Einherjar
宙に打ち上げられたカラカルが、口腔から引いた鮮血で弧を描く。
白目を剥いていたウォッシュは、しかしすぐさまギョロリと目を動かして喉を鳴らし、血反吐を飲み込み舌なめずりした。
(畜生!油断して無防備に突っ込んだ!当たればデカイ、か…。思ったより歯応えあるじゃん!)
普通であれば内臓が損傷するどころか、背骨まで粉砕されるほどの強烈なボディブロー。強化骨格とユニット化された内臓
のダメージを把握し、戦闘続行可能と判断したウォッシュの目は、そのまま獣の背後に向けられた。
(ちっ!目聡いなー!)
ウォッシュを迎撃した獣の背後に、ホニッシュが迫る。コヨーテの両腕には鉤爪を伸ばした手甲が輝き、背後からうなじを
突き抉ろうと構えられているが…、
(む!?)
アッパーカット気味にボディブローを振り上げていた獣の体躯が、グンと捻転した。右腕を引き付けつつ振るうのは拳を固
めた左腕。捻りを戻すその巨躯は、まるで引き絞られた弓のように力を溜め込んでいる。
先手は間に合わないと直感し、ホニッシュは咄嗟に腕を引きつけてガードの姿勢を取る。
(マジかあれ?意外と速くねぇ?まぁホニッシュなら防いでカウンター、それで終わりなんだけど…)
着地したカラカルは、まるでダメージが無かったかのように再突撃を試みつつ、内心で舌打ちしていた。手柄は持っていか
れたか、と。
しかしその直後、ウォッシュの目は信じられない物を捉えて見開かれた。
ガウンッ、と金属のハンマーで鐘でも叩いたような音が鳴った。
振り向き様に唸りを上げた剛腕を交差させた腕で防いだコヨーテだったが、踏ん張り切れずに弾き飛ばされる。手甲で防ぎ
ながらも両腕が痺れて一時感覚が喪失した。それだけで一撃の重さと破壊力が嫌でも判る。
「ホニッシュ!?お前、何をして…」
「気を抜くな!」
信じられない物を見た顔で驚愕の声を上げたカラカルは、吹き飛ぶコヨーテが発した叱責を受けてハッとした。
琥珀の瞳が曳光を残し、振り向きつつその右手が、五指を広げて迫り来る。
下から掬い上げるようなソレが、仰け反ったウォッシュの鼻先を掠めて大気を握り潰した。もしもホニッシュの警告が無け
れば、喉を掴まれて一息に潰されていただろう。
(ウソだろ…!?)
当たっていない。触れていない。だが、鼻先を通過したソレが発していた衝撃波が、カラカルの顔に無数の切創を作り、鼻
腔からドパッと血が溢れた。
(エインフェリアふたりがかりで、圧倒されるだと!?)
即座に地を蹴って間合いを外すウォッシュ。直前までその胴があった空間を、横殴りに振るわれた獣の左腕が唸りを上げて
薙ぎ払った。
「ホニッシュ!何だコイツは!?」
「判らん!判らんが…」
体勢を立て直したコヨーテが唸る。
「全力でやらねば、我々が死ぬぞ…!」
コヨーテとカラカルが左右から慎重に間合いを詰める。
もはや油断はしていない。ホニッシュは両方の手甲から鉤爪を展開させて拳闘の構えを取り、リズミカルなフットワークで
体を左右に揺する。ウォッシュはククリを逆手に握り直し、腰を落として地面を踏み締め、すぐにも飛びかかれる姿勢で身構
えている。
だが、挟撃される格好になりながら、獣は焦りを見せない。焦りどころか何の感情の動きも見せない。
だから、二頭とも気付かない。
子細に観察した琥珀の瞳が、自分達を「危険なモノ」と、「駆除対象」と、認定した事には。
獣は、つい今しがたまでウォッシュとホニッシュに対し、大きな損傷を与えるような行動は取っていなかった。
ヤンの診療所でウォッシュの首を捕らえた時、即座に首をへし折らなかったのも、一度引いて間合いを離した後に、その能
力で攻撃を仕掛ける事がなかったのも、相手を見定めるためだった。
「そのもの」ではない。だが、確かに同じ部分があり、似てもいる。そう感じたが故のアプローチだった。
だが、もう結論は出た。その危険性故に、排除が確認に優先する、と。
鉤爪付きの手甲を振るったコヨーテが、避けられ、そのまま肘の部位を掴まれ、捻り折られる。
「ぐうっ!」
呻いたホニッシュの目には、隙を突いて大きく上体を捻り、渾身の一太刀を見舞う準備を整えたウォッシュの姿が映った。
「取った!」
得意満面でククリを振るうカラカル。首をガードして立てた獣の左腕…手首と肘の中間に刃が打ち込まれ…。
「え?」
飛ばなかった。良い音を立てて飛んだ太い腕が、血飛沫を伴って宙を舞う様を想像していたウォッシュは、しかし半分だけ
は期待した物を見せられた。顎を殴り上げられ上向きになった視界で、己の砕けた歯と血が青い空に舞う。
ククリの刃は深々と獣の腕にめり込んだものの、骨に達する前に強靭で分厚い筋肉に止められていた。ひとの首を軽く跳ね
るだけの斬撃が、あまりにも容易く…。
(何だ?何だコイツ!?)
傷だらけで血みどろになった顔に、ウォッシュは困惑の表情を浮かべていた。
ウォッシュは戦闘に入った直後から、痛覚を遮断し損傷を情報としてのみ把握している。計上したダメージレベルは、これ
までに経験してきたどの戦闘よりも大きくなっていた。
(それに、この闘法って…)
自分達の同時挟撃を捌きながら、着実に損傷を与えてくる。ホニッシュは片腕が殺され、ウォッシュは胃と肝臓が潰れてい
る。技能と言うよりも、単純に基本性能で圧倒されている。暴力的かつ、その身体性能を合理的に活用した、対象を破壊する
事をただひたすらに優先する闘い方。それは…。
(旧型のエインフェリア達に、こういう闘い方するヤツが居る…!)
