Evolution of White disaster (act9)

アニメのオープニングが流れ始めると同時に、ノゾムはそっとベッドを下りた。

呼び出しを受けたと思われるアルが出て行ってからというもの、太った狐は一人っきりの病室で思い悩んだ。

確かに、階位も違うし実力も違う。それでも同い年のアルがあの規格外の怪物に挑もうとしているのに、自分はベッドに横

たわり、ぬくぬくと暖まったままテレビを見ていて良いのだろうかと。

そんな事を考えていたら、じっとしていられなくなったのである。

ベッドから降りて点滴の針を引き抜くなり、目眩を覚えてふらついたノゾムは、よたよたと壁に寄って手をついた。

痛む体を叱咤して顔を上げると、その視界に、アルが壁にかけたまま忘れていったジャケットが入る。

のろのろと手を伸ばし、自分には大きなジャケットを患者衣の上から着込んだノゾムは、漂った白熊の体臭を嗅ぎ取り、反

射的に鼻を鳴らした。

ハイテンポなアニメのオープニングテーマが流れる中、白熊が忘れていったぶかぶかのジャケットの前を締めると、不思議

な事に、自分が一人ではないような気がして勇気付けられた。

包帯が目立つ頭には何か被る必要があるが、帽子などはない。

ジャケットと近い色合いのタオルを巻いて誤魔化そうと考えたノゾムは、棚を開けて苦笑いした。

色を識別できなくなったノゾムの目には、重ねられた色とりどりのタオルは白や灰色、そして黒。色彩は判別できず、明度

しか判らない。

とりあえず濃い色の物をと、ノゾムはかなり黒く見えるタオルを手に取ったが、それはジャケットに違和感無く合う濃紺の

タオルであった。

一度頭に当てて耳の位置を確認し、歯で噛んで開けた穴を指で広げて耳出し穴を作ると、それを被って後頭部で縛る。

鏡で上半身を確認した限りは、それほどおかしな格好には見えなかった。

そしてノゾムはリモコンを手に取り、アニメ本編が始まったテレビを後ろ髪を引かれる思いで消す。

作り付けの棚に収められていた認識票と携帯、財布を手に取り、狐はそっと病室を出た。

ナースに気をつけながら廊下を進み、外に出るまでの事を考える。

偶然にも、年末の戦闘後にも一度、たった一日だがここに検査入院させられている。

賢いノゾムは病院の間取りを忘れておらず、出口までの道はすぐに思い浮かぶ。

欲しいのは装備だが、血で汚れた衣類や他の装備類、そしてもちろん武器の類は病室に置いていなかった。

かといって、思いつく保管場所へ探しにゆき、見咎められでもしたら病院を抜け出せなくなってしまう。

そもそも、衣類はともかく武器類は病院保管にはできない。おそらくトウヤの事務所で預かってくれているはずだと考えた

ノゾムは、病院はこのまま出てしまって良いと結論付ける。

幸いにも夕食の配膳時間と重なっており、ナース達は忙しそうにしており、誰もノゾムに注意を向けない。

渡りに舟とはこの事かと一瞬考えたが、ある問題が浮上した事に気付いて小さく息を吸い込んだ。

食事の配膳が自分の病室に行われれば、抜け出したのがばれてしまう。見咎められ難い代わりに猶予はあまり無い。

食事を載せたカートに隠れたり、他の患者の後ろをいかにも同伴者のように歩きながら、急いで一階にたどり着いたノゾム

は、急患入り口の小窓の下を、痛む体を屈めてこっそり通過してドアに張り付く。

ドアが開閉して誰も来なければ小窓の向こうの病院職員が怪しむだろうと思い、タイミング良くやって来た面会客が入るの

にあわせ、すれ違って外に出る。

急ぎ足でロータリーを横切りタクシー乗り場に急ぐ狐は、患者衣に病院のスリッパという格好だが、その上にハーフコート

並に丈が余る濃紺のジャケットをすっぽりと着込んでいるせいで、太陽の下でならともかく、日が落ちた今はそれほど人目を

引かない。

タクシーに乗り込んだノゾムは、一縷の望みをかけて携帯の電源を入れた。

数秒後、ノゾムが行き先を告げ、タクシーは走り出す。

トウヤがリーダーを務める調停事務所のメンバー名で、夕刻に一斉送信されたメールは、臨時共同体に所属するノゾムの携

帯にも届いていた。



「ま、待て!交渉と行こうじゃないか!」

廃工場の一室で、追跡者に隠れ場所を突き止められた中年は、立ち上がりながら両手を肩の高さに上げて敵意が無い事を示す。

追跡者の一方、背が低くかなり太っている三毛猫は、自分の同行者の存在に気付いた途端に下手に出た中年へ胡乱げな顔を

向けながら「交渉?」と首を傾げる。

追跡者のもう一方、巨木のような佇まいの赤銅色の熊獣人は、首を僅かに動かして斜め前に立つ三毛猫を見遣ると、彼に判

断を任せるつもりらしく、胸の前に上げていた腕を一旦下ろし、棒立ちの姿勢に戻った。

