グリモア・スタンダード(後編)
目を閉じ、冷たいシャワーを顔から被る。
黄金を溶かし込んだような金色の被毛を伝い、曲面に沿って床まで滑り落ちる。汗や埃などをサッと落とし、ボディーソー
プを泡立てて手早く洗う。
(あまり時間はかけていられないけど…)
早朝六時。一度事務所に引き返したユウトは、時間を惜しんで身支度を済ませ、動き出した洗濯機の音を背中で聞きながら
衣類を替え、大股でリビングに戻った。そこでは…。
「その様子だと、見つからなかったのか」
ユウトがシャワーを浴びている間に帰ってきていたタケシは、チェックマークだらけになったマップを広げていた。
「帰ってたんだ?うんまぁ、手掛かりもないね…。そっちはまた随分確保したみたいだね?」
件の組織の構成員を捕らえたポイントが無数に書き込まれた地図を一瞥し、ユウトはキッチンに向かい、急いで食事の支度
をする。
献立はサンドイッチ。ハムとレタス、ピリリと辛いカラシマヨネーズで味を整えた物。絶妙な塩加減のタマゴサンド。キュ
ウリとツナのマヨネーズサンド。あっという間に用意してリビングのテーブルに置いたのは一人前のみ。放っておくと栄養剤
だけで食事を済ませてしまう相棒用である。
「すぐに出るのか?」
「うん。七時半にはイヌイ警部の家まで迎えに行く約束だからね」
自らは一部をサンドイッチの具にしたボンレスハムの残り殆どと、同じくサンドイッチの材料にしたパン一斤の残りを、両
手に持って交互に齧り付きモリモリ食べながら、地図を改めて確認したユウトは…、
「…へぇ~…。絞り込むとこんな具合?」
タケシがクルリとペンで楕円形に囲んで見せたいくつかの範囲を感心して見つめる。
「戻ってきたおかげで説明の手間が省けた。地図を見た方が把握し易いだろう」
地図の点…組織の構成員と各調停者が接触した位置を元にタケシが推理した、対象者の潜伏予想範囲。捕らえられていない
とはいえ、構成員達が少年の足取りを追っているのは確か。その動向から青年は優先的に探索すべき範囲を提示した。バジリ
スクの眼が獲物を炙り出す精度については、ダウド・グラハルトのお墨付きである。
「ありがと、これでだいぶ楽になるよ!」
地図を小さく畳んだタケシは、両手が塞がっているユウトのポケットに入れてやると、相棒の顔を見上げて注意を促す。
「組織は今回で壊滅する。少なくともこれまでのような活動が不可能になるだけの人員が昨夜の内に捕縛、あるいは始末され
た。だからこそお前はより警戒しておけ」
「そうだね…。そこまで追い込まれたら、逃げるか噛み付くかの二択だ」
逃げ出す者も居るだろうが、残りの構成員が意地になってグリモアを狙う可能性は高い。現実を見ずに、壊滅目前からでも
起死回生の一手になると考え、拘ってくる線は濃厚。
「用心する。何せ今回はボクだけじゃないからね」
「そういう事だ。要人警護は得意分野だろうが、負傷者を警護しつつ保護対象の捜索というのはそうそう無いシチュエーショ
ンだろう」
「あはは、やり甲斐はあるけどね!」
時計を見遣り、パンとハムを平らげ、牛乳を取り出しパック一本一気飲みしたユウトは、「じゃ、行って来る」と肩越しに
手を振りながら玄関へ。
その背中を見送って、皿からツナサンドを掴み上げたタケシは、一口齧りつつ窓の外を見遣る。
今日も、暑くなりそうだった。
昼も近い、太陽が高々と上がった時刻。その家は風を通すために裏口を開けていた。
玄関先から笑い混じりの声が聞こえ、ご近所同士の婦人が盛り上がっているのが判ると、ブロック塀を乗り越えた少年は、
靴音が鳴らないよう、裸足になってソロリと屋内に入る。
台所のテーブル上に、昼食にするのだろう茹でて水を切った後の素麺を見つけると、ゴクリと唾を飲み込んだヒサミチは鷲
掴みにして貪った。
そばつゆも使わず麺をそのまま口に詰め込み、家の住人が話しこんでいる間に急いで部屋を出る。
靴をつっかけ、民家のブロック塀の内側を、身を低くしてこそこそと移動する少年は、
「…!」
慌しい足音を耳にして硬直する。
見た目はその辺りに居そうな住人。しかし殺気立った気配を纏い、一塊になって走ってくる四人組は…。
(連中だ!)
