Big Sunday
晩酌のためにビール瓶とビアジョッキを持った肥満虎は、テーブルの前で足を止め、腰掛けようとした椅子の前…いつも自
分がつく席の卓上ををじっと見下ろした。
昼食時に出して片付け忘れたグラスがそこにあった。アイスティーの残りが乾いて底にこびりついている。前から時々やら
かしていたのだが、最近はそれを目にする機会は少なくなっていて、後から気付いたものだった。
ああ、また片付けておいてくれたのか。と…。
無言で椅子を引き、のしっと腰を下ろす。尻尾がクタンと椅子の横に垂れ下がり、肉付きの良い背中は丸まっていて元気が
無い。パンツ一枚、シャワーを浴びた後のあられもない格好。気兼ねしなくなったのは確かだが、開放感は特に感じない。邪
魔者が居なくなった、とは考えたくない。
時刻は午後九時。この島では大多数の住民が就寝時間を迎えているのだが、ヤンはまだ眠気を覚えていない。この半年、リ
スキーが家に滞在する事が多かったせいか、ひとりで明かす夜は妙に長く感じられた。
溜息をついて瓶を押さえ、栓抜きを当てて開封する。キャップが外れたポンという音も、王冠がテーブルに転げカラカラ鳴
る音も、妙に大きく聞こえる。自分ひとりだけになった家は静か過ぎて、他愛の無い生活音もこんなに大きかったのだと、久
しぶりに思い出した。
自らビールを注いだジョッキを上げ、泡を舐め取るようにチビリと啜る。独りが寂しいと感じるのは何時以来の事だっただ
ろうか?記憶を手繰ろうとしてから虚しくなって止める。思い出してどうなる物でもない、と。
話相手が欲しくなり、腰を上げ窓際へ向かう。CDプレイヤーの再生ボタンを押すと、ルディオが聴いていったままになっ
ていたようで、攻撃的なドラムロールを皮切りにプライマルアクターの演奏が開始された。定番のオープニングナンバーを背
にしてテーブルに戻り、ジョッキを握って伏せた耳を傾ける。
自分の吐息まで大きく聞こえる。外の風音まで大きく聞こえる。孤独と時間を持て余している。こんな感覚は永らく味わっ
ていなかった。そんな感慨を追い払うようにジョッキを煽ったヤンはゴッゴッゴッと喉を鳴らしてビールを一気に飲み干す。
ハウル・ダスティーワーカーの歌声がいつも通りに問う。どうかしたのかい?と、おそらく聞いている者全てに。そこへ…。
「!」
耳と尾がビクンと跳ねて立ち、腰を浮かせたヤンは振り返る。驚きの表情…だが、その右手は肥った体に隠れて死角になる
位置で、テーブルの裏面に触れていた。
「…テシー君…」
ウッドテラス側の裏口、その窓を見た途端に、強張っていた顔を安堵に弛緩させ、ヤンは溜息を漏らした。
「どうぞ、開いているよ」
身振りと声で促され、テンターフィールドはおずおずとドアを開けた。
「あの、済みません。驚かせてしまって…」
判り易く驚いていたと自覚して、ボッと顔を熱くする虎。
既に寝ていたらチャイムを鳴らすのも悪いと感じて、起きているかどうか確認するために裏に回って、姿が見えたのでノッ
クした。…と、テシー自身の口から珍しく裏口から訪ねてきた理由を聞かされて納得するとともに、過度に臆病になっている
のではないかとヤンは自嘲する。その癖、無用心で無防備なのだから話にならない、と。
「酒持って来たんです。今日の便で入ってきた中に、珍しいけど店で出せるほど量が無いのが一本あって…。ミード、飲んだ
ことありますか?」
「…いや」
少し考えてから首を横に振ったヤンに、テシーは蜂蜜の酒なのだと説明した。浸透圧が高過ぎて
本来発酵しない蜂蜜だが、水を加えるなどして浸透圧をコントロールする事で酒にする事ができる。生産している地域自体が
少ないので島に入ってくるのは稀だが、知名度も低く人気がある訳でもないのでそう高値でもない。
