Tower Defender(後編)
灰色の馬を見上げ、銀狼は間合いと位置関係をミリ単位で把握し、攻めと守りの双方に備える。
スレイプニル。最初のエインフェリア。ロキの元では同僚…同じくエージェントだった男。とはいえ、フェンリルとは与え
られている権限が異なる。銀狼もエージェントとしてそれなりの自己判断による自由な行動を許可されているが、スレイプニ
ルはそもそもの立ち位置が違う。
ラグナロクにおいて唯一、中枢の椅子…最高幹部の席に着く事を辞退した男。それ故に、スレイプニルは幹部に対して礼を
尽くすが、中枢幹部達はスレイプニルを他のエージェント以上の、自分達に次ぐ位置に居る者として扱う。
(ロキが居ない今、彼は何処に配置されている?他の中枢幹部の下に移ったのか?それとも…)
そう思案するフェンリルに対し…。
「それはこちらの台詞だフェンリル」
何故此処に居る?銀狼のその問いに、灰色の馬は静かに応じた。
「此処で何をしている?何故黄昏に帰還しなかった?…と、気にはなるのだが答えてくれそうな様子ではないな…」
灰色の馬は油断無く銀狼を見つめながら、一度閉ざした口を開く。フェンリルの様子から、既に自分達は同僚ではなくなっ
ていると察していた。
「離反したという事か」
その言葉が全て終わらない内に、フェンリルは跳んだ。
力場を後方に発生させ、そこへ振り向きざまに拳を叩きつけ、破砕で生じたエネルギーを燐光で覆った自らの身に浴び、己
自身を射出するという行程を経て。
ほぼ飛び道具に等しい勢いで飛んでくるフェンリルが、高速旋回しながらその右膝を上げたと見て、灰馬は素早く伏せる。
その頭上を、コマのようにスピンしながら放ったフェンリルの回し蹴りが通過した。
伏せた馬はそこからフェンリルの逆足を掴み…、
「オーバードライブ…」
力任せに、腕一本で、勢いを完全に殺して引きとめ、真逆へ投げ返す。
「!」
防御姿勢を取ったフェンリルは、跳躍したその地点の床に叩き付けられ、そのまま埋没し、階下の一般企業の物らしき会議
室へ突き抜け…。
「スコールオブグレイ…!」
瓦礫ごと吹き飛んでゆくフェンリルの眼前に灰馬が迫った。両腕を交差させた銀狼は、肉薄した灰馬の両脚を揃えた蹴りを
エナジーコートの防御壁で受ける。直後、体へ直に纏う燐光を含めて三重に展開した力場の一層目が、ガラスが割れるような
音を立てて割れ砕けた。
能力による物ではない。レリックによる物でもない。単純に物理的な衝突エネルギーにより、フェンリルの力場は破砕され
ていた。
(よりによって…、この男が障害になるとは!)
残った防壁ごと蹴り飛ばされたフェンリルは、砲弾のように加速してビルの床と内壁を抜けて側面まで貫通し、壁面を突き
破って芝生の公園へと落下してゆく。従業員達が既に退社していなかったら大惨事になっているところだが、幸いにも一階の
警備員が轟音と振動を地震のものと勘違いして大慌てするだけで済んだ。
最初のエインフェリア。ラグナロクが参考にし、発展させ、今なお改良を続けているエインフェリア製造技術…その系図に
おける始点で製造されたのがスレイプニル。
ただし単純に旧式とは言えない。そもそもラグナロクが用いるエインフェリア製造技術は、スレイプニルが製造されたその
時点の水準に及んでいない。その理論と技術を形にした男に、黄昏の技術者も研究者も製造者も、あらゆる面で誰一人として
追いつくどころか迫れていない。ほんの二十数年前に確立され、そして失われた技術と知識は、世界最大の組織である黄昏に
とってもオーバーテクノロジーとなっている。故にラグナロクでは未だ、躯体構造、基本性能ともにスレイプニルに優る設計
のエインフェリアを製造する事ができず、たった数例が偶然スレイプニルに比肩し得る性能を獲得できただけに留まっている。
ある意味ではラグナロク製エインフェリア全てのオリジンと呼べるスレイプニルの戦闘能力は、その経験も手伝い、当代の
神将やサーと同格の次元にある。
(シノブとの合流を優先したいが、この男を振り切るのは至難。下手に連れて行く訳には…。応戦やむなしか!)
落下しながら力場を背面に集中し、フェンリルは耐衝撃姿勢を取る。
地震計が揺れを観測するほどの地響きを立てて公園へ墜落し、土煙と土砂の柱を噴き上げ、地面に深く埋没した狼は、しか
し間髪いれず無傷で土埃の中から飛び出す。
(周辺への配慮に気を割く余裕はない。出し惜しみしてはこちらが狩られる!)
全身を燐光で覆ったフェンリルは、既にオーバードライブへ移行していた。
「いざ…!」
20メートルほどの間合いをおいて着地した灰馬を睨み、銀狼が油断無く身構える。
腰をやや落としてファイティングスタイルを取り、スレイプニルはフェンリルを静かに睨む。
粉塵が舞う夜の空気がピリピリと張り詰めてゆき…。
一方、シノブの方でも状況が変わっていた。
野太刀を構え、腰を鎮めて油断無く視線を走らせる。
「ようやっと大人しくなってくれたか」
疲れた。と表情で語る白い熊の左右、そしてシノブの後方と両側には、総勢十余名の武装した獣人達。その中の何人かにシ
ノブには見覚えがあった。
(エインフェリア…!まさか、こいつら全部…?)
加えて、そこへ響いた声は…。
「おやおや。何処の誰とかちあったのかと思えば…」
ゾクリと、シノブの背筋を悪寒が走った。
子供の声。男の子の声。聞き馴染んだ声。しかしその声の主は、あの時…。
(死んだ…はずじゃ…!?)
