From okeanos

 それは、世界の果てより。

 黄昏の海に独り漂い、見つめている。

 「この世界は存続に値するか否か」。

 今もまだ、答えは決まっていない。




「武器を捨てて下がれ!すぐにだ!」

 腰が引けている肥満虎が、拳銃を両手で構え、鯱の巨漢に向けながら声を張る。

 事情は判らないが状況は判る。ルディオが手足をもがれて死にかけ、カムタが倒れているという事実から、危機的状況だと

判らないはずもない。加えて言うならば、ルディオとウールブヘジンが敗れるような相手だという事も理解できている。

 だが、退く気はない。自分が逃げたらふたりがどうなるか…、想像するだけでそちらの方が怖い。

(さァて…)

 銃を向けられながら、シャチは落ち着き払ってヤンの姿勢、彼我の距離と位置関係を把握する。

 両手でしっかり拳銃を握り、体の正面で構え、腰を落としている肥えた虎は、過剰なまでに反動を警戒した及び腰だった。

だからシャチには一目で判る。銃を撃ち慣れていない事が。

 狙いは自分に向いているが、銃身が震えている上に照準の定め方が間違っている。狙っているのは鳩尾辺り…的として一番

大きく見える胴体の真ん中近辺だろうが、この距離で、あの構えで、おまけに震えた手では、途中の砂地を抉って終わる。つ

いでに言えば少年少女の方も狙われたところで心配ない。万に一つ以下の偶然で当たるかもしれないが、狙って当てられる目

は無いと判断する。

 危険性の低さは見切ったし、排除も容易い相手だが、問題はこの虎が何者なのかという点。始末すべき被験体との関係性が

判らない所などである。殺してしまっては聞き出せなくなるので、短慮な対応はできない。何より…。

(そうだなァ。確認しなけりゃならねェ。コイツは…「誰」だ?)

 その虎は初めて会う相手だった。それは間違いないのだが、その容姿には引っかかる所がある。

(それに、だァ…)

 シャチは見下ろす。自分の前に居る、言葉を発するようになった、兵器兼被験体だったはずの存在を。

(コイツが人格を得たってんならァ…)

 被験前とも、被験後とも、勿論素体とも違う何かになっていたらしいセントバーナード。もしも本当に人格が発生している

のであれば、数少ない特殊ケースとなる。

 そう。「チップが焼かれてなお人格が発生したエインフェリア」という、自分に続く二例目の特殊ケースに…。

 この経緯を詳しく知るための情報源は、今しがたこのセントバーナードにアンチャンと叫んだ少年と、おそらくはその事情

を知っているらしい肥った虎の存在。最終的に全員殺すとしても、まずは生きたまま話を聞く事が望ましい。

「そこからじゃ当たらねェぜェ」

 シャチの指摘でヤンの肩が震える。判っている。射撃の腕など無い事は。当然自信などない。撃っても当たるかどうか判ら

ない。それでも…。

「離れろ!そっちの少年からもだ!」

 緊張で上ずったヤンの叫び声で、リンはハッとする。

(そうだった!カムタ君は…)

