Garm lost

 だだっぴろい甲板に、獰猛な唸りを上げる異形がひしめく。

 二足歩行の蜥蜴と見えるそれは、しかし獣人ではない。強靭な両腕に鋭い爪を備えた生物兵器、リザードマンである。

 その数20体余り。群れるそれらの視線は、距離をおいて立つ一団…技術者や研究者、そして彼らに囲まれている大柄なセ

ントバーナードに向けられていた。

 電磁線が張り巡らされたバリケードで、円形に囲まれるリザードマン達。その円の一角が外側に張り出しており、透明な仕

切りで円から区切ったその中で、これから行なわれる公開実験の準備が進められている。

 研究者と思しき白衣の老人と技術者。そしてその護衛らしき武装した兵士達に囲まれたセントバーナードは、無機質な無表

情で、琥珀色の瞳にリザードマンを映している。

 バリケードで区切られ、簡素なテストエリアに仕立てられた空母の甲板を、管制塔のような作戦指揮区画の窓から見下ろし

ながら、灰色の髪の男の子が口を開いた。

「性能テストでは、リザードマン3体を2秒で沈黙させ、ハヌマーンを20秒で殴殺したそうですが…」

 資料を捲る人間の男の子の横で、灰色の髪にソバージュを当てた人間女性が口の端を妖艶に歪める。

「新世代の生物兵器、という触れ込みですよ。グニパヘリル研究所の威信をかけた巻き返し…。さて、先生のお眼鏡にかなう

かどうかというところですねぇ」

「元責任者とは思えない、他人事のような発言ですね」

「だって凍結されましたものぉ?今やあそこは専門の保管庫ですわぁ。ミーミル先…」

「区域外におけるそれ以上の発言は抵触しますよ?」

「うふふふふふ…!」

「とにもかくにも、使える物かどうかはコントロール次第です。いかに優れた性能を持った兵器でも、制御できなければ意図

しないタイミングで弾ける低質な爆弾と変わりありません」

「グフフフフ!だってよォドゥーヴァ?」

 「観覧席」の後方で鯱の巨漢が低く笑うと、隣に座っていた厚着の美女が顔を顰めた。

「ちょっと。まるで私達が問題アリみたいな言い方はやめて下さいますシャチさん?」

 色白の肌の美人と言える顔立ちだが、口を尖らせて不満を漏らす表情も、薄着のシャチとは対照的に南極探検隊のようなモ

コモコの防寒服を纏ったフォルムも、どこか愛嬌がある。

「オクタヴィアシリーズは問題ある顔ぶれが半分ぐれェ占めてるじゃねェかァ?」

「否定はしませんけれど全力で言わせて頂きますわ。それは風評被害ですと!」

「否定してんじゃねェかァ?」

「あまり意地悪をおっしゃるなら、お土産のウイスキーは差し上げませんことよ?リンちゃん達へのプリンだけお持ち帰り下

さいませ」

「グフフフフ!…ごめんなさい」

「素直で結構ですわ。それにしても今日も寒いですわね…。まさかとは思いますが冷房など入っておりませんね?」

「ちゃんと暖房入ってるぜェ。何なら、任務が終わったらベッドで暖めてやろうかァ?グフフフフ…!」

「時間と余裕がありましたら一考しないでもなくもなくなくないですわ」

「ふたりとも静かに。お見えになられたぞ」

 デリングが嗜めた直後、臨時観覧席のドアが開き、新たに入室したのは豊かな口髭を蓄えた老人。シャチもドゥーヴァもデ

リングに倣って立ち上がり、深々と頭を垂れる。

「公開試験の準備ができたそうだ。もうじき始まる」

 座ったまま老人を一瞥したソバージュの女性が、「あらあら、随分待たされたけれどやっと始まるのねぇ」と、目も向けな

い男の子が「観測装置の設置に不備でもありましたか?」と、それぞれ応じる。

「いや。ニーズヘッグがリアルタイムで観たいと連絡を寄越したらしく、接続の仕事が増えたそうだ」

「相変わらず気ままですねぇ、あの坊ちゃん。エージェントを二人も寄越しておいて、まだ足りないと直前になって思ったの

かしらぁ?」

 灰色の髪の女性が見遣った先は、スタッフが待機するセントバーナード後方のモニタリングブース。そこに、手伝いと警護

役という名目で配置されているのは、今日列席していない中枢幹部が送り込んだ二名。片や異様にゴツく長大なライフルを担

いだ灰色熊の獣人で、片や研究者のような白衣を纏って長尺の杖を手にした若い男。いずれも中枢幹部直属のエージェントで

ある。

「そもそも、戦士マニアの彼が興味を持たれないはずがありません」

「マニアとはまた、上手い言い方ですねぇ先生。うふふ」

 黄昏の最高幹部が三名列席し、一名がリアルタイムで視聴する。「随分注目された物ですわね」、とドゥーヴァが耳打ちす

ると、シャチは広い肩を竦めた。

「上手くいけばこれまでのエインフェリアが全部旧式になる新技術だァ。注目度は高いだろうよォ」

 最高幹部達の後方に控えたシャチ達も、設置されたモニターを通して「実験体」の様子を確認している。

