Garm series

 波も穏やかな海面に、釣り糸が二本消えている。

 磯の岩場に並んで座っているのは二つの影。いずれも大きく、重々しく、逞しい。

 片や、セントバーナードの巨漢。腹は出ているが、四肢も太くどっしりした体躯の大兵肥満で、おろして二日目の小綺麗な

ベストを羽織っている。

 片や、鯱の巨漢。過剰なまでに発達した筋肉が全身余す所なくついており、座した後姿は筋肉の達磨。今朝出したばかりの

アロハシャツを、前をはだけて羽織っている。

 双方共に釣果はなかなかのようで、間に置かれた真新しいクーラーボックスの中は、釣り上げられた魚で半分以上が埋まっ

ていた。

「ノルマの半分は行ったなァ」

 スキットルをあおり、ウイスキーを喉に流し込んだシャチが竿の先端を見る。かすかな震えが起こるや否や、スナップを利

かせて竿を上げれば、銀色の魚が波の上に躍った。

「ん」

 頷いたルディオも竿を上げる。こちらもかかったばかりの魚が海面から引き上げられる。

 魚がさらに放り込まれたボックスの上を、スキットルが放物線を描いて通過した。

 パシッと取ったルディオは、口を開けたままのスキットルからウイスキーを一口飲み、手首で投げ返す。

「ジョニーウォーカーだなぁ」

 舌で転がした酒の味は、知った物だった。

「アンタとは、何回か」

 記録を手繰り、ルディオは言う。白い部屋の風景を思い浮かべて。

「「あのひと」と一緒の部屋で、一緒に飲んだんだっけなぁ」

「あァ、そうだったなァ」

 シャチの上陸から二日経つが、穏やかに時間が流れている。

 ルディオの傷は全て塞がった。眼球も元通りになり、千切れていた耳も元に戻った。流石にまだ激しい運動はできないが、

鈍い痛みにさえ目を瞑れば日常動作に支障はない。

 むしろ、未だ完治に至らないほどルディオの肉体を破壊してのけたシャチの戦闘能力に、治癒の具合を見るヤンは恐怖を払

拭できなかった。シャチ自身が無傷という一方的な結果もまた驚異である。シャチが自分達に危害を加えないと宣言した事が

嘘でなくとも、彼が平和的な思考と価値観の持ち主ではないという事実は何一つ変わらないのだから。

「アンチャーン!オッチャーン!」

 声を背中にぶつけられ、二頭は同時に首を巡らせた。岩場を軽快に跳ねながら、包みを小脇に抱えた丸っこい少年が近付い

て来る。

「これ弁当な!」

 少年が包みから取り出したのは、サンドイッチが詰め込まれた編み籠のバスケット。そして…、

「あとこれ、オッチャンに」

「あァ?」

「オラ達を見逃してくれたお礼だ」

 眉根を寄せるシャチ。カムタが手渡したのは、ルディオに作ってやるのと同じように拵えたベストだった。背中に文字は無

いが、代わりに元の生地から流用した舵輪のエンブレムが入っている。

「ま、貰っとくかァ。グフフフフ…!」

 早速アロハシャツを脱いだシャチは、少年から受け取ったベストに袖を通す。ルディオとペアルック気味になっているが、

三人とも気にしていない。

「ありゃ…?ちょっと小せぇかな…」

 腹が出ていない分だけルディオより細いと思っていたのだが、シャチはシャチで大男である。目測を誤ったようで、丈が随

分短く、まるでアラビアの童話などに出て来る魔人のような格好になってしまった。

「グフフフフ!良い良い、暑いトコじゃ丁度良いぜェグフフ!」

 上体を捻って肩周りの自由さを確認したシャチは、偶然にも仕事用と同じ仕様…露出面積が多い仕上がりになっている事が

満更でもない様子。アロハシャツやベストなどの軽装を好むとリンから聞いたカムタの贈り物は、それなりに気に入られたら

しい。

 釣れてんなぁ、まずまずなァ、と、言葉を交わしてわだかまりなく接するふたりを見ながら、ルディオは最初の晩の事を思

い出した。




「あ。起きた?」

 簡易ストレッチャーの上で薄く目を開けた少年は、少し驚いているような表情のリンに顔を覗き込まれた。

「…あれ?」

 状況が飲み込めず、寝ぼけ眼のまま身を起こすカムタ。「五時間は目が覚めないってゼファーが言ったのに…」と、不思議

そうなリンに…。

「あ!ここ、先生の家!?そうだ!アンチャンは!?」

 意識がはっきりして、気を失う直前の事を思い出したカムタは、掴みかかるような勢いでリンに詰め寄った。

「うん。落ち着いて聞いて欲しいんだけどね。まず、ルディオさんは虎のお医者さんに手当てして貰ってた。今はウチのパパ

と、先生と、三人で話中」

 リンは大人達の話し合いを邪魔してはいけないと言い、ふたりで終わるのを待とうと、カムタを宥めた。しかし少年は話を

聞かず、声が漏れてくる診察室に目を向けて腰を上げる。

「カムタ君も見たと思うけど、ルディオさんと闘ってた鯱の大男ね、アレ、わたし達のパパなんだよ」

「………」

 足を止めて振り返ったカムタに、「まぁ血は繋がってないけどね。養子なんだ、わたし達全員。行き場が無かった孤児揃い

だよ」とリンは続ける。

「判ったと思うけど、パパはね、普通の生き物じゃないよ。わたしは気付かなかったけど、ルディオさんもそうなんでしょ?」

「…兵器、ってヤツ…?」

 カムタが思わず発した言葉に、「うんまぁそんな所なんだと思う。パパはわたし達に詳しく話さないけどね」とリンは頷い