脂汗を流し始めるヒサミチ。民家へ侵入した際に姿を見られたようで、四人組は少年が潜むブロック塀ごと民家の敷地を包
囲にかかる。
「どちら様…きゃあーっ!」
悲鳴が聞こえた。少年は耳を塞いで蹲った。もう終わりだ。もう逃げられない。絶望と恐怖に身震いし…。
「………?」
少年は顔を上げる。澄んだ高い声が聞こえた気がして。
「どうも~、お騒がせしました!それじゃあ!」
玄関先からそんな声が聞こえた。
一方、隣接する民家の裏庭に入った男は、ドスンと重々しい音を背後に聞く。ハッと振り向けば、そこには金色の被毛を纏
う大熊の姿。その両手には黄色と黒の警告色に彩られた拘束用アイテム…市販の虎ロープ。
「こんにちは」
目が笑っていない笑みを浮かべた金色の熊が、両手でジャッ…と揃えた虎ロープをしごいた。
四十七秒で四名を制圧、捕縛したユウトは、スンスン鼻を鳴らして異臭を嗅ぎ取ると、家の裏手へ回りこむ。そして、蹲っ
ている少年を見つけてニッコリ笑いかけた。
「大丈夫?もう逃げ回らなくていいよ」
何者なのか判らない金色の熊を見上げたまま、少年はカタカタ震えていたが…。
「こっちです!居ました、無事ですよー!」
金色の熊の呼ぶ声に応じ、家の表側から回りこんで姿を見せた中年を目にしたとたん、
「…警察の…おっちゃん…!?」
肩から力が抜けた。知っている顔、見覚えのある顔、それは、何度か会っていた「犬のおまわりさん」。
「…やっと見つけた…!」
ホッとした表情を見せるケンノスケ。ヒサミチは気が緩み、乾いていた目が急に潤んだ。
ワゴン車の後部座席で、ユウトが持ち込んでいたアイスクレープを貪りながら、少年は泣いていた。
安堵の涙を流すヒサミチを隣で見守りつつ、ケンノスケは「喉に詰まらせるなよ?」とミネラルウォーターを渡してやる。
ユウトの非常食はクーラーボックスに詰め込まれていたので冷えており、脱水症状一歩手前だったヒサミチはみるみる活力を
取り戻してゆく。
「うん、無事確保です。グリモアはこっちで回収しちゃって、あの子はイヌイ警部にお任せして良いんですね?」
車から少し離れた電信柱の影で、ユウトはカズキに報告の電話を入れている。
実は、タケシが提示したポイントを巡っていたユウトは、次はここではない別の場所を当たるつもりだった。しかし途中で
不意に心変わりし、急遽移動先を変えたところで連中を発見し、少年の保護に漕ぎ付けている。心変わりの理由はユウト本人
も判らず、内心不思議がっていた。
「勿論です。説明は上手くやりますから、任せて下さい!」
これで一応は決着だと、朗らかに笑ったユウトだったが…。
「!」
バタンとドアが閉まる音がした。ケンノスケが車から出てきた訳ではないと瞬時に理解できたのは、閉まる音が聞こえる寸
前に「誰だ!?」と問う刑事の声が聞こえたから。
通話状態のままの携帯をポケットに突っ込んで飛び出したユウトは、レンタルカーの運転席に見知らぬ男の姿を見る。そし
てその後方には、後部座席でケンノスケに拳銃をつきつけている男と、少年を羽交い絞めにしている男の姿。
「警部!」
ユウトが上げた声はエンジン音とタイヤのスリップ音に掻き消された。
音の出所は真後ろ。急加速してきた乗用車が、熊を轢き殺そうと肉薄していた。
「ふっ!」
息を吸い込んで溜めつつ、軽く跳躍する。殺意を満面に湛えていたドライバーは、その顔に困惑の表情を浮かべ、次いで青
褪めた。
衝撃。そしてフロントガラスに蜘蛛の巣状のヒビが広がって濁る。時速80キロ以上に達した車のフロントガラスに右足を
かける格好で、ユウトはボンネットへ飛び乗っていた。
「警部!」
ユウトを撥ねようとした車とは逆向きに走り出すワゴン車。金熊は焦りの表情を浮かべたが、直後に右腕を水平に寝せて顔
面をカバーする。
白く曇ったフロントガラスを突き破り、立て続けに八発の銃弾が飛来したが、金の被毛に達した物は一発も無かった。エナ
ジーコートで銃撃を防いだ金熊は、一転して鼻面に無数の小皺を寄せると、
「ああもう!邪魔!」
燐光を纏った右腕をボンネットにドゴンと突き刺した。そして、爪状にした力場でエンジンを破壊しながら鷲掴みにし、勢
いよく引っこ抜く。
心臓部を抜き取られた車が減速し始め、壁にぶつかって脇腹を擦り、嫌な音を立てながら止まった。
「そこで大人しくしてて!」
フロントガラスを突き破って、運転席へ熱いエンジンを突っ込んでやり、運転手に熱過ぎる特大お灸をすえてやるユウト。
シートとハンドルの間にスポンと入ったエンジンの重さと熱で、ギシギシジュウジュウ責められた男が悲鳴を上げて助けを乞
うが、ユウトは無視してポケットに手を入れ携帯を取った。
『ユウト!何が起こってる!?何の音だ!?』
「ごめんなさいカズキさん!警部とチョイ悪少年、拉致されちゃいました!」
手短に告げながらユウトは周囲を見回した。ワゴンを追うにも足が必要なのだが…。
(気が緩んで油断した!自分に腹が立つよ、もう!)