「一応聞いときましょか。先に断っときますけどな、ウチに戻るって言わはりましても駄目でっせ?幹部の皆様方が下した粛

正の判断は、もう何があっても覆りまへん」

さして重要でも無い事でも伝えるように、相変わらず微笑を浮かべたまま軽快な口調で告げた三毛猫に、中年は顔を引き攣

らせながらも包帯の下で愛想笑いを浮かべる。

「戻るのが無理なら…、こういうのはどうだ?金を支払う。それで見逃しては…」

「冗談はあきまへん。見逃したなんて知れたらワイが叱られますやん」

即答した三毛猫に、中年は慌てて首を横に振った。

焼かれた顔が包帯に擦れて激しく痛むが、もはやそんな事には構っていられない。

「だ、だから!私は見つからなかった事にするんだ!二人とも私には会わなかった。そして、金を拾って帰った。どうだ?悪

い話じゃないだろう!?」

三毛猫は下膨れの顔のたっぷりした丸顎に下から手を沿え、「ふぅん…」と唸る。

「参考までに、拾えるのはおいくらでっしゃろ?」

三毛猫の言葉に、しめしめとほくそ笑んだ中年は、素早く頭を巡らせた。

「一人1億でどうだ?ギルタブルルが売れさえすれば…」

「舐めたらあきまへんで?ギルタブルルの相場、ワイが知らんとでも思っとりますのん?」

「く…!ならば1億五千…、いや、2億ずつ払う!合わせて四億、相場の半分だ!これならばどうだ!?」

三毛猫は「ふむふむ…」と頷くと、「割合から見た取り分としては、まぁ悪くはおまへんなぁ…」と、ぼそりと呟いた。

中年は安堵から笑みを深くする。巨熊の方は黙って突っ立ったまま身じろぎ一つせず、何を考えているのか全く判らないが、

三毛猫の方からは悪くない反応が引き出せた。

どう交渉して有利な条件を引き出そうかと、頭を巡らせ始めた中年に、

「けど、やっぱ見逃せまへんなぁ」

しかし三毛猫はかぶりを振ってそう言った。

一瞬絶句した中年は、焦りの表情を浮かべて身を乗り出す。

「で、では幾らなら話に応じる!?」

「駄目ですわ。お話になりまへんねん」

三毛猫はすげなく言い放つと、ずっと浮かべていた微笑を消し、すぅっと眼を細めた。

「年末に引き続いてまた離脱者が…、しかも兵器の持ち出しまでして逃げよった幹部が出たゆうて、お嬢はん、哀しそうな顔

してはりましたわ…」

青みがかった黒髪を短く切りそろえた若い女の顔が脳裏を過ぎり、中年の顔が微かに歪む。

見切りを付けて裏切ったはずの組織だが、三毛猫の言葉は中年を動揺させた。

中年は確かに組織を見限ったが、しかしこの三毛猫と巨熊の主たるその女性に対しては悪意を持っていない。

今でも僅かながら敬意を払っているし、そのカリスマに無条件に従いたくなる衝動は確かにある。

だがそれでも、あの組織に未来は無い。命運を共にする義務など無い。中年は自分にそう言い聞かせ、気持ちを奮い立たせ

て三毛猫を睨む。

未来を求めて沈みかけた船から離れた自分と、今なお立て直そうと留まっている二人。

中年が三毛猫達に向けているのは、自分が選ぶ事のできなかった道を歩む者に向ける嫉妬に近い憎悪であったが、当の本人

もそこまでは思い至っていない。

中年の焼け付くような憎悪の眼光に怯む事なく、三毛猫は再び口を開いた。

「1億や2億積まれたとこで、あの表情見せられた埋め合わせにはなりまへん。…それに、ワイはともかくランゾウはんは、

なんぼ金積まれても動きまへんで?」

その言葉をゴーサインと取ったか、巨熊は音もなく一歩踏み出し、三毛猫の隣に並ぶ。

中年は素早く右手を上げ、三毛猫に向けた。

そのジャケットの袖からジャコンッと音を立て、長さ二十センチ程の両端が尖った金属の棒が数本撃ち出された。

ジャケットの下に身に付けた篭手に、レールに乗せられるようにして仕込まれていた三本のニードルは、三毛猫の顔面めが

けて飛ぶ。

が、それらが三毛猫の顔に突き刺さる事はなかった。

「おおきに、ランゾウはん」

瞬き一つよりもなお短い間に、横合いから伸びた大きな左手に纏めて掴み取られたニードルの、すぐ鼻先にまで迫っていた

先端を見つめながら、三毛猫は隣の巨熊に礼を言った。

まるで巨熊が止める事が判っていたかのように落ち着き払った様子で、ニードルの鋭い先端を映す瞳には、焦りの色もなけ

れば恐れの入りも見えない。

巨熊の方も表情一つ変えるどころか、掴み取ったニードルにすら目をやらず、中年から視線を外していない。

が、中年もまた、これで一方を仕留めようとは思っていなかった。

牽制として三毛猫を攻撃して一瞬の時間を稼いだ中年は、懐に手を入れ、リモコンのスイッチを入れると同時に、声を張り

上げた。

「ギルタブルル!」

声に反応して休眠状態から目覚めたギルタブルルと、リモコンで蓋が開いた筒から飛び出したアントソルジャーが、中年を