「なるほど。蜂蜜で造る酒の話は聞いた事があったがね、実際に見るのは初めてだ」
しげしげと瓶を見つめたヤンは、そこに映ったタータンチェックの柄に気付き…。
「はっ!?す、済まない!何か着て来る!」
パンツ一丁だった事を思い出し、慌てて背を向けた。
「いえ!良いんですよ先生!楽な格好で!」
呼び止めるテシー。「急に来たのが悪いんで!くつろいでるトコ邪魔する気とか無かったんで!」と。
「いやしかしこんな格好じゃ失礼で…。だらしない体で不快だろう?」
「気にしませんから!…って言うか…」
テシーが急に言葉を切る。気になって足を止めたヤンは顔だけ振り返る。
「…何だね?」
「?えぇと…。せ…」
「「せ?」」
口ごもったテンターフィールドは、続きを気にして首を捻っている虎から一度目を逸らし、それからキッと視線を戻した。
「セクシーです」
真顔で、真っ直ぐ、ヤンを見据えてテシーは言った。
言葉の意味を間違えて捉えたり、そもそも聞き間違ったりはしていないか、頭の中で吟味を繰り返し、三秒ちょっとしてか
らヤンはビクンと全身の毛を逆立てる。
島の人々は皆、大なり小なり言葉も気持ちも直線的で、それを善しとする気風の持ち主。テシーも結局はそうなのだが、他
と比べれば血の気が多くもないので、ヤンはすっかり失念しており、不意打ちになったこの直球が見事に胸のど真ん中を突き
抜ける。
「不快なんかじゃないです。だらしないとか感じません。…って言うか、たぶんそのお肉の何割かは俺のせいだったりするん
だろうし…」
はっきりと物を言うテシーに、ヤンはタジタジになる。その目覚めた積極性が、素性を悟れないまま去って行ってしまった
兄の促しによる物である事など、当然知らぬまま。
「だから、遠慮とかいいです。気遣いとかいいです。俺は…」
テシーは真っ直ぐな目と真っ直ぐな言葉で、その真っ直ぐな気持ちをヤンへ伝える。
「俺は、そのままの先生が好きです」
気付けばヤンは、ドアを背にして寄りかかっていた。
自分がどうなっているのか少ししてから気付いて、驚きながら思った。
言葉だけで、殴られたようによろめく事も、意識が吹っ飛ぶ事もあるのだなぁ、と。
何か言おうとしたが、言葉が出なかった。喉がカラカラに渇いていた。体も顔もただただ暑かった。
だからヤンは咳払いして、何も言わずにテーブルまで戻って、蜂蜜酒の瓶を子細に見つめるふりをして視線を逃がしながら、
「…喉が、渇いたな…」
苦労してやっと言葉を紡ぐ。
「ご馳走になってもいいかな?…その…、飲み方も判らないんだが…」
テシーは目尻に皺を寄せて笑い、大きく頷いた。
ロックグラスに氷を入れて、上から注ぎ入れ、カットレモンを添える。
キッチンを借りたテシーの手馴れたセッティングを、ヤンは傍らから見ている。
手先の器用さや正確さ、そしてスピーディーさには、食材をあっという間に食事に変えてしまうナイフ捌きや、カクテルを
作るシェイカー捌きなどで常々感心させられているが、それはカウンター越しでの話。酒を用意するテシーの隣に立って、同
じ方向から手元を見つめるのは新鮮だった。
言われるがままトレイを出して、上にグラスを乗せられて、零さないよう慎重な足取りでテーブルへ運ぶヤンの後姿と、緊
張しているように立った尾を、テシーは目を細くして見送る。適度な大きさに砕いた氷をアイスバケットに詰め、スライスし
たレモンとチェイサーをテーブルに運べば、晩酌の準備は終わり。
「では、頂きま…」
「乾杯」
頭を軽く下げたヤンを遮り、テーブルを挟んで座ったテシーがグラスを掲げる。
「…乾杯」
目を細くして照れ臭そうに微苦笑するヤンと、ニッと笑ったテシーのグラスが、チンと音を立てる。
ふたりになったら音が小さくなった。
そう感じながらグラスを口元に運んだヤンは、