間の悪い事に日中の、平日の、半端な時間である。車を借りようにもパッと見た範囲に路上駐車している車両も無い。野次
馬に説明している時間的余裕も無いので、あとは警察に任せてひとが集まる前に離れたいのだが…。
「ああもう!車壊すんじゃなかった!とにかくボクも追います!」
カズキに現在地とワゴン車が走り去った方向を告げ、一度通話を切ったユウトは、
「?」
住宅街の道路、その角の一つに立つ影に目を止める。
先ほどまでそんな物は見えなかった。それが、唐突に、まるでそこから生えてきたかのように現れている。
ずんぐりと、太いシルエットだった。はっきりしないそのフォルムは、フードつきのローブを纏っているせい。距離もある
ので容姿はよく判らない。
(…誰?)
ユウトは眉根を寄せる。明らかに異常な現象、秘匿事項絡みの何かが起きている事は確かなのだが、その人物を見ても警戒
心が湧いてこない。それどころか…。
(…何だろう?この感じ…)
懐かしい。そう呼べる感情がほんのりと胸の底に宿った。
ずんぐりした影は、ゆらめく蜃気楼を纏いながらゆっくりと腕を上げ、ある路地を示すと、腕を下ろすなり滑るようにそち
らへ移動してゆく。
「あ!待って!」
思わず呼びかけながら駆け出したユウトは、その影が入った路地に足を踏み入れ、急停止する。
そこには誰も居ない。だが、そこには求めたモノがあった。
流線型のカウル。強靭なエンジン。地を掴むタイヤ。オンロードバイク…立派なスーパースポーツがそこにあった。キーが
ついたままで。
ユウトは知る由も無いが、それは昨夜窃盗団により盗難にあったバイクだった。ここまで乗って移動してきた窃盗団が、搬
出のために運搬車に収納しようとした際に、パトカーが偶然別件で傍を通り、サイレンに驚いて放棄して逃げたため、そのま
まにされていた。
「お借りします!…盗むんじゃないからね?」
渡りに舟だと喜んで跨ったユウトは、最後にもう一度周囲を見回す。
あの人影はどこにも見えないが、まるで自分を促したようにも思えて…。
(とりあえず後!今は警部とあの子を追いかけなくちゃ!)
鋼鉄の嘶きが路地に響く。エンジン音を轟かせ、バイクは猛スピードで走り出した。
「タケシ!?港湾方面にすぐ行ける場所に居る!?」
法定速度完全無視、交通マナーもへったくれもなくかっ飛ばし、ワゴンが去った方向へ移動するユウトは、携帯で相棒に呼
びかけた。
『場所次第だが、2ブロック向こうに港湾事務所がある位置だ。そう時間はかからない』
「ラッキー!近くの調停者と情報共有して!ワゴンが乗っ取られて警部達が…」
事情を告げられたタケシは「了解した」と応じると、ユウトの状況を問う。
「拝借したバイクで工業港主要道に急行中!あと五分とちょっと!」
『把握した。民間所有物借用届けと事後報告書と釈明書の提出を忘れるな』
「判ってるってば!もう!」
通話を終えたユウトは車の隙間を縫うようにバイクを駆り、クラクションを鳴らされながら疾走し…。
『そこのバイク止まって。路肩寄せて…。ほらそこのノーヘル!止まりなさい!』
サイレンを鳴らして追いかけてきたパトカーから、殺気立った警告を貰った。
「事情を説明してる時間も惜しいのにー!」
「逃走中のワゴン?」
回ってきた連絡を携帯で確認し、トカゲの獣人が麦藁帽子を上げる。釣竿袋を担ぎ、クーラーボックスを肩から吊るし、海
水浴帰りを装っているが、彼も調停者である。
「ここから徒歩じゃ応援難しいな…。あ、そうだ。封鎖するルートによっちゃ時間稼ぎになるんじゃないか?狙撃班の移動も
間に合うかもな…」
主要道を何箇所か封鎖して、移動経路をコントロールできないのか?と、トカゲはカズキが詰める本部へ打診し…。
「了解しました。捉えられる位置へつきます」
通信機に応じた若い男は、ボルトアクションライフルを片手に立ち上がると、傍らの女性に声をかける。
「セノオ、ここをしばらく頼むよ」
片手を上げて応じた女性を窓辺に残し、男はライフルをギターケースに入れて観光ホテルの廊下に出た。
(運び出しは海路。グローバルな組織からの離反者が考える当然の逃走ルートだ)
狙撃手は人知れず気の毒そうな顔をする。
(タネジマ監査官は既に要請済みだ。今頃、海保の特別班が沖合いを巡回中だろう…)
陸上でどれだけ上手く逃げ回っても、東護の沖へは出られない。選ぶ事ができないとはいえ、組織の連中も今回は相手が悪
かったな…、と。
水道管破裂…という事にされた交通規制が敷かれ、湾岸区域で数本の道路が封鎖された。
ワゴンは乱暴な運転で工業用道路に出ると、そのまま倉庫が並ぶ埠頭を目指す。
後ろ手に縛られた少年はカタカタ震えており、ケンノスケは同じく拘束された上で銃を突きつけられている。
