Intermission

 杖を突き、アジア系の若い男が石畳の上を行く。

 手入れが行き届いた庭園は、夜になってなおその美しさを星空と競い合うに足る見事な物。

 石畳の歩道は雨を避ける屋根とアーチ状の柱に護られ、照明が抑えられた庭園をぐるりと円形に囲み、四方から中心へ伸び

て庭園中央で十字に交差している。

 青白い患者衣姿で、杖を共に夜の庭園を散歩しているアジア系の青年を、夜風が穏やかに撫でる。

 ONCの医療施設。リハビリに打ち込むリスキーは、既に独りで歩き回れるまでに回復していた。

 手首から先を失った左腕はまだそのままだが、人工関節に置換された膝の調子は上々。麻酔も鎮痛剤も効かない体のため、

加重を分散して痛みを和らげるために杖を使っているが、無くとも地力歩行は可能である。夜の散歩は、リハビリの運動だけ

では体が鈍りそうなので日課にしている。

 庭園を四つに区切る十字路の中心に至ると、リスキーはそこから芝生へ出て、夜空を眺めた。

 諸島とは星の位置も違う夜空。その事実が距離を実感させる。

(エルダーバスティオンにも目立った動きは見られず、ラグナロクも動いている気配は無い…。相変わらず最後の流出物の行

方は判っていないが、とりあえず平和と言えるだろう…)

