Accordion
灰色の草むらが揺れる。本来あるはずの湿気も、匂いも、音すらも感じられない、無味無臭無音の風に。
岩にどっかりと腰を下ろした巨漢のセントバーナードを見つめるルディオは、長い沈黙を破って口を開いた。
「「ハーキュリー・バーナーズ」…」
「おう。ビックリしたかよ?」
ニヤリと笑うセントバーナードの巨漢。自分と同じ容姿の男を前にして、ルディオは…、
「…うん」
少し黙った後、小さく顎を引いて頷いた。結局いつもと全く変わらない表情で。
「あんまりビックリしてねぇだろ?」
何処か不満げな様子の巨漢。
「ビックリしてるなぁ。かなり」
変わらずぼんやり顔の巨漢。
「ホントかよ」
「ホント」
「まあいい…」
ハーキュリー・バーナーズと名乗ったセントバーナードは、ルディオの爪先から頭の天辺までジロジロと無遠慮に視線を走
らせ、やがて小さくため息をついた。
「鏡でも見てる気分だが…、気ぃ抜けたツラしてやがんなぁお前?ぼへ~っと締まりのねぇ間抜け面しやがって、ったく…」
少し考えたルディオが「でも、顔はおんなじだなぁ」と反論すると、ハークは「面構えの話だ。判るか?面構え」と顔を顰
める。
「お前、自分が「何」なのかは多少判ったか?」
「………」
無言でゆっくりと顎を引いたルディオは、ギュミルが話し、獣が聞いた内容を追憶する。
自分は兵器だった。ラグナロクという組織に造られた、人型の兵器だった。
だが、真実を知ってもショックは殆ど無い。「まともじゃない」という自覚は前々からあった。「普通じゃない」という証
拠は嫌と言うほど揃っていた。「やっぱりなぁ」と薄々判っていた。それを受け入れる時が来ただけ。
「ま、不幸な生まれだ。生まれ方を選べねぇのは皆同じだが…」
ハークは言葉を切ると、「いや…」とかぶりを振った。
「…そもそも、生まれねぇように手ぇ打ってたおれが吐くセリフじゃねぇな…」
「うん?」
「気にすんな。独り言だ」
ハークは少し尻を浮かせて横へずれると、ポンポンと平手で岩を叩いて「ま、こっち来て座れ」とルディオを誘う。
促されるまま素直に隣へ腰を下ろしたルディオは、「…ここ、何処なんだぁ?」と、改めて周囲に視線を巡らせる。
「「荒野(あらの)」だ。「黒白の園」とか「涅槃の平原」とか「不確定境界域」とか、呼ばれ方は色々あるが…、カムタ辺
りは「此彼の叢(このさかのさのくさむら)」って呼ぶんだろうな。まぁそいつも気にすんな。ここが何処なのかも何て名前
なのかも、お前には別に重要な事じゃねぇ」
答えたハークはおもむろに手を伸ばすと、ガシッと両手で挟むようにルディオの頭を掴み、自分の方を向かせる。
「ちょっとこっち向け。…そうだ。よく顔見せろ」
顔を間近で見つめるハークの目を見返して、ルディオは奇妙な感情を味わった。
乱暴に添えられた手は力が強かったが、不快ではなかった。くすぐったい。暖かい。心地良い。安心する…。ルディオの胸
にあるのは、初めて経験する不思議な感覚…。
「…意外と情が湧くもんだ…」
ボソッと呟いたハークは、「ん?」と不思議そうに鼻を鳴らしたルディオに「何でもねぇよ」とそっけなく応じ、顔から手
を離した。
「ったく…。「十番目」とはな…。姿形どころか、関係ねぇはずのトコまで同じかよ…」
ハークの呟きを聞きながら数度瞬きして、ルディオは訊ねる。確認したい事はいろいろあるが、まず知るべきなのは…。
「おれ、死んだのかぁ?」
「………」
一瞬の沈黙を挟み、ハークはふっと笑みを浮かべた。
「…いや。いいや。お前は「生きてる」。誰が何て言たってな」
巨漢はルディオの顔を見る。
「だがな、このままじゃ死ぬ。お前も、あの気の良い殺し屋もだ。「ソイツ」もよくやったが、限度ってモンがあらぁ」
「ソイツ?」
聞き返したルディオは、ハークに顎をしゃくられて前を向く。
そこに、「獣」が立っていた。
輪郭はルディオとハークにそっくりで、しかし体は半透明の琥珀色。セントバーナードの獣人を模した飴細工のような姿。
セントバーナードは目を大きくして見つめた。琥珀色の獣…おそらくは、ずっと自分と共にあって、しかし初めて相対する
ソレを。
「…もしかして、「ウールブヘジン」なのかぁ?」
問いかけたルディオに、ソレは反応を示さなかった。
眼球も鼻も爪も区別が無く、全てが一塊の琥珀色で構成された体。見れば、その体はあちこち傷つき、所々ポッカリと穴が
空いたように欠損しているが、その部位はまさに、ギュミルとの交戦で負傷した箇所だった。
「ドリュアスっていう古代の危険生物、液体…樹液が本体になってる生命体の一種だ。本当は樹木なんかに寄生して暮らして
るモンなんだがな…。連中め、上手く行かなかった分を取り戻そうと無茶しやがって、ソイツはいろいろ弄くられて哺乳類の
体に適合させられて、植物の中じゃ生きられねぇ体になった挙句、無理矢理寄生させられた。…体を好き勝手された事も腹立
たしいが、巻き添えまで出しやがって…」
ハークは苦虫を噛み潰したような表情になり、憤懣やるかたない様子で喉の奥をグルルと鳴らす。
「ソイツがこれまでずっと、「その体」を使ってカムタと仲間を護っていた。まだ戦う力を身に付けられてねぇお前に代わっ
てな。だが、本来ソイツは「ひと」の体を動かすようには出来てねぇ。脳や神経に干渉して何とか誤魔化してきたが、そもそ
も本来植物以外への寄生は専門外だからな…。だがまぁ、よくやったぜ。うん…」
顰め面から一転し、ハークは目を細めて琥珀色の獣を見つめる。褒めているように優しく。
