Thiazi Wavesnatcher
「奇妙な気配の男です」
クルーザーの船室、居住スペースから壁一枚隔てた隠し部屋…というよりも構造の隙間。狭い空間に屈み込んでいる少年は、
通信機を前に船の同乗者について報告していた。
「この海域の違和感とは別物のようですが、気配は一般的なひとの物と多少異なります」
船に乗せたセントバーナードを傍で観察した少年は、直感が捉えた事柄を装飾せずに伝え、指示を仰ぐ。
『そっちから手出しはすんなよォ?放っておいて構わねェ、無関係の「人外」って可能性もあるからなァ。まァ怪しいのは始
末しとくに限るんだがなァ。グフフフフ』
通信を終えて、少年は船室に戻り、デッキに出る。聞こえてきたのは聞き馴染んだ少女の声。島が近付いてはしゃぎ始めた
年少組を宥めている。
その傍には同行者…現地の丸っこい少年と、ぼんやり顔のセントバーナード。クルーと言葉を交わしており、既に少し馴染
んでいる。
(了解。ただし…)
命じられた事を反芻しながら、黒髪の少年は腰後ろのナイフの位置を確かめる。
(必要と判断した時は行動に移る)
通信機を密閉ボックスに戻し、シャチは改めて周囲を見回し、誰も居ないことを再確認する。
「さて、まずは個人的な仕事をさっさと済ませるかァ。グフフ」
シャチが上陸したのは島に数箇所あった岩場の一つ。崖下で範囲も狭く、漁にも適さないので誰も降りて来ない場所で、ボ
ンベやウェットスーツを袋に密封して岩場に隠した。そして…、
「いい島じゃねェかァ?グフフフフ…。綺麗な海、空、風、滞在にはもってこいだァ」
腰に手をあて、仁王立ちで岩場から沖を眺める。全裸なのだが誰も見ていないし本人も気にしていない。
「終わったら釣りでもしてのんびり過ごすかァ。さて…」
全身に力を入れると、発熱した肌から水気が蒸発し、体はあっという間に乾く。持参した小型トランクからアロハシャツと
ハーフパンツ、サンダルを取り出し…、
「あ、パンツ忘れたぜェ。グフフ、まァいいかァ」
一般旅行客を装う格好を整えて、シャチは歩き出す。
「さァて、病院は何処だったっけなァ?グフフフ」
海沿いに歩けば見失わないだろうと、上陸地点から目的地までの道のりを頭の中に思い描いて…。
「わ、すごいじゃない!椰子の木パラダイス!?」
桟橋から見える木立の一角が全て椰子の木だと知って、リンは目を丸くした。
「ラークが喜ぶな!あの子ココナッツジュース大好きだから」
「それ、別の船のきょうだいか?」
「うん。食いしん坊な子で…、あ、ちょっとキミと似てるかな?イグアナだけど」
「へぇ、イグアナか~。…え?オラってイグアナと顔似てんのか…?」
「顔とかじゃないよ、コロっとしたトコとかかな?」
知り合った旅客一行のクルーザーに乗せられて島に戻ったカムタとルディオは、桟橋への係留を手伝う。旅慣れしているら
しい一団はすぐにふたりと打ち解けた。一名だけ、リンが「シャイだから」と言った無口な黒髪の少年を除いて。
「じゃあ、先に親父さんのトコに案内すっから、桟橋の許可貰って来ような。絶対にダメって言わねぇからさ!」
カムタの提案に頷いたリンは、
「リン。確実ではないが、この島で「仕事」が行なわれる可能性がある。端末の電源は決して切るな」
「…!」
桟橋へ降りかけた所で黒髪の少年に囁かれ、軽く眉を上げた。
「…判ったわ」
短く小声で応じたリンが年少の子供達を伴って下船すると、先に下りているカムタにルディオが囁いた。
「カムタ。先生の包帯足りなくなったら困るから、先に届けてくる。…あと、先に家に寄って、バルーン隠してくる」
「あ、そうだよな?皆連れてくから隠れて貰わねぇと…。じゃあその後に家で合流な!」
「ん。わかった」
包帯だけ持って一行から離れたルディオは、まず自宅を目指す。カムタは旅行者達を案内してテシーの父親のところへ桟橋
の使用許可を貰いに行く。
ふと、少年は空を見上げて鼻をひくつかせた。
「…雨が来んのか?」
青かった空に、霧のように薄い白が、ゆっくりとかかり始めていた。
急いで家に戻り、バルーンに客が来るから隠れているようにと頼んで籠ごと隠したルディオは、そのまま診療所へ向かった。
「助かったよルディオさん」
包帯を受け取ったヤンは、今日も二人怪我人が来て手当てした事を説明する。
「多いなぁ、怪我」
「まったくだ。大怪我に繋がっていないのが不幸中の幸いだが…」
漁に適した天気が良い日が続いているのに、と言いかけたヤンは、窓の外を二度見する。
「いつの間にか雲が?久しぶりに降りそうだな…」