 逞しい、巨躯のセントバーナード。

 ガルム十号。失敗作のエインフェリアが、その実験の主役だった。





「………」

 短いまどろみから醒め、開けられたシャチの双眸に、はっきり視認できる位置に近付いた島が映る。

(珍しい夢を見たぜェ…)

 通常の生物とは異なるシャチは、睡眠時間をそれほど必要としない。甲板の先に立ったまま、島に接近するまでの十数分を、

意識して休息…脳とチップのメンテナンスに充てていた。

 半眼になり、顎下を指先でコリコリと掻きながら、シャチは夢の中身を反芻する。

 あれから約一年半。あの事件を夢に見るのは初めての事だった。

 消えない違和感のせいだろうかと自問する。所詮は夢、偶然と片付ける事もできるが、腐れ縁のジャーナリストは、夢が無

意識の警告や本能的な予測だったりした事もある、とよく言っている。

(意味があるのかねェのか…)

 頭を掻きながら船室に降りたシャチは、準備しておいた潜水用の器具を装着し始めた。もしも荒事になった際に足がつかな

いよう、沖にクルーザーを残し、泳いで島へ渡るつもりである。

 着替えを終えて、上陸後に身に付ける衣類を詰め込んだ防水の小型トランクを手にしたシャチは、クルーザーを自動制御に

して沖へ出るようセットすると、船尾から海へ身を躍らせた。

 水が綺麗な海。その水中に入っても違和感は消えず、むしろ強まっているように思えた。

(あの時は、飛び込んで探す余裕も無かったなァ…)

 泳ぎ出しながらシャチは思い起こす。

 夢の続きの光景、あの事件の事を。





 モニターに映し出されている逞しいセントバーナードの巨漢を見ながら、ドゥーヴァは並んで座っているシャチにヒソヒソ

と、囁き声で訊ねる。

「複雑な心境ですか?」

「何でだァ?」

「ガルム十号…貴方が素体を確保した戦士でしょう?サーのひとり、ハーキュリー・バーナーズを基にして産まれた…」

「正確にはその「成れの果て」だァ。ありゃァもうハーキュリー・バーナーズでもガルム十号でもねェ」

「………」

「複雑なのは技術屋共だろうなァ。あれだけの犠牲を払って確保した最上級の素体を使っても上手く行かなかった。そりゃァ

新技術の実験台に仕立て上げてでも成果を出さねェ事にはなァ。連中の立場じゃ、この通り有用に使いました、って意地でも

証明しなきゃならねェだろうよォ」

「…ウルさんはどうでしたの?レヴィアタン様が今回の警備要請をお断りになったと聞きましたが…」

「おかしなまんまだなァ。あいつも」

「よく一緒にお酒を嗜んでいたと…。貴方も一緒に」

「忘れたのかァ?俺様が陰で何て言われてんのかよォ」

「存じていますとも「心壊の鯱」」

「なら…」

「含み笑い、先程からありませんわね?」

「………」

 シャチは口をつぐむ。それが返答を拒絶したからなのか、モニターの向こうに動きがあったからなのかは、結局ドゥーヴァ

には判らなかった。

 

 直立したまま微動だにしないセントバーナードの巨漢の周囲では、心拍や体温等のモニタリング用に取り付けられていた電

極類が取り外され、準備が終えられた。

「ナイフはどうしますか?」

「装備させておけ。「楽師」からの譲渡品だ、箔が付く」

 果たしてコレに使い方が判るのだろうか?とは思ったが、助手は研究者の指示に従い、セントバーナードの腰のベルトへ、

鞘に収められたガットフックナイフを装着する。

「準備は全て完了しました」

「よろしい。では開始する」

 準備も済み、標的であるリザードマンの配置も終わり、幹部達も揃った。老研究者の指示に頷き、スタッフ達が下がり、透

明な仕切り板が下がり始め、担当技術者がセントバーナードの横で口を開く。

「さあ!お披露目の時が来たぞ!」

 コイツならば中枢幹部達を必ず満足させられる。そんな期待と高揚が篭った口調で、技術者は告げた。

「十号!敵を全て殺せ!」

 命令を受け、セントバーナードは…、

「…おい?どうした?」

 動かなかった。

 命令を下した技術者含め、スタッフ達も困惑する。

「…あらあら?動きませんねぇ?」

「簡単な命令は実行できると聞いていましたが」

 灰色の髪の女も男の子も訝って目を細めた。老人も黙したまま胡乱な様子で半眼になる。

「おいどうした!?敵を殺せ!全部だ!」

 焦り始めるスタッフ。命令を聞き取れなかったのかと、繰り返し命じたが、実はこの時、既にセントバーナードは命令を受

理し終えていた。この沈黙と静止は、実行するにあたって問題が生じているせいである。

 以前のテストでは、攻撃すべき対象を明確に指示された。が、この場で下された命では「敵を全て」とされている。

 「敵」とは何か?