 落ち着くまで一緒にいられなかったのは心残りだが、これで良かったのだとも思う。

 ルディオはきっともう自由で、島は安全。カムタと一緒にずっと暮らしてゆけるはず。

 弟の事は、実はまだ気掛かりである。努力してあんな態度を心がけてはいるが、精神的には昔と変わらない部分が大きい。

寂しがってはいないだろうか?ちゃんとテシーに世話を焼かれているだろうか?その点だけは強がらずに、好意を受けて甘え

て欲しいと思っている。せめてこの世界にひとりぐらいは、格好つけずに本音も弱みも曝け出せる相手を作って欲しい、と…。

それが、嘘と誤魔化しと偽りで塗り固められた人物、「リスキー・ウォン」を演じ続けてきた兄の思い。

「………?」

 夜空を見上げて物思いに耽っていたリスキーは、不意に目を細め、眉根を寄せる。

 空を何かが飛んでいる。鳥…ではない。飛行機やヘリコプターでもない。風にはためいているが、低空ならいざ知らずそん

な高度をハンカチなどが飛ばされているとも思えない。

 何だろう?という疑問が職業柄すぐに警戒心に変わる。

 数歩後ずさってしっかりした足場…石畳に立ち、見極めにかかろうとしたリスキーは、小さく見えていたそれが徐々に大き

くなって…つまり近付いている事に気付き、杖のグリップに隠れているキャップを外して非常コールボタンを露出させ…。

「!?」

 結局、押さずに留まり、目を見開く。

 夜空から、落下するような速度で接近してくるソレを、はっきりと視認した瞬間、正体が何なのか確信した。

 慌てて屋根の下から出て芝生に戻ったリスキーが見上げる中、ソレは身に纏うローブをはためかせながら降下し、着陸寸前

に減速した。

 その見た目の体積とは裏腹に、ふわりと音も無く芝生の上に降り立ったのは、フードを目深に被り、若草色の外套ですっぽ

りと全身を覆った男。その周囲を宙に浮いたフラフープのように紙の帯が取り囲んでいる。

「若先生…!ご無沙汰しております」

 深く頭を下げたリスキーに対し、フードの影で顔が見えない男は会釈を返すと、腰の高さで自分を取り囲んで一周している

紙の帯の一部に触れる。

 それは翡翠色に着色された、上下の端に同色の石の玉をはめ込んだ円筒状の軸。男の獣毛に覆われた指が上端の石に触れる

なり、紙の帯は一瞬で軸に巻き取られ、収納される。同時に周囲を固めていた圧縮大気が開放されて四方へ散り、芝生に風の

波紋を描き、リスキーの患者衣を激しくはためかせた。

 スクロール。それがこの男が扱う「グリモア」の形状。エルダーバスティオンの部隊が持つ一般的な形状のグリモアとはま

るで違い、むしろ異端とさえ言える形態の品なのだが、この男はこれを独自に発展させ、様々な逸品を生み出している。

 巻物のグリモアを懐に仕舞うと、男はフードに手をかけて背中側に下ろし、頭部を露出させた。

 現われたのは犬の顔。それも西洋の犬とは違うい、耳が立ったアジア系の犬…秋田犬と称される日系の犬獣人の顔である。

 肉付きの良い丸顔をしているが、ゆったりしたローブでもボディラインが隠しきれておらず、ころりと丸いその体型が判る。

背丈も180を軽く越えており、向き合っているとリスキーが小さく見えるようなボリュームだった。

「こんばんは。丁度良く見つかったので、つい直接降下してしまいました」

 穏やかそうな顔つきに合う、静かで落ち着き払った声で挨拶する犬は、目を僅かに細めていた。

 ONCがパイプを持つ大術士アグリッパ、その「当代」。それがこの犬の素性。リスキーも上司のボディーガードとして同

行していた際に、彼がアグリッパを襲名する前から時折顔をあわせていた。

 ONC幹部の御意見番、その突然の来訪がどうも自分と会うためだったらしいと、挨拶に続いた言葉で察したリスキーは…。

「先代から命じられまして、貴方が復帰できるよう治療を手伝う事になりました」

「治療…ですか?」

 寝耳に水。そんな話は全く聞いていないぞと戸惑ったリスキーだったが、「先代」というキーワードから、親が懇意にして

いたフェスターが先代アグリッパに働きかけたのだろうとすぐさま察する。

「仕事に忠実な部下への報奨として、役に立つ義手を所望したい。…と、貴方の上司から依頼があったそうです」

 リスキーの推測は正しかったようで、術士の犬は顎を引きながらそう告げる。

「先代は私に「特別な品」を用意せよと命じられました。フェスター氏のお眼鏡にかなう品を、と。そこで…」

 もそもそと袖の下を弄った術士は、そこから人の二の腕ほどの太さがある、長さ20センチ程の木の枝を取り出した。

「西海道は肥後国、名だたる木心坊より交渉の末にお譲り頂いた、歳経た椿の太枝です。切除してなお、化ける力が強い樹怪

の質は損なわれていませんので、これを使えば…」

 専門用語と異国の言葉が並ぶ説明は、リスキーには理解し辛かったが…、

「人の肌と変わらない質感に偽装した義手が作れます。それと、思念波の関連付けによって、多少ですが触感を得られるよう

にもなるでしょう」

 説明の後半はすぐに理解できた。

「触感…が?」

「はい。動かせるという訳ではありませんが、義手で触れた感覚をある程度は脳で感知できるようになるはずです」

 一体どう収納しているのか、術士の犬はその枝を袖の下へスルリとしまいこむ。

「専門のスタッフは二日ほど後で到着するそうです。それから調整かた数日かかるでしょうが、私もしばらく留まって様子を

見届けますので」

 微笑する術士を前に、リスキーは溜息をついた。

 前線から下げる。と、あてがった役職で告げておきながら、重要な戦線に送り込む兵士にも振舞わないような品を用意する。

これまでの働きに報いるという意思表示でもあるのだろうが…。

(まったく、悪党の癖に相変わらず義理堅い…)