(刺激しないのが鉄則…とはいえ、真っ当な連中じゃないな、本当に…)
職業柄、ケンノスケは感覚で判る。
説得の効果が期待できない相手は存在する。錯乱していて声が届かない者や、追い詰められて耳を傾けるだけの余裕が無い
者。そして、説得そのものが意味をなさない者…。
この連中は三番目。そもそも法の下に生きる事を望まない存在。
(今は逃走中の車内だから生かしているが、車外に出せる状態になり次第私達を始末する事は充分にありえる…)
ケンノスケは考える事を止めていない。この状況下でも落ち着いており、何か手はないかと思考を巡らせている。
理解しているのである。自暴自棄になったら全てが終わる、自分もこの子も助からない、と…。
泣き出しそうな顔で震えているヒサミチと目が合う。
(大丈夫だ)
小さく頷きかけて少年を励まし、ケンノスケは目で距離を測った。
男達は三人組。ひとりは運転席に、ひとりは後部座席でケンノスケに銃をつきつけ、最後のひとりは最後部の席で少年を見
張りつつ、仲間と思われる相手と携帯でやりとりしている。
ヒサミチまでは腕を伸ばせば届く距離。問う時間も余裕も無かったので、まだ少年が「ブツ」を持ったまま。
(迂闊に動くのは危険だが、連中にも余裕が無い事は、状況からも明白だ…)
付け入る隙はある。少年の命を最優先に、ケンノスケは冷静にチャンスを待った。一方、ヒサミチは…。
(また…、居る…!)
視線を前の座席の背もたれに固定したまま、視界の隅で、五感の端で、捉えていた。
「叶うとも。君の望みは」
疾走する車の横…窓の向こうに、あの場違いな格好の男が「立って」いる。耳に届くはずもない車外からの声が聞こえてい
る。その口元に軽薄な笑みを浮かべている事だけは、はっきり判る。しかし…。
「………」
男が振り向いた。それを感じてヒサミチは顔を上げる。
(何だ?何かを見てる…?)
軽薄な笑みが消え、無表情になった男の顔…。それを見てふと少年は感じた。
コイツは無表情こそが本当の貌なのではないか?と。それほどまでに、表情の無い横顔は「しっくり」きていた。
そして、その男が見ている方向には…。
「間に合ったぁあああああああああああっ!」
跨ったバイクが小さく見えるほどボリュームがある、金色の巨体。
「あのバイク…!」
バックミラーを見て気付いた運転手は、しかしその視線をすぐさま前へ戻した。
「ナイスタイミング!」
思わず口元を綻ばせるユウト。
ワゴンが逃走してゆく先から見知った顔が接近してくる。マシンに跨る黒髪の美青年が。
「確保対象、確認」
無理のないホイルサイクルとペダルのストローク。フロントについた大きな籠が実用性を視覚に訴える。何処に行っても見
かける永遠のベストセラー。タケシが確保した足は…いわゆるママチャリであった。
「な…、な…?な…!?なんだアイツっ!?」
声を上げる運転手。しかし無理もない。車線真っ向から抜き身の日本刀を片手にぶら下げた男がママチャリを漕いで向かっ
てくるのだから。
チリンチリン…。
クラクション代わりに鈴を鳴らす青年。一応降伏勧告である。
「警告はした。これより実力行使による制圧に移行する」
青年は冷静だが、距離がある上に走行中でドライバーに鈴の音が聞こえていない事を考えれば、発言内容そのものは非常に
気が短い。
「一般人じゃないな!?ないだろ!?あんなのが一般人でたまるか!」
何だか判らないがとにかく調停者らしいと判断したドライバーは、ワゴンで轢き殺す事にする。対するタケシは速度を緩め
ず接近。ユウトが追いつくよりも、ワゴンと自転車の接触の方が早い。
相対距離が一気に詰まり、ドライバーとタケシは互いの顔をはっきり視認する。
キコキコキコキコキコキコ…。………カッ…。
「ぎゃあっ!」
ドライバーが悲鳴を上げる。その両腕にパックリと裂傷が生じ、鮮血がブシュッと吹き上がった。
前代未聞、轢かれる寸前でギリギリ運転席側に回避したママチャリからの、すれ違いざまの攻撃。その切っ先は窓にひびも
入れずに貫通し、ドライバーの両前腕は浅く斬られていた。腰も入れていない、窓に突き入れてから手首の返しで揺らしたよ
うな、しかし目にも止まらない素早い太刀筋だった。
痛みに呻いた運転手は、しかし何とかハンドルを維持する。運転しながらの逃走は不可能だが、事故を起こさない程度のコ
ントロールはできる、そんな絶妙な負傷度合いだった。
「タケシ!」
声を上げた金熊が片腕を伸ばし、自転車を急停止させた青年に接触する。一瞬後、青年の姿はバイクと共に消え、きちんと
スタンドを立てて停められたママチャリだけが残された。
タケシをひったくるように捕まえたユウトは、一瞬ぐらついた車体を難なく立て直す。青年は熊の太い腕を鉄棒のように使