ガードするように素早く前進した。

ギルタブルルが中年のすぐ前に盾になって立ち、さらに前に出たアントソルジャーが威嚇するようにギィッ!と鳴く。

が、その直後、中年はチカッと瞬いた光を焼き付けられた目を見張った。

目を離した訳でも無いのに、巨熊はいつの間にか前に出ており、アントの目前に居た。

しかも、投球を終えたピッチャーのような姿勢で背を丸め、左手を床すれすれまで振り下ろしている。

風が室内を吹き抜け、静止している巨熊のコートの裾がひらめき、先程掴んだニードルが、三毛猫の前でキキンッと床に落

ちる。

どこから出たのか、霧のように白いもやが、巨熊とアリの間に立ち込めていた。

中年の目が反射的に小刻みに動き、ソレを探す。

つまり、いつのまにか無くなっている、つい一瞬前に威嚇音を発したアントの頭部を。

「滅頭(めっとう)…」

ボソリと低い声で呟いた巨熊の前で、頭部と胸部が消失して胴体がUの字になっているアントが、ゴシャッとその場に崩れ

落ちた。

ゆっくりと身を起こした巨熊が握り込んでいた手を開くと、その隙間から真っ白な灰がブワッとこぼれ落ちる。

中年にも、そして三毛猫にも目では追えなかったが、何が起こったのかは経験から理解していた。

瞬時に詰め寄り、はたきおとすような動作で繰り出された巨熊の手が、その進路上に存在したアントの頭部と胴体の中央を、

焼き切りながら毟り取り、握り潰し、灰に変えた事を。

エナジーコート。生命力を燃料にして力場を発生させ、肉体を覆って強化する能力。

巨熊はその能力を用い、極々狭い範囲…今回は左掌のみに発生させた力場を瞬時に分解、熱エネルギーに変換しつつ、アン

トの外骨格もろとも内部組織、ひいては命までを毟り取ってのけていた。

ゴクリと唾を飲み込んだ中年の前で、ギルタブルルが尻から尾を出す。

ヌラリと光る長い尾にバイザー越しの視線を向けた巨熊は、

「ランゾウはん?ギルタブルルはできれば無傷で生け捕りでっせ?値ぇ張るんやからソレ」

背後から呑気な声を投げかけた三毛猫を首だけ巡らせて見遣り、何か言いたげに少し口をあけたが、結局は諦めたように何

も言わずに閉じ、顔を前に向け直す。

身構える事無く、太い両腕を樽のような体の脇にだらりと垂らしたまま、巨熊は無造作に、しかし全く足音を立てずに踏み

出す。

素早く後退した中年の前で、ギルタブルルは巨熊の前進に反応して体を旋回させた。

横合いから空を切って叩き付けられた、アルの巨体をも傾かせるその一撃を、しかし巨熊は大きな左の手の平で、針を備え

た尾の先端より少し下、くびれた部位をパシッと掴んで止める。

僅かにも体勢を崩さず尾を掴んだ巨熊は、そのまま腕を振るった。

濡れたタオルでも振り回すかのように、無造作な動きで振るわれた巨熊の腕は、踏ん張る事すら許さずギルタブルルの体を

宙に舞わせた。

人間の子供の姿をした相手を、ドガッと音を立ててコンクリートの床に叩き付け、そのまま腕を振るって持ち上げ、再度反

対側の床に叩き付ける。

顔には一切の表情を浮かべず、一切の躊躇いも、一切の慈悲も見せず、巨熊は繰り返し繰り返し、何度も何度も、執拗なま

でにギルタブルルを床に叩き付け続けた。

尾を曲げて腕にとりつくか、一撃加えようと試みるギルタブルルだったが、振り回される勢いが強すぎてそれすらも叶わない。

一切の抵抗を許されず、まるでワイパーのように左右に反復運動を繰り返すギルタブルルの姿を、中年は悪夢でも見ている

ような気分になりつつ目で追っている。

床がひび割れ、コンクリートの破片が飛び、ギルタブルルが纏った子供の皮が裂け、千切れてゆく。

抗うこともできない勢いで繰り返し与えられる、連続した重い衝撃で機能に支障を来したのか、ギルタブルルから次第に抵

抗する力が失われて行く。

「ランゾウは〜ん?やり過ぎたらあきまへんで〜?尻尾もげてまうと困りますよって」

三毛猫が少々心配そうに声を上げると、巨熊は手首を返して真横に腕を振るいつつ、ギルタブルルの尾を放した。

風切り音を立ててふっ飛んだギルタブルルの体が、コンクリートの分厚い壁に激突して大きなひび割れと音を残し、ドシャッ

と床に崩れ落ちる。

横倒しになってのろのろともがくギルタブルルの頭部や顔面からは、人間の生皮が剥け、赤黒くヌラヌラとテカる外殻が一

部露出していた。

熟練の調停者ですらも歯が立たないギルタブルルを、まるで小うるさい虫でも払うかのように、容易く叩き伏せて見せた巨熊。

しかも、武器どころか技などを用いた訳ですらない。ただ圧倒的な腕力だけで捻じ伏せてのけた。

その常軌を逸した戦闘力を見せ付けられた中年は、全身から冷や汗が噴き出している。

(話には聞いていたが…、ま、まさか…、これほどまでとは…!)