 自分とシャチの間、倒れたカムタの傍らには黒髪の少年。抜いたナイフはそのままに、立ち位置を僅かに変えて、ヤンとカ

ムタの間に移動している。

 よく見れば、砂地に突っ伏しているカムタの背中は呼吸で上下していた。そのすぐ傍には、先程ルディオの衝撃波をシャチ

が受けた際に砕けた、氷の盾の大振りな破片が転がっていた。握り拳大の鋭い菱形で、頭にでも当たればただでは済まないサ

イズだった。

 そして黒髪の少年の今の立ち位置は、ヤンの手が震えで誤って発砲でもして、万が一銃弾が飛来した際に、カムタを庇う位

置となっている。

「ゼファー、カムタ君を守ってくれたの?」

 リンの問いに、少年はヤンの銃口に注意を払ったまま応じる。

「リンがコイツの身を案じた。それならばコイツは護衛対象に入るだろうと判断した」

 シャチがルディオを始末する気である事は、少年にも一目で判った。そしてカムタはその関係者である。しかしリンはカム

タの身の安全を案じていたし、他のきょうだいもカムタを悪く思っていない様子だった。

 そこで、排除すべき対象か否かの判断は置いておき、とりあえずカムタの命は守る事にした。

 戦闘行為中のシャチに近付こうとしているカムタは、そのまま行けば巻き込まれる可能性がある…どころの騒ぎではなくほ

ぼ確実に死ぬ。しかも説明している時間的余裕もなく、パワフルで体重もある少年を捕まえて止めるのは物理的に難しい。そ

こで、首筋に手刀を一発食らわせて昏倒させつつ、飛来した破片をナイフで弾いて守ったのである。

 それが、シャチの「仕事」を邪魔せず、家族の希望もとりあえず叶う選択だと、黒髪の少年は咄嗟に判断していた。

「…もしかして、間違えた…か…?」

 やや自信が無さそうな小声になった少年に「いや、グッジョブだよ!」と親指を立てて応じたリンは、ヤンと睨み合うシャ

チに向かって声を上げた。

「パパ!この子とルディオさん…そっちの犬のひとは、カナデの知り合いだよ!」

「………」

 シャチはヤンを見ながら、

「………?」

 訝るように半分瞼を下ろし、

「………あァん!?」

 次いで勢いよく長女を振り返った。

「!?」

 黒髪の少年もリンがその名を口にした瞬間に、それまで表情が無かった顔を一変させ、目を丸くして驚きを露わにしている。

 一方ヤンも、少女が発した名前に反応して動揺と困惑、疑問を顔に出す。予想だにしない、しかし忘れられない名前だった。

「おいリン、いま何て言ったァ?」

「だからぁ!カナデと!カムタ君…つまりこの子と!そこのルディオさんが一緒の…」

 シャチにひどい事をされたと思しき、彼の足元に倒れ伏すセントバーナードを、砂塵が晴れてきたところで改めて確認した

リンは…。

「ッッッキャアアアアアアア!?何それどうなってんのルディオさん生きてるの!?よく見たら死に掛けてない!?手とか足

とかモゲてない!?無茶苦茶重傷じゃない!?何やってるんだよパパ!」

「あァー、あァー、うるせェうるせェ…」

 娘から悲鳴混じりに怒鳴られたシャチは顔を顰める。また情報が増えた。整理しないと何が何だか判らない。

「カ…ム…タ…」

 死に掛けていながら少年を案じ、這い進むセントバーナード。再び見下ろしたシャチは…、

(状況が変わった、かァ…)

 氷の剣から手を離す。直後、それは水に戻ってパシャリと砂上に落ちた。

「止めだ止めだァ」

 肩を竦めてため息をついたシャチは、ヤンに向かって「そっちも銃を降ろしなァ」と顎をしゃくる。

「死にてェなら続けるが、話をする気があるなら一旦休戦してやるぜェ。どうだァ?」

「…!」

 ヤンの喉がゴクリと鳴った。勝ち目がない事は承知している。交渉の目があるならそちらを掴むのは当然の選択だが…。

「条件がある」

 対等ですらない状況から、しかし医師は強気に出た。引くなと、気持ちを強く持てと、自分を叱咤して。

「治療が先だ。それなら話も聞くが、このまま彼を死なせろと言うなら交渉の余地は無い」

「グフフフフ…!体型同様なかなか肝も太ェじゃねェかァ?」

 含み笑いを漏らしたシャチは、砂の上に転がるルディオの右脚を示した。「パーツは揃ってるぜェ」と。切り落としはした

が、繋ぎさえすれば神経ごと容易に再結合される。裂けた腹も臓物を押し込んで塞げば勝手に治る。標準的なエインフェリア

であれば助かるかどうかは五分五分といった所だが、この個体は治癒力が特別高い。手当てさえすれば問題なく回復する。

「カム…タ…!」

 這いずり進むルディオの顔に、スッと影がかかった。

「大丈夫。カムタ君は気を失ってるだけで、怪我も無いよ」

 息を弾ませた女の子の声。裂傷だらけの顔の中、辛うじて残った右眼に、駆けつけて屈み込んだリンの顔が映り込む。

「…無…事…?」

「うん。カムタ君は無事。とりあえず闘うのも終わり。だからルディオさん、手当てして貰って」

 ルディオを宥めるように声掛けしたリンは、身を起こして養父である鯱の顔を見上げた。

「あの子の家に、カナデと一緒に写った写真があったよ。肩を組んで、並んで、たぶんここの浜辺で撮った写真」

「ふゥん…」

 半眼になったシャチは、警戒しながらも近付いて来るヤンを見遣りながら呟いた。

「アイツ、この島に滞在してやがったのかァ…。まったく、どこまで行っても腐れ縁だぜェ、ストレンジャー。グフフ…!」




 腕二本と脚一本の接合など初体験だが、二度と経験しないだろう。二度と御免だ。

 胸中でボヤきながら、ヤンは診療所の寝台に寝かせたルディオの、切断された手足を丈夫な糸で縫い合わせる。

 体力の限界に加え、カムタの無事を知らされて安堵した事も重なったようで、ルディオは呼吸も静かになり、深い眠りに落

ちている。もっとも、そのカムタは意識を取り戻す前に、状況を見て騒ぎ出したりしないようにと鎮静剤を投与され、別室で

眠らされたままである。

 ヤンひとりでは手に余る作業だが、今回は助手が居るので比較的スムーズだった。不本意な事に。

「………」

 縫合する手を休めないまま、視界内でルディオの腕を抱えるように支えた少年を、ヤンは意識する。

 年の頃はハイティーン、黒髪の少年は、名をゼファーという。鯱の巨漢は「船医」だと言った。

 そして、施術するヤンの背後には…。

「まァ、元々の専門は殺す方だったんだがなァ。応急処置なり何なりは人並み以上にこなせるぜェ。グフフフ」

 壁際に寄せた椅子に座り、ふんぞり返ってスキットルからウイスキーを飲むシャチが含み笑いを漏らす。妙な真似ができな

いように監視しながら。

 一応、治療についてのアドバイスは受けている。

 点滴で補給するのは大量のリンゲル液とブドウ糖。手足の接合はとにかく繋げばそれで良く、あとは勝手に組織も神経も繋

がる。そんなシャチからの数々の情報は、信用せざるをえなかった。

 施術準備の段階で、ルディオとウールブヘジンについて詳しい理由を視線で問うた時に、シャチが言ったからである。「俺

様はソイツと製造元が同じでなァ。グフフフ…」と。

 もっともそれは、回答のようで回答ではない。嘘は言っていないが詳しい理由はそうではない。ガルムロスト後、被験体の

生存が確認された場合に備えて、シャチは被験体の仕様について調べ上げた。次があったら確実に仕留めるために。ヤンに与

えたルディオの治療に有効な情報も、研究所へ立ち入り検査した際に資料を閲覧したり関係者から聞き取りしたりして得た物

である。

 資料と実験内容は、短期間ではあったが充実していた。呆れるほどに。

(そりゃァ、繰り返しあんな真似された上で「敵を殺せ」って言われたら、普通に殺すだろうよォ)