い、軽業師のような動きで相棒の後ろへ。
「狙撃手が移動したとカズキさんから通信が入った。停車させられれば片付く」
「了解!じゃ、しっかり捕まっててよ!」
荷台に跨りユウトの腰後ろでベルトを掴んだ青年は、瞳を紫紺に染めてワゴン車内を凝視した。もしもワゴン内の輩に妙な
動きが見られれば、即座にその能力をもって「抉り飛ばす」つもりである。
「逃げ切れん!車を停めるぞ!」
ワゴン内でドライバーが怒鳴る。
「バカを言うな!バイクが迫って…」
「ハンドルも切れない!横転するのがオチだ!」
運転を替わっている余裕も無いと判断したドライバーは、腕の痛みを堪えながら減速させた車を端に寄せる。その時、ケン
ノスケは視線を追っ手と行く先に向けて確認する男達の、隙が完全に一致する瞬間を捉えていた。
「あ?」
最後尾の男が間の抜けた声を上げる。二列目の男が目を戻すと、突きつけていた銃の先に刑事の姿は無い。
「ぐえ!」
悲鳴が上がったのは最後尾。男は顔面を押さえて仰け反り、後部ガラスに頭を打ち付けていた。
ケンノスケが使ったのは珍しくもない普通の機能…シートを倒すレバー。これを引いてシートを倒しつつ後部へ転げつつ、
抜いたベルトを武器にしていた。
スイングするのではない、振り回すのではない、マジシャンがスナップを利かせて胸元からカードを投げるように、コンパ
クトな動きで素早く繰り出されたベルトは、男の眉間に金属のバックルを当てている。さらに…。
「手を!」
ケンノスケは状況が理解できないまま驚いているヒサミチの腕を掴むと、そのままワゴンのリアハッチレバーを握る。
バグンッとハッチが上がる。
「無茶すんでねがすと!?」(意訳・無茶してはいけませんよ)
目を剥いて声を上げたのはワゴンに迫っていたユウト。
そこから、刑事は跳んだ。少年を抱えて。
減速しているとはいえ大怪我は免れない速度。金熊はハンドルから手を離すと、
「タケシお願い!」
「了解した」
相棒に後を託してバイクから横へ身を投げ出す。
背を丸めて少年を抱える刑事を、見事にキャッチして丸ごと抱えたユウトは、力場を展開して衝撃に備え、アスファルトに
激突した。
驚いたのはケンノスケ。大怪我覚悟のダイブだったのだが、感じたのはアスファルトの硬さではなく、柔らかで重量感のあ
る被毛と肉の感触。一塊になった三名は激しく回転し、やがて止まり…。
「クマシロ君!何て無茶を!怪我は!?何処が痛い!?」
身を起こすなり声を上げたケンノスケは、目を回してフラフラしているヒサミチを片腕で抱えて支えつつ、身を起こしたユ
ウトをマジマジと見つめる。
「どっちが無茶だい!?あいな真似したらわがんねべ!」(意訳・どちらが無茶ですか?あんな真似をしてはいけませんよ)
流石にキレており、御郷訛り全開で吼えるユウト。
そんな中、揺れていた視界がゆっくりと戻りつつあったヒサミチは…。
(…え?)
少年は瞬きする。傍らにタキシードの男が立っていた。自分の方を向いてはいない。その顔は、金色の熊の方に向けられて
いた。
否。すぐにそう気付いた。タキシードの男が見ているのは金色の熊ではなく、いつの間にかそこに出現していた、フードを
目深に被った、ズングリした太い影…。
まるで「魔法使い」のような格好だとヒサミチは感じた。フードに、ゆったりしたローブ。その格好はまさに、童話やゲー
ムでお馴染みの魔法使いの姿に思えて…。
突然、魔法使いが腕を伸ばした。タキシードの男の首がガッと掴まれた。そのまま腕一本で、魔法使いはタキシードの男を
吊るし上げる。
「見逃すはずもないと思っていたがね。まさかこうして「残していた」とは…」
男が口を開く。首を掴まれ吊るし上げられているのに苦しそうにも見えず、喋り難そうではない。それどころか…。
「嬉しいよ…。君が僕にここまで拘ってくれる…。僕を優先してくれる…。僕を求めてくれる…!」
タキシードの男の顔には、恍惚とした表情さえ浮かんでいた。
「ああ、何と嬉しい事だろうか?しかし残念なのは残留思念、擬似人格に過ぎないこの身の上だ…。この悦びは「本体へ伝わ
らない」…」
男の手が魔法使いのフードに伸びる。
「僕らの本体はいま何処でどうしているのだろうか?愛し合っているだろうか?そして殺し合っているだろうか?いずれにせ
よどちらにせよなんにせよ、どちらかが消えない限りこのダンスは終わらない」
そして、そのフードを後ろへ落とし…。
「愛しい愛しい我が「アグリッパ」…!僕だけを見て、僕だけを憎んで、僕だけを愛して、僕だけを追っておくれ…!」
ヒサミチは目を見張る。そこにあったのは、いでたちから想像したような魔法使いらしい老人の顔ではなかった。フワフワ
の頬毛や立った耳などが特徴的な、マズルが前にせり出した顔で…。
(犬…?)
