Hercury Berners

 降りしきる冷たい雨が体を冷やす。

 気化して漂う湯気の中、激突し、倒壊させた小屋の壁に、セントバーナードの巨漢が背中から埋まっている。

 割れた額から流れる血が目に入り、細めた双眸を右手へ向ける。

 もう、動かない。

 両脚も利き腕も折れている。心もまた、折れている。 

 守るべき物があった。多くの物を守ってきた。なのに自分は、一番守りたかった者を失った。

 その事実が、巨漢の心を折った。

 残る左に力は入らず、双眸からも急激に光が薄れてゆく。

 エッ…、と、喉が鳴った。

 食道を逆流して込み上げた血が、口内に溢れ、溜まり、それから零れて顎と胸元を濡らす。

 望洋とした力のない視線が向けられた先では、背中から貫通して腹を突き破っている折れた材木が、その鋭い先端からボタ

ボタと鮮血を垂らしていた。

 ビシャリと、水溜りを厚底のブーツが踏む。

 朦朧とする意識。霞む視界。巨漢がゆっくり上げた目に映ったのは、残骸が散らばる地面を踏み締めて立つ、鯱の大男。

「投入されたエインフェリア、総数47体。その内、46体が機能停止…」

 セントバーナードを見下ろしながら、鯱は軽く肩を竦めた。

「つまり、俺様以外は全員やられたって訳だァ。たった一匹の手にかかってなァ」

 セントバーナードは答えない。か細くなった呼吸音だけが、半開きの口から漏れている。

「誇って良いぜェ。こいつァ黄昏でも前代未聞の大被害ってやつだァ」

 ビシャリと、水溜りを踏んで前に出る鯱。ぞんざいな足取りのようで、脱力した、無駄に力が入らないその一歩には、しか

し最大限の注意と警戒が宿る。

 セントバーナードの左手で、五指がピクリと動く。

 残る力を振り絞り、ただ一本だけ動く左腕に込めて、巨漢は…。

 

(テメェらの好きになんかさせねぇ…。「死んだって」な…!)

























 薄く目を開け、セントバーナードは天井を見つめる。カーテン越しに判る外の仄暗さから、普段の起床時間が近いと感じた。

 意識が覚醒してゆく中、ルディオは考えた。自分が見ていた夢は、おそらくハーキュリー・バーナーズが最期に見た風景な

のだろう、と。

 ベッドの上で身を起こし、胸の前に上げた手をぼんやりと見下ろす。自分の手…。もう違和感は無く、自分の体だと認識で

きる。
ベッドを降り、脇の椅子を見やり、いつもその背もたれにかけていたベストが無い事に一瞬戸惑い、カムタが洗濯して

干していただろうか?と考え、そうではなかった事を思い出す。

(あ~…、ベスト、無くなったんだったなぁ…)

