Farewell
寝苦しい。
薄く目を開けて、ベッドの上から窓を見遣る。カーテンは暗く、日の出はまだまだ遠い。
ドア側に目をやれば、捨ててあったコート掛けに吊るした、鳥の巣型に編んだ籠。日が射すまでは休眠しているメロン大の
クマバチは、特製ベッドの中に隠れていて姿が見えない。
カムタは目を天井に向けてから、うとうとと閉じる。
最近はこんな日が多い。まだ起きる時間ではないのに、半覚醒のような状態になってしまう。
夢うつつのまま少年は寝返りを打った。左側を下にして横臥するカムタの右手は、パンツの中に入って、股間を押さえてい
る。近頃の寝起きはいつもこう。硬くなった陰茎に、ムズ痒いような疼くような落ち着かなさがある。
半分眠って半分起きて、ベッドの感触と夜明け前の気温の心地良さを味わいながら、少年は手を動かす。硬くなった陰茎を
宥めるように。何かに対する衝動のような物と、正体不明の欲求はあるのだが、どうすれば良いのかはよく判らない。どうし
てそうするのかは判らないが、弄っていると少しだけ落ち着かなさが解消される。
日常の朝を、寝ぼけているカムタは夢現の内に脳で描く。ルディオと一緒に岩場に出て、仕掛けにかかった魚を獲って、家
に戻って朝食を準備して…。
皮を被ったまま硬くなり、伸張した陰茎を、指で挟んで押さえる。揉むように圧を加える。
夢の中でカムタは、暑い日差しを浴びて玉の汗を浮かべていた。島をパトロールする前に涼を取ろうと、ルディオと一緒に
水風呂に浸かり…。
だんだん体が火照って来て、ゴロンと寝返りを打って再び仰向けになったカムタは、手首にゴムが食い込むパンツを邪魔に
感じて降ろし、外気に触れさせた肉棒を指で揉み、うつらうつらとまどろみ…。
「ん…」
鼻の奥から声が漏れた。
指で弄る陰茎、その皮を被ったままのカリの部位を挟んで圧迫した際に、少しだけずれ、これまでと違う刺激が感じられた。
気持ち良い。疼きが収まる。
こうかな?こうだったかな?こうしたら良いのかな?
寝ぼけたままの状態で偶然の刺激をもう一度再現しようとしている内に、挟んで圧迫するように押すよりも、皮越しにずら
すように擦った方が気持ち良いと気付いた。
「ん…、ふ…」
鼻息が荒くなる。頬が紅潮する。
気持ちが良い。陰茎そのものだけでなく、その根元、下腹部の内側、これまで疼きや熱を感じていながら、どうしようも無
かったところへと、加えた刺激が浸透してゆく。
「は…、ふ…!は…、ふ…!」
吐息が熱を帯びる。肌が汗ばむ。
気持ち良い。どうすれば解消できるのかわからないまま持て余していた欲求に、陰茎を経由して甘受する刺激と快感が鍵の
ように嵌る。
体の奥へ響く刺激。高まってゆく快感。どうしてそうなるのか判らないまま、しかし少年は気持ち良さを求め、噛み締め、
もどかしげに手を動かし続け…。
「んっ………!」
歯を食い縛り、力んで身を硬くし、痙攣するようにブルルッと震えたカムタは、寒気や痺れにも似た何かが体の中を脳天ま
で奔ったと感じる。
何が起きたのかは判らない。ただ、「え、ちょっと待って」と戸惑いを感じるほどの、焦りを感じるほどの、怖くなるほど
の、経験した事の無い強烈な感覚を味わった。
数秒硬直した後に、くたんと脱力したカムタは、自分の弾んだ息を聞きながらぼんやりし、またまどろみ…。
(何か、スースーする…)
下腹部や手がスースーと涼しくなってきて、カムタは意識を揺り起こされる。
人肌の温度だったからなのか、最初は気付かなかった。だが、その冷え方は、体が濡れている時の物にも似て…。
「…え?」
臍の下辺りに手をやって、カムタは目を開けた。ツルンとした肌の感触は無く、代わりにヌタリッと、粘度とぬめりを指が
感じ取る。
(寝小便した!?)
慌ててガバッと身を起こしたカムタは、
「………?」
眉根を寄せた。何が何だか判らなくて。
パンツを太腿まで下ろした自分の半裸を見つめ、少年は首を捻った。いつしか外の明るさは増しており、カーテン越しの薄
灯りが部屋の輪郭をぼんやり浮かび上がらせている中、カムタはソレをはっきり視認できた。
小麦色の肌よりも明るく見える部位がある。腹の前面が、まるでココナッツミルクでも零したように白っぽい。張りのある
丸い腹の曲面を伝って、左右に垂れてベッドに染みるソレを、カムタは生まれて初めて目にした。腹のほぼ全面を濡らし、臍
のくぼみにトプンと溜まっている。
手に付いたソレを鼻先に近づけてスンスン嗅いでみると、植物をすり潰したような青臭さと、動物的な生臭さがあった。
まずカムタが考えたのは、寝る前に何を飲んだか、そして夕食に何を食べたか。
摂取した物で体調がおかしくなっている事をまず疑い、体の調子はどうかと注意を向けた。汗が引いてきて涼しく感じられ
るが、具合は悪くないし寝起きの調子は良い。肌が火照っているように感じるが、体調不良時の発熱のような不快さはない。
次いでおかしな物を飲んでそれが尿に出てきたのではないかと、昨夜の事を思い出すが、変わった物は飲食していない。
最後にカムタは何らかの病を疑った。小便が白くなる病、あるいは何かの病気のサインではないか?と。
(あ!まさか…)
少年は思いついた。
(ウールブヘジンの本体は、木の汁みてぇな液体の生き物って言ってたよな?もしかして…、オラの中にもそういう何かが住
んでたのか!?)
夢見がち…とはカムタに限っては言えない、体験に基いた連想である。
「あー…、もしもし?あーゆーなに人?うーるぶへ人?」
自分の腹にドロリと乗っている液体に向かって話しかけ、コンタクトを取ろうとする少年。母国語は勿論の事、英語、日本
語まで使って挨拶してみるも、当然応答は無い。
無口だからとかそういった事ではなく、本当に知的生命体ではないから返事がないのだと、丹念な呼び掛けの後に察したカ
ムタは、ふと思い出した。
友人達から少しだけ聞いた事がある、「セーエキ」という物の事を。
「…あ!」
ハッと我に返ったカムタは、ダラダラと滴った大量のソレが、シーツに染み込んで行く事に気付き、慌てて腰を浮かせた。
その途端に…。
「ああっ!」
豊満な腹の曲面を伝い、白濁した液体が一気に移動して滴る。段がついた腹の下や、プックリした三角のエリア、そして陰
茎の付け根に流れ、尻の割れ目まで伝って行き、太腿まで降ろしていたパンツにまで付着してしまう。
少年は大慌て。急いで脱いだパンツで腹や腿の付け根などからこれ以上垂れないように拭い、ベッタリ汚れたシーツをベッ
ドから引っぺがし、纏めて丸めて抱え、ドタドタと廊下に出て風呂場へ向かう。
(うえ~、ヌルヌルしてる…!変な臭い…!)