それは、この国に生息する犬系獣人の顔に、ヒサミチには見えた。
「…私は、貴方を逃がしません…」
犬面の魔法使いが呟く。
「どれだけかかっても…」
その表情は、何処までも悲しげで、
「必ず殺します」
何処までも、頑なだった。
犬の手が握り込まれた。男の喉仏を握り潰すように。
タキシードの男の全身は、握り潰された首と同様にブチャリと絞られて細くなり、一本の線のようになって消えた。
ブツンッと、古いテレビが電源を落とされたような音がヒサミチの耳に届いた。同時に、ポケットの中の石が温度を失った。
犬面の魔法使いは腕を下ろすと、犬の刑事と怪我を確かめあいながら怒っている金色の熊に目を向ける。
そして僅かに目を細め、すぅっと薄くなって透けてゆき、やがて影も形もなく消え去った。
その表情を、懐かしんでいるようだろ感じたヒサミチは…。
「………」
トサリと、その場で横倒しになった。
『あ!』
慌てて少年に目を向ける犬と熊。
グリモアからの思念寄生と行動抑制を解除された少年は、疲れ果てて、気を失うように眠りについていた。
立て続けに二つ、拳銃が弾け飛んだ。弾ではなく本体が。
痺れた手を抱えて背を丸めながら、男達は目を見開く。
「クリア」
港湾事務所の屋上でボルトアクションライフルを構え、スコープ越しに男達を見据える若いスナイパーが呟いた。
相手が悪いと言わざるを得ない。同業者の見立てでは全国屈指、間違いなく東北に籍を置く調停者内では最高の狙撃手に、
白昼の街中で狙いを定められては拳銃で武装しただけの男達に何ができるでもない。
何処から狙撃されたかも判らない男達だったが、スナイパーの位置を探るどころではなかった。
バイクに跨る青年が、抜き身の刀をぶら下げて、キッ…と目前で停車する。
「機会ができたのだから、もう一度言うべきか」
今回は珍しく無傷で返却できる事になったバイクを降りて、タケシは男達を見回す。右手に刀、左手に鞘をぶら下げて。
「武装を解除し、投降しろ。指示に従わない場合は戦闘継続の意思があるものと見なす」
同時刻。太平洋上。
「………」
潮風が吹き付ける船首に背を向け、波跡を眺めていたずんぐりした人影は、ふと顔を上げ、視線を巡らせた。巨大な豪華客
船の上から、西へと。
何も無い海原。変化に乏しい景色。しかし何かをじっと見つめるように、男はその方向に視線を据えている。
体をすっぽりと覆うローブに、目深に被ったフード。まるで童話の中の魔法使いのような格好だが、今はそのボディライン
が窺える。潮風に押し付けられたローブの布地越しに判るのは、厚くはあるが垂れ気味の胸や、豊満な胴回りが目立つ、骨太
だが肥満体のフォルムだった。
「クジラでも居ましたか?ミスター・アグリッパ」
流暢な英語で話しかけられ、男は首を巡らせた。途端にフードが風で舞い上げられ、その顔が露になる。
それは、秋田犬と称される日系の犬獣人の顔。中年と見られる年頃だが、丸顔のせいで顔立ちそのものは実年齢よりも若く
見える。
「それとも、「よろしくない何か」でしょうか」
話しかけながら歩み寄ったのは、アジア系に見える若い男。ワイシャツにスラックスという姿で、微笑が浮いている顔は人
懐っこくも見えるが、実際には見た目通りではないと犬獣人…アグリッパはよく知っている。
しなやかな足取りは一見優雅でありながら、猫科の肉食獣のソレ。スマートな体躯は細く引き締まった凶器。左手の手首を
右手で軽く握っているが、その掴まれている左腕は義手であり、暗器でもある。人当たりの良さそうなこの男の正体は、腕利
きの暗殺者だった。
「見える範囲には、特に何も。遠くで一つ片付いただけです」
深みのある落ち着いた声でアグリッパは語る。高くはないのに不思議と波音に溶け消えない声音で。
「何が片付いたのか、お伺いしても?」
アグリッパは体格がよく背がやや高めなので、中背の男は近付くと見上げる格好になる。自然とその表情が僅かに緩むのは、
大柄な犬獣人を傍から見上げるというその動作に、幾許かの懐かしさを覚えるせい。
「リスキー君。貴方もよく知っている、そして今も私が追っている、「彼」の残滓です」
アジア系の男はあるかなしかの微笑を消した。表情の変化はそれだけだったが、双眸は不快な感情を隠そうともしていない。
確かに、その件についてはアジア系の男も知っている。アグリッパはもう何年も彼を追い続けている。そしてもう二度も殺
している。なのに彼はまだ生きている…。
(まったく、ゴキブリのようにしぶとい輩だ)
アジア系の男は胸中でため息をついた。
アグリッパは今も、宿敵たる兄弟子を「完全に殺す」ため、世界中を巡って行方を追っている。その足として協力している
のが、このアジア系の男が所属する非合法組織。代々のアグリッパは昔から、海運に強いこの古い組織と協力関係にあり、術