 何となく落ち着きが悪いというか、忘れ物をしているような気になってしっくり来ないが、今は仕方がない。他に羽織る物

がないので上半身裸のまま廊下に出たルディオは、足音を立てないよう静かにリビングへ向かう。そして、カーテンも開けず

に薄暗い部屋のテーブルに近付き、ノートパソコンを見下ろした。

 ソファーに腰を下ろしつつパソコンを立ち上げ、リスキーから貰った膨大な量の、ビルと、その屋上に建てられたハウスの

画像がおさめられたファイルを選択したルディオは、少し考えこむ様子で手を止めた。

「………ブラックフライアーズ…、それから…、ニューゲートストリート…」

 最初に、風景と道筋と位置が思い浮かんだ。それから地区名を検索条件にして画像群に絞り込みをかけ、素早くスライドさ

せてゆき…。

「…あった」

 スライド表示が止まり、画面に映し出されている画像をじっと見つめる。

 屋上に建っているログハウスのような小屋。ルディオが見たあのハウス。そしてそここそが、ハーキュリー・バーナーズ終

焉の地…。
そのハウスはもう存在しない。ハークが死亡した戦闘で破壊され、ビルも改築されている。画像データは10年ほ

ど前の物だった。

 だが、胸にじわりと滲むのは寂しさだけではない。温かな、「懐かしい」という感覚もある。

 自分が実際に見たものではないのに、懐かしいと感じるのはいささかおかしな気もするが、ハーキュリー・バーナーズの物

だった肉体は憶えているらしい。鼓動が、体温が、良き時間を過ごしたそれとなって、気分が安らいで…。

 そうしてしばらく画面を見つめていたルディオの垂れ耳が、ピクリと動く。

 意識が向いたのは廊下。気配。物音。呼吸音。馴染みの物を感じ取る。

「アンチャン?」

 起床時間になって起きてきたカムタは、眠たそうなフレンドビーを頭に乗せて居間を覗き、ルディオを見てホッとしたよう

な顔をする。

「おはよう、カムタ」

「うん!おはようアンチャン!」

 足早に近付き、ソファーに並ぶ格好で腰を下ろし、笑みを交わしたカムタは、「ルディオがここに居る」という現実に喜び、

そして…。

「あ。探してたんだな?」

「ん。見つけた」

 少年は一瞬黙り、それからガバッと身を乗り出して画面を覗き込む。

 そこに、ルディオが身振り手振りを交えて語り、自分がイメージした通りの、丸太小屋が建つ屋上があった。

「ホントだ、木の小屋だ。ここが話してたトコなのか…?」

「そうだ。おれが見た小屋で、ハーク達のセーフハウスの一つだった」

「へぇ~。…「達」?」

 視線を向けて来たカムタに頷き、ルディオは疑問に答える。

「ここはハークと、ハウル・ダスティワーカーの、共同の隠れ家だった」

 ルディオにはもう判っていた。記憶を全て受け継いでいる訳ではないが、断片からぼんやりと察しがつく。

 ハウル・ダスティワーカーも、ハークと同じような立場の男だった。そしてふたりは、知られている通りの友人関係という

だけではなく、裏の仕事でも仲間…というだけでもなく、もっと深い関係にあったのだが、ルディオはそれをカムタに教えて

良い物かどうか迷い、結局「ハークとハウルは仲間だった」とだけ告げた。

 そして、そこで疑問が生じる。

 ハウル・ダスティワーカー。英国の人気ミュージシャン。突然失踪した男。ハークと同じように…。

 そして、時折メモリー由来の「記録」と思しき白昼夢で見た、あのハウルそっくりでありながら「確実に別人」と感じる、

「白い狼」…。

「………」

 ルディオは確信していた。

 あの「白い狼」は、ハウル・ダスティワーカーを素体にして造られたエインフェリアだったのだろう、と。そして…。

(あの鯱は…)

 ハークが最期に見ていた、あの鯱。彼が「白い狼」と共に居る光景も、一度白昼夢で見ている。

「………ん?」

 不意に、ルディオは眉根を寄せた。

「ん~…」

 そしてしばらく考え…、

「あ」

 思い出して声を漏らす。

 昨夜は、帰って来てカムタの顔を見て、安堵と疲労ですぐさま倒れ込むように眠ってしまった。リスキーの事もあったので

急いで戻らねばならず、すっかり忘れていたが…。

「どうしたんだアンチャン?」

 立ち上がったルディオの顔を見上げ、カムタが首を傾げる。セントバーナードは…、

「昨日、ナイフ忘れてきたなぁ…」

 困り顔でとんでもない事を呟いた。



「アンチャンあそこ!バルーンが見つけた!」

 慌てて家を出て向かった、一晩で砂浜が大きく後退した入江の木立の中、メロン大のクマバチがミツバチのダンスよろしく

合図を出し、気付いたカムタが声を上げる。

 木っ端微塵に吹き飛んだ椰子の木の破片が、爆風で崖まで寄せられ地面に堆積している中、大ぶりなガットフックナイフは

大部分が埋もれ、かろうじて刃の輝きが隙間から覗いている状態で発見された。

 取り上げたルディオが状態を確認すると、刀身どころかグリップにも傷一つない。

 セントバーナードは自分の顔を映す刀身を見つめ…。

 

「そのガットフックナイフは、精霊銀ベースの希少な合金で造られている」

 白い部屋。刀身に映り込むのは、セントバーナードの無機質な無表情。

 抜いたナイフの向こうには、テーブルについて窓の外を眺めている白い狼の姿。テーブルには青いラベルのウイスキー瓶が

乗っているが、封は開けられていらず、グラスも乾いている。

「わたしには「ラプンツェル」と「アリアドネ」がある。これ以上の武装は過剰…。個人的には不要な物だ。君に譲ろう」

「グフフ…!愛着でも出てきたかァ?」

 含み笑いに続いた声に反応し、視界が横へ動くと、窓に寄りかかって腕を組んでいる巨漢の鯱が目に入った。

「思念波吸着合金ハルモニア。「カミサマになろうとした男」が残した発明品の一つ、か…」

 鯱は視線をナイフとセントバーナードに向けたまま、意味ありげな含み笑いを漏らした。

「能力しかり、遺物しかり、「意思持つ命の思念」を原動力や媒介にする現象は、全てソイツの影響を受けるって訳だァ」

 窓から離れた鯱はゆっくり歩み寄って、ナイフの峰にツイッと指を這わせた。

「「能力者殺し」。心して使う事だなァ。…おっと」

 鯱は肩を竦めて口の端を上げる。

「そもそも「心」がねぇんだったか。グフフ…!」

 白い狼は黙したまま、視線をこちらへ向けようとしなかった。

 

