Tower Defender(前編)

 漆黒の闇を剣閃が斬り裂く。冷たく、そして荒々しく、風音すらも置き去りにした切っ先三寸が、玉状のモノへ斜めに入り、

そのまま抜ける。カッ…。そんな微かな音と共に。

 膝をつき、崩れ落ちるのは異形の何か。ひとのシルエットをしていながら腕が四本あるソレは、頭部備えた目は複眼で、頭

からは触覚が生えている。

 一太刀浴びせて仕留めた者は、絶命して崩れ落ちたソレに、もはや一瞥向ける事もない。

「せっ!」

 短く鋭い呼気と共に、一度は袈裟懸けに振り切った野太刀を返し、跳躍して踏み込んだその勢いで水平に振り抜く。その刀

勢をいささかも失わず、続けてもう一体が上下に分断され、通路に立ちはだかる影がまた一つ消える。

 無機質な、コンクリートと鉄骨が剥き出しの構造物基部内…ビルの地下。幅4メートルほど、何か大きな物を運び込み、そ

して運び込むのだろうその運搬路には、既に無数のインセクトフォームが骸となって転がっている。

 その光景を作り出した剣士は、しかしその長大な得物が似つかわしくない、若い女だった。

 アジア系の顔立ちで、美人と言える。二十歳になったかならないか、そんな年齢に見える。背丈も体型も特徴は無く、女性

の平均的な体躯。にも関わらず、その野太刀を操る戦いぶりは現実味が無いほど激しい。

 身に着けているのは、ラバー素材のようにも見える、光沢の無い黒いジャケットとパンツ。そしてコンバットブーツと指出

しグローブ。

 体に不釣合いな野太刀を、獣のように低い姿勢で薙ぎ戻し、腰の位置で両断したバッタの異形が崩れ落ちるそこを踏み台に、

跳躍した女は天井すれすれから大上段に振り被った野太刀を振り下ろす。

 着地と同時に体重を乗せて真っ二つに両断するなり、前方へバネ仕掛けのように跳ねて次の獲物の首を跳ね、勢いのまま前

へ身を投げ出し、前転する。

 直前まで女の胸があった位置を、ブンッと唸りを上げて通過したのは、ひとのサイズになっているカマキリの腕。

 前転した女は足を床につけて停止する。その左腕は、空中で何かを掴んでいた。

 黒く蟠る闇のような、ソフトボールほどの大きさの景色の揺らぎ。そこから生えているのは刀の柄。

 一閃した左手が、闇から引き抜いた小太刀でカマキリの腕を半ばから断ち、その脇を抜けた女は、

「このっ!」

 伸び上がりながらクルリと持ち替えた小太刀を、正確に把握している急所たる神経節の位置…カマキリのうなじへ深々と突

き刺して絶命させた。

 頓着せず小太刀を手放し、野太刀に両手を添え直して正面のアリをから竹割りに叩き割り、女はなおも前を目指す。全身を

使って長大な得物を振り回すその様は、さながら鋼のつむじ風。その身体性能は人間の範疇から逸脱しており、リミッターを

カットした獣人の限界速度に比肩し得るレベルに達している。

 それもそのはず、彼女はそもそも真っ当な人類ではない。

 古種、レリックヒューマン。それを人為的に再現された人造の存在。

 彼女…不流忍が自身の真実を知ったのは、ほんの一ヶ月と少し前の事だった。

 己という存在が揺らぐほどの衝撃を受けた彼女は、しかし今は迷わずに突き進む。

 目的がある。意地がある。使命がある。義務がある。譲れないものがここにある。

「はぁ…、はぁ…、はぁ…」

 自分以外に動くものが無くなった通路の突き当たりで、シノブはインセクトフォームの死骸に突き立てた野太刀を支えにし

て喘ぎ、息を整える。

 五秒そうして休んだ後、シノブは顔を上げ、正面の分厚い扉を見据え、サッと前に手を翳した。

 空間が歪む。気密扉の中央に、西瓜ほどの大きさの空間歪曲が発生し、そこをポッカリと抉り取って消し飛ばす。

 けたたましくブザーが鳴り出したが、シノブは構わず立て続けに5度ディストーションを放ち、意匠化された梅の花のよう

な形に穴を広げる。

(よし。もうフェンリルも動く頃だ。急いで最上階まで駆け上がる!)

 穴を潜り、野太刀を肩に担いで駆け出したシノブの背後で、無数の死骸と共に残っていた大小様々な刀剣の柄が、一斉に揺

らめく影のような空間の歪みに覆われ、そこへ吸い上げられるように回収された。





 二週間と少し前。

 

