取る手の震えも、笑い出しそうな膝も、精神力で押さえ込む。

 ただの物盗りならばいい。見られて本当にまずい物…リスキーが言う「秘匿事項」に触れるような物は軽く部屋を物色した

程度では見られない。

(どっちだ?)

 焦りと恐怖を抑え込み、ヤンは思考を巡らせる。

 患者の男とはグルか?ただの泥棒か?それとも「問題のケース」か?自分にできる事は他に無いか?

 処方するビタミン剤や薬を手に、ヤンは診療室に戻り…。

「あのさぁ先生」

 既に「着替えを終えた」カラカルは、ニコニコしながら話しかけた。

「考えたんだけどさ。やっぱ先生みたいなデブだと急に死んでも不思議じゃないと思うんだよな」

 ククリをスッと前へ出し、その刃先をヤンの出っ腹に突きつけて、ウォッシュ・ビスは小首を傾げて微笑みかけた。

「死にたくなかったら、ちょーっと込み入った質問に答えて貰える?」

 肥満虎は瓶を持ったまま両手を肩の高さに上げ…。

「落ち着きなさい。刃物で死ねば君が言う「急死」とは見られないぞ?」

 声に乱れは無かった。呼吸も正常だった。刃物を突きつけられて、相手が一押しすれば刺さると確信してなお、先ほどより

冷静になっていた。もうなるようにしかならない。追い詰められて開き直った心境にも似た落ち着きをもって、

「生憎と儲かってはいないが、金が欲しいなら持って行けばいい。金庫の在り処は教えるし、ロックも外す」

 ヤンは物盗りだと思い込んでいる風を装う。相手が真っ当でない事を確信した上で。

「ふぅん?」

 虚勢かと疑い、ウォッシュはククリの刃先を鋭く返し、ヤンのアロハシャツからボタンを飛ばす。が、虎医師は降参の格好

をしながらも動じない。

「へぇ、ビビんないんだ?」

 シュッと刃先が風を裂き、落とされた三つのボタンが床に転がるも、「いいや怖いとも」とヤンは平静そのもの。

「強盗とか初めてじゃないクチ?」

「実はね。正直、金なんかより命の方が惜しい。こんなナリだが生き汚いんでね」

 ウォッシュの目が鋭く細められる。ククリの刃先はたるんだ胸の上に当てられ、肋骨越しに心臓を一突きし易いよう刃を水

平に寝せていた。

「ふうん?そっか」

 それは絶妙な受け答えだった。興味を引かずにあっさり殺されはしない。しかし確定的に怪しい要素は感じさせない。

 ウォッシュは判断に迷った。この落ち着きは只者ではないが、かと言ってエルダーバスティオンの関係者とも確信できない。

身のこなしは素人で、平静に見えるが心拍数は上がっている。チグハグに感じられ、故に判断が難しい。

 尋問の必要性がある。口封じを焦ってはいけない。

(ああ、殺したい殺したい殺したい殺してーなー…。どんな断面かな?やっぱ脂肪多くて白っぽいかな?どんな声で命乞いす

るかな?ああでもダメだ、ちょっと話聞かなきゃだよなコレ。ああでもでも殺したい早く殺してみたいどのぐらい刻んだり刺

したりしたら話すかな脂肪の厚みはどのぐらいかな医者だから怪我の状況自覚できるよな変わったリアクション見れるかな)