て見せた。

「パパは、それはまぁとんでもない悪党だよ。物凄い極悪人。ろくでもないよホント。でもね、たぶんルディオさんにはもう

酷い事しないと思う」

「…なんで?」

 父と呼ぶ相手を遠慮なくこき下ろすリン。容赦のなさとは裏腹に親しみも感じられる物言いとも思えて、困惑しながら訊ね

たカムタは、

「あ。話終わった?」

 ドアが開く音とリンの声を同時に聞いて、弾かれたように首を巡らせた。

 そこには、巨漢の鯱が一頭。そして…。

「カムタ…」

「カムタ君!」

 その後ろには、ヤンに肩を借りて立つルディオの姿。

 走った。シャチに目もくれず、走った。

 出入り口に隙間を作ったシャチの脇を駆け抜けて、傍に寄ったカムタに、

「ごめんなぁカムタ。おれとウールブヘジン、負けたんだぁ」

 片耳がまだ半分無い、片目がまだ開いていない、全身傷跡だらけのルディオが微苦笑を見せた。

「でもなぁ。おれ、これからもこの島に居ていいんだって」

 無言で、身を震わせて、少年は涙を一杯に溜めた目で、セントバーナードの傷だらけになった顔を見上げ続ける。

 経緯はまだよく判らない。だが、ルディオとウールブヘジンが存在全てを賭けて、この島のために、自分たちの明日のため

に、立ち向かったのだという事は直感できた。

 敵わず、敗れた。それでも生きている。

 それが確認できた途端に、膝と腰から力が抜けて、崩れ落ちそうになったカムタはヤンとルディオに支えられた。


 結局その夜は、シャチがリンを伴って文句を言い合いながら引き上げた後、ルディオの傷の事も、話し合いたい事もあった

ので、ふたりともそのままヤンの診療所に泊まる事になった。

 横になったルディオの傍に寄り添って、異常な発熱で熱くなっている汗ばんだ手を握ったまま、カムタは医師とセントバー

ナードから、起こった事と今の状況を説明された。

 最初は当然シャチについて憤慨した。ルディオとウールブヘジンが殺されかけたのだから当たり前だった。

 だが、話し合いもなく殺そうとしたのは、かつて自我が無かった頃のルディオが関わった事故の内容が原因である事、会話

ができるなら交渉もできるからと、自我の発生を確認した後はそれ以上の戦闘行為を行なわず、見逃すという結論に至った事

などを聞き、多少落ち着いてから冷静に考え直して怒りも弱まった。

 何せ、彼は自分と暮らすルディオと同じ。リン達と家族の生物兵器。そのうえで、リスキーと同じく非合法組織に所属する

立場なのだから、「仕事」であれば、そして誤解があったのならば、ルディオを襲った理由も理解できなくはない。

 そもそもルディオもシャチに気付いた瞬間から目的を誤解し、一言も無く戦闘に臨んだらしい。不幸な事故にも似た因縁の

再会。どちらも死なずに済み、徹底的な事態に至る前に交渉の余地ができたのは幸運だったとも言える。

「明日、また話をする。おれが居る事が判ると黄昏が探しに来るし、見逃した事が判るとジョンさんも立場上困るらしい」

 これからの身の振り方について、明日改めて話す。そんなルディオの説明に、カムタは大きく頷いた。

「だったら!オラも一緒に聞く!」

『え』

 ルディオとヤンの素っ頓狂な声が被ったのは、無理もない事だった。


 結論から言えば、翌日の話し合い以降は、無理矢理入って来たカムタの存在が大きかった。心配事が増えたヤンは常にハラ

ハラして胃が痛かったが。

 リン曰く、シャチはカムタを気に入ったらしい。彼は必要であれば躊躇い無く何百人でも殺す一方で、生きる為に必死に足

掻く者には善悪正邪敵味方関係なく理解を示すし、必要がなければわざわざ命を取ったりもしないのだと少女は言った。

 シャチが養子にしているのは、親を知らなかったり失ったりした孤児ばかり。親を失い自力で生きているカムタの境遇には

感じる所もあった。加えて、子供ながらに一端の漁師たるカムタは、シャチの基準で言えば「生きようとして生きる者」。カ

ムタ達エンマンノ島の民が言う「命を生きる」という理念は、シャチが好む考え方であり生き方でもある。

 少年に寄り添う兵器。島でひとと暮らす兵器。穏やかな暮らしを望む兵器…。出来の悪い笑い話のような状況だが、そうで

あるならば、自分にとって不都合にならない限りは放置しておこう。シャチは三人とそう約束した。そしてついでにリンにも

約束させられた。

 どうやらシャチとリンは養父と養子という扶養者と被扶養者の関係ではあっても、所々では強く出られないらしい。ついで

に、リンにヘソを曲げられると他の子供達も全員そちら側について一斉にシャチを責めるので大いに困る。
リン曰く、シャチ

と自分達は放任当たり前の親子関係。バカンスの約束をキャンセルする事もしばしば。誕生日に帰って来て貰えなくてグズる

幼い子供も居る。それを宥めて慰めて面倒を見て調整するのが長女のリンなので、擬似家族とはいえ家庭環境維持の面を考え

れば、シャチから見ても長女の存在は相当大きいらしい。

(非合法組織に所属する人型兵器が養子達との関係性維持を意外と大事にしていてバカンスの約束をすっぽかすと子供達にへ

そを曲げられて困って宥め役の長女の発言権が大きい…?何だこれは!?今なんの話を聞いているんだった!?)