「………」

 無言のまま、水平線を見つめ続ける。

 夕日は背後の山に隠れ、海の向こうから黄昏がやって来る。

 潮風に髪をなぶられながら、女は暗くなってゆく海と空を眺めていた。

 海を見下ろす誰かの別荘。日も風も当たらない場所に雪の溶け残りが白く凍て付く庭。シーズンではないからか別荘の所有

者も来ておらず、管理人も置かれておらず、電子警備の類も入っていないので、侵入を咎める者はない。もしかしたら既に放

棄されているのかもしれないが、だとすればむしろ都合がいい。

 リアスの海岸線に吹き付ける一月の風は冷たく、頬は温もりを失って冷え切っているが、女はじっとそこに佇み、海を見つ

めていた。

「シノブ」

 その声は、接近の気配すらなく唐突にかけられた。

「食事の準備ができた」

 振り向いたシノブが見たのは身長2メートルはあろうかという大柄な狼獣人。ほつれもない漆黒の軍用ズボンと、下と違っ

て替えが見つからなかったのであちこちに傷が見られる着古したカーキ色の軍用シャツとベストを纏う狼は、美しい銀色の被

毛が印象的な偉丈夫。逞しく力強い大柄な体躯に、思慮深げな眼差しと精悍な顔立ち。種は違えども、無駄が無く静かな彼の

仕草は、時折シノブに「兄」を思い出させる。

 フェンリル。狼は今そう名乗っている。

 過去を捨て、全て失った自分に、親から貰った名は不要。死人という意味ではエインフェリアと同様なのだと彼は語る。

「…何それ?鳥?」

 訝って目を細めるシノブ。フェンリルの手にはそのまま火に掛けられる耐熱素材の皿が乗っており、上には飴色に焼かれた

肉が綺麗に切り分けられて並んでいる。物資も道具も乏しい中でありながら、フェンリルが用意する食事は毎回シンプルでは

あっても見栄えが良い。

「山鳥だ。味付けは塩だけだが、そこは勘弁して欲しい」

 庭の一角にあるテーブルセットへ移動すると、フェンリルはそこに皿を置き、乾燥キノコを戻して加えたスープ入りの筒型

容器を隣に並べ、「物資の確保に出る」と言い残して立ち去った。

 再び独りになったシノブは、テーブルについて焼けた鳥肉を見つめる。フェンリルはその能力の応用で、力場を分解させて

生じる熱により火を起こさずとも加熱調理ができる。確かに重宝してはいるのが、それは爆薬で料理をするようなもの。才能

と技術を無駄遣いしている感がどうにも否めない。

(いろいろ乏しいし、仕方ないんだけれど…)

 ため息をつき、添えてあったフォークを鳥肉に突き立てる。

 東護町のバベルが消えてから二週間が経った。

 バベルに触れてその正体を知ったシノブはラグナロクからの離脱を決意し、フェンリルもそれに従った。

 東護での作戦行動用に物資を置いていた場所はいくつもある。シノブとフェンリルは黄昏と鉢合わせないよう注意してその

中の何箇所かを巡り、当面の活動に必要な装備や物資を確保した。

 シノブの目的は二つ。「兄」がその身を賭してまで、ひとの手が及ばぬ場所へ再び送ったバベルを誰にも渡さないこと。そ

して、兄が守った東護町から外敵を排除する事。

 正直、タケシへの想いには複雑な物がある。

 ラグナロクを脱走し、行方不明になり、再会できた時には記憶を失っていた。挙句、戻って来いと呼びかけても刃を向けて

来た。

 それでも呼び戻そうと執着した。元々ドライな性格で判り易い愛情表現などしてくれなかったが、幼い頃から同じ施設で一

緒に育ち、同様の訓練を受けた自分達は、世間で言う兄妹のような物だと思っていたから。

 そして今、刃を交え、見逃され、生き延び、印象はまた変わった。

 タケシは、やはり「兄」だった。だからこそ自分を殺さず、あの土壇場で、バベルの真実を知った一方である自分を逃がし

た。そこにはきっと、「情け」と「願い」がある。

 自分には兄の願いに報いる義務がある。妹として、敗者として、託された想いに応える義務がある。そう考えたシノブは、

戦後の僅かな休息と体勢の立て直しを経てすぐさま動き出した。存在を気取られるのはまずいので、誰とも共闘できず、フェ

ンリルと自分のふたりだけで。

 東護にバベルがあった事については「裏」で知れ渡ってしまったようで、黄昏撤退後に各組織が散発的に調査員を送り込み

始めた。
これらに対し、疲弊している東護の調停者達は町の維持で精一杯で、外への反撃まで手が回らないと判断したシノブ

は、フェンリルを伴い調査員の派遣元…つまり各地の組織本部へ乗り込んで潰すという手段で対応した。

 迅速に、隠密に、二週間で七名の調査員を始末し、内四名から都合三つの組織の所在を探り当て、これを壊滅させた。シノ

ブの遣り方は以前のタケシ同様に徹底的で、組織の幹部はほぼ殺し、生き残りも再起不能。トップを失った後については、逃

げ出す構成員を現地の調停者に任せる格好で放り出した。自分達の素性がばれないよう、価値がありそうなデータやレリック

を強奪するなどの捜査撹乱も交えているし、幹部のもとへ殴り込む際にはフェンリルに教えられた「ジダイゲキ」の仇討ち台

詞、「ココデアッタガヒャクネンメ」「コノカオミワスレタカ」を叫ぶようにしている。
何もしないよりは幾分マシ。と銀狼

は述べたが、実際のところ監査官側は「怨恨による他組織からの強襲」の線で捜査しているので、効果はそれなりにあった。

(たぶん、ラグナロクでは私達は死んだものとしてるだろうけれど…。こんな事をしてるって知ったら、シャモンとサキモリ

はどう思うかな…)