白い熊が横手にスッと退く。その背後、廊下の向こうからゆっくりと歩いて来るのは、百科事典のような分厚い石版を小脇
に抱えた、小学生に見える、灰色の髪の…。
「ロキ…!?」
男の子は微笑む。面白い物を見つけた、と言わんばかりに。
その笑みを見た瞬間、シノブの双眸が紫紺に輝き、能力が開放された。
黒い、空間の歪みの線が、幾重にも生じて角度を変えつつ広がる立体的な波紋のように、廊下へ無数に展開する。
それを視認するが早いか、白い熊はそっと呟いた。
「…煙(けぶ)れ、テスカトリポカ…」
一方ロキは、「皆、その線に決して触れないようにして下さい」と慌てた様子もなく配下へ指示を出す。
シノブの隠し玉にしてオリジナルの技法、スライダーライン。それは、空間の歪みを線として出現させ、これを展開、ある
いは収束させる方向に移動させ、その軌跡に重なった物を寸断する力。
通過されれば問答無用で寸断される切断領域。その展開に際し、手練の兵士達は軌道を注意深く確認しつつ回避行動を取る。
床、天井、壁、あらゆる物が断裂させられながら、廊下が崩れてゆく。その中でシノブは本命のディストーションで壁に大
穴を穿ち、隣接する部屋へと逃げ込んだ。
そして廊下は…崩れ切らなかった。シノブの狙い通りに大規模崩落と行かなかったのは…。
「皆。そう保たんから手早く移動じゃ」
白い熊は壁際を見遣って皆に注意を促した。スッパリと切れて落ちそうな壁は、しかし接着されたようにスライドする途中
で止まっている。不恰好な積み木細工のようなデコボコになりながらも。
「ナノマシンに摩擦を代用させましたか。汎用性が高い反面、操作性が複雑かつ劣悪との事でしたが、使いこなせているよう
で頼もしい限りです」
感心と興味が窺えるロキの言葉に、白い熊は「褒めても何も出んぞ、お頭」と肩を竦めて応じる。その右脚…ブーツの縁か
らは、ゴムか何かのようにも見える黒い管が這い出て、薄く煙を吹いていた。
「さて、ベヒーモスの方ですが…。面白いので逃がさないで下さい。逃げられると面白くない事になります。もし確保が難し
ければ…、惜しいですが殺してもいいです」
シノブが逃げた壁の穴を見遣ってロキが言うと、白い熊が「ならわしが」と追撃を買って出た。
「ワイラー、済まんが剣を一本貸しとくれ」
手持ちの武器では心許ないと、白い熊は近くに居たインパラに声を掛ける。応じて頷いたインパラは、腰へスカートのよう
に吊るした十数本の鞘の一つからジルコンブレードを抜き、恭しく差し出した。
「壊さんように気をつける」
「お気になさらず、どうぞ御存分に」
抜き身の剣をぶら下げて、白い熊が「どっこいせ」と窮屈そうに壁の穴へ体をねじ入れると…。
「おや?どうした事でしょうねこの有様は?皆さんお揃いで…、ところで先ほどの精悍アジア系レディは?」
突き飛ばされた拍子に気絶していた金髪の優男が、起き上がってきょとんと首を傾げた。倒れている相手にはそもそもシノ
ブが見向きもしなかった上に、白い熊が防御措置を取ったようで、寸断されなかったどころか壁の破片なども当たらず綺麗に
無傷である。
「もうスレイの仕事は終わりですから、誰か彼をを安全な所まで連れて行って下さい」
ロキは傍に控えた数名にそう告げ、名乗り出た者へ金髪の優男の護衛を命じると、他の獣人達へも指示を出す。
「残りの者はオリジナルのレリックを中心に使えそうな品を持ち出してください。済み次第引き上げます」
「スレイプニルの旦那に加勢は要りませんか?交戦に入ったと通信がありましたが…」
訊ねた茶色い兎に目を向けて、ロキは肩を竦めた。
「要らないでしょう。むしろ下手な手出しは彼の邪魔になるでしょうから、放っておいてあげて下さい」
シノブが居たという事は、スレイプニルが遭遇したのはフェンリルだろう。…そう想定した上でロキが放置を命じるのは、
スレイプニルが遅れを取る事はないという絶対の信頼があっての事。フェンリルの実力を知っていてなお、それは全く揺らが
ない。
「さぁ急いで後始末です。済んだら帰って休みましょう」
パンパンパンと手を叩きながら、ロキは付き従うエインフェリア達を急かした。
(もう落とされてたの!?)
壁を抜いてビル内を移動したシノブは、悪趣味なまでに金が掛けられた部屋の真ん中に、五体全てが生前の面影無く炭化す
るまで焼かれた死体を見つけた。ビル外壁まで穴をあけて逃走を装いつつも、ちゃっかり当初の目的は果たそうとして、脇道
に逸れつつ別のルートを作って移動している。
(この死体がインプレッションズの頭目って考えていいな…)
ボディガードと思しき数名が刺殺や斬殺で死体になっている中、床にも天井にも焦げ目も煤も残さずに焼却されたこの男は、
ロキ自身が直々に殺したのだろうと察せられる。どうやら騒ぎを聞きつけて現れたエインフェリア達とロキは、直前までここ
に居たらしい。
自分が駆け上がって来る最中に決着がついていたのだと知り、やるせない気分になるシノブ。
(とにかく、済んでるなら逃げの一手…!流石にあれだけのエインフェリアと…ロキを相手に、準備も作戦も無く戦えるもの
じゃないわ。フェンリルと合流して…)
ロキが生きていたという事実は驚きだが、とにかく離脱だと横手の壁を見遣り、今度は本当に脱出するための大穴を空けよ
うとしたシノブは…。
「何処に繋がっとるのかと思えば…、ここの頭領に用事があったのか?」
素早く振り向いて野太刀を正眼に構えた。壁の穴を窮屈そうに潜って現れたのは、先ほどの白い中年熊。
(勘がいい…。脇道に逸れた事に気付かれるなんて…)
実力を測り切れていないが、倒し辛い粘り強さである事は確か。深刻な意味で面倒な相手である。
(手間取っていたらまたロキと出くわす…。一太刀だ。殺せなくていい、動きを制限できる傷を与えれば!)