 話を聞いた限り普通の家庭における家族関係の状況に思えてくる…と、ヤンが頭を抱えるのも無理はない。黄昏においても

かつて同僚だったドゥーヴァ以外は、シャチの孤児養育に全く理解を示していないのだから。

 そしてもう一つ、和解と交渉成立を大きく左右したのは、かつてこの島を訪れた異邦人の存在だった。

 カナデ・コダマ。シャチとも子供達とも面識があるフリージャーナリスト。彼が贈った一枚の写真が、決定的な運命の分岐

点となった。

 リンが写真を見て、彼がルディオ達と会っていた事に気付かなければ、そして、島に滞在してカムタ達と寝食をともにして

いたという事実を、シャチが彼ら自身の口から聞く機会が無ければ、ルディオを生かしておく危険性と不利益を考え、最終的

にシャチは殺処分を決断していただろう。

 いくつもの偶然が重なり合って起きた奇跡。それが…。




(この状況、なんだなぁ…)

 ぼんやりした顔で、ルディオは差し入れのサンドイッチを取る。カナデに感謝しながら。

 シャチとカムタは会話を続けている。この鯱ともそうだが、カムタは彼の子供達ほぼ全員とも仲良くなった。

 あれからシャチが参集させ、島には現在、三隻のクルーザーが係留されている。シャチの船であるデュカリオン・ゼロ、リ

ン達が乗るデュカリオン・ワン、別の班9名が乗り込んでいるデュカリオン・ツーが。

 寄港していないのでルディオ達は姿を見ていないが、この他にデュカリオン・スリーという大型船があり、シャチがそちら

から9人をクルーザーで移送して来て、総勢27名、人種も年齢もバラバラな子供達が全員島に滞在している。今回の長期バ

カンスは母艦である大型船がクルーザーを牽引する形で合計4隻からなる船団で行っており、小回りが利くように諸島に到着

してから班ごとに分乗して行動したのだと言う。

 ヤンは気付いたが、自分の子供達を引き上げさせるどころか、全員上陸させて触れ合わせるというのは、もう敵対する気は

ないというシャチなりの意思表示でもあった。彼曰くところの「キンタマを握られた状態」に身を置くという行為は、非常に

説得力があるし確かな保険でもある。

 合流した子供達は七歳から十代後半まで居たが、基本的にみんな社交性があり、すぐにカムタと打ち解けた。危険生物を見

るのも初めてではないし、シャチから話も聞いていた子供達は、カムタが解放したフレンドビーに興味津々で、島の見物より

もバルーンとのコミュニケーションに夢中になった。

 唯一、ゼファーだけは微妙に距離を保ったままなのだが、それはリン曰く「普通の事」らしい。素っ気ないのもあまり話し

かけないのも彼自身の個性で、拒絶の意思表示ではないのだと長女は言っている。

 リン達が上陸初日の夜に計画した分は、あんな事があったので一度お流れになったが、昨夜は改めてカムタの家の庭でバー

ベキューパーティーを行なった。食材はシャチが母艦であるところのデュカリオン・スリーから持ち込んだ上に、野菜も肉も

魚も下処理が済んで焼くだけにされていたので、大人数でもさほど大変ではなかった。
特に、魚の捌かれ方や、タレに漬け込

まれた肉の処理はテシーの下拵えにも通じる物があったので、船には腕の良い料理人が居るのかとカムタが気にしたものの…、

「企業秘密だァ…。グフフフフ!」

 と、シャチは答えをはぐらかした。もっとも、リンが「頼りになるハウスキーパー兼シップキーパーが居るのよ」と教えて

くれたので、沖に留まっているらしい大型船に料理が得意な誰かが居るという事だけは判ったが。

 子供達もシャチも基本的にはクルーザーを寝床にしており、日中はカムタの家を中心にして遊んだり、島の生活を体験した

りと思い思いに過ごしている。シャチはだいたいルディオかヤンと行動を共にし、島を案内させたり、子供達が居てはできな

い話をしている。初日の件を除けば、旅行中の大家族との触れ合いステイとしか思えない、穏やかな数日だった。

「船が欲しい、かァ…。グフフフフ。そしてツナサンドかァ、グフフッ!」

 サンドイッチを齧りながらシャチが言い、カムタが大きく頷く。

「そうだ。テシーに売って貰う約束だから、金貯まるまで頑張んだ!ピーナッツもあるぞ」

「そうかそうかァ。船は良いぜェ?海も良い。何せ海は広いし何処まで行っても誰のモンでもねェからなァ。グフフフ!」

「誰のモンでもねぇんだ?」

「そうだァ、誰のモンでもねェぜェ?オッチャンの能力は水を支配するって教えたなァ?」

「うん。逃げようとしたら水を投げ縄みたいにしてキンタマに引っ掛けて縛るぞ、って…。首の方が引っかけ易くねぇかな?」

「そうだァ。だが、誰かが占有してる水はオッチャンにも支配できねェ。金で所有してるとかじゃねェ、オメェの体の中の水

分とか、実際に占有されてるモンとかだなァ。で、海の水はオッチャンも自由に使える…。つまりだァ、誰のモンでもねェっ

て証拠だぜェ。グフフフ…!キンタマの方がインパクトあるだろォ?」

「そっかー!誰のモンでもねぇかー!そっかー!確かにキンタマの方が痛そうだもんな!」

 気前良く自分の能力の特性を暴露しながら話すシャチと、無邪気に笑い合うカムタ。暴露されている内容はともかく、傍か

ら見れば普通の少年と近所の下品なおじさんの掛け合いのよう。

 平和だなぁと、サンドイッチをモグモグ咀嚼しながらルディオは思う。その気になれば島一つ跡形も無く沈められる凶悪な

兵器が、晩飯のフライパーティーのために自分と一緒に釣りに勤しみ、差し入れを持って来たカムタと普通に会話していると

いう状況を、平和と感じられる辺りが既におかしいのだが。

「ラークアンチャンが、スープの下拵え4時前に終わるって言ってた。5時には魚揚げ始めっからな!充分釣れたら帰って来

んだぞ?」

「わかったぁ」

「わかったァ」

 ルディオとシャチが異口同音に応じ、フサフサの尻尾とヒレ付きの尾が揃って揺れて、カムタは軽く首を傾げた。

(アンチャンとオッチャン、時々何かちょっと似てんだよな…)