「ん。風が湿ってきた。お客さん来たのになぁ」
「お客さん?」
問われたルディオは、出先で食事した際に少年少女子供達の旅行者グループと知り合い、そのまま一緒に島へ来たのだと説
明する。
「ピザが美味かった。また行こうって、カムタと話した」
「それは良かった。カムタ君は喜んでくれたか…」
「ん。その子達と一緒の席で、種類色々、分けて頼んで…」
短い時間だったが、ルディオは腰を据えてヤンに説明しつつ、感想を語った。他国の子供達と触れ合えるのは良い刺激にな
るだろう、とヤンも好意的に受け止める。
「子供たちだけ」という点は、ルディオの説明から抜けていた。この時点で、医師がその情報に触れれば指摘できたのだが、
タイミングを逃していた。
「滞在するならカムタ君も楽しいだろう。怪我にだけは注意して貰わなければならないが」
セントバーナードを玄関先まで送り出し、手を振る大男に振り返しながら見送って、虎医師は空を見上げる。
天を覆った雲は、今にも降り出しそうな鉛の色に変わっていた。
「ここがオラ達の家だよ」
「わぁ!広い庭だー!」
「ニワトリ居る!」
「アレ何の木?」
「食べられる実?」
「あー!あれキッチンなのー!?お外にあるのー!?」
カムタの案内で少年少女が、口々に声をあげて庭に入る。
南国の民家、異国情緒漂うロケーションで子供達が興奮するのは、庭にある炊事場と食事場が、バーベキューのような屋外
での食事を予想させたからなのだろう。
「飯、ここで食うか?料理食える店もあるけど」
「あ!そうね!もし良いならせっかくだから…」
カムタに問われて応じかけたリンは、曇天を見上げた。
「…これ、降るかな?」
その呟きが終わると同時に、カムタは片目を瞑る。
見上げた顔を大粒の雨が叩き、右目の下から涙のように筋を描いた。
(アンチャン、帰り濡れちまうな…)
みるみる強くなった雨は、ザァザァと音を立てて島を濡らした。
大粒の冷たい雨に体を叩かれながら、ルディオは家路を急ぐ。
カムタが待つ家。
カムタと暮らす家。
自分が帰る家。
自分が暮らす家。
歩き慣れた道。
住み慣れた島。
風に靡く椰子の葉。
雨に鳴る地面の音。
今日は賑やかな食事になるだろう。食材は足りるだろうか?もしかしたら磯へ仕掛けを確認に行かなければならないかもし
れない。テシーにも手伝って貰わなければならないかも。
少年に作って貰ったベストはすっかり水を吸って、被毛も雨で濡れそぼって、裾から水滴が連なって落ちる。
帰ったら、帰ったら、磯に行くかどうかカムタと相談して、行くならカムタが濡れないように、自分ひとりで取りに行って、
行かないならまず体を乾かして、帰ったら、帰ったら、それから、それから…。
足が止まったのは、思考が止まったのは、左手に海を臨む道の上。
開けた砂浜の向こうには、重く垂れ込めた鉛色の雲。
視線を巡らせる。
視界に入ったソレを確認する。
雨足が強い、水のヴェールの向こう側。
瞬間、体が震えた。雷に打たれたように激しく。
ルディオの目が、ソレを見る。
そこに居る、ソレを見る。
ドクンと心臓が跳ねた。
血圧が急激に上がった。
体中で皮膚が粟立った。
青黒い肌。寒々しく白い皮膚。屈強な体つき。骨太な体躯。上背は同程度。
雨の中に硝煙のような臭いを嗅いだ気がした。それが濃厚過ぎる殺気が齎した錯覚であると、20メートルも離れた位置か
ら漂う幻臭であると、気付くまで二秒を要した。
足は、位置を変えていた。
体は、砂浜に向き直った。
頭は、冷えて冴えていた。
鯱が。
一頭の鯱が。
トルマリンの瞳に映り込む。
「よう。一年半ぶりかァ?」
そこに、その男は佇んでいた。
ズボンのポケットに両手を突っ込み、冷たい雨が降りしきる砂浜で、ただ独り佇んでいた。
海が唸る。空が啼く。一条の稲光が沖へ駆け下り、雨に濡れた鯱の逞しい肌を輝かせた。
南国の鮮やかな色が全て洗い流されてしまったような、暗く肌寒い、黒白の景色の中で、
(ああ、そうだ。おれは…)
セントバーナードは思い出す。
その巨漢の事は、ずっと前から知っていた。
断片的だがチップ内の記録が参照できた。
垣間見た白昼夢…あの白い部屋で見た事があった。
性能評価ランクはトリプルS…八段階の評定基準で最上位のエインフェリア。都市レベルの破壊工作、殲滅が単独で可能な
戦略兵器。
何より、メモリーが破損していても、記憶が連続していなくとも、肉体が覚えていた。
自分は、この男に二度殺されている、と…。
(ここに、居る、理由は…?)