「ソイツはな、お前と同じでカムタが好きなんだ。出遭って、素性も知らねぇまま、何の見返りも求めねぇで自分を助けよう
としてくれた…。たったそれだけだ。それだけの事だが、ソイツはもう一度だけ「ひと」に寄り添ってみようって思った。そ
して、その存在をかけてあの子を助けてぇって願うようになった。自分をすり減らしながら、な…」
ルディオは物言わぬ琥珀の獣を見つめる。
やっと判った。「獣」は、記憶を持たず戦う術も知らない自分に代わり、この「優れた兵器たる体」を使って皆を護ってく
れていたのだと。
「ここから先は、お前がやれ」
ハークの囁くような声が、ルディオの耳に忍び込む。
「ソイツはもう限界だ。お前がやるしかねぇ」
「………」
「闘う術は、ソイツが必死になって治した脳味噌と、「その体」が覚えてる」
顔を向けて来たルディオに、ハークは厳しい眼差しを注ぐ。
「思い出せ。戦え。抗え。進め。今日を、明日を、明後日を、命を生きろ。お前にはまだ果たさなくちゃならねぇ役目がある
んだからよ。それに…」
ほんの少し、ハークの顔が緩む。
「カムタと約束したんだろ?美味ぇ飯を一緒に食うんだろ?子供は悲しませちゃいけねぇんだ。憶えとけ」
そして巨漢は、その分厚い手でルディオの背中をバシンと叩いた。
「なぁに、心配すんな!その体は多少の事じゃへこたれねぇ。「もう一段上」まで行っても余裕で耐えられる。ま、ハナっか
ら乗りこなせるとは思わねぇが、お前次第って事だ!」
叩かれた弾みで前のめりになり、よろめいて岩から腰を浮かせたルディオは、振り返り、ハークを見つめた。
「なぁ。アンタは…」
一度口を閉ざし、言葉を探し、ルディオは訊ねてみた。
「おれから見たら、トウチャンみたいなモンなのかなぁ?」
「…けっ!」
先ほどと同じく、顔を顰めてガシガシと頭を掻くハーク。それは苛立っているようにも、困っているようにも、そして照れ
隠しのようにも見える仕草と表情だった。
「いいか、こいつだけは忘れんな」
ルディオの問いへ答える代わりに、そっぽを向いてハークは言った。含めるように、一言一句はっきりと。
「お前はお前だ、おれじゃねぇ。黄昏共が思った通りにも出来上がらなかった以上、連中が造ろうと目論んだ兵器でもねぇ。
良いか?体がどう弄くられていようと、お前は黄昏に造られたんじゃねぇ。「この島で生まれた」んだ。誰がどう言おうと、
誰に何を言われようと、それを絶対に忘れんじゃねぇぞ」
ゆっくりを腰を上げたハークは、琥珀の獣とルディオを順に見遣る。
「そろそろ行け。ヴィジランテ(寝ずの番)がいつまでも寝てちゃあ格好つかねぇだろ?」
ルディオは琥珀の獣を見る。獣は首を巡らせルディオに顔を向ける。
頷いたのは同時だった。踏み出したのは同時だった。
両者のシルエットは重なって混じり合い、そして…。
「…「トウチャン」…と来たか…」
ドスンと岩に腰を下ろして、ハークはひとりごちる。岩の上に乗っていた尻尾が、フサッと軽く揺れた。
「下手に利用されねぇように手ぇ打ったつもりだったが…。「ああなった」のを見ると、不思議と情が湧くモンだ…」
ルディオと獣が消えた草原を、無音の風が吹き抜ける。
その風がおさまった時、そこにはもう誰も居なかった。
ドッと、砂地に手がつけられた。
強く力み、小刻みに震え、身を起こすその巨躯から、次第に水蒸気が立ち昇り、パラパラと炭化した組織が剥がれ落ちる。
その様を、間近で跪いていたリスキーは、切断された左手首の痛みすら忘れ、目を丸くして見つめた。
「ウールブ…ヘジン…?蘇生できたんですか!?」
完全に停止した。そう見えたのに、セントバーナードの巨躯は五秒ほどで再び動き出した。取り越し苦労だったのかと安堵
するリスキー。
「げふぁっ!」
咳き込んだセントバーナードの口から、ゼリー状になった血と組織が、加熱された体液と共に排出される。損傷した細胞が
修復され、新たな組織が最適な状態の肉体を再構築する。
リスキーの肌に吹き付けるのは巨体から発散される異常な熱気。その修復速度は当然ひとという生物の域にはなく、既に生
物兵器の範疇からも逸脱している。
損耗率65パーセントオーバー。そこまでのダメージを被ったボロボロの肉体が、凄まじい速度で「復元」されてゆく。
代償は、その体に住まうもう一つの命。悠久の時を生き続けられる琥珀色の生命が、己の「存在力」を先から数百年分持っ
てくる事で成される奇跡。
また、立てるように。
また、戦えるように。
また、その手で少年を抱き締められるように。
悠久の時を越えて来た琥珀の命は、これからも悠久の時を渡ってゆくはずだったその生命をもって、再びこの肉体に力を与
える。
両手をつき、上体を起こす。双眸から立ち昇る蒸気の中で、沸騰して破裂していた眼球が修復を完了し、琥珀の輝きが灯る。
足が砂地を踏み締める。腰が起きて上体が伸びる。脚に力が篭り、巨体が再び立ち上がり、琥珀の瞳がギュミルの顔を映す。
黒豹は立ち尽くしていた。思わず手を休めていた。困惑が、その顔を彩っていた。
「何故立てる?」
ギュミルの瞳に疑念の光が灯る。
「何故倒れない?何故死なない?何故止まらない?貴様は…」
唸る黒豹。完全に理解不能だった。こんな修復能力は、異常な回復力は、ラグナロクの人型生物兵器にも持ち合わせている
者など居ない。
「貴様は一体、「何」なのだ…?」
(それは、おれもよく判らない事だなぁ…)
「ルディオ」はギュミルに据えていたその「琥珀の瞳」を、胸の前に上げて広げた自分の手に向ける。