他の組織との抗争において、この巨熊が力を振るっていた事は知っている。だが、よもやここまでの力を持っているとは思っ

てもみなかった。

崩れた壁の下に倒れ伏すギルタブルルの、激突の祭に毛髪ごとこそげおちた左前頭部の皮膚の下や、床に叩き付けられてい

る内にすり切れたのであろう顔の右半面から覗く、まるで血塗れの髑髏を思わせる、人間の頭蓋骨そっくりな本体頭部。

それを放心したように眺めていた中年は、我に返ると懐に手を突っ込んだ。

中年が懐から取り出して放ったマッチ棒のような物、小さな閃光発生装置を一瞥した巨熊は、差し障り無しと判断して中年

に視線を戻す。が、中年が次いで取り出した物を漆黒のバイザーに映すと、すばやく身を翻して三毛猫の前に立った。

閃光が部屋を満たす中、中年が宙に放ったテニスボール大の黒い球体が、ジャキッと針を生やす。

まるでウニのような形状になったボールは、回転しながら連続で針を撃ち出す。

ただし、それも巨熊と三毛猫の居る方向に向かってのみで、中年とギルタブルルの方へは針が一切飛ばない。

目眩ましだけであればバイザーをしている巨熊には通用しない。そのまま中年を捕捉する事もできたが、次いでの攻撃は無

視できなかった。

閃光で目をやられては三毛猫が攻撃を回避できないと判断し、護る事を優先して前に立ちはだかった巨熊は、

「雷障陣(らいしょうじん)…」

開いた右手を前に突き出すと、前に向けた傘のように力場の壁を作り出し、撃ち出される針を防ぎ止める。

防弾防刃ジャケットを身につけた相手にも通用する細かなニードルは、目が粗いジャケットならば貫通し、そうでなくとも

継ぎ目や露出部に突き刺さる。もちろん顔にでも受ければただでは済まない。

やがて、針の雨が止み、閃光が収まって視力が戻った三毛猫は、

「またまたおおきに。で、ヤツらは何処行きましたん?」

部屋の中を見回して中年とギルタブルルの姿が無い事を確認すると、前に立って盾を作ってくれた巨熊に訊ねた。

巨熊が破れた窓の一枚に視線を向けると、寡黙な相棒の意図を察した三毛猫は、

「オカダはん、逃げはりましたか…。ワイを庇ったとはいえ、ランゾウはんから逃げおおせるんやから、やっぱり腐っても元

幹部なんやなぁ」

と、感心しているように頷きつつ、床に転がっていた閃光発生装置とニードルボールを拾い上げ、懐に仕舞う。

「ランゾウはん。済まんですけど追えますやろか?」

無言で頷いた巨熊は、ピクリと丸い耳を動かすと、窓の外に視線を向けた。

「…モチャ…」

出口に足を向けていた三毛猫は、呼び止められて振り返り、フンフンと鼻を鳴らしている巨熊の顔を見上げた。

「どないしはりましたん?ワイら以外にも誰かおるんで?」

再び無言で頷いた巨熊に、三毛猫は訝しげに眉根を寄せながら訊ねる。

「もしかして、調停者やろか?」

巨熊はしばし黙考した後、小さく頷いた。

「あっちゃ〜…!困るがなぁ〜…。連中とは極力接触するなて言われとんのにぃ〜…」

額にぽってりした手を当てて天井を仰いだ三毛猫は、頭をプルプルと振ってから口を開いた。

「接触せぇへんように、気を付けて追いましょか」

見下ろす巨熊が顎を引いて頷くと、三毛猫は顎に手を当てながら呟く。

「まぁ、最優先は抹殺の方や。生きとっても死んどってもギルタブルルを渡す訳にはいかんしなぁ…」

しばしぼそぼそとひとりごちた三毛猫は、巨熊の顔を見上げてニマッと笑った。

「いざとなったら調停者の皆様方も纏めて蹴散らしてぇなランゾウはん」

軽い口調で言った三毛猫を見つめながら、何か言いたそうに少し口をあけた後、巨熊はやはり何も言わずに口を閉じた。



足を引きずるようにしてぎこちなく歩むギルタブルルの前を、冷や汗で全身を濡らした中年が足早に歩む。

廃工場の敷地を抜けようと歩むその二つの影を、高所から見下ろす者があった。

「目標、捕捉であります」

元は引込み線を支えていた木の支柱の上で、犬のお座りのような格好で両手両足をついて身を丸く屈めているのは、コロッ

と丸いシルエット。

表情を浮かべぬその顔を、逃亡を企てる中年とギルタブルルから離さぬまま、エイルは右手をジャケットのポケットに突っ

込み、取り出さぬまま携帯を操作する。

先に打ち、送信するばかりになっていた対象発見のメールをトウヤの事務所のオペレーターあてに送ると、

「状況、開始であります。…アルビオンさんのお友達さんにもひどい事をしたらしいでありますからして、多少手荒に扱って

も全く問題は無いでありますね」

淡々と呟いたレッサーパンダは、十数メートルの高所から素早く跳躍し、建物の陰の暗がりに音も無く消えた。



(対象発見!?旧町道沿い、郊外の廃工場跡…!)

携帯の画面に表示されている暗号文を読み終えたノゾムは、運転手に行き先の変更を告げた。

当初はメールから読み取った捜査場所の一つに向かい、現地で直接頼み込んで捜査に加えて貰うつもりだったが、現在地か

らならば直接発見現場に出向いた方が早い。

トウヤの事務所のオペレーターが一斉発信した暗号メールは、ノゾムの携帯にも届いていた。

まさかこんな真似をするとはトウヤも含めて誰も思っていなかったので、一斉発信のグループから抜かさずにおいたのだが、

ノゾムはそのまさかの行動に出ている。

指揮官としての経験がそれなりに長いトウヤですら行動を予想できなかった程に、ノゾムの変化は急激で大きなものであった。

やがて、運転手を万が一にも巻き込まないよう、目的地の少し手前でタクシーを停めて貰ったノゾムは、走り去ってゆくタ

クシーのエンジン音を背中で聞きながら、冷え冷えとした夜気の中に立って身震いした。

怖い。身が竦むような思いをしている。

目の前で仲間を殺され、自分も殺されかけた相手…。遥か格上の存在とこれから再び向き合う。しかも、今度は負傷してい

る上に丸腰の状態で。

軽く目を閉じ、深呼吸してから遥か向こうの工場跡を見遣ったノゾムは、ある事に気が付いた。

街灯も近くにない月明かりのみの暗がりの中で、ノゾムの目は周囲の景色を、以前よりもはっきりと映している。

元々視力が悪いので遠くの景色はぼやけて見えるが、近くの草むらで夜風に揺れる草の葉一本一本、道に転がる小石一つ一

つは、弱い月明かりの下でもくっきりと見えた。

色覚を失い、光に対して敏感になったノゾムの瞳は、僅かな光源下の弱々しい光の反射ですらも捉えられるようになっていた。

それは、色を知らない漁師が、深夜の暗い海において、黒くうねる海面下の烏賊の群を視る事ができるように。

薄明かりの中でもはっきり見える自分の手をしばし見つめた後、ノゾムはギュッと手を握り、決意を込めて力強く頷いた。

色覚と引き換えに得た、灯りがなくとも闇を見通す視覚。それは、闇を駆ける調停者にとって強力な武器となる。

炎を使えば視力は一時的に失われるので、自分の炎で光に敏感になった目をやられる事もない。

失った物もあるため、単純に「進化」とは呼べない変化が、ノゾムの内外に起こっている。

少年は、心身共に「新化」した。

自分を奮い立たせて足を踏み出したノゾムは、行く手で小さな光が数度瞬き、間をおかずに乾いた音が断続的に耳に届くと、

目を大きくして息を飲む。

(戦闘が始まってる…!)

