I'm in love with you

 雨が強い昼下がり、窓を打つ水滴を眺めながら、カムタは困り顔で蓬髪をガシガシ掻く。

(今日は止みそうにねぇなぁ…。けど家の食い物も減ってきたし、磯の仕掛けだけ見てこよう)

 夜明け前から降り出した雨からは弱まる気配を嗅ぎ取れない。より正確に言えば、天候の先が読み辛くてどう転ぶか判らな

い。釣りをはじめとする漁は諦め、仕掛けだけチェックする事に決めたカムタは、シャツを脱いで上半身裸になり、ノートパ

ソコンの画面を見ているルディオを振り返った。

「アンチャン、磯の仕掛け見に行って来るから」

「ん」

 最近のマイブーム、延々と迷路を進んでゆくスクリーンセーバーアニメーションを見つめていたセントバーナードは、顔を

上げつつ腰も浮かせた。

「おれも行く」

「濡れちまうぞ?」

「濡れるのはカムタもだ」

 答えたルディオもベストを脱ぎ、カムタと同じく半裸になる。無駄に濡らすなら上は羽織らない。寒くもないし周りも自分

も気にしない。雨季の島では普通に見られる格好である。

 リビングに放したバルーンを留守番に残し、雨天でも変わらず「出勤」してくるヤシガニと挨拶を交わし、小屋に閉じ込め

られた鶏達に声をかけられながら、ふたりは雨粒が絶え間なく落ちる庭を足早に横切った。

 風は無く、落ちてくるだけの雨粒。湿らされた空気は程よく冷えて、肌を流す雨が心地良いほど。天然のシャワーを浴びな

がら、目に入る雨水を拭いつつ磯に向かえば、水平線が雨にけぶって見えなくなっている海が広がる。

「沖の方すげぇなぁ。誰も船出してねぇや」

 船影一つ見えない黒々とした海と灰色の空を眺めつつ、カムタは磯の岩場を危なげない足取りで跳ねて移動してゆく。雨の

中でも少年の動きに不安定さは見られない。海草で滑る岩や、表面がザラついた場所を瞬時に見極め、ポンポン弾むように移

動してゆくカムタは、その真ん丸く肥った体型からは想像し難いほど身軽である。

 張りのある褐色の肌は雨に濡れ、光沢を帯びて曲面が強調されている。動きに合わせて尻や腹で肉が弾むが、だらしないと

いうよりは肉付きの良さと元気の良さが印象強く、若々しく健康的に見える。

 被毛にたっぷり水を吸い込んだルディオも、一歩一歩しっかり踏み締めながらその後に続くが、こちらはカムタとはまた少

し違う歩調。着地した際にゆっくり膝が沈み、衝撃を殺す。そのおかげで吸い付くような接地力が得られており、非常に安定

した動きになっていた。

 雨が降りしきる岩場の上でも、それぞれ危うさを全く感じさせないふたつの影は、時折止まって岩の隙間を確認しながら作

業をこなしてゆく。収穫は小魚十一尾と貝が少量、蓄えを含めて今日の晩飯には不足しない量だった。

「あんまデカくねぇし、このままフライにすっかな?」

 収穫物を袋に入れる手を止め、カムタはふと沖を見遣る。

 ここしばらく天気の予想がつき難い。それはカムタのみならず、島のベテラン漁師達も同様だった。風向き、湿度、季節な

どからほぼ正確な予報ができていた皆が、少し前から勘を鈍らせている。「予想が外れる」のではなく「予想自体がし難い」

のである。まるで、判断要素に何か余計な物が混じり、聞き耳を立ててもノイズとなって邪魔をしているかのように。だが、

その「判断のし辛さ」の原因が誰にも判らない。皆揃って首を傾げるばかりである。

(地球規模の環境変化、かぁ…)