「………」

 ルディオは黙して刃を見つめ続ける。

「見つかって良かったなアンチャン。コレも特別なモンなんだろ?」

 話しているカムタに訝る様子が見られなかったので、やはり一瞬の白昼夢だったらしい。

 また、鯱。

 今のルディオには、以前にも白い部屋の白昼夢で見たあの男の事が少しだけ判る。

 ハーキュリー・バーナーズはあの男に仕留められた。

 そして、白い部屋では「ガルム十号」も顔をあわせている。

(アイツも、エリンフェリア…なのかなぁ…?だとしたら、「誰の」エインフェリアなんだろう…?)

 ガットフックナイフを鞘におさめ、ルディオは水平線に目を向ける。

 何処かの海の底に、あの部屋は今もあるのだろうか?

 あの狼は、今もそこに居るのだろうか?

 そして、あの鯱は…。

「カムタ」

「うん?」

 セントバーナードは少年の顔を見下ろし、口を開いた。

「先生達にも話すけど、先に、カムタには簡単に話しておこうと思う。話す事が多過ぎて上手くまとめられないだろうから、

カムタに話してみたら説明の練習にもなるしなぁ」



「…う…」

 小さな呻き声に、耳がピクリと反応した。

 ベッド脇の椅子に座って腕組みし、カクン、カクンと舟をこいでいたヤンは、患者が漏らした小さな声にも敏感な反応を見

せ、即座に目覚めて弾かれたように顔を上げた。

 ベッドに寝かされているリスキーは、擦り傷だらけの顔を顰めて軽く身じろぎし、細く目を開ける。

「おい!僕が判るか!?」

 顔を覗きこんだヤンが大声で呼びかけると、

「…ええ。夢である可能性も拭えませんが、とりあえず先生が見えています」

 思いのほかはっきりした答えが帰って来て、虎医師はホッとため息を漏らす。

「酷い目に遭いましたが、どうやら生還できたようですね。…旦那さんは?」

「無事だよ。君と違ってピンピンしている。落ち着いたら状態のチェックはしたいところだが…」

 リスキーは一度黙り、ややあってから腕を動かそうとして、痛みに呻く。

「できる限り安静にしておくんだ。だいたい、麻酔が効かない体だろう?動いたら…」

「先生…、確認が…」

 苦痛を堪えて絞りだされた声に、ヤンは自らが痛みを覚えているように身を硬くする。

「左手は…どうなっていますか…?」

「………切断面は縫合した」

 医師の答えで、リスキーは脂汗に濡れた顔に微苦笑を浮かべる。

「やっぱり、手首を吹っ飛ばされたのは夢じゃありませんでしたか…」

「ああ。気の毒だが元には戻らない」

 ヤンはキッパリと告げる。

「膝も酷い。そちらも元には戻らないだろう」

 念を押すように、言葉を続ける。

「ここでは無理だが、人工関節への置換も視野に入れなければ…」

 患者を前に、畳み掛けるように客観的事実を告げるヤンは…。

「先生。「それ」は、医師としてどうなんでしょうね?」

 リスキーは苦笑を深める。

 虎は目に涙を溜めていた。この負傷が殺し屋にとってどれほどの損失なのかは判っている。

 そして、この負傷がリスキーに、今までと同じ仕事を続ける事を許さない事も。

 安堵と痛恨。リスキーが指摘した患者の前での涙は、確かに医師としてあるまじき物ではあった。



「話す事は、たくさんあるんだけどなぁ」

 椅子に座ったセントバーナードは、困った顔で述べた。

 ギュミルとの戦闘から丸一日経って集まった、ヤンの診療所の一室。

 四角いテーブルを挟んでセントバーナードと虎が向き合い、テーブル脇にはアジア系の青年がベッドに寝かされ、ルディオ

の隣にはカムタが座っている。

 カムタには日中に、自分でも整理しながらこれまでに判った事を話しているが、ヤンとリスキーにはこれから初めて詳しい

話をする。

 リスキーは昼まで意識が戻らず、手当てに加えて意識が戻るまで付きっ切りの看病をしていたヤンも、忙しかった上に疲労

していたので、改めて情報共有の席を設けるのは夜という事にした。…のだが、少し仮眠を取っただけのヤンは念のためにル

ディオも診察すると言い出し、入念に状態を確認したため、話を始められるのが深夜になってしまった。

「まず、おれの事からだなぁ。…「ルディオ」、それがおれの名前。造ったのはラグナロクっていう名前の組織。…だけど、

