Deukalion
(グフフフフ…。なかなか嫌な潮風じゃねェかァ)
船べりに立った鯱の大男が口角を上げる。
小型のクルーザー。それも、オーナーの思考をトレースしてある程度自動航行するオーバーテクノロジーの産物にひとり乗
り込んで、シャチは広い海上を一望した。
違和感がある。異臭と言い変えてもいい。自身に影響している訳ではなく、おそらく機械的な計測でも何も検出されないの
だろうが、それでも何もない訳ではないとシャチは確信している。
それは本能的な警戒。何らかの脅威に精神的嗅覚が反応した結果。
(バカンスのはずだったんだがなァ、グフフフ…)
剣呑に目を細めるシャチだが、しかしこの海原の何処から、どちらから、この嫌な臭いが漂って来るのか判断できない。差
し迫った脅威ではないという曖昧な距離感だけはあるのだが、大元が何処の何なのかは判らず…。
(位置的にはワールドセーバーの領土みてェなモンだァ、おかしな事もあるだろうが…。まァいいか。何かあったらあったで、
グフフ)
航路の安全を確認したシャチは、操舵室に戻って舵を握り、空いた片手で無線機を握った。
「あー、あー、こちらデュカリオン・ゼロ。航路確認完了。「とりあえずグリーン」、出航どうぞォ。グフフ」
次いで、通常電波帯を使用しているその無線が、報告への返事を吐き出す。主に、「とりあえず」ではいまひとつ安心でき
ないという物だったが…。
『…デュカリオン・スリー、了解』
結局、シャチの言葉を受け入れた。
(さァて、ストレンジャーは気に入ったようだが、グフフ…。何処に腰を据えさせるか)
マーシャル諸島に入国したシャチは、バカンスの拠点候補を思い浮かべながら、まぁ行き当たりばったりで良いか等と考え
ていた。危険でさえないならば、と。しかしとりあえずは…。
(個人的な調査として、一箇所だけ先に確認しておくかァ。ここしばらく、また薬品…包帯類を買い込んでるみてェじゃねェ
かァ?グフフフフ)
太陽が眩しい。澄んだ空気を抜けて、日差しが天上から降り注いでいる。
11月末。マーシャルにも雨季の終わりがやって来た。
「アンチャンただいまー!」
元気に響いた声の主を、パンの木の実を並べて天日干ししていたルディオが振り返る。
「おかえり」
今日はシーカヤックを出して海釣り。ルディオが一緒に乗るとカヤックが沈むので、こういう時の漁はカムタひとりである。
意気揚々と戻ったカムタは足早にセントバーナードに寄り、肩から提げていたクーラーボックスを降ろす。ドスンと重い音は
釣果が上々だった証である。
ルディオと向き合い、背伸びするカムタ。
カムタと向き合い、腰を屈めるルディオ。
「んっ…」
互いの体に両腕を軽く回しあって、口付けして舌を絡める。いってらっしゃいとただいまの際に、キスで挨拶するのが今の
ふたりの決まり事となっていた。
「作業進んだなぁ!」
「頑張った」
唇を離したふたりが笑い合う。
ひとり残った時でも、ルディオは自分ができる事を見つけて増やしていた。一緒にずっと暮らしていくから、役割分担でお
互いにできる事をやる。それがふたりの取り決めである。
カムタがひとりで漁に出た時、ルディオは留守を預かって家事を行なう。流石に料理の方はカムタがこなした方が効率的だ
し美味いので任せきりだが、風呂掃除や洗濯などはすっかり得意になった。いずれカムタがテシーの船を買い、ふたりで沖へ
漁に出る時が来たらまた見直すのだが、今のところはこれがベターだと両者共に納得している。
「こっちも結構釣れたぞ。白身は包み焼きにして、小せぇのはフライにすっか。…やっぱあの辺りも居場所変わってんな…」
カムタが傷だらけのクーラーボックスを下ろし、蓋を開けて釣果を見せると、ルディオはハタハタと尾を振った。
「先生のトコにはもう行ってきたのか?」
「ん。先生、「まだ判らない」って言ってたなぁ」
「う~ん…。オラも頭がよかったら一緒に考えんだけどなぁ…」
「あと、血も見て貰ってきた。ウールブヘジン、少し調子が良くなったみたいだなぁ」
ボックスの中を覗いているルディオの言葉を聞いて、カムタは「そっか!」と声を弾ませる。