遠くから聞こえて来るパトカーのサイレンで、連絡を受けた警察が公道の封鎖に踏み切った事を察した狐は、

(まずい…!見つかったら引き止められちゃう!)

スリッパをパタパタ言わせながら、廃工場目指して大慌てで走り出した。



「くそっ!どうなっている!?」

その陰に身を隠した空のドラム缶が銃撃を受けて穴を穿たれ、中年は悪態をつく。

調停者か、それともあの二人以外に追っ手が居たのか、どちらとも判断はつかなかったが、完全に包囲されている。

追っ手から逃れるべく工場の敷地から出ようとした中年だったが、エイルがいちはやく展開した「一人の包囲網」によって、

完全に敷地内に閉じ込められていた。

このトラップを仕掛けたエイルは、その能力の効果的な使用により、一人で数部隊にも匹敵する戦力を発揮する事ができる。

事前に手を触れ、マーキングをおこなった物に対してのみ発動できる条件付念動力、トリガーハッピー。

今回は銃器を可動式三脚の上に乗せ、中年が身を隠しそうな近辺を狙えるよう調節し、各所に配置してある。

マシンガンにライフル、拳銃まで、レンタカーに積んで持ち込めるだけ持ち込んだ火器類は、エイルの意思に応じて中年と

ギルタブルルを攻撃する。

一度にマーキングできる数は二十数個。持続時間は十数分。念動力そのものの強さはせいぜいネズミが物を押す程度と、ト

リガーハッピーは制限が多い能力で、それ自体は極めて強力という訳でもない。

だが、事前に仕込み、効果的な配置を心掛ければ、待ち伏せや拠点防衛ミッションにおいて強力無比なトラップとなる。

さらには、中年が錯覚を抱いているように、こちらの実人数を水増しして認識させるという撹乱効果まで生み出す事ができる。

獣人としては非力な部類に入るエイルだが、能力の研鑽と先天的に身についている禁圧解除により、ブルーティッシュでも

指折りの戦士に数えられる。

もっとも、本人曰く本分は衛生兵なのだが。

うかつに見通しの良い所に出れば銃撃される。そう警戒する中年であったが、実際には物陰から出さえすれば逆に攻撃の死

角に入る。

エイルが重点的に銃を配置しているのは、中年が身を隠すと踏んだ近辺に攻撃できる箇所で、だだっ広い場所は逆に手薄に

なっていた。

だが、相手は多勢と認識している上に、身を隠した場所が次々と激しく銃撃された事で、中年の思考からは広い場所へ出て

ゆく選択は除外されている。

見られないようこまめに移動し、銃器に弾丸を装填しつつ微妙に配置し直してゆくエイルは、その包囲網を徐々に狭め、中

年の動きをほぼ完璧に封じ込めた。

戦闘における思考と判断を完全に読まれ、行動を把握され、まんまと術中にはまった中年は、焦りと苛立ちから舌打ちをす

るばかりで、打開策を見つけられないでいる。

足止めという最大の目的は達成できそうだと判断したエイルは、一旦銃撃を中止させると、拡声器を構えて真上に向かって

声を上げた。

『あ〜、あ〜、テスッ、テスッ…。こちらは調停者であります。あなた方は完全に包囲されているであります。無駄な抵抗は

止め、直ちに降伏した方が幸福になれるでありましょう。もしも徹底抗戦なさるおつもりであられるならば、真に遺憾ながら、

当部隊はあなた方の生死を問わず、全力で制圧にかかるであります。十秒待つであります。その間に武装解除の様子が見られ

なければ…。ボンッ!…であります』

(ボンッて何だ!?)