「素体」と「兵器」と「ウールブヘジン」と「おれ」の関係は少し複雑だから、ちょっと詳しく説明する」

 ルディオはそう切り出し、まず自分が「何」なのかを説明し始めた。

 術士に電撃を浴びせられた時からルディオの脳には変化が生じていた。電気ショックが引き金となって停止していた部位が

活性化し、それまで見られなかった「記憶」…、脳自体に残っていたハーキュリー・バーナーズの記憶を垣間見た。

 そして、ギュミルから全身が焼け爛れて炭化するほどの雷撃を食らわされた事で、脳と、埋め込まれていたチップは劇的な

機能改善をみた。

 一種の機能不全により生じていた脳と肉体の不一致が解消され、ルディオ自身が肉体を本来の機能で動かす事が可能になっ

た。それまでルディオが抱いていた「自身の体ではない」という違和感が払拭されたのは、この変化によるものである。

 そうして肉体と精神の一致をみたルディオが、ある程度正常化した脳内のチップから記録を得て知ったのは、「自分という

人格」が、製造された兵器としての人格でも、ハーキュリー・バーナーズの脳に由来する物でもなかったという事。

 これは、その「肉体」にまつわる話。

 ひととして死に、兵器として再生され、失敗作と認定され、廃棄された後に蘇った体に、「ルディオ」という人格が誕生す

るまでの話。

 ギュミルの話で事前知識があったリスキーも、痛みのためだけではない汗の玉を顔に浮かべて聞き入り、ヤンは時折眉間を

揉み、苦労して理解しながら耳を傾けた。

 ラグナロク。通称「黄昏」。世界中に出没し、なおその規模も本拠地も知られていない組織。

 ONCが「大きな組織」、エルダー・バスティオンが「強力な大組織」だとすれば、ラグナロクは「どれだけの規模か想像

もつかない組織」である。推定できるだけの範囲でも戦力はエルダー・バスティオンの数十倍とされ、技術力、人材の面でも

比較にならない。

 ルディオ…より正確には「その肉体」は、そのラグナロクによって製造された。

 その基になったのは、失踪したとされている英国人…ハーキュリー・バーナーズ。

 ラガーメンとして世界的に有名だったが、それは彼の「表の顔」に過ぎない。

 ハーキュリー・バーナーズは、英国の秘匿事項対策機関に所属していた。それも、最高執行部「ラウンズ」に名を連ねる、

代々十名のみ選出される英国最大戦力「サー」、その第十席として。

 彼を含めた「サー」は全員がユニバーサルステージクラス…つまり戦略兵器級能力者に分類されているが、高度な情報統制

により、彼らの素性は非合法組織間には漏れていなかった。

 だが、黄昏は偶然、彼が「サー」である事を突き止めた。アスリートとしての彼の身体能力、戦略眼、遺伝的な病などを持

たない肉体の特色により、エインフェリアの素体として拉致する作戦を立て、実行に移し、交戦を経てその正体に気付いた。

 正体が発覚してなお、ラグナロクはハーキュリー・バーナーズを求めた。英国が秘匿事項専任部門戦力である執行部隊を展

開する前に、本格的な戦争に発展する前に、速やかに身柄を確保すべくエインフェリアを投入した。

 市街地で孤立し、狩り立てられる側となったハークは、被害を最小限に食い止めつつ逃走と反撃を繰り返し、結果として民

間人の巻き添えをたった一人も出さなかった。が…。

「ハークはラグナロクに殺された」

 ルディオは簡潔に、その結末を語った。

 ハーキュリー・バーナーズは、最終的な投入数47体にも及んだエインフェリア中、46体を返り討ちにして力尽きた。そ

の死体は残ったエインフェリアによって回収され、ラグナロクの物となった。

 そして、ガルムシリーズと呼ばれる、特別仕様のエインフェリアが黄昏によって製造された。

 奇しくも、十席目を担う「サー」であった素体と同じく、「十体目」として。

「それが、この体なんだなぁ」

 ルディオはポンと、分厚い胸に平手を添える。

 ベッドのリスキーはゴクリと喉を鳴らす。自分程度が知ってはいけない、本来ならば知りえなかった、黄昏の秘密の一端を

知ってしまった。興奮はあるが、それ以上に怖れが胸を締め付けている。

 一方ヤンは、蒼白になりながらカムタの様子を窺う。少年が聞くにはあまりにも凄惨な話、精神的なショックが心配だった。