「甘い…」
ほんの少しの驚きを乗せ、呟きを漏らしていた。
甘い。ただし、くどくはない程度の、アルコールとマッチする甘さ。そこにレモンの香りが漂う。清涼感と甘さとアルコー
ルの絶妙なバランス。喉を下り落ちる冷たさが心地良い。
「美味いね。こんな酒は初めてだ」
「嫌いじゃなくて良かったです」
微笑むテシー。「本当に蜂蜜でビックリした」と笑い返すヤン。
持て余していたはずの時間が、ゆったりと流れる心地良い物に変わる。
肴は要らない、舌で転がすだけ。
何も要らない、これだけの甘美。
二杯目を用意してカットレモンを添えながら、テシーは言った。
「これからは、店を閉めたらなるべく顔を見せに来ます」
それで、あの殺し屋がお節介にもテシーに何か吹き込んだのだろうとヤンは察した。
一瞬言葉が出なくなった虎の耳に、バラードの中からハウル・ダスティーワーカーの歌声がいつものように囁く。つまりは、
そういう事さ。と。
正直なところ、少しばかり腹が立った。他人の心配をしている状況じゃなかっただろうに、あの重傷患者は、と。だが…。
「テシー君…」
リスキーが何か言ったのか?ヤンがそんな確認をする事は、結局無かった。それはリスキーもテシーも望まないだろうし、
それを訊いてもしようがないと思えたから。だから、口にしたのは別の事…。
「その…、隣、来ないか?」
言った瞬間、ヤンの顔がカッと急激に熱をもった。
ナチュラルに言えた。言えたと思う。思うのだが言って良かったのか?迷惑そうな顔をされたらどうする?拒否されたらど
んな顔をすればいい?
思わず顔を俯けたヤンが、返事がない沈黙と静寂でダラダラと冷や汗をかいていると…、
「!」
隣に、ストンとテシーが腰を下ろした。
思わず顔を上げて横を向いたヤンは、テシーと目をあわせると、驚きの顔を次第に緩ませ、遠慮がちな半笑いになる。
そしてふと思った。
リスキーは居なくなったが、たぶんこれからは、独りの夜を寂しがる事はないのだろう、と。
「…そうだ。テシー君、もし良ければ今度の日曜…、買い物に付き合ってくれないかな?」
躊躇いがちにヤンが提案すると、
「はい。喜んで…!」
テシーは輝くような笑顔で頷いた。
「おし、これで全部だ!」
広い背中から縫いかけのベストを離し、サイズの最終確認を終えたカムタは、首を巡らせたセントバーナードにニンマリと
笑いかける。
「これで七着、一週間毎日替えても大丈夫だぞアンチャン!」
ベストの量産を始めたカムタは、結局ありったけの生地を継ぎ接ぎして七着のベストを仮縫いした。デザインは全て同じだ
が、予備があるのは心強い。難敵は去って最大の戦いは済んだと思いたいところだが、数があれば何があっても安心である。
「あ。バルーン、それ待ち針ついてるから危ねぇぞ?」
テーブルに重ねたベストの上へブブブッと着地しようとしたクマバチは、カムタに警告されると慌てて羽ばたき垂直上昇。
そこから器用な機動性を見せて水平移動し、カムタの頭へ着地する。
「でも、材料ちょっと足りねぇな…。紐とか買いに行かねぇと」
「買い物…。じゃあ、出かけるかぁ?ハミルの学校がある島とか…」
友達の顔も見たいだろうとルディオが提案すると、「あ、そうだな?纏めて買い物できるし、せっかくだからハミルにも会っ
て来よう!」と、カムタはカレンダーを確認した。
「今度の日曜日、買い物行こう!」
「ん」
頷きあうふたりは、ヤン側と行き先と予定が完全に被った事など知る由も無かった。
そして、日曜日の朝。
「…買い物?」
「うん、買い物!先生も出かけんだな?」
船着場でカムタ&ルディオと顔をあわせたヤンは、微妙に引き攣った顔をしていた。
(いや、いやいや、別に何という事はないぞ!買い物に行くだけだ!買い物!)