 不具合が生じ、擬似人格が発生しなかったセントバーナードは、機械的にその意味を探る。

 要は、味方ではない者が敵。そんな仮説に次いで、味方を識別しようとした際に、ソレは生じた。

―ここに味方など居ない―

 実験体に封入された危険生物、その本能の声が、そう告げていた。

「え?」

 声が漏れたのは技術者の口。

 視界が暗くなった。その直後に、ゴギンと下から音がした。

 暗くなったのは顔面を鷲掴みにされたからで、下から聞こえたのは自分の首が折れた音だと、彼が知る事はない。何せ、痛

みも感じず即死しているのだから。

 技術者の頭部を鷲掴みにして鋭く捻り、首を粉砕して殺害した獣は、無表情のまま視線を巡らせる。施術を経て体質が変化

し、素体の状態からトルマリンの色に変わっていた瞳が、ジワリと、琥珀色に変じる。

 琥珀の目が確認してゆくのは視界内の全ての動体反応。すなわち、排除すべき「敵」。

 獣は体の向きを変える。視界に捉えたのは、自分を改造した者達を含む実験スタッフ。そこへ、首をへし折って殺した技術

者の死体を、無造作に投げつける。

「ちっ!」

 反応したのは杖を携えた若い男。床にトンと杖を突き、正眼に立てて念じるように目を閉じると、スタッフを守るように大

気が凝縮硬化したドーム状の壁が出現する。杖に仕込まれた無数の宝石が色を揃え、術の展開が成されたその直後、首を伸ば

しながら放られた死体が壁面に接触し、轟音と共に爆砕した。

 肉片が飛び散り、血が濃い霧となって舞い上がった障壁の向こうを、逞しい熊が片膝立ちの姿勢でライフルを構えつつ見据

えて呟く。

「砲撃級だな…」

「この規模ではそう何発も耐えられない!頼むバッソ!」

 焦りが混じった術士の声が響くや否や、熊の体躯が弾かれたように後方へ動いた。

 轟音一発。普通の生物の体では耐えられない反動を無傷で捻じ伏せた熊の体は、それでも膝射姿勢のまま甲板を2メートル

ほど滑った。排莢された空薬莢はひとの親指がすっぽり入るほどのサイズである。

 ロングライフルから放たれた弾丸は、風の障壁を内側から狭い範囲で破壊して通り抜け、血煙の向こうに見える影を射抜く。

この、防衛戦における相性の良さ故に、この二人がセットで送り込まれていたのだが…。

「気を抜くな!仕留め損なった!」

 熊が怒号を発しつつジャゴンッとボルトを前後させて次弾を装填するのと、風の障壁が軋んで砕け散ったのは同時だった。

 殴りつけて障壁の一部を壊し、血煙の向こうから迫る巨体は、脇腹にぽっかりと、直径15センチを越える風穴を穿たれて

いたが…。

「何だ!?利いていない!?」

 血霧を押し退け、瞬き一つの間に接近した巨体は、術士の若者が次の動作に入る前に肉薄し…。

 ボヅッ。

「イーグェン!」

 叫んだ時には、熊は既に二射目を放っている。轟音と共に飛翔したライフル弾は、しかし直前に動かれて命中せず、傍を通

過して赤茶の被毛を僅かに散らすに留まった。

「くそっ!」

 悪態をつく熊。正眼に杖を構えた姿勢のまま、バディである術士の若者は頭部を失っていた。顔の下半分を蹴りでひしゃげ

させられ、勢いに負けて首が千切れた若者の頭がクルクルと宙に舞っている。

 出力制限をカットした熊の太腿が怒張し、砲弾のような勢いで突進する。ロングライフルを第二の用途…棍棒として持ち直

しつつ接近し、全身のバネを使って獣の側頭部を殴りつける。フルスイングの一撃で弾き飛ばされた獣は、しかしバウンドす

るなり体勢を立て直し…、

「ひっ!」

 叩きつけられたそこから最も近い位置のスタッフに目を向けた。

 この時にはもう、血霧の狼煙に引かれるように、放たれていたリザードマン達はモニターブース目掛けて殺到し始めていた。

 