が、カムタは一言も発さず静かにしてはいるものの、落ち着いた様子でルディオの隣に座っている。

「それで、体はそうやってできたけれど、途中でもう一回変わった。失敗してたから、そのままじゃ使えなかったんだなぁ」

 エインフェリアの頭には有機チップが二つ入っている。

 一方は「擬似人格チップ」。死体を元に、生身では耐えられないレベルの肉体改造を施されて製造されたエインフェリアは、

脳にこれを埋め込まれ、ラグナロクの兵士としての人格を得る。

 もう一方は、いわゆる「メモリーチップ」。黄昏の構成員としての知識や、社会へ溶け込むための基礎知識、任務で有用な

情報などが封入されたチップである。

 この二種のチップを埋め込まれ、500倍の時間濃度に匹敵する訓練と学習、人格構成が平均三日、長ければ五日程度デー

タ上で行なわれた後、エインフェリアは起動する。

 十体目のガルムに使われた前者…つまり疑似人格チップは、施術者も把握できなかった「ある事情」により最初から機能し

なかった。チップ自体に問題があったのか、はたまた相性が悪かったのか、その辺りの原因はラグナロク側でも未解明になっ

たが、とにかく、起動された際に人格が形成されていない事が判明し、起動早々に失敗作と判明した。

「リスキーが本部に送ったチップも、同じ二種類だなぁ。ただ、取り出されたら分解する処理がしてあるらしいから、そのま

ま再利用とかはできないみたいだ。おれの頭にも同じのが入ってるけど、動いてるのはメモリーの方だけ。それも不完全みた

いだけどなぁ」

 ルディオは自分の頭を指差す。メモリーチップは現在でもある程度働いており、記憶の無いルディオはこのチップからデー

タが参照される事で、知識面で困る事が無かった。とはいえ、こちらも不具合を起こしており、本来の機能の何割かしか働い

ていない。そのせいで、どのようにして製造されたのか、何処で製造されたのか、といった己の出自に関する事についての知

識が得られなかった。「これまでは」だが。

「それで、人格が無かったガルムの十番目は、それからしばらく色々確認とか実験とかされた。なんかの拍子に改善しないか

なぁって、優秀なエインフェリアに指導されたり、薬物を入れたりとか。でも、結局どれも上手く行かなかったんだなぁ。そ

れで、「最後になった実験」で…」

 ルディオは自分の目を指差した。瞳がゆっくりと琥珀色に変色してゆく様を見て、ヤンとリスキーは息を飲む。

「おれたちの「仲間」、ウールブヘジンは、この体に入れられたんだなぁ」

 起動された十体目のガルムは、様々な方法で機能改善がはかられたが、どれも効果が見られなかった。素体入手に支払った

犠牲、製造と起動、そしてこれまでのコストを考えれば、ただの失敗作として廃棄する事などできなかった。

 ガルムシリーズをはじめとする特別仕様のエインフェリアを製造していた部門の一室…グニパヘリルというそのラボは、名

誉挽回のためにその実験を行なった。

 別個に研究されていた、植物に寄生するタイプの超古代生物…ドリュアスを寄生させたのである。

 ドリュアスは自らの住処…つまり宿主を補修、保全する性質がある。ドリュアスが住み着いた樹木の類は非常に丈夫になり、

本来の寿命を超えて生存し続ける。この特質を生物兵器の補強に活用できないかと、ラボでは長年研究を続けていた。

 度重なる実験と調整の結果、そのドリュアスは性質を歪められ、植物の中では生命活動を維持できなくなり、同時に動物性

組織の中へ浸透できる性質を獲得していた。

 このドリュアスを封入する…。それが、十番目のガルムが被検体となった実験の概要。

 ある意味、実験は一部成功した。

 人格こそ持たなかったが、ドリュアスが肉体の主導権を握り、効果的に活用しようとした結果、素体の物に近い能力の発現

が確認された。

 だが、結局のところ失敗していた。

 暴走という最悪の結果が、その全てを物語っている。

 結果を披露すべく開かれた演習において暴走し、舞台となった空母を大破させ、管理する側、研究者、止めに入った戦士に

多大な犠牲を強いた末「ガルム十号だったモノ」は、遠隔操作で人格チップを焼かれ、鎮圧され、機能停止した末に海中へ没

した。

 脳を損傷し、深い傷を負い、海中深くへ沈み、ラグナロクも回収できなかったその体は、しかし再起動していた。