そんなカラカルの思考に先んじて、
(まさか…、コイツは我々が知らないエインフェリアなのか?それも、我々より旧く、我々より高性能な…)
コヨーテもまた獣の素性を考察している。
半ば以上確信していた。コレはブーステッドマンではない。用いる闘法に身体性能、どう考えても自分達と同類だと。
だが知らない。データが無い。聞いた事も無い。そもそもこの諸島で作戦行動をとっている者は、自分達と上官以外に居な
いはず…。
(逃走した裏切り者であれば確実に判る。そうでないのならば、我々が製造された時点で抹消されていた者…?廃棄、あるい
は機能停止が確認されたエインフェリアだとすれば、データが無くとも不自然ではない…。でなければ、そもそも正規登録さ
れなかった者…?我々を凌駕するだけの戦闘能力を備える特別製で、そんな状態に該当しそうな存在は…)
ホニッシュは焦りを感じる。獣には満足に攻撃が入っていない上に、今しがたウォッシュに斬り付けられた傷もシュウシュ
ウと煙を上げながら見る間に修復されてゆく。
(まさか…!?)
ホニッシュはある事を思い出した。
記録は無い。データは持っていない。だが、ギュミルから以前一度聞いた事がある。エインフェリアにまつわる、ある実験
の結果起こった忌まわしい事故の話を。
「「ガルムロスト」の…!?」
呟いたホニッシュの足が止まった。その脳裏に浮かんだのは、実験体が暴走し、黄昏に甚大な被害が齎された、忌まわしい
事件の記録。
「おい!手ぇ止めん…ゲグ?」
攻撃を中断したコヨーテに叫んだ次の瞬間、カラカルの喉が大きな手で掴まれる。
「がっ!ぐっ!」
靴底が砂地から離れる。ウォッシュは首を捕らえられ、獣の左腕で吊り上げられた。
抵抗しようとククリを持ち替え、逆手に握って手首に突き立てようとしたカラカルは、しかしそれも叶わなかった。
地面が震える。反撃する前に高速の喉輪落としで砂地に叩き付けられたウォッシュの頭から、四方に鮮血が飛び散った。
「…あ…あえ…?」
頭脳部に致命的損傷が生じ、ガクガクと全身が震え、カラカルが疑問の声を漏らした。
損傷重大。累積値レッドラインオーバー。機能維持限界。速やかな修繕を要す。…そんな警告が思考の中に割り込んで流れ
続ける。
(体が動かない?そんなはず…)
真っ赤な警告色のフィルターがかけられた視界の中で、自分の首を捕らえて右腕を振り被る獣の、感情が全く見られない瞳
は、なおも琥珀色に輝いていた。
ドンッと腹に響く音が鳴る。顔面に拳を振り下ろされたウォッシュは、まず視覚情報を喪失した。
ゴン、ゴッ、ゴゴゴゴガガガガガガガッ…。
立て続けに衝撃を感じる。ウォッシュが感じ取る損傷情報は、身動き一つできない今、もはや何の意味も持たない。
(え?あ。ヤダ。コレ。何?何で?殺されたくない。殺したい。まだ殺したい。殺されたくない。ああ。ヤダ。ヤダこんなの。
何コレ?何でこんな事に?嫌…)
片腕で地面に押さえつけたカラカルの頭部めがけ、獣は連続して拳を叩き付ける。まるで高速運動する杭打ち機のように。
その振動による震えとは別に、カラカルの四肢はビクンッ、ビクンッ、と激しく痙攣して跳ねるが、それは抵抗を試みる動き
でもなければ、脱出のための動きでも、生きるための動きでもない。
(あああああ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ助けて助けて助けてホニッシュ何してるんだよ助けて殺される嫌だ死にたくない死にたくない
死にたくない!)
不幸な事に、新型の部類に入るウォッシュは、痛覚遮断も含めて機能的にも構造的にも頑丈に造られていた。獣の腕力でも
一撃では破壊できなかった。だから、その破壊に至るまでの短時間、この世の地獄を味わう羽目になった。
それはまるで、航行不能に陥り、全ての情報収集機器を失って、深海へ沈み行く潜水艦の乗組員が味わうような恐怖。為す
術も無く、しかし着実に状況は悪化し、終局へ近付いてゆく。
視覚に次いで聴覚も喪失したウォッシュは、動けないまま半狂乱になっていた。
(死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくな…)
ゴンッ!と、砂に前腕の半ばまで埋めて獣は腕を止めた。カラカルの四肢がビンッと突っ張って伸び、一瞬の硬直をおいて
砂地にポソリと落ちる。
カラカルの頭部は徹底的に粉砕され、もはや下顎しか残っていなかった。
砂からズボッと腕を抜いた獣は、何かに気付いたように一瞬動きを止める。
飛び散った鮮血や頭蓋骨の破片や脳組織をじっと見つめた獣は、やがてそこから何かをつまみ上げた。一片1センチ程度の、
元々は正方形だったのだろうそれは、ひしゃげて欠けて壊れているが、コンピューターなどに使われているチップのようにも
見えた。よくよく見れば、似たような物がもう一つ、飛び散っていた脳組織の塊に埋まって端を覗かせている。
(…無理だ!)
戦意を完全に失ったコヨーテが半歩退く。その顔は怯えと焦りで歪んでいた。
(コイツが「そう」だったとしたら…、そもそも我々だけで敵うはずもなかった…!)
ゆっくりと、獣が首を巡らせる。琥珀の瞳が無感情に排除すべき対象を捉える。
琥珀の瞳に姿が映り込むや否や、ホニッシュは素早く向きを変え、脱兎の如く駆け出した。
その視線の先には、遠巻きに戦闘を見守っていたヤンの姿。先程聞き出した獣とあの医師の素性は間違いなく嘘であろうが、
獣の行動を見るに、あの虎を守ろうとしていた事もまた間違いない。
(ヤツを人質に取れば、まだチャンスが…!)
医師が顔を強張らせ、頭を抱えて地面に伏せた。
それで何とかなると思ったのかと、判断ミスを胸の内で嘲ったホニッシュは、ふと疑問を憶えた。
跳躍したつもりはない。それなのに、目線が急に高くなった。そして、視界の下を一条の銀光が通過し、到達した先で椰子
の木の幹を半ば以上切断し、もう一本向こうの椰子の木に突き刺さる。
(ウォッシュの…ククリ…?)