 「姉」と「弟」の事を思う。まず怒るだろう。生きているならそう知らせて来いと、たぶんそこから怒る。そして…。

(敵同士…か…)

 確かに敵対する立場に回ったが、ピンと来ない。

 バベルを護る。ラグナロクが狙うならそれも阻む。…とはいえ、姉と弟はもちろん、ラグナロク全体への敵意もないし、敵

視するのも難しい。動機も原動力もバベルを誰にも渡さずタケシの遺志を守るという点からのもので、その必要があるから迎

撃し、排除するというだけの事。そこに私怨は一切ない。この曖昧なスタンスはどうにも落ち着かないと、シノブ自身も少し

困惑している。

 自分を造ったラグナロクが憎いかというと、これも曖昧だった。生まれにショックは受けたが、そうやって誕生しなかった

ら自分は存在しなかったのだと考えると、どんな目的で造られたにせよ恨みも怒りも湧いてこない。

 黄昏が掲げる理念に対しては、それなりに正しいと今でも感じている。ただ、その手段としてバベルを使うなら絶対に阻ま

なければいけない。…つまるところシノブからすれば、バベルにさえ手を出してこないなら、そしてタケシが守った東護町に

手を出さないなら、積極的に敵対する理由もない。

(こういうフワッとした理由で動いた事、今までは無かったな…)

 命令を受け、それを遂行する。シノブのこれまではずっと「そう」だった。自分がどう思うかなど問題ではなく、どう感じ

るかという事もどうでもよく、ただ与えられた任務に打ち込むだけだった。

(タケシもこんな落ち着かなさを感じたんだろうか?それとも、誰かに助けられたの?)

 程よい塩加減の鳥肉を咀嚼しながら、シノブはふと思う。自分達と同じくバベルの外へ転移させられた、金色の熊の事を。

 あの熊はどうしているのだろう?と、シノブは時々想像を巡らせる。

 タケシのパートナー、金色の熊。一度はシノブが勝ち、そして一度はフェンリルが敗れた相手。自分達と同じくバベルから

空間転移させられたあの熊は、今はどうしているのだろう。

 まだ傷は癒えていないだろうか?

 まだ喪失感に打ちのめされているだろうか?

 それとも、もう立ち上がり歩き出しているのだろうか?

 あちらがどう思うかは別として、こちらにはもう敵対心は無い。自分はもう黄昏ではないし、調停者を敵とする理由が無い。

邪魔になっても排除対象と考えない。むしろ手を出せば余計な敵を増やしかねないので極力近付きたくない。勿論、ラグナロ

クのエージェントとして様々な犯罪を行なってきた自分達は、法の側から見れば見逃せない咎人なのだが…。

 叶うなら、一度話をしてみたいとも思う。おそらくはタケシがどう暮らしてきたのか知っているだろう、あの金色の熊と。

 

 トッ…。そんな軽い音を立てて、一足に跳躍した銀狼は、太い杉の天辺付近で枝に立つ。

 フェンリルは広く見渡して周辺を確認すると、再び跳躍して木の上を移動してゆく。大柄な体躯にも関わらず重みを感じさ

せない身のこなしで、まるで木々の間を飛び移るムササビのようだった。

 移動しつつ周辺を警戒し、ついでに何か使えそうな物や食料が無いか探して回った銀狼は、やがて山と海岸線の狭間に沿っ

て走る県道を望む位置に落ち着いた。

 拝借している別荘は県道から山へ五分ほど入った位置にある。鉄扉も閉ざされており、私有地の看板もあるが、接近する者

への警戒を緩めるつもりはない。

 実は今、ふたりは三度目となる組織への殴り込みの帰り道。追跡者には用心しておきたかった。

(シノブは、立ち直った訳ではない)

 鼻面に細かな皺を刻み、フェンリルは厳しい顔つきになる。

 自らが何者だったのかを知り、兄と慕っていた男とも別離したシノブは、帰属する組織から離反する道を選んだ。その目的

はタケシの遺志を護る事、バベルを誰にも渡さない事。

 だが、今のシノブはその目的によって生かされている。目的があるから立ち上がり、進んでゆける。何も無かったならば潰

れてしまっていただろう。

 シノブの意識の変化と、ラグナロクを抜けるという方針について、フェンリルは異を唱えなかった。彼女はバベルに触れて

知った「真実」を全て語ろうとはしなかったが、フェンリルはその態度と表情から悟っていた。おそらくバベルは、御柱は、

その他様々な名で呼ばれるアレらは、本当に「ひとの手に渡ってはいけないモノ」だったのだろう、と。

 シノブに従い黄昏を抜ける事に、全く躊躇が無かった訳ではない。何せあそこには主君と仰いだ女性が居る。だが、かつて

仕えたその女性からは、何があってもシノブに付き従うようにと命じられていた。

 その言葉がこの事態を見越しての物だったのかどうかは判らない。だが、あの女性であれば、バベルの正体を察し、それを

知ったシノブが離反する可能性にも思い至りながら、何も言わず胸に秘めていたとしても不思議ではないとも思う。

 彼女は黄昏の最高幹部の一角である。組織の理念に賛同している。だが、あの方はシノブが離反する事を選んでも咎める気

はなかったのだろう。自らが自由と縁遠いからこそ、「妹」には自由に道を選んで欲しかったのだろう。銀狼は哀切な痛みを

胸に抱えながらそう感じていた。

(なにはともあれ…)