 奇妙な感覚と言えた。いつもぼんやり顔で穏やかなルディオと、無駄に怪しい含み笑いを常に漏らしているシャチ。表情な

どは全然違うのだが、時々似ていると思わされる瞬間がある。脅威であるはずのシャチを、和解したと聞いて素直に受け入れ

られたのは、案外この辺りも大きいのかもしれないと、カムタは考える。

 カムタが調理準備のために引き上げると、シャチは再びスキットルをあおり、軽く揺すって残りの量を確かめ、「最後だァ」

とルディオに放る。

 一口分の酒を口に含み、鼻に抜ける香りを楽しみながら飲み下し、空になったスキットルを投げ返したルディオは、ぼんや

り顔のまま考える。白い部屋と狼の事を。

 訊く機会はあった。この二日間、シャチからはエインフェリアの事やラグナロクの事、身を潜めて怪しまれないよう静かに

暮らすために、黄昏と接触しないために、知っておいた方が良い事をたくさん教わった。その間に何度も訊けるタイミングは

あったし、今しがたもスキットルの中身がジョニーウォーカーだと気付いた時に言及した。

 なのに訊けない。どうしてなのだろうかと自問するが、明確な答えは出ない。ただ、訊かないままではいつまでもすっきり

しないのも確かだった。

「「あのひと」は」

 ポツリと、ルディオは口にした。

 チップに残る断片的な記録の中で、幾度も自分に接していた狼。おそらくは、自我も無かった失敗作に、それでも好意的に

接してくれていたのだろう存在。

「「あのひと」は…」

 繰り返した。言葉が続かなかった。何から訊けばいいのか判らなくなった。そして、不思議な感覚が胸を締め付けていた。

 苦しい。胸が苦しい。切ないのか、哀しいのか、寂しいのか判らない。

 おそらくこれは、自我が無かった自分の感情ではない。当時まだ投与施術を受けていなかったはずなので、ウールブヘジン

の物でもない。

 きっと、ハーキュリー・バーナーズの肉体が覚える辛さなのだろうと思う。

「ウル・ガルムの事かァ?」

 言葉が出なくて生じたしばしの沈黙を、シャチの声が破った。

「そうだったなぁ…、あのひとは、ウルって名前だったなぁ…」

「そうだァ。ハウル・ダスティワーカーを素体にして造られた、最初のガルム…。オメェから見ると、素体の頃から縁がある

相手ってェ事になるなァ」

 だからなのか、とも思う。白い部屋の狼…ウル・ガルムはきっと自分の素体の事も知っていて、だからハーキュリー・バー

ナーズを素体にした自分に親近感のような物を覚えていたのかもしれない、と。

「あのひとは、今どうし…」

「黄昏には居ねェ」

 シャチの言葉は質問に半ば被せられていた。

「経緯は省くがァ、脱走した。今は離反したものと扱われてるぜェ。生きてるかどうかも判らねェなァ」

「…そう…、なのか…?」

 例え黄昏に戻ったとしても彼には会えなかった。それをどう受け止めて良いのか判らないルディオに、シャチは魚をもう一

尾釣り上げながら続ける。

「そういやオメェ、他のガルムシリーズの事は覚えてるかァ?結局省かれたみてェだが、性能試験をやるってェ事で一回全員

集められた事があったはずだがなァ」

「性能試験…?」

「要は競い合わせて手っ取り早く戦力データを確認しようって事だったらしいぜェ。俺様もウルから聞いた話だから詳しくは

知らねェが、全員そろったのはその一回だけだったとか…。印象に残ってねェかァ?オメェの兄弟には小煩ェポメラニアンと

か居たはずだがよォ」

「………!」

 ルディオの目が丸くなった。ピシリと音を立てて、頭の中で何かが嵌ったような感覚に続き、ぼんやりと朧に、声も遠い白

昼夢が目の前に広がり…。



 黒い顔のポメラニアンが、真っ直ぐに顔を見上げてくる。

 オレンジの照明が控えめに照らす、薄暗い、クリーム色の部屋で。

「失敗作中の失敗作、という話だ。我々から見れば失敗作に順位付けするのもおかしな話だと思うがな」

 口を開いたのは、ポメラニアンのすぐ後ろに立つ、精悍な顔立ちが印象的な、筋肉質な黒い狼。どこか自嘲気味な呟きに反

応して、小柄でムクムクしている黒いポメラニアンが肘で狼をつついた。

「ホラまたすーぐそんな事言うー。そういうネガティブな発言をナチュラルにするトコが根暗っぽいんだぞお前は?」

 ツンと尖った鼻を上げてプンプン不機嫌なポメラニアンに責められると、黒い狼は「気をつけよう」と軽く耳を倒した。

「失敗とか成功とかただの運だ。だいたい、グニパヘリルのドク達だってどうやったら成功するか判ってねーんだし?たまた

まこうなってるだけだ。な、エイト?」

 急に話を振られたのは、ふたりの少し後ろに立っていたコリー犬。

「あ…。はい。そうです…。きっと…」

 フカフカした被毛に対して体は引き締まり、背が高い。美丈夫と言えるのだが、どこか自信無さげな態度で、アンニュイな