 カナデから教わった事を思い出す。

 この星の環境はこの数十年で、それまでの数百年数千年規模での変化を遂げているのだと、異邦人は語った。その環境変化

に自分達の感覚が追いついていないのかもしれないと、少年は考える。

「アンチャン、もう引き上げよう」

 この分では漁場には期待できないので、明日も晴れなかったらパンダナスを収穫しようと決め、カムタはルディオを促して

引き返す。沖で遠く雷が唸る。荒れた後は豊漁になり易いという経験則から、いつもなら喜ぶ所なのだが…、

(天気がどうなっか判んねぇからなぁ…)

 予測ができないというのは何とも不便で仕方がないと、カムタは困った顔をしていた。



 雨に降られて戻った庭で、ブルルッと身を震わせて被毛が吸い込んだ水気を勢い良く飛ばすルディオを、カムタが面白がっ

てカラカラ笑う。

 便利だと思う反面、そもそも全身を毛で覆われていないので自分の体にはここまで水は溜まらない。違いが面白いのは何ヶ

月経っても変わらないなと、垂れ耳を掴んで雑に絞っているルディオを眺めながら、そんな事を考えていたカムタは、

「…!」

 キュンと、下っ腹が切なく疼いて戸惑う。

 濡れた体から雨水を追い落とすルディオの、逞しい半裸。軽く捻られた上体。頭に手をやる腕の盛り上がった力瘤。張りの

ある腹と分厚い胸では、動きに合わせて皮下の筋肉がうねる。

 サッと目を逸らしたカムタが足早に玄関へ向かうと、ルディオは軽く眉根を寄せた。

 最近時々、カムタが距離を取るような仕草を見せる。それはいつも唐突で、以前には見られなかった事もあり、ルディオに

は目立って見える。

「カムタ」

「うん?」

 玄関で振り返るカムタは、しかしいつも通り。不機嫌な様子でもなく、疲れている顔でもない。

 名を呼べばこうなる。おかしな所のない態度が見られる。だからなおさら「わからない」。

「ん…、何でもない」

 曖昧に濁したルディオは、カムタに続いて家に入る。すっきりしないが指摘するべきなのか判らず、そもそも何と説明すべ

きかも判らない。

 洗い場で濡れたズボンを干し、体を拭う。その最中にカムタはルディオに背を向けた。この行動もセントバーナードに疑念

を抱かせる。

 何かを隠している。そう、嫌でも感じる態度だった。

「カムタ」

「うん?」

 タオルで肌の水気を拭い取りながら応じたカムタは、

「怪我したのか?」

「え?」

 ルディオの問いで手を止めた。

 少年が自分に隠している物は怪我の類ではないか?と考えたルディオの問いだったが、カムタからすれば自分で気付いてい

ない怪我の指摘に思える問いかけ。少年は岩場で何処かを擦ったのかと、足を上げてみたり踵側を確認したりする。

 その様子につられたルディオも、カムタの足周りをよく見ようとして近付き…。

「あ!」

 サッと、少年の手が股間を隠し、手放されたタオルがハラリと床に落ちる。

 その瞬間、カムタは失敗に気付いた。過剰に反応して隠そうとした手の動きそのものに、ルディオの目は素早く反応して、

視線を足元からカムタの手の動く先へ向けていた。

 ルディオは不思議そうな顔をしていた。その表情を確認するや否や、カムタは股間を押さえたままバタバタと部屋から出て

行ってしまう。

 困惑気味に立ち尽くすルディオは、カムタが廊下の向こうへ姿を消すまで見送って、首を捻った。



(見られた…!っていうかバレた…!っていうかバラした!!!)