ルディオの体に宿るドリュアス…ウールブヘジンは、一度は激しい消耗によって自己を保っていられるギリギリの所まで疲
弊した。ひととは比べ物にならないほど長いサイクルで存在し続けるドリュアスだが、そのエネルギーをギュミルとの闘いで
消耗し尽くしてしまった。今も独立して活動するほどの力はなく、元々の生命力を取り戻すまで気が遠くなるほど長い年月が
必要なのだが、少なくともギュミルとの戦闘直後と比べればだいぶ活発化していると、ヤンは採血テストで結論付けた。少な
くとも、このまま弱って行って消えてしまうという事はないだろう、と。
「栄養をとって、光合成を続けるのが良いだろうって言ってたなぁ。ウールブヘジンはおれ達と違って、かなり植物の方のひ
とだからなぁ」
「そっか。アンチャンが食う分の果物、もっと増やした方がいいかもな」
手を洗ったカムタと一緒に、ルディオはパンの木の実を干してゆく作業に戻る。
雨季の終わりが近付くにつれ、天候は安定した。
しかしそれでも、カムタをはじめとする漁師達の勘は本調子に戻らない。違和感に慣れたというべきか、最近の漁獲経験を
元に漁の方法を修正しているせいで獲れ高自体は上がっているのだが、違和感の原因が不明である事には変わりがなく、以前
の漁獲高には届いていない。
それに関連して、ヤンはここしばらく頭を悩ませている。
一方、その虎医師は…。
「お大事に」
患者の歳を取った漁師を送り出し、軽く首を捻った。
何という事はない、漁の作業でロープにこすり付けてしまったという患者である。傷その物は浅いのだが、悪化して漁期に
響いては困るからと診療所を訪れただけ。化膿しないよう適切に処置したし、塗り薬も間違いなく選んだ。
治療にもミスはなく、怪我も重度ではなく、何も問題ない。…のだが、ヤンは難しい顔でデスクに戻り、ファイルを取って
診療記録を見返した。
(やっぱり、どうにも気になる…)
記録には軽傷で訪れた島の住民の名が並ぶ。どれも酷い傷には至らず、処置も適切にでき、悪化はさせなかった。だがそれ
でもヤンの顔は厳しいままである。
(件数が多過ぎる…。まるで、皆が揃って注意散漫になっているように…)
しかもこれは漁師に限った事ではない。主婦、子供、そして島の駐在までも、何らかの怪我をしている。特にこの二ヶ月は
以前よりも多い。
島に一つの診療所とはいえ、怪我をしたから必ずかかるという訳でもない。つまり、ヤンが把握していない、診て貰う程で
はない軽傷はもっとあるはず。
(徐々に増えている。しかしリスキーが居た頃は横這いで変化がない。…とはいえ、流石に彼が居るか居ないかで変化が起き
るとも考え難いし…)
この変化のきっかけは何なのか?診療を受けた島民が増加し始めた頃、何か変化は無かっただろうか?
そう考えたヤンが気付いたのは、漁師達の「勘が鈍った」という声を聞き始めたのもこの辺りからだという事。
勘が鈍る。例えばそれが気候変動によって経験則が通用しなくなったからだと考えればそれまでなのだが、現在の負傷の増
加…ちょっとした不注意やミスによる怪我と結びつければ、「感覚そのものが狂いを生じた結果」と取れない事も無い。
そしてこの僅かな異常は、ヤン自身にも兆候が出始めている。元々用心深くて慎重なせいか、重大なミスも怪我もしていな
いのだが、薬を戻す棚を間違えて後から探すなど、普通ならしない間違いを時折しでかしている事を、医師は注意深くメモを
とって把握し、頻度や内容を元に常に自己診断していた。
また、漁師達のように勘が鈍ったという自覚がある者ばかりではないので、診察していない島民達も既に全員影響を受けて
いる可能性もあった。それどころか、魚群まで影響を受けて動きがおかしくなっているのではないかとヤンは考えている。
現状、ヤンが確認した中で影響を受けていないと判断できたのはルディオのみ。それが生物兵器として造られた体による物
なのか、宿しているウールブヘジンの影響による物なのかは判らないが…。
(例えばだが…、注意力や集中力を失わせる能力という物もあるんだろうか?)