「実験が失敗した!」

 そんな無線越しの声は、しかし異様に聞き取り難かった。何かがひしゃげ、砕け、飛び散る湿った音と、振動音にも似たノ

イズが、声の向こうから被さっていた。

「退避しろ!」

「救援を要せ」

 ブヂャッ…。

 助けを求める声すら遮る異音に、灰色の髪の女は「あらら…。隔壁閉鎖しなくちゃ」と声を漏らす。その時には既に、ドア

を開けて飛び出している者が居た。

「優先して博士の安全を確保致しますわ!ご容赦を!」

 VIP達に警護から離れる詫びを告げ、ドゥーヴァ・オクタヴィアは甲板に舞い上がった血風を見据え、跳躍直前の猫のよ

うに身を屈める。

 直後、その肢体は風を裂いて矢のように跳んだ。風圧で捲れたフードが背中に靡き、美しくも凛々しい横顔があらわになる。

 優先順位は理解している。元グニパヘリル研究所のスタッフは、替えが利かない頭脳と技術。予備が居る自分達や、戦力と

して補充が利くエインフェリアよりも貴重。中枢幹部の警護すら放棄するという独断は処罰を覚悟しての物だったが、ドゥー

ヴァは躊躇い無く保身よりも組織の損失回避を優先した。

 ヒュウ、と思わず口笛を吹いたシャチは、自らの上官である老人に目を向ける。

「シャチ、デリング。命を下す、行け」

 指示を下されるなり、シャチもまた室外へ躍り出たが、その時にはもうドゥーヴァはダゴンッと激しい音を立てて甲板に降

り立ち、流れるようにバリケードへ走っていた。

 20メートルの距離と高度差を物ともせず跳んで着地し、猫が疾走跳躍するようにバリケードを軽々と越えたドゥーヴァが、

指揮塔から飛び降りる際に確認していた5秒前の光景を参考に、そこからでは死角になって見えない標的…スタッフが居るは

ずのモニタリングブース目掛けて走るリザードマンへと、見込み跳躍から飛び込み蹴りを見舞う。

 動きを予想して疾走する標的の側面をピンポイントに突き、ゴパンッと音を響かせてリザードマンの頭部を陥没させてのけ

たドゥーヴァは、蹴り足でそのまま着地してリザードマンの頭を甲板に叩きつけ、完全に粉砕する。

 ピュウ、と、自らも管制フロアから飛び降りたシャチが口笛を吹く。甲板に展開していた部隊も居たのだが、ドゥーヴァは

他の誰よりも速くバリケード内へ駆けつけていた。流動体であるかのように柔軟で、機械仕掛けのように強靭、しかもそれを

実現するだけのスペックを備える肉体は細身で華奢な女性の物。パワーとウェイトのバランス比率により、ドゥーヴァの機敏

さと機動力はシャチすらも凌駕する。

 クルリと回転したドゥーヴァの蹴りが、接近したリザードマンの胴を捉え、背骨を破壊しつつ胴を変形させて蹴り飛ばす。

その動作の最中、バリケードを越えて来る一般兵達を認めた彼女は声高く指示を発した。

「非戦闘員の退路を最優先で確保なさいませ!」

 回し蹴りから戻した足をそのまま踏ん張り、ドゥーヴァは素早く腕を振り上げる。コンパクトな、脇を締めたショートアッ

パーが捉えたのは、飛び掛ってきたリザードマンの顎。牙が噛み合い過度な衝撃で粉砕される、猛々しいまでの破砕音を響か

せたアッパーカットに次いで、勢いを完全に殺され、宙に縫い止められたかのように一瞬止まったリザードマンの頚部を、素

早く身を捻り、屈み込むように上半身を下げながら振り上げられたドゥーヴァの踵が蹴り砕き、独楽のようにスピンさせて吹

き飛ばす。動作は体操選手の演技のように美しいが、しかしその一挙手一投足は、並の生物兵器を一撃で破壊せしめる必殺の

凶器である。

 ドゥーヴァ…ひいては「オクタヴィアシリーズ」と呼称される9名は、黄昏の前身となった組織で誕生した強化人間…ブー

ステッドマンの一種である。

 当時、特殊能力に主眼を置いて産み出されたヴァルキュリアシリーズが、もしも上手くいかなかった場合の保険として計画

され、編成された二次戦力。ある異能の少女を参考に造られた9人姉妹。…それがオクタヴィアシリーズ。

 具体的には、ギリギリ人間の姿が保てるレベルの高い獣因子率を持つ受精卵を餞別し、身体機能が向上するよう、そして成

長後に追加で重ねられる数十回の強化手術に耐えられるよう、胎児の段階で手を加えられた存在で、その筋肉組織は体積こそ