(おれの手だ…)
自分の物ではないような気がする。そう感じ、ずっと抱いてきた違和感が、今はもうない。
背中の傷がシュウシュウと音を立てる。高速修復に伴い生み出された熱で水分が蒸発している。ギュミルに負わされた全身
の裂傷が、あるいは焼傷が、みるみる修復されて塞がり、皮膚も被毛も復元されてゆく。
(思い出した…って、言うのかなぁ、コレも…)
もう判っていた。自分にどんな力があるのかが。自分がどう闘えるのかが。
ルディオは視線を上げて黒豹を見つめた。その、あまりにも静かな琥珀色の瞳に、ギュミルは戦慄を覚える。
その目は、自分を憎悪していなかった。自分を嫌悪していなかった。自分を敵視していなかった。むしろ、何処か哀しげで
すらあった。
「仕方がない」。
一言に集約すれば、琥珀の瞳が宿しているのはそんな感情…。
ルディオはそっと、その広い手の平を胸の前で向き合わせた。
その数センチほどの狭い隙間に、姿を見せないままある物が産まれる。
(…ああ、やっぱり…)
自分が生み出したソレを、成長してゆくソレを、無形の力の集まりを、ルディオは感覚で把握する。
―実験は成功だ―
しゃがれた、老人の声を思い出す。
―やっと能力発動まで漕ぎ付けることができたな―
ノイズが酷い中から、その言葉を拾い上げる。
―そうだな、この独特な動作に因み、これを………………と名付けよう―
それは、メモリーに残された声。ルディオが「生まれる」前の記録。
(おれの名前じゃあ、なかったんだなぁ…)
すっきりした頭に様々な事が浮かぶ。強烈な電撃で気付けされたように、これまで眠り続けていた機能が働き、復元された
体が頭と同期する。
名を知った。どういう物か知った。知った事で意思の方向性が定まった。定まる事で事象はより強固な物となった。
「「アコルディオン」…」
それが、ルディオが持たされた力の名前。素体が持っていた物をほぼそのまま引き継ぎ、ラグナロクで名付け直された能力。
その特性は…。
「ウールブヘジン!?喋れるように…、いや…」
リスキーは堂目し、気付く。無表情の獣、しかし纏う雰囲気はウールブヘジンとは異なっている。
(旦那さん…!?)
そして殺し屋は、ハッとなって周囲を見回した。能力発動の動作はあった、それなのに…。
(振動が…、感じられない?)
奇妙だった。これまでに経験してきた、両手を広げる動作に続いて、開放されたように生じるはずの衝撃波が…。
(発生していない?…不発したのか!?)
「既に力も残っていない、か」
黒豹は小さくかぶりを振ると、一歩踏み出し…、
「!?」
ゾクリと悪寒を覚え、咄嗟に飛び退いた。その眼前で、突如地面が抉れ、噴火するように砂が巻き上がる。
(何だ!?攻撃の兆しも無く…、っ!?)
黒豹の背で戦闘服が弾けた。飛び退いた先で背後から強烈な打撃を食らわされたように、ギュミルは錐揉みしつつ横手へ吹
き飛び…。
「ぐがっ!?」
吹き飛ばされた先で、今度は腕に衝撃を受けたギュミルが、反対側へ飛ばされる。
「な…、何が…?」
リスキーですら既に状況を把握できていない。ルディオが何かしたらしいと感じながら、しかしどんな事をしたのか想像も
つかない。
能力名「アコルディオン」。
直接放った際の出力にこそ目を奪われがちだが、その特性は「衝撃波の局在化」。
そもそも、性質上広く拡散してしまう衝撃波を、至近距離の自分は勿論、仲間も傷つけないように行使するという芸当は、
これまでも常に見せていた。それも、リスキーが「出力の加減によるもの」と誤認してしまう高度なレベルで。そしてこの制
御力の高さは、本来ならば現象として成立しない形態で衝撃波を操作し得るに至っている。
ルディオが用いたのは、接触起爆も任意炸裂も自在な不可視の局在衝撃を周辺へ自在に設置するという物。音や振動波など
の漏れも無い、触れるまで不可視無音のそれらが合計七発、ギュミルを包囲する形でセットされていた。
立て続けに起爆された局在衝撃の最後の一発が、黒豹を大きく弾き飛ばす。それを目で追うルディオは、
(追いつける…)
再び胸の前で掌を向き合わせる。本来その能力はこの動作を必要としなかったが、ルディオの場合は最適化されておらず、
実質的に「本家」には遠く及ばない。その力を扱うために、ルディオはこの動作を要する。一度力の集中を行い、そこから分
化、分配を行なうワンアクションを。
前傾して身構えたルディオの、僅かに浮かせた踵と砂地の間に、薄く、二層の局在衝撃が発生した。それらが接触、爆散す
る事で、セントバーナードの巨体は撃ち放たれた砲弾の如き速度で突進する。
夜闇に琥珀の瞳が曳光を残す。異常な初速と加速で一気に迫ったルディオは、体勢を整える隙もギュミルに与えない。
(これは…!)
黒豹は戦慄した。データに無い、話にも聞いていない、初めて経験する戦闘方法と能力に。
(失敗作だと…!?これでか!?)
咄嗟に腕を交差してガードしたそこへ、吹っ飛んできたセントバーナードの足裏が、勢いと体重と前筋力を乗せて、踏み付
けるように叩き込まれる。助走をつけた喧嘩キックにも似た乱暴な一蹴りで、黒豹は水平に吹き飛んだ。
そしてそれを追尾して、胸の前で力を圧縮し、即座に開放、伝播させたルディオの体が、再び衝撃波のカタパルトで射出さ
れる。
迫るルディオが大きく腕を引き、拳を固めて振り被っている様を確認したギュミルは、警棒に電撃を纏わせ、それを交差さ
せて受ける。
打ち下ろしの右ストレート。先程と同様に感電させて迎撃しようと試みた黒豹は、
(む!?)