精神に働きかける類の危険な存在も居るという事は、ジ・アンバーの件で嫌と言うほど理解した。この異常も「現象」では
なく、何らかの意思に基いた「攻撃」を受けている結果なのではないかと勘繰りたくもなる。
(ウールブヘジンは、あの頃と比較して弱っているとしても、変わらずルディオさんに危機を知らせる…。にも関わらず反応
を見せないというのは…)
数回だが、ルディオの目の前でも漁師が事故を起こしている。大事にはならなかったが、その時もルディオは何の警告もさ
れなかったらしい。ただし、「だから何でもない」とは言えない。ジ・アンバーの時もウールブヘジンは「被害者」に対して
はろくに反応しなかった。おそらくは直接的な脅威ではないから。
(ウールブヘジンを頼れない。それでも何かが起きている可能性が高い。…あまり気は進まないが、リスキーに連絡をとって
みるべきだろうか…)
心配をかけたくないという意識が邪魔をするが、ひょっとしたら大規模な範囲で何らかの「攻撃」を受けている可能性もあ
る。リスキーから聞いている流出物最後の一件は「物理的な意味で強力な生物兵器」…、いわゆるストロングマッシブモンス
ター。そういった類の現象を起こすような物では無いはずなのだが…。
(いや、まずはやれる事をやりつくしてからだ。患者から採取した組織や血液サンプルからは共通する異物などは見つかって
いないが…、調べられる事はまだ他にもある。範囲がどこまで及んでいるか、診療記録の紹介である程度は目星がつけられる
はず…)
腰を上げ、医療機関の連絡先と聞き取り結果を纏めたファイルを保管してる部屋に向かったヤンは、ついでに包帯類の在庫
を確認して顔を顰める。
(注文していた分はもうじき届く予定だが、それまでに底をついてしまう恐れもあるな…)
患者が多いのであまり診療所を空にしたくない。とはいえ買出しに行った方が安心ではある。どうした物かと悩んだヤンは、
手提げ金庫に目を止めた。おいそれと見せる訳には行かない、ルディオとウールブヘジンのカルテが入ったその金庫は、無理
にこじ開けられたら中身を焼却するという、リスキーの置き土産の一つ。
(そうだ!カムタ君とルディオさんに買出しを頼もう!しばらく島から出ていないようだし、たまにはデートも良いだろう。
手間賃としてならお小遣いを渡しても拒否しないだろうし…)
カップルに気遣いするヤン。なお、気遣いする本人とテシーとの関係はちっとも進行していない。
「いいよ。じゃあ明日行ってくるか!アンチャンも何もねぇよな?用事」
「ないなぁ」
夕暮れ時、フライのおすそ分けを持って診療所を訪れたカムタとルディオは、ヤンの頼みを快く引き受けた。
「クーラーボックスの蓋、もうヤベェんだよなぁ。新しいの買うか!」
「ん」
クーラーボックスはメーカーのロゴなども擦れて薄くなり、細かい傷が全面についている。知り合いの漁師が処分しようと
した傷んだ品を譲って貰って修繕した物で、壊れたロックに替えてマジックテープを釘で打ちつけて開閉機能を保たせてある。
カムタの家に限らず、島にはこういった修繕品や再利用品が多い。本当に使えなくなるまで活用するのでゴミは出難く、例
え壊れても部品は別の用途で使ったりする。カムタの家の浴槽が、元は漁船の水槽だったように。
とはいえ、限界という物はある。シーカヤックに乗せて使う物なので蓋のしまりが悪いと水漏れして困る。完全に壊れる前
に替えを用意しておきたかった。
(いやそこはデート用でいい小遣い…、まぁいいか…)
出費が建設的過ぎる少年のセリフで溜息をつきそうになったヤンだが、それとなく「ハミル君が言っていたそうだが」と、
テシーから聞いていた情報を流す。