 自室のベッドからシーツを引っぺがし、オバケの仮装のように被りながら、カムタは泣きそうになる。

 おそらく見られただろう屹立した陰茎は、焦っても元には戻らない。

 何でもないふりをすれば良かったのだろう。走って逃げたりしなければ良かったのだろう。なのに目立つ動きをしてしまっ

たせいで、ルディオに印象づけてしまった。

 消えてしまいたい恥かしさと焦り、そして正体不明の恐れ。体中真っ赤になって息も脈も乱れ、小麦色の肌にフツフツと汗

の玉が浮く。

 ルディオに合わせる顔がない。まともに顔を見られない。何と言葉を交わせばいいか判らない。

 シーツを被って床に塞ぎ込んだカムタは、バルーンをリビングに移動させておいたおかげで、こんな格好を見られない事だ

けが救いだと自嘲し…。

「カムタ?」

「わあっ!?」

 ドアを普通に開けて入って来たルディオに驚き、大声を上げて身を起こし、後ずさって逃げようとして失敗し…、尻餅をつ

いて引っくり返った。

 シーツが棚引いて下敷きになり、あらわになった股間では、少年の未成熟な陰茎が精一杯の主張を続けている。

 これまでの人生で最大の危機。青褪めるカムタの前で、ルディオは屈んで目線の高さを近付けた。

「………~っ!」

 飛び起きて股間を隠し、ペタンと座り込んで下を向く少年。

 もう隠せない。もう誤魔化せない。もう黙っておけない。

 観念したカムタは、蒼白から一転して真っ赤になった顔を俯け、口を開いた。

「アンチャン…、オラ、この前…、セーツーってのに…なったんだ…」

 ルディオが知っているかどうか、言っている意味が伝わっているかどうか、チラリと上目遣いで覗ったカムタはセントバー

ナードの頷きを確認する。

「精液の放出が可能になった事。性器の成熟に関する目安ともされる。…っていうヤツかぁ?」

 屈んだ状態から胡座に座り直しつつ、知識を参照したルディオが口にした、説明書きの文言のような表現で、カムタは少し

面食らった。少し難しめの言葉で解説されると、特段恥かしい事でもないような印象を受ける。

「う、うん。ソレだ。で、オラがちょっと大人になってきたって事みてぇなんだけど…」

「おめでとう」

 素直に祝うルディオ。「あ、あんがと…」と礼を言うカムタ。

 そして…。

「………」

「………」

 カムタの説明が途切れ、両者しばし沈黙。どうにも合の手などを入れるタイミングがよろしくないセントバーナードである。

「えぇと…、で…、大人になってきたって事で…、その…、セーテキな?コーフンの…、せいとかで…、チンチン硬くなった

りすんだけど…」

 ややあって、口を開いたは良いが完全に下を向いたカムタは、ルディオの反応を気配で探った。

 もう判っただろう。どうして自分の股間がああなっていたのか、自分が何を見て興奮していたのか、ルディオにも判っただ

ろう。知ってどう感じただろうか?呆れただろうか?嫌な気持ちになっただろうか?