視界が回転し始めた。クルクル回って落ちてゆき、砂が眼前に迫り、真っ暗になって…。
ヘッドスライディングするように倒れ込んで、勢い良く滑ってようやく止まったコヨーテの体を、おそるおそる顔を上げた
ヤンは青褪めて見つめた。
砂に落ちたホニッシュの生首の向こうでは、ククリを投擲した獣が体勢を戻している。
危険の排除を終えた獣は、しかし今回はまだ警戒を解いていない。圧倒はしたものの、これまでとは段違いに危険な相手だっ
たと認識している。
周囲に視線を巡らせながら獣がゆっくり歩み寄ると、ヤンは立ち上がりながら、ふう、と安堵のため息を漏らした。何とか
助かったというのが半分。もう半分は、獣も無事だったという安堵である。
無意識に何処かで信じきっていた。獣の強さは圧倒的で、どんな敵にも負けないだろうと。ヤンは今日初めて獣が負けるか
もしれないと感じ、酷く焦った。
そして自覚した。得体の知れないところを気味悪くも感じていたが、それでも自分は、獣に対しても仲間意識を持っていた
のだと。
「そ、そうだ!腕は!?腹は!?顔は大丈夫か!?」
ヤンはハッとして踏み出し、近付いて来た獣の手を取り、左腕を見た。
ククリを受けた傷は既に痕としてしか残っておらず、被毛が伸び始めている中にピンク色の蚯蚓腫れが見られた。修復が進
んでいる事を確認し、次いで張りのある脇腹を撫で、それから顔を見上げて子細に観察し、普通の患者の具合を診るように確
かめる。
高速修復に伴う細胞活性化の排熱は落ち着きつつある。診療所に戻って診察しなければ詳しい事は判らないが、これまでの
経験上、この獣にとっては正常な修復具合に思えた。
見かけの上では傷が見られなくなったとはいえ、念のために背伸びして琥珀色の瞳を覗き込んだヤンは、
「…以前仲間だった誰か…。連中のことをそう思ったのか?」
瞳孔を確認しながら獣にそう話しかけていた。思い返して気付いたが、獣があの二頭を奇襲した際に即座に殺さなかったの
は、仲間かどうかを確かめたかったからなのではないかと思い至って。
ヤンも期待していた訳ではなかったが、獣からの答えは無かった。その代わりに…。
「…ん?」
琥珀の瞳が暗くなり、美しいトルマリンの色に変わって、巨漢の口から疑問の声が漏れた。
「ルディオさん?…戻ったのか」
ヤンの顔をぼんやり見つめ返して頷いたセントバーナードは、首を巡らせて砂浜を見遣った。
首のない二つの死体。追憶する形で状況を把握したルディオは、右手を胸の前に上げて開く。
「…それは?何かの部品…のようだが?」
目を細めて訝るヤン。ルディオの手の中には機械の部品のような物があった。洗っても簡単には落ちそうにないほど、血に
塗れたチップが。
「アイツの頭の中に入ってた」
ルディオの呟きを乗せて、砂浜を風が駆け抜けた。
「…頭の…、中に…?」
ヤンはしばしチップを見つめ、頬を伝って顎に回った汗を手の甲で拭う。
似ていて。同じ。
以前ルディオが口にしたという言葉。まさかこんな絶望的な気分で反芻する事になろうとは、医師も予想していなかった。
「先生。おれの頭にも、似たようなのが、同じようなのが、入ってるのかなぁ」
いつもと同じようにのんびりした口調で、ルディオはヤンにそう言った。
それは問いかけではなかった。確認のようで、そうでもなかった。
記憶も持たないのに、考えれば参照される身に憶えの無い知識…。
経験していないのに、実感も感慨も伴わずに浮かび上がる情報…。
ああ、なるほどなぁ。と、チップを見下ろしながらルディオは納得していた。
普通ではないという自覚はあったが、自分はここまで普通ではなかったのだなぁ、と…。
そして、島に五度の夜明けと日没が訪れて…。
アジア系の青年はチップの写真を指し、「こんな物には心当たりがないと、技術者も困惑していたそうです」と呟いた。
表情が硬いのは、それがONCにとっても未知の技術だったから。
ウォッシュとホニッシュとの戦闘から五日目。リスキーがルディオ、カムタ、ヤンの見回り活動の一時休止を提案してから
四日目。修繕を行なった診療所側の、薬品類を保管している部屋で、ヤンとリスキーに挟まれたテーブルの上に置いてあるの
は、ウォッシュとホニッシュの死体から回収された、計四つのチップを様々な角度から撮影した写真と、解析途中のデータ。
カラカルとコヨーテの遺体は死体袋に収納し、二頭が上陸に使ったと思われるボートも含めて、リスキーがフェスター直下
の連絡員へ引き渡した。二頭の死体の回収経緯については、術士と相打ちになった所で漁夫の利にありついたと説明してある。
ふたりの所持品については、水晶の結晶体のようなレリック…いわゆる爆弾を起動装置付きで持っていたものの、その他の
品は何処の組織でも作れそうな代物ばかりで、持ち物の出所を探るのは難しい。ただ、チップだけはあまりにも奇妙だった。
そうして技術者に解析された死体とチップの第一報をもって、リスキーはヤンに話をしに来ていた。
「肉体の改造度合いも異常だそうです。どちらも強化筋肉や骨格の置換術を受けていたそうですが、片方は七割がたが人工筋
肉と骨に置き換えられて、もう片方は消化器系と呼吸器系がユニット化された「臓器パッケージ」に交換されていたようです。
…ブーステッドマンどころではありません。これほどの置換に、ひとは到底耐えられません。普通はあんな真似をされたら拒
絶反応で死にます。良くても寝たきり状態…、それも、絶え間なく苦痛に苛まれながらの」
リスキー自身、適合性が確認された上でトキシン耐性を得る強化手術を施されたが、適合はその一種類のみ。対してカラカ
ルとコヨーテは全身の至る所を強化組織に置き換えてあったが、これだけの強化条件がクリアできる確率は宝くじが大当たり
するレベルより低い。
「そしてチップの方ですが…。一見するとCPUのチップやメモリーにも見える外見ではあるものの、全て有機物で出来てい
るそうです。レントゲンにも写らないし、他のスキャンでも同じく見つけられない…」
同じに見えるが四つのチップは二種類に分けられ、それぞれ用途が異なるらしく、目下解析中。ただし、ONCが所持する
様々な媒体でも中の情報は読み取れず、下手をすれば解析不能で終わってしまう可能性もある。何より…。