とにかく洗わなければとタライに突っ込み、ろ過装置を通した貯水タンクの水を出して…。
「…カムタ?」
物音で当たり前に起きて来たセントバーナードが、洗い場で屈んでいる全裸の少年を背後から覗いた。
「うひっ!?」
ビックリして飛び上がるカムタ。何故そこまでビックリするのかは自分でも判らない。
「どうかしたのかぁ?何だか慌ててるみたいだっ…」
「何でもねぇよアンチャン!ジュース零してさ!ベターって!」
遮って誤魔化しにかかるカムタ。何故嘘をついたのかは自分でも判らない。
「そうかぁ」
頷いたルディオは、鼻をスンスン鳴らしていた。ウールブヘジンは無反応だったが、鋭い嗅覚が異臭をキャッチしている。
確認しようと巨漢が足を踏み出した途端…。
「ストーップ!」
立ち上がって上半身だけ捻ったカムタは、振り向き様に片手を突き出して阻止の構え。だが何故阻止するのかは自分でも判
らない。
「カムタ?」
立ち入り絶対ノー。そんな決意が窺える頑なな拒絶に戸惑うルディオ。何やら朝っぱらからゴソゴソしているので何かあっ
たのかと覗きに来てみれば全裸で下着とシーツをザブザブしている少年から振り向き様に立ち入りを阻止されたのだから戸惑
わない訳がない。
「洗濯すっから、傍にいるとアンチャンも濡れちまうよ!」
阻止ポーズのまま述べる少年の、セントバーナードには見えていない面…つまり正面側では、腹から股まで生乾きの精液が
ヌラヌラテラテラしている。
「起こしてゴメンな!…あ!今日は朝の漁行かねぇから!まだ寝てていいぞ!」
説明は無い。が、とにかく今は傍に居て欲しくない。訳が判らないままそんな雰囲気だけ感じ取ったセントバーナードは、
すごすごと引き下がって自室へ戻った。
「ふぅ…!」
顔を真っ赤にしたカムタは、何故自分が隠そうとするのか、誤魔化そうとしたのか、判らなくて腑に落ちないまま、強烈な
羞恥と焦りの残滓を噛み締める。
(恥かしい…?うん?何でこんな恥かしいんだ?ってか、アンチャンにコレの事聞いてみれば良かったんじゃねぇか?)
とは思うものの、自分はコレについてルディオに訊けない事を、どういう訳か恥かしくて無理な事を、少年は自覚している。
シーツとパンツを洗って、水に触れたらまた妙な肌触りになる体液の奇妙さに鼻白んで、苦労して流し去り、ひとまずホッ
としてからカムタは自分の体を見下ろした。
こびりついた精液が生乾きになって、まだ異臭を放っている。
(風呂に入って擦り落とそうかな。………ダメだ!)
少年は浮かんだ考えを即座に却下した。
浴槽に浸かって落としたら、風呂桶内に残って匂いがつくか、水に浸透して妙な変化を起こすかもしれない。洗っている時
にも感じたが、水と混ざると感触が変わるコレは、何らかの特殊で奇妙で不気味な性質を持っているのかもしれない…。何せ
初めて触れる物なので、少年は慎重である。
リスキー曰くオバケメンタル、テシー曰くクソ度胸、ヤン曰く父親に似て豪胆…。肝が太くて度胸があるカムタだが、未知
の存在を過剰に怖れはしないものの、警戒はする。特に、憩いの一時、水風呂ができなくなるのは非常に困るので、初めて触
れた謎液に対しては慎重にならざるを得ない。それが自分の体から出た物であっても。
シャワーを胸から注いで流しつつ、手で擦る。意外と落ち難いので脂肪豊富な体に指が深く沈み込むほど強く、押しながら
擦り落とし、入念に綺麗にしたカムタは、一旦残り香をチェックしてから改めて石鹸を取って泡立て、徹底的に二度洗いした。
そうして汚れも臭いもすっかり洗い流し、タオルで体を拭い、自室に戻って衣服を身に着けた頃には、カーテンは朝日を受
けて光り、バルーンも寝床からモゾモゾと這い出して来ていた。
ブブブッと飛んで来て頭に乗ったフレンドビーの背中を軽く撫でてやりつつ、カムタは時計を見遣り、普段の朝食の時間ま
でまだ間がある事を確認すると、メモ用紙を一枚ちぎり取った。
「少し岩場を見てくる。すぐ帰って来るから、戻ったら飯な」とメモを記して、居間のテーブルに置き、バルーンには留守
番を命じて静かに玄関から出る。
鶏が声をあげ、外へ出せと訴えたが、カムタは「シーッ!ゴメン、あとでな!」と小声で断りを入れて謝った。
ルディオは気配で外出を察知するだろうが、メモを見ればついて来ないと考え、足早に敷地を出たカムタは、真っ直ぐにヤ
ンの診療所を目指し…。
十数分後。
少年は診察室で、朝っぱらから騒がしく叩き起こされた虎医師と向き合っていた。
話を聞き終えた肥満虎は、冷静を装い…きれていない。丸顔に汗をかき、普段は無い大げさな身振り手振りを交えて説明し
ている。
対して少年は、やや身を乗り出す格好で、時折頷きながら神妙に聞き入っている。脚を揃えて手はお膝。顔はすっかり紅潮。
ヤンの説明とカムタの質問は三十分に及び、診察と質疑応答が済んで診療所を出た少年は…。
(そっかー!普通かー!大人の入り口かー!)