 また引退が遠退いたなと、苦笑するしかなかった。





「ONCは規模を縮小しておりますが、これが目的を達したからなのか、それとも攻勢に耐え切れなくなったからなのかは不

明との事」

 報告書を読み上げる黒服は、私見を交えずに文章を目で追う。

 悪趣味なほど豪奢な一室。部屋の主である、人間でありながら爬虫類めいた体毛の無い男は、ブランデー入りのグラスを手

に、スラスラと流れる報告に耳を傾けていた。

「襲撃者の正体は不明のままですが、現地指揮担当は対象が手を引いた物と見て調査、及びグリモアの回収を続行しているよ

うです。なお、ONCの撤収開始時期と襲撃者の存在が確認できなくなった時期が一致しているため、何らかの関連性が疑わ

れるところではありますが、こちらも仔細は不明、両者の関係についても推測の域を出ない、との報告です」

 不明。推測。よく判らない。そんな言葉だらけの報告を苦い顔で読み終えた黒服に、爬虫類のような男は「で?」と、グラ

スから外した視線を向ける。

「正体不明の襲撃者。お前はこれを何だったと思う?」

「は…」

 意見を求められた黒服は、「恐れながら、予想できる三点申し上げさせて頂きます」と恐縮した様子で背筋を伸ばす。

「第一に、「アグリッパ」」

 爬虫類じみた男の目が、その言葉を聞いて細められた。

「ONCに絡む物で術士部隊を殺せる存在であれば、古くからあの組織と関係を持つ彼の大術士が即思い浮かぶ所です。…個

人的には、組織間抗争へ積極的に介入して来る存在とは思い難いところですが…」

「そうさな。奴らから見て世俗的な争いにわざわざ首を突っ込んでくるとも思えん。ONCの幹部共に泣きつかれたとしても、

普通ならば撤退を忠告する程度と思える。…で、第二は?」

「は。「ONCが探していた、天然の危険生物かそれに類するモノ」という可能性も無視はできません。連中がこの存在の確

保に成功し、目的を果たして規模縮小と撤退を行なったと考えれば、襲撃の沈静化とONC撤収開始時期の一致に説明がつき

ます」

「然り。どうにかして確保に成功したのであれば、諸島に踏み止まる理由も無くなる。では、第三は?」

「は。…これは動機の点で説明がつかないため、結果論ではございますが…」

 黒服はそう前置きして、「恐れながら、「黄昏」…という可能性も…」と声を潜める。

「精鋭揃いの術士部隊を実際に撃破可能な戦力という観点から申しますと、それだけの力を持ち、なおかつ我々に正体を掴ま

せず、動きすら気取られない…。この条件を満たせる者はそう多くはございませんので」

「そうだな。確かに「何故来たか」「如何にして嗅ぎつけたか」「どうして引き上げたか」という理由抜きに考察すれば、戦

力と言う観点で彼の組織の名も浮上しようという物。さて…」

 爬虫類めいた男の冷たい双眸が細められる。

「行動方針を決めるだけの考察は、この通り少し考えただけでいくらでもできる。では、現場からの報告にそれが含まれない

のは何故か…。表現の自由を許す。お前の言葉で忌憚無く述べよ」

「は…」

 黒服は会釈すると、「私見に過ぎない事ではございますが」と一層表情を厳しくした。

「現地指揮官であるケンディル・ホプキンスの怠慢と、その意向による物かと」

「で、あろうな」

 爬虫類のようなつるんとした顔に表情も浮かべず、男は頷く。同じ意見であった。

「何らかの手を講じ、服務態度を修正させますか?」

「いや、今は良い」

 黒服は一瞬意外そうな顔を見せる。主は件の指揮官を咎めるのだろうと、問答の最中に半ば確信していたので。

「このまましばし駐在させておき、何か出てくれば儲け物。でなくとも、ONCに手を引かせたという事実はそのまま示威が

成った成果として扱える。他に投入すべき案件も今は無い。ただ、持ち去られたと思しきグリモアの捜索は続けさせておけ」

「は。改めて指示を飛ばします」

 恭しく会釈した黒服は、話題に上がったその指揮官の事を考える。

 楽をしていたい。できれば苦労せず出世したい。簡単に言えば、話題に名を挙げた男はそういう性質だった。そして、実際

にそうやってその地位まで昇って来た。

(奴はそれでいいだろう。が、その積極的支援も建設的な指示も効果的な行動も無いせいで、非効率的に使い潰される前線構

成者達は堪った物ではない…)