薄く、淡く、シノブの瞳が紫紺の色を帯びる。即座に宙…左肩の上に出現する刀の柄。蔵出しした得物が現れるや否や野太
刀から左手を離したシノブは、その柄を握って打刀を投擲する。
「っと!」
借り物の剣で弾きいなす白い熊。顔面を狙うソレを弾きあげたその姿勢は、得物が顔より高く上がり、腰から下は守備範囲
から遠い。
その左膝、その内側、皿と腱を断つ角度で、シノブは右腕で野太刀を薙ぎつつ、その峰を左足で蹴り、足りない剣圧を体術
で加える。蹴り放たれるような太刀筋は残光すらも定かではなく、速度は充分だった。が…。
ガインッ。そんな硬質の響きにシノブは耳を疑った。次いで目も疑った。
白い熊は右足を上げていた。それが左膝を庇っていた。が、コンバットブーツの足首に斬り込んでいる野太刀の刃は、そこ
で止まっている。
「危うい危うい、肝が冷える」
ふう、と息を吐く白い熊は、慌てて刀を引いたシノブの顔を見て…。
「…もう止めとくんじゃな、お嬢ちゃん。太刀の収め所じゃろう」
「!」
シノブの頭にカッと血が昇った。
白い熊の発言は、挑発ではなかった。むしろ説得しようと本気で考えている事が口調と表情から窺えた。
それは、シノブにとって恥辱だった。
(舐めてくれるわね…!)
キッと熊を睨み、シノブは力を集中した。
(硬くてもタフでも関係ない!頭も心臓も、上半身丸ごと「あっち」に飛ばしてやる!)
その瞳が紫紺に染まり、強く帯びた輝きが強まり、
「…う…?」
熊の上半身を抉り消すはずの空間歪曲は、発生しなかった。
眩暈を覚えて足を踏み直したシノブは、ドッと全身から発汗した。
(意識が飛びかけた!?体調まで…!?まずい、調子に乗って使いすぎた!)
キャパシティが上昇してからこれまで、疲弊し切るまで能力を使用した事が無かったシノブは、ペース配分も自分の限界も
見誤ってしまった。
(あと何回いける!?失策も失策、こんな間抜けな…!)
調子に乗りやすい性格は自覚しているが、今回は過信が危機を招いた。シノブは自分に腹を立てつつ、白い熊の排除を諦め、
放置して逃げる事にする。
迷い無く熊に背を向けてドアに跳び、加速をつけて蹴り破り、廊下に転がり出て振り向き様に野太刀を振るえば、
「うぉっと!?」
すぐ後ろに迫っていた白い熊が、手にしたジルコンブレードでそれを弾いて防ぐ。
「ちっ!」
あわよくば、と思ったがやはりそう安い命ではなかった。舌打ちしたシノブは、鋭く廊下を見渡した。そして…。
「おや。まだうろうろしていたんですか?」
聞きなれた、男の子の声が耳に届く。
運が悪い。それ以外の表現が思い浮かばなかった。何せ、熊からも逃げると決めて転げ出た先で、もっと避けたかった相手
と出くわしたのだから。
ロキの護衛だろう、屈強なバーニーズマウンテンドッグとインパラが、それぞれ手槍と剣を構えて主の前に出る。
「おっと、こいつは一応わしの仕事じゃ。顔を立ててくれ」
苦笑した白い熊が大股に踏み込む。掬い上げるようにスイングされたブレードを、身を起こしたシノブが野太刀で受ける。
途端に、シノブの体は軽々と、宙に浮いて吹っ飛んだ。
(踏ん張りが利かない!…いや、それだけじゃない!)
白い熊の力が先ほどとは違う。リミッターを解除したらしいと察したシノブは、野太刀を握る手が肘の上まで衝撃で痺れて
いた。白い熊は体捌き、反応、足を置く位置の選択、避けるか受けるかの判断がとにかく巧み。先ほどは守りに専念していた
状態で、ペースを握りながらも仕留め切れなかった。それが、その巧みさを攻めに活用できるとしたならば…。
4メートルほども飛ばされて、ザシャシャッと床を滑りながら着地したシノブの眼前に、床を激しく振動させながら猛然と
白い熊が迫る。
(まずい!コイツ、今までネコ被ってたわね!)
剣圧、戦速、そして技術。白い熊がシノブに見せた本来の性能は…。
(下手なエージェントより上!)
咄嗟に、肩の上で空間を小さく歪ませて小刀を取り、引き抜きつつ投擲する。熊に一度見せた手である。が…。
「む!?」
白い熊の剣がそれを払ったその瞬間、小刀が接触した位置を基点に、ソフトボール大の空間歪曲が発生し、刀身の半ばを食
い千切って消す。この奇策には流石に白い熊も面食らった。
そしてシノブは投擲と同時に、力を振り絞って瞳を紫紺に染め、廊下の天井や壁、柱、床を無数の球体で同時に抉り、廊下
全体に崩落を促す。
(いよいよ…、限界…!)
頭が重い。平衡感覚が鈍る。副作用による負荷で不調をきたしながら、シノブは走る。「前へ」。
(逃げようとすれば後ろからやられる。なら…、どさくさに紛れてロキを!)