表情である。

「ま!人格なんてその内に生える生える!」

「生える物…なのか?」

 黒狼が悩む顔つきになるが、黒ポメラニアンはお構いなし。

「わっかんねーだろ?人格ねーガルムっていう前例がそもそもねーんだ。だから人格生えてくるガルムが絶対居ねーって言え

ねーじゃんか。な?」

 黒ポメラニアンはふたりを振り返ったまま、適度な高さにあったセントバーナードの出っ腹を拳裏で軽くボスンと打つ。雑

で、遠慮がなくて、馴れ馴れしくて、そのくせ親しみのあるそれは…、そう、「兄弟扱い」だったのかもしれない。

「さもありなん。具体的に申さば、人格が発生する可能性は無視して良い率には非ず。…との事。受け売りにござるが…」

 厳かな、しかしいささか時代がかり過ぎた口調と言葉で割り込んだのは逞しいハスキー。

「ほら、ここに明らかに失敗作なのに成功例とか言われてる輩が居るだろ?判り易くダメな例なのにな。成功例だって、ハッ」

「相変わらず無闇に刺々しいなスコルよ!」

 黒ポメラニアンとハスキーが掴み合いになるが、コリーはオロオロし、黒狼がため息をついて視線を向けると、それまで壁

に背を預けて腕組みしていた影がのっそり動いた。

 焦げ茶と白の屈強なピットブルは、子供のケンカのように掴み合いをしているポメラニアンとハスキーの襟首を掴んで、そ

れぞれ片腕で軽々と吊るし上げて遠ざける。

「邪魔すんなスリーさん!」

「お止め下さるな教官殿!」

 暴れるポメラニアンはしかし、吊り下げられた所へ歩み寄った白い影を見て口を閉じる。

 長い毛髪で目が隠れた、中肉中背のコトン・ド・テュレアールは、照明の色が無ければ純白の美しい毛並み。優雅で品が良

さそうだが、しかし前髪に隠れて見えない双眸から冷たい視線が注がれている事は判るらしく、ポメラニアンは首を縮めて大

人しくなる。直系の先行機にあたるコトン・ド・テュレアールは、元気が良過ぎるポメラニアンが気持ち的に逆らい辛い数少

ない存在であった。その一方でハスキーは、

「本当にお前達は寄ると触ると騒がしいな…。教導訓練からやり直す必要性の是非を問おうか?訓練生番号8733。当方の

指導力不足によりその様であるならば、ハティ中尉に特別教導官として復帰して頂く事も視野に入れなければならんな」

 唸るピットブルが顔を近づけ、至近距離で睨みながら再訓練をチラつかせて脅すと…。

「面目ない…。頭が冷え申した…。どうか教導訓練のやり直しと中尉殿のお呼び立てだけは御勘弁を…」

 耳を伏せて素直に反省を口にするハスキーは、やや脅え気味に尾を股下に巻き込んでいた。

「各自、お静かに。ウル補佐官とハティ中尉がいらっしゃいます」

 騒ぎが静まったところへそう声を発したのは、ドアの脇に立っていた、面子の中で唯一の女性…ラブラドールレトリーバー。

クリーム色の柔らかな毛色とは裏腹に、眼差しは厳しく表情は凛としており、纏う軍服もあって軍人然とした立ち振る舞いが

様になっている。

 密閉されたドアによって気配は一切感じられないのだが、彼女とコトン・ド・テュレアール、そしてポメラニアンだけは部

屋に近付くふたりの存在を感知していた。

 音を殆ど立てずに開いたドアからまず室内に踏み入ったのは、逞しい体躯の白い狼。そしてその後に続いたのは真っ白い巨

体…狼が細く見えるほどの大兵肥満、グレートピレニーズである。
どちらも任務から帰還したばかりなのか、纏っているのは

青白いタイガーカモのアサルトジャケットに、戦闘用多目的ベスト。

「私達が最後のようだな」

 低く、太く、グレートピレニーズが発した声が床を這う。先に入室していた八名の内、セントバーナードを除く七名が背筋

を伸ばし、一斉に敬礼した。

「感心な事だ。しかし、初顔合わせがこの機会になるとは…」

 白い狼が一同の顔を見回し、最後にセントバーナードへ視線を向けた。

「…三号と四号、八号は既に会っていたな?」

 白い狼の言葉に、ピットブル、コトン・ド・テュレアール、コリーが顎を引くと、ドア脇に立ったままのラブラドールレト

リーバーが軽く挙手した。

「わたくしは補佐官が不在の間、グニパヘリル研究所からの要請により彼のバイタルチェックを担当いたしましたので、一週

間ほど前から面識がございます」

「そうか。ご苦労だった」

 労われたラブラドールレトリーバーが恭しく頭を下げると、白い狼は再び一同を見回しながら口を開く。

「噂は既に聞いていると思うが、彼が三週間前にロールアウトした十番目だ」

 全員の視線がセントバーナードに向く。が、反応はない。全く。何も。

「擬似人格が形成されなかったという報告は受けた」

 全員を代表するように声を発したのは、巨漢のグレートピレニーズ。その体重からすれば意外なほど音がしない歩みで、部