 感傷を断ち切り、フェンリルは今後の事を考える。

 バベルを誰にも渡さない。これは簡単なようで難しい。

 バベルの出現条件を満たすのは容易ではないため、その意味ではそうそう危機は訪れない。

 だが、条件を知っている組織が相手ならば、最悪の場合、出現したバベルを死守するという状況になる。もしもそうなった

らふたりだけではどうにもならない。

 だから今できるのは、バベルに手を出そうとする素振りを見せた組織を見せしめの意味も含めて潰し、不特定多数の組織を

牽制し、バベルの秘密に近付けない事。

 しかしそれでも限界はある。他でもないラグナロクが本腰を入れた場合、自分だけではシノブを護れず、シノブもまた目的

を達せられない。理想としては、今回の奪取失敗と被害から、バベルを手中に収める事それ自体を黄昏が諦める事だが、そこ

に期待し過ぎるのはあまりにも危険だった。

(仕掛けて来る可能性が高いのは「特異日」だが、あれは絶対条件ではないらしい。常に目を光らせておかなければ…)

 冷静に今後の事を考えながら、フェンリルは理解している。

 この状況では自分達は確実に死ぬ。そう遠くない内に。

 フェンリル自身はそれでも文句は無い。もとより記録上死んでいる身、一度は心まで死んだ身、今になって何かに殉じて死

ねるならそれこそ本望という物。だが、シノブを死なせてしまうのは…。

(どうにか、シノブにはそれなりに生きて欲しいものだ。せめてその生に満足感が得られるほど…)

 銀狼は思い出す。失敗作、と事あるごとに自分達の出来栄えを冗談めかして表現し、それと比較する形で、経験が浅かった

シノブを傑作品のサラブレットと持ち上げていた、ふたりの仲間の事を。

 冷たいようで気の良い狼だった。

 特別仕様のエインフェリア…ガルムシリーズと呼ばれる再生戦士の中では、期待値に満たず能力の獲得も無かったが故に失

敗作とされたらしいが、強力な能力者とも渡り合える腕利きの狩人だった。

 堅物なようで気が効く竜だった。

 様々なレリックに親和性を持つ試作シリーズ…ガバナータイプの先駆けとして調整され、結果として多少のレリック適性と

そこそこの親和性を浅く広く得ただけだったらしいが、単純に戦士として一目置ける強者だった。

 あのふたりがチームだったおかげで、シノブがどれほど救われていたか判らない。言葉も気も回らない自分では適切なお守

り役にはなれなかっただろうから、ふたりの働きに感謝している。

(お前達は満足したか?望んだ死に様だったか?相応しい死に場所を得られたか?俺は…、正直お前達が少しだけ羨ましい。

己という存在を理解し、受け止め、受け入れ、それでも悲観も絶望もせず戦い抜いたお前達の気高い心が、羨ましい…)

 せめて、自分がチームの最後のひとりにはなりたくない物だと、フェンリルは微苦笑した。

(そうだな、やはりシノブよりは先に逝きたい。見送るのはもう、たくさんだ…)

 