 実績ある家柄の出でさえなければ、あんな中途半端に権力を握る位置になど就けなかったはずなのに。黒服は苦々しく思い

ながら、彼の下で命令に従事する不幸な構成員達に同情した。



「は~…、めんどくさ…」

 リゾートホテルの一室、長期宿泊の観光客を装ったラフな格好の男は、専用端末に届いたメッセージを確認すると、口を尖

らせてベッドに倒れ込んだ。奇しくもそこは、かつてカナデがカムタ達と一緒に島へ向かう途中でとったホテルである。

 眩いブロンドヘアに整った顔立ちが特徴の、三十を過ぎたかどうかという年頃の男だった。それなりに背も高く、均整が取

れた体つき。モテそうな容姿をしているが、表情からも態度からも倦怠感が漂っている。

 アロハシャツ姿なのでとてもそうは見えないが、この男こそが、諸島へ送り込まれたエルダーバスティオンの総指揮を担う

立場にある、ケンディル・ホプキンス連隊長。

「あくせく探し回ったって、見つかるときは見つかるし、見つからない時は見つからない物だって…。だいたいグリモア失っ

たのは術士達が無能だったからで、俺の責任じゃないでしょうが?その後始末とか、はぁあ、めんどくさ…」

 今日も繰り返された、グリモアの探索と回収を念押しする文面に辟易し、愚痴を零したついでに溜息も零す。

 ケンディル個人は、世界を支配するだとか、牛耳るだとか、そういった事は割とどうでもよいのだと考えている。自分がど

れだけ苦労しないか、どれだけ楽ができるかが最も重要なのだ、と。

 エルダーバスティオンは世界を支配すればいい。ただし、自分は苦労したくないし頑張りたくない。楽をしながら、だらけ

ながら、適当にやりながら、のし上がったエルダーバスティオンの中で何不自由なくダラダラ暮らしたい。勿論高い地位は欲

しいが責任は負いたくない。

「この諸島の暮らしとか、合ってるんだけどな~…」

 勿論、この諸島に暮らす人々も、のんびりしているように見えながらもきちんと仕事をし、食い扶持を稼いでいるのだが、

そこにあるはずの苦労も頑張りも全く考慮しないまま、「特に負わされる責任もなくダラダラ気楽に生きている」とケンディ

ルは決め付けている。

「はぁあ…。襲撃者の件がいつの間にか終わったみたいに、勝手に全部片付けばいいのに…」




 アジアの島国。瀬戸内海に浮かぶ島の一つ。

 外周をぐるりと岩肌の崖地と松林で囲まれたその島は、全体がある大富豪の私有地となっている。

 コンクリートで固められた小さな船着場と、入り江にプライベートビーチを備えた島の中心には、こだわり抜いて作られた

洋館「風」建造物。完全な洋館ではなく、この国で昔建てられていた西洋建築に倣った物…つまり「擬洋風建築」である。

 白を基調に手を尽くして造られた洋館は、あちこちに手を加えてアップデートされながらも、築百年を越えてなお外観に殆

ど変化が無い。

 その富豪の別荘である洋館を木立の中から見守るように、丸太で組まれた小屋がひっそりと、松林の中に建っている。洋館

と大きな倉庫、浜辺の小屋とこの倉庫だけが、島にある建造物の全て。

 煉瓦の煙突がついたログハウスは無骨なようで何処かファンシー。絵本に描かれるような外観で、格子で十字に区切られた

窓からは、別荘の物と比べると控えめな赤い灯りが漏れており、煙突からは微かな煙が昇っている。

 キッチン兼リビングとベッドルームの二間しかないログハウスの中には、大きな影が二つ。

 飾り気が無い木材組み上げのテーブルにつき、分厚いグラスを両手で包むように持って、生クリームがたっぷり加えられた

アイリッシュコーヒーを啜っているのは、でっぷりした大柄な狸。フリージャーナリスト…カナデである。

 暖炉の傍に置いた椅子に腰掛け、火箸を片手に暖炉の番をしているのは、大柄な狸よりさらに一回りは大兵肥満の熊。若い、

まだ二十代と見える熊だが、特筆すべきは全身を覆う雪のように白い被毛と、身の丈七尺以上はあろうかというその巨体。そ

こに居るだけで、ブルドーザーのような重機が鎮座しているような重量感がある。

 毛色は白いが北極熊ではなく、特徴は羆系のソレ。巨漢ではあるが柔和そうな顔をした青年で、表情は穏やかで眼差しも優

しげ。色褪せたオーバーオールと淡いオレンジのトレーナーという格好のせいで、顔立ちは実年齢よりも幼く見える。

 一時帰国したカナデは、最大手パトロンである烏丸財閥の総帥を訪ねた。旅の土産話をじっくり聞きたいという総帥の計ら

いで別荘に招かれ、二泊三日の休暇を満喫している最中である。