 実験によってドリュアスが住み着き異質化した肉体は、長時間の酸素供給途絶にも、深海の水圧にも耐え、海流に運ばれて

数日後に浮上した。

 ドリュアスは損傷した肉体を脳細胞に至るまで、漂流しながら修復し続けた。それは単に肉体を動かす上で脳と神経が必要

だったため、可能な限りの復元を試みたからだったのだが、ここで予想外の事が起こった。

 ドリュアスが修復した脳が機能不全を起こしたメモリーチップと同期し、肉体に新たな人格が生じたのである。それが、島

へ流れ着いて目覚めた際に覚醒し…。

「それが、おれ…、「ルディオ」だったんだなぁ」

 機能不全を起こしたメモリーチップから参照できる知識の類が、ラグナロク構成員が社会に紛れ込んで行動するための「社

会道徳」や「一般常識」などの当たり障りの無い物だったせいか、生じた人格は実に健全な物となった。加えて人生経験が皆

無な上、脳と肉体の不一致という機能障害を抱えていたため、その人格は強い個性を持たず、刺激に鈍感で、のんびりしてい

て穏やかな物となった。

 つまり、「ルディオという人格」が生じた事も、彼自身の性格も、凄まじい低確率の偶然が重なり合った上でできていると

いう事になる。

「判ったのはこのぐらいで、ラグナロクの本部とかが何処にあるとか、組織の規模とか構成とか、そういった事はわからない。

チップが元通りにならないせいかもしれないけど、もしかしたらそういう事は最初からデータになっていないのかもしれない

なぁ」

 ルディオが語り終えると、リスキーは長々とため息をついた。流石に、話の中身は想像以上である。

 一方ヤンは、ルディオを見る目を潤ませていた。

「つまり…、ルディオさんは、生まれたばかりの状態で…、この島で…」

 何と過酷な運命だろうか。ルディオ本人には「身に覚えの無い」事だらけの、あまりに重い出生の秘密…。そして自分達は、

知らなかったとはいえそんな彼に、戦力としての働きを担わせて来てしまった。その事実に慙愧の念を抱く。

 居て当たり前の親も無く、兵器として造られた覚えもなく、戦士として鍛えられた記憶もなく、「誕生」したその時点で既

に「そう在った」。そんな生まれ方が、在り方が、どれほど厳しく哀しい事なのか、想像するだけでヤンは泣きそうになる。

「…つまりさ」

 ルディオの話の最中はずっと黙っていたカムタが、初めて口を開いた。

「アンチャンは生物兵器でもハークでもなかったんだ」

 ヤンが、リスキーが、カムタを見つめる。少年には重過ぎる内容の話だったと、聞かせた事を後悔したが…。

「アンチャンは、アンチャンだった」

 カムタは言う。

「もう、帰るトコとか正体とか気にしなくて良いって事だよな?」

 ヤンの顎がカクンと下がった。

「ん」

 ルディオが頷いて同意すると、今度はリスキーもカコンと顎を落とした。

「自由だ!」

「ん」

「いやでも、見つかったら連れ戻されたりするかもしれねぇから、一応ちょっとこっそり自由だな?」

「そうしないといけないなぁ」

 理解していなくて楽天的…なのではない。きちんと理解した上でカムタはこの結論だった。

 死体から造られただの、何かが寄生しているだの、強力な能力や身体性能を有しているだの、そういった事は別に重要では

ない。ルディオは立って、歩いて、生きている。会話も出来るし考える事は自分達と一緒。なら、ひととそんなに違いは無い。

自分と同じように、命を生きるひとりである。

 少し悩んだのは、ルディオからあらかじめ話を聞かされた際に生じた、年齢についての問題。

 人格が発生したのはこの島に漂着した時…、つまり一歳未満。

 とはいえ、肉体年齢はハークの没時…、つまり三十代。

 どっちを取るか、それとも合計で考えるべきなのか、あるいは足した上で二で割ればいいのか、ウールブヘジンの分は加算

すべきか否か…。かなり考えた後、考えれば考えるほどふたり揃って混乱しそうになったので、結局ルディオの立場と扱いは

これまで通りに「アンチャン」のポジションで落ち着いた。

「結局だいたい今まで通りでいいんだな?オラ何かホッとした」

「そうだなぁ」

 一方、虎医師と殺し屋はあんぐり口をあけたまま…。

(タフだ…!)