ドラム缶の陰に身を隠したまま、中年は全身から脂汗を滲ませる。

女性の声で淡々と為された降伏勧告は、言葉のコミカルさが逆に薄気味悪いものであった。

「せやな。ボンいこか」

あちこち穴が開いた倉庫の屋根の上から中年が身を隠すドラム缶を遠目に見つつ、細い筒の先にラグビーボールのような弾

頭がついた単発ロケット砲を肩に担いだ丸っこい影が呟く。

「た〜まや〜!」

射出された弾頭は中年が身を隠すドラム缶から見える広場で炸裂し、爆風と炎、轟音を撒き散らした。

離れていたエイルは第三者の攻撃である事に気付いたが、中年はこれを攻撃再開の合図と見て取った。

「くそっ!何が十秒だ!五秒も経っていないぞ!」

熱風に顔を顰めつつ悪態をついた中年は、傍らに屈んでいるギルタブルルを見遣り、強行突破を試みる決意を固める。

一方で、発射を終え、筒のようになったランチャーを小脇に抱えた三毛猫は、目に上に手で庇を作り、広場で燃え上がる炎

を眺めながら呟いた。

「生きたまま調停者に捕まってもうたら色々面倒や。降伏はあきまへんでオカダはん。…さて、バレへん内に移動しましょか」

傍らで屈んでいた巨熊は、声をかけられると身を起こし、三毛猫の太い胴に丸太のような腕を回して小脇に抱えると、軽く

助走をつけて音も無く跳躍した。

背が低いとはいえかなりボリュームがある三毛猫を抱えたまま、15メートル程も跳んで別の建物の上に着地した赤銅色の

巨熊は、そのまま暗がりに同化して見えなくなる。

射線から介入者の位置を確認していたエイルが、遠目に狙撃点を窺える位置に回り込んだその時には、二人の姿も気配も消

えていた。

(居ないでありますね…?何者でありましょうか?調停者ではないであります。かといって先程の爆発…巻き込むのも躊躇わ

ないような撃ち方でありました。あちらの味方という訳でもなさそうでありますが…)