「はっ…!はふ…、はっ…!ひゅ…!はぁっ…!はっ…!」

 地区から丸ごと灯りが消えた中、月明かりも遮られた路地の暗がりを、丸っこい若い狐が息を切らせて不格好に走ってゆく。

 左右に4、5階建てのビルが並ぶその路地は、先のバベル戦役で封鎖されて以降、危険だとして居住区から外された地区に

ある。目下ゴーストタウンと言えるこの界隈は、ひとでは無い物とひとの道から外れたものが、戦役の残飯を漁って蠢く魔窟

と化していた。

 若い狐は少年と言える年代で、身に着けているのは調停者達が好んで身につける防刃防弾ジャケット。腰にはゴツい鉈のよ

うな得物。首で揺れるのは認識票。

 少年と言える年頃の狐は、極端な肥満体で真ん丸く見える。

「ひっ!」

 悲鳴を飲み込み立ち止まる狐。その眼前で、路地の角を曲がって現れたのは、拳銃を手にし、ガスマスクで顔を隠した男。

しかし身なりは至って普通。何処にでも居る勤め人のようなスーツ姿で、安物の革靴を履いており、ガスマスクと拳銃だけが

浮いている。

 何処かの組織の構成員。東護の事件の裏を嗅ぎまわっている輩のひとり。狐の少年は調停者の仲間達と共にこの男を追い詰

めていたのだが、ペアで動いていた相手から大きく遅れてはぐれてしまった上に、裏を掻いて包囲を脱した男と鉢合わせして

しまった。

 男が拳銃を上げる。狐は目をきつく瞑り、両手で顔を庇いながら後ずさろうとして…、

「あ、あ、あ…!あっ!」

 膝が折れ、後ろによろめいて尻餅をついた。

 新人の狐には、想定外の状況で遭遇したターゲットから向けられた銃に対応できるだけの経験も度胸もなかった。が…。

 タッ…。

 そんな軽い音とは裏腹に、視界を遮るほど大きな影が、男の眼前に降り立った。

「!?」

 ガスマスクのレンズに映り込むのは、か細い月明かりに輝く銀色の被毛。鋭く硬く美しい、宝石のように冷たい輝きを宿す

双眸。しかし、ソレを男が認識していたのは、脳が驚きを覚えるまでのゼロコンマ数秒で…。

「………………?」

 三秒ほど経って、狐の少年は恐る恐る目を開け、手の隙間から前を窺った。そして…。

「…え?」

 そこには誰も居なかった。何も無かった。ただただ暗い無機質な路地だけが、先ほどと同じく行く手へ延びている。

 慌てて周囲を見回し、後ろも振り返り、膝を震わせながら手も使って立ち上がり、息を殺して気配を窺うが、傍に潜んでい

る様子はない。そもそも、殺せる状況だったのにあえて隠れて奇襲を仕掛けるなど、ありえない以前に理由を探すのも難しい。

 壁に沿ってビクつきながら進み、異を決して角の向こうを覗いてみるも、やはり誰も居ない。

 怖さのあまり何かを見間違えたのだろうか?

 身を竦ませながらビクビクと進んでゆく狐の子を…、

「あの肥った子犬、フェンリルに感謝しなくちゃいけないわね」

 ビルの手すり越しに頭上から覗き込んでいた女が見送り、苦笑まじりに漏らす。

「不要だ。たまたま割って入る形になったが、別段助けるつもりはなかった」

 応じたフェンリルは、はて犬だったろうか?と一瞬疑問に思ったものの、すぐさま思考から外す。その手は、一瞬の内に気

絶させて捕らえ、瞬時に屋上まで攫い上げた男を、工事現場から失敬した虎ロープで縛り上げている。男が持っていた武装…

今のふたりにとって貴重な物資である拳銃はシノブの手の中にあった。

「ワルサーP99Q。15発装弾モデルか…。とりあえずサプレッサーは新品、なかなかいい状態だわ」

 トリガーガードの内側に指をかけ、クルリと回して回転をつけて宙に放ると、拳銃は発生した黒い球体に飲み込まれ、空間

の歪みの向こうへと収納される。

 シノブはタケシ同様に空間に干渉する能力を持っているが、バベルへのアクセスを経て、能力に若干の変化が生じた。

 強力ではあるが、脳にかかる負担が大きいというデメリットが緩和された。多少の使用では副作用が生じないばかりか、以

前であれば即昏倒するほどの酷使をしても、気を張れば抵抗できる程度の強い睡魔に悩まされる程度になっており、持久性で

言えば以前の二倍以上も能力の使用に耐えられる。

 そして、よりコントロールの精度が増している。出現と消失が速くなり、意識してから発動させるまでのタイムラグが大幅

に削減された。タケシの能力が出力…いわゆる範囲や持続性を改善し続けていたのに対し、シノブの能力はより繊細に、より

速く、兄とは異なる方向へ進歩しているらしい。特に高速化した武装の格納と取り出しは、戦闘行動にそのまま組み込めるよ

うになっていた。

「尋問の前に移動する。調停者達には悪いが、捕縛対象はこちらで頂いたと教えてやる訳にも行かない。しばらくはこのまま

捜索を続けて貰うとしよう。実りのない仕事で済まないが」

 男を軽々と肩へ担ぎ上げ、フェンリルは立ち上がる。

「監査官達は西側へ移動しながら規制線を引いているみたいね。当然逆側から離脱する。OK?」

「了解した。人員的余裕も無い中、規制線で欺くような真似はしていないだろう」

 シノブの先導で、ビルの上を伝って移動するフェンリルは、ちらりと視線を飛ばす。

 海が近い。月のせいで沖がうっすら明るい海が。

 ここはバベルが出現した「柱心地」に程近い場所。居住制限がかけられており、住宅の新築は勿論、住んでいた人々も住居

の移転を余儀なくされている。

 住む場所がなくなるのは辛い。それが永らく暮らした場所ならばなおの事。フェンリルは、二度と帰れない故郷の事を、道

北の山々の姿を思い出していた。

(こちらとしては動き易いが、不憫だな…)

 この地に適用された規制はただの居住制限ではない。表向きには防災や危険区域の見直しなどの名目をつけられ、今後も永

く規制される事になる。御柱が破壊されていないのに規制が解かれた例は、この国では一つも無い。

 ただし「封印措置」が施された柱を除いての話だが。

(…封印措置…)

 フェンリルは考える。この国には、バベルの存在が確認されていながら例外的に「安全圏」とされている場所が十箇所ほど

存在する。祖父から聞いた話で子細な方法などは判らないが、遥か昔に「ひとばしら」を捧げる事で封印したそうな…。

(不破武士は、その「ひとばしら」となったのだろうか?それともシノブが言うように、彼女達が言う「向こう側」へ持って

いったのだろうか?)