納得できて晴れ晴れとした顔になっていた。
ため息をつきながらリビングに入ったヤンは…。
「熱の入った説明でしたね」
「聞いていたのか!?」
声に驚いて振り向けば、微かな車輪の軋みに続き、簡易キッチン側から車椅子が進んでくる。
水を飲みに来ていたらしいリスキーに話しかけられたヤンは全身の被毛を逆立て、元々丸い体がさらに丸くなった。
左手首から先の切断に、膝の粉砕骨折、そして全身あちこちの打撲。そんな重傷の身でありながら、リスキーはもう車椅子
に座った状態で一日の大半を過ごせるまでになっていた。戦いからたった四日、麻酔も鎮痛剤も利かない体で、痛みを隣人に
して付き合っている。
元から苦痛に耐える訓練を受けているとはいえ、設備が充実していない診療所での治療にも関わらずここまで回復している
のは、本人の生命力と、ヤンの献身的な介護があっての事。
もっとも、リスキーは一日でも早く戻って来るようにとフェスターから命じられている。迎えを派遣されるのは避けたいの
で、自力で帰れるよう体を癒すのは目下最優先の仕事とも言えた。
「盗み聞きとは感心しないな!」
「心外ですね、私はこの通り車椅子ですよ?わざわざ聞きに行ったんじゃなく、聞こえてきたんです。あれだけ大きな声で話
せば誰だって…」
一度は憤慨した虎医師だったが、リスキーから呆れ顔で反論されると…。
「…僕の声は…大きかったのか…?」
初めて気付いてクタンと尾を落とす。
「いや、これはデリケートな問題だからな…。励ましたり力付けたりは必要だった…。うん…」
コホンと咳払いして、恥かしさを紛らさせるヤン。
(ああ、そうだった。シーホウは夢精した時にビックリし過ぎて泣いたからな…。力が入るのも無理はないか)
弟の時の事を思い出し、力説に納得するリスキー。
「とはいえ、だ…」
肥満虎の医師は疲れた表情で眉間を揉む。
「カムタ君もちゃんと大人になって来ているという何よりの証拠だ」
「学校で教えない物ですかね?…ああ、坊ちゃんは自主的に辞めたんでしたか…」
「だいたい、ルディオさんに訊けば良かっただろうに、何故わざわざ僕のところへ…」
窓から外を見遣り、安心した様子で弾むように坂道を駆け下ってゆく少年の背中を見送るヤンへ、リスキーは「判ってませ
んねぇ」とやや呆れた様子で呟く。
「ん?何がだ?」
「その「何がだ」を含めて判っていないんですよ…。これではテシーさんも大変だ」
「???」
何故そこでテシーが?と、一瞬きょとんとしたヤンだったが…。
「あ…、え?」
何かに勘付いた様子で口を数度開け閉めし、鼻の周辺から目の周りまで、被毛の薄いところがはっきり判るほど赤面した。
やれやれ、と大仰に肩を竦めたリスキーは…。
「坊ちゃんも、詳細は判らなくとも本能的に察していたというか…、恥かしさや心配もあったから、他はともかく旦那さんに
こそ訊けなかったんですよ」
動揺しているヤンは、リスキーの静かな言葉で少し冷静さを取り戻した。驚きは強いし意外でもあったが、「そういった恋
のカタチ」に無理解な訳ではない。何せ、今では自分もその中に居るのだから。
「坊ちゃんと旦那さんは、兄弟のように暮らしていても本当の兄弟じゃないんです。そもそも去年までは居なかった家族…、
生死の際も一緒に潜り抜けた戦友でもある間柄ですよ。坊ちゃんが旦那さんに向ける情に、兄弟愛とも違う好意が混じってき
ても不思議ではないでしょう?」
「それは…、ううん…」
確かに、カムタにとってルディオは守護者であり、逆に日常ではルディオがカムタに面倒を見られている。おまけに幾度も
命の危機を共に潜り抜けてきた信頼できる相手…。
「そういった関係から恋仲に発展する事は、映画などでは見るが…、現実に多い物なのか?」
「それなり、でしょうか。ただ、恋の原因や慕う動機としては強い部類に入りますよ」
リスキーの返答で、ヤンはふと好奇心混じりの疑問を覚える。
「ひょっとして、リスキーにもそういった経験が?」
この飄々とした男をからかう材料ができるかもしれない。そうでなくとも純粋に興味がある。そんな気持ちで訊ねたヤンに、
しかし殺し屋は「まさか」と苦笑い。
「友愛にせよ恋愛にせよ職場愛にせよ、何かを愛する余裕なんて殺し屋にはありませんよ。これは単に、仕事上ターゲットの
心理を分析する必要があるから知っているというだけです。何でしたら、そういった洞察で愛人を出汁にターゲットを仕留め
た時の話でもしましょうか?」
「…いや、いい…」
肩を落とすヤン。聞きたい物とは逆方向のベクトルに特化した貴重な体験談が出て来そうなので、露骨にがっかりした様子
である。
「そうか…、カムタ君もそういう歳か…」
呟くヤン。考えてみれば大変な事、意中の相手は有り体に言う「普通じゃない」を遥かに通り越して深刻なまでに「普通で
はない」。だが、性別やら経歴やら素性やら、全てひっくるめても反対する理由は見つからなかった。
(さて、坊ちゃんの恋の行方は気になるが…)
リスキーは胸中で呟く。
出発予定は五日後とした。その頃であれば補助器具と松葉杖で自力歩行ができると見込んでいる。
ONCの幹部会では、最後に残った流出物の回収あるいは処分を諦め、部隊を撤収させる事が決定したらしい。その生物兵
器は、既に生存していない可能性が高いとして。
マーシャルに滞在しているONCの構成員は、最低限の監視と連絡要員だけを残し、二週間以内に大部分が引き上げに取り
かかる。リスキーは彼らと合流し、何処かの便に加えられてフェスターの元へ向かう予定である。
正直なところ複雑ではあった。ルディオと彼の肉体は、世界中のあらゆる組織や機関が欲しがるだろう。ONCもその例外
ではない。ルディオの体を調べれば、完全な解析が不可能だったとしても、確実に技術的ブレイクスルーが起こる。
だが、技術畑の者ではないにも関わらず、リスキーは勘で察していた。それは、自分達が手を出してよい領域の物ではない。
おそらく手に負えない類の物だろう、と。
そして、ルディオの事を知らせるのは危険だと自分が感じた事に、実はホッとしてもいた。
黙っておく事でルディオ達に義理立てできる。また、危険であると判断したからあえて黙しておくのは、ONCへの背任と
は言えない。少なくとも自分の中では。
(見届けられないのは少し残念だが、私が居ないに越した事はない。ただ、テシーさんには頼んでおかなければ…)
島を発つ前に、テシーとふたりだけで話がしたい。
せめて、ヤンをよろしく頼むと一言お願いしたい。
問題は、弟がまず単独での外出を許可しないだろうという事。ついて来られては言いたい事も言えないので、ヤンに頼むわ
けにはいかない。
(となれば、事情を知っていて、口外される心配も無い旦那さんに、介助をお願いするしかないな…)
「ただいまアンチャン!」