 ガルムロストでの暴走は、単純なヒューマンエラーが引き金になったと、シャチは推測する。遅かれ早かれ制御不能になっ

た可能性は高いが、あの日あの場で起きた事故は、「敵」という曖昧な言葉でのコマンド入力が招いた物だろう。

 被験体が研究者達を、何の入力も無しに「敵ではない」と認識するはずが、そもそも無かったのである。

 失敗作のエインフェリアを再利用するという実験は、結果的には暴走による失敗という結末を迎えたが、予想以上の成果が

得られていたという事実は否定のしようがない。被験体は人格こそ発生させなかったが、素体から引き継げなかったはずの能

力を発動させていた。これを再現、実用化できれば、素体から能力の引継ぎに失敗したエインフェリア達を対象に、戦力強化

が可能となるはず。躍起になって実験やテストを繰り返すのは当然の事だった。

 だが、研究者達が執着したのは能力の性能試験だけではない。融合実験により被験体が獲得したドリュアス由来の常軌を逸

した治癒能力もまた、高い関心を寄せられた。

 治癒の性能を把握するために手っ取り早いのは何か?答えは単純、傷付ければ良いのである。

 シャチが確認した実験記録によれば、獲得した治癒能力の確認のため、生きたまま腹を切開して、外気に露出した状態で内

蔵の活動状態を確認したり、四肢を切断しての再接合や、眼球を摘出しての再生速度計測なども行なっていた。

 被験体が獲得したドリュアス由来の自己修復能力は、これまでのエインフェリアとは一線を画していた。人工神経や組織に

よる切断部位の簡易結合や、義肢との高精度な神経接続すらも過去の物にできるほど。黄昏設立以来一つとして成し得なかっ

た、ミーミル・ヴェカティーニの技術と理論を初めて超えられる可能性を前に、研究者達は寝食を忘れて被験体を弄り回した。

丹念に、執拗に、情熱をもって、まともな神経の持ち主が見れば吐き気を堪えられないほどの、凄惨な実験を繰り返した。

 それはおそらく、被験体に自我が無いからこそ踏み込めた実験でもあったのだろうが、研究者達は気付いていなかった。被

験体を構成する成分の一部となったはずのドリュアスが、その精神を維持し、研究者達に敵意を抱いていた事には。

(自業自得の結末って言やァそうだがなァ…)

 公開試験前に、それまで行なわれてきた実験の詳細や経緯、性能について周知されていれば防げたかもしれない事故。他の

ラボに手柄を取られる事を恐れ、研究成果を後生大事に隠し続けた結果があの損害。シャチも顔見知りの飲み仲間や、軽口を

叩きあう関係だった他所の若手、そして頼りになる同僚を失った。同情の余地は無い。

 一方ヤンは、痛ましい傷跡を手当てしてゆきながら、プレッシャーにも耐えていた。

 ルディオの手当ては認めるが監視もするというシャチが同席しているだけではなく、別室で寝かせてあるカムタにも少女が

ついている。隙を見せれば逃げるという事がバレているので、カムタを同室に置くことも、気が散るからひとりで手当てさせ

てくれという主張も、却下された。

(ウールブヘジンの修復力が弱い…。疲弊しきっているのだろうが…)