 この白い熊は、カナデのパトロンであるその大富豪からこの島を任されている別荘管理人。幼い頃からずっと住み込みで働

いており、執事としての振る舞いも、厨房長としての調理も、雑用や力仕事も、そしてバーテンダーもひとりでこなせるよう

になっている。この別荘に招かれる総帥の私的で特別な客はいつも少人数なので、ゲストを持て成すのはこの白い熊ひとりの

仕事。勿論、ゲストを歓待している間は執事として正式なスーツ姿なのだが、今日の仕事は既に済んでいるので普段着姿。夕

食会の後にホームバーで酒類を提供する事も多いのだが、今回は夜の会食の後にゲスト自身がこうする事を望んだので、居室

に招いて持て成している。

 管理人小屋であり白い熊の私室でもあるここには、時折総帥やその孫娘、熊と親しいゲストも訪れるため、日常的に自分で

使う食器の他に、ミニバーと呼べる規模の設備が備わっていた。壁に備え付けられた食器棚には様々な国の飲み物に対応する

各種コップやグラス類、常温保管可能な酒類が並び、床下収納スペースにも酒と食料品が蓄えられている。

 電気照明の類は無く、置かれている家電製品は壁掛け時計と卓上目覚ましのみ。別荘と違って電気に頼らない設計になって

いるのは、昔ながらの生活を好む白い熊本人の要望による物。最先端の調理器具もシステムキッチンも使いこなせるのだが、

自分の食事は小屋の暖炉に併設された竈で煮炊きする。

 卓上ランプと壁のランプ、天井から吊るしたカンテラ、そして暖炉の火が揺れながら投げかける明かりの中、一時帰国して

いるカナデは酒をご馳走になりながら、先程最大手パトロンに聞かせた旅の話を白い熊にも聞かせていた。

「…が問題になっている情勢不安定な国でね、欧米人に警戒感を持っているんだよ。うん?僕は別に警戒されなかったナ」

「…っていう名物料理があってね?いや、こう、何て言うか…。好きなひとは好きだと思うよ。うん」

「あの国は言語が難しいのだけが難点だったよ…。通訳さん居なかったら途方に暮れてたナ」

「…ここの海とも違うんだよ。風とか、匂いとか…。そうだネ、マーシャルの写真を見ながらの方が伝わり易いかナ」

 薪が爆ぜる小さな音と共に、カナデの声が部屋を流れてゆく。

 だが、それに対する感想の言葉も、感嘆の声も無い。暖炉の番をしながら、カナデに飲み物のお代わりを作る白い熊は終始

無言である。

 とはいえ、それは無視しているからでも、話に興味が無いからでもない。暖炉で熱したケトルからコーヒーミルで丁寧に轢

いた豆に湯を注ぐ間も楽しげな笑顔で、淹れたてのコーヒーにホットウイスキーとブラウンシュガーをたっぷり加えてステア

する際も丸耳を常にカナデの方へ向けている。

 野球グローブのように大きな手が洗練された動きで生クリームをトッピングし終えて、カナデの好みにあわせたとても甘い

アイリッシュコーヒーが出来上がる。差し出されたお代わりは、丁度カナデがグラスを空けて一息ついたタイミング。既に半

分に減っているつまみ…皿の上のバタークッキーも、実は白い熊のお手製。何から何まで過不足無く、心地良い…と感じる事

すら難しい、ゲストの注意を引かず気を逸らさないタイミングとスムーズさでこなされている。

「ありがとう。頂くよ」

 カナデがグラスを受け取る。目を細める白い熊は、やはり無言。

 ずっとカナデだけが話しているのは、この白い熊が喋れないからである。幼少期に負った心理的外傷により失語症になって

しまい、以来一語も発せられないでいる。

 とはいえ、使用人として非常に優秀なこの白い熊が、富豪の本宅ではなく島の別荘の管理人に専属として充てられているの

は、実は喋れない事が問題だからという訳ではないのだが、その辺りの事情まではカナデに知らされていない。

「そうそう、もし機会があったら、総帥のお供とかで連れて行って貰えるように頼んでみるといいよ。本当に良いところだか

らネ」

 そう勧めるカナデに微笑んで頷き、ホットミルクをチビリと啜った白い熊は、話して貰った南の諸島に想いを馳せる。

 よほど良いところなのだろうと感じた。カナデにはいつも旅の土産話を聞かせて貰っているが、今回ほど嬉しそうに語って

いるのは珍しかったから…。




 コツコツと、硬質な音が廊下をゆく。

 白い、何処か骨のような印象がある色合いの床を足早に踏み締めて進むのは、短く整えた髭に口周りを覆われた、険しい目

つきの人間男性。既に壮年の域に足が掛かった歳と見えるが、均整がとれた体付きにも、伸びた背筋にも、歩みの軽快さにも、