接触した瞬間、警棒を握る手に激しい衝撃を感じた。
否。厳密には接触していない。セントバーナードの腕と警棒の間には僅かな隙間があり、その不可視の障壁に接触した警棒
は、逆に強烈な衝撃を送り込まれている。
ルディオは局在衝撃を反応装甲として腕に纏わせており、警棒で接触したギュミルの指が、手首が、肘が、伝播する衝撃で
苦痛の軋みを上げた。
ギュミルの能力は強力であるものの、放電には手順がある。接触していれば即時流し込んで感電させられるが、絶縁体であ
る空気の層を通過して目標へ届く程の放電には、出力チャージのタイムラグが生じる。ルディオはこれを把握して仕掛けた訳
ではなかったが、ギュミルは悟った。接近戦における能力の癖の相性が、極めて悪いと。
接触するなり反応する局在衝撃を纏った右拳は、ギュミルの左頬へ叩き込まれ、一瞬意識を吹き飛ばす。
砂地へ背中から叩き付けられ、大きくバウンドする黒豹。だが猛攻はまだ終わらない。跳ね上がったギュミルを待つのは、
指をしっかり噛ませて両手を組み固め、全身を弓なりに反らしたセントバーナード。
プロレスで言うダブルスレッジハンマーが、地面に弾かれたばかりの黒豹を、背中を殴りつけて再び叩き落す。
受け身を取りながらも堪らず息を零すギュミル。激しく咳き込んだそこへ、セントバーナードが舞い上がった砂を散らして
肉薄する。
体重を乗せた右フックが放たれる。ガードは危険と判断したギュミルは、紙一重でそれをスウェーしたが、セントバーナー
ドの巨体はそのまま回転を続け、左のローリングソバットへ連携する。
「ちっ!」
上体を逸らした体勢では、重心が据えられる腰。そこを狙った蹴りは流石に避けられない。腕を下げてガードした黒豹は、
左腕が痺れ、大きく上体が揺らいだ。
(さっきとはスタイルが違う!この闘法は何だ!?)
ギュミルが側頭部を狙って繰り出した警棒による薙ぎ払いを、ルディオは腕を上げてガードする。メキリと音を立てて骨に
亀裂が生じるも、ウールブヘジンがすぐさま修復にかかる。
激痛にも顔色一つ変えず、セントバーナードは骨にヒビが入った腕でギュミルの手首を取って引き崩し、至近距離から膝蹴
りを繰り出す。
鳩尾を狙ったそれを、間に腕を挟む形で防ぎ、黒豹が放電を試みたその瞬間には、しかしルディオはパッと離れている。
データに無い。セントバーナードの攻め方は、ラグナロクの戦闘員が用いる如何なる戦技とも異なる。
ギュミルは知らない。しかし黒豹の同僚であれば、暴力的で合理的、荒々しくも理に適ったその戦技を一目見れば気付くは
ずだった。
英国の守護者にして最大戦力、代々十名存在する「サー」。かつて、その十席目に名を連ねていた男が見せた戦いぶりと、
酷似している事に。
ルディオ自身には戦闘経験が無い。だが、肉体が動く。どう戦えば良いかが判る。考える前に身体そのものが自然に動き、
攻防の動作を行なっている。さらに…。
(ああ、判った)
喉元の肌がピリッとして視線を動かしたルディオは、下から喉を突くように襲い掛かる警棒を察知、素早く首を傾けた。危
うい所で避け、その頬から吹き散らされた被毛が、電撃を帯びて燃え尽きる。
体の中のウールブヘジンは、弱ってなおルディオの背中を支えている。迫る危険と攻め込む隙をタイムラグ無しに伝えて来
る。これまでの、闘う術を持たなかったルディオに代わってウールブヘジンが主導権を握っていた状態とは違う。より良く体
を扱えるルディオを補助に回ったウールブヘジンが支える、理想的なバランスで成り立っていた。
(スタイルの変化だけではない!この膂力!この戦速!これは…!?)
豪腕をガードし、ギュミルがよろめく。追撃のフックを受け流して腋を狙うも、折り返した肘で弾かれる。反撃に振るった
警棒が衝撃を発する平手で止められ、もう一方を手首を掴んで押さえられ、両手を封じたそこで頭突きが見舞われ、視界に星
が舞う。
兵器としてそもそもひとの範疇にないポテンシャルを持つ上に、リミッターを解除しているギュミルが、ルディオに押され
ていた。
(リミッターカットではない!これはまさか…!)
ギュミルは戦慄した。兵器から見てなお異常なセントバーナードの身体性能は、「ある現象」を想起させた。意図的に肉体
のセーブを外した状態、そのさらに先にある「もう一段上」…。黒豹もまだ至っていない、そもそもそこに到達できるか判ら
ない、一つの境地を。
(この男は…!「オーバードライブ」し掛かっている…!?)
ギュミルの反撃…しなって伸びる蹴りをウールブヘジンが察知する。一切のタイムロスなく警告を把握してルディオが動く。
腕を上げてガード。防御の上から衝撃が駆け抜け、体幹に至るまで骨という骨が軋み、一拍の堪えに次いで巨体が吹き飛ん
だ。高速で何度も側転するように、砂地に何度も叩き付けられながら飛んでゆくルディオは、弾き飛ばされたガードの隙間か
ら、自分を蹴り飛ばしたギュミルが極端な前傾姿勢で、滑るように接近してくる様を確認する。
即座に手を胸の前で向き合わせ、局在衝撃の層を作り…。
(そこから跳ぶとはな!)