 シャチが言ったとおり、傷口を洗い流して接合するだけという大雑把な処理でも、ルディオの身体にとっては充分な手当て

となった。臓物を押し込んで縫合した腹も、縫い合わせた脚も、傷口を閉じた傍から修復が始まっている。手が回らず後回し

にしていた全身の裂傷も次々塞がってゆく。以前のように水蒸気を上げながら傷が消えてゆくような速度は無いが、それでも

数分の内に傷口周辺で肉が盛り上がり、薄皮が張っている。消耗してはいるが、ウールブヘジンの修復能力があれば死にはし

ないと確信できた。

 切れ飛んでしまった片耳は見つからなかったのだが、そちらは切断面から肉が盛り上がり、産毛が生じてきている。どうや

らウールブヘジンが再生させているらしいが、もしかしたら失った手足も接合されないようなら生やす事ができるのかもしれ

ないと、ヤンは考える。勿論、それには膨大なエネルギーが必要になるのだろうが…。

 施術は長時間に及び、夕暮れが近付いた空は雨雲もあって暗くなった。同室しているのはルディオとウールブヘジンをここ

まで痛めつけた怪物。治療する傍には得体の知れない少年。そんな状況なので緊張と不安で嫌な汗が出て来るが、ヤンは冷静

さを努めて保ち、つつがなく処置を終える。

「さて、聞きてェ事は色々あるが…」

 手当てが終わるのを見計らい、シャチは黒髪の少年に目を向ける。

「ゼファー、他のガキ共連れて船に戻れェ。リンは言う事きかねェからなァ、オメェが世話しとけェ」

「了解。隣室のリンに報告後、皆を伴い船に戻り、指示があるまで待機します」

 場合によっては、交渉後に島を消滅させる。そんなシャチの意図を察した少年がツカツカと診察室を出てゆくと、シャチは

ヤンに目を向け、「まァ座れェ。グフフ」と、椅子に向かって顎をしゃくった。

 ヤンはちらりと診察台のルディオを見遣り、手を洗い、術着を脱いで、シャチと向き合い椅子に座る。

 正直に言えば震え出しそうなほど怖い。善良なルディオや、基本的に防衛行動に類する活動を行なうウールブヘジンとは違

う。先程聞いた「製造元が同じ」という話が本当ならば、かつてここで襲って来た獣人と同じく、リスキーが語った組織…黄

昏の構成員という事になるのだから。

「最初に言っておくとだァ」

 シャチはスキットルに栓をして懐に仕舞いながら前置きした。

「コイツは脅しだが、変な事は考えねェ方がいいぜェ。俺様はこの島を丸ごと海面の下に沈める事もできる。逃げ場はねェ。

キンタマ握られた状況って事は理解しとけェ。グフフフフ…」

 ヤンは無言のまま、それは真実なのだろうと受け止める。ルディオをここまでボロボロにできる力に加え、先程の天候変化

すらもこの男の仕業だとすれば、ハッタリと考える方が危険である。

「さて、まずは確認だがァ…」

 スッと目付きを鋭くして、鯱の巨漢は素早く手を伸ばした。ヤンが反応する前に、その指はシャツの前に掛かって、ボタン

を弾き飛ばしながらはだける。

「!?」

 ヤンの顔は一瞬歪み、目がきつく閉じられる。が、痛みは無い。

 恐る恐る目を開けると、シャチは既に手を引っ込めている。刺された、あるいは何らかの傷を負わされた、と早合点したの

だが、シャツをはだけられた以外に何もされていなかった。

 鯱は椅子に尻を戻し、鋭い目でヤンをじっと見つめている。白い部位が広い腹部に、想像していた物は無い。

(腹に紋はねェか。気配から言っても仙人の類じゃねェらしいがァ…)

 思案しつつ、シャチはヤンに記録映像中の人物を重ねる。

 アジア系の人種。虎の獣人。丸いフォルム。太い鼻梁にたっぷり丸顎、脂肪過多で緩んだ体に布袋腹。世捨て人のように片

田舎に引っ込んだ生活。一致する特徴は多いが…。

「オメェ、名前は何てんだァ?生まれは何処だァ?」

 矢継ぎ早の質問に困惑するヤン。とりあえず本名も通名も隠さない方が良いだろうと、「ヤン・シーホウ。だが、この島で

はヤン・チータンで通っている」と応じたが…。

「父親と母親の名前はァ?祖父母は何て名だァ?」

 シャチの質問は続く。虚偽の答えを考えればテンポがずれる早い質問は…、

「桃源郷の関係者じゃねェだろうなァ?」

「とう…何だって?」

 ヤンが聞き返した所で「あァ、もういい」と唐突に終わった。

「他人の空似で無関係ってんならそれでいい。忘れろォ。で、ここからが本題だァ」

 我に返ってボタンが飛んだシャツを手で閉じ、腹を隠したヤンには構わず、シャチは質問を開始した。

 ルディオとはどう出会ったのか?そしてこれまでどう過ごしてきたのか?