「先々週、新しいカフェテリアができたそうだ。イタリア風のメニューが中心らしくて、ピザやパスタが種類豊富らしい。覗
いてみるのも良いんじゃないかね?」
「え?イタリア風!?」
身を乗り出して目を輝かせるカムタ。そして…。
「イタリア風…」
知識を参照し、ピザが窯から取り出される様を短い動画ファイルのように脳内再生したルディオは、たちまちヨダレを溢れ
させてゴクリと飲み込む。
「調味料とか土産で売ってねぇかな…!」
「………」
期待でテンションが上がるカムタと、動画の脳内再生を繰り返すルディオ。
とりあえず心配事は片付いたと一安心したヤンは、カムタに手間賃を渡し…。
「こちらデュカリオン・ワン」
夕焼けに染まる海から島を望み、クルーザーの甲板で、無線機を手にした女性が口を開いた。
「予定より30分遅れだけど報告ー。接岸5分前、今夜はここで寝るよ」
背中まで伸ばした黒髪を潮風になびかせる女は、まだ歳若い。少女と大人の女、その中間といったところか、色香を薄く纏
いながらも顔つきにはあどけなさが残る。
小麦色に焼けた肌は健康的で、体その物は発育がよく、胸は大きく腹部はくびれ、尻も上がっている。セパレートの水着の
上からアロハシャツを羽織り、ショートパンツを穿いているが、風で過度にはためかないよう、シャツの裾の端はヘソの高さ
でギュッと結ばれていた。
見れば、クルーザーには成人がひとりも居ない。
無線を握る少女は勿論、操舵するコヨーテの少年も、その脇で双眼鏡を手にしている狼の少女も、甲板で係留ロープを準備
するふたりの人間の少年も、舳先で島を見ながらはしゃいでいる蜥蜴と兎と猫の小さな子供達も、皆未成年。9名のクルー全
員が少年少女と幼子で構成されている。
「ロキシー、カプリ、パルパル!コイーバとチェルキーがロープかける邪魔になるから、そろそろ船尾に行って大人しくして
なさい!………え?あはは!大はしゃぎよもう、聞こえてるとおり!」
苦笑いを浮かべながらも楽しげに通信を続ける少女は、「なぁに?寂しいなら今からでも合流する?」と、からかうように
言ったが…。
「…いや、悪かったよ…。お仕事頑張って…」
通信相手の反応が笑えない物だったらしく、決まり悪そうに謝って無線を切った。
「で、どうなのゼファー?「違和感」っていうの、何か変わった?」
無線機をラックに戻した少女は、足音も無く脇に立った黒髪の少年に声をかけた。
整った顔立ちをした人間の少年は、少女と同じくこの船では最年長。やや背が高めで引き締まった体格をしている。
少年は表情の無い人形のような顔を行く手に向けたまま、「変化は無い」と、小さく口を開いて低く応じた。傍に居る少女
にしか聞こえないように。その両腕は両脇にだらりと下がっているが、腰の後ろ…羽織ったアロハシャツに隠れる位置には、
その両腕がいつでも抜ける配置で二本のナイフが固定されている。
「逆に言えば、この違和感は我々の動向とは無関係に生じているとも考えられる。差し迫った脅威ではないが、何か手を打て
る物でもない。何かが起こればその時に対処する」
「「開き直って気にしない」。…今のところはそれがベターって考えでいい?」
「最終的な判断は任せる。が、何かあっても俺にできる範囲で何とかする。好きに決めろ」
「ありがとう」
ニッコリ笑った少女に、表情一つ変えず「そういう分担だ」と応じた少年は、ロープの準備をしているふたりの傍へ向かった。
「リン!」
名を呼ばれて少女は振り向く。接岸作業の邪魔にならないよう、船尾側に移動した子供達が、操舵デッキの後ろからチョコ
チョコと寄って来た。
「ばんごはんなにー?」
「そうだな、何にしようか?皆で相談しよう」