「劣化が妙に早いそうです。死体の方もですが、保存の手を尽くしているにも関わらず、遺伝子情報がどんどん壊れていると
か…。インセクトフォームのように、死後に働く証拠隠滅用の処理が施されているのかもしれません」
そんなリスキーの説明をひとしきり聞き終えてから、ヤンはチップの写真を見つめてため息をついた。「こんな事までされ
ていたのか…?」と、呻きながら考えているのは当然ルディオの事。あの連中とルディオが同じと決まった訳ではない、と反
論したいところだが、獣が連中を「同種」かそれに近い存在だと判定していた事は、ルディオ当人が言った事でもある。
「自分の頭の中にも正体不明のチップが埋め込まれているかもしれない…。記憶が無いルディオさんは、当然こんな事は知ら
なかった。あまり感情表現が豊かじゃないひとだし、外見上は平静に見えているが…、どんな気持ちだろうな…」
伝えなければならない事だが、僅かに判明したのは嬉しくない事実。只者ではないという事は重々理解していた。だが、こ
ういった意味で只者でないなど、間違いなくルディオにとっては嬉しくない。医師は苦悩に顔を歪めて呟く。
「こんな事ばかりじゃなく、喜ばせられる報せの一つ程度、言ってあげられれば良いんだが…」
「…あまり良くない報せなら、もう一つあります」
リスキーの顔は暗い。「何だ?」と問うヤンも、聞いておくべきだと理解しながら気持ちでは聞きたくなかったが…。
「あのコヨーテの方だけ、身元に見当がつきました」
「まずい組織の関係者だったのか?…ああ、いや…」
自分の発言に呆れて顔を顰めたヤンは、照れ隠しに鼻の頭を掻く。関係して来るのがまずい組織でない訳が無かろうに、と。
「いえ、所属組織は確定していません。…あんな技術を持っているとなれば、かなり絞られますが…。見当がついたのは男の
素性。本名や所属…元所属についてです」
「…?元所属?」
組織は確定していないと言いながら所属が判る?そもそも元所属?と、疑問に感じたヤンに、
「エルサルバドル陸軍、秘匿事項対策特殊部隊、ロドリゴ・ロメロ中尉」
リスキーはスラスラと述べて驚かせた。
「軍人!?それも国の、正規の、軍隊の!?」
「元、です。…これがどうもおかしな話なんですが…」
リスキーは声を潜めて告げた。
ロドリゴ・ロメロという軍人とその元所属は、言わばONC等にとっては天敵…各国で法の側が備える秘匿事項対策の武力。
非合法組織を駆除する側と言える。
ONCですぐに判明したのは、吸収される形で傘下に入った組織が、彼の所属する部隊によって壊滅状態に追い込まれたせ
い。…と言うよりも、そこが壊滅状態になったからこそ吸収できたというのがより正確な経緯。
彼をはじめとするたった四名の隊員によって組織の支部三つと本部が同日に攻略され、電撃作戦によって一日で壊滅させら
れている。
だが、ロドリゴ・ロメロは…。
「作戦行動中に殉職したそうです。事件に巻き込まれた一般人数名を救うために、身を盾にして凶弾に倒れた…とあります」
「殉職…?」
瞼を半分降ろして考え込むヤンに、リスキーは「ええ」と頷いた。
「確認の為、彼の墓を調査に行かせたそうですが、ほぼ間違いないようですね。体に残っていた弾痕が一致しているそうで…」
「殉職を装って鞍替えしていた…、という線は無いのか?「そちら側」への対策の専門家だったら、逆に「そちら側」に移る
事で相当なアドバンテージが得られる…。要するに、取り締まり側の内情に詳しい専門家として、対策の一環として欲しがる
組織はあるんじゃないのか?」
「そこがまぁ、納得し難いと言いますか…」
いよいよ発想が「こちら側」寄りになってきた弟の推測を聞いて、リスキーは何とも言えない複雑な顰めっ面。正直なとこ
ろ、ヤンがいま言ったような事はある程度力を持った組織の幹部はやりたがる。元対策側は勿論、現役の者と繋がって内通者
になって貰えれば非常に心強い。ONCでもいくつかの国の政府高官にパイプを持っているし、非合法ながらも国益に繋がる
働きをする事で行動を黙認して貰えている国も、積極的に便宜をはかって貰えている国もある。特に地中海周辺ではコネがあ
る大物政治家も多い。
「彼に関してはたぶん、その可能性は無いかと。…いや、商売敵ですからね?好感は無いですし擁護したい気持ちもありませ
ん。その上で客観的な感想を述べますが、経歴関係の資料をちらっと見ただけで言えるのは、「矜持があるタイプ」ではない
かという事です。仕事に誇りを持っていると言いますか…。褒めてはいません。従順な犬のようだと思うだけで」
遠回しに表現しつつ、しかし一緒にしないでくれと面倒臭い表現も交える殺し屋の話を聞き、気持ちを薄々察したヤンは、
口まで出かかった「つまり方向性はどうあれ君と似たもの同士という事のか?」という発言を済んでのところで飲み込んだ。
「また、彼はイグニーター…つまり燃焼系統の超常現象を起こせる能力者だったと記録されています。徒手格闘に精通してい
たとも…。かなりの精度でコントロールできたらしく、自分の着衣の類は焦がしもせずに、炎を纏うような芸当もできたそう
です」
そう聞いて記憶を手繰ったヤンだったが、「格闘は判らないが、燃焼?それらしい不思議な物は見なかったが…」と改めて
証言し、リスキーを頷かせる。
「能力が使えるなら、追い詰められても見せなかった事に説明がつきません。…腑に落ちない事が多過ぎますので、まだ断言
できませんがね」
「…ちょっと待ってくれ」
ヤンは目を見開いた。
あまり良くない報せ。リスキーはこの話の初めにそう言っていた。
死んだはずの軍人。似て非なるコヨーテ。「似ていて」「同じ」という表現…。
「…ルディオさんは…?」
暗殺者は、顔色を失っている医師の言葉に、沈黙をもって応えた。
モニターの画像をじっと見ている。
都市の高空写真。遠景の写真。ビルの屋上の写真。膨大な画像の中から目当ての物を探す作業に没頭しながら、ルディオは
半日を室内で過ごしていた。
時々考える。自分の頭にもあんなチップが入っているのか?あれは一体どういった物なのだろうか?あんな物が頭に入れら
れているとしたら、自分は何者で、何のためにそんな事をされたのか?