飛んで帰ったカムタは、ハサミを振り上げるヤシガニと挨拶していたルディオに元気良く声をかけた。
「おかえりカムタ」
立ち上がったルディオの前からヤシガニがノソノソ去り、放されていたニワトリの脇を悠然と抜けてパンダナスの木立へ入っ
てゆく。バルーンは言いつけを守り、玄関の内側でブンブブンブとホバリング中。
「すぐ朝飯にしような!バルーンも!」
元気だけでなく機嫌も良い様子のカムタに、ルディオは訝ってぼんやり顔を向けたが、少年がいそいそと玄関に入って行っ
たので、のそのそとその後を追う。不思議がりながらも、元気が無いならともかく元気が良いなら別に問題ないだろうと、朝
からのおかしな行動については説明を求めなかった。
朝の漁に出なかったので朝食はシンプルにならざるを得ない。
しかしそれでもカムタはなるべく手をかけ、しかし時間はあまりかけず、塩漬けにしていた魚を炙り焼きにし、盥に入れて
砂を吐かせておいた貝類をスープ仕立てにし、フルーツとナッツを添え、取り置きのパンダナスの実を出して屋内食堂のテー
ブルを埋める。
クマバチにはココナッツの実を粗めに潰した果実入りジュースを出し、ルディオと卓を挟んで席に着いたら、いつものよう
に声を揃えて「いただきます」。
「そうだアンチャン。新しいベスト半分できたから、飯食い終わったら着てみてくれよ。胸回りとか肩のトコとか、一回見て
みねぇとな」
「わかった」
「ちゃんと背中に字も入れたからな」
「ん。ありがとうカムタ」
希望を叶えて貰えたルディオの尻で、尾がフサフサッと左右に揺れた。
「えへ!」
カムタは笑う。長閑な食事。幸せな朝。毎日繰り返される「ルディオが居る日」。
もう何処へも帰らなくてもいいルディオと、これからずっとこんな毎日が送れる…。
「カムタ」
「うん?」
「何か、良い事があったのか?」
「んげっぐ!?」
グムッとカムタの喉が膨れた。うっかり噛まずに飲み込んでしまった大振りな貝が喉につっかえ、慌てて水を飲む。
「カムタ?」
きょとんとしているルディオに、「何もねーよ!?普通!」とやや引き攣った笑みを見せて誤魔化し、カムタは考える。
(言った方が良いのかな…?でもなんか、アンチャンに話すの何か恥かしいな…)
ルディオに話したらどんな反応をするだろうかと、想像したらドキドキする。
けれど恥かしくて言えない、大人の兆し…。
「君と初めて会ったのは、あの辺りだったな」
朝食の後、リスキーを座らせた車椅子を押しながら、ヤンは木立を望んで口を開いた。
「ええ、確かそうです」
頷いたリスキーは、そうと知らずに弟と再会した夜の事を思い出す。
室内にだけ居ては気も滅入るだろうと、ヤンはリスキーを散歩に連れ出していた。負担をかけないように短時間だけだが、
汗をかきかきヤンは車椅子を押してゆく。「良い運動になる」とうそぶきながら。
「立派な心がけです。その意識は実にご立派で」
「馬鹿にしているだろう?」
「いえいえ、そんなとんでもないハハハ」
「その軽薄な「ハハハ」が信憑性を著しく損ねているぞ」
「今更何を言いますか、軽薄そのものでしょう私は?」
「確かに。なかなか義理堅い軽薄さだが」
「持ち上げたって何も出ませんよ?先生を持ち上げろと言われても無理です。物理的な意味で」
「ほう、今日は随分とつっかかって来るじゃないか?」
いつもの軽口。いつもの掛け合い。仲が良いのか悪いのか、ヤンは自分でも判らなくなる。だがまぁ、友人と言える間柄で
はあったかもしれないと、今は思う。
「…引退した殺し屋というのは、その後どんな仕事をするものなんだ?」
今後の身の振り方を案じるヤンの問いに、まず抜ける事が許されずに始末される場合も多いし、だいたい長生きはできない…
などというあまり楽しくない話は伏せて、「蓄え次第ですが」とリスキーは切り出した。
「バーや喫茶店など、趣味の仕事をしながら悠々自適の生活を送る者も居ますね」
「意外と平和な仕事をするんだな?」
「ええ。まぁ、ツテを活かして情報屋や殺し屋の斡旋、依頼の仲介を副業にしている場合も多々ありますが…」
「…ちっとも平和じゃなかったな…」
「私の知り合いにひとり、完全に足を洗って釣具屋をしている女性も居ます。…というよりも、元々殺しより釣りの方が楽し
いというひとで、店を持てるほど稼いだら足を洗うつもりでしたが…」
「ひとを殺して得た金で釣具屋、か。…殺し続けるよりはマシだが…」
ヤンは不機嫌そうではあったが怒ってはいなかった。単純に憤慨するのではなく、口にしたのは冷静ながら一種ドライな感
想。こんな事を言うようになったのは自分のせいだろうなと、リスキーは目を伏せる。
「それで、君の場合はどうなんだ?暮らして行けるほどの蓄えとかは…」
「その点は心配要りません。何せ酒も女も賭博もやらない真面目な殺し屋でしたから、蓄えはそれなりにありますし、退職金
も出ます」
リスキーはきっぱりと言いきる。フェスターは潔癖症なのでそういった事でケチな真似をしない。殉職した構成員の家族に
はきちんと手当てとフォローを行なうし、「退職者」にはきっちり退職金が支払われるよう手配する。
「「それなり」というのは、どのくらいの…」
好奇心からではなく、リスキーの生活が心配になって具体的な額を聞きたがったヤンは、
「当然ながら少ない額ではありません。何せ命につけられた値段です」
「…そうだな…」
生真面目とも言える口調と言葉を聞き、とりあえず納得した。
「そうですね…、私はとりあえず手掛けてみたい仕事も思い浮かばないので、やりたい事を探す所からスタートでしょう。気
の長い話ですが…」
「のんびり探せば良い。平和な生き方、良いじゃないか…」
車椅子をゆっくり押しながら、ヤンはしみじみと呟いた。
「ええ。平和に生きられたら、良いでしょうね…」
他人事のように言う物だと、ヤンは肩を竦める。
何せ想像するのも難しいのでと、リスキーが笑う。
ゆっくり、ゆっくり、車椅子は戻ってゆく。崖の上に建てられた、海を見守る診療所へ。
翌日、ルディオはヤンから連絡を受け、リスキーの散歩につきあう事になった。
「頻繁に長々と診療所を不在にすべきではない、と殺し屋から注意されてしまったよ」
頭を掻いているヤンに頷き、ルディオは車椅子の後ろに回った。
「よろしくお願いします、旦那さん」
「うん」
リスキーと車椅子を押すセントバーナードは、肥満虎の医師に見送られて坂を下り…。
「済みません旦那さん。先生が居ては話せない事もありまして…」
「うん」
頷いたルディオは、そこからもう少し歩いて、充分に距離が離れた事、ヤンは尾行していない事を告げた。
「有り難うございます。…あの、私が帰った後も先生には…」
「うん。兄弟だったって事は、黙っとくなぁ」
再び「有り難うございます」と礼を口にしたリスキーだったが…、
「いつかリスキーが自分で言う前に、教えるのはまずいしなぁ」