足を進め、砂を踏み、距離をおいて立ち止まり、鯱と正対したルディオは、一瞬の思考に推測の答えを与えた。
この男の主な任務内容。そして、自分がかつて黒豹の戦士を仕留めた事実。もしも、何らかの手段でそれが黄昏に知られた
のであれば、始末の為に寄越されたとしても不思議ではない。
(漂流の末に、流れ着いたって訳かァ…)
立ち止まったセントバーナードの無表情な顔を見据え、鯱は思考する。
欲しがる幹部も居るだろう。調べたい研究者も居るだろう。珍しい研究対象であり、貴重なサンプルである事は間違いない。
だが到底容認できない。この危険極まりない、チップを焼かれてなお動ける兵器は、可能な者が可能な時に処分するに限る。
鯱の顔には普段浮いているような笑みが無い。含み笑いは欠片も無く、表情も無い。
ルディオと同じように。
(ここで壊す。今度こそなァ…)
無表情のまま、シャチ・ウェイブスナッチャーは両手をポケットから抜いた。
「オーバードライブ…」
低く、唸る。手加減は無い。余力の事など考えない。長時間の全機能低下というデメリットを甘受してでも全力で叩く。確
実に、完全に、此処で、今終わらせる。ドゥーヴァができなかった事を、ドゥーヴァの目の前でやれなかった事を、今度こそ、
ここで。
「フロムオケアノス!」
筋肉が膨れ上がった全身に無数の古傷が浮かび上がり、虎のような縞をシャチが纏う。
応じるように、ルディオの瞳が琥珀に染まった。
(お願いだ、ウールブヘジン…!)
体内の同居人に呼びかける。一蓮托生の共生関係で今日までを乗り切った、カムタを守りたいという志を共有する、同志た
る存在へ。
(コイツに負けたら、島が丸ごと無くされる。カムタも、テシーも、ヤン先生も、テシーの父ちゃんも、駐在さんも、他のみ
んなも、全部全部、消されて無くなる。だから…)
脈動を強め、血潮を巡る。ウールブヘジンの成分が、その存在全てを使い切る事も厭わずに。
(コイツを倒す。倒さなきゃいけない。「おれ達」が全部無くなっても…!)