「ああ、そうかぁ」

 身を硬くしているカムタの耳に届いたのは、いつも通りののんびりした声。

 恐る恐る顔を上げた少年が見たのは、うんうん頷いているセントバーナード。

「大人になるとそういう欲求が出る。…みたいだなぁ」

「………」

 カムタはまたしばらく黙り、小さく唾を飲んでから「アンチャン?」と口を開いた。体が熱くて肌は汗ばんでいるのに、喉

はカラカラだった。

「ん?」

「えぇと…」

「ん」

「あの…、さ…」

 口ごもりながらカムタは言う。できればずっと言いたくなかった事を。バレないようにしたかった事を。

「オラ…、アンチャン見てると…、時々…」

「………?」

 ルディオの太い首が傾く。それはそうだよなぁと、カムタも思う。

 島に流れ着いて、自我が生まれて、何も判らないまま家族として、兄弟のように暮らしてきたこの数ヶ月。突然こんな事を

言われても訳が判らないだろう、と。しかし…。

「…ああ~…」

 少し間をあけてから、セントバーナードは顎を引く。

「もしかしたらカムタは、「男を好きになる男」なのかもしれないなぁ」

「………」

 今度はカムタが首を傾げた。ルディオが言った事が、巨漢が理解を示した事が、何であるのかすぐには頭に届かなかった。

「同じ性別の相手を好きになる…、つまり、恋愛っていう意味の好き、だなぁ。そういうひとも居るらしい。性的な興奮を同

性に抱くとか、そういう事もある。…みたいだなぁ」

 知識を参照してセントバーナードはそう述べる。が、今回は普段の情報参照以上に、ルディオ自身の思考で理解できていた。

 そういう物を、ルディオは知っていた。

 全てを知っている訳ではないし、全部を思い起こせる訳ではないが、それでも「そういう事もある」と知っていた。

 垣間見た、脳に焼きつく記憶の残滓。遠い時と距離を超えた先、今となってはもう誰も辿り着く事が叶わない、存在しなく

なった秘密のセーフハウスに、ルディオは思いを馳せる。

 ハーキュリー・バーナーズがその生涯で唯一人愛した存在も、男性だった。

 ハウル・ダスティワーカー。

 ハークの幼馴染であり、名門の家系同士で、家ぐるみの付き合いがあった親友。

 人気ロックバンド「プライマルアクター」のリードボーカルにしてギタリスト。

 ハークが「殲滅」の役務を担っように「暗殺」の役務を担った同期の「サー」。

「男を…好きになる…?」

 きょとんとしながら少年は聞き返す。

 そんな物もあるのか?本当に?自分だけではなくて?そんな少年の疑問に応じるルディオの…、

「うん。カムタはそういうタイプなのかもなぁ」

 その口調はいつも通りののんびりした物で、その表情はいつも通りのぼんやりした物で、だから…。

(ああ…!)