迫ったギュミルの警棒が空を薙ぐ。何の足場も無い空中、吹き飛んだ先に局在衝撃でカタパルトを形成したセントバーナー
ドは、黒豹を飛び越えるように反転して跳んでいた。地面を蹴るのではない、空中を蹴って急激に方向を変える回避を、しか
しギュミルはなおも追尾する。
振り向き様にひたりと、ルディオの背へ警棒の先が向けられた。蓄電充分、放電範囲内、確実に当てられるその攻撃は、し
かし黒豹が不意にバランスを崩した事で狙いが逸れ、青い稲光が砂地を焼いて閃電岩に変える。
回避のためのカタパルト設置と同時に、ルディオは一つだけ局在衝撃の爆弾を仕込んでいた。それが時間差で炸裂し、接触
していなかったとはいえギュミルはそれを背に浴びる格好になった。
が、その衝撃波を浴びた黒豹が、つんのめる格好から即座に猛然とダッシュしている。浴びた衝撃波を追い風にして。
(戦闘センスの塊か!?)
リスキーは焦りを感じた。復活したルディオ自身が戦える事も驚きだったが、その動きは獣のソレよりも滑らかで、能力の
性能も向上している。しかし、ギュミルはそれに対応しつつある。当初こそ直前までとは異なる動きに翻弄されていたが、短
時間で学習し、順応している。このままでは押し切れないどころか、長引けば長引くほど不利になる。
着地地点へ駆け込んだギュミルの跳び蹴りを、腕を上げて防ぐルディオ。弾かれた右腕の下へ、宙から襲う二段目の蹴りが
即頭部を捉えて横転させる。体格で大きく上回るルディオが、踏ん張っていない蹴りで軽々と倒される様は、リスキーの目に
は悪夢のように映る。
蹴り飛ばされ、砂煙を上げて二転し、身を起こすセントバーナード。首を傾けた直後、頬を掠めて突き込まれた警棒が被毛
を吹き散らす。膂力と瞬間的な速度ではルディオが僅かに上だが、ギュミルは培った戦闘経験と対応力、そして技能でその差
を埋め、上回るに至っていた。
近接格闘でもギュミルに押され始め、畳み掛けるような猛攻の前に防戦一方となるルディオ。こうなると局在衝撃を生み出
せる隙も無い。完全に黒豹の作戦勝ちだが…。
(とどめ!)
両の警棒を振り下ろし、それを防いだルディオの顎を膝で蹴り上げたギュミルは、仰け反って無防備に晒された脇腹を見る。
チェックメイト。肋骨ごと肺腑を蹴り潰し、戦闘不能にする。
…つもりだった。
「!」
黒豹は蹴りを放つ直前の、大きく身を捻ったその姿勢で気付いた。夜空を舞い、放物線を描いて迫るソレに。
薄いテープが小刻みに翻る。砂粒と血滴を零しながら新月の空を横切る。
(あの警戒心なら、避けずにはいられない!)
殺し屋は、ソレを拾い上げ、痛む右手で無理矢理投げていた。
放り込まれたのは、ギュミルに切断されたリスキーの左手。
油断していなかった。むしろ警戒していた。だからこそ、リスキーに意識を割く余力が殆ど無くなっていたギュミルには、
その不意打ちは有効だった。
上半身を捻り、首を傾け、仰け反るような格好で毒手を避けたギュミルの蹴りは、勢いと威力を失い、打点も狙った位置よ
り低くなる。
顎を蹴り上げられて仰け反ったまま察知した攻撃に対し、セントバーナードは蹴りを防ぐ事も、避ける事も考えない。
これを逃したら負ける。
ルディオでも、頭のチップでも、ウールブヘジンでもなく、幾千の戦いを潜り抜けてきた「肉体」がそう言っていた。
ドボッと、飛び込んだ蹴りが脇腹にめり込み…。
「ぬ!?」
ギュミルは目を見開く。受けた蹴りを抱えて耐えたルディオの瞳が、琥珀に輝き黒豹に向く。交差した視線の真ん中を、リ
スキーが放った左の毒手が横切った。
「うっぷ…!」
あばらよりも腰に近い位置まで打点が下がって来たおかげで耐えられたが、内臓を衝撃が貫き、ルディオはえずく。吹き飛
ばされそうな威力だったが、踏ん張りつつ捉えた脚を手掛かりに堪え、歯を食い縛り、元々不安定だったギュミルを力任せに
振り、そのまま旋回を始めた。
「ぬがっ!?」
急激な加速とG。頭に集まる血液。勢いが強過ぎてギュミルは旋回に抗えない。
まるでジャイアントスイング。一回転、二回転、三回転…、五回転目の段階で旋回は肉眼で姿の仔細が判らないほどの速度
になり、砂煙が巻き上がって柱を作る。脚一本を捕まえて高速回転し、遠心力と加速を充分に乗せ、目いっぱいの力を加えて
ルディオはギュミルを放り投げる。
そうして宙に放られた黒豹は、丁度射程に入った。
セントバーナードの胸の前で手が向き合わされ、隙間を縮め、そして大きく広げられる。アコーディオンを奏でるように。
開放された力が作り出したのは、扇状に展開される局在衝撃。ギュミルを中心に捕らえたそれが、ルディオの胸元から連鎖
的に起爆され、衝撃の大波が瞬時に伝播する。
「!!!!!」
苦鳴すらも飲み込む、大気を引き裂く衝撃波の飽和爆撃と連鎖爆発。だが全身を、そして突き抜けた衝撃波で体内までズタ
ズタにされながらも、黒豹はその警棒を帯電させ、ルディオに向けていた。
咄嗟に腰の後ろへ回るルディオの手。握ったソレを引き抜きつつ、全身を使ったダイナミックなモーションで投擲する。
空を切り裂き閃いたのはガットフックナイフ。放たれた青い電撃は回転飛翔するナイフを飲み込み…、
「…何故、ソレがここに…!?」
呻いたギュミルの右腕が、肩口から斬り飛ばされていた。
青い電撃はルディオに届かず、ナイフが吸収するように全て引き寄せ、そのままギュミルを襲った。
それは、ギュミルが知る情報では「黄昏の楽師」に与えられたとされている、たったの一振りしか造られなかった特別製の
擬似レリック。かつて、人類史上最高の頭脳にして最悪の研究者と呼ばれた男が残した、希少な特殊合金の最後の一塊を用い
て造られたナイフ。
思念波吸着合金ハルモニア。それが、ルディオが所持するガットフックナイフの刃に使われている、精霊銀ベースの特殊合
金の名。所持者の意思に応え、思念波に由来する特異現象を阻害する一振り。つまり、能力も術も、レリックの特殊機能であ
ろうと、思念波が介在する現象全てに対してその機能は有効となる。
今回、ルディオの意思に応じたハルモニアは、ギュミルの放電を捻じ曲げて引き寄せ、避雷針となった。そして、帯電した
状態でギュミルの腕を切り飛ばし、そのまま木立へ飛翔し、椰子の幹に突き刺さり、感電した椰子の木が木っ端微塵に吹き飛
んでいる。
新月の夜空から、衝撃波でズタズタになったギュミルとその腕が、力無く落下する。
(申し訳…ございません…!)