屋の中央を通り、セントバーナードの前に立つ。セントバーナードもかなりの巨漢なのだが、グレートピレニーズはさらに少

し背が高く、長い被毛と纏う圧のせいか、随分大きく見える。

 静かで、厳かで、しかし圧がある。荒々しい威圧感ではなく、巨大な氷山を前に圧倒されるような感覚を、彼を前にした者

はじわりと味わう事になる。

 ハティ・ガルム。

 ウル・ガルムに続くガルムシリーズであり、二番目の成功例…名を与えられた二体目のガルム。彼の優秀さこそが、ガルム

シリーズが十体も製造される計画を決定付けたとも言える。特に十体目の製造プランは影響が顕著で、この男と最初のガルム

である白狼の設計に立ち返り、あえて技術的には旧式であるガルムシリーズ前期型の製造方法と調整を行う事で、仕様から成

功例に近付けようというコンセプトの元に製造された。

 グレートピレニーズはセントバーナードの瞳を間近で見つめ、「確かかね?」とラブラドールレトリーバーに訊ねた。

「はい。現在も自発的行動及び精神活動は計測できません」

 ラブラドールはグレートピレニーズにそう応じる。が…。

「人格など、その内に生えてくる」

 白い巨犬が発したその言葉で、ラブラドールレトリーバーと、ピットブルと、黒狼は、表情を消していた顔に軽い驚きの表

情を浮かべる。

「…と、スコルならば言いそうだと思ったが」

「正解です中尉」

 声を発したのは誰よりもビックリ顔のポメラニアン。その左右でコトン・ド・テュレアールとシベリアンハスキーが顔を見

合わせる。小さく吹き出しかけたコリーは、一同の視線を受けると、

「す、済みませんっ…!」

 謝りながら小さく縮まった。

「そう望む。でなければ研究の材料にされるのが関の山だ」

 白狼は無表情だったが、瞳の奥には微かに物憂げな光が見えた気がした。

「…間も無く、ミスター・フレスベルグがお見えになります」

 ラブラドールレトリーバーが知らせ、十体のガルムは横並びに整列する。

 右から製造順に、白狼、グレートピレニーズ、ピットブル、コトン・ド・テュレアール、ラブラドールレトリーバー、シベ

リアンハスキー、黒狼、コリー、ポメラニアン、そしてセントバーナード。

 ガルムシリーズ全員が一度に揃うのは、これが最初で最後だった。



「…思い出した…かも…」

 ルディオが呟く。「みんな犬系だったんだなぁ」と。

「今、黄昏に残ってるガルムは一体だけだァ。黒い狼なァ」

 セントバーナードが何を視たのか知る由も無いシャチは、釣り針に新しいエサをつけながら言う。

「他のみんなはどうしたんだぁ?」

「ウルはさっき言った通りだァ。ハティ、スコル、マーナの成功例三体は、叛意アリの疑いで処分されたァ。残りは損傷によ

り活動停止だァ。グフフフ。…全体的に見れば相当だなおいィ?どうなってんだオメェらシリーズ、オクタヴィアシリーズの

がまだマシじゃねェかァ」

「叛意?」

 シャチ自身から聞いた話で、エインフェリアは黄昏に対して積極的な敵対行動が取れないよう、プロテクトがかけられてい

るのではなかったか?そんな疑問を抱いたルディオに、

「叛意を抱けるとしたら、エインフェリアにとっては重大なバグだァ。その恐れがあるってだけで処分の理由にはなるぜェ。

…「口実」にも、なァ…」

 繰り返すが、とシャチは竿を海に振りながら言う。

「そもそもオメェもだァ、プロテクトが無効になってるって知られたら黄昏が確実に処分しに来るぜェ。上の幹部達も考え方

は色々だがなァ、エインフェリアを主戦力として推してる派閥からすりゃァ、オメェは超厄ネタだァ。逆に、別の物を主戦力

に推してェ側からすると…、確保して確認して「欠陥品だァ」って突きつけてェだろうよ」

 シャチは事前にプロテクトの説明をした際、ルディオにはそもそもこのプロテクトが働いていないのだと話していた。プロ

テクトはチップによって形成された疑似人格を制御する物。この島で新たに生まれた「ルディオ」という今の人格自体がチッ

プ由来の疑似人格とは別物なので、例えチップとプロテクトが生きていてもルディオには全く効果が無いのだ、と。

「だがまァ、ガルムシリーズってェ存在にとっちゃ、叛意がある疑いが出た時点で致命的だったァ」

「ん?何でだぁ?」

 顔を向けたルディオにシャチは言った。「ガルムシリーズの特徴として挙げられる一つに、「忠誠心」って要素があるんだ

がなァ」と。

「コイツがまァ、商品価値を高めてもいたって訳だァ。オメェ、「ガツンと酔える!」とか書いてある酒が、ノンアルコール

だったらどう思う?」

「ひどいと思う。…あ」

「そういう事だァ」

「そういう事かぁ」

「まずいだろォ」

「まずいなぁ」

「ま、実は忠誠心についてはなァ、結果論だがガルムシリーズだからっていう特徴じゃなかったらしい。犬族が元々持ち合わ