 カムタは心底ホッとした。

 少なくとも拒絶されなかった。逃げ出されなかった。それだけで、弾けてしまいそうに苦しくて痛くて激しく脈打っていた

胸が落ち着いた。

「嫌じゃねぇのか?怒ったりもしてねぇのか?アンチャン?」

「嫌?怒る?…なんでだぁ?」

 問い返し、一瞬考え、そして意図を尋ねるルディオ。元々嘘を吐くという概念自体を持ち合わせていないような正直者だが、

その「何で嫌がったり怒ったりしているか訊かれるのかわからない」という表情が、判り易く本心を物語っている。

「…カムタ?どうしたんだぁ?」

 ルディオの目が大きくなる。

「え?」

 どうした、とは何だ?そんな疑問で同じく目を大きくしたカムタは、視界が滲んでいる事に気付く。

 ポロポロ、ポロポロ、頬の上を転げてゆくのは、涙。

 零れる涙を胸の前で手に受け、自分が泣いている事に気付き、軽く動揺し、疑問にも思ったカムタは、しばし掌に乗った滴

を見つめ、やがて涙の理由を理解した。

「あー…。オラたぶん、無茶苦茶怖かったんだな…」

 怖かった。そう、怖かったのだ。自分で思っている何倍も、本当は怖かった。

「すげぇ安心したんだ、今…」

 安堵の涙。それが、目から零れ落ちた滴の正体。

「大丈夫かぁ?カムタ…」

 目線を近付けて心配するルディオに、カムタは涙で濡れた笑顔を向ける。

「うん。大丈夫だ!もう痛くねぇし苦しくねぇ!…え?」

 カムタの顔から笑みが消えて、きょとんとした表情が取って代わる。

 太く逞しい腕が、少年の体を包み込むように回っていた。

「泣かないでくれ、カムタ。カムタが泣いたら、おれは悲しい」

 巨漢の口をついたのは、素朴な、飾り気の無い本音。

 カムタの同性愛の事は判った。が、ルディオ自身はどうなのかというと、実は正直わからない。カムタが自分に対して性的

な欲求を覚えるらしいと知っても、それをどう受け止めてどう解釈しどう対応すればいいのか、よく判っていない。

 カムタが好き。それは家族愛という物のようでもあり、兄弟愛という物のようでもある。親愛であり友愛であり、しかし一

つだけハッキリしているのは、ヤンやリスキー、テシーへの好意や仲間意識とは違うという事。

 だから、「もしかしたら」とは思う。

 自分は人格が生まれてから間も無く、知識はあっても人生経験は短く、それ故に感情の機微や精神の在り様など常人と比べ

るべくもなく、自分自身の気持ちすらも何と形容すれば良いのかわからない場合が多いし、自分が今どんな気持ちでいるのか

把握できない事も多い。

 だから、「そうかもしれない」とも思う。

 恋愛という物を把握し切れていない自分が、カムタに寄せる「好き」に、恋愛感情と呼ぶべき物が含まれていないと断言で

きるはずもない。

 だから、もしかしたら…。そして、もしもそうだったなら…。それはきっと…。

(素敵な事、なのかもなぁ)