下から聞いてきた蜥蜴の子の頭に手を置いて撫でてやり、少女は島へ目を向ける。
「…う~ん…。この国、どういう料理が名物なんだったっけ?うちの子達偏食多いからな…。ま、何処にだって食べられる物
はあるか」
一番早い便に乗り、カムタとルディオは島を出た。
ヤンに頼まれたお使いは勿論、クーラーボックスの購入や調味料の買い足しなど、用事は色々ある。中でも新しいカフェで
の食事はメインの目標。席が空いているといいなと、船上から楽しみにしていた。
天候は上々。水平線に薄く白がけぶるのは、太陽に温められた海水が蒸発しているせい。崩れる心配も無いだろうと考えた
カムタだが、最近は勘が外れる事もあるので過信はしない。
「アンチャン、ピザって詳しいか?オラあんまり食った事ねぇし知らねぇんだけど、色々あんだろ?」
「トッピングと、生地、焼き方、その組み合わせだけでもバリエーションは多岐に渡る。…らしいなぁ。時々テシーが作って
くれる四角いのもその中の一つで…」
「あ!茸とサラミのヤツな!」
「うん。あと、丸いのもある」
「料理の本に載ってたヤツだな。皿みてぇな形の…」
「………」
「………」
突然黙り込むふたり。口から出掛かった「腹減ってきた」の一言は空腹を加速させるので双方共に飲み込んだ。
「先生は注文したって言ってたけど、包帯ってさぁ、まだまだ要んのかなぁ?」
カムタが口にした疑問に、ルディオは「どうだろうなぁ」と応じる。
漁師達の勘の鈍り。そして不注意による怪我の増加。これがもし何らかの不思議な力による物だったとしても、ONCの流
出物とは別という事ははっきりしている。
可能性としては、後から諸島に入ったエルダーバスティオンが何かしている線と、撃退したはずの黄昏が何か残したという
線が思い浮かぶとヤンは言うのだが、この二つのどちらでもないとしたら推測すら難しいというのが正直なところ。どのみち
今のままでは原因も対処方法も不明なので、ヤンが行なっている情報収集と規模の絞込み…この異常がどの程度の範囲で生じ
ているかという調査の結果を待たなければ動くに動けない。
「早く片付くといいなぁ」
「だなぁ」
船はのんびりと海原を進む。航路が少しずれ、途中で数度修正されたのは、連絡船のクルーも勘が鈍っているせいだった。
「包帯!」
「よし」
「クーラーボックス!」
「よし」
「ソースとケチャップとマヨネーズとタバスコと胡椒!」
「よし」
「忘れ物は!?」
「なし」
「おっし!買い物終了!」
カムタが腕を伸ばし、ルディオが肘を曲げ、パチンとハイタッチを交わす。
「飯行こう!」
「ピザ」
丁度いい入れ物となったクーラーボックスに品物を纏め、小走りのカムタと大股のルディオは、話に聞いたカフェテリアを
目指す。昨夜の内にテシーに聞いて位置を確認してあるので、迷う事もなかった。が…。
「混んでんなぁ~!」
「だなぁ」
円形のピザに店の名前をあしらった看板の下、順番待ちのベンチまで一杯になったカフェの盛況ぶりを見て、少年とセント
バーナードは途方に暮れた。
午前11時前。昼時よりも少し早めなのだが、それでも店内の混雑ぶりは相当な物。今ならば少し待てば入れそうだったの
で、そのまま席が空くのを待つ事にしたが…。
(いい匂いだなぁ…)
鼻腔から侵入するのはピザが焼ける匂い。チーズ、サラミ、海老、鶏肉の香ばしい嗅覚情報。嗅覚も高性能なルディオには
なかなかに辛いお預けタイムである。
無言のまま繰り返しヨダレを飲み込んで耐えるルディオと、メニューを見ながらピザの種類の豊富さに驚き、パスタ系にも
目移りし、どれだけ試せるか胃袋と相談するカムタ。
(客多いな。半分ぐれぇ旅人さん達かな?)