鮮血の筋を夜闇に引いて、黒豹は歯噛みした。
(申し訳ございません、フレスベルグ様…!)
自分は勝てない。黄昏の害となり得るかもしれないものを、排除できずに終わる。主にあわせる顔がない。
それがプログラムされた忠誠心だとしても、刷り込まれた感情だとしても、ギュミルは己の在り方に誇りを持っている。黄
昏の戦士である事が、彼のアイデンティティであり誇りであり、全てだった。
ドザンと砂に落ちた黒豹は、右腕を失っている上に、全身がズタズタになっていた。横倒しに転がったまま動けないギュミ
ルの周囲で、砂がその血を吸い上げ赤々と変色する。しかし…。
「…うぶっ!?」
ルディオが突然仰け反り、両手で口を押さえた。
瞳から琥珀の色が薄れて消え、次いで指の隙間からブバッと噴き出したのは、赤黒い大量の血液。
負ったダメージと生じる負荷を修復で補っていたウールブヘジンが、ついに限界に達した。
喀血したルディオは膝から崩れ落ち、四つん這いになってゲボゲボと赤い吐瀉物を吐き散らす。
全て出し切った。全て振り絞った。ルディオの体からは修復による熱の発散も止んでいる。
だが…。
(動けないのは、向こうも同じ…!)
折れた足を引き摺って、リスキーはギュミルへ近付く。
トキシンは劣化が進み、有効期限ぎりぎり。だが、触れられればとどめになる。
胴に巻いていたテープを剥がし、端を咥えて添え木で固定された右手に巻きつけ、にじり寄る青年は覚悟を決めている。
今のギュミルになら組み付ける。接触できれば、例え反撃で殺されるとしても、刺し違えて終わらせる事は可能。
どうあってもここで仕留める。ギュミルは嘘をついていないと信用できる。この男さえ仕留められれば、全て…。
(ここで…、ここで…!終わらせる…!島も、坊ちゃんも、シーホウも護れる…!)
だが…。
「リス…キー…!」
血の飛沫が混じる咳の隙間から、ルディオが訴えた。
「爆…、弾…!」
目を見張るリスキー。
倒れ伏したギュミルの左手は警棒を手放していた。そして、転がった警棒の脇には、リモコンのような物が落ちている。し
かし、そちらではない。殺し屋が凝視するのは、たった今黒豹が握っているモノ…。
黒豹の左手が握りしめている、煌く物を認めた瞬間、リスキーは状況を悟った。
六角柱状の水晶のような、一握りの結晶体。
それはリスキーもよく知っている物だった。カラカルとコヨーテも持っていた上に、何せONCの流出物の中にも入ってい
た品。体積の百倍に相当する周辺の酸素を、爆薬に変性させて起爆するオーパーツ。
(既に起動されている…!)
結晶の発光を確認しつつ、リスキーは把握した。ギュミルが手にしている結晶のサイズでは、変性される酸素はTNT火薬
7トン前後に相当する破壊力を持つに至る。
有効な手立ては、起爆前に水中などに沈めて変性される酸素量を激減させる事だが、波打ち際は遠い。そもそも深さが足り
ない。こちらに放られたら、もはや打つ手はない。
だが…。
ギュミルは目を閉じ、その手を、トサリと砂の上に落とした。
自分は負けた。ならば敗者として相応の振る舞いをするのみ。力及ばず、セントバーナードをそのままにしてしまうのは心
残りだが…。
(…奴らがその手で勝ち取って見せたのだ。仕方あるまい…)
しかし、黄昏への忠誠はいささかも揺るがない。無様に死体を晒せない。自分の体が黄昏に不利益を齎す可能性を僅かにも
残す訳に行かない。
青い閃光が周囲を照らし、冷たく、激しく、青い光を帯びた爆風は天を突くように屹立する。
それはまるで、青い雷光の墓標のようだった。
爆発の直前、リスキーは近付いてきたルディオにのしかかられる格好で砂地に伏せさせられた。重なったふたりの上を激し
い衝撃と風が駆け抜け、まとめて吹き飛ばされ、引っくり返され、上も下も判らなくなるほど転がって、入り江の際の草むら
に突っ込み、椰子の木の根元にぶつかってようやく止まったルディオとリスキーは、一緒に飛ばされてきた大量の砂に半分埋
もれながらも、顔を見合わせて互いが生きている事を確認する。
砂地にギュミルの姿は無い。切断された右腕も無く、ひしゃげて潰れた警棒の残骸が一部だけ砂に埋没している。爆心地の
中心はどれほどの威力に晒されたのか、クレーターのように抉れた中心は融解していた。
ギュミルが自決直前に操作したリモコンによって、自動航行で沖へ向かったクルーザーは、流出してはならない様々な品と
情報を抱えたまま、静かに海中へ沈降して自爆準備に入っている。
轟音で一時的に聴覚を失ったまま、抉れた砂浜へ海水が流入し、大量の水蒸気を発生させる様を眺め…、
「ステキな死に方ですね…」
リスキーは我知らず呟いていた。
自らの死体まで跡形もなく処理する。その徹底した在り方は、汚れ仕事と自嘲しながらも美学と矜持を持ち続ける青年に、
敬意を抱かせた。
「…とにかく…。無事…な訳ありませんが、生きてますよね旦那さん?「死につつあるけどまだ生きてる」じゃなく、ちゃん
と生存してますね?」
「ん?」
耳が麻痺したままで聞こえていないルディオが首を傾げる。とりあえず死に掛けてはいない。
「ああ…。早いところ撤収しなければいけないところですが…」
リスキーは片膝を粉砕骨折し、まともに歩けない有様。敗北した場合に死体からヤンやカムタの身元を辿られる事を避ける
ために、通信機の類もあえて持って来ていなかったので、助けも呼べない。