異物感は無い。ただ、感じないから存在しないとも言い切れない。
普通ではないと思う。元からそうなのだが、いよいよ異常だと感じた。
表現し難い感覚がある。これはきっと「焦り」という物だとルディオは考える。
自分の正体が知りたい。
すっきりしたいというのも勿論あるが、それ以上に嫌な予感がする。
自分が何なのか確かめなければ、どういった存在なのか確認しなければ、その上で考えなければ、カムタや皆に危険が及び
そうな気がして、焦る。
突然ドンと、テーブルが揺れた。
目を動かしたルディオが見たのは、大皿に山盛りのドライカレー。
「メシだぞアンチャン!」
ニカッと笑う少年がそこに立っていた。
外のキッチンでも屋外のキッチンでもなく、天気の良い日にリビングに食事を持ち込むのは珍しい。「もうちょっと持って
くるモンあるから」と促されたルディオは、「ん」と顎を引いてパソコンを脇に除け、腰を上げた。
ふたりで食事を運び終え、スプーンを取ったルディオは、「アンチャン、これな?」と指し示したカムタに目を向ける。
「テシーがカナデ先生から聞いてた「カクニ」って料理!あとこっちは、…ぶや…、ぶ…、ブイヤベース!おし言えた!買っ
て来た料理の本読みながら作ってみたんだ!どっちも自信あるぞ!あとこっちは…」
メインの他に用意した一品料理各種を説明してゆくカムタに、頷きながらルディオは思う。
(ああ、心配させたんだなぁ…)
見たところおかしな所もなく、これまで通りに思えるルディオだが、カムタははっきり感じていた。チップの事が判明して
以来、ルディオは元気がないと。
だからここ数日、元気を出して貰うには何をすれば良いか考え続け、結局一番喜びそうなのは美味い飯だと結論付けて腕を
ふるった。
「…カムタ」
ドライカレーを一口食べて、ルディオは言う。
「今日も、美味いなぁ」
「そっか。…えへへ!そっか!」
ニンマリ笑った少年は、セントバーナードに自信作を勧めた。
カムタは思う。
ルディオが「誰」でも、「何」でも、別にいい。受け入れるだけ。
だが、自分の正体の事で苦しまないで欲しい。自分達を案じて苦しまないで欲しい。
ルディオは思う。
例え自分がどんな存在だとしても、別にいい。受け入れるだけ。
だが、カムタと皆に危険が及ばないよう振舞うために、自分の正体を知っておかなければならない。
ゆっくりと、夕餉が消えてゆく。
この穏やかな夜がずっと続けば良いと、ふたりとも願わずにはいられなかった。
「………」
黒豹は無言で舵を握る。レジャー用とも思える、変わった所のないクルーザーの上で。
灯りも無く駆動音もしないそれは、見た目に反して一種の戦闘艇。各種探知へのステルスやジャマーを搭載した、オーバー
テクノロジーの集合体である。
ウォッシュとホニッシュが連絡を断ってから五日、ギュミルは諸島の島々を片っ端から探索していた。
可能性として存在するのは、他の組織と交戦して敗れたという物。エルダーバスティオンの大物が出てきたのであればその
可能性もある。逆に、脱走や反逆についての可能性は考えていない。ウォッシュとホニッシュは「そういった思考ができない」
ようになっている。
基本的に、彼らと系譜を同じくする人型兵器は、組織に不利益になる行動等も取れないよう思考にプロテクトがかけられて
いる。不利益の規模やそれを挽回できるか否かと、基本命令である自己保存及び情報の持ち帰りを照らし合わせて優先が決定
されるため、何が何でも組織に不利益な事ができないという訳ではないが。
ただし、組織に対する積極的な敵対行動には強固なプロテクトが働き、自己保存にも優先する。元々そういったプロテクト
が存在しないアーキタイプの一体と最初期型の四体や、脳に埋め込まれたチップに不具合が生じている不良品を除けば、その
プロテクトをどうにかして「突破」しない限り、組織を裏切る事はできない。
ウォッシュとホニッシュのチップは共に正常で、人格にやや難はあるが、思考と判断は正常域にある。よって、彼らの裏切
りや脱走についてギュミルは考えない。
(機能停止したか。あるいは囚われて動けないか。確認する必要があるな…)
歯軋りするギュミル。
自分独りでは手が足りないという状況になれば、主へ報告し、人員を呼び寄せねばならない。手土産を突然持ち込んで喜ば
せるどころか、不快にさせる情報を上げなければいけない。
主への申し訳なさと、部下の不甲斐なさに、黒豹は顔を歪めていた。
兵器である黒豹は、睡眠も休息も摂らず、夜の海を抜けて次の島へ向かう。
波に揺れて滲んだ三日月のような島へ。
その日の朝、リスキーは船着場へ赴いていた。
朝の漁に出払っていた漁師達が戻り、簡易市場へ魚が運び込まれ、船は数多く並びながらも一帯からひと気が失せた、毎日
一度訪れる凪のような時間。日課の見回りに来た青年は、茂みなどに隠れて移動しながら桟橋の隅々まで確認する。
気を緩める事はできない。先の二頭が実際に来た以上、そして帰らなかった以上、後続がやって来る可能性は高い。この島
が特定されていない事を祈るが、楽観的に考えてはいられないのが実情である。リスキーが自分ひとりで見回りをする体制に
したのは、何かあった時に対処でき、最も目立たないからである。
特にルディオには、しばらくの間なるべく外を出歩かないよう忠告している。資料から目当ての屋上小屋を探すよう促した
が、リスキーの本音は別にある。
(おそらく、旦那さんは先の連中と無関係ではない。互いに面識があるかどうかは別として、同組織か、同技術体系による手
が入った存在と見るべきだ)
ヤンの報告により、戦闘になった二頭がルディオを知らなかった事は判っている。そして、獣が二頭に対して探るような接
触を行なった事も。
(タイプが違う…という可能性はある。常時戦闘脳である二頭に対し、ウールヴヘジンは「必要な時だけ」表に出る戦闘用の
人格…とか…?脳のチップは人格をコントロールする物?旦那さんの平和的な人格に、事を為すためのウールヴヘジン…、無
害を装って送り込むには理に叶っている。本来は人格を意図的に切り替える…と考えれば、管理者のような存在が同行するの