 と、カラカルは気付いた。ヤンの目がスッと、何かを見つけたように動いた事に。

「…」

 沈黙は一瞬。ウォッシュは記憶にある窓の位置めがけて、振り向きもせずにククリを投げた。無造作だが、しかしそれは時

速200キロを超える高速投擲。破砕された窓ガラスが噴射されるような勢いで外へぶちまけられ…。

「っ!」

 一瞬の隙に、ヤンが背中から後ろへ倒れ込む。ウォッシュの指がシャツの襟を掴むが、千切れてしまって捕らえ損ねる。直

後、診療室のドアが破られた。

 ヤンが一瞬見た、ドアの小窓の向こうにあったセントバーナードの貌は、もう無い。

 ドアを破壊してなだれ込んだ獣の貌には、琥珀に輝く瞳と、感情の抜け落ちた無表情。

 フェイントで命を繋いだヤンの眼前から、カラカルの姿が消失した。後ろから襟首を掴んだ獣は、ウォッシュがククリを投

擲したように、無造作にその体を窓の外へと放り投げている。

 ガラスが無くなり枠だけになった窓の縁を、当たった足で派手にひしゃげさせて木片を撒き散らしながら、カラカルは十数

メートルの飛翔の後に「着地」した。二本の足で。

「…何だよ今の!?」

 驚きの声を上げるウォッシュの手が、腰の後ろから予備のククリを引き抜いた。

「た、助かったよ…!」

 ドッと汗をかいたヤンの眼前で、医師を一瞥して安全を確認した獣は、破れた窓へ視線を向け…、

「わ!」

 瞬時に目を戻しつつヤンの肩口でシャツを掴み、引っ張り起こす。直後、診察室奥のドアがバガンと音を立てて上下真っ二

つに割れ、中央を貫通した鋼鉄が輝いた。

 ドアを殴って破砕し、突き破って踊りこんだのはコヨーテ。獣は相手を視認しつつ、ヤンの体を抱えて軽々と後方へ跳び下

がる。

 破壊したドアから外へ飛び出し、後ろ向きに着地した獣は、ヤンを片腕で脇に抱え直しつつ180度方向転換し、コヨーテ

に背を向けて真っ直ぐに駆け出す。

 獣の巨体に比べてなお、肥満しているヤンの体はボリュームがある。かさばって抱え難そうではあるが、それでも疾走する

獣の速度は時速60キロを軽く超えており、ヤンは両手で口元を覆わないと風圧で呼吸ができない。激しい上下動と加速、障

害物…木々などを避ける横揺れは、獣にその気がなくともヤンからすれば激しくシャッフルされているような物である。

「何処に行くんだ!?」

 内臓が撹拌された気分になって胃液が逆流しそうになりながら、ヤンは叫ぶように問う。短時間ではあるが、獣はその脚力

をもって既にかなりの距離を駆けている。さきほどのふたりはもう振り切れたと思うのだが、獣は止まる気配が無い。

「もしかして…」

 ゴクリとヤンの喉が鳴る。あまり考えたくは無かったが…。

「ふたり相手は厳しいのか!?」

 獣は応えない。ただ真っ直ぐに駆け続けて、やがて…。



「ホニッシュ、何だアイツ?」

「さあな」

 疾走するカラカルは、併走するコヨーテに意見を求める。乱入してきたセントバーナード種の獣人は、既に姿をくらませて

いた。

「ブーステッドマンの一種かね?」

「少なくともまっとうな存在ではない」

「それにしても、デカいナリして逃げ足は早いな。デブの先生抱えてアレかー」

「問題ない。匂いを辿れる」

 ヤンの衣類と被毛には診察室の匂い…薬品のソレが染み込んでいた。二頭の鼻にはそれが自然界で異質なノイズのように捉

えられるため、移動経路はほぼ判る。

 やがて二頭は、ポケットビーチを思わせる入り江に差し掛かった。砂浜を眺めたウォッシュは、ニィッと口元を緩ませる。

「おい居るよ。待ってたっぽい」

「………」

 ホニッシュも気付いていた。砂浜の中央にポツンと、降り注ぐ太陽を浴びて佇む大柄な人影に。

「虎医者居ないけど…。ま、そっちは後でいいか」

 罠を警戒し、一時止まって周囲を窺ってから砂浜へ降りてゆく二頭を、木立の中に隠れたヤンが見つめる。

 獣はヤンをここに降ろしてから目立つ砂浜に移動し、カラカルとコヨーテを待ち受けた。明確に何らかの意図があると、医

師は察している。

(「似た」…。「同じ」…。もしかして、同種と感じて接触を試みようとしているのか?)

 だが、コミュニケーションが取れるかどうかと考えれば、それは難しいのではないかとも思えた。

 獣は言葉を発せない。獣が出ている間は脳の言語野が機能不全を起こすのか、そもそも言葉を持たない精神性の人格なのか、

推測の域を出ないが、少なくともカムタともコミュニケーションが取れていない。

 そして、ヤンに危害を加えようとしたカラカルは、医師個人の印象で言うならば、リスキーとは違う「まともではない」男。

ルディオが来る予定だった見回りの中間報告まで時間を引き延ばす最中、ヤンはひしひしと感じていた。

 害意。そう、悪意でも敵意でも憎悪でも嫌悪でもなく、純粋な害意を。

 目的はあるのだろう。それを優先してはいるのだろう。だがカラカルから滲み出ていたのは、単に相手を害したいという、

その根底にある危険で迷惑で異質な欲求。ヤンが感じ取ったのはその異質さだった。

(…異質?)