「これは…、第二ラウンド、痩せ我慢大会開始ですかね…」
うんざりと零したリスキーの横で、ルディオがのそっと立ち上がる。
「もう動けるんですか?」
見上げたリスキーは、ルディオの瞳に薄っすらと琥珀色を見た。
「ああ。頑張ってくれてるなぁ」
耳鳴りが酷い中、何とか聞き取ったリスキーは不思議に感じて問う。
「頑張って…くれている?」
「うん。おれの中の、ウールブヘジンが」
聞き返したリスキーにそう応じたルディオは、右手を胸元に上げて掌を見つめると、握って開き、感触を確かめる。
自分の手…、そう感じる。もう違和感は無い。
「ウールブヘジンはずっと…、この体の使い方が判ってなかった、自分が何なのかも判ってなかったおれの代わりに、この体
を使って皆を助けてくれてたんだ」
目を見開くリスキー。
何らかの異常が生じたか、あるいは正常に戻ったかして、ルディオが意識を保ったままギュミルと戦ったのだと思っていた
のだが…。
「記憶が戻ったんですか!?」
勢いこんで問いかけ、声を大きくしただけで体中に激痛が走って呻いたリスキーに、ルディオはゆっくり被りを振った。
「少しずつ、「わかってきた」けどなぁ…。おれには、元々この島に来る前の記憶なんて無かったんだなぁ」
手を握り、開き、ルディオはぼんやり顔に微苦笑を浮かべた。それは、苦笑いではあったものの、どこかすっきりした面持
ちにも見えて…。
「おれは、この島で生まれた」
「…はい?」
比喩的な表現だろうかと眉根を寄せたリスキーに、ルディオは続ける。
「意思…って言えば良いのかなぁ?それが、この島で生まれたんだ」
爆風で散々に弄ばれた椰子の葉の隙間から、セントバーナードは星が瞬く夜空を見上げる。
生まれたのはこの島。この島こそが自分の故郷。勘違いと堂々巡りと回り道の果てに、やっと「本当の事」が一つ判った。
「目が覚めて、カムタと会ったあの日に「おれ」は生まれた…」
静かに、ルディオは語る。いま判っている自分の真実を。
「「この体」は昔、「ハーキュリー・バーナーズ」の物だった」
リスキーの息が止まる。
ハーキュリー・バーナーズの死体を確保したラグナロクが、それを素体にして製造し、「何かの間違いで」人格が形成され
ないまま起動してしまった、失敗作の人型兵器「ガルム十号」。
その失敗作がある実験に使われた折に、自分達がウールブヘジンと呼んでいる危険生物がこの肉体に封入された。
そして暴走し、廃棄され、漂流し、この島に流れ着いた。その漂流の過程でウールブヘジンが修復していた肉体に、「何か
の間違いで」今更形成された人格…。
「それが…、おれだったんだなぁ…」
時々視た、覚えのない景色。
不意に蘇る、記憶にない声。
それは、ハーキュリー・バーナーズの肉体…脳を含んだその体が留めていた「生前」の物と、兵器としての起動後に、頭に
埋め込まれていたチップが記録していたラグナロクでの物。
今なら判る。事の前後も判らない二種の記録が混ざり合ったせいで、自分が断片的に視る物は、そのまま並べてもちぐはぐ
で繋がらない物にしかなり得なかったのだと。
「ルディオ」。そのワードすらも、やはり昔の自分の名前などではなかった。口から漏れたあれは、メモリーに残った能力
名の断片だった。だが…。
「…何はともあれ…」
リスキーは吐息を漏らす。心の底からの安堵の息を。
「彼は真実を教えてくれたはずです。黄昏の後続は居ない。…まぁエルダー・バスティオンはそのままですが、のっぴきなら
ない危機はとりあえず回避できました」
痛む右手でトキシンテープを除去し、簡易密封して、シャツの端を口に咥えて引き裂きながら殺し屋は言う。
「きっと、もう大丈夫ですよ」
視線を向けたルディオは、ハッと目を見開いた。
「リスキー…。手…」
手首から先が無くなった左腕を軽い調子で振り、砂塗れの傷口を見せ、少し上で縛ったリスキーは口の端を上げる。
「名誉の負傷です。いえ、強がりではなく」
今になって、体中が脈打つようにズキズキと、激しく痛み始めていた。
「ラグナロクの、最高幹部直属の戦士と戦って生き延びたんです。報告だけで特別ボーナス物ですよ…。はは…、殺し屋とし
て役立たずになっても、それでまぁ何とかなるでしょう…」
失血のせいで顔色が悪いリスキーを、そっと抱き上げて、
「少しだけ我慢しててくれ。すぐ…」
ルディオの声が風に攫われる。青年を抱えて猛然と走り出したセントバーナードは、最短距離でヤンの元へと向かう。
(確かに生きて帰る事ができた…)
激しい揺れがもたらす痛みで気が遠くなりながら、リスキーは激痛に歪む顔へ、それでも笑みを浮かべていた。やや困った
ような笑みを。
(だが…。これは確実にシーホウから怒られるな…)
新月の空の下、止んでいた虫の声が、いつの間にか響き始めていた。
「まったく!…ああ!もう!まったく!」
気を失っているリスキーを寝台に寝かせ、まず左手の止血処置から入りながら、肥った虎はやはり怒った。
ルディオに抱えられて帰って来た青年は、片手を失い、片膝を複雑骨折し、全身が骨折と打撲と擦過傷だらけで見る影も無
くボロボロだった。
「全然無事じゃない!思いっきり重傷じゃないか!」
怒鳴り散らしながら傷を洗浄し、手当てするヤンは、
「まったく…!全然っ…!無事じゃ…!」
怒りながら泣いていた。
どんな大変な目に遭ったのか、どんな激しい戦闘をしたのか、詳しい話を聞くまでもなく様子を見れば判る。