そんなルディオの一言で軽く顔を引き攣らせる。セントバーナードの他意が無い発言の方が、虎医師の言葉よりよっぽど手
厳しい、と。
「テシーさんの店に行きたいんですが…」
「わかった」
「ヤン先生には何処へ行っていたか黙っていていただけますか?」
「ん。言わない」
「お願いばかりで済みませんが、テシーさんと話をしている間、席を外していて貰う事はできますか?」
「うん?良いけど…」
自分の場合、店の外に出ていても会話が聞こえてしまうかもしれない、と述べたルディオに、リスキーは「それで結構です。
テシーさんが話し易いようにという配慮なので、例え聞こえても黙っていて貰えればそれで」と打ち明けた。
「ああ、それって…」
ルディオは何となく理解する。ヤンが居ては都合が悪かった。自分以外に頼める相手が居なかった。それは、「こういう事
だから」だったのだと。
車椅子を押すルディオに、「私から旦那さんに、一応のアドバイスです」と、リスキーは声を潜めて囁いた。
「私が居なくなっては、あれこれと手を回して後始末できなくなりますからね」
「うん」
「必要があるなら痕跡残さず、微塵も躊躇わず排除…。ですが、本来は目立たないのが一番です。排除というのは、実はそれ
を選択する時点で「追い詰められている」か、「失敗の補填」に等しいんですよ。排除された事で生まれた空隙を、消された
事で途絶えた連絡を、できる者ほど見過ごしませんし楽観視しません。毒虫を駆除するつもりが毒蛇を呼び寄せた…、そんな
顛末は飽きるほど聞いてきました。私の仕事は基本的に後始末ですからね…」
ルディオは「うん」と深く頷いた。
「必要が無ければ何事も知らん振りでやり過ごす…。旦那さんの場合はそれで良いんです。攻める側でも奪う側でもないんで
すから、他所のドンパチなんか放っておけばいい」
自分から首を突っ込むのはできるだけ避けろ。そのアドバイスには、せっかく黄昏との因縁が切れたルディオに、できるだ
け穏やかに、そして幸せに過ごして欲しいという本音が見え隠れする。
「ウールブヘジンも聞いてくれていますかね?」
「たぶん。でも、あれからは動くのをおれに任せる事にしたみたいだから、行動とかに気を付けるのは、やっぱりおれの役目
だなぁ」
「それなら安心です。旦那さんは良識がありますから」
「………」
目を細め、ルディオは微笑する。
ハークはリスキーの事を「気の良い殺し屋」と表現した。まったくその通りだと思う。
人殺しではある。仕事で人を殺す。だが、それ以外の点では至極真っ当な男だと感じている。仲間を大事にするし、信頼に
は誠意で応える。実際自分はリスキーの事を信頼している。
「いらっしゃ…、お!リスキーさん!もう外に出て良いの?」
入店した車椅子のリスキーを見て驚きの表情を浮かべたテンターフィールドは、「一応、場数を踏んでいるもので」という
アジア系の青年に、頼もしいねと笑みを見せた。
「じゃあ、あとで迎えに来るなぁ」
カウンターまでリスキーの車椅子を押したルディオが告げると、テシーは「え?リスキーさん置いてくの?」と不思議そう
な顔をする。
「ん。おれはちょっと周りをパトロールだなぁ」
じゃ、と軽く手を上げてセントバーナードがのっそり外へ出てゆくと、テシーはカウンター越しにリスキーへ「何飲む?そ
れとも食事?」と訊ねた。
「そうですね…」
反射的に水と言おうとしたリスキーは、思い直してそれを飲み込み…。
「ジョニーウォーカー、ありますか?」
琥珀色がシュートグラスの中でたゆたう。
手の中で軽く揺すり、じっと見つめたリスキーは、この島に来て以降、琥珀色とは縁があるなと微苦笑した。
「サービスするよ。島を護ってくれてた恩人に」
テシーは自らもグラスに酒を注ぎ、身を乗り出して軽くグラスを合わせて乾杯した。
グラスを口元に寄せ、香りを嗅ぎ、リスキーはほんの少し口に含んで舌の上で転がす。
体質的に酔えないだけで、酒の味が判らない訳ではない。美味いと、確かにそう感じた。
「…仕事あけに一杯やる同僚達の気持ちが、今になって少し理解できた気がします」
そんな感想を聞いて少し寂しそうに笑ったテシーに、リスキーは話を切り出した。
「実は…、島を去る前に、あなたと話をしたかったんです」
「え?話?」
テンターフィールドは首を傾げる。確かに秘密の共有者とはなったが、テシーはヴィジランテの活動に加えられていない。
せいぜい客の話を聞かれるか、夜食を手配される程度だったのだが…。
「ええ。あなたにしておきたい話です。ただし、無法者の手前勝手な身の上話…、残念ながらあまり面白い話ではありません
がね」
琥珀色を再び口元に運んで、しばし揺れる酒を見つめた後、リスキーは口を開いた。
「私は昔、あるひとを救いたいと思ったんです」
それは、昔の話。
リスキーが名を捨てる前の話。
殺し屋が殺し屋になる前、救いたかった家族の話。
名前も故郷も戸籍も捨てて、その替わりに得た物を与える事で、幸福な人生を送らせたかった。
だが…。
「立場を与えました。金を与えました。夢を叶えるお膳立てをしました。それで救えたと思って、傍を離れました」
グラスを見つめて淡々と語るリスキーの話に耳を傾けながら、テシーは引っかかりを覚える。
初めて聞く話だった。だが、所々で記憶が刺激された。
そっくり同じ情報はない。そのままの言葉は出て来ない。だが、それは違う人物から聞いた別の話を連想させた。
そう。以前ヤンから打ち明けられた、秘密の身の上話を…。
(繋がってる…?先生から聞いた話と、表と裏で…)
「けれど、救えてなんかいなかったんです」
口の端を歪めるリスキー。自嘲の表情が目元に陰を落とす。
「その事を、離れてしまった私は知らなかった。滑稽にも幸せになったと信じたまま…いえ、思い込んだまま、ずっと過ごし
ていました」
テシーは確信した。ヤンが言っていた、名前と戸籍をくれて姿を消したという兄…、それが、自分の目の前に居るアジア系
の青年の正体だったのだと。
「…あの…。この話、ヤン先生には…」
テシーは訝った。ヤンの口ぶりでは兄の行方は今でも判っていないようだった。自分に隠す意味も無いように思えるので…。
「何で言っていないんですか?」
その問いに、殺し屋は「言う必要もない話ですから」と応じた。
「でも、ヤン先生は兄貴に会いたいって…」
「私に兄弟は居ません」
縋り促すようなテンターフィールドの言葉を、殺し屋はすっぱりと断ち切った。
「そもそも、先生の言うお兄さんは、きっと先生のように真面目で立派な人格者でしょう。そうでなくてはならず、断固、殺
し屋でなどあってはならない」
そんなリスキーの言葉を聞いて、テシーは何も言えなくなった。
真実を告げ、しかし認めない。知って貰い、なお自分は名乗り出ない。では、何故自分にこの話を?