 ヤンはシャチからの質問に、カムタから聞いていた最初の出来事…、ルディオが漂着した日の事から、順番に答え始めた。


「船に戻る。皆を一度戻せという指示だ」

 隣室に移動したゼファーは、眠らせているカムタに付き添うリンに、ここからの行動について手短に告げていた。

「ゴメンね。よろしく」

「了解した」

 事務的な返答をした少年に、少女は思わず尋ねる。

「責めないの?わたしが言う事をきかないから、パパはゼファーに言ったんでしょ」

「責める理由は無い。リンはリンで、自分の意思で行動している。俺はそれを尊重する」

 断言する口調で応じた少年は、たったいま自分が潜って来たドアを見遣る。

「この規模の診療所なら、ヘビーレインの一発分だけで壊滅する」

 シャチが扱う、数トン分の水を固形化して落とす巨大槍の絨毯爆撃を思い浮かべながら少年は言った。

「だが、リンがここに居るなら、パパは安易にこの一帯ごと吹き飛ばして始末をつけようとは考えない」

「…敵わないな。ゼファーはやっぱりお見通しだったよ」

 悪戯っぽくペロリと舌を出すリン。その仕草や口調、大胆さや行動力は、時々「あのひと」とよく似て見えると、ゼファー

は感じる。

「彼が起きたら、「咄嗟の事で加減が上手くできなかった。もしも首が痛むようだったら済まない」と伝えておいてくれ」

「オッケー。皆の事、お願いね」

 ゼファーを見送ったリンは、養父と医師、そしてセントバーナードが居る部屋のドアを一瞥してから、眠っているカムタに

目を戻す。

「ゴメンね…。でも、きっと「捨てた物じゃない」結果にはなると思うから、ゆるしてよね」


「つまり、アレかァ」

 腕組みしたシャチは半眼になって虎医師の顔をじっと見つめた。

「オメェ、それからガキ、撤収したONCの構成員。そして他の民間人ひとりと、宝石型の自律式レリック…。コイツの事を

知ってんのはそれだけってェ事だなァ?」

 ヤンから聞き取りを始めて、はや二時間半。今日に至るまでの出来事を隠し立てせず話し終えた医師に、鯱の巨漢は疑いを

持っていない。感覚の精度が落ちているとはいえ、心拍や体温を計測するまでもない。虚偽や隠蔽による呼吸や表情の不自然

さは皆無、正直に白状したと見えた。

「その通りだ」

 顎を引くヤンの握り込んだ手は、緊張の汗でじっとりしている。

 ルディオについては判っている事を全て話した。漂着後の経緯から日頃の生活、ウールブヘジンとの共生関係、少しずつだ

が昔の事が判るようになってきていた事も。

 カムタの事もそのまま話した。そもそも彼は普通の島の少年なので、ルディオと兄弟同然に暮らしている事を除けば、生い

立ち以外には特段話すべき事がない。

 リスキーについては隠しても仕方がないので、成り行きで協力し合う事になったという馴れ初めから話した。が、いま何処

に居るのかは判らないし、彼自身も立場を危うくしての協力関係だったので話が漏れる心配はない、と意見を添えている。

 テシーについても話したが、名前も言っていないし島の住人だという事も伝えておらず、個人を特定できるような事は何一

つ教えなかった。殺される可能性がある以上は情報を与えるつもりはない。

 ジ・アンバーについては、逃げた後の事は不明なので、事の発端から一応の決着まで、そのまま正直に話した。

 自分については、生まれからここに至るまで洗いざらい。

 そして、ルディオから聞かされた「記憶と記録」のくだりについても、多少は迷ったものの、結局は知っている事を打ち明

けた。隠そうとしてボロが出た場合、この男がどう出るか…、考えるだけで失策になると確信できたので。

 一通り話を聞いた中で、鯱の巨漢が再確認したのは一点だけ…。

「カナデは本当に、オメェらが何をしてたのかは知らねェんだなァ?」

 シャチの問いに、ヤンは「勘付かれてはいなかったはずだ」と応じる。

「…カナデさんは何者なんだ?組織の構成員だったのか?」

「いいや関係ねェゼェ。アイツはオメェらが知ってるとおりのフリージャーナリストだァ。俺様が「何なのか」についても知

らねェ、真っ当な一般人ってヤツだぜェ、グフフ…」

 間違いなく一般人である。だが、そういう星の元に生まれているのか、それとも前世で何かやらかしたのか、あるいは何か

から酷い呪詛でも貰っているのか、とにかく危険な所や危険になる所、歴史が動くだろう場所などへ頻繁に姿を現わす。だか

ら自分とは長年様々な所で出くわしているのだと、シャチは語る。

「まァ、腐れ縁ってヤツだなァ。グフフフフ…!」

 懐からスキットルを取り出して一口あおり、シャチは「じゃァ俺様の番だなァ」と、太い指で自分の顔を指し示した。

「俺様はジョン・ドウ」

 偽名だと、ヤンはすぐに気付いた。

「名前は色々あるが、そう呼んどくのが一番危険がねェからなァ。俺様の事はジョンさんとでも呼べェ。グフフフ…!ああち

なみに、カナデもジョンって呼ぶぜェ」

 それで、だ。と一拍間をあけて、シャチは言った。

「オメェがさっき言った黒豹の戦士…、ギュミル・スパークルズ。そしてそこの「ガルム十号だったヤツ」と同じでなァ、俺

様もエインフェリアだァ」

 やはり、とヤンは唸る。

 鯱の巨漢が口にした名前…「ジョン・ドウ」。それは、いわゆる「名無しの権兵衛」的なニュアンスの名。転じて身元が明

らかでない死体を意味する俗語でもある。

(死体を元にして作られた…。ルディオさんがハーキュリー・バーナーズを元に作られたように、この男も誰かの死体から…)