 五日前。

 

 東護のはずれにある、旧町道沿いのガソリンスタンド。そこは路線の変更工事に伴って迂回路となった位置で、一年半前に

閉鎖されて以降、一度もチェーンが外されたことがない。アスファルトのひび割れや排水溝から白く乾いた荻が好き放題に生

え、投げ込まれた空き缶や飛んで来たコンビニの袋があちこちに広がり、荒れ放題になっている。

 ブラインドが下ろされた店内からは、カウンターなど作り付けの物を除いて機材などは引き上げられている。スタッフルー

ムだった部屋とトイレのドアには、プレートがそのまま残されていた。

 人の気配も無い廃スタンドの、一見すれば何もおかしくない店舗側面の、カーピット内にあるドアノブの中は、しかし内部

のシリンダーが空間歪曲で丸々抉られており、ロックされていない。逆に、スタッフルームのドアは施錠されており、その中

には…。

(そろそろ一時間か…)

 コンビーフの缶を備え付けの器具をクルクル回して開封しながら、シノブは時計を見遣る。

 元々は店員の休憩室だったそこは、広いとは言えないがふたり寝泊りする分には不自由しない程度の空間になっている。閉

鎖区画から失敬してきたベンチに、同じく拾ってきたベッドマット、そして小さなスチールデスクなどが運び込まれたここが、

シノブとフェンリルのセーフハウスである。店内に鍵束が残っていたので、一度中にさえ入ってしまえば快適に利用できた。

 窓の無い部屋の灯りは電池とソーラー充電複合式のカンテラ二つ。時計は先の騒動で戦場になった区域の、破壊された商社

のオフィスから拾ってきた、プラスチックカバーが割れたもの。ありあわせで埋められた部屋で、シノブは食料を齧りながら

待っていた。元ガスボンベ倉庫でフェンリルが行なっている、捕縛した男への尋問の結果を。

 それからさらに十分が経ち、今回はずいぶん粘るなと感心し始めた頃、

「まず失態を詫びなければならない」

 引き上げてきたフェンリルは、開口一番シノブにそう告げた。

「何があったの?」

「隙を見て自害された。舐めていたつもりは無いのだが…」

「情報は取れなかったか…」

 報告が途切れた事で派遣元がどう動くか、考え込むシノブに「いや」とフェンリルは首を横に振る。

「飼い主の話はある程度聞くことができた。だが、正確な所在と規模が確認できなかったのは痛い」

「それは仕方ない。探る手掛かりはあるんでしょう?」

 難しい顔で腕を組む銀狼にそう述べて、シノブは「それで、どっちの方?」と訊ねた。

「位置的にはかなり北上する。蒼森と祝手の県境といったところだ。…いや、シノブにはこの国の地名からでは説明が判り難

いか」

 フェンリルはデスクに歩み寄ってロードマップを取り、広げて指し示す。「そろそろ地名と位置関係を覚えなくちゃいけな

いわね」と、シノブは目を細くして地図を見つめた。

「名前と容姿は日本人なのにこの国の事に疎いようじゃ、どこかでボロが出るか判ったものじゃないし…」

 シノブは兄と同じく姓名から成る日本の名を与えられているが、厳密には日本国籍ではなく…それどころかどの国の国籍も

持っておらず、先の作戦が初入国である。日本という国に個人的な縁は無いのだが、姉と慕う存在がこの国を追われた旧き民

だったため、多少は思うところがある。

 自分もタケシも人造のレリックヒューマン…シャモンのコピーであるとロキから聞いた。だがおそらく、彼がコピーと称し

た自分達は、客観的に考えて単純なクローンとは違う。言われてみれば自分もタケシもシャモンに似た所がある容姿なのだが、

それはクローンとは比較にならないレベルの似通い方。本当に「言われてみれば」という程度。部分的に似てはいるがシャモ

ンの容姿からは離れ過ぎているし、そもそも自分などシャモンとは血液型まで違う。

 だからコピーと称されたのは、能力的な観点や何らかの特徴…例えばバベルに正規入場できるような特性などについての、

機能面を捉えての事だったのではないだろうかとシノブは考えている。おそらく自分達はシャモンと「誰か」の因子を掛け合

わせる事で生み出された。たぶんだが、タケシも自分も「異なる誰か」とシャモンの因子を持っている。そしてその「誰か」

達は、天然のレリックヒューマン…シャモンのような本物の古種。とりわけ…。

(たぶん私は、もう片方の因子提供者も日本人なんだろうな…)

 タケシは骨格からして少しアジア系とは違う。長身ですらりとしたあの体つきはシャモンとは完全に別系統だった。だが自

分は、身長も肌の色味も顔立ちも、この国の人々…同年代の女性達と良く似ている。

 だからシノブは感じていた。自分の半分がシャモン由来で、残りの半分もこの国の民由来ならば、生まれた場所がラグナロ

クのラボでも、この国と完全に無縁ではないのだろうなぁ、と。

 タケシの遺志を継ぐと決め、黄昏と決別したとはいえ、寄り所も無い不安は使命感と義務感で埋めるには大き過ぎた。だか

らなのだろう、こんな事を考えてしまうのは…。そう胸中で自分の弱さを自嘲するシノブは、

「大丈夫か?」

「え?」

 フェンリルの問いで、自分が地図の一点を見つめたまま固まっていた事に気付く。

「ああ、まぁまぁ…。たぶん大まかには把握できた。自信は半端だけど」

「どの道一緒に行動するのだ。だいたいイメージできればそれでいい」

 誤魔化すシノブに付き合って、フェンリルはあえて気付かぬ風を装った。

「夜が明ける前に移動したいけれど、死体の処理は?」

「既に済ませた。すぐにも動ける」

 頼もしい銀狼の答えを聞きながら、立ち上がったシノブはジャケットを羽織った。

「それなら行こう。今夜中に少しでも進んでおきたい」





 そして、現在…。

 