崩れ落ちる壁と天井。床が抜けて白い熊も他のエインフェリアも落下する。その真っ只中へ駆け込むシノブは、不可視の障
壁に護られて浮遊し、落下を免れているロキを目指す。
この状況でなら、上手くいけば刺し違える事ぐらいはできるかもしれない。しかし…、
「済まんがそこまでじゃ」
瓦礫を突き破り、粉塵を纏いながら、下から現れた白い熊の姿にシノブは目を剥いた。崩落に飲まれて階下へ落ちながら、
なおも自分を埋めるように崩落する床を、降り注ぐ瓦礫を、まともに浴びながら突き抜けて来ている。
反射的に振り下ろした野太刀は、白い熊がパンと叩いて合わせた両手の間で止まった。
太刀を白刃取りした白い熊は、そのままシノブを押し返し、まだ無事な床へ着地した。そして走る。崩れ行く床より速く、
崩落を背後へ置き去りにして。
「っく!」
踏ん張って抵抗しようと試みたシノブだが、体格にも体重にも膂力にも差がありすぎた。両者はそのまま廊下突き当たりの
壁へ激突して派手に崩す。正確には、制動をかけようとした白い熊がシノブ越しに出した足が、壁を蹴り壊したような格好で
ある。
「また騒々しいですね」
呆れたように呟き、浮遊しながら前進するロキが見つめる先…壁に大穴が空いた通路の端で、白刃取りした熊がシノブをグ
イグイと押し込んで跪かせている。
粉塵まみれで歯を食い縛るシノブは…、
「…その若さじゃけぇ、血気盛んに無茶するのも無理はなか。…が、若い身で死に急ぐもんじゃあなかとよ」
そっと囁かれた小さな声で、眉をピクリと動かした。
体重をかけてシノブを跪かせ、動きを封じながら、白い熊はなおも小声で囁く。
「こんな時はのぉ、臆病なぐらいで丁度ええんじゃ」
白い熊の口調と声音、そしてそれまでの飄々とした掴み所のない表情が変わっていた。それは、痛ましいものを見るような
目で、労わるような、そして哀しそうな眼差しでもあって…。
パキンッ…。
「あ!」
シノブの両目が見開かれる。白い熊が両腕を捻ったその瞬間、愛用の野太刀は澄んだ音を立てて捻り折られていた。そして、
折れた刀身を左手で素早く掴み取った白い熊は、
「東護の戦を生き延びたのは流石じゃ。その思念波が無駄に散るのは勿体無いのぉ!」
一転して声高に言い放ち、その左手を一閃した。
「ーっ!」
声にならない苦鳴。
シノブが仰け反る。
血飛沫が舞い散る。
ロキは見た。白い熊の向こうで血飛沫がバッと飛び、頭部から鮮血を噴き出させたシノブが、壁にあけられた大穴から外へ
落下してゆく様を。
「!?」
灰馬と相対しながら、フェンリルはビルを仰ぎ見た。
最上階の一角で壁が吹き飛び、空いた穴にシノブの姿が見える。白い熊に追い込まれているようだが…。
「シノブ!」
バシュウッと音を立てて、銀狼の体を覆っていた燐光が拡散する。粒子となって霧散し、崩壊する力場が、即座に熱風となっ
て四方へ散った。
力場による障壁の雑な解除。殺傷能力の無い、しかしそれゆえに即時使用可能な不意打ち。吹き付ける熱風に思わず顔を顰
めて目を庇ったスレイプニルは、
(決闘に拘泥せず、か)
無防備に背を晒し、戦闘放棄という恥辱を飲んで駆けるフェンリルの背を見つめ、軽く被りを振った。
(あの戦士にああまでさせながら、追うのも背を突くのも無粋という物だろう…。ドーマルが傍に居る以上、ロキのご無事は
約束されている。あの余裕の無さでは他の皆も不用意に手を出さないだろう)
銀狼を見送った灰馬は、開戦から数分間…フェンリルと同等の長時間にわたって持続させていたオーバードライブを、疲労
した様子も無く解除した。
走る。走る。走る。
見上げる空に聳える塔。
護るべき者は窮地にある。
夜闇に銀光を散らし、狼は真っ直ぐに駆ける。
刃が閃くのを見た。
まさかと瞠目した。
赤が夜風に散った。
呪う。我が身の非力を。
嘆く。我が身の無力を。
ビルへ接近した勢いそのままに跳躍し、空中に力場を形成。それを踏み台にしてフェンリルは空中を駆け上がってゆく。
落下してくるシノブ。銀狼は加速そのままにビルの壁面に到達し、そこを駆けながら両手を伸ばす。
あまりにも、軽く頼りない衝撃。
顔の全面が、血に染まっている。
反応無し。命と武を預けた誓いの相手に、反応は無し。
「オオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
堪らず慙愧の遠吠えを残し、銀狼は庇護対象を抱いたまま、闇の中へと跳び去った。
風穴から吹き込む夜風に目を細め、白い熊は眼下の街並みを眺める。
騒ぎに気付いた誰かが通報したのだろう。パトカーのサイレンが迫っていた。
「手強い女子じゃった。捕らえられるかと一度は思ったものの、結局余裕が無くて頭を割った。たぶんダメじゃなありゃ。済
まんなぁお頭」
振り向いた白い熊は、野太刀の折れた切っ先を放り出し、深い裂傷を負った掌をロキに広げて見せて肩を竦める。
「多少は残念ですが仕方ありません。確保できれば鍵を調達する手間が省けましたが、もとより計画には組み込んでいません
でしたからね、予定に変更はありません。それより、騒ぎが大きくなりますから、引き上げを急いで下さい」
執着を見せず、ロキはさっさと向きを変えてフワフワと奥へ戻ってゆく。その後ろに続く白い熊は…。
(…ま。嘘はついとらんけぇの…)
静かに、意味ありげな微苦笑を浮かべていた。
それから五日。
「調子はどうだ?」
隠れ家のベットマットに横たわるシノブへ、ペットボトル入りの飲料水を運んできたフェンリルが問う。
「問題なし…。熱も腫れもひいたわ」
シノブは身を起こしつつ左眼を相棒に向けた。頭部の半分を包帯で覆って右眼を隠しているが、そちらは負傷により失明し
ていた。
「…減った視界に早く慣れなきゃいけないわね」
頭を割った。…と白い熊は言った。確かに「頭部の一部を浅く割ってある」とも言えるので嘘ではない。それでも重傷であ
る事は間違いなく、出血も派手だったが、シノブはこうしてしっかり生きている。
あの時、見知らぬエインフェリアが自分に何をしたのか、シノブは理解していた。ドーマルというらしいあの熊は、自分を
見逃してくれたのだ、と。
ロキの眼前、下手な誤魔化しがきかないあの状況で、ドーマルはシノブの頭部へ確かに一撃を加えた。致命傷にならないよ
う、しかし深手を負わせた事は判るよう、頭頂部から断ち割るのではなく、顔面へ斬り付ける格好で。右の額から右頬へ縦一
文字に抜けた刀傷によりシノブの右眼は光を失ったが、命に別状は無い。そしてこの傷ならば、生きていることがロキに知ら
れたとしても「重傷を負いながらも運よく生き延びた」という体裁は繕われる。
(故意にそうしたって事がロキにバレたらマズいはずよね…。なのに、あのオジサンわざわざ…。そもそも、なんで生きてる
のよロキは…!?影武者だった…とか?いや、そんなはずは…)
傷の痛みに苦しみながらも、シノブはこの五日間考え続けた。
知らないエインフェリア。素性は判らないが、おそらく重要なポジションについていた者ではない。武功を立てた事もおそ
らく無い。そしてさほど古いエインフェリアではない。もしこの三つのどれかに該当していれば、例え直接の面識はなくとも、
エージェントであるシノブが名前も知らないはずがない。
(少なくとも私はあのオジサンを知らない。幹部付きの戦士でも、名前が知られてる兵でもない。新参って事?新型?それと
も、中枢幹部達が何人か囲ってる秘蔵戦力に分類されるメンバー?…それに、知らないのはあのオジサンだけじゃないわ…)
最初に一緒に居た金髪碧眼の優男にも心当たりが無い。後に遭遇した獣人達にも初めて見る顔が多かった。少なくともバベ
ル突入作戦前までロキの配下に居なかった顔ぶれが、エインフェリアも含めて随分増えている。
(私達が抜けた後に再編成された?)