塗装がはげて錆び付いた大きなタンクの陰に身を寄せたエイルは、第三者の存在に注意を払いつつ、中年の居る方向へと視

線を動かした。

その両目が、小柄な影を捉えて僅かに見開かれる。

ドラム缶の陰から出て広場へと姿を現したのは、一見ひどい傷を負っている人間の男の子。

事前に得た情報もあり、一目でギルタブルルだと気付いたエイルは、躊躇わず銃撃命令を下した。

四方八方から打ち込まれる弾丸は、しかし殆どがかわされ、命中しても強靭な外殻に阻まれて有効なダメージに至らない。

中年を生きたまま捕縛する事を考えていたので、エイルが配置した銃器類の中には、ギルタブルルに有効な程の破壊力を持

つ物は少ない。上手く誘導して強力な火器の射線に入れる必要があった。

ドラム缶の陰に引っ込んだ中年の事も気になるが、さしあたっての脅威はギルタブルルである。

時間稼ぎと割り切った銃撃を継続させながら、エイルは迅速に位置を変えた。



視界の隅で動く影を捉えたギルタブルルは、銃撃を受ける事も構わずに地を蹴った。

着込んだ生皮が弾丸で削られ、擬装が半ば解けた状態のギルタブルルは、まるであちこちの肉が腐り、こそげ落ちたゾンビ

のようでもある。

見る間に広場を駆け抜けたギルタブルルが、人影を目にした倉庫の間に駆け込む寸前、銃撃は止んだ。

彼は知る由もなかったが、それはエイルが能力を解除したせいである。

駆け込んだ倉庫の隙間、幅2メートルほどの細く、長い空間の向こうにレッサーパンダの姿を捉えたギルタブルルは、

「いらっしゃいませであります」

無表情に呟いた彼女が両手に一丁ずつ携えているハンディグレネードと、その周囲の地面に固定されているライトマシンガ

ン、アサルトライフル、ロケット砲等の兵器群を、剥き出しになった人間の眼球そっくりの複眼に映す。

狭い通路に逃げ場は無い。エイルが二発同時にグレネードを発射したのを皮切りに、兵器群が一斉射撃を開始した。

グレネードが足元で炸裂し、ギルタブルルの姿が爆炎の中に消える。そこへ無数の弾丸が間断なく打ち込まれてゆく。

グレネードに次弾を装填しようとしたエイルは、ハッと頭上を見上げつつ真後ろに跳んだ。

爆炎から飛び出し、頭上から急襲をかけたギルタブルルの右腕の先端が、エイルの鼻先を掠めた。

擬装をやめ、折り畳まれていた多関節を開放し、倍以上の長さに伸びている腕の先には、ザリガニのようなハサミがついて

いる。

ザザッと土ぼこりを立てて着地したエイルの前で、同じく身を屈めて着地したギルタブルルの左腕から、長手袋が抜け落ち

るようにして、人間の子供の手がズルリと抜けた。

肘を曲げ、肩を掴むような形で曲げられていた、肘関節が三つある左腕がゆらっと伸ばされる。

人間の子供の胴に長いサソリの尾と両腕、加えて髑髏のような頭部を持つ奇怪な生物。

その不気味な外見を目にしても、エイルは恐怖を感じはしない。

彼女の胸中を占めているのは恐れではなく、距離を詰められたこの状況の打開策の模索である。

素早く前進したギルタブルルのハサミが空を切り、手放されたグレネードを残してエイルの姿が消失する。

リミッターをカットし、高速跳躍したエイルは、右手側の建物の壁を蹴ってさらに跳び、左手側の建物の軒下に逆さまに着

地する。

庇の裏側に両足を踏ん張り、地面を見上げる格好になったエイルの両手で、逆手に握られたアーミーナイフがギラリと光った。

高速移動への対応が一瞬遅れたギルタブルルは、振り仰いだその目に、高速で拡大するエイルの姿を捉える。

済んでのところで軌道から身を避けたギルタブルルの前で、高速落下したエイルは右のナイフを真横に振るった。

ガヅッという音と共にナイフが跳ね飛び、着地したエイルは転がって身を離す。