普通の女性と変わらないが、性能は常人が比較対象にすらならないレベル。神経系も一般人とは異なり、反応速度、精度、と

もに肉体強化の高度な施術が済んだエインフェリアと変わらない水準にある。

 中でもドゥーヴァは、強化手術の全工程が完了した、シリーズで最も高い完成度の戦士。そして「精神に一切の異常をきた

さなかった」唯一の個体だった。

「む…、いらっしゃいましたのね!」

 振り返ったドゥーヴァの後方で水柱が上がった。海面ではなく、甲板上の事である。

「グフフフフ!援護するぜェ!走れドゥーヴァ!」

 甲板に下りたシャチがその能力をもって、海水を引き寄せて柱状の質量兵器に変え、リザードマンを爆撃する。直径2メー

トル、高さ8メートルの水柱が落下すれば、その重量と圧力は巨大なハンマーを落とすのと大して変わりがない。肉片レベル

にまで潰されたリザードマンの下では、床面がクレーター状に陥没していた。

 声を受けて走し出したドゥーヴァの左右で、リザードマンが躓いたように転ぶ。その足首はモヤのような物に覆われている

が、よく見ればそれは、床から生えたひとの手首。細かな塵が集まって形成された「手」がリザードマンの足を捕らえて転ば

せている。

 その不可思議な技を仕掛けた男は、作戦指揮区画の指令塔…高みから混乱を睥睨していた。

(降りる必要は無いな。直接戦闘の頭数は足りている。それに、ここから見下ろせる方が都合が良い)

 戦況を把握するポジションを維持したまま、デルロイは援護に徹する。

 一方ドゥーヴァは…。

(しまった!)

 疾走しながら身を低くし、飛来した何かを避ける。

 それは、半ばから折れ曲がったロングライフル。打撃武器としても使用される得物の持ち主は、歯噛みするドゥーヴァの視

線の先で、同等の巨体に吊り上げられていた。

 抜き手で胸部を貫かれて絶命した熊の下には、突き刺したその死体から滴り落ちる鮮血で全身を染めた獣。しかし…。

(おふた方とも、一角のエージェントですわ!)

 既に事切れている首のない術士の死体は、座りこんだ格好のままで倒れておらず、手はなおも杖を握っている。弱々しく明

滅する杖の宝石は、その場に近付こうとするリザードマンを風圧で足止めし続けていた。

 術士の若者は絶命寸前に杖へ思念波を送り込み、自分が死んでも防衛用の術が維持されるように仕込んでいた。

 そして、技術班の被害者は七名。短いとはいえ、自分達の基準では「これだけの時間」を経てなお約四分の三が被害を免れ

ているのは、手錬のエインフェリアである熊が獣と交戦して引き付けた成果。

 リザードマンを無視し、風圧の壁を貫き、迫るドゥーヴァを琥珀色の目が捉える。

 無造作な腕の一振りで熊の死体を放り投げて来た獣を見据えたまま、素早く横へ跳んで熊の死体を避け、殆ど減速せずに突っ

込んだドゥーヴァは、右腕を後ろに大きく引いて拳を握り込む。すると、袖の中からガシャンと音を立てて金属輝きが展開し、

握った拳にゴツい手甲が装着された。

 袖に隠されたガントレッドと、ズボンの下に着用しているレッグガード、そして格闘用ブーツがドゥーヴァの武装。平素は

収納されているナックルガードを展開して拳を固め、自分の三倍以上大きい獣へ、ドゥーヴァは果敢に肉弾戦を挑む。

「退避!退避ですわ!お相手は私が務めます!」

 周囲に呼びかけながら距離をゼロにしたドゥーヴァの拳が、掴みかかろうとした獣の腕と接触し、弾き上げる。そのまま、

突進速度を乗せた回し蹴りを放ったドゥーヴァは、強固なレッグガードを鈍器にして獣の胴へめり込ませた。

 一拍おいて、獣の巨体が吹き飛ぶ。バリケードに激突し電磁網ごとこれを破砕しながら沈んだ獣へ、果敢に接近したドゥー

ヴァは、電気ショックで止まったのを幸いに、加速と体重を乗せた喧嘩キックで追撃を入れ、スタッフから遠ざける事に成功

した。さらにそのまま、粉塵と瓦礫の破片ごと甲板をバウンドしてゆく獣を追う。が…。

(悪寒!)

 戦士の勘でドゥーヴァは横っ飛びする。直後、彼女が突っ込むはずだった位置で空間が鳴動し、袋が爆ぜるような音を立て

て衝撃波が拡散した。余裕をもって避けたはずだったが、ドゥーヴァの防寒服が左袖の外側を肩までズタズタにされ、柔肌が

露出する。

(発射するタイミングが掴めませんでしたわ。一体…!?)