後ろめたいことも恥かしいこともない。そう自分に言い聞かせるヤンは…。
「先生!お待たせしましたー!」
尻尾と手をブンブン振りながら駆けて来るテンターフィールドを目にし、笑みを浮かべて片手を上げ…、ルディオとカムタ
の視線に気付き、スッと手を降ろす。逆に尻尾はビンッと立っていたが。
「ヤン先生、テシーと一緒に出かけんのか?」
他意の無いカムタの質問に、曖昧な表情で頷くヤン。
「ふたりでデートかぁ」
あ。余計な事言ったかなぁ?…などと、ルディオは言った後で思った。何せヤンがボフッと毛を逆立てて丸みを増したので。
だが、反応したのはヤンだけではなく…。
(ふたりでデート…?)
丸い少年の小麦色の肌が、ポッと紅潮し…、
(ふたりで…、デート…!?)
たちまち真っ赤になって熱をもった。
「おはようカムタ!ルディオさん!ふたりもお出かけ?」
やりとりが聞こえていなかったテシーは、傍に駆け寄るなり挨拶し、ヤンとカムタの妙な様子に気付く。
「どうしたんですか先生?カムタも…」
「えお!?いあ、にゃんでもなひとも!」
平静を装いきれず噛み噛みのヤン。
「おはようテシー!いい天気だな!」
笑顔になるカムタ。が、テシーが見上げた空は曇っている。
「うん。まあ、過ごし易いか」
テンターフィールドは突っ込まず、水平線に見えた定期船の影に目を向けた。
「あ!来ましたよ!やっぱり少し早かったか」
土地柄、島の定期便運航は到着時間がかなり前後する。天候と海の状況で早まったり遅れたりは日常茶飯事なのだが、今日
は海も風も穏やかなので予定時刻より到着が早かった。
船に乗り込み、出航時刻まで待つ間、一行は談笑していたが…喋っているのは主にテシーとルディオ。ヤンは気まずそうで
恥かしそうな沈黙を保ち、カムタは何か考え事をしているように上の空である。
(ふたりで…デート…)
(…ふたりでデート…)
ヤンとカムタの思考はほぼ同一だった。
島に着くと、行き先が違う二組はそれぞれの買い物に向かう。
カムタとルディオは荷物が増える前にハミルが住む学生専用アパルタメントに向かい、ヤンとテシーは商店が並ぶ界隈を目
指した。
だが、アパルタメント前でルディオは気を利かせ、近くをぶらぶらしていると言ってカムタを送り出す。すぐ戻るからと応
じて、カムタはルディオに財布を預けて玄関へ入り、訪問者の名簿に記名して、係員にハミルとの面会を希望する。
アパルタメントを見上げ、のっそりとその場を離れたルディオは、小さく鼻をヒクつかせると、歩調を早めて道路を渡り、
反対側の文房具店の軒先に身を寄せた。
そのトルマリンの瞳が薄く琥珀の色を帯びて空を映すなり、ポタリ、ポタリ、と雨粒が落ち始める。
衰弱して希薄になり、主導権を完全に手放してはいるが、ウールブヘジンはその察知能力でルディオの感覚をサポートし続
けている。気圧と湿度の変化から、雨が降り始める事は判っていた。
やがて雨は激しくなり、バケツを引っくり返したような豪雨で視界がヴェールに包まれる。急いで雨宿りする人々の動きを
眺めながら、セントバーナードはスンスン鼻を鳴らし、にわかに湿気を強めた空気の中から覚えのある香りを嗅ぎ取る。雨の
幕を貫く視線が捕らえたのは、クレープの屋台。首都で見て以来だったが、どうやらこの島にも最近進出してきたらしい。
(カムタが戻ったらクレープ食べよう)
そうルディオが考えた途端…。
「あ」
思わず声が漏れた。クレープの屋台は豪雨に付随した突風を受けて雨除けの布製屋根が捲れ返り、慌てた店主が商売道具を
手早くしまい込み始める。
「あ、あ、あ…」
自分が濡れないだけなら何とでもなるが、クレープ屋の撤退には為す術がない。
「ああああ…」
店じまいして引っ込むクレープ屋台を、ルディオは切なそうな顔で立ち尽くしながら眺めるしかなかった。
それは、きっと何でもない事。有り触れた、ひととして珍しくない表情の変化。だが、ルディオの正体が何であるのかを知
る者が見れば愕然とするところだろう。
大好きな少年と一緒にクレープを食べられなくなった。それだけの事で表情に変化が生じ、悲しいと感じる…。その、兵器
として生み出された存在は、まごう事無く、既に「ひとの心」を備えていた。
「嘘だろチクショウ!」