(魂が…!)

 先日までと全く変わらない関係に落ち着いているふたりを前にして、しばらくの間、言葉が全く出て来なかった。

「それで、旦那さん。ウールブヘジンは…」

 いつの間にか瞳から琥珀の色が消えている事が気になってリスキーが問うと、ルディオは「あ~…」と、胸に手を当てた。

「ウールブヘジンは、おれがちゃんと動けるようになったから、もうムリしなくて良いらしいなぁ。本当は、ああやって出て

来て体を動かすと、かなり消耗するみたいだ」

「対話できるんですか?その…彼?それとも彼女?と…」

「性別は無いみたいだなぁ。対話っていうと、う~ん…」

 セントバーナードは少し考え、言葉を探しながら説明した。

 ドリュアス…今ではルディオもウールブヘジンと呼称するようになったソレは、ルディオの中に居ながら、精神的には完全

に別物である。ウールブヘジンの意思とでも言うべきものは樹液のようなその本体にあり、他の体液に溶け込む形でルディオ

の体内に広がって住んでいる。

 ずっと同居しているせいか、ウールブヘジンの気持ちのような物…、例えば嬉しいだとか、不快であるとか、疲れたとか、

そういった物はルディオにも察知できるのだが、そもそもメンタリティがひととはかけ離れている生命体なので、ひと同士が

対話するような意思疎通はできない。

「ただ、ウールブヘジンはおれ達の結論を歓迎してるみたいだなぁ。ずっとこの島に居ていい、カムタと居ていい、それが嬉

しいみたいだ。カムタの事が好きだからなぁ、ウールブヘジンも」

「そうですか…」

 リスキーは拍子抜けした様子だった。あのステキな殺しを実行する、容赦の無い闘いっぷりを見るに、激しい性質と思い込

んでいたのだが…、

「植物由来だからなぁ、ウールブヘジンは」

 ルディオの、まるで「地球に優しい成分」のような表現で、軽く吹き出し、傷の痛みに顔を顰める。それを見てルディオは

提案した。

「話は一応済んだし、今夜はもう終わりにするのがいいんじゃないかなぁ?リスキーも先生も休まなきゃだろう?」

 何かに追われている訳ではない。何かに探されている訳でもない。時間はたっぷりあるのだから。



 天井の灯りの周囲に輪を描き、ブブブブッとメロン大のクマバチが飛び回る。

 その下で、デンッと大皿がテーブルに置かれた。

 深夜の屋内流し場に、ヤンの家から乾燥パスタを貰って来てカムタが腕を振るった、唐辛子とニンニクたっぷりのシーフー

ドペペロンチーノの香りが充満する。

「食おうアンチャン!明日はもーっと美味いモン作るからな!で、明後日はもっともっと、その次はもっともっともっとだ!」

「ん。楽しみだなぁ」

 テーブルを挟み、パスタをそれぞれの小皿に取り分け、いただきますと声を合わせて…、

「あ。ウールブヘジンって何が好きなんだろな?」

 パスタを絡ませたフォークを口へ運ぶ途中で止め、カムタは疑問を口にした。ルディオは尻尾をふっさふっさ振りながら、

一口目を噛み締めて咀嚼し…、

「さあ?」

 飲み込んでから返事をする。聞いていなかった訳ではなく、食べながらきちんと考えていた。

「体が一緒ならアンチャンと一緒かな?」

「味がわからないかもしれないなぁ」

 何せウールブヘジンの本体である樹液体にはひとのような感覚器が無い。その辺りの感じ方はどうなっているのだろうか?