老いの欠片も見られない。

 人相は、あまりよろしくない。彫りの深い顔はそれだけならば男前と言えるのだが、右眼を垂直に跨いで刀傷が走り、眉間

には深い皺が刻まれている。いかにも厳しそうで、いかにも冷酷そうな、厳めしい貌だった。

 着用している、袖などに白いラインがあしらわれた濃いグリーンの制服は、彼の所属を示す正式な物。つまり、黄昏最高幹

部の一角、フレスベルグ・アジテーターのエージェントである事を示す正装であり礼装。上着を飾る、襟、胸などの徽章や勲

章は主君から与えられた物。それだけ、この男が「優秀」である事を意味している。

 やがて、男は歩きながら口を開いた。まだ距離があるものの、やっと追いついた背中に向かって。

「シャチ」

 呼ばれて足を止めたのは、男と同じく緑色の制服に身を包んだ鯱の巨漢。

 常々戦闘服かラフな私服姿のシャチが珍しく正装なのは、先程までエージェントが集合して主と謁見する席に着いていたか

らである。

「なんだァデルロイ?グフフフ…!」

 葉巻を咥えたままのシャチに、同僚のデリング・ロイは歩み寄ってから尋ねた。

「ギュミルの蒸発、本当に離反ではないと思うか?」

 消息不明となったエージェント、ギュミル・スパークルズとその部下の捜索部隊を解散する事。彼らが発見されるか機能停

止が確認されるまでは、構成員登録の抹消を見送る事。その二点が、先程まで行われていた主との定期謁見で告げられた主題

だったが…。

「グフフ…!さァなァ」

 気の無い返事と葉巻の煙を吐き出し、シャチは笑う。デリングの意図は読めている。行方不明になっている同僚が、もし組

織を裏切って出奔したのだとしたら…という揺さぶりをかけているのだと。

 何故?当然、自分を信用していないから。

(今の面子の中じゃァこいつが一番厄介だァ。始末しとけば後腐れもねェんだが…)

 シャチは排除すべき物を取り除く事に一切の躊躇が無い。命令であれば街一つ消す事など何とも思わないし、そこに住む無

辜の民を皆殺しにする事も厭わない。

 だが、損得は勘定する。

 油断ならない、警戒すべき、場合によっては自分にとって危険にもなり得ると理解しながら踏ん切りがつかないのは、デリ

ングに隙が無く、始末するにはリスクが高いからである。

 一個人の戦士として評価していたギュミル以上に、シャチから見てもデリングは手強い。「遣り難い」という意味で。

「ま、個人的な意見だが、ギュミィに限ってそりゃあねェだろうなァ。グフフフ…!」

 結局シャチは正直な感想を口にする。ギュミルがラグナロクを裏切る事は無いと確信しているし、デリングの揺さぶりに乗っ

てやる義理も無い。

 おそらくこの男は、自分が様々な事を隠れてやっている事を、確信が無いながらも勘で察しているとシャチは自覚している。

そうでなくとも、それなりに付き合いがあった別の幹部直属のエージェントが組織を裏切り、廃棄予定実験体…それも危険度

最上級の代物を連れて脱走している。もしやこの男も…と疑いたくなる気持ちは理解できないでもない。

「そうか。同感だ」

 あっさりと引っ込めるデルロイ。

「もしかしたら…、という可能性の話だったが、貴官が断言してくれたおかげで不要な心配と思い直せた。礼を言う」

 心にも無い事を、とシャチは胸の内で笑う。デリングもまたギュミルが裏切る可能性など無いと確信していたはず。さっさ

と撤回したのはこの話題ではシャチから反応を引き出せないと見たからである。

「しかし、だとすれば、どうなのだ?という疑問は残るがね…。とにもかくにもじきに決まる彼の代役には、前任と変わらな

い活躍を期待したい所だ」

 デリングは目を細めた。行方知れずとなった同僚の消息に想いを馳せているような面持ちだが、シャチは判っている。新た

に補充される事になったエージェント候補達…自分達と同格になる四人目が、誰になるのかというのが彼の新たな関心事だと。

 先程の謁見の際に、デリングはシャチの部下内で最上位に位置する男を推薦した。

 その男の名はグリスミル。シャチやギュミルと同じくエインフェリアで、高い戦闘能力を持つハスキー。かつてシャチが同

階級の存在から、下手に高い立場を与えない方が良いと忠告を受けた男でもある。

 自分の配下ではなく、あえてシャチの配下の昇格を推薦したデリングの意図は読めている。自分の戦力を割くつもりであん

な事を言い出したのだろう、と。

(まァ、俺様と関係ねェ所でならいくらミスしたって構いやしねェんだがなァ)