そんなテンターフィールドの疑問は、すぐさま氷解した。
「…ヤン先生を、よろしくお願いします」
微笑するリスキー。その名残惜しそうな笑みが、テシーに教えてくれた。
「あの通り、生真面目過ぎて柔軟性がなく杓子定規なところが欠点です。誰かが横でガス抜きしてあげなければ、きっと年寄
りになるまで保ちませんから。あなたが見ていてあげてくれるなら、私も安心です」
それは、名乗り出られない兄からの認可。存在しない兄からのお願い。
弟を、よろしく。
「………………はい!」
テシーの返事で笑みを深めるリスキー。
店主は知らなかったし知りようも無かった事だが、客が見せたその笑顔は、名を捨てた後でリスキーが初めて浮かべた、気
取らない、誤魔化さない、嘘のない、生来の笑顔だった。
そして、数日後…。
「おし!できたぞアンチャン!」
色が同じ布を継ぎ接ぎして、違和感無く仕上げた大きなベストを、少年は満足そうに広げて見せた。
太陽が傾き続け、夕刻の西日が入り込んでいるリビングで、ノートパソコンを弄っていたセントバーナードは「え?もう」
と目を丸くした。
「背中もバッチリだぞ!ほら!」
引っくり返されたベストの背面には、目立つように太く刺繍された「X2U」。カーキ色の新たなベストに茶色く浮き上が
る文字を見つめ、ルディオは「ん。ありがとうカムタ」と頷いた。
「アンチャンあっち向いて。大丈夫だと思うけど、着て確認しねぇと」
腰を上げたルディオの背後に回り、広げたベストに袖を通させ、カムタは「オッケー?」と問う。
「ん。いいなぁコレ。やっぱりあった方が落ち着くなぁ」
古着を継ぎ接ぎして作ったベストは、縫い目が違和感の無い位置に出ており、まるで既製品のようなしっかりした出来栄え
だった。
両脇腹の位置にはルディオの手も入る大きなポケットが、両胸の位置には小物用の小さなポケットがそれぞれ付けられ、中
身が出ないようボタンで留められるようになっている。また、激しく動くような時に裾が翻って邪魔にならないよう、鳩尾と
臍上と裾の下端の三箇所に、ダッフルコートを真似て太い紐と、獣の牙をデフォルメして丸みを帯びさせたような木製のトグ
ルから成る止め具が設けられていた。トグルは以前カムタがハミルから教わった手法で、磨いた上からニスを塗ってツヤツヤ
に仕上げてある。
全体に裏打ちを施した丈夫な造りで、前のものより厚くなってしまったが、ルディオ自身が体温の自己調節機能のおかげで
暑さを苦にしないので、マーシャルで着ていても問題ない。機能性の改善も含め、素人の手作りとは思えない素晴らしい出来
栄えと言えた。
フッサフッサと尻尾を振るルディオの喜び様を見て、気をよくしたカムタは「着替えあった方が良いよな!あと二つぐれぇ
作っとこう!」と、広い背中を叩いた。
「あとズボンもだよな。アレもダメになっちまったし…」
ルディオが漂着した際に穿いていた特殊繊維のカーゴパンツは非常に丈夫だったのだが、ギュミルとの戦闘を経てボロボロ
になってしまった。同じ物は用意できないし、家にあるのは普通の布地の物だけ。なるべく丈夫な生地のズボンを見繕いたい
ところだった。
「薄いのはいくらでもあんだけど…。あ」
カムタは思い出したように視線を上げ、時計を見遣り…。
「もう少しだな…。そろそろ行くかアンチャン?」
「そう…だなぁ」
外を見遣ってルディオが頷く。
今日はリスキーの送別会。ヤンの家で、テシーが腕を振るった豪勢な夕食が提供される。
明日の朝にはリスキーは島を去る。ONCの構成員が迎えに来るそうで、見送りは結構だと殺し屋は言っていた。
「お別れ、かぁ…」
セントバーナードが呟き、少年は顔を曇らせる。
旅人は皆いつか帰ってしまう。カナデの時にも学んだし、判っていたはずなのに、やはり別れは寂しかった。
ヤンの家のリビングには食欲をそそる香りが充満し、テーブルの上には粗塩をまぶしたチキンステーキや、香辛料を利かせ
たポークソテー、白身魚のバター焼きに、魚介のカルパッチョ、シーフードドリアなどが所狭しと並んでいた。
全力でご馳走を用意したテシーは、しかし今夜は同席しない。
自分の「弱さ」を知っている。彼を兄だと知らずに別れるヤンの事を考え、感極まってリスキーが秘密にしている事を暴露
し、無理だと知っていながら引き止めようとしてしまわないとも限らない。だから自分は同席しない方がいい、と…。
テーブルを囲むのは四名と一匹。リスキー、ヤン、カムタ、ルディオ、そしてフレンドビーのバルーン。
「先にも言いましたが、バルーンは島に残してゆきますからね。役立てて下さい」
食事もだいぶ進んだところで、カムタの頭に乗っているフレンドビーを指してリスキーが言った。既に車椅子は必要なく、
砕けた膝を補装具で守り、松葉杖を使って自力で移動できる。今もすぐ脇に松葉杖を立てかけ、姿勢良く椅子に座っていた。
「坊ちゃんをマスター代理にした命令は、私が取り消すまでそのままです。私自身が居なくなっても不変ですから」
カムタは目を上に向けて「ホントにいいのか?」と疑問の声を上げた。連れて帰らないとリスキーがまずいのではないかと
思うのだが、アジア系の青年は「ご心配なく。黄昏との戦闘で失われたという事で報告しました」と疑問を払拭する。
「インセクトフォームと違って個体登録もされていませんから、万が一ONCの構成員が見つけても、私が拝領したフレンド
ビーかどうかなど判りませんし確認の仕方もありません。集団脱走事件の時に捕まえ損ねた個体が現地に順応したと判断され
るのがオチでしょうから、私が不利益を被る事はありませんよ」
「そっか…、大丈夫なのか…」
カムタは頭の上のフレンドビーを掴むと、顔の前に降ろして向き直らせ、「居て良いんだってさ、バルーン」と話しかける。
バルーンを残してゆく事について、リスキーはあまり心配していない。フレンドビーは下手なインセクトフォームやその他
の危険生物と比較しても段違いの賢さが特徴。一般社会の中に潜む自分がどう振舞うべきかは理解している。それに、まだ発
見できていない最後の流出物がもしも姿を現わした場合、バルーンはきっと役に立つ。きっとこの島に残してゆくのが良い。
「それはそうとだ…」