 踏み止まり、僅かな停滞から再突進をかけながら、ドゥーヴァは獣の両手を見た。

 おかしな構えになっていた。今は両脇に戻りつつある両腕は、しかし直前まで、胸元に何かを抱えるように向き合わされて

いて…。

(ああもう!もったいぶらずに能力の詳細を開示しておいて頂ければ、探り合いも不要でしたのに!)

 守秘機能は大事だが部署ごとの仕事と成果が不透明過ぎる。そんな事を内心ボヤきながら接近したドゥーヴァに、獣は無造

作な腕の一振りで応戦した。それが衝撃波を孕んで叩き付けてくる攻撃であり、当たれば人体が簡単に破壊される事までは見

抜いたが、能力よりも身体性能よりも、敵意や殺気のようなものが極めて希薄な点が遣り辛い。

(格闘スタイルはシャチさんとも似ていますわ。捕まったらアウト、瞬殺一直線ですわね)

 唸りを上げる豪腕を軽く屈んでかわすと、そこから伸び上がって左の前蹴りを放つ。正確に顎を捉えて上向きに跳ね上げた

獣の頭部めがけ、素早く時計回りに旋回したドゥーヴァの右足が、弧を描いて踵を叩き付ける。

 浮き上がった獣の巨体が激しくキリモミ回転し、甲板に叩きつけられた。

「派手に行ってやがるなァ、グフフフ!」

 水の柱槌を連続で投下する絨毯爆撃でリザードマンを仕留めるシャチは、兵士の展開と、スタッフの護衛到着を確認すると、

ドゥーヴァの加勢に切り替える事を決め、爆音のような打撃音が響き粉塵が立ち込めるエリアめがけて駆け出した。

(40秒経過…!)

 蹴り付けた獣を甲板で大きくバウンドさせ、飛び上がって喉へ手をかけたドゥーヴァは、その巨体を床へ投げつける。掴ん

だ際に細い指先が獣の喉から毛皮と肉を抉り、動脈を引き千切ったが…。

(タフ過ぎるとは思いましたが、修復…してますわよね?やっぱり…!)

 血飛沫が吹き出すや否や勢いが弱まり、数秒も経ずに出血が止まる様を目撃して、ドゥーヴァの疑念は確信に変わった。打

撃は利いている。攻撃は入っている。動きは鈍っている。だが、獣は起き上がる。何故ならば…。

(ダメージで動きを鈍らせても致命傷には至らない!おそらく、潰した傍から内蔵も修復されていますわ!)

 手を休めず攻め続けながらも、これは相性が悪い相手だと、ドゥーヴァは形の良い眉を顰める。人体破壊を念頭に置いた徒

手格闘には精通しているものの、頑丈な対象の全身を一度に粉砕する手段…例えばシャチの能力のような破砕力が今の彼女に

は無い。VIP護衛の為に持込品が制限されたため、普段携帯している爆薬類を身に帯びていなかった。

(45秒…!)

 ドゥーヴァの息が上がり始める。

 オクタヴィアシリーズは一般人女性と遜色ない外見で高い戦闘力を持つ。異形の生物兵器群と比べ、その潜伏能力において

も戦闘能力においても高い優位性を誇るが、二つの欠点がある。

 一つ目は、常に寒さを覚える先天的な肌感覚の異常。これは全員に共通する欠点。

 二つ目は個体ごとに異なるが、ドゥーヴァを含む三名は最高出力での駆動時間が極端に短い。特にドゥーヴァは、高い戦闘

能力と完璧と言える精神性を持ちながら、およそ60秒の連続運転で体がオーバーヒートを起こし、動けなくなってしまう。

(50秒!)

 殴りつけた獣が倒れずに踏ん張る。衝撃と動きに慣れてきている。主導権を握り続けるのも限界に近い。

(シャチさんが…)

 チラリと見遣った先で、シャチの巨体が高速接近してくるのが見えた。

(相変わらず良いタイミングで入ってくれますわ。バトンタッチしてクールダウンを…)