 ルディオに抱き締められたまま、カムタは目を閉じ、腕を巨漢の背に回して抱き締め返す。

「アンチャン…」

「ん」

 囁くような小さな声は、ルディオの耳にはしっかり届いた。

「オラ、アンチャンが好きだ…」

「ん」

 小さく顎を引く。尻尾がフサフサと揺れる。嬉しい。とても。

「ずっと一緒に居てぇんだ。もっとくっついて居てぇんだ。アンチャンと…」

「ん」

 顎を引いて同意する。それは自分も同じ。同じである事が嬉しい。

「良いかな?ずっと一緒に居てくれっかな?これからも、ずっと…」

「ん」

 また頷く。頷く以外に無い。そうか、これがきっと、「願ったり叶ったり」という物なのだろう。ルディオはそう、かねて

からの自分の願いにカムタの乞い願う言葉を重ね、一つにする。

「カムタ。ずっと一緒だ。ずっと…。ん…。ずっとなぁ…」

 ルディオの手がカムタの背を撫でる。

 少年の腕が力を込め、もっと、もっと、ぴったりと、セントバーナードに抱きつく。

 言葉にし難い喜びと欲求。

 嬉しい。だがもっとくっつきたい。

 抱き合ったまま、ふたりはいつまでもそこから動かなかった。



「安心したら腹減ったな!」

 数時間後、食卓に乗ったのはありったけの食材を引っ張り出した夕餉。

 明日の朝飯は明日獲りに行けばいい。何ならパンノキもある。そんな開き直りで節約を辞めたカムタは、貴重な調味料も惜

しみなく投入した。

 磯で獲れた魚は、切り身にしてカラッと揚げてレモンで味を整えた。

 今日とれた鶏卵二つは、フワフワのオムレツにしてケチャップで彩ってみた。

 砂を吐かせた貝は料理本を参考に調理酒を試し、赤唐辛子を細かく刻んで入れた酒蒸し風のスープになった。

 今日獲れた小さめの魚は、開いて骨を抜いて身だけにし、貴重品のバターをたっぷり使ってムニエル風に仕上げた。

 干して保管していたタロイモとパンノキの実は、手に入り難い上白糖を加えたココナッツミルクで煮込まれ、柔らかくて甘

い匂いが室内は勿論他の部屋まで広がっている。

 ある物だけで、しかし可能な手を尽くして用意した夕食は…。

「お祝いみたいだなぁ」

「だな。肉がねぇけど…」

 祝いの料理にはとにかく肉…というのが島の定番だが、今日はある物だけ。それでも普段と比べれば随分と豪華である。

 カムタの前にはアイスティー。ルディオの前には瓶のままのビール。バルーンの夕食も魚のすり身団子に加え、果糖を加え

た湯で戻したドライフルーツが添えられた豪華な物。

 強くなった雨が屋根を叩くその下で、夕食はいつもより時間をかけて消えてゆく。

 食事。食器洗い。片付け。いつもの仕事が今日は楽しい。傍らで食器を拭いて棚に片付けるルディオを、水洗いする手を止

めないままカムタは見遣る。

 目があって、笑う。

 何となく、笑い返す。

 何でもないのに笑顔になってしまう。きっと理由など要らない。気持ちのまま笑顔になるふたり。

 嬉しくて、ちょっと照れ臭い、いつもと少し違う夜…。



「硬くなんだよな。で、何かやってる内に戻ってんだ」

「おれも、起きた時とかそうなってる」

「え?なってんの?」

「ん」

 雨水が溢れて勿体無いので、折角だからと濾過した水を浴槽に溜めたり、浴びて体を洗いながら、カムタはルディオを振り

返った。セントバーナードの股間にぶら下がる、体格に相応しいサイズの太い逸物は標準形態だが…。

「…もっとデカくなってんの?」

「ん」

 カムタの素朴な疑問に、ルディオは顎を引く。

「そっかぁ~。もっとかぁ~」

 自分のモノを見下ろすカムタ。少し背中を丸めないと出っ張った腹に隠れてしまう陰茎は、ルディオのモノと比べると…。

「………そっかぁ~…」

「?」

 説明し難い敗北感に項垂れるカムタと、首を傾げるルディオ。

 ジャバジャバ水を垂れ流す珍しい光景に興奮したのか、乱入したバルーンは床を流れる浅い水流で足を洗ったり尻をつけて

流れを感じて滑ってみたり、翅をブビブビ鳴らして落ち着き無く動き回っている。風呂を沸かしている訳ではないのだが、南