びしょ濡れになったテシーが悪態をつく。走る青年の後ろには、手を引かれて肥満虎が続いていた。
「先生!そこの公園入りましょう!」
丁度商店が並ぶ区域の手前、空き地や公園、民家が点在するところに居たふたりは、突然の豪雨をにも雨宿りする場所がな
く、すっかり濡れてしまった。
テシーの機転で公園に入り、雨除けになるまだ背が低い椰子の木の下に駆け込んだ頃には、ふたりとも服の裾から水滴が滴
り落ちる有様だった。
「何てタイミングだ…!間が悪いにも程がある…」
げんなりして呟いたヤンは、テシーの視線に気付いて自分の体を見下ろした。
すっかり濡れたアロハシャツは、薄手な上に今日は柄も控えめな青の淡色系。湿った布地から腹側の白と黄色、そして黒い
縞模様がすっかり透けて見える。
「まいったな、この格好じゃ出歩けない…」
「俺も似たような物です」
テシーもブチ模様が透けているシャツの胸元を摘んで応じた。
運が無い。とは思うのだが…。
「ついてませんね…」
「全くだよ」
言葉を交わすふたりは、アクシデントで気を悪くするどころか笑っていた。
ついていないのに楽しい。ふたりなら…。
雨足は弱まらない。雨にけぶる景色を眺め、椰子の葉から落ちてくる水滴を頭や肩に受けながら、ヤンはそっとテシーの手
を握る。
ピクンと反応したテシーは医師の横顔を見遣ったが、照れているヤンは真っ直ぐ前を向いて、少し硬い表情をしていた。
青年も雨に目を戻す。ひとの行き来は無い。皆もうどこかで雨宿りに入ったのだろう。
「…弱まらないですね…」
「…そうだな…」
唸るような激しい雨音の中、濡れそぼったふたりはいつまでも寄り添っていた。
「すげぇ降って来た…!アンチャンちゃんと雨宿りしてっかな?」
窓を叩く雨が勢いよく伝い落ちる様を見遣り、カムタが顔を顰める。
「一緒に連れて来れば良かったのに」
テンターフィールドの少年はふたり分のアイスティーにシロップを入れながらそう言ったが、カムタは「うん…」と曖昧な
返事。
実は、ルディオが自発的に外してくれたのはカムタにとって好都合だった。ハミルにこっそり聞きたい事があったので。
「あのさぁハミル」
「うん、何?」
カムタがベッドに座り、ハミルが勉強机の椅子に着き、それぞれグラスを手にして向き合う。
「チンチンがムズムズする事、あるよな?」
「え?うん、あるけど?」
何だ急に?と瞬きしたハミルは、
「オラ、セーツーしたんだ。この前」
「へー…」
カムタが俯きがちで打ち明けると、理解したように眉を上げた。
「ハミルもしてんの?」
「してるよ。去年の春ぐらいに」
「ホントか?それ早くねぇか?」
むしろカムタが遅かったのではないかと思ったハミルだが、そこは気を遣って「どうなんだろう?」とぼかしておく。
「で、ヤン先生にも相談して、セーツーの事は教えて貰ったんだけど…」
一度口ごもったカムタは、意を決したように顔を上げた。
「最近オラ、アンチャンのを見てたり、アンチャンの事考えたりすると、時々ムズムズして、体がカッカすんだ」
「………」
ハミルの目が丸くなる。品の良い驚き顔で、幼馴染の紅潮した顔をまじまじ見つめた少年は、
「…それは…。えぇと…」
言葉を探し、慎重に選び、考えながら口を開いた。
「あ」
降り出した時と同様に、サッと雨が上がった路肩で、ルディオは視線を巡らせた。
店を畳んで引っ込んでいたクレープ屋の店主が、屋台の設営に入っている。
ぼんやり顔のままフサフサと尾を振って喜んだルディオは、その向こうから歩いて来る二人組みを目にして太い首を僅かに
捻る。ズボンの中までびしょ濡れのヤンとテシーは、歩き難そうにやって来ながらルディオに気付くと、揃って決まり悪そう
に顔を顰めた。
「ルディオさん。俺達は先に撤収」
「この濡れっぷりじゃあ店に入っても迷惑だからな」
テシーとヤンの格好を見て、ルディオは頷いた。引き上げるのも無理がない盛大な濡れ方だ、と。
「何か買ってくの、あるかなぁ?」
「いや大丈夫。また来るよ」
気遣ってくれたルディオに礼を言って、ヤンは「それじゃあ」と歩き出す。
「悪いけどルディオさん、カムタよろしく!」
弟に会う余裕すらない濡れっぷりのテシーが、その後に続き、ルディオはそれを見送って…。
(でも、何か嬉しそうだなぁ?)