 距離を取り、シャチに入って貰う。そう決断したドゥーヴァが、

「シャチさん!モーションこそ違いますが、彼の能力はおそらく素体と似た衝撃波の局在…」

 警告を発しつつ、後方跳躍の為に膝を曲げたその時…。

「!?」

 足首に覚えた感触へ視線を送って確認し、ドゥーヴァは凍りついた。

 そこに、「手」があった。粉塵が濃く漂う中、薄いモヤのような、甲板から生えた「手」が、ドゥーヴァの両足首を掴んで

いた。

「デ…」

 疑問と混乱の中、それを成した者の名を、ドゥーヴァが最後まで口にする事はなかった。

 パンッ。

 そんな音を聞いたシャチの目が見開かれる。

 行く手には、拳を振り抜いた獣。

 その前には、頭が無くなった同僚。

 血も、骨片も、脳も、皮膚も、肉も、毛髪も、まるで霧のように細やかに、気化したように飛散して、首から上が跡形も無

く消し飛んでいた。

 頭部を失ったドゥーヴァの身体が、ゆっくりと仰向けに倒れてゆく光景を前に、

「オーバードライブ…!」

 シャチの本能が警告した。ソイツは、今、この場で、全力で、確実に、仕留めなければならない「脅威」だと。

「フロム…オケアノス!」

 咆哮と共にシャチの全身で筋肉が膨張した。黒ずんだ部位には無数の傷跡が青白く浮かび上がり、さながら虎の如き傷の縞

を身に纏う。顔の右半分にも白い部位と右眼を跨ぐ形で四本筋の長い掻き傷が現れ、他の生物で言う鼻先のすぐ上には水平に

走る大きな刀傷が浮き上がる。

 シャチの疾走が加速すると共に、空母の四方八方から渦を巻いて海水が立ち上がった。

 竜巻に吸い上げられたように渦を巻く潮柱が、シャチの意思に従って獣に殺到する。それぞれが一本辺り十数トンの質量兵

器、しかもその先端は高圧水流のドリル。当たれば岩盤も細やかに破砕する必殺の凶器。

 しかし、次々に甲板へ殺到するソレを、獣は俊敏に避けてシャチへ舵を切った。

 真っ向勝負。ならばと構えたシャチの前方に、白く出現したのは圧縮された氷の盾。

 まともに激突して跳ね返された獣へ、盾を分解して鋭い氷柱に変え、放つシャチ。

 肉を抉り胴を貫通する無数の氷柱を、しかし意にも介さず踏ん張り直す獣。

 さらに加速し、シャチは五指を揃えた左腕を肩の高さで水平にし、肘から先を氷で覆って突撃槍と成す。

 潮柱が次々と着弾して轟音と共に水しぶきが弾け散る中、吶喊したシャチが獣と接触し、勢いそのままに連れ去る。が、そ

の槍はしかし獣を串刺しにできていない。

 水飛沫を上げ、勢いに押されて後方へ高速滑走させられる獣は、鋭い切っ先を腹部に10センチほど突き刺されながらも、

その両手で氷のランスを両側から挟み、止めている。

 そして、シャチは異音を聞いた。

 モーター音のような、携帯のバイブのような、音と振動の狭間にあるソレに気付くや否や、シャチは腕をランスから引き抜

く。直後、圧縮形成された氷の突撃槍は粉々に砕け散った。

(素体と同じ能力…、と考えるべきだろうなァ)

 即座に、潮柱が砕けてできた周囲の水に干渉したシャチは、その中から鋭い氷柱を生み出し、地対空ミサイルのように連続

して発射する。

 全身に被弾して針鼠のようになりながら獣が吹き飛び、甲板端で踏み止まったその時…。

「強制停止します」

 シャチはチラリと、モニタリングブースの生き残り達の方を見遣る。そこに、灰色の髪の男の子が居た。風の結界を引き継

いで維持し、機材と人員を被害から守りながら。

 その手には、透明なカバーかかけられた赤いボタンを持つ小さな箱。

 研究者の老人が必死に止めようとするが、男の子は構わずカバーを叩き割り、ボタンを押す。

 直後、全身を貫かれながらも態勢を立て直そうとしていた獣は、ビクンと巨体を震わせた。

 その耳朶から、鼻腔から、眼窩から、ドプリと赤黒い血が吹き流れる。

 それは、万が一の時の時のために準備されていた安全装置。脳にセットされているチップを焼かれた獣は、機能を停止…。

(してねェ!)

 シャチが身を捻って腕を引き、甲板上の水を全て支配下におく。

 頭部のあちこちから血を噴き出させながら、獣はまだ動き、その両腕を胸の前に持って行こうとしていた。

 シャチが意識を集中し、大量の水を纏め、生み出されたのは、鎌首をもたげた蛇の如き、うねる巨大な水流。大型のトンネ

ルを埋めるほどの直径を持つそれが、独特な構えを取った獣を飲み込み…。

 