左腕で顔面を押さえたギルタブルルは、左の複眼の中心に横一文字の裂傷を負っていた。

身を起こしたエイルは、しかしカクンと力なく足が曲がり、地に片膝を着く。

肉体的に恵まれているとは言えないエイルには、リミッターカット時の反動が顕著に現れる。

体の一部のみ瞬間的に、それも数度しか使えないリミッターカットを、地面からの跳躍、壁を蹴っての跳躍、庇を蹴っての

高速落下、そしてその着地の衝撃緩和の計四回使用したエイルの両足は、強度を上回る負荷によって大きなダメージを負って

いた。

(どうやって切り抜けるでありますかね…。ナイフは弾かれるであります。複眼を狙ってあの程度でありますからして…)

痺れが残る右手を握っては開き、片膝をついた姿勢のまま策を巡らせるエイルの前で、顔からハサミとなった手を離したギ

ルタブルルが、ゆらりと前に出る。

一瞬の時間稼ぎとしてエイルが投擲したナイフは、しかし無造作に横に払った右腕のハサミに弾き飛ばされた。

直後、炎の華が咲いた。

何の前触れも無くギルタブルルの目前で火炎が荒れ狂い、熱風に叩かれたエイルが腕で頭を庇う。

「…ま、間に合った…!」

エイルが声に振り向けば、設置した銃器類の後ろに立つ、コロッと太った狐の姿。

瞬時に消失した炎の向こうへ後退していたギルタブルルは、衣類とその下、体の前面の皮膚を焼き払われていた。

極端に収縮していた瞳孔が元に戻り、視力を取り戻したノゾムは、一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、気を取り直してエイ

ルに駆け寄る。

(狐…?狐でありますよね?狐の男の子…?)

心の中で首を傾げたエイルは、太った狐に尋ねてみた。

「貴方はもしや…、アルビオンさんのお友達さんでありますか?」

見覚えのない、おそらくは調停者であろうレッサーパンダに問われたノゾムは、少し迷った後に頷く。

「えっと…。友達になれたらいいなって、思っています」

少し恥かしそうに微笑んだノゾムは、ギルタブルルに視線を戻す。

先の能力使用の際に違和感があった。試してみる価値はあると判断し、ノゾムは意識を集中させる。

再び咲く炎華。身をかわしたギルタブルルは、横手の建物の窓を突き破って内部へ姿を消す。

その逃走を、ノゾムはしっかりと見ていた。

(やっぱり…!発動までの時間も、視覚が戻るまでの時間も、今までより短くなってる!)

横手の窓の中、暗がりで微かに見えた何かに反応し、ノゾムは素早く首を巡らせた。

その直後、割れた窓の中、建物内の狭い部屋で炎が炸裂する。

まともに炎を浴びたギルタブルルが、初めて「ギォオッ!」と苦鳴を漏らした。

視界内の望んだ場所に発火させる能力。僅かな光源や光の反射をも捉える事が可能となったノゾムは、以前とは比較になら

ないほど暗夜戦に適応している。

さらには能力が速射性を得た事により、見るだけで行えるという脅威のカウンターアタックが可能になっていた。

「やるでありますね」

傍らで呟かれた声に振り向けば、膝立ちの姿勢でゴツい機関銃を両手で構えているレッサーパンダの姿。

「派手に行くでありますよ」

エイルが手にしたM60が凄まじい騒音と弾丸を吐き出し、建物を撃ち抜き始めた。

自分程ではないが、太ってコロっと丸いレッサーパンダの雄々しい掃射を、両手で耳を押さえながら眺め、

「か…、かっこいい…」

ノゾムはポカンとした顔で呟いた。

「さあ、貴方もやるであります」

騒音の中で上がった、半ばかき消されているエイルの声で我に返ると、ノゾムは頷いて建物に視線を向ける。

そして、窓と言う窓の中、建物の中の見えている範囲全てに、炎の華を咲かせ始めた。