酷い格好なのに、ふたりとも本当は平気に見える。それどころか機嫌が良さそうで、不思議に感じて何度か瞬きした。
「船の上で乾きますかねこれ…」
「乾かなくても、まぁ…」
歩きながら、テシーに応じるヤンは小声になる。
「ウチに寄って、シャワーを浴びていかないか?着替えは…ブカブカかもしれないがね」
「!」
垂れた耳の基部をピクンと震わせたテンターフィールドは、辺りを気にしながら小さな声で「はい…!」と応じていた。千
切れんばかりに尾を振りながら。
「おまたせアンチャン!って、ん?何?何かあったのか?」
アパルタメントから出るなり、ルディオが真っ直ぐ指差した方を見遣ったカムタは、クレープの屋台に気付いて「ここにも
クレープ屋できたんだ!?」と目を輝かせた。
「ん。さっき雨で一回引っ込んで、それからまた出た」
「タイミング良かったな!食おう!」
ウキウキと屋台に近付き、カムタとルディオはメニューを確認してそれぞれ一つずつ頼む。流石に品揃えは首都のクレープ
屋に及ばないが、この付近では貴重な店。手堅いレパートリーは押さえてある。
クリームたっぷりバナナ入り、チョコレートクリーム、それぞれ食し、半分で交換し、両方味わいながら商店街へ向かう道
中、カムタは思う。
少し前まで意識していなかった。別の感情など交えていなかった。なのに、今はクレープを分け合って食べるだけで…。
(ドキドキする…!)
意識してしまうカムタは顔を紅潮させている。ルディオはバナナクレープの味わいに集中しているので気付いていないが…。
(デート…かな、これ?)
胸の高鳴りを自覚しながらカムタはハミルの言葉を思い出す。
「「好き」になったんじゃないかな?その…、兄弟とかの「好き」と、違う「好き」に…」
ハミルが言った、「恋心」の「好き」。
家族愛や友情とも違う種類の「好き」。
カムタは幼馴染から言語化された解説を受けて、確信に至った。
自分はルディオに恋をしたのだと。
感情の変化のタイミングも、気持ちの境目もハッキリしない。気付けばいつの間にかそうなっていた。だが、この初めて味
わう気持ちは、きっと…。
「カムタ」
「うんっ!?」
呼ばれて立ち止まったカムタは、衣料品店前で足を止めているルディオを振り向き、自分が行き過ぎていた事に気付く。
「あっと!ここだった!紐買わなきゃな!」
慌てて戻って入店するカムタに、のっそりとルディオが付き従う。
(一緒に買い物…。やっぱこれ、デート…、なのかな…?)
当たり前の日曜日が、カムタにとっては特別な物に変わっていた。
「先にシャワーを」
島に戻り、診療所についてすぐの事。ヤンがパイプを片手にウッドデッキに出ようとすると、服がまだ湿っているテシーは
素直にその言葉に従いかけ、一瞬考えて止まった。
「あの、先生?」
「ん?」
ドアを開ける途中で手を止めたヤンは、
「…その、一緒に、浴びませんか…?」
「!?」
ボフッと、尻尾を太くした。
「いや!ダメならダメでまた今度!ははは…!」
照れ笑いしながら身を翻したテシーが浴室に向かうと、硬直したまま独り残されたヤンは…、
(………ええい!慎重さも過ぎれば悪手だ…!)