ルディオの戦闘態勢が整った。
その途端に、雨が止んだ。
二頭を中心に、その周辺でだけ。
天から零れ落ちる無数の滴を、空へ平手を向けたシャチがその能力をもって受け止める。その頭上では雨雲すらも薄くなり、
島周辺の雨が急激に弱まった。
支配下に置かれ集められているのは雨だけではない、海面からは荒れる波が逆巻いて、シャチの頭上へと白く渦を巻きなが
ら吸い上げられてゆく。
圧縮され、冷却ではなく圧力で水が氷となり、秒単位の時間すら要さずできあがったのは、全長20メートル超、最大直径
3メートル以上にも及ぶ、巨大な突撃槍。宙に浮かぶランスは、その穂先をゆっくりとルディオに向ける。
地鳴りが響いた。
シャチが指揮するように前方へ腕を振り下ろすと、音速に近い速度で落とされた突撃槍が土砂を巻き上げ、島全体を揺らす。
視界を遮る砂の壁。湿った土砂のヴェールを貫き、セントバーナードが駆け抜ける。
槍が射出される直前にウールブヘジンが反応し、横っ飛びで難を逃れたルディオは、衝撃と土砂に叩かれて転げながらも即
座に体勢を立て直していた。両手を胸の前で向き合わせながら向かうのは、吹き上がった土砂の向こうに居るはずのシャチ。
(アコルディオン…)
意識を集中する。局在する不可視の衝撃波を、シャチの周囲に展開する。
包囲、炸裂。その一手目は…。
「!」
勘のように奔ったウールブヘジンの警告で、ルディオは頭上を仰ぎ見た。
感覚頼みに局在衝撃波を展開した直後、土砂の向こうで跳躍したシャチは包囲を脱している。
(七つか…。まともに囲んでぶつけられたら堪ったモンじゃねェなァ)
見下ろすシャチは、粉塵舞う中に直径1メートル程の空白地帯を七箇所視認した。局在衝撃波が炸裂した痕跡だが、衝撃波
がセットされた瞬間にも粉塵が弾き出され、大小様々なサイズでボール状の空白地帯が生じるため、攻撃直前に目視で確認で
きる。
初手の巨大な突撃槍は目くらまし目的であり、攻撃行動の遅延目的でもあったが、同時に、吹き上げた土砂や粉塵で不可視
の局在衝撃波の位置を見極めるための物でもあった。さらに…。
(上、だったら…)
立ち止まったルディオが、拡散する衝撃波を上空めがけて放とうと、腕を広げた瞬間、ソレが煌いた。
「………」
ドサリと、足元に重たい音を立てて何かが落ちた。何かが高速で飛び去る風圧に続いて。
見遣ったルディオの視界左側を、吹き出した鮮血が遮った。
左腕が、肩から切り落とされていた。背後から飛んで来た氷の円盤…縁が刃物のようになった物で。
大地を抉った巨大な突撃槍は、シャチが活用する武器庫…。即時調達可能な武器の材料でもあった。シャチが臨界点を越え
て能力を行使した際に得られるのは、より規模が拡大した支配範囲だけではない。精度が増し、圧が上がり、生成する氷の縁
は、黒曜石の破片のように単分子レベルの鋭さを得る。
続け様に、細く鋭い手槍のような氷が無数に飛来する。数発体を掠められながら、身を投げ出して回避したルディオは…。
(アコルディオンが…、使えない…)
根元から切断された左腕を振り返るも、飛来した氷の手槍で串刺しにされ、砂の中に埋まって消える。
切断された傷はウールブヘジンが直ちに止血したが、局在衝撃波は両手を向き合わせて発動させるワンアクションを要する。
片腕では単に放出する事しかできない。
ジャバッと、水音が響いた。
落ち切っていない土砂の中を、水流のアーチが虹のように横切って、ルディオを中心に据える。
そのアーチの内側を、サーフボード状にした氷の板に乗ったシャチが高速で駆け抜けた。その、ルディオに向けられた掌の
先に、置いて行かれるように刀剣サイズの氷がセットされ、包囲が完成するなり一斉に中心へ…つまりセントバーナードめが
けて殺到する。
右腕から衝撃波を発生させつつ一振りし、迫る氷の刃を弾き飛ばす。が、その間にもシャチは手を休めていない。
(…あ…)
琥珀の瞳が見回したその時には、ルディオを取り囲んで幾重にも水流のアーチ…、シャチの立体攻撃経路が敷設を終えてい
る。螺旋状の、完全包囲を敷いて。
(今度こそ仕留める。必ずだァ)
一度逃がしたその経験から、シャチには油断が無く、準備が有る。
水流のルートを高速で移動する鯱が、青黒い軌跡でセントバーナードを取り囲む。四方八方から降り注ぐのは、硬く鋭い氷
の刃。
振るい、衝撃波で刃を散らすルディオの右腕の外側に、三本立て続けに刃が突き刺さった。防ぎ切れないと察して横っ飛び
に身を投げ出した傍から背中に二本の氷が食い込んだ。身を起こすなり咄嗟に首を傾けたが、右耳が半ばから切り飛ばされた。