 顎下に伝った脂汗を手の甲で拭い、ヤンは考える。

 獣は異質である。記憶がないルディオがまともであるからなおさらそう感じる。だが、果たして本当にそうだろうか?と。

 確かに、獣は躊躇いなく障害を排除する。対象を徹底的に、凄惨に破壊し、必要な殺害を辞さない。

 だが、ヤンの目に凄惨に映るのは、確実を期した結果でしかない。徹底しているのも確実性のためと言える。「そう認識し

ている」という前提での話だが、自分達「仲間」の安全を確保するため、獣は躊躇しない。

(異質…ではある。文明人から見れば。だが、外敵を排除して仲間を守るという行動方針そのものは、実に「まとも」な社会

性のある動物の行動と同じじゃないのか?)

 やがて、砂浜の真ん中に立つ魁偉な獣に、カラカルとコヨーテが近付いてゆく。ヤンは固唾を飲んでそれを見守る。

「よう!お前、何?」

 歩み寄りながら、ウォッシュはニコニコ笑いながら獣に話しかける。

「所属はどこの組織だ?」

 並んで歩くホニッシュが言葉を被せる。が、獣は答えない。琥珀の瞳をじっと二頭に据えている。

「先生は何処にやったんだ?よっと」

 軽い口調と軽い音。砂が蹴り散らされる、音。

 問いかけながら地を蹴ったホニッシュは、獣の首めがけて逆袈裟にククリを振っている。切っ先で顎下をパックリ割る軌道

だったが、獣はそれを予期していたように半歩足を引き、寸前で回避していた。

「意外と早い、なっ!」

 ドボッ。

 そんな音が耳に届く前に、ヤンの目が見開かれる。

 振り抜いた右腕を追いかけるように、カラカルの右足が蹴り上げられていた。獣の脇腹に入ったそれは、被毛を、脂肪を、

筋肉を、内蔵をひしゃげさせ、太い胴の三分の一ほどまでめり込んでいる。

 直後、弾かれたように獣が吹き飛んだ。自分の倍以上ある巨体を軽々と蹴り飛ばしたカラカルは、砂塵を上げてそれを追走

する。

(そんな!?)

 ヤンは直感した。今の蹴りと直撃した獣の胴の様子から、確実に内臓が破裂している事を。

 きりもみ状態で砂にたたき付けられ、バウンドした獣の顔面に、飛び込んだホニッシュの靴底がめり込んだ。

 メヂャッと、獣のマズルが埋没し、顔面が平らになる。

 さらに加速を加えられる形で蹴り飛ばされた獣の巨体は、ほぼ水平に吹き飛び、それを追うように砂浜から砂塵がブワッと

舞い上がった。

 蹴り飛ばした相手に走って追いつき、追撃を加える。戦闘の素人であるヤンにも、遠目に見てなおウォッシュの異常さがあ

りありと伝わって来た。そもそも動きがおかしい。それはあまりにも高速で、まるで…。

(ウールブヘジンと同じ!?)

 リミッターカット。ヤンは知らなかったが、ウォッシュ達が披露している運動性能は、獣人の肉体に脳がかけている禁圧作

用…出力制限を意図的に外す事で得られるもの。負荷に肉体が耐え切れないほどの出力は本来自殺行為なのだが、ウォッシュ

達はそれに耐えられるよう肉体を補強されている。

 そしてそれこそが、これまで獣が見せていた異常な身体能力の正体でもあった。出力異常による負荷で肉体に生じる損傷を

高速修復で補う事で、獣はこれを持続的に使用していた。獣に変じた前後でよく大量に栄養補給をしていたのは、能力の使用

や負荷で損傷した肉体の修復に、大量のエネルギーが必要になるせい。

 地面に激突し、激しくバウンドし、砂浜の際で岩塊に叩き付けられた獣は、スピンしながら跳ね上がり、波打ち際を越えて

海面に落下した。

(一方的に…、あんなにもあっさりと…!?)

 愕然とするヤンだったが、それも一瞬の事。

 海中に没した獣は背中を見せて水面に浮かんだ。自発的な動きは無く、波に揺れるだけに見える。

(まずい!まさか死…、いやまだだ!気絶!?そうだ、気を失っているだけだ!そうだろう!?)