素性や特徴は判らないが、エージェント二名と直属の戦士二人の穴埋めとして抜擢されたなら、いずれも油断ならないメン
バーだろうと想像できる。その中で、ドーマルはどんな立ち位置でどんな意図を持っているのか、シノブは想像を巡らせた。
忠実なロキの僕…かどうかは判らない。というよりも今の時点で忠実かどうかには疑問符がつく。あの白い熊は感情と自我
が希薄なタイプのエインフェリアとは明らかに違う。少なくとも機械的に命令を遂行し、盲目的に主に従うタイプの再生戦士
ではない。単に若いから見逃した、女子供だから助けた、という気持ち優先の行為である可能性も、ひとと同様の感情を有す
るあの手のエインフェリアならばありえる。故にああいった手合いはラグナロク内で「失敗作」とされる事が多いのだが…。
「フェンリル…」
「痛むか?」
名を呼ばれるなりずいっと傍に寄った銀狼に、「そうじゃないわ」とシノブは苦笑する。手負いだからなのか、ここ数日銀
狼は過保護気味に容態を気にする。それがくすぐったいし申し訳ない。
「東護のバベルが再び出現して、それがロキに狙われるとしたら、防戦はふたりじゃ無理…、よね?」
思念波が無駄に散るのは勿体無い。おそらくはあえて口にしたのだろうドーマルの言葉が、シノブにロキの目的を察知させ
た。バベルの出現には贄が必要となる。大量の思念波という贄が。そして、思念波がより強く発生するのは、その生物が絶命
する時などで…。
「不甲斐無いが。例えばスレイプニルと遭遇した場合、俺は他の何かに割く余力が全く無くなる。正直なところあの男の相手
だけで手一杯だ」
首肯したフェンリルに、シノブは重ねて問う。
「出現させられてからの防戦じゃ間に合わない。それなら、今の私達できる事は、動向を窺って備え、妨害して、対抗手段を
探す事…。合ってる?」
「不正解ではない。と言うよりも、選択肢は極端に少なく、その程度しかできないだろう。「最後の手段」を最初から計算に
入れるべきではない以上は」
シノブは小さく顎を引く。最悪の場合、出現したバベルに自分が入り、タケシがそうしたように「向こうへ飛ばす」という
手もある。ただし、失敗すればそのままバベルが誰かの手に渡ってしまうため、この手を選択するのは最後の最後…、負け戦
の後始末としてだろう。
その本当に最後の手段を除いて、実行可能かつ成功する可能性があるのは…。
「じゃあ連中の邪魔をしよう。バベルを出現させないのがベター、でしょ?」
「………」
無言のフェンリルに、シノブは言った。「早速だけど、対抗手段その一」と。
「正面切っての殴り合いで勝ち目は無くても、「暗殺」…っていう手ならどう?」
銀狼はなおもしばし黙った後、
「シノブ。確認したい事がある」
質問に答える前に、居住まいを正し改まった態度で訊ねた。
「ロキの暗殺。…死んだはずの彼が何故あのとおり無事なのか、その詳細は未だ不明で、暗殺が叶うかどうかも定かではない。
可能だったとしても、お前が命を落とす可能性は非常に高い。…いや、そもそも彼らと争うならば、死ぬ確率は極めて高いだ
ろう」
事実、先日はドーマルが見逃してくれなければシノブは死んでいた。これは、改めて道を選べという天が与えたもうた機会
なのかもしれないと、フェンリルは感じている。
ここから先へ進めばもう引き返せない。おそらく選択の自由すらほぼ失われ、踏み出したその道を終わりまで歩き切るか、
道半ばで斃れるか、そのどちらかの結末しか無いだろう。
そう直感したからこそ、フェンリルは尋ねずにはいられなかった。今度こそ死ぬかもしれないのだぞ?と。
「死ぬかもしれない。…確かにそうね」
シノブは静かに肯定した。しかし…。
「でも、私の生き死にと、果たすべき役割は、あまり関係ない事じゃない?」
銀狼は押し黙る。シノブは迷い無く言い切っていた。
「死ぬとか生きるとか、そんなの関係ないじゃない?やらなければならない事が、やるべき事が自分で判ってるんだから、命
と目的とか比較の対象にもならないわよ。だいたい、これまで何人も殺して、大勢を殺そうとする作戦に加わって、それから
も殺し続けようとしたのに、自分の命だけ可愛がろうだなんてムシが良すぎるわ」
ああ、そうか。
フェンリルは胸中で呟いた。
シノブは似ている。フェンリルのかつての主と。
姿は、誕生の経緯を知れば多少似ていて当然。性格は、はっきり言って全く違う。そして、その魂は…。
(本当によく似ている…。「己の気高さを気高いと自覚できない気高さ」が…)
思えば、いくら主の命令があるとはいえ、その主自身が属している黄昏に牙を剥く可能性を把握しながらも自分がシノブに
付き従ったのは、きっとこのせいだとフェンリルは感じた。
「…ならば、俺はお前が目的を達せられるよう全力を尽くそう。ロキの暗殺、バベルの出現阻止、いずれを狙うにせよ、必ず
やお前に成し遂げさせて見せよう」
「頼りにしてるわ」
目を細めるシノブ。
その微笑みには、守護者への絶対の信頼が宿っている。決して自分を見放さないと信じている…のではない。そもそもそん
な事を思いつきもしない、疑いの欠片も無い無条件な信頼をシノブは銀狼に抱いている。
継ぐ者達はロキを追う。