間断なく殺到するそれは、もはやマシンガンの十字砲火にも等しい弾幕。
被毛を皮膚を肉を骨を神経を臓物を、等しく切り裂き抉ってゆく氷の牙。
濡れた砂がそれでも埃のように吹き上がり、それに混じって血煙が舞う。
回避する先が無い。防御する術が無い。ウールブヘジンの修復も間に合わない。ルディオは全身に被弾し、その身は余す所
無く血に染まった。
そして理解した。この男は自分への対策が完全にできているのだと。
そして確信した。自分達はきっと、この男に勝てないのだろう、と。
そして覚悟した。それでも敗北まで受け入れる訳にはいかない、と。
(相打ちで良い)
死ぬ事は怖くない。カムタが無事でいられるなら、自分もウールブヘジンも、全て無くなって構わない。
(絶対に、ここで止めないと)
カムタが寂しがる事を考えると悲しかったが、もう仕方がないと自分に言い聞かせる。
(おれは…)
最後に、一緒に出かけられて良かったと思う。
最後まで、笑顔を見られて良かったと思う。
(おれは、この島で生まれて、この島で生きた)
時刻は少し遡る。
強く降り出した雨を避け、少年少女を家の中に迎え入れたカムタは、窓から庭を窺ってルディオの帰りを待っていた。
「コラ!暴れちゃだめだよ!」
異国の家、その屋内ともなれば普通の民家でも珍しいのか、小さな子供達は編み籠を持ってみたり、漁の仕掛けに触れてみ
たりと忙しい。嗜めるリンの手ではひとり捕まえるのがやっとなので、応援を頼まれた少女が兎の子を抱き上げて捕らえる。
「ゴメンねー?静かにさせるから…」
「いいよ。壊れるモンとか別にねぇし。ああ、アンチャンのパソコンだけ触んねぇでくれればいいよ。オラもよく判んねぇ機
械だからなソレ」
猫を羽交い絞めにしているリンに笑って応じたカムタは、ズン…と、腹に響くような振動を感じて顔色を変えた。
「地震か!?」
壁にかけられている品々や、倒れた写真立てを見遣って揺れを確認するカムタ。一方少年少女は年少組を素早く伏せさせて
守っている。
「…地震じゃねぇかも?何だ?」
揺れは一瞬。どちらかと言えば何かがぶつかった衝撃…例えば桟橋に船が衝突した時のような感覚に近いと、カムタは判断
する。
ふと外を見ると、空は明るくなり雨足は急に弱まっていた。
「リン。おそらく「仕事」だ」
黒髪の少年が小声で囁くと、少女は軽く眉を顰めた。
「近くない?船に戻った方が良いかな…」
とりあえず揺れは来ないようなので、子供を放したリンはすぐ傍の、倒れた写真立てを戻そうと手を伸ばす。
「………」
カムタは、戸惑った。
(何だ…?)
無意識に手が胸に伸びた。
(何だコレ…?)
言い様の無い胸騒ぎがする。
心臓がドクドク跳ねて、不安が増してゆく。
嫌な予感。否定も説明もできない、虫の知らせ。
「あ!どうしたの!?」
カムタが廊下に飛び出して行くと、リンは目で追い、それから手元に視線を戻す。
直そうとした写真立て、まずはそれを置こうとして、手が止まった。次いで息が。
丸く見開かれた少女の目に映るのは、晴れ渡った空の下で輝く、美しい海をバックにした三人…。
「…ゼファー?」
「何だ」
写真を見つめながらリンは小声で問う。
「貴方、「仕事」の中身は聞いてる?」
「明確な説明は受けていない。だが…」
黒髪の少年は声を細く、息のように狭めた。
「同行していたセントバーナード、あれは人外の何かだ。排除対象になった可能性もある」
「そういう事は早く言うんだよ!」
写真立てを戻したリンは、カムタの後を追うように部屋を飛び出した。
「全員ここで待機!いいわね!?」
きょうだい達に言い残して玄関から駆け出るリンの胸中で、嫌な予感が膨れ上がった。
弱くなった雨を浴びながら少女は駆ける。庭を飛び出して左右を見ると、少し先に、まるで目標が見えているかのように真っ
直ぐ駆けて行く少年の後姿が見えた。
声をかけてもサァサァと続く雨音と、走る足元から上がる水音に阻まれて届かない。泥混じりの飛沫を蹴り上げて走るリン
は、先程見た写真を思い出す。
美しい浜辺の景色。砂浜に並ぶ三人。右手側に少年。左手側にセントバーナード。
その間に居て、ふたりの肩に腕を回していたのは、熊のように大柄で太っている狸の中年…。
忘れもしない、かつて自分を救ってくれたひと。
どん底を這いずる襤褸屑のような自分を、ひととして扱ってくれた初めての大人。
残酷なこの世界が、それでも捨てた物ではないのだと、自分に教えてくれたひと。
ストレンジャー、カナデ・コダマ。
(カナデの知り合いだったなんて!)