 何とか獣を救出できないかと、医師は頭脳をフル回転させる。今この場で自分にできる事は…。

「何だったんだろなアレ?拍子抜け。もっと手強いかと思ったのに、ちょっと本気出したら即死じゃん?」

 ウォッシュが首だけ振り向き、ホニッシュは肩を竦める。

「初撃は避けられた。それなりの性能なのかもしれないが…」

「まぁいいや。さぁ解体ショーを開始しまショー!」

 ククリを持つ手を大きく振り回し、ウォッシュはスキップしながら波打ち際へ向かう。が…。

「待て!」

 砂浜に響いた声に、カラカルも、コヨーテも、驚いた様子も無く首を巡らせる。

 木々の間から姿を見せ、砂浜に歩み寄るのは肥満体の虎。

「やあ先生!」

 ウォッシュがサッと手を上げる。そして…。

「汗臭いからさ、近くに居るのは最初から判ってたよ。やっぱデブは突然死しちゃうな先生!」

 声に続いて、ヤンの全身を剛風と砂塵が叩いた。高速疾走で接近、急停止したウォッシュは、一瞬で虎の眼前に到達してい

る。これまで獣に駆除された者達の気持ちが少しだけ判り、思わず唾を飲み込んだ。

「で、何?もう殺すけどいい?いいよね?断面気になるんだ、たぶん白っぽいと思うけど先生はどう?」

 無邪気な笑顔と他意のない害意。カラカルの異質さに悪寒を覚えるヤンは、また降参の格好で手を上げながら口を開いた。

「我々の負けだ。組織の事は話すから見逃して欲しい」

「え?うそ、命乞い?」

 目を丸くするカラカル。

「そういう事だ。命は惜しい。組織への忠誠より我が身優先さ」

「ふーん」

 目を細めるウォッシュに、歩み寄りながらコヨーテが声をかける。

「ウォッシュ。話だけでも聞こう」

「だね。で、何を教えてくれるの先生?」

 カラカルがククリを腰に戻すと、ヤンは少しだけ安堵した。

「ここでは何だから、場所を変えて…」

「ダメだ」

 ウォッシュが即座に遮る。顔からは笑みが消えていた。腰からはククリが消えていた。ヤンの首には刃が当てられていた。

「ここで話してよお医者さん。すぐ」

「………」

 ヤンの頬を汗が伝う。一度は隙を突いて出し抜いたが、ウォッシュにはもう油断がない。先ほどのように後ろに転げて逃げ

るのは不可能。それに、もしそれが上手く行ったとしても後に続かない。もう獣には助けて貰えない。

「…判った。だがもう少し目立たない場所に移動したい。同僚に見つかったらまずいのでね」

「それぐらいなら良いけど」

 ヤンが木陰への移動を提案すると、二頭は虎を逃がさないよう挟んで歩いた。どう考えても逃げられないが、ヤンはパニッ

クにならないよう必死に冷静さを保つ。

「じゃあまず質問その1。先生は何処の組織所属?」

 ウォッシュの問いに、ヤンは「ONCだ」と応じた。嘘をつくにも、そもそもどんな組織があるのか詳しくないので、すぐ

出てきた名を怪しまれないよう口にしている。

「ONCかぁ。なるほどなるほど。へ~、意外。あそこって結構技術力あったんだー?」

「あのセントバーナードは何だ?何らかの肉体改造が施してあるようだったが」

 ウォッシュに代わってホニッシュが問い、ヤンはまたも頷く。

「最新式のブーステッドマンだ。筋力に特化した人体改造を施してある。新技術による試験段階で、問題点が全てクリアでき

ている訳ではないが…」

 それはリスキーから聞き齧った情報をもとに、でっち上げの脚色を加えた完全なでまかせだったが、「もしかしてそれ、先

生がやった?」とウォッシュが食いついた瞬間…、

(しめた!)

 ヤンは平静を装いながら胸中で飛び上がる。

「まあ、な…」

 喋り過ぎたと言わんばかりの顰め面を作るヤン。この時点でウォッシュとホニッシュは、予想外に良い獲物を釣り上げたよ

うだと認識を改めた。

(新技術を投入した改造獣人かー…。それが護衛してるなら、この先生結構上の方のひとなんじゃない?)

(問題点が残る個体の管理と運用を任されるだけの技術者であり指揮官という訳か。一度はウォッシュから逃げおおせた機転

も頷ける)