 屠った無数の異形達の体液にまみれ、シノブは階段を駆け登る。

 踊り場に現れて銃を構える男。…頭部を空間歪曲で消し飛ばす。

 ドアを開けてゆく手に展開した四名。…跳び超えつつ野太刀を振るい、まとめて素っ首四つを斬り飛ばす。

 階上で待ち構えていた一個小隊。…捕らえた男から失敬した拳銃が弾を残らず吐き出し、空間歪曲が複数展開し、獣のよう

に駆け抜けるシノブの左右で銀光が煌き、運よく銃撃が急所を逸れた二人の重傷者を除いて、瞬時に絶命する。

 突入から三十九階通過まで十二分四十七秒。打ち合わせ通りならばフェンリルが四十階へ奇襲を仕掛けるまで残り二分十三

秒。シノブが正面から組織の長の部屋へ迫るそのタイミングで、銀狼はひとが考えない侵入経路…つまり700メートル向こ

うのビルから屋上と空中を疾走して接近し、意識を向けた逆側からうなじを食い千切る算段。

 騒ぎが拡大する暇も与えず、調停者が駆け付ける時間も与えず、市民に知られる猶予も与えず、頭脳部を強襲して息の根を

止める…。そんな無茶な作戦が、シノブとフェンリルには実行できる。

(間に合った!)

 予定通りの時間でビル最上階のエントランスホールに突入したシノブは…。

「…?」

 一瞬歩調を緩めた。

 廊下に男達が倒れている。武装したまま折り重なっているが…。

(息がある。…フェンリル、予定変更したの?)

 外傷は見られず、気絶しているだけ。困惑しながらも予定通りに組織トップの居室を目指すシノブは、希望的観測で想像し

た通りではない…、つまり男達はフェンリルが無力化したのではないとすぐに悟った。

「………」

 今度こそ完全に足が止まった。

 シノブの行く手、倒れ伏す男達の向こうに二つの影があった。

 片方は、金髪碧眼、美形と言える顔立ちにすらりとした体躯の優男。

 もう片方は、ずんぐり太くてゴツい体躯の、中年太りと見える白毛の熊。

 双方共に黒色のジャケットと黒色のパンツ。同じデザインの夜戦装備に身を包んでいるが、優男が腰に帯びた細身の剣と鞘

だけはやたらと華美な装飾が施してあり、妙に目立つ…というよりも場違いに浮いている。

 優男はシノブをじっと見つめ、「ん~…。えぇ~?」と妙な声を漏らしてから口を開いた。

「ドーマル殿。ボク思うんですけどね、いやあんまり考えたくないし外れて欲しいんですけどね、あの精悍で美形なアジア系

レディはまさか、下から上がって来た騒ぎの原因だったりしますかね?」

 これに対し、ドーマルと呼ばれた白い中年熊は広い肩を竦めて応じる。

「見た目からしてインプレッションズの構成員じゃなし、十中八九そうじゃろ?と、言うより…」

 白い中年熊はスッと目を細める。油断無く、鋭過ぎる刃物を手にとって検分するような慎重さで。

「スレイ。あれがたぶん「二人目のベヒーモス」じゃ」

 白い熊が言うが早いか、シノブは床を蹴っていた。

 エージェントとしての自分に与えられたコードネーム。名乗ってもいないのにそれを知るという事は…。

(知らない顔だけれど、ラグナロクの構成員!)