必死になってカムタを追うリン。
その後方から、黒髪の少年が追う。
腰の後ろに固定したナイフに触れ、雨に濡れた事によるグリップの滑りを確認する。
(必要と判断した時は行動に移る)
(地震!?)
ビックリして即座にデスクの下へ、頭から体を突っ込む肥満虎。デスクの足元に入れるような体ではないので、文字通りの
頭隠して尻隠さずになっているが、細かい事を気にしている余裕は無い。頭を両腕で庇い、防御姿勢で強震に備える。が…。
(止まった…のか?)
揺れが続かない事を確認すると、医師は恐る恐る机の下から這い出て診療室を見回し、倒れた物や零れた物が無いかチェッ
クする。
(妙な揺れだったな。…というよりも)
振動もそうだが、音も聞こえた。雷かと考え、一度奥に引っ込んでリビングに向かい、窓からウッドデッキ越しに沖を見遣
る。沖は暗いままだが、島の上は雲が晴れてきたのか、いつの間にか明るさが増して雨が弱まっていた。
(…雷…とも違う?)
耳と眉尻を下げる虎の医師は疑問を感じていた。音が響いた方向が異なる。沖で唸る遠雷とはそもそも質が違う気がした。
空鳴りではなく、地鳴りのようだった、と。
(近くに…、陸に落ちたのか?)
デッキに出て見回した医師は、首を右手側に巡らせた直後に硬直する。
遠く、砂浜からもうもうと砂埃が立ち昇っているのが見えた。
(落雷!?にしては、何か妙な…)
違和感は、風景その物から受けた。
雨が急に弱まり、島の上でだけ雲が薄くなった中、爆弾でも投下されたように粉塵が舞い上がったその周辺でだけ、空気の
層の明るさが異なって見える。ヤンには原因が判らないが、それはシャチの能力によって大気中の水分まで吸い寄せられ、中
心部の周辺でだけ湿度が低くなっているせいだった。
(これは…!)
ルディオとカムタに知らせた方が良いと、医師は靴を履きかえるために室内に引き返す。そしてふと、リビングのテーブル
に目を向けた。
歩み寄り、テーブル裏に触れ、固定されていたそれを引っぺがすように取り出す。
黒色で光沢が無い拳銃。リスキーの置き土産、グロック22。
意外なほどの軽さとは裏腹に、撃たれれば怪我もするし死ぬ。護身用にと押し付けられた品を、安全装置を二度確認してか
ら、嫌々ながらも腰の横でベルトに挿して、ヤンは弱雨の中へ出てゆく。
一度、遠巻きにでも何が起きているのか確認すべきだろうと考えながら。
打ち付けるような衝撃に続き、右腕がキリキリと宙を舞った。
ドサリと濡れた砂浜に落ちた腕からは、もはや殆ど血が流れない。
二条の線が宙を走る。
見えている。が、避けられない。防げない。ボロボロの体はもう意志に追い付かない。腹の真ん中と右胸を、高速で飛来し
た細く鋭い氷の矢が、抵抗らしい抵抗も無く貫通した。
背中からどうっと仰向けに倒れ込んだルディオは全身に傷を負っているが、どこも修復が殆ど進んでいない。
肺が酸素を求め、雨粒ごと空気を吸い込み、咳き込む。
咳き込んだ傍から喀血し、空に向かって血霧を吹き出す。
左目は見えない。避け損ねて掠めた氷片の刃で縦一文字に割られてしまった。
しかしそれも修復できない。肉体の損傷にウールブヘジンの修復が追いつかず、生命活動を維持する機能…臓器などの損傷
を優先して修復するため、重要な眼球を治す余裕もない。
まるで歯が立たない。ここまでの差があるのかと、ぼんやり思う。力量に開きがあり過ぎるせいか、もはや焦る事すらない。
圧倒的な戦力差だった。絶望的な戦力差だった。攻撃性能、防御性能、反応速度、機動性、戦術眼、戦闘技術、経験、そし
て状況判断能力…、その全てにおいてシャチはルディオを大きく上回っていた。タフさを活かした肉弾戦であれば、あるいは
それなりに戦えるかもしれないが、迂闊に接近戦を仕掛けない用心深さも含め、シャチには付け入る隙が全く無い。
相手が能力を活かし易い浜辺での戦闘は不利極まりないが、島の中まで引き込む事は、できなかったし、したくなかった。