「それで、だァ。俺様はいま、大いに迷ってるわけだがァ…」

 大仰に肩を竦めてシャチは言った。

「こっちの公式な記録じゃ、ソイツはもう居ねェ事になってんだがなァ…。しかし、だァ。失敗作のはずだったソイツは、意

思疎通が可能になってやがったァ。ただでさえ研究してェ連中はゴマンと居たがなァ、正直「今のソイツ」は黄昏にとって物

凄ェ研究価値が有る存在になってる。話を聞いた限り、ドリュアスと共生関係になって落ち着いてんのは間違いねェからなァ」

 ヤンは眉を上げた。ルディオを殺さず思い止まったのは、捕らえて連れ帰るつもりだからか?と。

「俺様がバカンス中にたまたま偶然見つけて捕まえたって話にすりゃ、だいたい丸く収まる。その場合はまァ、この件につい

て一切口外しねェって約束できるんなら…、デブ虎先生、オメェもこの島も見逃してやっても良い。ま、もし言いふらしても、

…情報の漏れ所なんて突き止めるのは簡単だしなァ、グフフ…。それにだァ」

 シャチは小さく息を吐く。「カナデの知り合いだしなァ」と、仕方無さそうな表情になって。

「おまけに娘まで邪魔しやがる。纏めて証拠隠滅と口封じはさせねェつもりだなァ。隣の部屋からテコでも動かねェ」

 子供達の中で、シャチの「遣り方」を最も良く知っているのは長女のリンである。自分がこの診療所に居れば下手な真似は

できない…。そんなリンの考えを小賢しいと感じつつも、「誰かさん」の影響が大きく出ているのは多少面白くもあり、若干

複雑な気分になる。

「…質問がある」

 医師が声を発した。硬いのは声だけではなく、表情も同様である。

「連れて行かれた後、ルディオさんはどうなる?」

「兵器として再投入されるか、研究対象にされるか、危険な存在として結局処分されるか…、上の判断次第だなァ」

 連れ帰られても明るい未来など無い。そう悟ったヤンの目が暗く濁った。以前、何も知らなかった頃、いつか故郷に、居る

べき場所に、ルディオも帰れれば良いなと話していた自分達は、何と滑稽だった事か…。

「だが、俺様がある程度の口添えはしてやれる。…さて、とりあえずこっちの話は今はここまでだァ。後は本人の意見を聞く

とするかァ」

 シャチが視線を巡らせる。

 ヤンがハッと目線を動かす。

 ベッドの上で、のそりと巨体が身を起こした。

 ルディオはシャチを、それからヤンを見て口を開く。

「先生、カムタはどこだぁ?」

「え?あ、ああ。隣の部屋で寝ているが。…待て。そうじゃない。大丈夫かルディオさん!?まだ起き上がらない方がいい!」

 慌てて腰を浮かせたヤンがルディオを寝かせようとする。どうやら四肢の結合部はもう骨が繋がったらしい。しかし眼球の

修復はまだ終わっていないのか、傷が塞がってピンク色の痕が見える左目は閉じたままである。

「安心しろォ。殺してねェし、そっちの出方によっちゃ殺さねェで済ませるからよォ」

 シャチが殺気も無く落ち着き払った様子で言うと、ルディオはいつものぼんやり顔をそちらに向ける。

 話は途中から聞いていた。意識が戻っても体が動かなかったし、声も出なかったので黙っていたが、一時休戦という状況だ

とルディオにも察しはついている。

「俺様が誰なのかは、判ってるかァ?」

「ん。アンタは…」

 顎を引き、ルディオは答える。

「ハークを殺した」

 生物学的にはそう呼ばないだろうが、自分にとっては父のようなもの。自分の元となった人物。

「そうだなァ。俺様が仕留めて、持ち帰って、オメェの元になるモンができた訳だァ」

 このシャチの言葉に、ルディオは顎を引いた。

「そしておれは…」

 目を細めて、ルディオは記憶を手繰る。空母の上。惨劇の現場。自分がまだ自分でなかった頃の、メモリーに残った記録。

シャチが肉薄する瞬間の表情を、ルディオは思い出す。

「たぶん、アンタの親しい誰かを殺したんだなぁ」

「………」

 沈黙したシャチの目が鋭さを増し、ルディオは勘が当たったと感じる。

 誰なのかは判らない。たくさんの死体が記録映像として残るあの空母の上で、殺した中の誰がそうだったのかはルディオに

も判らない。

 だが、きっとそうだったのだと思う。あの時、迫るシャチの双眸には、確かに喪失感と激情が宿っていたから。

「…ただのセフレだァ。親しい誰かなんかじゃねェ」

 含み笑いが消えたシャチをじっと見ながら、ルディオは自分の気持ちを再確認する。

 自分の素体となるものはシャチが確保した。実験失敗時にはシャチに仕留められた。自分がこうしてここに存在する要因…

その大部分にこの男の行動が関わっている。

 危険視はしている。が、恨みと呼ぶべき物はおそらく無い。複雑な関係性だと思うが、それと同様にこの巨漢に抱く感情も

複雑だった。