平和な人生など望むべくもなく、幸福な人生など望むべくもなく、「為すべき事」に全てを捧げる覚悟を決めて…。
同時刻、蒼森。
「できました!」
キーボードとマウス、タブレットを接続したノートパソコンの前で、金髪の優男がグリンと椅子を回転させ、両拳を突き上
げてガッツポーズを取る。
優男がついているのはオフィス用品メーカーのロゴ入りシールが貼られた真新しいシステムデスク。しかし真っ白だったデ
スクはその上をスパゲッティを思わせる配線の海に変えられており、机の本来の面が見えているのはコードや機材の隙間だけ。
「何ができたんじゃ?」
スルメを咥えながら訊いたのは白い中年熊。ランニングシャツにトランクスというラフ過ぎる格好で、手には飲みかけの缶
ビール。ソファーに腰を沈めているが、目の前のローテーブルには既に空になったビール缶が四つほど並び、スルメや鮭トバ
等の乾物類が広げられている。
コンクリートが打ちっぱなしの殺風景な部屋。二十日ほど前まである組織の本拠地となっていた地下施設は、いまや彼らの
仮の塒にされていた。
「ロゴですロゴ。部隊章」
「スレイ…。お前さん真面目に仕事しとるのかと思えば…」
得意満面の優男…スレイに対し、ドーマルは顰め面。
「心外ですねぇ。仕事はちゃんとしていますよ?シーデが」
スレイはモニターを指差す。そこではブラックバックに白い文字が高速で流れているのだが、左下の隅ではミラーボールの
ようなアイコンで表示されるAIがキラキラと光りながら回転している。スレイに命じられ、作戦区域内で自分達が捉えられ
た各監視カメラ映像の改竄の、急を要さなかった残り部分を処理しているAIは…、
「働き者じゃのぉお前さんは…」
ドーマルの声をマイクで拾い、アイコン表面にレトロな顔文字を表示した。
「照れてますね」
「妙に可愛いのぉお前さんは…。で、部隊章?ロキに頼まれたのか?」
「そういう事です!えっへん!」
胸を張るスレイ。しかし実際には…、
「部隊章とか欲しいですよね?よね?」
「あってもなくても別に困りません」
「では作ってもよろしいですね?」
「ご勝手にどうぞ」
…と、頼まれたというより、どうでもよくてあしらわれたのを逆手に取っただけである。
「とにかく御覧になってください。シンプルかつスタイリッシュ!実に良いデキです!さすがボク!」
「ふむ、どれどれ?」
のっそり立ち上がったドーマルは、座ったままのスレイの頭越しに画面を覗き、AIに仕事を丸投げした優男が処理容量を
多少圧迫しながらデザインソフトで作ったロゴを見つめる。
盾を思わせるシートの上に、稲妻をシンプルに意匠化して乗せたマークがそこにあった。そのままバッヂにできそうな立体
モデルで、盾は濃い青、折れた稲妻は黄金色。稲妻は盾のやや上寄りに配置されており、その下には「Mjollnir」と彫り込まれ
たようなデザインで記されている。
「…意外と…マトモじゃな…?」
てっきり空飛ぶスパゲッティモンスター的な奇奇怪怪奇妙奇天烈エンブレムになっているのではないかと想像していたドー
マルは、存外真面目に作られた部隊章をしげしげと眺める。
「いつまでも特定名称も部隊章も無しじゃ締まりませんからね。何せボクらは地上最強の部隊なわけで」
「こりゃ大きく出たもんじゃ。…ん?」
苦笑したドーマルは、プリントアウトされたエンブレムをズイっと押し付けられ、数度瞬きする。
「という訳でロキにお見せして下さい。ボクはシーデと残りの仕事を片付けておきますので」
「休憩中なんじゃが…」
「急いで片付けてトール殿がご就寝なさる前にご機嫌窺いに参りますので」
「邪魔にされると思うんじゃが…」
軽く眉をひそめたドーマルは、優男がその蒼い目をモニターに据え付けると、邪魔にならないようそれ以上何も言わず、そっ
と部屋を出た。
灰色の馬が立ち止まる。
古い、戦前の軍事倉庫のような、低くて幅も狭い通路。アーチを描く天井は背の高いスレイプニルの鬣に触れそうだった。
雑に間に合わせの改修を済ませた錆び付いたドアを前に、胸の高さに手を上げた灰馬は軽く拳を握ってノックする。
返事はないが、スレイプニルは室内から微かな身じろぎの気配を感じ取る。
少し待ってから二度目のノックをして、さらに五秒数えてから「入るぞ。安心しろ、スレイは居ない」と声をかけ、そこだ
け取り替えられたばかりの真新しいノブを握り、扉を引き開ける。
通路同様にコンクリートが剥き出しになっている殺風景な部屋。中心には大きなベッド、その脇には花瓶置きのような小さ
な丸テーブルと、背もたれの無い丸椅子一つ。
テーブルの上には食事が入ったトレイが置かれているが、手はつけられていない。室内には冷める前にシチューが残した香
りと、蝋が燃えた匂いが微かに漂っているが、それを知覚するのは濃く漂う薬品の匂いのせいで難しい。
「また口をつけていないのか?」
後ろ手に扉を閉めたスレイプニルは、呆れた様子で口を開いた。
部屋の主は、ベッドに相応しい巨躯の人影。部屋の壁に取り付けられた簡素な燭台の火が光りを投げかけ、その金色の体躯
を照らしている。
壁の一点をじっと見つめていた金色の熊は、スレイプニルにチラリと目を向けただけで口を開かない。
身に着けているのはスパッツタイプの肌着とタンクトップ。ただし体の大部分が包帯で覆われており、頭部から顔の右半面