何かを決心したように顔を顰め、スーハーと大きく深呼吸してから、大股にテシーの後を追った。
衣類を脱ぎ捨て、浴室に入ったテシーは苦笑いする。
(浮かれて飛ばし過ぎたかな…)
無理強いする気はない。強引に寄る気はない。おっかなびっくり、照れて恥かしがって硬くなるヤンの、ぎこちなさまで愛
おしい。だから、その気になるまで、踏ん切りがつくまで、急かさず待とうと思っている。
(いいよな、のんびり行けば…)
シャワーコックを掴んだテシーは、背後の物音に反応して首を巡らせた。
「え?先生…?」
戸を開けてそこに立ったのは、全裸の虎。
恥かしがって伏し目がち、さらに緊張から背を丸めて身を縮めているヤンは、ボソボソと小声で呟く。
「まぁ、シャワーぐらい、一緒も、いいかな、と…」
伏せた耳がピクピク震えているところからも強い緊張が見て取れるが、肥満虎は、やや強張ってはいるがそれでも決意の表
情。自分を叱咤して足を踏み出すと、テシーが握るシャワーヘッドに手を伸ばす。
生真面目に、本当に、文字通り「シャワーを一緒に浴びよう」とするヤン。結婚式のケーキカットに挑む新郎新婦よろしく、
シャワーを一緒に握って一緒に浴びようと、結構無理な姿勢で一生懸命。
違うそうじゃない。とは思いながらも止めるに止められないテシーの頭上から、ふたりにシャワーが降り注いだ。
「…先生」
「うん?」
ひとまずミッションコンプリートだと、僅かに表情を緩めたヤンは、ここでようやくテシーから説明を受け、「シャワーを
一緒に浴びる」は文字通りの意味ではなく一種の比喩的な物であり、無理に同時に浴びる必要は無いと理解し…。
(死にたい!!!)
打ちひしがれた。
「でも、先生らしい生真面目な勘違いっていうか…、あははは…!」
半笑いのテシーは、ヘコんでいるヤンの手をそっと取る。
「充分嬉しいですよ?応えようとしてくれたっていうだけで」
「………」
一時無言になったヤンは、深呼吸を一つしてから、テシーの体に腕を回し、抱き締める。
「少しは、積極的に行かないと、な…」
好感など考えなければ何でもないのに、意識したら恥かしい。現金なものだと自分に呆れるヤンだが…。
「…まぁ、その、何だ?今更ながら医者の不養生で、太り過ぎの体を見られるのが恥かしいんだが…。それで…、遠慮と言う
か何と言うか…。べ、別に嫌という訳じゃない!君と抱き合う事に嫌悪感なんか全く無いしむしろこう抱擁がもっと気軽にで
きればと思ってもいるんだ本当に!は、恥かしくて遠慮してしまうだけで…!」
説明が途中で熱を帯び、凄い勢いで弁解を始めたヤンに、
「いいんですよ!悪く感じたり考えたりはしてないですから、そこまで気にしなくても!」
今度はテシーが慌ててフォローに回る始末。
「何度でも言いますけど、先生が肥った責任はだいたい俺とカムタにありますから。それに、先生の格好とか体型とか、可愛
いなぁって思いますから」
「か…わ…!?」
ボッとヤンの頭から湯気が出る。
「ええ。ムチムチコロコロ可愛らしいし、そんな格好で顔は強面、おまけに生真面目なのが歩き格好にまで出てるのも可愛い
です。それに、こうして抱き合うと気持ちいいですよ?体毛、きめ細かいんですね。柔らかくて手触りがいいです。全然、悪
いなんて事はないですよ」
素肌のままで抱き合って、間近で愛を囁かれて、赤面しながら、ヤンは少しだけ身を離してテシーの顔を覗きこむ。
そして、目の奥を探るようにじっと見つめた後、ギクシャクと口を寄せて…。テシーも応えて顔を近付けて…。
カツッ…。
不器用な接吻で軽く前歯をぶつけ、音が鳴ったものの、それもすぐに互いを求める湿った吐息に取って変わられた。