士として力を貸す見返りに上客として扱われていた。
この客船も組織が所有する物であり、アジア系の男は特殊な階位にある上級構成員で、アグリッパの世話役兼ボディガード
として組織の幹部から指名され、この航海に同行している。
「私はそろそろ部屋に戻ります。じきに、風が荒れるでしょうから」
アグリッパはフードを被り直し、自分以外に乗客が居ない客船のデッキを歩いてゆく。
その背に続いて歩き出し、アジア系の男は軽く肩を竦めた。
(次で、三度目の正直になれば良いんだが…。聞いていた以上に厄介なものだ、術士「ファントム」という男は…)
こうして、事件は一応の決着を見た。
とはいえ、エルダーバスティオンの離反組については、捕虜から拠点の情報を得た上で討伐作戦の計画が練られ始める。調
停者達の仕事はここからが本番だが…。
「アレはね、麻薬の原料になる化学物質の塊だったんだよ」
県警の取調室でケンノスケと隣り合って座ったユウトは、テーブルを挟んで向き合う、脅えているヒサミチにそう告げた。
疲労が見られる表情も、怖がっている眼差しも無理はない。恐ろしい目にあった上に、身柄を保護されてからは何の説明も
なしに、慌しく正体不明の検査をいくつも、とっぷり日が暮れるまで受けさせられたのだから。
「加工前の段階だけど、それでも皮膚から成分が浸透すれば幻覚症状が出る。一応、検査の結果では重篤な中毒症状は無かっ
たけれど、明日以降も異常があったらイヌイ警部に言って、診察を受けてね」
ユウトの説明を聞きながら、隣のケンノスケはなるほどと胸中で頷いている。ケンノスケ自身もアレの正体は知らないのだ
が、「表向き」には「麻薬のバイヤーとその組織に関係するいざこざが表面化して起きた事件」として処理されるらしい。
一応、ヒサミチは状況を聞き取りされた末に「シロ」と判断された。結局、何も判らないまま巻き込まれ、振り回されてい
ただけだったのだと。ブツに触れたせいで体験したおかしな事象については、ユウトが説明した内容で説明をつける形。少な
くとも少年の身の回りの事は、それで一応丸く収まる。
ユウトの目配せを受けたケンノスケは、そちら側の話は終わったのだと察して口を開いた。
「とりあえず、今日は家に帰っていい。明日以降も参考に話を聞かせて貰う事はあるだろうが…」
言葉を切り、ケンノスケは少年を見つめる。
「…どうした?」
「…え?」
犬のおまわりさんを見つめていたヒサミチは、目をしばたかせ、顔を背ける。
「…なんでも…」
「?」
自分を見る少年の視線に、目の色に、少し変化があったように感じたケンノスケだったが、はっきりと実感できない事だっ
たので、質問を重ねるような事はあえてしなかった。
目を逸らしたまま、ヒサミチは思う。自分を救ってくれたケンノスケの雄姿を思い出しながら、
(オマワリって…、すげぇ…)
自分の願いは、望みは、夢は…、いま、やっとできたのかもしれない、と…。
そして、事件から数日が経った昼過ぎ…。
「それは「安全装置」だろう」
タケシから話を聞いた情報屋は、少年が見たと証言した「魔法使い」について、そう語った。
「安全装置?アグリッパが何か仕込んでいたという事か?」
その通りだと、フードを被った頭を上下させるユミル。
「件の術士はあのグリモアに、手にした者に対して「手放してはいけない」という無意識下の制御が働く類の術式を仕込んで
いた。おそらくは思念波を介して判断力や五感に作用する物…、その坊主が見た「場違いな正装の男」の姿というのは、その
術式による物だろうな。そして、アグリッパが仕込んだ物もまた、坊主には「魔法使い」の姿として認識された」
「それらはどちらも、術士本人の姿…という事なのか?」
「外見的特徴は一致する。まず間違いないだろう。…アグリッパはあの時、全てのグリモアを回収する事はできなかった。当
然心残りだっただろうが、無策のまま去ったわけではなかったという事だ。おそらく、残ったグリモアが何らかの形で移動さ
せられたり、あるいは起動させられた場合、カウンターとして作用するように術式を刻んで行ったのだろうな。何処に、どう
やって、どのような術式を…という事については、いくつか推論は立てられるものの、確証が得られない以上安易に絞り込め
ないが…、残留思念波にグリモアへ介入する術式を持たせた線が濃い。とにかく…」
どうやら興味深かったようで、ユミルは口数が多い。とりあえず追加でエルダーバスティオン離反組の情報が欲しかったタ
ケシは、長話が終わるのを待つ。
「特に気になったのはアグリッパが仕込んだ術式その物だ。回収されたグリモアが完全に初期化されていたという点が特に面
白い。スタンダードからは外れた粗悪な品…術式の媒体にするだけの使い捨てだったのだろうが、そんな規格外品についても