物珍しさも手伝って地元民の客も多いが、世界的に広まっているイタリアンは安心できる定番の食事でもあるのだろう、旅
行者と思しき人々も多い。待ち順がカムタ達の前に当たる団体客も地元民ではなかった。若い男女と子供の団体だが、親子と
いうほど歳は離れていない。しかし兄弟にしては種がバラバラな、人間と各種獣人の混成グループである。
待つ事20分。列は進み、どうやら正午前にテーブルにつけそうだと安堵したカムタだったが…。
「合席で良いなら次のお客さんまで入れるよ」
昔の海賊のような黒髭と厳つい顔に反し、気さくな笑顔が印象的な店員は、前の団体客にそう持ちかけた。カムタ達の前の
団体客は7名で、内3名が小さな子供。空いた席が8人掛けテーブルなので、合席にして詰めれば2組とも座れる、と。
「どうするリン?」
カムタと同じ年頃に見える人間の少年が問うと、最年長と思しき少女は後ろを振り返り、並ぶ列の最後尾まで見渡す。
「時間かかるし、贅沢言ったら後ろ詰まっちゃうか…。どう?そっち良ければ合席する?パパさん」
父子連れと勘違いしたのだろう少女がルディオに確認すると、セントバーナードは…。
「合席でいい。あと、おれはパパじゃなくてアンチャンだなぁ」
「ありゃりゃ失礼。見た目より若いんだお兄さん?」
少女は苦笑いして舌をペロリと出し、店員に頼んで席へ通して貰う。
「ありがとなネーチャン!」
懐っこい笑みを浮かべるカムタに「なんのなんの」と応じた少女は、小さな子供達が散らばらないように誘導しながらテー
ブルに寄ると、
「ふたりとも幅あるから、広い方がいいよね」
長方形の長い一辺をカムタとルディオのために空け、反対側に子供三人を、それを挟んだ両角に人間の少年二人を配置し、
自分ともうひとりは狭い辺の席に決める。
カムタの隣になった最年長の少女は、グループのリーダーなのだろう、てきぱきとメニューを回し子供達優先で注文を決め
させる。
「いっぺぇあるなー…。悩むなー…。アンチャン、フォカッチャって何だ?」
「パンみたいなやつ」
品数が予想以上に多い正式なメニュー表を見て注文を決めかねるカムタと、何でもいいから食べたくて虚ろな目になってい
るルディオ。試したい品が多くて困っているようだと察した少女は「何だったらこっちで頼んだのといくつかトレードする?」
と提案した。
「こっち、種類はいっぱい頼むからね。気になるのは交換する事にして、欲しいの優先で頼んだら?」
迷いは数秒。確認のために視線を向けたらルディオが切なそうな顔をしていたので、カムタはその提案に有り難く乗った。
「じゃあコレとコレ、あとコレかな?アンチャンは?」
自分とルディオの分を手早く決めて、呼ばれた店員に注文を伝えて…。
「家族よ?血が繋がってるのは何人かだけど、全員きょうだい。あ、ちなみにわたしが最年長のお姉様ね」
カムタからの質問…どういう団体なのかという問いに、最年長の少女はそう答えた。
顔立ちからすると東南アジア系だろう、長い黒髪が邪魔にならないように、無造作に、しかし野暮ったく見えない程度の洒
落っ気を見せて、後ろで束ねて右肩から前へ流している。美人と言える部類に入るが、奇麗な顔と形容するにはいささか不適
切である。と言うのも、その顔は生き生きとしていて、声にも瞳にも生気が満ちているせい。美の種類で言うのなら、たおや
かな花の奇麗さではなく、野生動物の美しさである。
「パパのオフに合わせた家族旅行中でね。うちは子沢山だから、別れて班で行動してるの。この班は頼りになるお姉様ことわ
たしがリーダーで…」
「姐御」
「このタイミングではお姉様って呼んで欲しかったよ!何?」
「ゼファー達の分、テイクアウトの注文忘れてた」
「マジだよ?ちょっ、すみまっせぇ~ん!ホントすみまっせぇ~ん!追加注文~!」
合席になった賑やかなグループは、料理が来るのを待ちながら自己紹介と雑談を交えつつ、カムタとルディオの話を聞きた
がった。
「この近くの子なんだ?」
「へー、漁師?君はその歳でもう働いてんだ!」
「立派じゃない」
「実は、僕らこの諸島に来たばかりで、まだろくに観光もしてないんだ。土地勘もサッパリでさ。島、かなり多くない?」
カムタと同じ年頃に見える人間の少年が言い、そろそろ上陸して観光したいと子供達が声を上げる。
「およぎたい!」
「すなはま!」
「ビーチバレー!」
『バーベキュー!』
海で遊びたいという欲求を声も高らかに並べる三名の子供達。その正直な無邪気さにカムタの顔も綻んだ。
「オラ達が住んでる島なら、遊べる砂浜もあるけど」
「本当?近い?」
少女はカムタに位置情報を求め、島の環境などを聞く。
「混み合ったりしなそうなのは魅力ね…。ゼファー達にも訊くけど、落ち着く場所としては良いかも?ああそうそう!もし良
かったらだけど、漁師体験とかできないかな?本格的なのは無理だけど、生活とか体験学習できると子供達の勉強にもなるん
だけど」
少女のそんな言葉を聞きながら、
(何だろ…?)