か、遠方から指令を送るようになっているのか…、運用について工夫が必要だろう。インセクトフォーム系の生物兵器に対す
るマスター登録のように、ウールヴヘジンも何らかの認証を行なうとしたら、あるいは坊ちゃんが主人のように登録されてい
る可能性が…。だがシーホウを救ってくれた件もある。インセクトフォーム系の多くがそうであるように、主一人を認証して
その他には柔軟性を欠くというタイプではない)
船を一艘ずつチェックしながら、リスキーは獣の在り方について…つまり兵器としての存在だとして、「あえてそう作った」
場合のメリットや運用方法について考える。そうする事で何かに気付けたり、見落としを拾えたりはしないか、と。
(…まさか、そもそもこの島に流れ着いたのも偶然ではなく…?いや、それはないか。あれだけの戦力を抱えている組織が、
力押しでどうとでもなるこの島へ秘密裏に戦力を送り込む意味がない。そもそもそうするには目的が不明だ。…決め付けはよ
せリスキー…)
推測するのは良い。だが不確かな方向性を持った推論に囚われるなと、自分を戒めた殺し屋は…。
「………」
無言でオペラグラスを取り出し、ある船の姿を拡大した。
クルーズ船に見える。だが名の姿に覚えが無い。リスキーは念のため、島民が所有する船や定期的に入る船、あるいは不定
期ながらも多く訪れる船の外観を全て記憶している。
そっと移動し、船上を窺う。漁具の類は確認できず、船体に傷みも見られない。周りにある漁師達の船と比較すれば新しい。
港湾管理が行なわれている国であれば係留の届出などを調べればオーナーが判るが、この島では特に管理者が居ない。よそ
の島の船がいつまでも放置されていれば流石に駐在が対応するが、諸島では船が他の国で言う自動車並みのメジャーな足で、
そもそもレジャー目的の船が頻繁に出入りするため、見慣れない船が停泊していてもすぐにどうこうという事はない。その規
制や管理の緩さは平和である証左でもあるのだが…。
(船名で何とか調べられない物か…。ん?)
船腹に書かれている名を確認しようとしたリスキーは、デッキに視線を固定した。
上がって来たのは黒い豹。均整が取れながら筋肉質な逞しい美丈夫で、被毛越しでも筋肉の隆起がはっきり見て取れる。
呼吸を止め、気配を消したのは、無意識の内での事だった。
一目で理解した。「ソレ」はひとの身で抗えるモノではないと。たかだか多少の肉体改造と訓練を経たところで、抗い様も
ない存在であると。
殺し屋は黒豹から船体横の名前に視線を移す。観察したところでどうしようもない存在よりも、間違いなく有益である情報
に注意を向けた。
(サンセット・ターミガン…)
船名を確かめ、再びデッキに目を戻したリスキーは、
(居ない…!?)
黒豹の姿が消えている事に気付き、慌ててオペラグラス越しの切り取られた視界を動かす。
船室に戻ったのか?それとも桟橋へ降りたのか?何処へ行った?…と、グラスを外して視野を広く取ったリスキーは、
「!」
素早く身を翻し、跳び退きつつ右手に持ったオペラグラスを投擲する。
カンッと音が響いた。その軽さとは裏腹に、ひしゃげてレンズが砕け散ったオペラグラスは地面に深い抉れ痕を残して跳ね
去り、草の中に飛び込む。
「何者だ?」
問いは、リスキーの口から出た物ではない。
そこに男が立っていた。背筋を伸ばし、抜いた警棒を水平に振り抜き、戻した腕を真っ直ぐにリスキーへ向け直して。
武装は右手に握った警棒のみ。旅行客に見える南国の装いで、戦闘用の装備はしていない。それでも、ギュミル・スパーク
ルズと相対した途端、リスキーの背をドッと汗が濡らした。
船のデッキからここまで40メートルは距離があった。姿を見失ってから周囲をチェックし、振り向くまで僅か数秒。黒豹
はその短時間で移動していた。腕利きの殺し屋であるリスキーを相手に、接近を気取られずにその背後まで。
「答えろ。何者だ?」
自分を静かに見据えながら問いを繰り返した黒豹に、リスキーは答える。
「エルダーバスティオン」
黒豹の目に敵意が垣間見えたその瞬間、
「…だと思うか?」
リスキーは左手を鋭く振って足元に玉子大の球体を叩き付けた。ボウッと立ち昇った白い煙がその姿を覆い隠す。
(この黒豹はエルダーバスティオンではない!奴らと敵対する側…先の二人組みの仲間か!)
オペラグラスを放ると同時に取り出し、逆の掌に隠していたのは投擲タイプの小型催涙弾。毒に耐性を持つリスキーにとっ
て、催涙弾は自分に影響をもたらさない煙幕となる。
(む!)
煙を盾にして下がろうとしたリスキーは、思い直して横っ飛びした。その肩を、煙を突っ切って伸びた、黒い腕に握られた
得物が鋭く霞める。
黒豹は催涙ガスに全く怯まず、体勢を立て直そうとするリスキーに詰め寄る。
(あっちも薬物耐性があるクチか!)
黒豹には漂う煙の影響が皆無。体勢不十分のリスキーに肉薄したギュミルは、右手に握った警棒を振り下ろす。狙いは肩。
まずは戦闘不能に追い込み、その後で話を聞こうという腹積り。
転がるように身を投げ出したリスキーを、振り下ろしが空を切るなり手首を返したギュミルの追撃が襲う。
「ぐっ!」
ビッと音を立ててリスキーの太腿から何かが剥離した。それはズボンの布地と、脚の皮膚と肉。掠めただけの警棒の先端が、
青年の脚から肉を抉り飛ばしていた。
飛び込み前転の要領で距離を離しつつ身を起こしたリスキーは、右手を引いて左手を前へ翳す格好。中腰のリスキーが背に
隠した右手には、一瞬でベルトから引き抜いたトキシンテープが握られている。
「ふっ!」
軽い呼気と共に左手の指が動く。
ビッと弾く音に続いて空気の悲鳴。飛ばされたのは地面から拾い上げた石灰質の小石。殺傷力はともかく、目に当たれば失
明を免れない指弾は、正確にギュミルの左目を狙っていた。
カッ。甲高い音は警棒が石を弾いた音色。その時には既に、リスキーは地を蹴って間合いを詰めに入っている。
一瞬の隙を作り出し、そこへ叩き込むのは必殺の毒手。獰猛な猫科の狩人が襲い掛かるように、その毒の爪は黒豹に迫り…。
(しまった!)