綺麗にフォーマットできるとはな。アグリッパはグリモアのクラフターとしても随一の腕を持つと言うが、あの一門の標準規
格はどうなっているのか…。とにかく、警視庁の解析班がこれほど興味深い情報をもたらしてくれる事は珍しい」
調停者であるタケシを相手に、違法接続して盗み見た解析データについて悪びれもせず語るユミルだが、これは青年がその
程度の事で自分と敵対する事はないという確信に基いての事である。
「残留思念波に何かをさせるという点で、俺にとっては既に理解の外の話だ」
そろそろ依頼の件を切り出したいタケシが口を挟むと、
「それほど不思議な事でもないだろう?何せ…」
反射的に例を挙げようとしたユミルは、押し黙って少し考えた。
「…いや、ここからは有料だな。価値が高い情報だ。今回の件からはやや脱線するが…」
「必要ない」
当然のように情報購入を拒否するタケシ。
「そうか」
あっさり引っ込めるユミル。「思念波を介した人格と記憶の転送により肉体を乗り換えて存在し続けている術士も居る」と
いう情報は高値にせざるを得ないので、この青年は本当に必要にでもならない限り買わないだろうと、即座に判断した。
同時刻、東護町のショッピングモール。お洒落なカフェテリアの一角で、自分には縁の無い店だなぁとつくづく思いつつ、
ケンノスケは匙でアイスを掬う。
テーブルを挟んだ反対側では、ふたり掛けの座席を埋めている金色の熊が幸せ顔で冗談のような高さとボリュームのフルー
ツパフェをパクついていた。
仕事上でのお礼はできないので、せめて私的なお礼をとケンノスケが持ちかけた際に、二度辞退した後でユウトがおずおず
と指定したのが、この店のパフェを奢る事。
(こんな安い物で…、いや、パフェとしては高いが、高いがしかし…)
礼として不十分だと感じているケンノスケに、ユウトは目を細めて笑いかけた。
「労働の正当な対価は、ちゃんと貰ってるんですよ?」
「うん。それでも、ね」
ケンノスケは口ごもる。大っぴらにはできない事件の裏、ひとに知られない功労者を前に。
「感謝しているんだ。色々と」
ケンノスケは周囲を覗い、誰も聞いていないと確認したうえで、声を潜めて囁いた。
「…あの子、本当はかなり危ない立場になっていたんだろう?君とタネジマ君が手を回してくれなければ、案外今頃…」
疑わしき物を苦労して救うより、後腐れなく処分してしまった方が安全だし確実である。ヒサミチはきっと、そんな「消え
て貰った方が苦労なく安全が確保できる」類の立場におかれていた。それを察してケンノスケは頭を下げる。
「感謝、しているよ。君が皆から大手を振って称賛を浴びられないのが残念だ…」
真面目に、真っ直ぐに、自分自身も全く得にならない事で骨を折った警官に礼を言われ、ユウトはポッと赤面する。
「や、やだなぁ!そんな改まって言われたら照れちゃいますって!仕事ですからボクの場合は!それよりも、イヌイ警部の方
があの子にとってはヒーローに見えたと思いますよ?警部こそ、ちゃんと褒められなきゃ!ボク達の方は知られない事こそ大
事なんですから!それこそ影みたいに」
照れるユウトはふと思い出す。
(あの「影」…)
逃走するワゴンを追う際に見た、あのずんぐりした太い人影は何だったのだろうか?と。
(術式が刻まれた時に残った、残留思念波の類…。監察側はそう考えたみたいだけど…)
その説明自体には納得できる。が、それだけでは説明がつかない事もある。
先の事件、妙に勘が働く事が多かった。直感に従った結果として事件の解決が早まった。まるで導かれるようにグリモアに
辿り着けた。
何より不思議なのは…、
(…なんで、懐かしかったんだろう…)
ユウト自身が抱いた、奇妙な感覚その物だった。
「タネジマさん、会いたいって子が…」
「うん?」
夕刻。現場検証の立会いに備えて早めの食事を摂っていたカズキは、カップ麺の汁をズズーッと啜って席を立つ。
「会いたい?誰だ?」
後輩に促されて出てきたカズキは、交番前に立つ少年を見て目を丸くした。
(まさか、後遺症が?)
不調があったら相談するよう言っておいたカズキは、ヒサミチの顔色を確認する。
熱っぽいのか、紅潮しているように見える。耳も赤く、呼吸はややせわしなく…。
(ん?)
眉根を寄せるカズキ。それは、不調というよりはむしろ、緊張と興奮にも見えて…。
「あ、あの…!」
ヒサミチはかすれた声を発した。ケンノスケには黙っていて欲しいと前置きし、そばかすだらけの顔を真っ赤にしてカズキ
に告げたのは…。
「お、オマワリ…さん、に、なるには…!どうやったらいい?…んですか…!」
二秒ほど黙ったカズキは、思わず口の端を緩めて微笑んでいた。
「わ、笑うなよ!マジで言ってんだからよ!」
少年が上げた、怒ったような声が夕暮れの交番に響いた。夏の終わりを惜しんで鳴き競う、蝉達の声にも負けない大きさで。