下手に島内へ入れば巻き添えの犠牲者を出す可能性が高まる。それに、シャチがノコノコとついてくるとは思えない。海岸
線から離れた所で、あの巨大槍による無差別爆撃でもされてはかなわない。
事実、もしもルディオが逃走を試みた場合、シャチは躊躇なく周辺を爆撃するつもりだった。その後は痕跡を残さないため
にも、島を沈める事になる。高波などの災害に見せかけて。
(粘った方だが、ここまでだなァ)
打つ手がことごとく封殺され、両腕をもがれたセントバーナードに、湿った砂を踏み締めて、鯱が歩み寄る。
(能力の主な起点は両腕を使うあの構えからだァ。腕が二本とも落ちたら、満足に使えねェ)
万が一素体から同じ力を引き継いでいたとしても、腕が無ければ使えない。決着の時と見て止めを刺しに入るシャチの右手
には、肘から先をすっぽりと覆う形で装着した氷のランス。
全身を刻まれてなお動き、チップを焼かれてなお逃げおおせた。そんな相手だからこそ、頭部を粉微塵に粉砕して止めを刺
す。砂の上で仰向けのセントバーナードから、一瞬たりとも目を離さずに、鯱の巨漢は近付いて…。
(あァ?)
ガバッと、唐突にルディオが身を起こした。
(この距離だったら…)
クワッと開いた口腔に、力が収束されてノイズを発する。シャチが目を見開いた次の瞬間…。
(届く!)
ジュボッ。
そんな音と共に、砂浜が土柱を吹き上げる。
水分が蒸発するような音に続き、轟音と共に天を衝くように聳え立つ爆風。
まともに余波を受けたルディオは、腕も無いので受け身も取れず、吹き飛ぶように後方へ転がって半分砂に埋まった。
シャチが居た位置は直径10メートル程の擂り鉢状に抉れて、何もかも吹き飛んでいる。
向き合わせた掌で力を収束させる、アコルディオンの起動シークエンス。その応用で、ルディオは上顎と下顎を掌のように
利用し、起点を発生させた上で、咆哮のように前方へ放っていた。
が…。
(ハティ・ガルムと似た事ができるとはなァ)
粉塵が舞い上がった上、地上十数メートルの位置で、シャチは攻撃を回避していた。
気配を察して見上げるルディオ。ランスを展開させ、無数の針のように形状を変えさせつつ、狙いを定めるシャチ。
矢のような氷の針が、無数に降り注いだ。
地面を横に転がって逃げたルディオの胴を数本が掠めて、矢のような氷は砂浜にドスドスと音を立てて突き刺さる。左の脇
腹がパックリと割れ、ブニュリと腸が零れ出たが、転がったと同時に膝を折り畳んだルディオは、中腰で身を起こして跳躍姿
勢に入っていた。
太腿が、脹脛が、背筋が、怒張して毛が逆立つ。
奇襲も失敗し、衝撃波の放出も操作も不可能な状態で、唯一できるのは玉砕覚悟の体当たり。自らを、砲弾としてシャチに
叩き付け、接触の瞬間に直接衝撃波を叩き込む。
(速く、重く、全力で…)
全てを振り絞る最後の一矢で、勝てないまでも刺し違える。
落下しながら、シャチは冷静に見定めていた。
(オーバードライブしかけてやがるなァ。…だが、「ハーキュリー・バーナーズのオーバードライブ」じゃねェ)
素体の物とは違う。発露の階に過ぎない不完全な超越駆動。取るに足りないが、無論見過ごせるはずもない。
ボヅン。
そんな音と共に、ルディオの体が傾いた。
屈む格好で力を込めていた右脚が、膝のすぐ下で断たれてずれ、ボトンと横倒しになる。同時にバランスを崩したルディオ
が倒れ込む。
先に打ち込まれ、砂浜に埋まった無数の氷の矢。その内の一本が回転しながら地中から飛び出し、黒曜石のように鋭いその
縁で、エインフェリアの強靭な脚を容易く切断していた。
前のめりに倒れ込んだルディオは、しかしそれでも諦めない。うつ伏せから顔を上げ、着地するシャチに向かって口を開き、
一か八かで衝撃波の咆哮を放たんと力を掻き集める。
その時だった。
「アンチャン!」
悲鳴のような声が砂浜に響く。
(カムタ…!?)