首筋を狙った右腕が、手首から先を失ったかと思うほどの衝撃と共に弾かれ、青年は悟る。読まれていた、と。
小石を弾いた警棒をくるりと手首で返す。たったそれだけの防御で必殺の一撃を弾かれたリスキーは、上体をそのままいな
されたように体勢を崩していた。
「その右手には自信があると見た」
ドザンと地面に倒れこみながら、リスキーはギュミルの声を聞いた。
「それが当たれば勝てる…、そういった動きだったな?であれば、ソレが貴様にとって最大の武器か、最も信頼をおく武器な
のだろう」
一度は逃げようとした者が攻撃に転ずるならば、勝算があるか学習していないかの二つ。後者であれば蹂躙する。だが前者
であれば舐めてかかる愚は犯さない。
ギュミルはリスキーを場数を踏んだ手錬と見た。そんな相手が仕掛けて来るならば、間違いなく勝算あっての事。自信のあ
る一手は警戒するべきだと黒豹は判断している。
(最悪だ…!)
飛び起きながらリスキーは歯噛みした。
右手は砕かれていない。が、手首から先がブランと下がっている。正確に手首を打ったギュミルのガードは、綺麗に関節を
外している。
身体能力は圧倒的、反射速度は自分を遥かに凌駕している。おまけに戦闘技術も上を行かれ、冷静な上に油断も全く無い。
決して真っ向勝負してはならない手合いだった。
「聞きたい事がある。正直に話せ」
静かで、高圧的で、冷たい声と視線。手首に感覚が戻ってきて、遠かった激痛が合席の距離まで近付く。額に脂汗を浮かべ
ながらリスキーはギュミルを真っ直ぐ見つめ、降参するように両手を上げた。
「エルダーバスティオンの目的について?だったら残念だが調査中だ。ああ、それともONCの現地部隊の方か?だとしても
生憎と希望にそえるほど詳しくないが。いや、ジ・アンバーの事?それとも…」
黒豹の目が細くなる。事情通か、それともハッタリか、どちらにしても口にされた情報の断片が興味を引いた。
「こちらが押さえていなかった事も知っているようだな。我々には無関係な物もあるかもしれないが、聞いておいて損は無い」
しめた。とリスキーは胸中で顎を引く。
流れはどうあれ最終的には始末するつもりだろう。そう察してはいるが、情報を引き出し終えるまでは話せる状態にしてお
くはずだと確信もある。
「ところでカラカルとコヨーテは潔く逝ったか?」
「………」
しまった。
リスキーは失敗を悟る。不意に投げ込まれた言葉へ、しらを切る前に一拍の間を空けていた。なまじ知っているが故に一瞬
考えた。
「そうか。知っているか」
ウォッシュとホニッシュを知っている。そう判断し、ふたりを害した可能性もあると考えたギュミルは、リスキーの手足を
全て砕いてから話を聞くことにした。
ウォッシュとホニッシュが倒された事については、特に怒りも感じず、倒した者への憎しみもない。だが、同時に油断もな
い。自分には劣るとはいえ、二頭が強力な兵器であった事は確かなのだから、油断する理由などない。
一歩踏み出したギュミルは、
「…あの怪物カラカル、アンタの仲間か?あんなのが他にも居るのか?」
リスキーの問いで眉根を寄せる。
カラカルのみ?コヨーテは知らない?
ささやかな、そして絶妙な、僅かな疑問を憶えさせる思考への牽制球に続き、
「ふっ!」
大気を引き裂き警棒が唸った。前蹴りを繰り出すようにして飛ばされたリスキーのシューズを迎撃して、黒豹は目を鋭く細
めつつ半歩下がる。
打ち据えた靴は、潰れた途端に液体を振り撒いた。
(酸か?それとも毒物か?)
スンッ…。黒豹の鼻が鳴る。
(違う。これは…)
燃料。
ガソリンにも似た臭気でギュミルが液体の正体を悟ったその時には、既にリスキーがポケットから小さなスティック状の物
を放っている。
マッチ棒にも似たソレは、気化した燃料と接触するなりたちまち反応し、青白い火花を散らした。
即座に爆発炎上。黒い煙が爆炎と共に舞い上がる。
専用の着火装置で起爆する液体燃料によってギュミルを炎に包囲させると、爆風を浴びながら後ろへ身を投げ出し、一回転
して起き上がったリスキーは、
(これならどうだ!)
転がりながら取り出しておいた掌に隠れるサイズの鉄色の球体を、アンダースローで炎の上に向かって放り投げる。
金属球はジャコンと音を立ててその全身から鋭い針を生やすと、それを下方へシャワーのように射出し、糸のように細い針
の雨を降らせた。
(美学に反するが、なりふり構っていられる状況でもない…!)