 情報を得る以上の価値がある。二頭はヤンをそういった立場の存在だと認識する。新技術とやらの情報も土産としては上々、

自分達の直属の指揮官は勿論、その上の大幹部も喜ぶかもしれない。技術と知識は、時に貴重なレリックの現物をも超える価

値を持つのだから。

 目論見通り誘導する事に成功したヤンに、ウォッシュは目の色を少し変えて訊ねた。

「じゃあさ。アンタ達はこの諸島で何をしてたの?エルダーバスティオンは何が目的?」

「エルダーバスティオンは…おそらく妨害と、我々が探している物を奪取するのが目的だろう。残念ながらそちらは詳しく判

らない」

 調子に乗って喋って下手にボロが出ては困るので、本当に詳しく知らないエルダーバスティオンの事を真っ先にぼかしつつ、

一拍の焦らしを設けるヤン。

 不思議な感覚だった。診療室での時と同じように、また自分は落ち着いていると、ヤンは自覚する。

「で、探し物って何?どんなの?レリックか何か?」

 急くように問うウォッシュ。

「そうだな。何と表現すべきか…、あるいはそうだな。レリックなのかもしれない」

 耳を澄ませるホニッシュ。

「未だに正体は判らないが、とても重要で、大切な物だ」

 ヤンは静かに、自分に注目する二頭に囁いた。

「我々は「彼」を、「ウールブヘジン」と呼んでいる」

 オンッ…、と、風が啼いた。

 カラカルが上空へ舞い上げられた。コヨーテが真横に吹き飛ばされた。どちらも、無造作に腕を掴まれ投げ飛ばされる形で。

 地響きも、豪音も、突風すらも、その事象の後に感じられた。

 砂を巻き上げ大地を揺らして着地し、ヤンの眼前に跪いたその獣は、陥没した顔面も破裂した内臓もほぼ修復し終えている。

 周囲の景色がゆらゆら揺れているのは、獣の巨体が南国の気温すら大きく超える熱を発しているせい。海水が湯気混じりの

陽炎を作っており、特に損傷していた顔面と脇腹付近は大気の揺らめきが激しい。

「良かった…!やっぱり生きていたんだな…!」

 安堵するヤン。口元が思わず綻んだ。

 ヤンは当初、深い切創すら短時間で修復する獣の回復力に賭けて、二頭をこの場から引き離そうとした。それが叶わないと

なったら、切り替えて少しでも時間を稼ごうとした。今度は自分が助かるためではなく、獣を助けるために。

 地上20メートル付近まで放り投げられたウォッシュが、四つん這いで砂の上に着地する。水平に放られたホニッシュは、

既に椰子の幹を足場に立ち直り、地面に降り立っている。

「逃げろ!ひとりなら難しくないだろう?リスキーとカムタ君に知らせるんだ!」

 ヤンは獣にそう訴えた。獣自身が言葉を持たなくとも、ルディオに戻ればこの記憶も引き継がれているはずだと期待して。

だが…。

「…?おい!?」

 獣はヤンに背を向け、ククリを抜いたウォッシュと、手甲から鉤爪を出したホニッシュを見遣りつつ、砂浜の中央へと歩い

てゆく。丁度二頭の中間に移動するように。

「逃げろと言ったんだ!頼む!」

 ヤンの焦り声を受ける背中には、ベストに刺繍された「X2U」。

「高速修復?どんな能力だ?…それとも、特殊な機能か?」

 ホニッシュが眉根を寄せる。自分達も傷の治りは早いが、全治一か月の負傷が数日で治るという程度。秒単位で再生する目

で判るほどの高速修復など見た事もない。こんなレベルで治癒力の推進などを行えば細胞劣化が進んで自壊するのは自明の理。

そもそもそういった機能を搭載できるなどという話は組織でも聞いた事がない。

「それはともかく…、誘われちゃったらまぁ、仕方ない仕方ない」

 ウォッシュが笑う。嗜虐心が前面に現れた笑顔で。一方ホニッシュは鼻面に皺を寄せ、不快さと怒りが混じった表情。

「じゃ、まず両腕から切除~!」

 砂埃が舞い上がる。瞬時に獣に肉薄したカラカルは…、

「ぶぇ?」

 俯き、腰を浮かせ、足を砂から離し、目を見開く。

 瞬時に向き直り、大地を踏み締めた獣の右拳はカラカルの腹を下から捉えている。対して、ウォッシュが突き出したククリ

の湾曲した刃は獣の左肩を掠め、被毛の先を短く、粉のように切り散らしたのみ。

 腰を入れ、力強く踏ん張り、太い胴を大きく捻り、丸太のような腕に力を漲らせて繰り出された、強烈なボディブロー。く

の字に…否、前傾姿勢で突っ込んだところで下から腹を突き上げられ、への字になって浮き上がるウォッシュの体。

 直後、口から大量の血反吐を吐き出し、カラカルは再び宙へ飛ばされた。

(…え?)

 ヤンの目が見開かれた。獣の動きが変わっていた。より正確には、「これまでのもの」に戻ったと言える。

(まさか…?敵わなかったわけじゃなく…、相手の様子見をしていただけ!?)

 そう。先に攻撃された際、獣の動きは確か普段よりも鈍かった。

 琥珀の瞳が冷たく光る。

 確認は済んだ。結論は出た。この二頭は危険なモノであると、脅威であると認定し、この島から洗い落とすと決められた。