発射姿勢のまま、ルディオは残った右眼をカムタに向ける。
(何があったんだアンチャン!?ソイツ誰だ!?ひでぇ怪我してんぞ!?大丈夫だよなアンチャン!?アンチャン!?)
遠目にも、ルディオがボロボロになっているのは判った。傍に駆けつけようと、カムタは前のめりになって全力で走る。
砂浜に駆け込んでくるカムタのすぐ後ろで、少女が走りながら叫んだ。
「パパ!?何してるの!やめて!そのひと…!」
さらにその後方から、追従する影があった。
黒髪の少年は少女の前を走る少年の背を見て、砂浜に降り立つ鯱と、倒れ伏すセントバーナードが交戦中であると見て取り、
「………」
無言のまま、腰の後ろからナイフを抜く。
「リン。止まれ」
低い警告が少女を追い越す。加速した少年はカムタに迫り、並走する状態になって…。
ノイズが拡散した。ルディオの口腔から放たれた衝撃の咆哮が砂浜を抉り、
「アイギス!」
吼えたシャチの正面に、真っ白く凍りついた巨大な盾が出現する。
衝撃が炸裂する。
盾に阻まれる。
轟音が響く。
立ち止まり、顔を庇ったリンの数メートル先で、
「アンチャ…!」
カムタは、並走してきた少年にドンと体当たりされて、声を途切れさせ諸共に砂地へ転げた。
荒れ狂った衝撃波は、離れていても暴風となって叩き付けた。
前のめりになって耐えたリンが顔を上げたその時、カムタは砂地に突っ伏していて、傍らで黒髪の少年が身を起こしている。
土埃がおさまりつつある中から、呻くような声が響く。
「カムタ…」
砂が晴れる。
雨が止む。
「…カムタ…、来る…な…」
ここに来てはならない。
ここに居てはならない。
「カム…タ…。ダメ…だ…。逃げろ…」
自分は失敗した。自分では勝てなかった。
だから逃げろ。遠くまで。
「カ………」
砂埃が収まった。その先に…。
「…ゼファー、何を…!」
砂埃で涙目になっているリンに呼びかけられ、黒髪の少年は首を巡らせた。その手には、抜かれたナイフ。
「………」
琥珀色が失せつつある瞳が、大きく見開かれる。
周囲の風景が遠のき、中心に集約し、魚眼のように景色が歪む。
濡れた砂浜に倒れて、少年はピクリとも動かなかった。
「カ……ム……」
息が止まる。声が出ない。
その傍らに、シャチが立つ。
ルディオの最後の一撃をも盾で防ぎ止め、ほぼ無傷だが、臨界を越えた駆動は限界時間を迎えようとしている。疲労物質の
分解は止まり、耳鳴りが酷い。体中の古い傷跡が薄くなって消えつつあった。
「………手前ェ…」
低く声を発したシャチの手には、盾を破砕して作った鍔も無い直剣が握られている。
鋭い切っ先は、ルディオのうなじに突きつけられながらしかし、その首を落とさず止まっていた。
「人格が…、生まれてやがったのかァ…?」
少年に向かって這おうともがくセントバーナードを、思案するような顔つきで見つめるシャチ。
人格は無かった。再生戦士としてロールアウトしてからも、被験体になってからも、人格は構成されなかったはずだった。
感情は生まれなかったはずだった。精神は宿らなかったはずだった。
「カムタ…!」
そのはずが、言葉を発している。ひとの名前を呼んでいる。チップを焼かれたはずなのに。
シャチが知る限り、そんな前例は他に一件しかなかった。
「…ムタ…」
這いずり、進む。
「カム…」
両腕を失い、右脚を膝下で失い、それでも這う。
「カ…ムタ…」
裂けた腹から毀れ出た内蔵が、砂地に擦りつけられるのも構わず、セントバーナードは這い進む。視線の先には、うつ伏せ
に倒れたまま動かない少年。
その、ズタズタのルディオに氷の剣を突きつけたまま一瞥したシャチは…、
「動くな!」
叩き付けるような声で首を巡らせる。オーバードライブの反動により、大半の機能が活動を縮小しようとしているせいで、
第三者の接近を察知するのが遅れた。
シャチは見遣る。浜辺から少し離れた道上に立ち、拳銃を構えている、肥った虎を。