痕跡が派手に残るこういった手段は、リスキーにとってステキな殺し方とは言い難い。だが、ルディオと同等の「何か」が
敵に回る可能性を考慮した時点で主義を曲げてフェスターへ要請し、ONCの特殊工兵が用いる様々な武装を取り寄せていた。
取り出したトキシンテープを、利かない右手に代わって口に咥えて押さえ、素早く左手に巻きつける。
「認めよう」
燃え盛る炎の向こうから声が聞こえ、リスキーは顔を顰めた。やはり仕留められていない、と。
「お前は弱小組織の小間使いではない。一角の戦士と言える実力と度胸、機転を持ち合わせている。であれば…」
風に押し流された炎と黒煙の隙間に、リスキーは見た。
無数の針は一本たりともギュミルに当たっていない。被毛を逆立て、全身に青い電流を這わせた黒豹に達する前に、火花を
上げながら燃え尽きていた。
「名乗るべきだろう、我が名を。告げるべきだろう、我が所属を」
炎の向こうで、底冷えするほど静かに、厳かに、黒豹が発する言葉を聞きながら、リスキーは冷静に考えた。
(ああ。私はここで死ぬな…)
思い浮かんだのは弟の顔。
敵わぬまでも、この男を弟のところに行かせたくない。
叶わぬことだが弟に逃げるよう伝えたい。
「ギュミル・スパークルズ。ラグナロク中枢幹部、フレスベルグ・アジテーター様がエージェントのひとり」
相手が所属と、己とその主の名を告げるなり、ふぅ、とリスキーはため息を漏らす。
(黄昏…とはな。違うと思いたかったが、ますます絶望的だ)
知っている組織の名だった。世界最強の、世界最悪の、世界最大の、そしてその規模に反して何も知られていない組織。そ
の最高幹部直属の存在となれば、自分が挑んだところで勝てるはずもない。
「ONC。工作実行部隊上級隊員、リスキー・ウォン」
青年は左手に巻いておいたトキシンテープを意識する。もしや、コレまで通じないなどという事は無いだろうな?と胸中で
苦笑した。
可能性はある。相手は自分の話に興味を持った。最終的に殺すにしても、情報を引き出そうとはするだろう。
その瞬間こそリスキーが狙うもの。右手が使えないので口に咥えてテープを巻きながらトキシンを口に含んだ。四肢を砕い
て瀕死にし、声を聞こうとすれば顔も寄せるというもの。
(済みません。フェスター…)
常々、その命は自分の為に使い潰せと、他の事に使用するのは許さんと、口煩かった上司の事を思い出す。
会った頃と比べれば随分と成熟した。大幹部に相応しい落ち着きも出てきた。希望に沿えなくて済まないとは思うが、もう
自分が傍に仕えなくとも大丈夫。優秀な代わりはいくらでも確保できる立場にあるのだから…。
ただ、少し残念だとも思う。
幹部として辣腕を振るうフェスターの姿を、一目でいいから見てみたかった。
(では…。さらばです!)
未だ勢いの衰えない焔へ、黒煙の向こうに立つ自分の死へ、リスキーは…。
「!?」
ドフッと、横手から衝撃が走り、息が詰まった。
体のあちこちで骨が砕けるかと思うような衝撃に次いで、急激な移動によるGで視界が濁り、ブレ、平衡感覚が狂う。
天地が激しく回転して、数回バウンドする感覚をやや遠く…他人事のように感じてから、リスキーは視界の隅に見た。青い
電流が、落雷のようにほんの一瞬だけ、ひとを飲み込む太さの柱状に立ち昇ったのを。
そして青年は理解する。地面に転がり、土くれと石と落ち葉を巻き上げて止まった自分が、誰かにタックルされて吹き飛ば
され、そのまま抱えられている事を。
「………」
厚みのある被毛の手触り。筋肉が盛り上がった重々しく太い腕。逞しい肥り肉の巨躯。
青年は目を丸くした。
あまりにもタイミングが良過ぎる。運命の女神は気紛れだが、普通こんな助け舟は出してくれない。実は自分はもうやられ
ていて、都合の良い夢でも見ているのではないか?と状況をまず疑った。
そこに、獣が居る。負傷した青年を雷撃から逃して抱え、炎と黒煙が立ち込める向こうへ琥珀の双眸をヒタリと据えて。
「ウールブヘジン…!?」
青年を両腕で抱えるように捕まえていた獣は、驚きの呻きを漏らしたリスキーを放して顔をチラリと見遣ると、すぐさま炎
の向こうへ目を戻し、その分厚い掌を胸の前で向き合わせる。
ビリビリと肌が震え、リスキーは衝撃に備えて呼吸を止め、腹筋に力を入れて耳を隠した。
直後、轟音と共に大地が割れた。
内に捉えた物を跡形も無く粉砕せしめる、衝撃波の嵐。強力な衝撃波が連続で炸裂し、地面が抉れて火山が噴火するかの如
く土砂が舞い上がる。
初手全力攻撃。術士の船に乗り込んで彼らを消し飛ばした攻撃を、獣は敵の姿を肉眼で捉えないまま放っていた。そして…。
「うっ!」
乱暴に脇へ抱えられたリスキーは、再び急加速のGを味わって呻く。
範囲攻撃を仕掛けるなり、獣はその場から離脱した。
舞い上がった土砂が降り注ぎ、リスキーが放った炎も掻き消され、土煙が立ち込めて周囲が窺えないその地点を…、
(増援か。ライズパルサー、あるいは術士の類か?凄まじい出力だ。どうやら相当な能力者が居るらしい)
破壊の嵐が巻き起こる直前に範囲外まで逃れていたギュミルは、吹き上がった土砂を眺めながら煤で汚れたシャツを叩いて
埃を払う。
無傷だった。リスキーの様々な攻撃も、獣による範囲破壊も、黒豹にはかすり傷一つ負わせていない。
(この島は念入りに調べる必要があるな…)
騒ぎを聞きつけてひとが集まる前に、ギュミルは船に戻った。騒ぎが起こった近くに見知らぬ船があっては怪しまれる。こ
のまま船着場に置いてはおけない。
そうでなくとも、船内にはエルダーバスティオンの部隊から回収したグリモアをはじめとする、戦利品となったレリックの
類が、それこそ中規模組織の総資産に達するほど積み込んである。船番が居ない今、怪しまれる場所で下手に晒しておく訳に
はいかない。
(こうなると、戦力は要らないが手は欲しかった)
クルーザーを沖へ出し、騒ぎになっている船着場近辺を遠く眺めながら、ギュミルは考える。人員を呼び寄せるのはもう少
し待ちたかった。主に献上できる物が確かになる前に表立って動いては、同僚の介入を招いてしまう。手柄を分け合ってやる
義理はない。そもそも、人員不足になる事…つまりウォッシュとホニッシュを失うのも想定外だったが…。
(有り得なくはない、か…)
戦闘能力は高いが、あのふたりには付け入る隙がある。先ほどのアジア系の青年や、その救出に現れた能力者が相手ならば、
失策の末に討ち取られる可能性は確かにある。先ほどは引っ掛けられかけたが、ふたりはこの島で彼らに倒されたのだと確信
した。
(本腰を入れてかかるのが最良だな)
武装して再上陸。あの青年を探し出し、情報を得る。
方針を固めた黒豹は、沖から島を回り込みにかかった。
日没を待って再上陸。この島に何が潜んでいるのか、念入りに確認する必要があると…。