 夕日が染める甲板の上、無数の担架が、物見塔のような作戦指揮区画の下へ並べられる。

 負傷者の運び出しが済み、残されたのは既に死亡した者達を乗せる担架だけ。

 その中の一つ、白い布が被せられ、肩から上の位置には膨らみが見られない担架を、数名の兵士が囲んで跪き、黙祷を捧げ

ていた。

 目に涙を浮かべる者もある。全員が、いつかどこかでドゥーヴァと戦場を共にし、あるいは任務で同行し、命を救われた者

達だった。

 コツリと、硬質な音と共にヒールが甲板を踏み、担架にシルエットを落とす。兵士達が見上げれば、そこには灰色の髪にソ

バージュを当てた女性。

「何をしているのかしらぁ?傷む前に運びなさい」

 完成形であるドゥーヴァの肉体から得られる情報は、未完成である彼女の姉妹へフィードバックさせられる。ドゥーヴァの

姉がそうなったように、彼女もまた礎となる。

 中枢幹部に命じられた兵士達は、しかし懇願するように見上げるだけ。

 波の乙女に墓は無い。泡沫となって消えるのみ。そして、消えた泡が海へ還る。

 判っていた。聞かされていた。だが、死を悼む兵士達は彼女を埋葬したいと申し出て…。

「運びなさい。ただちに」

 二言を許さぬ冷徹さをもって声が響く。灰髪の魔女の口元に笑みは無い。

 抵抗する気もたちまち霧散する、寒気を伴う怒気に触れ、兵士達は沈痛な面持ちでドゥーヴァの移送に取り掛かった。

 見送りもせず体の向きを変えた女性は、遥か甲板の端を見遣り、そこに立つ大きな影と、歩み寄る小さな影を望む。

(最後まで、ドゥーヴァちゃんが望んだとおりに遣り遂げさせなくちゃねぇ…)

 縁が大きく欠けた空母の甲板から、ゴツい手が酒瓶を海に向ける。

 ドポドポと琥珀色の液体が落ちて行く先を、シャチはじっと見つめていた。

 損傷した空母の救援に、別の空母が駆けつけ、現在はヘリが周辺海域を探索している。物的被害も人的被害も甚大だった。

 もうしばらく探索は続けられるようだが、シャチはおそらく無駄だと考えている。

 獣を飲み込ませた高圧水流は、戦車もズタズタにする刃の嵐だった。にも関わらず、これだけ探して衣類の切れ端や体毛、

僅かな肉片程度の痕跡しか見つからないという事は…。

(能力で直撃を防いだ。そして逃げたとも考えられるなァ。スペック上、ガルムシリーズは全員が深海の水圧にも耐えられる

設計だァ、沈んで姿をくらまされちゃァ、追跡も難しい)

 シャチ自身は動けない。オーバードライブの反動により、能力の使用が数時間不可能になっており、負荷がかかった全身の

細胞も治癒にしばらくかかる。海中を探索できるだけの充分な戦力はこの場には無い。

 一口分だけ残して口を上げた瓶を、シャチは顔の前に翳して眺めた。

 夕陽を受けて美しく輝く瓶。おそらくドゥーヴァが言っていた土産なのだろう品を、彼女の荷物から勝手に取り出し、手向

けの酒として大半を使った。

「ドゥーヴァの事は残念でした」

 視線を横に向け、それから下に向ける。

 シャチの隣には、いつの間にか灰色の髪の男の子が立っていた。

「まァ、珍しい事じゃねェ。よくある話で」

「そうですね」

 男の子は末期の酒を注がれた海面を見下ろし、シャチは酒瓶を煽って飲み干す。

「おそらく、植物寄生型を手段とする強化計画は、これを機に軒並み凍結されるでしょう。現状どおり、主力はクローンとエ

インフェリアです」

「そりゃァどうも」

 空になった瓶をベストのポケットに押し込んだシャチは、

「…しかし、おそらくフレスベルグは諦めません」

「………」

 他者に聞こえないよう、風圧操作でコントロールされた男の子の声に、沈黙を持って同意を示す。

「確か彼が進めていた中に、街を一つ実験場にするほどの規模で、数年がかりで計画していた寄生植物兵器の実験があったは

ずです。この実験結果を見たスルトから停止命令は出るでしょうが、大人しく従うタマとも思えません。計画通りに実験を行

うとすれば、貴方にもお呼びがかかる予定なのでしょう?」

「そいつァ、失敗させろってェ事ですかい?」

「いいえ、貴方は貴方の「仕事」をすればよろしい。貴方はフレスベルグのエージェントです。全ての責任は命じる側が持ち、

エージェントはそれに従うのが義務ですからね」

「…了解」

 波音が遠い。

 遠退いた五感が戻らないまま、シャチは黄昏の海を眺め続けた。

 酒の味は、全くしなかった。





(見た夢に意味があるとすれば、だァ…)

 回想を打ち切り、海中を進みながらシャチは考える。

 このタイミングであの夢を見た意味は、脅威が存在するという無意識下の警告なのだろうか?それとも…。

(バカンスの、はずだったんだがなァ…)

 幻臭だろうか。海中を行きながらも、あの日に嗅いだ血臭が、生々しく臭った気がした。