国の雨季に水を室内で垂れ流せば湿度は相当な物。ルディオもバルーンも体毛がすっかり湿気を吸ってしまっていた。

 フレンドビーは水浴びが好きなのだろうか?そんな疑問から知識を参照するルディオが、流水の床を滑って遊ぶバルーンを

目で追っていると、水を満たした浴槽からザブンと波が溢れて来る。

 小規模な波乗りに興じ始めたバルーンから目を外したルディオは、水風呂に浸かるカムタを見遣り、その何か期待するよう

な、それでいて照れ臭そうな、そっと逸らされた視線に気付いた。

 縁に組んだ腕を乗せ、その上に顎をつけたカムタの頬は、ほんのり赤らんでいる。

 ルディオは何も言わず、浴槽に近付き縁を跨ぐ。ザブンと身を沈めると少年の体が少し浮いた。先より多く水が溢れて、バ

ルーンが壁際まで流れてゆく。

 一緒に湯船に浸かる。元が漁船の水槽だったので、スペースに余裕もあるし、順番を待つ必要がない。今までは、「だから」

一緒に入っていた。

 だが、今日は違う。一緒に入れる広さに感謝している。けれど、やはり何だか照れ臭い気持ちがあって、ルディオの方を向

けない。

「…な、なぁ、アンチャン?」

「ん?」

 縁に背を預けているルディオに、浴槽の外側を向いたまま、カムタは尋ねた。

「明日、どうしよっか?」

 朝の漁に行く。食料を確保する。やる事は普段通り。いつも通りの一日の予定。訊く無意味さに、口に出してから気付いた

カムタだったが…。

「明日も、カムタと一緒だなぁ」

「………」

 無言でチャプンと、水に鼻の下まで浸かる。

 ナンセンスな問いに返されたのは、嬉しい答えだった。



 体をぬぐい、被毛を乾かし、さっぱりと身を清め終えたルディオは、背中にポフンとくっつかれて首を巡らせる。

「えへへ…!」

 見上げるカムタははにかんだ笑顔。ずっと抱いてきた気持ち、ずっと言えなかった事、それが全部片付いて、かつてないほ

どすっきりした気分だった。
ルディオの体は大きくて頼もしくてフカフカしていた。判っていた感触なのに今日初めて知った

ような新鮮さがある。抱きついたカムタの腹の辺りで、フサフサッと尻尾が揺れた。それがこそばゆくて気持ち良い。

「ん~…!」

 抱きついたまま、広い背中に顔を埋める。乾かしたばかりの被毛が柔らかくてくすぐったい。

 やがてルディオはカムタが腰に回した腕を取って外すと、少年に向き直って、上から抱え込むように抱き締める。示した好

意に応じて貰えるその幸せを、カムタはしっかり噛み締める。

 もう、何も怖くない。

「アンチャン…」

「ん?」

「もっとくっつきてぇ…」

「ん」

 カムタの言葉を受けて、ルディオは少し力を込めて抱き締め、体を密着させる。鼓動が伝わる。体温が伝わる。呼吸が伝わ

る。腕の中の少年は、自分を助けて生かして世話を焼いてくれた恩人は、今、確かに生きている。自分と同じく息をして、こ

こに生きて…。

 唐突に、あの生と死の狭間で出会ったハークが言っていた事を思い出した。

 

「おれ、死んだのかぁ?」

 あの時発したその問いに対して、同じ顔をした巨漢は少し沈黙してから答えた。

 微かに笑みを浮かべて…。

「…いや。いいや。お前は「生きてる」。誰が何て言たってな」

 

 ああ、そうだなぁ。とルディオは理解した。

 あれは、単純に「まだ死んでいない」という話ではないのだ。死体を元に作られても、ひとの胎から生まれたのでなくても、

今お前は「生きている」…。
自分の大元となった巨漢は、きっとあの言葉にそんな意味を込めていた。「この島で生まれた」。

誰がどう言おうと、誰に何を言われようと、それを忘れるなと…。

 自分は生まれ、生きている。カムタと同じで、生きている。

(おれは、生きてる)

 それは何と素晴らしい事なのだろう。

(カムタも、生きてる)

 巡る世界の片隅で、自分はこの少年と出会い、この少年と生きている。

(カムタと、生きてく)

 他の土地を知らない。そんな事を抜きにしても、はっきりと判る。

(おれは、この島で生まれて、この島で生きてく)