せてる種族的性質で、しかもその「忠誠心」と思われてたモンはァ…、必ずしも組織に向けられる訳じゃねェ」

 ガルムシリーズの多くは、処分された者も、戦死した者も、脱走した者も、最終的には「自らが選んだ何か」に殉じた。黄

昏という組織に殉じるのではなく、自ら選んだものに身を捧げた。

 それは、戦友と呼べる関係の誰かだったり、傍から見れば不可解な関係の誰かだったり、関係性すら見出せない誰かだった

りした。

「あいつらはなァ、必ず「誰か」に尽くす。組織全体じゃねェ、もっと小さな単位の仲間や誰かに、その身を捧げる性格をし

てんだァ。ま、今更判っても仕方ねェんだがよォ」

 微風に弧を描く釣り糸を見つめながら、シャチは口の端を上げて含み笑いを漏らした。

「グフフ…!オメェにとって、その対象は誰なんだろうなァ?」

「カムタだなぁ」

「グフフフフ!だろうなァ!」

 即答するルディオ。判りきっていたと笑うシャチ。

「一つ、忠告しとくぜェ?二日観察して確信したがァ、オメェは、やっぱり人格障害あるぜェ」

「?」

 自分の顔を不思議そうに見てきたルディオに、シャチはコメカミを指でトントン軽く叩いて示した。

「俺様もそうだがなァ。オメェは感情が一部機能不全だァ。たぶん、喜怒哀楽の「怒」が存在しねェ」

「…あ~…」

 ルディオは少し目を大きくした。納得した様子で。

「たぶんそうだなぁ。おれ」

 単に鈍いのかと思っていた時期もあったのだが、鈍いなりに自覚できる他の感情と違い、怒りを感じた事は一度も無い。痛

めつけられても、カムタが危なくなっても、危機感や焦りを感じはしても、危害の元に対して怒りや憎しみを覚えた事は一度

も無い。

「必要か不用かは置いとくとしてだァ、ソイツは悟られねェようにしろよォ?自分と違う、理解できねェモンは排斥する…。

「ひと」ってなァそういうモンだァ。この島から追い出されたくはねェだろォ?」

「ん、気を付ける。それで、ジョンさんは何処がおかしいんだァ?」

「俺様かァ?俺様は…何処だと思う?えェおい。グフフフ!」

 ルディオの問いかけを、シャチはニヤニヤしながらはぐらかした。少し楽しそうに。

 シャチには「哀」が無い。同僚が逝っても哀しみを感じる事はない。おそらく、子供達を喪っても同じだろうと思う。きっ

とその時、悲嘆の替わりに自分を満たすのはドス黒い憤怒と、それを捌け口に叩き付ける事で得られる歓喜のみ。

 喪失感に涙する事はできなくとも、報復対象への殺意を楽しみ、その実行に快楽を覚える。これが狂っているという事なら

ば、ああ、然り然り、己はやはり壊れているのだろう。口角がまた軽く歪む。

 そういう意味で、自分とルディオは正反対なのだと確信している。どちらも酷くひとから逸脱しているという意味では、や

はり同類なのだが。




 夕暮れ迫る空の下、子供達が集まった庭で、魚が手早く切り身にされてゆく。

 捌くのはカムタと、黒髪の少年ゼファー、そして丸々肥ったイグアナの少年。

 やけに刃物の扱いが巧みなゼファーは、その手際をカムタに指摘されると、解剖や切開には慣れていると答えた。そして、

調理自体はできない、とも。

「俺が作ると、味気がない、面白みのない、そんな料理にしかならないそうだ」

 主に、消化が良く栄養バランスが取れた粥系の物になるらしい。どういう事なのかとカムタが不思議がると、イグアナが「

つまりゼファーは病人食しかレパートリーがないんだよぉ」と解説した。

 少しカムタと似ている、とリンが評していたイグアナは、確かに似ていた。体型が。後ろからシルエットだけ見れば尻尾が

あるか否か、髪があるか否かの差である。

 殆ど目を瞑っているのではないかという糸目で、ちゃんと見えているのか疑問だが、魚をおろす手際は非常に良く、小骨を

取り除いてゆく手先の動きなどカムタが感嘆するほど。訊けば船旅での担当は調理係なのだという。

「わたし達の中でひとりだけ飛びぬけて料理上手いもんね。いや、「好きこそ物の上手なれ」だよ!カナデの受け売りだけど」

「オレが上手いかどうかっていうよりもぉ、他のみんながどうかと思うよぉ?特に女性陣。「酸鼻極まるバレンタイン」は言

わずもがな、「凄惨極まるナゲットパーティー事件」じゃ、カナデ泣きそうな顔してたよぉ?お嫁に行かせるのに苦労しそう

だってパパも言ってるよぉ。正直オレもリンはだいぶ、ヴァージニアはかなり、バイオレットは相当、ルーシアはちょっと心

配だったりするよぉ」

「あ、あははは…!」

 イグアナからのんびりした口調で悪気無く、しかし実に辛辣に評されたリンは引き攣った顔。リンとこのラーク、そしてゼ

ファーと、ヴァージニアという名の狐の少女が最年長の四人だそうだが、生きる為の要素である食を握られているせいか、リ