 間合いが即座に詰まる。シノブの速度に目を丸くする優男。そこへ横合いから白い熊の腕が伸び、雑に突き飛ばす。

「わぁ」

 壁際まで吹き飛び、そこに倒れていた男の背中へ顔から突っ込み、悲鳴も途中で切れて間抜けな物になった優男へ、白い熊

は「下がっとれ」と声をかけつつ腰の後ろに手を伸ばした。ただしあっさり気絶した優男の耳にその警告は届いていないが。

 引き抜いたのは大振りな刃物…マチェット。分厚い刀身を翻し、素早く構えた白い熊へ、シノブは加速と体重を乗せた一撃

を叩き込む。

「っと!」

 耳が痛くなるほどの金属音が通路に響き渡り、斬撃を受け止めた白い熊が自分の半分も無い女の勢いに押されて後ろに滑る。

「乱暴なお嬢ちゃんじゃ。こりゃまたとんだご挨拶…、っとまだ来るかい!」

 弾かれた野太刀を即座に寝せ、水平に薙ぐシノブ。後退させられたそこから後方へ跳び下がる白い熊。出っ張った腹を切っ

先が掠め、複合繊維製のベストとコンバットスーツの生地がスッパリ裂かれる。一瞬でも反応が遅れれば腹部を半ばまで断た

れて内臓を零す羽目になっていただろう。

「「そういう娘」って話だったが、なるほどなるほど…」

 さらに踏み込み、立て続けに逆袈裟の切り上げを仕掛けるシノブに対し、白い熊はしかし落ち着き払った様子でマチェット

を構えた。

 再びの金属音。火花と共に弾け飛んだのは、白い熊が握るマチェットの半ばから折れた先側。しかし中年熊は既に左手を腰

の横に当てており、警棒を引き抜いて斬り返しに対応する。そこへ…。

「ぐ…?」

 ドボッと、重くて篭る音が響いた。

 警棒で野太刀をいなした白い熊の腹に、シノブの細足が埋まっている。被毛に、贅肉に、筋肉に、内臓に、ふくらはぎしか

見えなくなるほど深くめり込むミドルキック。一見すれば華奢な女性の足でも、シノブのソレは野生の捕食者もかくやの機動

性と俊敏性を発揮する大推力駆動装置。その破壊力は…。

「んごぉっ!」

 体格差数倍の白い熊を、まるでサッカーボールのように蹴り飛ばし、壁へ叩き付け、倒壊に埋めた。粉塵と崩れた壁の破片

で白い熊の一瞬姿が見えなくなり…、

(…手応えがおかしい!)

「ぶほぁっ!げぇっほ!きっつぅ!何じゃその蹴り!」

 シノブは目を見開く。ダウンもそこそこに白い熊は壁の破片を振り払い、ブルルッと身震いして、咳き込みながら普通に立

ち上がる。

 蹴ったシノブには判っていた。蹴りは深々とめり込んだが、肋骨や内臓を破壊できた手応えがない。脂肪と筋肉が包み込む

ように衝撃を受け止めてはいたが、決してそれだけで殺しきれる威力ではない。おそらくは相当な強度を持つ人工臓器に入れ

替えられているのだろうと、シノブは相手を見積もり直す。

(コイツの身体性能とタフさ…、エインフェリアだったのか…!臓器はほぼ入れ替え?たぶん骨格系も弄ってあるはず。付随

して筋肉組織も…。まともに蹴りが入っても壊れないって事は第三世代後期型程度の改造レベル?…けれども、コイツ何か…)

 攻め立てているシノブは、ペースを握り、分析しながらも焦り始めていた。

 スピードが速い…訳ではない。もっと速い者をいくらでも知っているし、そもそも速力はこちらが上。

 力が強い…訳ではない。勿論非力ではないがフェンリルなどのような常軌を逸した剛力ではない。

 武器が強力…では全くない。ありふれたマチェットと警棒。それらすら断たれて腰から取ったトンファーも特に変わった所

のない既製品。いずれも特殊な装備ではない。

 だが、防戦一方のようで、その実白い熊にはまだまだ余裕があり、実際に猛攻を凌ぎきっている。強いのか弱いのかはっき

り判らないが、とにかく、攻め続けてなお押し切れない。こんなケースはあまり良くないのだと、シノブは経験上知っている。

(底が判らない!)

 そう。シノブのレベルで「相手の実力が把握できない」という状況は、多くの場合「相手が格上」かつ「芝居上手」である

が故に発生する。彼女が「姉」を相手に稽古をつけて貰っていた時もこうだった。

「あちゃ~…!質に拘らんとは確かに言ったが、流石にもうちょい丈夫な得物が欲しい所じゃ…。頑丈さ重視で何か用意して

貰わにゃいかん」

 攻撃を捌きつつ唸る白い熊には、変わらず焦りは見られない。

(もうフェンリルが仕掛ける頃…!無理をする必要は無い?…いや、ここに黄昏が居るっていう、この事態がもう想定外!)

 おそらく、階下で自分を足止めしていた者達は気付いていなかった。このフロアがこうなっている事も、この二名の侵入者

の事にも。そこから考えれば、目の前の白い熊とあの優男がいかに迅速にフロア制圧を成し遂げたのかが判る。何処からどう

侵入したのか定かではないが、フェンリルの方が予定通りに事を進められている保証もない。

 そして、そんなシノブの予感は的中していた。



「まさか、と言う他に無い」

 銀狼は苦々しい表情でちらりとビルを見遣る。標的まであと100メートルも無い位置の、ビルの屋上。コンクリートを踏

み締めるフェンリルが見上げるのは、行く手を阻むように貯水槽の上へ立つ、逞しいシルエット。

「奇遇だなフェンリル。実に…奇遇だ」

 低く、幾許かの感慨すら伴った声を発したその影は、灰色の被毛を纏う、馬の偉丈夫だった。

 黒色のコンバットスーツの上からアメフトの防具にも似たゴツいブレストアーマーを装着した馬は、フェンリルと変わらな

い長身で、四肢も逞しく太い。

 銀狼を見下ろすその目には微かな困惑と疑問が宿るものの、しかしそれ以上に、確固たる使命感が瞳を硬質に光らせていた。

「スレイプニル、貴方が何故此処に居る?」

 かつての同僚を睨みながら、フェンリルは唸った。