カムタは奇妙な親近感を、グループ最年長の少女に抱く。
全く似ていない。種も性別も体型も声も全部違う。なのに…。
(何かこのネーチャン、カナデ先生みてぇな…)
カムタはそんな印象を抱いた。ちっとも共通点が無いのに、どういうわけかあのジャーナリストと似た匂いを感じる、と。
出会い方もあの時とどこか似ていた。偶然出会って、合席して、会話が弾んで…。
「ネーチャン何してるひと?仕事とか」
「まだ学生よ。将来の仕事希望なら旅行ガイドだけどね」
ジャーナリストではない。が、旅行ガイドという仕事を目標にしているなら、きっとカナデのように色々な国の事を見たり
聞いたり学んだりするのだろう、とカムタは考える。
「島にはホテルとかねぇけど…」
「ああ、船で生活してるから、泊まれる所が無くたって問題ないわ。クルーザーの停泊許可次第だけど…」
「桟橋は島の共有だから、網元の親父さんに話しとけば、何日か船着けとくぐれぇ大丈夫だよ」
「ホント?じゃあ…」
少女は少し思案し、メンバーの顔を見回す。子供達はもう砂浜で遊ぶ気満々。他の面子も反対はしない。
「あなたの島、行き方は…」
「定期船についてっても良いし、オラが案内しても良いぞ」
「そう?それなら、お言葉に甘えてお邪魔してみよっかな?」
「うん!いいとこだぞ!」
「じゃ、改めまして自己紹介ね!わたしはリン・ウォーターフロント。こっちは…」
ひとりひとり名乗って自己紹介するグループに、カムタとルディオも名乗り返して…。
「エンマンノ島?」
無線を手に、シャチは瞼を半分降ろす。
『はい。リンからの連絡によれば、それほど遠くない島だと』
「で、リンはどうしてんだァ?」
『現在は皆を連れ食事中。帰投予定は約35分後』
「そりゃァ結構。育ち盛り揃いだからなァ、飯はちゃんと食え。オメェもな」
『了解。移動許可は?』
「………」
鯱の巨漢は沈黙する。甲板から見渡す海原には、相変わらず立ち込める違和感。その正体は未だ不明。
『命令があれば、すぐにも』
沈黙の意図を探るように、無線越しに少年の声は言ったが…。
「ゼファー。オメェらは今「バカンスに来た観光客」だァ。判ってんなァ?」
声音を低くし、念を押すようにシャチが言うと、少年の声は『了解』と短く応じる。
「リンの判断に任せるぜェ。好きに羽伸ばしとけェ」
『伝言、了解』
無線を切り、シャチは腕を組む。
(エンマンノ島…。医療品の流れの先にあった島…。それが…)
水平線にへばりつく、霞んで見える島影を見据えて、シャチは軽く首を捻る。
「あそこ、って訳かァ…」
都合が良すぎる流れだった。だが、違和感の中心はあの島ではない。接近や位置関係の変化による違和感に変動はない。あ
の島自体が自分を引き寄せた訳ではないと肌で判る。
(この違和感はワールドセーバーの影響かァ?それとも別の何か…、エルダーバスティオンが動いた結果かァ?デルロイめェ、
テメェでは来てねェから気付かなかったんだろうが…)
シャチの口角が吊り上がる。
この海域には何かがある。そんな予感は確信に変わりつつあった。