も覆い隠されている。
「口に合わなかろうが、食わねば動けんぞ?」
肉付きよく肥った体格だが、この熊はあまり物を食べようとしない。いつものように苦言を呈した灰馬だったが…。
「肉は死骸臭い。野菜も穀物も土臭い」
いつもと同じ返答を聞き、スレイプニルは軽く被りを振る。偏食などというレベルではない。この熊は何かと理由をつけて
自然物の摂取を拒む。まるで他の命を糧にする事を拒むように。
ベッドの傍に寄って椅子を引き、腰を下ろしたスレイプニルは、持参した物をズイッと熊の顔の傍へ突き出した。
「差し入れだ」
金色の熊が視線を動かす。自分に向かって突き出された灰馬の手へ。スレイプニルが握っているのは、パックに封入された
ゼリー入りの飲料である。
「ストロベリー風味だが、そのままの物は一切入っていない。全て合成物だ」
「………」
金色の熊は受け取ろうとしなかったが、スレイプニルが腕を引っ込めないまま二分経ち、三分経ち、五分が経過すると、流
石に根負けしたようで、諦めた様子でパックを受け取り、封を切って一気に口内へ押し出し、音を立てて飲み下した。
ひとまずそれだけでも満足したらしいスレイプニルは、「調子はどうだ?」と問う。
「悪くない。いつでも出れる」
熊は空になったパックを握る手を顔の前にあげ、ゆっくり開き、そして握り、五指の具合を確認する。
「それは何よりだ。次の出撃からは私に同行させるとロキがおっしゃった。いよいよ初陣だな、トール」
熊は冷たく光る青い瞳を壁に向け直す。
「………」
その顔にも、瞳にも、何の感情も窺えなかった。
「こっちにロキはおるか?コマンダールームにも私室にもおらんが…」
ひょこっと顔を出したドーマルに、耐寒仕様の防護服を纏った若いビーグル犬が「はい。いらっしゃってますよ」と、霜で
真っ白になった箱を運びながら応じた。
「たぶん一番奥です。冷却保管したインセクト達を検分してらっしゃるはずなので」
「そうかそうか。じゃあちょいと邪魔するぞ」
「あ。おじさん防寒服は…」
「要らん要らん」
トランクスにランニングシャツという薄着でマイナス20度の部屋へ普通に入って来たドーマルは、突貫工事で備え付けら
れた配管類が這う壁を眺めながら、気密扉で隔てられたさらに奥を目指した。
凍りついた生物の体内を思わせる、無機物が有機的に絡み合うパイプだらけの部屋を抜けると、同じく配管がデタラメに這
う通路。
この一角は元々あった設備を改造して全体が冷却されており、一種の保管庫にもなっている。防寒装備のエインフェリア達
がせっせと荷運びに勤しんでいる中を、ドーマルは被毛の先に霜をつけながら、寒さなど感じていないように歩いてゆく。
通路の先でさらに二部屋抜けた所で、番をしていたゴツい灰色熊とスラリとしたインパラに敬礼された白い中年熊は、軽く
挨拶をして気密ドアを抜け、足を止めた。
冷却されたエリアの中心。壁際に各種コンソールや監視機器が並ぶ一際広い部屋。その中央には前面が大窓になっている金
属製の巨大な筒が、様々なコードに埋もれるようにして安置されている。レモン色の液体で満たされたその筒は光源が天辺と
底にあり、内部が視認し易い。
ドーマルは筒の前に立ち、中にあるソレをじっと見つめる。
時折小さな気泡が嫌にゆっくりと昇ってゆく筒の中には、白と黒の被毛に覆われた、肥満した男性の体が、無数の管に繋が
れて浮かんでいた。
ジャイアントパンダの獣人という事は全裸の肉体を見れば知れるが、人相は判らない。何せ肩から上が金属製の固定具やパ
イプ、そして様々なチューブやコードに覆われているので、首から上は僅かにも見えなかった。
黄昏のラボの一つ…グニパヘリル研究所に、二十年以上にもわたって保管され続けてきた保存カプセル。その中身は…。
「「ミーミルの遺体」、か…」
ポツリと呟くドーマル。
ロキが強力なレリックなどよりも優先し、運搬にも保管にも手がかかるこれをあえて持ち出した理由は、ドーマルも明確に
は知らない。
「その男」は、エインフェリア製造技術をはじめとする様々な秘匿技術を開発、改良、発展、あるいはひとの手で扱えるレ
ベルにスケールダウンさせて実用化した。世界中で運用されている現在の秘匿技術の三割近くは、彼が居なければ今も使用不
能だったと言われている。
その功罪を正確に論ずる事ができる者は、この世界にひとりも居ないだろう。
彼が手掛けた技術により、世界は滅びを免れた。
そして、彼が手掛けた技術により、ひとは今でも殺しあっている。
近代史における一個人として破格の影響を世界に与えた彼は、それ故に「白き災厄」同様、あらゆる公的記録が抹消され、
「存在しなかった存在」に落とし込まれた。
人類史上最高最悪の研究者、ミーミル・ヴェカティーニ。ロキ曰く、「カミサマになろうとした男」。
様々なブレイクスルーをもたらした研究の推進も、技術の発展も、理論の構築も、彼にとっては目標に至る為の手段であり
通過点であり副産物に過ぎなかったのだという。その目標というのが、雑な言い方をすればカミサマになるにも等しい事だっ
たのだとか…。
「交渉材料」としてこれ以上の物は存在しない。ロキはそう言っていた。