「ざまぁみろ…!ああ!ざまぁみろ!これでもう危ない仕事なんかできないだろう!殺し屋引退必至だな!真人間になれる参
考書を探すところから再出発だろうチクショウめ!」
手を殺菌洗浄した腕を上げ、溢れる涙を袖でグイッと拭う。薬品の刺激臭が鼻を突き、目に染みて、涙がさらにボロボロ零
れて来る。
「まったく君は!本当に!変な所で…!…兄さんと似てる…!怪我をして…、得意げな顔で…、帰って来て…!何だその満足
そうな顔は!チクショウ!チクショウ!」
鼻声で怒鳴り散らし、医師にあるまじき平常心を欠いた状態にあると自覚しつつ、それでもヤンは黙る事ができなかった。
よく、生きて帰って来てくれた。
ボロボロでも、大事な商売道具を一つ失っても、とにかく生きて帰って来てくれた。
状況なんかいい。どうなったのかも今はいい。ふたり揃って帰って来てくれた。
小言は言う。思いっきり怒る。言いたい事は山ほどある。
それも、生きているからこそ叶う。
「…ルディオさん。とりあえずリスキーの止血を済ませてしまうから、済まないが少しだけ待って…」
首を巡らせた虎医師は、そこに居たはずの巨漢が姿を消している事に気付いた。
「…行ったのか…」
ブブッと羽を鳴らして、フレンドビーが浮き上がる。
「どうかしたかバルーン?」
問いながら、少年はルディオのベッドから腰を浮かせていた。
「部屋から出ちゃダメだぞ?大人しく隠れてねぇと…」
カムタはそう諭しながら、しかしフレンドビーの行動で眉根を寄せた。クマバチは締まっているドアにホバリングしながら
トントンと頭をぶつけている。ノックするようなその仕草は、まるで何かを伝えようとしているようで…。
カムタはすぐに気付いた。フレンドビーが何を言いたいのか。
少年はドアを押し開け、廊下に飛び出し…。
新月の闇夜を、大きな影が揺れながら行く。
外傷の修復こそ済んでいるものの、流石にヘトヘトで、体の節々が痛み、まともに歩くのも難しい。
足を引き摺るように動かし、時折よろけながら、ルディオは民家の敷地へ踏み入った。
多くの時間を過ごした家。自分が暮らす家。少年が住む家…。
足を送り出す。玄関に向かって一歩一歩、頼りなく揺れながら。
ピクンと垂れ耳を動かす。ドタドタと、家の中に響く足音が近付いて来る。ニワトリが暗がりに一声鳴いた。
床を踏み鳴らす音はそこまで来ている。居ても立ってもいられず、疲れきった体に鞭打って足を急がせる。
「アンチャン!?」
バンッと、扉が開いた。
ルディオの垂れ耳がピクンと震えた。
聞き馴染んだ声。そして、「最初に聞いた」声。
ああ、自分は生きて帰ってきたのだな。そんな感慨が胸をジワリと満たす。
ドアを開け放った少年は絶句し、瞳にセントバーナードの姿を映した。
全身砂埃塗れで、茶色い部分も黒い部位も淡く濁った被毛。ベストは無くなり、上半身は裸。ズボンも焼け焦げて見る影も
無くなり、かろうじてベルトから垂れ下がっている様はボロボロの腰巻のよう。
だが、生きている。そこに立って、自分を見ている。
「アン…チャ…」
長く長く息を吐き、少年はその場にヘナヘナとへたり込んだ。
(シバの女王様…!)
願いを聞き届けて貰えたと、感謝の祈りを胸の中で捧げたカムタに、
「カムタ」
目の前で屈み込んだルディオは、埃だらけの顔を近付ける。
「おれ、わからなかった事が、色々わかった」
「え?」
セントバーナードは片手を胸の前に上げ、掌を見つめる。
「あれは…、前におれが呟いてたのは、「ルディオ」って言ったのは、やっぱり名前じゃなかった。あれは能力の名前だった。
…っぽい」
自分の手。長らくあった違和感はすっかり消えて、今はそう感じられている。
「元々おれには、名前はなかったんだなぁ」
そっと、手を握り込んで拳にした。今はこの手で掴めるものがある。今は何かを掴むことができる。掴み、離さず、護るこ
とができる。
「おれに名前はなかった。おれは誰でもなかった。おれに帰る場所なんてなかった」
カムタは訝って目を大きくした。見間違いかとも思ったが…、
「だから…、おれは「ルディオ」で良いんだなぁ。何処にも行かなくて良いんだなぁ」
セントバーナードは確かに笑っていた。いつもと同じぼんやり顔が、今は晴れ晴れして見える。
「カムタがそう呼んだ。だから、それがおれの「正しい名前」だなぁ。だっておれは…、それまで名前が無かったどころか、
この島で、カムタと会ったあの日に生まれたんだから」
ルディオは嬉しかった。自分が何であったのかを知った。だからとても嬉しい事に気付けた。
名前はカムタがくれた。故郷と言えるのはこの島だった。
「おれは、この島で生まれたルディオだ」
ハークは言った。今日を、明日を、明後日を、「命を生きろ」と。
「この島で生まれて、この島で生きる」
ハークは背を押した。どう造られたかなど関係ない。どう誕生したかも関係ない。
これからは胸を張って言える。カムタがつけたこの名前こそが自分の名前、自分はこの島で生まれたルディオだと。
それが、とても嬉しかった。ルディオと名乗り、カムタと生きてゆける事が、とても嬉しかった。
「ただいま、カムタ。これからもよろしくなぁ」
太い腕が少年を包み込むように抱き締める。ずっと一緒に居る。これからも、ずっと一緒に…。
「…おがえり…、アンヂャン…!」
鼻が詰まった声で応じ、抱き締め返すカムタは、泣き笑いの顔になっていた。