「さァてデブ虎先生、こっからはコイツとサシで話しがあるからよォ、部屋を出てなァ」

 ヤンは「何?」と目を剥いた。

「いいや同席させて貰う。重傷患者を放って行ける医師が何処に居る?」

 内心の怯えを捻じ伏せての毅然とした物言いに、シャチは意地悪く言葉を被せた。

「聞いたら後戻りできなくなる話もするぜェ?」

「覚悟なら、交渉すると決めた時に固めた」

 真っ直ぐに向けてくる虎の視線にブレがない。それを見て取り、シャチは思わず苦笑する。「好きにしなァ」と。そしてセ

ントバーナードに目を向け、親指で自分の顔を示す。

「で、だァ…。俺様の事はジョンさんとでも呼べェ。コードネームは覚えてるかもしれねェが、ソイツはあんまり一般人の前

じゃ言うなァ。うっかり言うと危なくなるぜェ?グフフ…」

「判った、ジョンさん」

 律儀にさん付けで素直に頷いたルディオに、シャチは「オメェの方は…」と思案する顔つきになる。

「もう「ガルム十号」でもねェみてェだしなァ。せっかく名前もつけて貰ってんだァ、コイツらに倣って「ルディオ」って呼

ぶ事にするかァ?」

「ん。おれもその方が嬉しい」

 それじゃあそういう事で、とシャチは椅子ごと体の向きを変え、ルディオと正面で向き合う。

「オメェは、今の世界には受け入れられねェ存在だァ。俺様と同じでなァ。判るかァ?」

「判ってる。たぶん」

「で、黄昏の目的は思い出せるかァ?」

「………」

 シャチの目を真っ直ぐに見返したルディオは…。

「何だっけ?」

「そこは参照できねェかァ…。やっぱりチップはぶっ壊れてんだなァ」

 鯱の巨漢は軽く肩を竦めると、

「現行の世界の破壊だァ」

 至極あっさりと、その荒唐無稽にも聞こえる言葉を口にした。が、この場にそれを嗤える者は居ない。

 ヤンは冷や汗をかきながら唾を飲み込む。

 理解できた。想像できた。ルディオやこの鯱のような、戦闘力も殺傷力も高い、しかし一見すればひとにしか見えない存在

が、社会に溶け込み活動したならば…。もしも各国の政治的、産業的、経済的中枢に潜りこめたならば…。国家転覆レベルの

破壊活動は、充分可能である。一体何人同類が居るのかは定かではないが、相当数集められたなら…。

「国際情勢。国家。社会。既存の価値観。全部ひっくるめて破壊する。不要な物は全てだァ」

 天気の予想を語るようにシャチは言う。そんな話題を冗談にする事があまり無いように、その口調は平坦で、何処にも嘘の

臭いはなくて、つまりそれは、本当に、当たり前に、本気で物を言っているのだと、ヤンの胸に刻み込まれる。

「歪みまくったこの世界、存続に値するモンだと思うかァ?たぶん一回全部丸ごとフラットになっちまった方がすっきりする

ぜェ。グフフ…!」

「どうしてそんな事を?何が狙いなんだ…?」

 青褪めたヤンの問いに答える代わりに、シャチはルディオへ目をやった。

「何でだか判るかァ?」

「………」

 シャチの目を真っ直ぐに見返したルディオは…。

「何でだぁ?」

「これも参照できねェかァ。っていうか、目的はともかく「事の始まり」に関しては、そもそもデータ入ってねェからなァ。

上の誰かから聞かされてねェなら仕方ねェ」

 肩を竦めてシャチは言う。

「俺様みてェな兵器や、能力者の類は、今の世界じゃ存在が公認されてねェ。むしろひた隠しにされてるんだがなァ。今の世

界をぶち壊した後で、「そういったモン」が大手を振って生きられる世の中にするのが第一の目的だァ」

『………』

 ヤンもルディオも口を挟めなかった。

 その目的が本当だとすれば、そして、もしも本当にそうなったならば、ルディオはもっと自由に生きられる。カムタにも不

自由をさせないし、秘密を守るよう気をつけなくてもよくなる。そこへ…。

「で、動機って点なら、そんな「理想」のためってのと同程度に、「復讐」って連中も多いなァ」

「復讐?」

 シャチが続けた言葉にヤンが反応した。「なんでだぁ?」と理由を問うルディオに、鯱の巨漢は含み笑い混じりに答える。

「むかァし昔、「フィンブルヴェト」ってェ名前の国際機関がありましたァ」

「?」

 首を傾げるルディオ。記録が参照できない単語だったが、響きに覚えがある。刺激された「脳」に蘇ったのは…、

 

―フィンブルのアドヴァンスドコマンダーだったんだろ?名前ぐらいは知ってるぜ。確かドイツ出身の…―

―そうだ。英雄ジークフリート。コードネームはホワイトディザスター―

―ひとのサイズの大災害…だっけか?それがどうした?―

―彼もまた、イマジナリーストラクチャーからの来訪者だったという噂がある。つまりは、そういう事さ―

―マジかよ?異境過ぎだろどうなってんだドイツ?今度旅行に行くか?―

―我らがブリテンも他国の事をとやかくは言えないと思うがね―

 