低い声と共にふっと手元が暗くなり、リスキーはげんなりする。
「約束は忘れてないだろうな、リスキー?」
のしっと隣から間を詰めて、顔を寄せて来た肥満虎の酒臭い息を嗅ぎながら、「ええと、何でしたっけ?」と眉根を寄せた
リスキーは、
「君はなぁ~!そういう所だぞ、そういう所ぉ!ヒック!しただろうに約束ぅ!」
と、肩に腕を回して来たヤンにガッシリと捕まえられてしまう。
「島にまた来るって、約束しただろう!?」
「あ~…」
否定しなかっただけで別に約束した訳では…と言いかけたリスキーだったが、すっかり酔っ払っているヤンの据わった目を
見て、これは違うと言っても引っ込まないなと直感した。
「ええ、勿論忘れていませんよ」
と、アジア系の青年は酔っ払いをあしらう。
「本当かぁ…?破ったら承知しないぞ…ヒック!」
「飲み過ぎですって先生…」
呆れ顔を見せたリスキーは、顔を見合わせたカムタとルディオが視線を向けて来ると、軽く首を縮めた。
「また島へ来い…、と言われていまして…。仕事などとは関係なく、バカンスなりなんなりで…」
「ああ!」
「あぁ~」
同時に声を上げたカムタとルディオは、
「そっか!仕事と関係なくだったら来る事もあんだな!」
「うん。旅行に来れば良いんだなぁ。島まで遊びに」
と、歓迎の意思を伝える。
「いやまぁ、職を失うかもしれないんですから、羽振り良く旅行三昧とは行かないと思いますがね…」
「真面目に働いて稼いで島に来るんだよぉ…、甲斐性を見せろ甲斐性を…!ヒック!」
首を抱え込む格好でリスキーを捕まえたまま、キスでもしそうなほど顔を寄せて絡むヤン。酒臭い上にじっとり汗をかいた
肥満虎に密着されては、流石の殺し屋も暑苦しいし息苦しいしでかなわない。
(送別の夜に絡み酒とかホント勘弁してくれシーホウ…)
「そっかー、仕事かー。…ラーメンの店とか良いんじゃねぇかな?」
「何故!?」
カムタの突飛な提案に思わず声を大きくするリスキー。
「だってリスキーはチャイニーズだし、ラーメンの店が増えたらカナデ先生喜ぶし、来るかもよ?」
「ん。名案」
同意するルディオ。ブブッと羽を震わせるバルーンも反対ではない様子。
「そうだな。よし、君はこれからラーメンしろ」
目が据わっている虎医師は真顔。ただし完全に酔っぱらっている。
「誰か助けて下さいよ…」
ため息をついたリスキーが零す。
「私パスタ派なんですから…。テシーさんが作ってくれるペペロンチーノとかがベターです…」
『パスタ屋もいいな』
その他三名の真面目な声が見事に揃った。
夜も更けて、月は大きく位置を変えた。
カムタとルディオは片付けを終えて引き上げ、居間にはテーブルに突っ伏して鼾をかく酔い潰れたヤンと、アイスティーを
啜るリスキーだけが残っている。
熟睡しているヤンの背中に手を当て、目を細めて撫でてやりながら、反応してリラックスしているように揺れる縞々の尾を
眺めつつ、リスキーはこの島での半年を思い返した。
元々はこんなに長居する予定は無かった。弟との再会も偶然だった。とんでもなく低い確率の偶然が重なって、自分は殺さ
れかけ、見逃され、死にかけ、生き延び、こうして酔い潰れた弟の隣に座っている。
おかしな縁だと苦笑いが込み上げ、
「運命の女神の粋なはからい、か…」
そう、リスキーは呟き…。
水面が、頭上にあった。
穏やかに波打つ水面が。
青年は何度か瞬きし、目を見開いた。
翡翠や瑪瑙、色とりどりの石畳が敷かれた床。
象牙のような白が暖かな無数の石柱が、左右で等間隔にずらりと並んでいる。
柱が支える天井は海。波打つ海面が壁であり天井。その向こうを色鮮やかな魚群が泳いでゆく。
美しい珊瑚に彩られた海底の楽園、木漏れ日のように日が射すその真ん中に、冗談のような唐突さをもって、異様なまでの
美しさをもって、その「謁見の間」はあった。
(ここは…!?)
膝が砕けているはずの脚で支えも無しに立ち尽くすリスキーの頬を汗が伝った。
立ち並ぶ柱の前、リスキーから見て左右には、ずらりと屈強な男達が整列している。
褐色の肌、筋骨逞しい体躯。細め太めの差はあれど、いずれも屈強な体つきで、共通して腰蓑や毛皮の腰巻き、牙や骨の首
飾りを身につけ、様々な獣の頭骨をマスクとして目深に着用している。
旧い時代の戦士達を思わせる、総勢四十名以上の屈強な男達に、しかしリスキーはろくに目を向けられない。
その視線は、正面にある象牙色の玉座に縫い付けられていた。
―ご苦労だったな、二人目の異邦人―
酷くしゃがれた声が響く。頭の中に、直接。
―まどろみの内よりか細き糸を手繰りて紡ぎ、ようやくこの局面へ漕ぎ着けた。その間に貴様が果たしおおせた役割は、決し
て小さくもなく、決して少なくもなかった―
知らず知らずリスキーは跪いていた。その目が映しているのは、この「謁見の間だけが顕現したこの宮殿」の主、「城の一
部だけが浮上したこの国」の主…。
―大義である。四人目のそれに続き、貴様の役目もまた済んだ―
象牙色の玉座には、黒い衣装を纏った細い影が見える。その衣装は西洋の喪服。ヴェールに覆い隠された顔は窺えないが、
声も、そして揃えた脚の上に置かれた手の褐色の肌も、老女のソレ。
―過去を切り捨て、過去を忘れず、過去を慈しみ、過去に報いようと足掻く異邦人よ。貴様が自覚することなく果たしおおせ
たその役目に吊り合うだけの褒美を取らす―
だが、その双眸の存在は知覚できた。光を失ったかのように白く、象牙色に濁った双眸の圧のある眼光だけは、夜の帳のよ
うな黒いヴェール越しにも感じられた。
―貴様の願いは叶う。一人目の異邦人はこれよりさき何者にも殺されぬ。事故でも病でも死なぬ。貴様が最も愛する者は、貴
様が願った通りに人並みの生を全うすると保証しよう。これは、ワールドセイバーの加護である―
ハッとした。自分の中でも確たる形になっていなかった願いを、しかし間違いなく自分が望み得る中で最大の願いを、言い
当てられたリスキーは体が震えに襲われた。そしてその衝撃の大きさのあまり気付くことができなかった。ギュミルに問われ
た事、その中にあった聞き覚えのなかった言葉を、老女の口から再び聞いた事には。
(貴女は、一体…!?)