 主も急ぎ補充する必要は無いとして、しばし四人目は空席にしておくつもりらしい。候補者の篩い分けはじっくり行なって

も構わない、という話だった。であれば、別の候補者を立ててやってもいいが…。

「それはともかく、さっき話した通り俺様は念願の長期休暇入りだァ。グフフフフフ…!休暇中の事はよろしく頼むぜェ?」

 既に主の許可も得た長期休暇の話を出したシャチは、一度言葉を切ってデリングの背後へ視線を動かす。そちらから、厚手

のコートですっぽりと体を覆った色白の女性が歩いて来ていた。

「寒い寒い寒い…、男共が揃ってヒソヒソ話?ああ寒い寒い寒い寒すぎるわよ何よここ寒過ぎふざけんじゃないわよ…」

 身を縮めて震える女性は、寒いと繰り返す中から声をかけた。もはや寒さを訴えたかったのか話しかけたかったのか判らな

い発言内容だが。

「あァ、バカンスの間よろしく、ってお願いしてたトコだァ、グフフフ…!」

 そんなシャチの言葉に、女性は…。

「ああ、「ペット」連れて散歩…だったっけ?」

 その言葉が言い終えられる前に、突如空中に出現した野球ボール大の水球から、鋭く、硬質化した針が伸びた。

 至近距離での銃撃に等しい、唐突で迅速なソレを、しかしビュルギャは同じく高速で動いた右腕で打ち払う。

 手首まですっぽり覆ったコートの下、華奢に見える腕にピッタリと装着した薄手の、しかし強固な手甲が、圧によって硬質

になっている氷の穂先を防いでいた。

「おっとォ、悪ぃなァ。葉巻の煙に咽た拍子に、「つい」、よォ…。グフフフ…!」

 避けなければ眉間を撃ち抜く一発だったが、シャチは凶悪な笑みを浮かべながらしゃあしゃあと嘯いた。

「ああ寒い寒い。見るからに寒い物出してるんじゃないわよ死ぬわよ?」

 女性もまた白い顔に冷たく禍々しい微笑を浮かべる。

「…ビュルギャ。そこまでにしておくように。シャチも短気を起こさないよう」

「はいはい」

「へいへい」

 窘められて従う…ふりをしながら、ビュルギャ・オクタヴィアも、シャチも判っている。本格的な殺し合いに発展しそうに

ない、と判断してからデルロイが止めた事を。

 同僚ではある。同じ主に従う立場ではある。だが、このエージェント達は「仲間」ではない。虎視眈々と隙を狙い合う敵同

士である。

 そして、主であるフレスベルグもそれを望み、互いの隙を狙う同僚達の様子を、シャチに報告させている。

(まァ、しばらくはその監視任務を解かれる訳だがなァ…)

 同僚達を残して歩き出し、口の中で飴玉を転がすように、胸の中で転がして殺意を楽しみながら、シャチは声も出さずに哂

う。自分の所有物をこまめに侮辱してくれる女を、いつ、どんな殺し方で始末してやろうか考えながら。

 とはいえ、予定通り明日から長期休暇に入るので、目下優先すべきは「その間にしか片付けられない事」。

 シャチは個人的に持っているエルダーバスティオンとのパイプを活かし、マーシャル諸島に派遣されていた部隊の大損害に

ついて情報を得た。部隊の詳細までは判っていないが、術士を含む強力な部隊だという情報は貰えている。

 その大損害の原因こそが、蒸発時期が一致しているギュミルの仕業だったのではないかとシャチは考えた。

 マーシャルについての気になる情報を確認しようと、ギュミルはあの諸島へ赴いた。そして、部下共々何らかの理由で帰還

不可能になった…。巨漢の推測はおおよそそんな所である。

 元々、あの諸島に何かありそうだという話を出したのはデリングだった。成果を独り占めするチャンスをあえて共有するよ

うに情報をチラつかせたのには、おそらく意味がある。

(情報に食いついたヤツを始末するための罠…とも考えられるがなァ)

 デリングが直々に手を下したという線は薄い。動向は把握していたが諸島へ赴いた事実は無い。完璧なアリバイがある。

(デルロイはその時期、スレイプニルと同じ戦線に居た。奴さんの目を欺いて地球を三分の一周してギュミルを始末するなん

て真似は流石に不可能だァ)

 であれば、自身が管理も把握もしていない「何らかの脅威」に、「当たれば儲け」という程度の気持ちで嗾けた…とも考え

られる。

(ま、何にしたって確認はしておくべきだろうなァ。何も無ければ家族サービスで終わるし、何かあったら片付ける、手に負

えねぇならトンズラ…。少なくとも、ストレンジャー推薦の国だァ、バカンスにしたってハズレじゃねェ。グフフフフ!)