彼が手掛けた秘匿技術…特に調整したレリックや擬似レリックには、クリエイターであるミーミルを識別する機能と、彼へ
危害を加えることができなくなるコマンドが付加されている。ブラックボックスとなっている領域へ直接書き込まれたらしい
それは一種の強制命令で、該当するレリック等はミーミルに直接害を為す事ができない。
例えば、英雄ダウド・グラハルトの愛剣、ダインスレイヴなども…。
(死体を盾に、か…。ぞっとせんのぉ)
酷く情けない絵面だと考えながら、しかしドーマルは疑念を抱いている。
ロキはおそらく嘘をついていない。だが、真実全てを話してはいない。「ミーミルの遺体」の利用価値は、確かに説明され
たとおりの物もあるだろうが、おそらく…。
(それだけじゃあなか…。何か別の使い道も考えとるはずじゃがのぉ…)
「そんな格好でうろつかれると、見ている方が寒くなりますね」
ドーマルはゆっくり振り向く。部屋の先にあるドアがスライドし、組織を潰して抱き込んだ技術者を帯同させた男の子が姿
を見せた。姿だけ見ればモコモコ重装備の可愛い子供だが、正体は可愛らしいものではない。
「スレイが部隊章を作った。仕事に集中するから、代わりにお頭に見せて来いと頼まれてのぉ」
「そうですか」
あからさまに興味が無い平坦な声と無表情だったが、ロキはドーマルがプリントを見せると、「おや」と眉を上げた。
「「Mjollnir」…。なるほど、そう来ましたか」
プリントを受け取り、しげしげと見つめた後、ロキは小さく一度頷く。
「「ミョルニル」。それが今日から私達の部隊名です」
「ほう?」
スレイの案が通って意外そうな顔をしたドーマルだったが、やがて「やっこさんも喜ぶじゃろ」と破顔一笑した。
同時刻、首都。
「懸念材料?」
肌触りの良いシーツが乱れたベッドに横たわり、灰色の猫が形の良い眉を顰める。プロポーションのみならず毛並みも美し
い裸体は、熱を帯びて汗に濡れていた。
横に向けた視線に映るのは逞しい背中。黒い縞模様に彩られた広い背は、同じく全裸の白虎のそれ。
「東護にバベルが出たって聞きつけて、にわかにしゃしゃり出て来てる連中だが…」
「想定していた事でしょう?」
何を今更、と言いたげなネネに「ああ」と少し篭った声で応じるダウドは、タバコを咥えて先端にジッポライターを寄せて
いた。
戦後処理の段階どころか、東護での闘いの最中からダウドは考えていた。新たなバベルの所在が明らかになった以上、諸々
の問題は決着の後まで尾を引くだろうと。ユウヒにバベル自体を破壊して貰いでもしない限り、塔を求める輩が現地を探らな
い訳がない。
負傷の治療のために東護で入院中のアルのフォローに人員を割けないのは、より外側で起こる「こういった」騒ぎに対処す
るために頭数が必要だからというのもある。自分が残って動けないのは正直じれったかったのだが、状況は少々変わってきた。
「そういった連中が次々に潰れてる」
「ええ。足の引っ張りあいに、怨恨からの襲撃…、正直でき過ぎているタイミングの良さでね」
一服つけるダウドの背に、ネネはしなやかな指をツイッと滑らせた。
シノブとフェンリルの動向こそ掴んでいないものの、ダウドとネネは「非合法組織間のトラブルによる抗争」と目されてい
る一連の事件について「異物感」を覚えている。流石に、先の事件を期にラグナロクを抜けたエージェントふたりがバベルを
防衛する側に回ったなどと、事情も知らずに推測できるはずもなく、正体には迫れていないが、直接邪魔にならない限りは泳
がせておこうというのが当面のブルーティッシュの姿勢。しかし…。
「どうやら、その仮称X(エックス)とはまた別に動いてるのも居る。そっちはもっと強硬で、規模もデカい」
「例の、白神山地付近にあったインセクト生産工場の件?」
「ああ。たぶんだが、クローズドアを潰して冷凍設備やらレリックやらごっそり持ち出した抗争相手がその連中だろう。検分
の報告書を読んだが、距離50メートル以内まで接近しなけりゃ目視不能…。そんなレベルで隠匿された、光学的防御機能も
思念波遮断機能も完璧な工場だった。当然、人員の質も「排除機能」もバッチリだったろうが…、そこをあっさりと落として
静かに消える…、そんなのが二つも同時に、しかも無関係に、さらに狭い範囲で動いてるとは考え難い」
フゥ~…、と紫煙を細く吐き出して、ダウドは「怪談じみた話だぜ」と呟いた。尾の先でベッドの上を軽く叩きながら。
設備も防御も十全だったはずの工場からは、建物はほぼ無傷なままレリックと命だけが奪われていた。ひとであるか否かを
問わず。
少なくともインセクトは大部分が処分され、ひとは…工場の規模や備品、状況から察するに、一部が殺され、大部分は「居
なくなった」。そして、その工場を運営していた組織の本部もまた前夜の内に落とされていた。こちらも争った形跡があまり
にも少ない形で、やはり人員の多くが姿を消していて…。
「仮称Xとそっちのは確実に別件…、ゴチャゴチャ煩わしい事になりそうだぜ。どうにもキナ臭くて仕方ねぇ…」
フンと鼻を鳴らし、ダウドは二度口をつけただけのタバコを揉み消した。
確信している。
まだ終わっていない。
東護の件は、なにも終わっていない。
あれだけ多くのものを終わらせながら、事件自体はまだ…。