畏敬の念に身が竦んでいるリスキーに、
―果たされたその働きに応えて名乗ろう異邦人。ただし、儂の名や存在をひとが認識できる事は稀。名乗ったところで理解で
きず、知ったところで意味を為さぬだろうが、我が存在を示す言の葉のいずれかが貴様の理解が及ぶ物であればよいな―
老女はしゃがれた、しかし威厳に満ちた声で告げる。
―我が名は「ウルヅ」。このしじまの底にて旧き約束の履行を待ち続ける「埋もれた昨日を懐かしむ者」、「起こりし事を眺
める者」、「ノルニルの一柱」、「七人のオールドミスの一人」…―
リスキーは頭の芯が痺れるような感覚を味わった。
海面のように景色が波打ち、揺れて滲んで遠退いてゆく。
―この諸島に住まう者達は「シバの女王」と呼び…、そう、貴様は「運命の女神」と呼ぶのであったか―
瞼を開け、数度瞬きする。
いつの間にかうとうとしていたようで、カクンと頭が揺れた瞬間に覚醒したらしい。
隣には、テーブルに突っ伏して寝ているヤンの姿がある。
「………」
一時の事だが、まどろみの中で夢を見たような気もする。内容は覚えていないが、奇妙な夢だったという漠然とした印象だ
けが残っている。
「………」
虎医師の肉付きがいい背中を見遣る。
不思議な事だが、不安が消えていた。
弟は大丈夫。そんな予感が胸にある。
何を根拠にそう思うのか、自分でも判らないのだが…。
(ああ…。これで安心して島を離れられる…)
翌朝、日の出の前にリスキーは島を去った。
迎えに来たONCの構成員達は、フェスターが手配した万全の布陣。突発的な戦闘にも対応できる万全な護衛に護られ、外
洋航行も可能な大型ボートで沖へ向かうリスキーは…、
「あの島に心残りでもあるんで?」
護衛チームのリーダーである男からそう声をかけられ、島を眺められる後部デッキの上で振り返った。
「いや、これまでに無いほど長居したと、呆れ半分に思い返していただけです」
口髭を蓄えた男は褐色の肌に厳めしい顔が印象的。海賊のように見えるが、実際に元海賊だろうとリスキーは考えた。ON
Cは非合法組織ではあるが「企業」としての面も大きい。商売の障害になる海賊達とは、やり合うばかりでなく取引したり、
競合企業の航路情報を売ったり、時には優秀な人材をスカウトする事もある。
「傷に響かない限りは結構ですが、できれば室内で安静にお願いしたいですな」
そうしますよ、と答えようとしたリスキーは…、
「わたしらの護衛中に「教導顧問殿」の怪我が悪化したとなったら、上から睨まれちまいます」
髭面の男が続けた言葉で、思わず声を飲み込んでしまった。
(教導顧問…。フェスター、私の新しい仕事をもう決めていたのか…。手配が早い…)
満足に連絡が取り合える状況に無いので仕方がないのだが、本人に通達が回る前に、回収班に連絡が届いていたらしい。
役職名で察しがついた。ONCでは優れた技能や知識を持つ人物を「教導顧問」として、内部で訓練や研修を行なう。例え
ば銃火器の取扱いに優れた者や、徒手空拳の技能に優れた者、高名な術士を招く事もある。おそらくフェスターは自分の経験
と技術を買い、組織内での講師にあてがうと決めたのだろうと、リスキーは理解した。
(やれやれ…)
苦笑いが込み上げる。もう殺し屋は廃業だな、と言っていたヤンに、今度から殺し屋の先生をする事になりましたと伝えた
ら、一体どんな顔で怒るだろうか?
(どうやらまだまだ、足は洗えないようだ…)
ウッドテラスで椅子に腰掛け、パイプを咥えた肥満体の虎は、白んだ空を眺めて潮風に紫煙をくゆらせる。船着場とは全く
違う方角を向いて、明るくなってゆく海と輪郭がはっきりしてきた水平線を眺め続ける。
ONCの構成員が迎えに来るのだから目については困るという理由で、見送りは禁じられた。本当は、そんな理由の他に照
れ臭さもあったのかもしれないと、ヤンは思う。
リスキーが諸島を去る事を明確に知るのは自分達だけ。他の島民達はきっと、「環境保護のひと最近見なくなったなあ」な
どと、しばらくしてから何かの折にふと思い出すのだろう。そして、さして深く考えないまままた忘れる…。仕事だったとは
いえ、あの殺し屋の働きでいったい何人が死なずに済んだのか?そう考えれば多少褒められてもよいのにと、パイプをくゆら
せ紫煙の吐息を漏らす。
寂しい。
そんな本音が、誰も居ないテラスだからこそヤンの顔に判り易く浮かんでいる。縞々の太い尾がクッタリと元気なく椅子か
ら垂れ下がっている。どうして自分がリスキーにこうまで気持ちを寄せるのか、殺し屋という住む世界も価値観も違う相手に
友情を感じているのか、今でも判らない。ただ、一つだけ確かなのは…、
「いつかまた…、会えるかな…?リスキー…」
いつか彼が再びこの島に来る日を、自分は待ち続けるのだろうという事。
海面に漂う朝霧が晴れる。陽射しが一条、水平線から駆け抜ける。
「せんせー!」
元気のいい大声が響いて、坂下を見遣ったヤンは表情を改め立ち上がった。
少年とセントバーナードを迎える医師。なんでもない島の一日が今日も始まる。
去った者がそう望んだ通り、穏やかに…。