浴室の湿った空気の中、舌を絡ませて身を重ね合う。何の邪魔もなく、時間を気にする事もなく、じっくりと、ゆっくりと。
それは、何でもない日だったはずの、雨に降られて特別になった日曜日…。
ヤンとテシーがシャワーを終えた後、そしてカムタとルディオが帰る前、島にもさっと雨が注がれた。
雨上がりの蒸し暑い空気の中、ふたりは夕暮れの船着場から家を目指す。
買ったのは紐だけでなく、留守番しているバルーンへの土産…フルーツゼリーや、減ってきていた調味料。荷物はさほど大
きくないが、気温と湿度のせいで少年の肌は汗ばんでいる。
「カムタ、先にシャワーして来たらいいんじゃないかぁ?」
家の敷地に入り、小屋の中の鶏ペアから開放を訴えられながらルディオが提案する。
「うん、そうする。結構汗かいたしな…」
鶏小屋に向かうルディオを残し、そそくさと家に入ったカムタは、部屋の中で死骸のように引っくり返って寝ていたバルー
ンにゼリーをあてがうと、着替えを引っ掴んで浴室に向かった。
肌に貼りつく衣類を脱ぎ捨て、浴室に入って、「はぁ…」とため息を漏らす。胸に手を当てると、厚い肉を通して高鳴って
いる鼓動が感じられた。
「好き」。これまでの「好き」とは違う「好き」。
幼馴染の言葉を思い出しながら、カムタは壁に両手をついて俯いた。
玉の様な汗がフツフツと肌に浮く。若くて張りのある、日に焼けた小麦色の肌が、なお血色良く赤味を帯びる。
弾力のある肌と肉。成熟し切っていない、しかし充分に育った若い体。成長の余地を残しながら、しかし生物としての機能
はすっかり備えた肉体。
浴室の壁に両手をつき、熱い吐息を零すカムタは、自分の中にある熱を持て余す。
下に向けた目に映るのは、筋肉で厚みを持ちながらも脂肪でせり出した胸。そして曲線を描く腹。その向こうで屹立する、
先端だけ見える皮を被った陰茎。
(大人になってく、途中の…)
ヤンの言葉を思い出しながら、少し前であれば病気を疑っただろう体の火照りに耐えるカムタ。
下腹部に強い疼きがある。痛いようで違う。むず痒いようで違う。苦しいようで違う。経験してきた他の感覚とは異なる、
辛いのに心地良くもある奇妙な疼き…。
背を丸めて壁に手をつき、ヒクン、ヒクン、と脈拍に呼応して動く自らの陰茎を覗き込みながら、カムタは切なげにため息
を零す。
火照った体は濡れている。乳の下、首回り、腋の下、股下、汗は道を作って肌を伝い、湿った床を踏む両足へ。
疼きと火照りがおさまらない。どうしていいのか、どうしたらいいのか、判らないままの欲求を持て余して、カムタはシャ
ワーヘッドを手に取った。
鳥肌が立って身震いするほど冷たいシャワーが、今は妙に心地良かった。
(どうして言えねぇのかな?)
ルディオには何でも話して来た。思った事、感じた疑問、判らない謎、何だって打ち明けた。
なのに今はこの気持ちを、気を向けている当のルディオにだけ言えない。
言ったら気持ちが楽になりそうな気もするが、話すのは躊躇われる。どうして言えないのか、少年には判らない。
(どうしてなんだろ…)
ペタンと座り込み、股を広げて股間を見下ろす。むず痒くて苦しい、怒張してヒクヒク脈打つ陰茎に、シャワーを浴びせて
鎮めながら、
(どうして…)
ハァ…、とカムタは疲れたようにため息をついた。
初めての「好き」と同じように、少年は知らなかったのである。
その躊躇いが、これまでに感じたものとは質が違う、初めての「怖い」…つまり、好意を拒絶される事と、これまでの関係
が終わってしまう事への「怖い」による物だという事を。