と、ルディオは自分の中に意識を向ける。パスタを食べている今、中のウールブヘジンはどんな気持ちかというと…。

「…うん」

「どうしたアンチャン?」

「ウールブヘジンも嬉しいっぽい」

「そっか。スパゲッティは好きか。覚えとこう…。好きなんだなパスタ…。あ、一応材料は植物か!オラ達が肉を食うのと同

じか!じゃあ好きだな!うん!」

 納得した様子のカムタを眺めながら、ルディオはフォークを回し、イカと貝と刻んだ唐辛子がからむパスタを巻き付け、パ

クリと口に含み…、

「カムタ」

「うん?」

「おれは、幸せだなぁ」

 ルディオが笑う。ぼんやり顔に緩い半笑いで。

「…そっか。うん!オラも幸せだ!」

 だが、笑顔のカムタにルディオは告げられなかった。

 ウールブヘジンは度重なる無理が祟って弱っている。もうこれまでのように頼る訳には行かない。

 そもそもウールブヘジンはこれまでも、必要に迫られて一時的に肉体を支配、制御していたに過ぎない。本来の主導権者で

ある自分が、この体と力を使えるのなら…。

(「次」からも、危ない時にはおれが頑張らなきゃならないんだなぁ…)



 朝が来た。いつものように、これまでのように、朝日が水平線から一日の始まりを告げる。

 寝ぼけているフレンドビーを肩に乗せて庭に出たルディオは、戸を開けろと急かすように鳴く鶏を放して、庭に来たヤシガ

ニと挨拶を交わす。

 カムタと一緒に岩場に出て、漁をして、朝食を摂って、パンの木から収穫する。

 それからテシーの店に顔を出して、昼食を摂って、カムタが投げ釣りに出ている間に島をぐるりとパトロールする。

 済んだら家に戻って夕食を摂って、ヤンの診療所へリスキーの見舞いに行って、医師に付き合って一杯ビールを飲む。

 平和な一日。何も無い一日。

 これは幸せな事なのだと、ルディオはぼんやり顔でしっかり噛み締める。

 だが、これまで通りとは行かない事も、薄々察している。

 夕食を済ませ、カムタがデザートを準備している間にドアが開き、車いすを押してテラスへ出るヤンの背中をルディオは見

送る。

「これからどうするつもりだ?」

 車椅子に乗せたリスキーをウッドデッキに出し、ヤンは尋ねた。宵闇に染まった水平線には、今日も漁火がポツリポツリと

浮かんでいる。

「まぁ、呼び戻されるのは間違いありませんね。しばらくは安静にして治療…、その後は、何処に配属されるか判った物じゃ

ありませんが」

 手首から先を失った左手を振り、リスキーは苦笑する。

 左手を失ったという機能的な痛手もあるが、左手が無いという身体的特徴を得てしまった事は大きい。目立ってはいけない

暗殺者にとってはかなりの痛手なので、今後も同じように使われるとは思えない。最悪、お払い箱という事もありえる。

「…そうか…」

 ヤンは車椅子のハンドルを握ったまま口を閉じ、リスキーも言葉を切る。

 しばし潮騒に耳を傾けた後、医師は「提案なんだが」と切り出した。

「もしも…、もしもだ。君がもう組織で働けないとなったら…、この島に移住したらどうだ?」

「………」

 リスキーは沈黙を続ける。

「周りが素性を知っているのは心強いだろう?こちらとしても、万が一またこういう事態になった時に、詳しいブレインが居

るのは…」

「先生」

 ヤンの言葉を遮り、リスキーは静かに応じる。

「考えておきますよ」

「…そうしてくれ」

 やはり断られたかと、ヤンは水平線を望む。

 リスキーは賢いし義理堅い。

 足抜け出来たとしても、自分が居る事で呼び込んでしまいかねない脅威もある。島にとって自分が居るメリットは、抱え込

んでしまうリスクに及ばない…。

 きっとそう考えるのだろうと、ヤンは薄々察していた。

 それでも提案せずにいられなかったのは…。

(正直、多少情が湧いた…)

 本職の内容は別として、仕事に誠実で同盟者を無下にしないリスキーには好感がある。妙な話だが、殺し屋という物騒な仕

事をしているのに信用に足る人物と言える。

「まぁ、そうでなくとも…」

 ヤンは呟いた。往生際が悪いと、自分でも感じながら。

「何もなければ平和な島だ。バカンスには悪くない。…だろう?」

 リスキーは数秒黙してから、ふっと、笑いのような息を漏らした。

「それは、反論しません」

「…そうか」

「ええ…」

 沖の漁火が二つ瞬く。

 医師と殺し屋はしばらく海を眺めた後で、少年に呼ばれて室内に戻って行った。



 その夜、リスキーはヤンの目を盗んで直属の上司へ報告を入れた。

 ラグナロクの構成員と交戦した事。運よく生き延びられた事。エルダー・バスティオンへの抑止力となっていた脅威が無く

なった事。そして、自分の負傷の事…。

 報告を聞いたフェスターが下した命令は、短く、そして当然の物だった。

 帰参せよ。可能な限り早急に。


 かくして、殺し屋は島を去る。