ンもこのイグアナにはあまり強く出られないらしい。

「ラークアンチャン、カナデ先生なんで泣きそうだったんだ?青酸カリナゲットパーティーって、リンネーチャン何したんだ?」

 聞き間違えが微妙に物騒なカムタの問いに、ラークは肉付きが良すぎて短く見える首をさらに縮めて応じる。

「見た目はちゃんと揚がってたのに全体の半分ぐらいは中身はほぼ生だったんだよぉ?食べるまで判らないロシアンナゲット

パーティーだったよぉ。我慢して食べたカナデはお腹を壊したよぉ。ジャングルで何十日も元気に単独生活できるぐらいに胃

腸はとても丈夫なひとなんだけど…」

「ちょっとラーク!?詳細にバラしちゃダメだよ!?」

 慌ててカットに入るリン。てきぱきと魚を解体しながら、ほんの少し口の端を緩ませるゼファー。

 そんな騒がしい炊事の進行を、シャチは少し離れた位置で椰子の根元に座り、酒瓶片手にくつろぎながら眺めている。その

一本隣の木には、同じように寄りかかって座っているルディオの姿。

 地面に尻を据え、片膝を立て、そこに片腕を乗せ、丸め気味の背を木の幹に預けた格好は、二頭で左右対称、まるで一対の

置物のようにも見える。互いに相手に近い方の足を寝かせているふたりの間で、酒瓶が弧を描いて宙を舞った。

「田舎の島かと思ったが、良い酒あるじゃねェかァ?グフフ。意外と揃ってるモンだァ」

 鯱に放られた酒瓶は、セントバーナードの手に移る。

「テシーは、いろいろ仕入れてくれるなぁ。だからおれも、この島に居てジョニーウォーカーを飲めた」

 応じたルディオが酒瓶に口を付けてあおる。そうかそうかと頷くシャチは、あえて指摘しないし確認もしないが、酒場のテ

ンターフィールドこそが虎医師が口にした中のひとり…ルディオの事情を知る者だと気が付いた。何せ、昨日ヤンにかまをか

けて島を案内させた際、バーでマスターの青年に話しかけた時のヤンは、肥満体型と南国の気温と歩行距離を差し引いて考え

ても汗をかき過ぎで心拍数が跳ね上がっていたので、本人相手に引っかけの質問などをする必要も無かった。

 テンターフィールド側はヤンの「こちらりょこーしゃのじょんさん…」という説明を特に疑問もなく受け入れた上に、正体

に感付いてもいないようで、気さくに酒を勧めていた。どうやら虎医師は変にシャチを刺激しないよう、テンターフィールド

に状況を伝えない事にしたようである。

「いい島じゃねェかァ。グフフフ」

「だなぁ。いい島だと思う」

 子供達の歓声に鶏の鳴き声が混じる。穏やかな夕風が庭を抜けてゆく。

「ずっとここで、ひとのフリをして過ごすならなァ、オメェも「設定」はリアルに固めとけよォ?」

「ん?設定?」

 問いながら酒瓶を投げ返したルディオに、シャチは訳知り顔で頷いた。

「ウチのガキ共もそうやってるんだがなァ、出身やら身元やら生い立ちやら、誤魔化す部分はきっちり設定を練ってんだぜェ。

急に訊かれても不自然じゃねェ受け答えができねェとボロが出るモンだァ」

「なるほど。「外国に住んでたカムタの親戚のアンチャン」だけじゃ危ないのかぁ」

「突っ込まれた時に上手く返せるんだったら大丈夫だがなァ。じゃあテストだァ、グフフフ!おにーさんお名前はァ!?」

「ルディオ」

「それだけェ?」

「それだけだなぁ」

「…苗字とかの設定ねェのか?」

「う~ん…」

 困り顔になるセントバーナード。「カムタと同じじゃダメかなぁ?」という問いに、シャチは微妙な半分顰め面、半分呆れ

顔の表情になる。

「外国に住んでた親戚が同じ苗字ってのもなァ。別のがリアリティあるだろうよォ…」

「別の…、苗字…」

 少し考えたルディオは…。

「どんな?」

「ちゃんと考えたのかァ、オメェ?」

「ちゃんと考えたんだけどなぁ」

 酒瓶を目の前に持ちあげ、揺すって中身を波立たせるシャチ。子供達の料理は進んでいて、つまみ食いしようとしたトカゲ

の子がイグアナに見つかり、ズボンの後ろを掴まれて軽々と吊るされ、リンに説教される。それを見てカムタや他の子供達が

笑い、一際賑やかになり…。

「あァ、そうだァ」

 五分ほど黙った後で、ポツリと呟いたシャチがルディオの横顔を見遣る。

「「ルディオ・ハーキュリーズ」…ってなァどうだァ?」

「ハーキュリーズ…」

 横目で見返し、次いで視線を上に向ける。

「ああ…。いいなぁ、それ…」

 「親」の名と似た響き。同じ意味の苗字。シャチが選んだ意味に気付いて僅かに顔が綻んだ。

 この島で生まれた。体はハークのものだった。名前はカムタがつけてくれた。苗字は今日この男がくれた。

 自分は、いろんなものから生まれて、いろんなものに生かされている。きっとこれが「命を生きる」という事。

「いいなぁ、それ…」

 繰り返して、微笑んだ。嬉しくて尻尾が揺れた。




 この日をもって、暦は12月に入った。