 幸いにもシャチは年に一度か二度は長期休暇を取る習慣があったため、タイミング的にも特に怪しまれてはいない。急ぐ仕

事は片付いているし、任務を回される予定も無いし、主からも何も言われていない。諸島での気になる医薬品の流れや、エル

ダーバスティオンの損害、そして同僚の失踪…。気になる事をまとめて片付けるには良い機会だと、鯱の巨漢はほくそ笑む。

 しばし廊下を進んだ先で、シャチは足を止めた。

 継ぎ目も見えない真っ白な壁がスライドすると、その向こうは、白い、大窓に面した部屋になっている。

 誰も利用しなくなって久しい部屋から、荒涼とした深海の底を窓の向こうに望み、シャチはそこに据えてあったテーブルセッ

トの椅子を引いた。

「…グフフ、俺様だァ」

 携帯端末を手に、口を開く。

「予定通りに休暇入りだァ。全員、準備はできてるんだろうなァ?」

 葉巻の煙を吐き出しながら、シャチは目を細めた。

「「何も無けりゃ」普通の南国バカンスだァ。「そのつもりで」準備は良いかァ?…そりゃあ結構、グフフフフ!それから…」

 付け加えるシャチは、真顔になって声を低くする。

「酒の用意は抜かるなよォ?現地のが口に合わねェとどんなバカンスも魅力半減だァ。…これ厳命な?」

 最後に個人的に重要な事をしっかり申し添えて通話を切ると、シャチはある男の顔を思い浮かべ、思い出したように懐から

スキットルを取り出して煽る。

 口内に流れ込んだのはジョニー・ウォーカー。スキットルをテーブルに置き、葉巻の煙をくゆらせながらじっと見つめる。

(ウルが消息を断って、もうじき一年か…)

 よくここに来ていた白い狼は、もう居ない。失敗作として処分されるはずだった兵器を連れ、組織を脱けた。

 差し向けられた追っ手はことごとく返り討ちにあった。今では動向も掴めず、何処へ行ったのか、生きているのか死んでい

るのかも判らない。

 今にして思えば、少し前からおかしな兆候はあった。

 ガルムシリーズの成功例とされていた三名を含む、反乱分子の疑いがある部隊の掃討作戦。彼があの作戦から帰還した後、

物思いに耽っているような様子をよく見るようになった。

 そして、失敗作とされていた最後のガルムシリーズが実験に使われた、新たな生物兵器計画と、その結果として起きた忌ま

わしい事件「ガルムロスト」。あの後はさらに…。

(…いや、もっと前から少しおかしな所はあったなァ…)

 あれは確か、希少な能力を持つ血筋の幼女を確保する作戦の後だった。結果論ではあるが、結局のところあの任務が全ての

原因だったとシャチは睨んでいる。

 冷静で合理的、感情に乏しく機械のようだったあの男は、あれを機に少しずつだが変化していた。そして姿を消す直前には、

ここで何時間も、凍り付いたように身じろぎもせず過ごす時間がやけに長くなっていて…。

(ウルの周りにはどうにも英国絡みの物が多かったなァ。素体の縁なのかねェ…)

 どちらにせよ、行方が判らないままの方が個人的には都合が良い。もしも見つかれば、今度こそ自分に追撃命令が下る可能

性が高いとシャチは考えている。

 別に、元同僚のよしみで遣り辛いから、という事ではない。単純に、彼が相手では自分もただでは済まないだろうから、で

ある。勝算は充分ある、しかし「場所」にもよるが完封はほぼ不可能だと確信している。

(行方と言えば、だァ)

 スキットルを掴んでもう一口含みながら、個人的な入出国警戒網に引っかかった異邦人の事をシャチは思い出した。

(今、ストレンジャーは母国に帰ってるはずだなァ?流石に今回は鉢合わせる心配もねェだろう)