 ハーキュリー・バーナーズが生前口にしたのだろう、彼と、その相棒との会話の一端。

「その組織はァ、この世界、国家、社会の代表者にして総意である国際連合…「先進国連合」が主導した計画で設立されまし

たァ。研究が進む古代のオーバーテクノロジー…レリックや関係する技術ゥ、そして検知機器の性能向上で見つかる能力者の

増加ァ、そういった物が利用された犯罪に国際レベルで対応するためのォ、「人類の守護者」としてェ」

 立ち上がり、昔話を声高に朗じるように話し出したシャチを、ヤンは言い知れぬ胸騒ぎを覚えながら見つめる。理由は判ら

ない。判らないが、無自覚なまま「答え」が出そうになっている。

「フィンブルヴェトの目覚しい活躍でェ、いくつもの事件が解決されェ、いくつもの国が滅亡を回避しィ、いくつもの世界の

脅威が排除されましたァ。ところがァ…」

 シャチは大仰に天を仰ぎ、嘆くような仕草で、横向きにした顔に手を当てる。

「先進国連合はァ、次第にフィンブルヴェトを脅威と見なすようになりましたァ。組織内部で進められた技術革新とォ、戦力

の向上はァ、万が一叛意を抱かれた場合にィ、対処できる範疇を超えようとしていたのですゥ」

 指の隙間から片目でギョロリとルディオとヤンを見遣ったシャチは、口角を歪ませて嗤っていた。禍々しい表情で楽しげに。

「疑心暗鬼に駆られた先進国連合はァ、フィンブルヴェトを潰しましたァ。不意打ちの武力制圧ってェ手段でェ。哀れ、優れ

た戦士も友と信じた者に害されェ、戦う力の無い者は成す術もなく蹂躙されェ、何も残さずゥ、何も残せずゥ、名誉も成果も

実績もォ、全ては轟く銃火の下にィ、全ては悲痛な嘆きの下にィ」

「………!」

 ヤンの顔が歪む。破壊衝動への狂おしいほどの歓喜が、シャチから真夏の磯風のように吹き付け、全身が総毛立った。

「かくしてェ!大いなる冬の終わりに黄昏は立ちませりィ!非業の死を迎えた英雄ゥ!不義の裏切りを働かれた戦士ィ!怨讐

が世界に落陽を招くゥ!裏切ってはならぬものォ、その全てを裏切った世界のォ、自業自得の悲喜劇の始まり始まりィ!」

 サーカスの開演を告げる道化の口上のように言い放ったシャチの、含み笑いが床を這う。一言も挟めないヤンとルディオを

よそに、

「…どっこいしょォ」

 何事もなかったようにテンションを元に戻したシャチが椅子に腰を下ろす。

 ヤンは身震いした。震えが強まって歯が音を立てそうだった。

 狂気。

 端的に言えば、この巨漢に宿る最も怖い要素は、「まともではない」という点。兵器だから、エインフェリアだから、そう

いったレベルではない。感情の切り替わりが、隣り合っている感情の配置が、喜怒哀楽の働きが「まともではない」と医師は

看破する。

 事実。シャチの人格には障害がある。感情に部分的な欠落がある。それ故に、組織の内部では陰口を叩く者もある。

 「心壊(しんかい)の鯱」と。

「それでだァ。フィンブルヴェトの生き残りの一部がラグナロクを結成したァ。その技術を持ち出してなァ。古株や幹部連中

はフィンブルヴェトからそのまんま在籍してるのも多いぜェ。で、俺様やオメェみてェな再生戦士を作る技術も、当時先進国

連合の要望でフィンブルヴェトが実用化したモンだァ」

「………!」

 目を剥くヤン。構わずにシャチは「グフフフ!おかしいと思わねェかァ?」と先を続けた。

「デブ虎先生ェよォ、さっき、協力関係にあった組織の構成員から多少話を聞いたって言ったなァ?黄昏は世界最大規模の組

織だってよォ。それこそ国家を標的にするようなヤベェとこだってよォ」

「ああ、それが…?」

「先進国連合も、何処の国の政府も、何で黄昏の存在を公表しねェと思う?弱小組織は手駒のハンターやらに狩り立てさせて

取り締まるのに、どこよりもはっきりと存在を認識してるはずの黄昏についちゃァ…、どうだ?」

「それは…」

 口ごもるヤン。違和感が膨れる。結論に先んじて嫌な予感が胸を内からヒタヒタ冒す。

 リスキーから聞いて「そういうものだ」と考えた。どうやっているのかは判らないが、どんな組織よりも大規模でありなが

ら、その痕跡はどんな組織よりも巧妙に消されると聞いて「統制が取れて徹底している恐ろしい組織」としか考えなかった。

だが、もしかしたら本当は…。

「…意図的に…隠蔽している…!?」

 愕然とした虎医師に、鯱の巨漢は「せェかァい!」と、ニタニタ笑って見せた。

「とんでもねェ危険な「汚点」が、かつて自分達の主導で生まれましたァ。なァんて公表できるはずもねェ!今の各国責任者

も、既得権益に縋り付くオエラ方も、そォんなモン暴露できるはずもねェよなァ!?罪人になんぞなりたくはねェよなァ!?

追い滅ぼされる側には回りたくねェよなァ!?凋落は、落陽は、黄昏はおっかねェよなァ!?グフフフフフフフフフフフ!」

 視界が暗くなって狭まったような気がしているヤンが覚えたその感覚は、恐怖と連結した心細さ。

 世界は偽りに満ちている。国という強大かつ巨大な単位の「力」が、かつてその意思で脅威を生み出し、そして今はその事

を、保身のために秘匿している。そう考えて眩暈すらした。

「どうだァ!?酷ェ話だろォ!?勝手な話だろォ!?とんでもなく歪んでんだろォ!?この世界ってヤツァよォ!グフフフ!

だが、それが世界ってモンだァ。歪み歪んで歪みきり、残酷で理不尽で非情で不条理…、そういうモンだァ」

 楽しげにひとしきり笑ったシャチは、笑いをおさめるとルディオを真っ直ぐに見据えた。

「…さァて、こいつが「最後の質問」だぜェ?」

 ずっと黙っていたセントバーナードが顎を引く。

 シャチが語った事は、自分達を騙そうとしての虚言とは思えなかった。その暴虐をもって自分達を好きにできる男が、抱き

込もうとして回りくどい虚偽を並べ立てるとも思えないし、正当性で自分達を飾ろうとするとも思えない。力ずくという手っ

取り早くてシンプルな選択を放棄するメリットが見当たらない。

 それは、世界の果てより。

 もたらされた真実を受け止めた上で、ルディオは最後の質問に耳を傾ける。

「オメェ、黄昏に戻る気はねェかァ?」

 シャチが身を乗り出す。ギシリと椅子が音を立てた。

「俺様もそれなりの立場だァ。そこそこの待遇になるように口利きはしてやる。役にさえ立つなら悪ィようには扱われねェ」

 ルディオはいつものぼんやり顔で、シャチを見返しながら口を開く。

「ありがとう」

 え?とヤンが思わずセントバーナードの顔を見遣った。

「アンタは、無理矢理連れてく事もできるのに、おれにそう訊いてくれるんだなぁ」

 ルディオは少し、笑っていた。済まなそうに、残った片耳を寝せて。

「でも、ごめんなぁ。おれは、行きたくない。おれは、カムタと生きたい」

「…そうか」

 静かに、シャチは声のトーンを落とした。

 ヤンは身を硬くする。ルディオの決断を責める気はない。話を聞き終えてなお、組織に戻れなどと言う気にはならない。

 覚悟はとうに決まっていた。徹底抗戦に文句は無い。ただ一つ、望む事があるとすれば、せめて完全な民間人であるカムタ

や、島の人々、そしてテシーには手出しをさせたくない。

 自分達を消して、全て終わりにする。それで手打ちになるのであれば…。

「なら仕方ねェなァ」

 ため息をついてシャチは立ち上がる。そして…。

「話は終わりだァ。いや、ちょっとは残ってるが、今夜はこれで終わりにするかァ。明日も長話するからなァ、体を休めて覚

悟しとけェ」

 腰を回し、くたびれたと言いたげな様子で背伸びする。

「……は?」

 間の抜けた声を漏らすヤン。島民の命乞いをする算段について思考を巡らせていた所へ、予想外の言葉が投げ込まれていた。

「…殺さないのか?」

 シャチは目を細め、面倒臭そうな顔で「ん~…」と唸りながら鼻先をコリコリ掻いた。

「始末した方が後腐れねェし、意思疎通できねェなら間違いなくそうしたんだがなァ。カナデの知り合いだしなァ。殺すとリ

ンが絶対騒ぐしなァ。他の組織の構成員でもねェから研究される心配もねェしなァ。だいたい俺様もバカンス休暇中だしなァ。

明日みっちり話すが、島から出ねェでこっそり暮らしてくなら別に良いかァって思ったんだよなァ。まァ、ちょっとした気紛

れだァ」

 ヤンは面食らっているが、ルディオの顔に疑問は無い。大人しく、静かに、シャチの決断を聞いていた。

 理由は判らないが、目が覚めた時から感じていた。この男はどういう訳か、もう自分を力ずくでどうこうしようとは考えて

いないらしい、と。

 それが、心が壊れていると揶揄される鯱が、この世で唯一共感できる相手を見つけたが故の心変わりである事までは、今の

時点では判らなかったが…。




 それは、世界の果てより。

 黄昏の海に独り漂い、見つめている。

 「この世界は存続に値するか否か」。

 今もまだ答えは決まっていないが、今はとりあえずこれで良いかと、生きようとして生きる一つの命に目を瞑った。