 自分も、カムタが好き。他の誰よりも、他の何よりも、この世で一番好き。

 いつまでもひしっと抱き合ったまま、ふたりはお互いの感触を、存在を確かめていた。



 少年の部屋のベッドに、影が二つ。

 ふたりとも下着を穿いただけの半裸。左側を下にして横臥するルディオに、向き合う格好でカムタがくっついている。

 セントバーナードは壁際にぴったり寄っているが、それでも幅があるのでカムタのスペースは狭い。ルディオは丸っこい少

年がベッドから転げ落ちないように、上から腕を回して抱いている。

「アンチャンのベッドも持って来て、二つくっつけた方が良かったな?」

「明日はそうしようかなぁ」

 ルディオの返答を聞いて、カムタは喜び、分厚い胸に顔を埋めた。

 明日も一緒。その先も一緒。ずっと一緒。心の中も全部言って、これからは今まで以上に一緒…。くっついて、一緒に眠る。

それでこんなにも心安らぐ。

 回した手には暖かで柔らかな被毛の感触。手だけではない。密着した素肌に直接感じる「命」。鼓動が、呼吸が、体温が、

生きていると知らせてくる命のリズムが愛おしい。

 背中側に回した腕を曲げ、少年の蓬髪をワシワシ掻いて、セントバーナードは目を閉じた。

 安堵したように眠気を覚えてウツラウツラし始めたカムタを抱いたまま、ルディオは幸せを噛み締める。

 平時の睡眠時間をあまり必要としないルディオにとって、毎日来る独りの夜は長かった。

 だがきっと、これからは違う。カムタを抱きながら、カムタの寝顔を見ながら、カムタの寝息を聞きながら、夜明けまでの

時間を退屈せずに送れるのだろう。

 いずれ来る朝を待ち詫びながら、更ける夜を大事に慈しんで…。



 一方その頃。

 リビングでは、天井すれすれをブンブブンブブンブブビビビッと、フレンドビーが延々と旋回しながら羽音を鳴らしていた。

 子供心にも甘える姿を第三者に見られるのがちょっと恥かしかったカムタによって、バルーンは鳥の巣のような専用の寝床

ごとリビングに移動させられてしまっている。

 仲間はずれにされたような気がして、不満を表現するようにわざわざ羽音を大きくしているクマバチだったが、しかし結局

三十分ほどで大人しく寝床に潜りこみ、そのまますっかり不満を忘れてしまった。

 なお、この日からバルーンはリビングに寝床を固定される事となった。



 そして、一方その頃さらに別の場所。

「………」

 島の診療所。私室に持ち込み、小さな丸テーブルの上に置いたノートパソコンを前に、肥満虎は両手で顔を覆っていた。

 モニターに表示されているのは、ベッドの上で絡み合う男性ふたり。

 スピーカーから流れ出るのは、ムーディーなBGMと喘ぎ声。

「………」

 ヤンは両手で顔を覆いながらも、その太い指の隙間からモニターをチラチラ窺う。そして…。

「………!!!」

 陰部に手が触れて愛撫する様がズームされると、途端に尻尾をビンと立てて膨らませ、ピタリと指の隙間を締めてモニター

から上半身丸ごと顔を背ける。

 まるで生娘のような反応を見せるヤンはしかし、しばらくするとまた、ネット上のデータで購入したポルノビデオを指の隙

間から覗き見る。

 勇気を出して人生初のゲイビデオ購入に踏み切ったのは、テシーと「一歩進んだ関係」になるために、年上の自分が詳しく

なっておかなければいけないという使命感による物であり、準備もせずにいざその時になったら度胸無しの自分が完全に詰む

未来が垣間見えるからでもある。

 両目どころか鼻まで真っ赤にしながらも、ヤンは必死に履修する。

 背を丸めて前屈みになっている肥満虎の、ぴったり寄せた両脚と、そこへ寄せられた腹の土手肉が交わる位置では、硬い物

がズボンを押し上げていた。

 なお、この日ヤンは結局朝まで一睡もできなかった。



















































 ザァザァと、止まない雨が降っている。

 月も出ない曇天の下、黒々とした波が寄せる夜の岩場に、ヒチャリ…と、波間から伸びた物が触れる。

 それは、多くの者が見慣れた形状をしていた。

 関節を複数備えた突起が五本あり、それぞれがばらばらに可動し、物を掴むのに適した器官の形状を。

 それが、岩の凹凸を掴み、そこから続くものを引っ張り上げる。

 手首。前腕。肘。上腕。そして…。

 ヂュンッ…。

 海面下から本体を引っ張り上げる前に、空気を全く振動させない、音にならない音を立て、岩にしがみついた手の甲に、氷

が熱湯で溶けたように穴が空いた。

 岩地が見えるほどの大穴を空け、しかし岩そのものには触れもしない位置でピタリと止まったのは、鋭い、打ち削られて作

られた、石器の穂先。

 月明かりも無い暗闇で、石器の穂先を備えた手槍を突き出しているのは、腰蓑を身に着け、牙と貝殻と骨の首飾りと、イヌ

科の物と思しき獣骨のマスクを着用した、褐色の肌の屈強な偉丈夫。

 甲板を踏み締めるように空中を踏み締め、海面の獲物を仕留めるように手槍を突き下ろした屈強な男の、獣骨面の眼窩から

覗く鋭い目は、槍の一突きを受けた穴から連鎖的に融解し、跡形もなく消え去る腕をじっと見つめていた。

 沖で雷が響き、空に稲光が走る。

 それが海と島々を照らした刹那の間に、映像の乱れにも似たノイズを一瞬だけ空間に残し、屈強な男の姿は消え去った。

 ウールブヘジンの気配探知にも一切掛からず、事は、誰にも知られない間に起き、誰にも知られないまま終わる。

 それは、島の誰にも気付かれないまま、ずっと昔から幾度も、気が遠くなるほど繰り返し、行われてきた事。

 しかし、かつてはそれほどの頻度で行なわれていなかった事。

 ザァザァと、止まない雨が変わらず降っていた。